「親に孝行、博打はするな」
若者組・若い衆組
若者の自治組織、
「若者組」「若衆(わかいし)組」について、少しお話してみます。
昭和6年頃の「小若衆」 「ふるさとの歴史」より
唐突ですが「五人組制度」の話から始めます。
この五人組制度は、三代将軍徳川家光の寛永年間に確立します。
5軒の家を一組に編成し、名主などの統率の元、一軒の家で年貢が滞ったり
犯罪を犯したりしたら、あとの4軒が連帯で責任を負うという、
支配者にとってはまことに好都合、身勝手な制度であります。
これが第二次世界大戦のとき、「隣り組」「隣保班」となって蘇ります。
命令に逆らう人は「非国民」と呼ばれ、村八分にされて配給米ももらえません。
戦後はGHQの命令で解体されましたが、
形を変えて、町内会組織として現在に至っています。
「若者組」「若衆組」は、
そうした「五人組制度」の下部組織としてできたという説がありますが、
どうでしょうか。
大正時代。「伊豆の若者組の習俗」より
上の写真は、若者宿での「正月吉例の歌い初め」で、
セキフネという舟唄を歌っているところです。
若者組の構成員は地域によって呼び名が違いますが、おおよそ、
「小若い衆」=数えで15,6歳、
「中老(ちゅうろう)」=20歳前後、
「宿老(しゅくろう)」=24、5~30歳頃
で構成されています。この写真に写っているのは、中老、宿老だそうです。
今の若者とは成熟度が全然違いますね。
若者組は、「若者山」「若衆山」を持ち、そこで作った薪炭を売ったり、
いわしやイルカ漁で得た収益で運営するという完全な自治組織でした。
棒押し、力石、はしごで遊ぶ若者たち 画/松下石人氏
独立した組織なら、当然力を持ちます。
政治的な発言もするようになります。
自己主張をして、名主たちのいうこともなかなか聞きません。
支配者にとっては、目障りな集団です。
それで、領主に解散させられたりするところも出てきます。
興味深い古文書が残っています。
寛政十年(1798)に書かれた原宿(現・沼津市原)、植松家の文書です。
「一札之事
一、力石
右者、先年子細有之、諏訪社地へ入置可申旨 被仰付有之候処…」
で始まるこの文書は、
力石の管理・所有権を巡る若者たちの争論を記したもので、
町内惣代と若者惣代が印鑑を押し連名で、
「今後はこのようなことがないようにいたします」と役人へ出したものです。
沼津市西間門・八幡神社の力石
力石を巡っての騒動も、
それが古文書として残っているのも大変珍しいですね。
当時の若者たちの単なる喧嘩ではありますが、
こうした行動を無視できないほど、その存在が大きかった。
決して彼らは、五人組制度の下部組織に甘んじていたわけではなかった、
そういうことを、この文書は示しているのではないかと私は思っています。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「ふるさとの歴史」八幡野区郷土史編纂委員会
八幡野小学校 昭和50年
/「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
※参考文献
/「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
/「原町史」原町教育委員会 1963
※画像提供/「三州奥郡風俗絵図」松下石人 国書刊行会 昭和56年
「若者組」「若衆(わかいし)組」について、少しお話してみます。
昭和6年頃の「小若衆」 「ふるさとの歴史」より
唐突ですが「五人組制度」の話から始めます。
この五人組制度は、三代将軍徳川家光の寛永年間に確立します。
5軒の家を一組に編成し、名主などの統率の元、一軒の家で年貢が滞ったり
犯罪を犯したりしたら、あとの4軒が連帯で責任を負うという、
支配者にとってはまことに好都合、身勝手な制度であります。
これが第二次世界大戦のとき、「隣り組」「隣保班」となって蘇ります。
命令に逆らう人は「非国民」と呼ばれ、村八分にされて配給米ももらえません。
戦後はGHQの命令で解体されましたが、
形を変えて、町内会組織として現在に至っています。
「若者組」「若衆組」は、
そうした「五人組制度」の下部組織としてできたという説がありますが、
どうでしょうか。
大正時代。「伊豆の若者組の習俗」より
上の写真は、若者宿での「正月吉例の歌い初め」で、
セキフネという舟唄を歌っているところです。
若者組の構成員は地域によって呼び名が違いますが、おおよそ、
「小若い衆」=数えで15,6歳、
「中老(ちゅうろう)」=20歳前後、
「宿老(しゅくろう)」=24、5~30歳頃
で構成されています。この写真に写っているのは、中老、宿老だそうです。
今の若者とは成熟度が全然違いますね。
若者組は、「若者山」「若衆山」を持ち、そこで作った薪炭を売ったり、
いわしやイルカ漁で得た収益で運営するという完全な自治組織でした。
棒押し、力石、はしごで遊ぶ若者たち 画/松下石人氏
独立した組織なら、当然力を持ちます。
政治的な発言もするようになります。
自己主張をして、名主たちのいうこともなかなか聞きません。
支配者にとっては、目障りな集団です。
それで、領主に解散させられたりするところも出てきます。
興味深い古文書が残っています。
寛政十年(1798)に書かれた原宿(現・沼津市原)、植松家の文書です。
「一札之事
一、力石
右者、先年子細有之、諏訪社地へ入置可申旨 被仰付有之候処…」
で始まるこの文書は、
力石の管理・所有権を巡る若者たちの争論を記したもので、
町内惣代と若者惣代が印鑑を押し連名で、
「今後はこのようなことがないようにいたします」と役人へ出したものです。
沼津市西間門・八幡神社の力石
力石を巡っての騒動も、
それが古文書として残っているのも大変珍しいですね。
当時の若者たちの単なる喧嘩ではありますが、
こうした行動を無視できないほど、その存在が大きかった。
決して彼らは、五人組制度の下部組織に甘んじていたわけではなかった、
そういうことを、この文書は示しているのではないかと私は思っています。
<つづく>
※参考文献・画像提供
/「ふるさとの歴史」八幡野区郷土史編纂委員会
八幡野小学校 昭和50年
/「伊豆の若者組の習俗」平凡社 昭和47年
※参考文献
/「賀茂村の若衆制度」賀茂村教育委員会 昭和63年
/「原町史」原町教育委員会 1963
※画像提供/「三州奥郡風俗絵図」松下石人 国書刊行会 昭和56年