fc2ブログ

痛いのなんの

世間ばなし①
09 /30 2020
「間宮家」の途中ですが、ちょっと世間話。

     ーーー◇ーーー

8月の終わりごろ、左の腕に激痛。

痛みはどんどん増して、とうとう腕も動かせなくなった。
服は着れないし寝返りをうつたびに悲鳴です。

残暑の中、整形外科へ。

実は2年前も同様の痛みで医者へ駈け込んだら、
肩の骨に石灰がたまる「石灰沈着性腱板炎」という病気だった。

レントゲンを撮ると2年前の石灰は薄く消えかかっていて、
そこから溶け出したみたいな一部が別の骨にくっついていた。

石灰ではなく金塊ができるのなら大歓迎だけど、などとうそぶきつつ、
再び、痛み止めを注射。

ところが今回はしぶとい。

2年前は一回の注射で痛みはきれいに去ったのに、
今回安らいだのはほんの数日。再び重症になった。

一週間がまんして医者へ駈け込むと、
注射は2週間の間隔を置かないと打てないという。

代わりにヒアルロン酸を打ち、消炎鎮痛剤と胃薬をもらってきた。

ところが今度はこの飲み薬でやられた。

吐き気に胃痛に背痛、おまけに頭痛まで起きて踏んだり蹴ったり。

肩と胃の痛みの二重苦です。

薬は3日で止めて、おかゆと漢方の胃薬に切り替えたら、
胃に穴があいたかと思ったほどの痛みも、10日ほどで薄らいだ。

肩の方はというと、相変わらず痛みで寝返りが打てないので、
風呂敷を三角巾代わりにして腕を固定。座椅子に上半身を起こしたまま寝た。

ブログもこのふろしき三角巾で、なんとか書いておりましたです。

そうこうするうちに、強弱の波はあるものの我慢できるまでになり、
だんだん腕が上がるようになった。

「闘病」すること1か月。

肩も楽になり胃が元に戻ると、頭をもたげてくるのはおいしい食べ物です。

で、買ってきましたよ!

「ちから姫御用達」、治一郎の「焦がしバーム」

CIMG5321 (2)

しっとりふわふわのバームクーヘンの上にキャラメルをかけた絶品。
キャラメルの焦げ具合とバリバリ感が、もうたまりません。

浜松市と静岡市の店頭のみで焼いています。限定販売品。

で、夕方、久しぶりに出かけた散歩で、
イチジクの収穫を終えて帰り支度をしている農家さんに出くわした。

お願いして、穫り立てのイチジクを1000円分購入。

食べきれない分は砂糖煮にして、冷蔵庫へ入れればよし。

イチジク栽培者は高齢のご夫婦で…。
それがまた、昔はさぞ美男美女だったと思わせるきれいなご夫婦。

寡黙ながら、お二人から楚々とした品のよさと温もりが…。

すてきなご夫婦の愛情たっぷりのイチジクを抱えながら、
「いい日だったなあ」と感慨にふけりつつ、

夕暮れの田舎道を帰ったのでありました。

CIMG5327 (2)


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9月29日)

「福岡県福岡市東区志賀島・志賀海神社」

博多湾に突き出た地続きの島。小さいけれど古い歴史があります。

師匠が取り上げた句に「飛魚北風(あごきた)」という言葉が出てきます。
これは、飛魚(あご=とびうお)が獲れるころ吹く北風のこと。

私はこの夏、
長崎県大村市の会社が製造した「飛魚つゆ」を愛用していました。
おいしかったですよ。

志賀海神社の力石(民俗文化財)に挑戦している若者です。


「この道の大先輩・大江さんの動画を参考にしてね」

大江誉志氏の勇姿です。


でも挑戦することに意義がありますので、失敗してもめげないで!
こういう若者がいることがすごく嬉しいです。




    ーーーーー◇ーーーーー

幽村芳春さんのブログ「正法眼蔵ー坐禅」に、
「イチジク」に関係した貴重な話が載っています。

ぜひ、お読みください。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


隣り村へ婿入り

消えた間宮一族
09 /26 2020
外郷内(そとごうち)の間宮家・現存最古の墓塔は、
正保二年(1645)、三代将軍家光の時代の宝筐印塔です。

墓間宮屋敷
埼玉県幸手市平須賀2822-4 屋敷跡

この5年前にできたのが、隠れキリシタンを取り締まる
「宗門改役」の奉行所。

これにより、すべての人が、
寺に所属しなければならないという寺請制度が始まります。

ご当地にマリア地蔵があるように、
隠れキリシタンの存在は島原や五島列島だけではなかった。

マリア地蔵です。錫杖に十字が刻まれ、像のわきに「イメス(イエス)」の文字。
赤ん坊にキリストを現わす「魚」(赤丸)。
へびも刻まれているとありますが、うーん、どれがそうなんだろう?

