渋沢敬三の魅力は尽きませんので、今回は
長~いです。
渋沢は子供のころ、水中の小さな生き物に魅せられて、
将来は
生物学者になる決心をしていたそうです。
しかし実父の廃嫡で、祖父は孫の敬三を第一銀行の後継者に指名。
※祖父栄一は第一銀行創業者。
半年ほど抵抗したもののついに承諾。理科を断念して、
祖父の希望通り、
仙台二高の
文科へ進学した。
中学生時代から山岳会に加わり、
北アルプスや南アルプスを踏破していた敬三は、
仙台でも
登山に励み、また東北の
農村探訪や
生物観察も怠らなかった。
下の写真は、
前穂高岳(前穂高三角点)
登山の時のもの。
「明治45年7月18-31日 第1回附中(付属中学)山岳会。
上高地に10日ほど滞在中、穂高、焼岳登山、イワナ獲り、昆虫採集」
(旅譜と片影)
宿泊先の清水屋に
嘉門次が訪れたそうです。
※嘉門次=猟師。ウエストン夫妻を北アルプスに案内した。
前列左端に捕虫網を持ち座っているのが
渋沢。
学帽を被り足にゲートルを巻いている登山姿が時代を感じさせます。
(
「澁澤敬三著作集 第4巻」よりお借りしました。
二高時代の寄宿舎ではよく
がんもどきが出たので、
「オリエンタル・メンチボール」と名付けるなど
寮生活を存分に楽しみ、仲間と青春を謳歌していたという。
同時期に、のちの豊田自動車創業者の
豊田喜一郎がいたそうですが、
「彼は仙台の寒さや粗放な寄宿舎生活に辛抱できず、
早々に市内の家庭的な下宿に移転している」(由井常彦)
敬三は仙台二高から東大経済学部へ進み、横浜正金銀行へ入行。
銀行家としての激務をこなしながら、夜間は書斎で文献とにらめっこ、
休日は夜行列車で民俗探訪へ出かけるという生活を続けた。
「旅の人生、父渋沢敬三の思い出」の中で、ご子息が、
ふと見せた父の
苦悩をこんなふうに語っています。
「父が学問にあまり傾倒することは、同僚や他の財界人から必ずしも
好意的にばかりは受け取られていなかった。
「
ゴルフもしないし
碁将棋もやらず、それで浮いた時間を使って
勉強しているからいいじゃないか」と、
父には珍しく弁解じみた言い方をするのをよく聞いた覚えがある」
私は渋沢の随想や旅の話が好きで、「あ、こういう見方もあるんだ」と。
チョロッと読んだだけなのに生意気ですが、
的確な
視座、学問の
根源のようなものに気づかされます。
こんな記述もあります。
昭和7年(1932)、病気療養のため滞在した伊豆内浦の網元で、
400年にわたる古文書を発見。敬三この時36歳。
解読、整理して5年後、
「豆州内浦漁民史料」として世に出します。
「この地は子供のころから馴染んでいた場所で、クジラの回遊するのを見た。
ところが漁師たちは鯨(クジラ)を捕獲しない。不思議だと思っていたが、
今回、クジラはまぐろやカツオなどの浮魚
(鯨子)を連れてくることから、
漁師たちは一種の親しみと尊敬を持っていたのを知り、なるほどと思った」
(豆州内浦漁民史料序)
金桜神社(沼津市)奉納の
「まぐろ建切網漁絵馬」部分。明治40年。
絵馬には金桜山山頂の神社も描かれていました。
撮影・湊嘉秀
随想で私が教えられた一つが
「日本魚名の研究」「魚は自然現象として存在するが、魚名は人が勝手につけたもの。
だから、魚名は時と所と人により複雑な変化を示す。
場所によって魚名が違っていたり、異種なのに同じ名だったり、
実在しないのに魚名だけは使用したり、外来語や古い和名、方言もある。
しかし、文献に頼る水産史の研究者に、
魚名や魚の実体に関する知識を正確に持っているものは少ない」
つまり、文献上で魚名をたくさん知っている学者に本物の魚を見せると
魚名がわからない、それではダメだ。
実証の学問でなければ…と。
最近、
「歴史の立会人 昭和史の中の渋沢敬三」を読みました。
「敬三の経歴の中心はやはり
財政金融家である」
この一行に、ハッとしました。
「歴史、民族学の渋沢」
そういう渋沢像しかなかったので、私ってずいぶん偏っていたなあ、と。
もう一人の渋沢敬三を知ることができる良書だと思います。
戦前は
日銀総裁、戦後は
大蔵大臣として激動の中枢にいた。
戦後は敗戦で荒廃した日本の再建に奔走していたのですから、
まさに「昭和史の中の
歴史の立会人」です。
渋沢家は財閥ではなかったが、財閥解体に連座して屋敷を物納。
敬三自身、GHQ(アメリカ占領軍)からパージ(公職追放)を受けて、
「ニコボツ」の暮らしになった。
※ニコニコ笑って没落・ニコニコ笑ってボツボツ行こうの意。
宮本によると、この時期はむしろサバサバした感じで、
執事が住んでいた小さな家に移り、在任中は手つかずだった研究にいそしみ、
残った庭を畑にして、農家の若者たちと共に肥桶を担いでいたという。
しかし、
国内外の交友の広さや豊富な知識、コンダクターとしての力量、
その人柄のよさを経済界は放っておかなかった。
追放解除後はKDD(国際電信電話株式会社)の社長や
金融制度調査会会長などに就任。
1957年には移動大使に任命されて、4か月かけて中南米各地を訪問。
これをまとめたのが
「南米通信」です。
随所に歴史、民族、美術などの造詣の深さがにじみ出ています。
この頃よく思うことがあります。
昔の郷土史を見ると、
郷土史家としての市町村の首長や議員の名をよく見かけます。
今の政治家に最も不足しているのは、
郷土の
歴史の勉強ではないのかなあ、と。
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※以前、ブログの記事に美術館館長さんの本にあった
「宮本常一は故郷・周防大島を出るとき父親から、
人の見残したものを見よと言われた」を孫引きしましたが、
この言葉は渋沢敬三に言われたと宮本自身が書いています。
「父親云々」はまだ確認に至っておりません。
※参考文献/「歴史の立会人・昭和史の中の渋沢敬三」
由井常彦 武田晴人編 日本経済評論社 2015
/「澁澤敬三著作集 第1巻」平凡社 1992 「第4巻」平凡社 1993
/「民俗学のこれまでとこれから」福田アジオ 岩田書院
2014
/「宮本常一著作集50 渋沢敬三」未来社 2008