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増田文夫氏の「内房の力石」

内房の力石
05 /20 2023
「私事で恐縮ですが…」

そんな書き出しでお手紙をくださったのは、
富士宮市在住の増田文夫氏だった。

4年前私は、増田氏から力石の情報をいただき、
氏が古老の聞き取りなどから探し当てた3か所・計4個の力石を、
ご案内いただいたのです。

「今夏で定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして、
この間に調べた郷土・内房の石造物について、
纏める作業を現在行っております」

手紙にはあの時と変わらぬ誠実なお人柄がにじみ出ていました。


その郷土誌の中に「力石」も、ということで原稿をお送りくださったのです。

「第4章 内房の力石 
~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の石~」


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あの日、最初にご案内いただいた「内房富士浅間神社」です。

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静岡県富士宮市内房相沼

「この石は大人一人でも動かせないほど重かったそうで、青年が中心になって
担ぎ上げて自慢したそうであるが、担げた人には周りで見ていた人々が、
パチパチと手を叩いて褒め讃えたそうだ」


「石の重さは123㎏ある。村一番の力持ちの惣作さんはこの石を担ぎ、
数歩歩いたそうで、担いで歩ける人は相沼でもいなかった。
担げない人にとっては「神の石」で、触ることもできないほどであった」

=談話は遠藤寿夫さん(昭和6年生まれ) 「内房の力石」増田文夫=

内房富士浅間
同上

ページをめくるごとに、胸が熱くなりました。

私が蒔いた「力石」という種は、吹けば飛ぶような小さな種だったけれど、
こうして地元の郷土史家の手で育てられて立派に実を結び、
これから本となって町の図書館に置かれるのです。

こんなに有難いことはありません。


私が通い詰めた「大晦日(おおづもり)の力石も収録されています。
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大晦日の古社「芭蕉天神宮」のお祭りにも何度も伺いました。
地主さんの仲良しの老夫婦にはずいぶんお世話になりましたが、
お二人とももういない。


奥様は、長年連れ添った夫を亡くしたばかりのとき、
先祖代々の墓に正座して亡き夫の墓前に向かって「武田節」を歌った。
晩秋の夕闇の中、容赦なく吹き付ける冷たい風に煽られて歌声が空に散る。

♪ 祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか

戦国時代の信濃・望月氏の末裔らしく、凛としたその姿に、
私は涙が止まらなくなった。


完成した力石の前に並んだ望月旭、順代ご夫妻。
「文化財になるといいなぁ」とおっしゃっていましたが、
私の力不足でとうとう果たせなかった。

集落で一軒となり、
青年の頃担いだ力石を見せてくれた望月正一氏も、もういない。
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静岡県富士宮市内房大晦日・かつての若者小屋の広場。

この力石の保存工事すべては、長年お世話になったご夫妻への感謝のため、
石屋さんから寄贈された。ご夫妻が眠る先祖代々の墓の隣りにあります。

地元の句会の方々が力石を詠んでくださった句も載せていた。

俳句

増田文夫氏です。

この日は「内房富士浅間神社」に詳しい方もご紹介くださり、
貴重な資料を見せていただきました。


「かつては相撲の土俵があった」と増田氏。
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内房相沼・内房富士浅間神社

末尾に私のことも載せてくださっていました。
増田氏は私を先生と呼ぶ。「ただの物好きなおばさんですよ」と言ったら、
「僕が先生と呼ぶのは二人しかいない。その一人は雨宮先生です」と。

そう言われるたびに、なんだかムズムズして自然と頭が下がった。

でも、
よそ様のことを書いても自分のことが書かれることはめったにないので、
恐縮しつつも嬉しくて…。

内房

ここは山梨県との境の集落だったため、それだけに歴史が深い。

江戸時代、甲斐との境にあったのが塩の関所。
その近くに富豪の油屋があって、あの十返舎一九が泊り、絵を残している。

こちらは内房浅間神社に置かれた不思議なお猿さんです。
二匹とも胸の前で手を組んでいます。
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内房富士浅間神社