IMG_7922.jpg IMG_7901 (2)
埼玉県幸手市上吉羽・権現堂堤 

たとえば、戒名が「浄安」なら、「ジョアン」のことなどと、
キリシタン石造物の秘密の暗号はなかなか巧妙で興味をそそられますが、
「力石ひと筋」を肝に銘じて、浮気はせぬよう戒めてまいります。

さて、
間宮家の1600年代の墓はわずかですが、
1700年代、七代将軍家継の時代になると、ぐんと増えてきます。

1600年代後半に平須賀沼が開拓されて、
洪水常習地のこの一帯が田んぼに生まれ変わったことも
影響しているのかもしれません。

まず目を引くのが屋敷墓から掘り出されて、
菩提寺の宝聖寺に安置された五輪塔です。

「蕭索院□□居士 霊位 正徳三巳年 十一月十七日」

2宝聖寺間宮 (4)
幸手市平須賀2-457 宝聖寺

これが正徳三年(1713)銘。

この1700年代にはすでにご紹介した昌仙先生の墓や
その娘が菩提寺へ奉納した宝篋印塔があり、

その他、夫婦や幼くして亡くなった子供の地蔵さんなど
いくつかみられます。

そして、11代将軍家斉のときの天明八年(1788)に、
本因坊九世察元の墓

3察元
幸手市平須賀3018 共同墓地

その7年後の寛政七年(1796)には、
私たちが追いかけている「間宮左門」銘の力石が登場します。

左門3
幸手市平須賀3018 共同墓地

この時期には、
ロシアや英国、アメリカなどの船が日本近郊に出没。
国内外もだんだん騒々しくなってまいります。

でも察元さん、いたってのんびり。

出羽・羽黒山の修験者の挑戦を受けたり、箱根に湯治に出かけたり。

湯治許可の期限が切れると、医者に診断書を書かせて、
管轄の奉行所へ「休暇の延期願い」を出して再び湯治三昧。

医者の診断書の怪しげな利用は、今も昔も変わりませんね。

さて、外郷内の間宮家が隆盛を極めたと思しき1700年代には、
もう一つ、「あれ?」と思うことがありました。

この家から、近隣の下高野村(現・北葛飾郡杉戸町)の
豪農・間宮家へ婿養子に出た人がいたのです。
養子の幼名は伝次郎。

img20200924_10072703 (2)

家付き娘と結婚して、第12世・間宮長左衛門となります。

享保十七年(1732年)に没していますから、
生前は、
昌仙先生や先生の娘、察元の両親や兄とは近しい間柄だったはず。

外郷内村と下高野村の間宮家同士がつながったこの糸、

手繰り寄せておりますが、さて、どうなりますか。


※参考文献/「幸手市史 通史編1」生涯学習課市史編さん室 平成14年
     /「郷土史料第3集」・間宮家文書の研究」
      杉戸町文化財専門委員会 1976
     /「爛柯堂棋話2-昔の碁打ちの物語ー」
      林元美 林裕校注 東洋文庫 1989

※現地資料はすべて斎藤氏のご尽力により収集、提供されたものです。


  ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・25)

「東京都足立区西新井・西新井大師」

梵鐘と6人の小人みたいな、力石と釣り鐘のほのぼの写真をごらんあれ!


