増田文夫氏の「内房の力石」
内房の力石
「私事で恐縮ですが…」
そんな書き出しでお手紙をくださったのは、
富士宮市在住の増田文夫氏だった。
4年前私は、増田氏から力石の情報をいただき、
氏が古老の聞き取りなどから探し当てた3か所・計4個の力石を、
ご案内いただいたのです。
「今夏で定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして、
この間に調べた郷土・内房の石造物について、
纏める作業を現在行っております」
手紙にはあの時と変わらぬ誠実なお人柄がにじみ出ていました。
その郷土誌の中に「力石」も、ということで原稿をお送りくださったのです。
「第4章 内房の力石
~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の石~」

あの日、最初にご案内いただいた「内房富士浅間神社」です。

静岡県富士宮市内房相沼
「この石は大人一人でも動かせないほど重かったそうで、青年が中心になって
担ぎ上げて自慢したそうであるが、担げた人には周りで見ていた人々が、
パチパチと手を叩いて褒め讃えたそうだ」
「石の重さは123㎏ある。村一番の力持ちの惣作さんはこの石を担ぎ、
数歩歩いたそうで、担いで歩ける人は相沼でもいなかった。
担げない人にとっては「神の石」で、触ることもできないほどであった」
=談話は遠藤寿夫さん(昭和6年生まれ) 「内房の力石」増田文夫=

同上
ページをめくるごとに、胸が熱くなりました。
私が蒔いた「力石」という種は、吹けば飛ぶような小さな種だったけれど、
こうして地元の郷土史家の手で育てられて立派に実を結び、
これから本となって町の図書館に置かれるのです。
こんなに有難いことはありません。
私が通い詰めた「大晦日(おおづもり)」の力石も収録されています。

大晦日の古社「芭蕉天神宮」のお祭りにも何度も伺いました。
地主さんの仲良しの老夫婦にはずいぶんお世話になりましたが、
お二人とももういない。
奥様は、長年連れ添った夫を亡くしたばかりのとき、
先祖代々の墓に正座して亡き夫の墓前に向かって「武田節」を歌った。
晩秋の夕闇の中、容赦なく吹き付ける冷たい風に煽られて歌声が空に散る。
♪ 祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
戦国時代の信濃・望月氏の末裔らしく、凛としたその姿に、
私は涙が止まらなくなった。
完成した力石の前に並んだ望月旭、順代ご夫妻。
「文化財になるといいなぁ」とおっしゃっていましたが、
私の力不足でとうとう果たせなかった。
集落で一軒となり、
青年の頃担いだ力石を見せてくれた望月正一氏も、もういない。

静岡県富士宮市内房大晦日・かつての若者小屋の広場。
この力石の保存工事すべては、長年お世話になったご夫妻への感謝のため、
石屋さんから寄贈された。ご夫妻が眠る先祖代々の墓の隣りにあります。
地元の句会の方々が力石を詠んでくださった句も載せていた。

増田文夫氏です。
この日は「内房富士浅間神社」に詳しい方もご紹介くださり、
貴重な資料を見せていただきました。
「かつては相撲の土俵があった」と増田氏。

内房相沼・内房富士浅間神社
末尾に私のことも載せてくださっていました。
増田氏は私を先生と呼ぶ。「ただの物好きなおばさんですよ」と言ったら、
「僕が先生と呼ぶのは二人しかいない。その一人は雨宮先生です」と。
そう言われるたびに、なんだかムズムズして自然と頭が下がった。
でも、
よそ様のことを書いても自分のことが書かれることはめったにないので、
恐縮しつつも嬉しくて…。

ここは山梨県との境の集落だったため、それだけに歴史が深い。
江戸時代、甲斐との境にあったのが塩の関所。
その近くに富豪の油屋があって、あの十返舎一九が泊り、絵を残している。
こちらは内房浅間神社に置かれた不思議なお猿さんです。
二匹とも胸の前で手を組んでいます。