近ごろは過ぎた昔を思い出すことが多くなりました。

来る日も来る日も力石一色になり、
文献を求めて県内の図書館、博物館、郷土資料館をくまなく歩き、
またあるときは、地図を片手に片っ端から寺社やお堂を見て回った。

「あんなマイナーなもの」という他分野の研究者たちの嘲りにもめげず、
コツコツと努力を重ねて200個近い力石を見つけてきた。

地元の方々の話に耳を傾ける中で、新たな力石を見つけたことも多々あった。

「お茶入れたで、飲んでってや」「新茶ができたで、持ってって」
そういってくれた村の衆の顔が今も目に浮かぶ。

駅員から「遠いですよ」と言われても、すべて自費での調査では歩くしかない。
ヘロヘロで辿り着いた郷土館は休みだったが「御用の方は…」の張り紙の通り
呼び鈴を押したら管理人さんが現れて、中へ招じ入れてくださった。

いつも一人なので、調査中の自分の写真はこれくらいしかない。
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岡山県笠岡市・笠岡市郷土館

力持ち大会があれば岡山、兵庫、京都などザック一つで駆けつけた。

炎天下の見知らぬ街をトボトボ歩き、
思わぬ大雪に急きょ足に滑り止めをつけて、
初対面のご住職と雪かきをして墓地の力石を掘り出したことも。

そんな力石を訪ねた日々が今は懐かしい。

廃村で見た桜吹雪。海辺の村の寂れた神社で怪しまれて、
一生懸命、説明しても力石の話が通じず、
頭のおかしなおばさんだと思われたり、お巡りさんを呼ばれたり。

力持ちが担ぎ上げたという石の地蔵さんを探すうちに迷い、
人っ子一人いない山中でイノシシの罠にかかりそうになったりもした。

でも、素敵な力持ちさんたちと出会って感動をいただき、
そして、今度は地元の方が独自で本を刊行する。

いつも孤独な一人旅だったけれど、
個人、行政と大勢の見知らぬ人たちに支えられてきた。

しみじみ思いました。いい「力石人生」だったなって。


廃村はただ白し力石に花ふりつむ   雨宮清子

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苔のじいさん

内房の力石
05 /09 2019
内房・巡り沢の祥禅寺をあとに、今度は仲集落へ。

目的地は山王宮

ここです。
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静岡県富士宮市(旧芝川町)内房仲

ここには5年前来ていますから、再訪ということになります。

このときご案内くださったA子さん、
「ここにあると聞いたのですが、ハテ、どれなんでしょう?」

そこで師匠の高島先生と探し出したのが草に埋もれていたこれ(手前の石)。
おやおや、力石が蓑を着た亀になってるよ、というわけで、

   草生やし蓑亀(みのがめ)になった力石   雨宮清子

赤丸の中の石は、今回発見された力石です。
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2014年3月17日撮影

「見つけたぞ! やれやれ」と思っていたのに、実はまだあった。
5年後の新たな発見者は郷土史家の増田氏です。

やっぱり凄い!

仲集落の住人だった故・望月満久氏が、
平成19年に「仲ものがたり」という小冊子を発行。
その中にこんな記述があったという。

宝鏡庵の境内に力石を置き、
住民が集まるごとにこの石を上げ、力自慢を競った。
石の重量は12貫、16貫、20貫と記してありました」

これを読んだ増田氏。さっそく、探索に乗り出します。

そこで新たに見つけたのが、こちら(赤矢印)。
5年前は力石だと知らなかったので、石は単に写り込んだだけ(上の写真)
でも今度は全体を写せました(下の写真)

ちなみに「宝鏡庵」とは「山王宮」と地続きのお堂のこと。
以前発見した力石も今回のも、このお堂の前にあります。

   春陰ひそと堂に埋もるる力石   雨宮清子

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2019年3月28日撮影

でもですねえ、
この石、先っぽがちょっと欠けてしまっていて、おまけにだらけ。
私、思わず、「なんだよ、すっかり苔のじいさんになっちゃって!」
と毒づいたけど、歳月は石も待たず、なんですねぇ。