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


「故人」情報保護法

消えた間宮一族
09 /22 2020
間宮氏娘が宝篋印塔を建てたのは、享保二十年(1735)、
そしてその父・昌仙先生墓の建立が享保十八年(1733)、

その差、2年

で、思ったんです。

たった2年しか隔たっていないのに、
なんで一方は菩提寺に、もう一方は屋敷墓なのかって。

寺への貢献度が大きい家ほど、
寺の敷地内の広くていい場所を墓所として与えられるはず。

しかし、民俗学者の宮本常一はこう言う。

「関東地方では中世より続いた旧家は、屋敷の中に墓を持っていた。
土葬をしてその上に目印として常緑樹を植えた」

こちらは、
大きな松の木に抱かれた戦国大名・今川氏二代「範氏」の墓です。
「駿河記」桑原藤泰画

img20200919_11175309 (2)
静岡県島田市大草・慶寿寺

そうだとすると、
今は貯水槽になった屋敷跡の墓所には、松かタブノキが植えられて、
それが大木になっていたのかもしれません。

その屋敷墓について、ご近所のご老人が、
斎藤氏にこんな話をしてくださったとのこと。

おじいさんは耳が遠くて、正確に聞き取れなかったけれど、
だいたいこんなことをおっしゃったとか。

「あそこには「りょう」?という粗末な小屋があって、
遊女?墓守り?が住んでいた」

遊女にりょうと聞いて、「遊女のおりょうさんが墓守りとは粋だねぇ」
などど、私はまたバカな想像をしちゃったりして。

井原西鶴「好色二代男」が遭遇した墓場の遊女。
img20200919_11313543 (4)img20200919_11313543 (5)

すみません。チト冗談が過ぎました。

ま、それはさておき、
墓守りや墓番の小屋を持つ家なんて、そうめったにない。

知り合いのご老人に話したら、「そりゃあ、凄い家だよ」とたまげていた。

では、間宮家の墓は宝聖寺になかったのかというと、
ご住職はこんなこともおっしゃっていたから、どうもそうでもないらしい。

「間宮家は絶えてしまった家なので墓石は無縁仏エリア
探すのは無理な話だ」

ということは、やっぱりここにも墓所があったってことだよね。

でも斎藤氏のその後の調査で、
間宮家の墓所は「無縁仏エリア」ではなく、きちんとした場所にあった。

これです。
2宝聖寺間宮 (3)

ではご住職がデタラメを言ったのかというと、それも違った。

墓守りの話をしてくださったご老人が、
「田んぼの屋敷墓が発掘されたとき、墓は半分ぐらい寺へ移した」
と言うのだから、この墓所は近年、新しく設置されたもの。

ただし、どれも状態が悪くて判読は難しい。

そこで斎藤氏、恐る恐るご住職に、
過去帳を調べることはできませんか?」と尋ねたら、

即座に、「ダメだ!」

ご住職が「ダメだ!」と言った理由が、
「墓石が語る江戸時代」(関根達人)に書いてありました。

「2005年、個人情報保護法ができて以来、
純粋に研究のためであれ、過去帳の閲覧は難しくなった。

なぜなら、
過去帳には不審死や刑死、差別戒名まで書いてある。
そういう故人の不名誉な過去が知られることで、現在の子孫に影響が出る。

そこで日本仏教会では、「差別の温存・助長につながる」として、
2014年、「身元調査お断り」を決めた。

個人情報保護法」は「故人情報保護法」でもあるのです」と。


※参考文献/「墓石が語る江戸時代ー大名・庶民の墓事情」
      関根達人 吉川弘文館 2018


     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・21)

「埼玉県さいたま市緑区間宮・大白天神社」

さいたま市に「間宮村」があったんですね!

2017年時点で、世帯数359世帯、人口830人という小さな地域ですが、
歴史の古い村のようです。

幸手市外郷内の間宮家と、つながりがあればいいのですが…。


   ーーーちょっと世間話ーーー

みなさまのところにも「国勢調査員」きましたか?

先日夕方、ピンポーン!
で、「非対面でお願いします」といったら、
「それはできない。出て来てもらわなければ困る」と。

市の広報にも「コロナ感染対策のため、非対面でお願い」と書いてある。
でも見知らぬ調査員は、「そんなことはない」の一点張り。
さては詐欺師かとのぞいたら、どうやら正規の調査員らしい。

名前や世帯人数を書かされたけど、「どこの方?」と聞いてもあいまいで。

以前、夜中の12時に電話をかけてきて、
「これから行く」と言った自治会役員のじいさんがいて、非常識だと拒んだら、
「どうせヒマなくせに。あんたのことはみんな知っている。
隠したって無駄だ。役所から住民票をもらっているから。
これは違法でもなんでもない」というので、翌朝、市へ通報。

役人はすっ飛んで来て平謝りだったけど、
なんのことはない。5年後もそのじいさんだった。

夜中に電話してくる調査員は完全な犯罪(未遂)者。
それを知りつつ平然と使い続ける役所も正気じゃないよ。

個人情報がどうたら、詐欺に気を付けてと言いながら、
にわか仕立てのご近所さんを調査員にして、
詐欺師の誘発と情報モレモレのお役所仕事。

一人暮らしの若い女性がどれだけ怯えているか知ろうともしない。

本気の改革を願っているのは、私だけ?