内房富士浅間神社
近ごろは過ぎた昔を思い出すことが多くなりました。
来る日も来る日も力石一色になり、
文献を求めて県内の図書館、博物館、郷土資料館をくまなく歩き、
またあるときは、地図を片手に片っ端から寺社やお堂を見て回った。
「あんなマイナーなもの」という他分野の研究者たちの嘲りにもめげず、
コツコツと努力を重ねて200個近い力石を見つけてきた。
地元の方々の話に耳を傾ける中で、新たな力石を見つけたことも多々あった。
「お茶入れたで、飲んでってや」「新茶ができたで、持ってって」
そういってくれた村の衆の顔が今も目に浮かぶ。
駅員から「遠いですよ」と言われても、すべて自費での調査では歩くしかない。
ヘロヘロで辿り着いた郷土館は休みだったが「御用の方は…」の張り紙の通り
呼び鈴を押したら管理人さんが現れて、中へ招じ入れてくださった。
いつも一人なので、調査中の自分の写真はこれくらいしかない。

岡山県笠岡市・笠岡市郷土館
力持ち大会があれば岡山、兵庫、京都などザック一つで駆けつけた。
炎天下の見知らぬ街をトボトボ歩き、
思わぬ大雪に急きょ足に滑り止めをつけて、
初対面のご住職と雪かきをして墓地の力石を掘り出したことも。
そんな力石を訪ねた日々が今は懐かしい。
廃村で見た桜吹雪。海辺の村の寂れた神社で怪しまれて、
一生懸命、説明しても力石の話が通じず、
頭のおかしなおばさんだと思われたり、お巡りさんを呼ばれたり。
力持ちが担ぎ上げたという石の地蔵さんを探すうちに迷い、
人っ子一人いない山中でイノシシの罠にかかりそうになったりもした。
でも、素敵な力持ちさんたちと出会って感動をいただき、
そして、今度は地元の方が独自で本を刊行する。
いつも孤独な一人旅だったけれど、
個人、行政と大勢の見知らぬ人たちに支えられてきた。
しみじみ思いました。いい「力石人生」だったなって。
廃村はただ白し力石に花ふりつむ 雨宮清子

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そんな書き出しでお手紙をくださったのは、
富士宮市在住の増田文夫氏だった。
4年前私は、増田氏から力石の情報をいただき、
氏が古老の聞き取りなどから探し当てた3か所・計4個の力石を、
ご案内いただいたのです。
「今夏で定年退職して10年の歳月を数えることとなり、人生の一区切りとして、
この間に調べた郷土・内房の石造物について、
纏める作業を現在行っております」
手紙にはあの時と変わらぬ誠実なお人柄がにじみ出ていました。
その郷土誌の中に「力石」も、ということで原稿をお送りくださったのです。
「第4章 内房の力石
~もう忘れさられた力自慢・腕比べ自慢の石~」

あの日、最初にご案内いただいた「内房富士浅間神社」です。

静岡県富士宮市内房相沼
「この石は大人一人でも動かせないほど重かったそうで、青年が中心になって
担ぎ上げて自慢したそうであるが、担げた人には周りで見ていた人々が、
パチパチと手を叩いて褒め讃えたそうだ」
「石の重さは123㎏ある。村一番の力持ちの惣作さんはこの石を担ぎ、
数歩歩いたそうで、担いで歩ける人は相沼でもいなかった。
担げない人にとっては「神の石」で、触ることもできないほどであった」
=談話は遠藤寿夫さん(昭和6年生まれ) 「内房の力石」増田文夫=

同上
ページをめくるごとに、胸が熱くなりました。
私が蒔いた「力石」という種は、吹けば飛ぶような小さな種だったけれど、
こうして地元の郷土史家の手で育てられて立派に実を結び、
これから本となって町の図書館に置かれるのです。
こんなに有難いことはありません。
私が通い詰めた「大晦日(おおづもり)」の力石も収録されています。