   春深し草をめくれば力石
            苔の翁に成り果てており    
雨宮清子

余計なことですけど、ブログ「日々是輪日」の「三島の苔丸」さん、
なんで「苔」なんだろう? お若いのに。

新たに発見された力石「苔のじいさん」です。
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ともあれ、
望月氏が書き残してくれた力石3個のうち、2個が見つかりました。

でもここで疑問が…。

増田氏は「今回発見の石は12貫、手前の石が16貫で20貫は行方不明」
とされていますが、石質は抜きにして大きさだけから考えると、
手前の蓑亀状態の石(62×33×28㎝)は20貫を越えているはず

石の貫目は「正」=正味=と刻まれている石以外は、
刻字の貫目に八掛けするとその石の本当の重さが出るといわれています。
 ※八掛け=刻字の貫目に0・8を掛けた数字のこと。

昔の若者は力を誇示するため少々、サバを読んだのです。

ですから、力石の実際の重さは刻字貫目より少ないことが多いのですが、
ここの石は逆で、伝えられている貫目より見た目の方が重そうです。

下の絵は、静岡市清水区由比東山寺・薬師堂での力比べです。
2010年にこの場所から6個、掘り出されました。松永宝蔵画

仲集落の若者たちもこんなふうに石担ぎを楽しんだのではないでしょうか。

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「静岡の力石」高島愼助、雨宮清子 岩田書院 2011の表紙を飾りました。

さて、故・望月氏のいう「貫目を記してあった」は、
何に記してあったかは不明ですが、
現時点では石の刻字は確認できておりません。

で、埼玉の研究者・斎藤氏も私と同意見で、

「例えば、埼玉にある同じ大きさの石「米八斗目」(63×34×28㎝)は、
32貫120Kg
八掛けしても25、6貫になるから、そこの石も20貫はゆうに超えているはず」と。
 ※米1俵(60Kg)は4斗。

また全国的に、力石は16貫(60㎏)担げて一人前とされていたことから、
力比べには16貫以上の石を持ち上げていました。
なので12貫の力石というのはどうなのか。

これらのことを踏まえて再考する必要がありそうです。
増田さま、疑問を呈しましてごめんなさい。

下の写真、左の建物が宝鏡庵です。
力石は写真中央の、
左の石仏群と右の腰の曲がった老夫婦みたいな2本のの間にあります。

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今はただ静寂だけが広がっています。

でも、耳を澄ませば
力比べの若者たちの笑い声が、地の底から聞こえてくるような…。


※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 平成31年
        /「仲ものがたり」望月満久 私家本 平成19年

2個目の新発見・後篇

内房の力石
05 /05 2019
塩出(しょで)の枝垂桜を堪能して、再び元の道を引き返す。
行き先は巡り沢集落の祥禅寺です。

祥禅寺の入り口です。

創建不明。
この寺は戦国時代、甲斐の武田信玄の駿河侵攻に伴い、
武田の重臣・穴山梅雪の庇護をうけた。臨済宗妙心寺派。

石柱が傾いているわけではありません。私の撮り方が悪いのです。
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静岡県富士宮市(旧芝川町)内房巡り沢

増田文夫氏は著書「内房の力石」にこう書いています。

「以前、望月衛さん(当時93歳)にお聞きしたら、
巡り沢にもかつては力石があったと言った。
衛さんが小学生のころ、今の集会所のところに公園があって、
力石はそこにあった。子供たちが数人で転がすのがやっとだったという」

子供だった衛おじいちゃんが見たときから、すでに約90年
力石は公園から姿を消して、行方知れずになっていた。

一体どこへ?と探し歩く増田氏。
そんなある日、
この祥禅寺の入り口で、一個だけ石垣からはみ出ている石を発見。
衛さんに確認すると「これのようだ」と。

静岡県内での267個目の力石です。

寺の入り口です。
みなさま、どこに力石があるかわかりますか?

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答えは、
「2基ある庚申塔のうちの右側の庚申塔をごらんください。
その庚申塔の下部に刻まれた三猿の右横にあります」

言われなければ絶対わかりません。
増田さんの執念眼力に脱帽です!