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

間宮氏娘

消えた間宮一族
09 /18 2020
外郷内村に存在した間宮家の菩提寺は、真言宗豊山派の宝聖寺

創建が1350年。
足利尊氏の室町時代ですから、かなりの古刹です。

甲斐に武田氏、駿河に今川氏、
北条早雲が破竹の勢いで相模に進出した群雄割拠の時代には、
下総国田宮城主・一色氏の庶子がこの寺の住職になったそうです。

間宮一族はそんな名刹の檀家さんだった。

そのことを斎藤氏が改めて宝聖寺のご住職にお尋ねしたら、
ただ一言、

「そうだ」

で、ここにも間宮家の宝篋印塔(ほうきょういんとう)がありました。

左から二つ目が間宮家の宝篋印塔です。高さが約3mもあります。
宝篋印塔
埼玉県幸手市平須賀2-457 宝聖寺 294×74×74㎝

造立年は享保二十年(1735)。

施主は「間宮氏娘」
両親の菩提を弔うために、娘さんが建立したようです。

で、娘さんのお父さんはというと、あの屋敷墓の「間宮昌仙先生」なんです。
両方の戒名が一致したことでわかりました。

父親の昌仙先生はこの2年以前に没していますが、
母親の没年は不明です。

一人娘だったのでしょうか。それともまだ未婚の乙女だったのか。

両親を亡くされて気の毒な境遇になって…。
いずれにしても孝行娘です。

で、せっかくの美しいお話に水を差すようで恐縮ですが、
私、昌仙先生の戒名の一部が違っているのを見つけちゃいまして。

屋敷墓のは「勝善院榮壽」ですが、こちらのは「勝善院榮樹」。
「壽」「樹」
調査時の誤記か、造立したときの石工さんの間違いなのか。

と、ブツクサ言っていたら、寺の羅漢さんが顔をしかめて、
「あんた、細かくてうるさい人だねえ」

1宝聖寺

すみませんねえ。
でも羅漢さんが頭のセミの抜け殻が気になっているのと同じで、
たった一文字とはいえ、私も気になって仕方がないんですよ。

だってね、「壽(寿)」って、天寿を全うした老人が用いるものだそうですから。
「寿」だとすると、娘さんはそう若くなかったことになるし。

2宝聖寺

ご高齢のご住職と斎藤氏のやり取りをちょっとご披露。

斎藤氏「共同墓地の焼却炉の片隅に力石がありますが」
ご住職「知ってる」

ご住職、力石をご存じで嬉しいです。

斎藤氏「間宮左門と刻銘がありますが、間宮家と何か関係が?」
ご住職「わからん」

あら!

斎藤氏「こちらにも貫目を刻んだ力石があるそうですが」
ご住職「山門の横に転がっているのがそうだ。
   目方と村の名前が刻んであるって? 知らん

「わからん」「知らん」と、マークシート方式みたいなお答えですが、
でも、ここにも力石があるのはご存じだったので、ホッとしました。

で、ありました。力石
ただし、斎藤氏が見たところ、刻字は見当たらず。

2007年時には確認していますから、石はひっくり返っているのかも。

の力石寺
64×37×33㎝

「三十六メ目 下平須賀村」

でも横のトンカチが気になります。
何かを割るために、力石を土台にしているのでしょうか。

なにはともあれ、ご住職さまには感謝です。

見ず知らずのよそモンが唐突におじゃましたにもかかわらず、
対応してくださったのですから。

ちょっとしつこいと思われたかもしれませんが、
私たち、
お寺に座っている金次郎さんみたいに勤勉すぎるんです。

どうぞご理解ください。

3宝聖寺

で、私、金次郎さんに聞いてみたんです。

「力石があるってことは、ここでも力くらべがあったってことですよね?」って。

そしたら、ただ一言、

「知らん」

     ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・17)

「富山県下新川郡朝日町金山・熊野神社」

昔の力持ちが残していったものは力石ばかりではない。
いろんな教訓や警告もたくさん置いていきました。

「この石を担げない奴は女の尻を追うな」とか。
「石とおなごはしんから抱け」とか。

師匠のブログに出てくる村の先輩の言葉も、
「力石同様、安易に人のカカァに手を出したら大ケガをするぞ」
という経験者?ならではの警告です。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