大晦日の古社「芭蕉天神宮」のお祭りにも何度も伺いました。
地主さんの仲良しの老夫婦にはずいぶんお世話になりましたが、
お二人とももういない。
奥様は、長年連れ添った夫を亡くしたばかりのとき、
先祖代々の墓に正座して亡き夫の墓前に向かって「武田節」を歌った。
晩秋の夕闇の中、容赦なく吹き付ける冷たい風に煽られて歌声が空に散る。
♪ 祖霊ましますこの山河 敵に踏ませてなるものか
戦国時代の信濃・望月氏の末裔らしく、凛としたその姿に、
私は涙が止まらなくなった。
完成した力石の前に並んだ望月旭、順代ご夫妻。
「文化財になるといいなぁ」とおっしゃっていましたが、
私の力不足でとうとう果たせなかった。
集落で一軒となり、
青年の頃担いだ力石を見せてくれた望月正一氏も、もういない。

静岡県富士宮市内房大晦日・かつての若者小屋の広場。
この力石の保存工事すべては、長年お世話になったご夫妻への感謝のため、
石屋さんから寄贈された。ご夫妻が眠る先祖代々の墓の隣りにあります。
地元の句会の方々が力石を詠んでくださった句も載せていた。

増田文夫氏です。
この日は「内房富士浅間神社」に詳しい方もご紹介くださり、
貴重な資料を見せていただきました。
「かつては相撲の土俵があった」と増田氏。

内房相沼・内房富士浅間神社
末尾に私のことも載せてくださっていました。
増田氏は私を先生と呼ぶ。「ただの物好きなおばさんですよ」と言ったら、
「僕が先生と呼ぶのは二人しかいない。その一人は雨宮先生です」と。
そう言われるたびに、なんだかムズムズして自然と頭が下がった。
でも、
よそ様のことを書いても自分のことが書かれることはめったにないので、
恐縮しつつも嬉しくて…。

ここは山梨県との境の集落だったため、それだけに歴史が深い。
江戸時代、甲斐との境にあったのが塩の関所。
その近くに富豪の油屋があって、あの十返舎一九が泊り、絵を残している。
こちらは内房浅間神社に置かれた不思議なお猿さんです。
二匹とも胸の前で手を組んでいます。

内房富士浅間神社
近ごろは過ぎた昔を思い出すことが多くなりました。
来る日も来る日も力石一色になり、
文献を求めて県内の図書館、博物館、郷土資料館をくまなく歩き、
またあるときは、地図を片手に片っ端から寺社やお堂を見て回った。
「あんなマイナーなもの」という他分野の研究者たちの嘲りにもめげず、
コツコツと努力を重ねて200個近い力石を見つけてきた。
地元の方々の話に耳を傾ける中で、新たな力石を見つけたことも多々あった。
「お茶入れたで、飲んでってや」「新茶ができたで、持ってって」
そういってくれた村の衆の顔が今も目に浮かぶ。
駅員から「遠いですよ」と言われても、すべて自費での調査では歩くしかない。
ヘロヘロで辿り着いた郷土館は休みだったが「御用の方は…」の張り紙の通り
呼び鈴を押したら管理人さんが現れて、中へ招じ入れてくださった。
いつも一人なので、調査中の自分の写真はこれくらいしかない。

岡山県笠岡市・笠岡市郷土館
力持ち大会があれば岡山、兵庫、京都などザック一つで駆けつけた。
炎天下の見知らぬ街をトボトボ歩き、
思わぬ大雪に急きょ足に滑り止めをつけて、
初対面のご住職と雪かきをして墓地の力石を掘り出したことも。
そんな力石を訪ねた日々が今は懐かしい。
廃村で見た桜吹雪。海辺の村の寂れた神社で怪しまれて、
一生懸命、説明しても力石の話が通じず、
頭のおかしなおばさんだと思われたり、お巡りさんを呼ばれたり。
力持ちが担ぎ上げたという石の地蔵さんを探すうちに迷い、
人っ子一人いない山中でイノシシの罠にかかりそうになったりもした。
でも、素敵な力持ちさんたちと出会って感動をいただき、
そして、今度は地元の方が独自で本を刊行する。
いつも孤独な一人旅だったけれど、
個人、行政と大勢の見知らぬ人たちに支えられてきた。
しみじみ思いました。いい「力石人生」だったなって。
廃村はただ白し力石に花ふりつむ 雨宮清子

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