で、この力石、石垣に頭の先っぽだけを突っ込むような形で、
コンクリートで固定されていました。

「ぼくもみんなと同じ仲間に入れてよー」って叫んでいるみたいに…。

   石垣の仲間はずれか力石   雨宮清子

さらに近づいて見ると、こんな感じ。
力石を見下ろしている石垣の石(赤矢印)、
なんだか人の顔に見えません?

しかも不気味に笑っている。

上の写真にも、「不気味に笑う石」の顔が半分写っています。

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  石垣仲間はずれの力石を笑う   雨宮清子

この人面石?を見て、私、ゾーッとしたんですよ。

角度をかえてみてもやっぱり不気味に意地悪っぽく笑っている。

その笑う石の右下には、
眉間にシワを寄せた武士みたいな怖いオッサンまでいる。

  石垣力石の孤独を笑う   雨宮清子


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ああ、哀れなり、力石!

と、少々暗い気持ちになったけど、落ち着いてよくよく見直したら、
さっきまでの不気味さや意地悪っぽさは消えて、

「一人ぼっちの力石さん、私たちがいつまでも見守っていてあげますよ」

なぁ~んて言っているような、
そんな慈母のごときお顔に見えてきた。

でも、家に帰って改めて写真を見たら、やっぱりゾッとした。


※夏目さんから投句をいただきました。

  重てえなぁ力石(おめぇ)代われよこの俺と   夏目

な~るほど。そういう見方もありましたか。 
石垣で居続けるのも大変なんだ! 

ついでにおまけ。
この石垣はこんなふうに本堂へと延びております。
石垣の石、あっち向いたり、うつむいたり、そっぽ向いたり…。

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※参考文献/「内房の力石」増田文夫 私家本 2019

2個目の新発見・前篇

内房の力石
05 /01 2019
富士浅間神社の小野田徳蔵墓碑を見た後、誘われて桜見物へ。
道の両側に、湧き立つ雲のような大きな枝垂桜が現われました。
花びらがくるくると風に舞っています。

ここは「塩出(しょで)」というところで、その名の通り、
駿河の塩が甲斐へ出て行く時の塩の関所があったところ。

ここに、江戸時代、油問屋だったE家があります。
手広く商って財を成したため、
♪塩出の源兵衛さんは大金持ちよ
と歌にまで歌われたそうです。

下の写真は、今も残るE家の石垣です。
道はこのすぐ先で山梨県への道、国道52号線にぶつかります。
昔の旅人もこの桜の花に目を奪われつつ通って行ったことでしょうね。

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で、この源兵衛さんの家に、なんとあの「やじきた」を生んだ
十返舎一九の屏風が残されているのです。
この屏風、私も静岡市内で開催された展示会で見たことがあります。

「芝川町誌」によると、
「一九が甲州への旅の道すがら、ここへ立ち寄り画いた狂歌と戯画」

一九はいつごろここを通ったのだろうか。
駿府生まれで母親は甲州出身。たびたび駿府に舞い戻り、
「身延山道中記」(文政2年=1819刊行)も書いている。

内房・塩出のE家に立ち寄ったのは、
東海道の由比から内房ー甲斐の万沢ー南部ー身延山のコースを
歩いたときかもしれません。

こちらは一九の
方言修行 金草鞋(むだしゅぎょう かねのわらじ)」、
「東海道之記」の模写復刻版です。

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桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会(静岡県藤枝市) 平成5年。模写/鈴木朋泉

「方言修行 金草鞋」は木曽街道や西国、奥州、善光寺参詣などの道中記で、
文化10年(1813)から没後まで刊行された25編余に及ぶ合巻。
その模写復刻に、
桜畔亭主人の宮本末次氏と鈴木朋泉氏(模写)が挑んだわけです。

もう20年ほど前のことになります。
知人から「藤枝へ行くならぜひ宮本さんを訪ねて」と言われて、
どういう人か知らないまま、土手の桜トンネルを通ってお訪ねしました。