歴史を背負った家

消えた間宮一族
09 /14 2020
この世に存在した痕跡を、
3カ所の墓地にのみ残して消えてしまった間宮一族

その残された墓石を少したどってみます。

現存最古は、屋敷跡から出土した正保二年(1645)の宝篋印塔です。

間宮家
埼玉県幸手市平須賀2822-4

「為妙性禅定尼菩提也」

とありますから、剃髪染衣(ぜんね)=在家出家した女性の供養塔です。

「妙」が入るのは日蓮宗といいますが、この場合はどうなんでしょう。
間宮家の菩提寺は真言宗の宝聖寺だったそうですが…。

ちなみに、共同墓地、これには間宮姓はありませんが、
こういう戒名がありました。

「道蓮社浄誓法子」

「蓮社誉」は浄土宗で用いられる戒名で、法子は出家者だそうです。

宝篋印塔に戻ります。

この塔は、
「地域の限定された有力階層が墓地を営み得たことを現わすもの」で、
ハイクラスの家でしか建てらなかったそうです。

今作れば1000万円以上とか。

そして、現存する石碑で間宮姓の刻字がある最新で最後のものは、
共同墓地にある文久二年(1862)の「庚申塔」(赤丸)です。

IMG_6671.jpg
平須賀3018 外郷内共同墓地

これには世話人を含めて、15人の名前が刻まれています。

その中にいるのが、「間宮長右衛門」という人物です。
間宮家の主人級の人だったと思います。

この15人は「同族」または地縁を現わす「株」を名乗っています。
庚申塔に名を刻んだみなさんは、
この平須賀外郷内(そとごうち)の有力者だったのかもしれません。

その中の「間仲」「後上」姓は、ほかの地区の碑にも見られます。

最初の宝篋印塔から最後の庚申塔まで、ざっと217年
江戸初期から後期まで、ほとんど江戸時代全部。

ここまで長く続いた家です。

まさに斎藤氏が言うように、
「永い凄い歴史を背負った家」ということになります。

最初の写真のは、
宝篋印塔建立から88年後の享保十八年(1733)に建立された

「間宮昌仙先生墓」です。

IMG_6793.jpg

この人物についても全くわかっていませんが、
「外郷内村」とありますから、
今は一面の田んぼになった屋敷跡に住んでいたのは確かです。

そしてこの享保十八年は、
奇しくも本因坊察元が誕生した年でもあります。

地域の人から「先生」と慕われていた人物、その一族に新たな生命の誕生。

当時の間宮家の盛んな様子が目に浮かんできます。

江戸時代、
将棋所(しょうぎどころ)として権勢を誇った大橋家は、
明治43年に12代目が没して絶えてしまったと言われていましたが、

本家のご子孫の老婦人が先祖の日記などを現代まで守り抜き
それが公けになったことで、
「囲碁・将棋」の真実が明らかになったそうですし、

また、大正・昭和初期の力持ち「神田川徳蔵」が、
直系のご子孫にではなく、傍系の3代あとの若い女性に見いだされたように、

間宮家ゆかりのご子孫も祖先を忘れず、きっとどこかで根を張っている

と、私は思うのです。


※参考文献/「戒名のはなし」藤井正雄 吉川弘文館 2006


        ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・12)

「静岡県清水区由比東山寺・薬師堂②」

ここに並んだ6個の力石は、地元の方々が地面から掘り起こしたものです。
前回の①の写真は、ここから別の場所へ保存したときのものです。

掘り起こされたときは町内会で「石の重さ当てイベント」を開催。
一番大きな石の重さをピッタリ当てた方がいて、10㎏のお米をゲットしました。

で、師匠共々調査に出向いて、その折詠んだのが記事の中の句です。
私はコレを見て、「師匠、私の句を盗作したな!」(笑)と。

まあ同じ場所にいて、偶然、同じことを思っただけなんですけどね。

楽しい思い出です。


師匠と私の「揃い踏み」の句を見た斎藤氏から連絡が入りました。

「そういえば私にも揃い踏みの句があったなと思い出して…。
お二方と同じ「力石を詠む(五)」に収録されていました。
この偶然ににんまり」

 伊勢松と巳之助秋の揃い踏み   呆人

東京都足立区保木間・山王神社の伊勢松と巳之助の力石を詠んだ句です。

「みなさん思いは同じ。
まさしく三役揃い踏みですね」

ホントに! 


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

「なんでも鑑定団」に碁盤

消えた間宮一族
09 /10 2020
埼玉県幸手市にかつて存在した「間宮家」を追っています。

「よそ様のことを根掘り葉掘り」とお叱りを受けそうですが、
とにかくもったいないという気持ちが先へ来てしまいました。

だって、凄い人が出た家ですから。

不思議に思うのは、
地元の郷土史家さんたち、なんで調べなかったのかって。

私の父の生家は田舎のしがない神主で、幕末に没落。
一族はバラバラになってしまい、今は生家あたりに血縁者は誰もいない。

ですが有難いことに、

平成になっても父の一族が代々守り続けた神社のことを、
地元の郷土史家さんたちが熱心に調べて、機関誌に発表しているんです。

先祖が懇意にしていた代官の屋敷が解体されたときは、
重要な古文書が出てくるのではないかと人々が集まったとも聞きました。

だから疑問に思ったのです。

戦国武将の影がちらつき、本因坊まで出した名家のことを、
墓石が発見される平成15年まで、なんで誰も知らなかったのかって。

斎藤氏によると、
10年前の2010年5月18日放送の「開運! なんでも鑑定団」に、
「本因坊察元」の名前と花押がある碁盤が出されたとのこと。

クリックすると、察元の碁盤が出てきます。

「江戸時代の碁盤」

右下の赤い「OPEN THE PRICE」をタッチすると、

「碁盤は江戸初期に作られたもの。最高級品のカヤ材。
碁盤としての価値30万円、察元の資料的価値20万円」

という鑑定士総評が出てきます。

「察元の資料価値は20万円」…。よくわからないけど、安いなあ。

この碁盤の出品者は今は亡き大橋巨泉さん。

碁盤に記された年号は江戸中期後半の「明和七年庚寅」
察元37歳の脂の乗り切ったころのものです。

明和四年に名人、その3年後の明和七年に、
囲碁四家の総取締役の碁所(ごどころ)になった。

もう名誉あるタイトルは全部もらった、

「明和七年」は、そういう頂点に上り詰めた記念すべき年なんですね

碁盤の制作は江戸初期ということですから、
本因坊家に伝わるような特別な碁盤に、
新たにこの年号を書き入れたということになります。

で、このときも地元ではなんの動きもしなかったのでしょうか。

碁盤はジャズシンガーの娘さんがファンからプレゼントされたものとか。

ジャズシンガーに碁盤をプレゼントというのも信じがたいけれど、
でも、持ち主がいて、それが手元にあった事情を知らないはずはない。

その碁盤は今、どうなっているのでしょうか。

あれやこれやとよそモンがうるさいとお思いでしょうが、

やっぱり私は知りたい

だからおせっかいは続きます。


      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・9)

「東京都港区赤坂・報土寺」

東京の「雷電為右衛門」の墓と力石を紹介しています。

ブログ「へいへいのスタジオ2010」
へいへいさんが長野県で撮影してきた「雷電」も合わせてご覧ください。

「力士雷電の像」

ほか、「生家」「墓」「力石」など10カ所ほど載せています。

今夏、駆け足で長野を巡ってきたとのこと。
撮影技術、内容ともに充実していて圧倒されます。

    ーーーーー◇ーーーーー

  日本棋院「囲碁殿堂資料館」にお聞きしました
         をクリックすると資料館へ繋がります。

「鑑定団」へ出された察元の碁盤について、資料館へ問い合わせました。

資料館に察元の碁盤はありましたが、
「鑑定団」で紹介された碁盤とは別物だそうです。

ちょっと残念

で、巨泉さんの碁盤については現在どのような状況にあるのか
把握はしていないとのことです。

地元の幸手市郷土資料館にもないし、がまた増えてしまいました。
でも囲碁殿堂資料館へ、猛烈、行きたくなりました。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