突然の、全くもって無礼な訪問でしたが、宮本さんは満面笑み。
すぐに展示室へ案内してくださった。

その室内には、
宮本さんが収集した浮世絵、戯作文庫、江戸細密工芸品がびっしり。
たちまち江戸へタイムスリップ。

立て板に水、シャレッ気たっぷりに説明してくださる宮本さんが、
だんだん一九に見えてきて…。

そのとき頂戴したのが、この復刻版でした。

この「金草鞋」の登場人物は弥次喜多ではありません。
奥州産の「鼻毛の延高(はなげののびたか)」と、
千久羅坊(ちくらぼう)」という、「ふざけた」名前の二人。

ちなみに、「鼻毛が延びた」は「女にデレデレする」、「ちくら」はニセモノという意。
つまり女にだらしがない男とニセ坊主の二人連れというわけです。

その二人がこちら。
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桜畔亭版・藤枝戯作文庫の会 平成5年 模写/鈴木朋泉

で、この本の中に「桜版亭かわら板」というのがはさんであって、
そこにこんな記述が…。

ミスをしてしまった。表紙の江戸文字風に書いた
「歌川月麿戯画」の「歌川」は間違いで「喜多川」が正しい。

そこで編集子、一九を真似て、狂歌、

   喜多川を歌川姓に間違ひし
         これは正(まさ)しく月とすっぽん」


さて、このブログ記事、力石の紹介まで行くはずでしたが、
またしても横道にそれました。この続きは次回に持ち越し。

   石探し今日は一九で蹴躓(けつまず)   清姫

夏目さんより返句をいただきました。

   清姫は一九に躓(つまず)き一句詠む   夏目

返句の返句

   (まろ)びてもにこやかに立つ令和の日  清姫


※参考文献・画像提供/「方言修行金草鞋」模写復刻板
               桜畔亭・藤枝戯作文庫の会 平成5年

軍神

内房の力石
04 /27 2019
内房の力石探訪のはずが、つい横道にそれました。
いつものことですが、「何でも見てやろう」精神がちょいと出まして。

だってだと思いませんか?

西南戦争で亡くなった小野田徳蔵さんの墓碑が、
なんで神社の前の道路沿いにあるのか。

そんな私に、内房の郷土史家、増田文夫氏が、
郷土誌「かわのり」の記事を紹介してくれました。

「かわのり」は旧芝川町の郷土史研究会の会誌。
会誌はいう。

「この墓碑は最初、別の街道沿いの、
ドンドン下という字名の大岩の上に建っていた。
ところが明治36年、新しい県道が開通してここは廃道になった」

「そこで前年の明治35年、地元や近隣の在郷軍人等が主体になり、
村長が協力。村を挙げての事業として現在地に移転・完成させた」

CIMG4711.jpg
静岡県富士宮市内房

でも普通、お墓は墓地でしょ?

これに対して増田氏は「あくまでも僕の想像ですが」としつつ、
こんな風に語ってくれた。

軍神として祀られたのだと思います。
最初の場所はその先が内房小学校で、たぶん当時の小学生たちは
登下校の折り、大岩の上の軍神に敬礼して通っていたのではないでしょうか」

「移転後の神社は村社で、戦争へ行く若者たちがお参りしたところです。
ですからそこに英霊を祀って士気を鼓舞するという…。
まあ、そういう時代だったと思います」

この墓碑を移転した2年後、日露戦争が始まります。

「軍神が建っていたその先の小学校には、
明治から昭和までの戦没者の名前を刻んだ慰霊碑が今も建っています」
と増田氏。

「今は火の見やぐらもなくなり、川筋や道筋も変わってしまって、
ここの墓碑のことさえ関心を持って見る人も少なくなりました」

その増田氏、
地元小学校の子どもたちに石造物についての
授業やフィールドワークを始めて3年になるという。

「ふるさとの歴史を調べて子どもたちに教え、伝え、記録に残していきたい」

生まれ育った「内房」への愛情は深く、大きく、温かい。


※参考文献/「かわのり第5号」芝川郷土史研究会 鈴木太一 昭和53年

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