黄子と黒平

斎藤ワールド
09 /06 2020
力石の大先輩・斎藤氏。

この人なくして私のブログは成り立たちません。

コロナ禍と炎天のもとでも今までと変わらず、
名もないお堂や路地裏、墓地に至るまで調査を続けています。

その足として斎藤氏を助けているのが自転車です。
「間宮家」の話の途中ですが、今回は斎藤氏の相棒をご紹介します。

相棒は二人。

一人は40年以上も連れ添った「黄子(きこ)嬢です。

「新発見の力石と」
1黄子
埼玉県杉戸町遠野

「メーカー名は忘れましたが、
昭和の純国産の婦人車、いわゆるママチャリです。
もう40年以上も乗っていますが実に丈夫。やはり昔の国産車は凄いですね」

「小坊主たちと」
2黄子
千葉県野田市内

「力石新発見は、彼女なしでは考えられません。

最高の相棒です」

相棒のおかげか、斎藤氏はこれまでに718個もの力石を新発見しています。

個人でこれだけの数を発見した人は、全国で斎藤氏だけだと思います。

最初の新発見は、2005年7月21日。これです。

img20200904_14483598 (2)
埼玉県春日部市粕壁 「粕壁神明社」 70×54×29㎝ 70×48×28㎝

  「奉納 六十貫 文政元年 □月□□」
  「奉納 四十五貫 □政元年」


「このときは結構冷静でした」

というのも、この2か月前、斎藤氏は大発見をしているんです。

長い間行方不明だった三ノ宮卯之助「指石」(赤丸)を、
既存の力石3個の隣りの土中から発見したのです。

この4個の力石は、のちに越谷市の民俗文化財になりました。
img698_202009041539189a1.jpg
埼玉県越谷市三野宮(香取)神社

「このときは興奮して、相当ドキドキして…。

白昼、オヤジが神社の片隅で、何やら地面をほじくっている姿は相当ヤバイ。
完全に不審者ですからね。それもドキドキの一部です」

そりゃあもう、日本一の力持ち・卯之助の石を掘り当てたのですから、
興奮せずにはいられませんよね。

この卯之助石について、以下に詳しく書きましたのでぜひお読みください。

「荒れた神社の境内に…」

「金乗院にて」
3黄子
千葉県野田市桐ケ作

斎藤氏のもう一人の相棒、「黒平(くろへい)くんをご紹介します。

ブロンプトンというイギリスの純製品。折り畳み式。

遠方の力石調査に輪行するために購入。

※「輪行」=袋に自転車を詰めて電車やバスなどで、
     目的地近くの駅やバス停へ移動すること。

「桝田家住宅横(旧桝田廻船問屋)」
1黒平
千葉県野田市今上

「黄子はもうおばあちゃんなので鍵は一個ですが、
黒平はまだ新しく知名度もあるので、盗難防止に鍵は2個」

「そのうちの一つは地球ロックといって、
電信柱などの地面に直結しているものに結んでいます」

「神明神社」
2黒平
千葉県野田市関宿内町

「信じられないほど小さく折り畳めますが、思っていたより重たい。
遠方の情報不足や体力の衰えから、
黄子よりも出番はかなり少なくなったので、黒平からブーブー言われています」

「そんなわけで黄子の一人舞台になりがちなので、
たま~に郊外へ連れていってあげています」

「熊野神社」
3黒平
茨城県境町稲尾

「両方とも色から名づけました。
時々会話しながら走っています(笑)」

みなさまのお近くで、

この「黄子(きこ)さんと「黒平(くろへい)くんを見かけたら、

調査へのご理解とご協力をお願いいたします。



       

      ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・6)

「神奈川県藤沢市遠藤・御嶽神社」

西国の師匠・高島先生、東国の大先輩・斎藤氏、
この素晴らしい指導者との出会いが、私を生かしてくれています。

両手にミツバチ。
だとすると私は女王バチ? なんちゃって。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村

絶家

消えた間宮一族
09 /03 2020
「絶家」

幸手市平須賀の「間宮家」を調べると、この言葉が頻繁に出てきます。

「幸手市史」にも、ご近所さんの口からも、
「間宮氏娘」と刻まれた立派な宝篋印塔が建つ宝聖寺のご住職からも、

絶えてしまった家だからね。なにもわかりません」と。

間宮家屋敷跡です。前方にみえる高架は「圏央道」です。
屋敷跡
平須賀外郷内

たとえ絶えてしまっても、
人の営みの痕跡が、しかもかなりの名家だったという家が、
人々の記憶からすっぽり消えてしまうなんてあるのだろうか。

でもこの「間宮家」は、
墓石や石造物にその存在を残すのみで、本当にどなたもご存じなかった。

他人事ながら、なんとも寂しい。

墓石だけになった間宮家の墓所は3カ所ありました。

一つ目はすでに取り上げた共同墓地です。
墓地察元

本因坊九世察元の墓石があるところです。
そして焼却炉のそばには、あの「間宮左門」銘の力石があります。

二つ目は田んぼの中です。屋敷跡の一画にありました。
共同墓地田んぼの中の

屋敷の一画を墓所にすることは古くからありました。

その土地の草分け(開いた人。最初の入植者)などのご先祖を、
屋敷地に埋葬して家の守護神にしたのです。

似たような例が当地にもあります。

江戸時代、廻国行者の六十六部さんがこの地で行き倒れになったので、
村人たちが埋葬して守護神として塚を造った。
その後、六部さんの祭りが始まり、若者たちが墓石を力石にして遊んだ。

今も塚は墓石とともに個人の家の庭にあります。

さて、間宮家の屋敷墓です。
ここは長い間人に知られることなく、地下に眠っていたとか。

近年、貯水槽を作るために掘り起こしたら、
墓石とともに人骨が出てきて、墓地だったことが判明したそうです。

貯水槽と発見された墓石群です。
貯水槽

ここには正保二年(1645)という江戸時代初期の古い宝篋印塔
「間宮昌仙先生」と刻された墓石があります。

昌仙先生は儒者だったのでしょうか。
この人物のことも全くわかりません。

下の写真は、共同墓地から見た貯水槽脇の「屋敷墓」(赤丸)です。
こういう位置関係になっています。

斎藤氏は、
「この共同墓地も元は間宮家の墓所だったのではないだろうか」と。

屋敷の守護神は草分けのご先祖や特別の人のみとされていますから、
その推測はあたっているかも。

墓共同墓地から見た間宮家

3つ目は菩提寺だった宝聖寺です。

この寺の境内には、
屋敷墓にあった「昌仙先生」の娘が、
両親の菩提を弔うために奉納した宝篋印塔があります。

「間宮家は無縁仏になった」

というご住職の言葉を聞いても諦めきれない斎藤氏、
墓地をくまなく歩き、とうとうその一画に古めかしい墓所を見つけました。

五輪塔がありました。
間違いなく古い家の墓所です。

そして、その中の墓石に、「間宮氏」と刻んだ文字が…。

興奮冷めやらぬ斎藤氏からいただいたその日のメールのタイトルは、

「よし! 見つけた!」

下の写真は宝聖寺の墓所です。立派な五輪塔ですね。
庶民ではとうてい造れないものです。
現地へ飛んで行ってひとつひとつ見てみたい衝動にかられます。

2宝聖寺間宮 (3)

斎藤氏、続けて想定外のものまで見つけて思わず身震い。

と、「講釈師、見てきたようなウソを言い」の私ですが、
たぶん、そんな感じだったと思います。

で、慌ててシャッターを押したら、自分の生々しい腕まで写り込んでしまった。

無理もない。この日は、
「よし! 見つけた!」が二つも重なりましたからね。

二つ目の「よし! 見つけた!」はコレ、新しい卒塔婆です。
墓所宝聖寺

だってこの卒塔婆、「平成十四年」ですよ。
今からたったの18年前ですもの。

江戸時代から一気に平成です。

それに花立ても新しく、お花まで供えてあります。
いやが上にも期待が高まります。

この卒塔婆を納めた方が察元の生家「間宮家」のご子孫なら、
と、思わずにはいられません。

次回、新たに発見した墓所について詳しく見ていきます。


        ーーーーー◇ーーーーー


前回ご紹介した「力くらべの絵馬」について

img20200828_08231290 (2)

詳細を幸手市郷土資料館よりお知らせいただきました。

「画面左下に、東舩斎衛貞画 願主 大埜喜重郎と墨書。
奉納場所は不明。奉納年の記載なし。

法量は64×43.5㎝。
現在、当館で保管しております」

今回の「間宮家」を書くにあたり、郷土資料館の学芸員さんに、
大変お世話になっております。ありがとうございます。

       ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(9・2)

「福岡県柳川市大和町皿垣開甲木・海童神社」


「皿垣開甲木」
これ、「さらかきびらき かつき」と読むそうですが、珍しい地名ですね。

只今、柳川市役所へこの地名の由来を問い合わせ中です。

 ーーー柳川市の柳川古文書館から回答をいただきましたーーー

●「皿垣(さらかき)について。
  
  皿垣開の内陸部に皿垣村という地名があります。
  また「サラ(皿)は新しい、垣は垣内・堤防を意味し、新しい開という意味」
  という説があります。

  天正九年(1581)の古文書に、「佐良垣村」とあるのが初見とされ、
  このころ村は成立したと考えられます。

●「甲木(かつき)について
  
  江戸時代初め、柳川城下の豪商・甲木仁左衛門より
  干拓された干拓地であるため、この地名になったようです。

夕べ、メールで問い合わせして早くも本日、お返事を頂戴しました。
充実した丁寧な内容でありがたかったです。感謝申し上げます。


にほんブログ村 歴史ブログ 日本の伝統・文化へ
にほんブログ村


雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