永福寺点景①
消えた間宮一族
「不思議な縁に導かれて」と斎藤氏が言った。
なにが不思議な縁かというと、
実は斎藤氏、
今回の「間宮家」を全くご存じなかった昨年11月に、ここへ来ているんです。
そして例のごとくポタ放浪中、ここで力石を見つけました。
それがこの永福寺の地蔵堂だったのです。
これです。
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野・永福寺地蔵堂裏
御用とお急ぎのない方は、当時のブログ記事をご覧ください。
「ピピッとX波が…」
「文政八酉年 幸手久㐂町 紙屋 忠治郎 六十貫目 江戸□ 庄兵衛」
力石から発せられる「ピピッ」の電波をキャッチした斎藤氏、
引き寄せられるように電波発信元へ駆け寄ると、
立派に保存された力石があるじゃないですか。
しかも高島先生の全国力石一覧にもない、未発見の石です。
ところがです。
その興奮もつかの間、
実はすでに地元の方が、ひと足お先に発見して、
すでに町の広報紙に華々しく掲載されていたのです。
やっぱりねぇ、きれい過ぎますもん。
斎藤氏、潔く敗北宣言。
「おシけぇなすって!」
でも未調査の力石でしたから、斎藤氏のこの発見によって
全国力石の一覧に記録されたわけですから、決して無駄ではなかったのです。
ちなみに力石掲載の「杉戸町広報紙」二紙とも高島先生の手で、
三重県総合博物館の力石関連資料の中に収蔵されました。
さて斎藤氏、
このときはこの永福寺が「間宮家」と縁の深いお寺とは知らずに、
ご住職とお話をしています。
ご住職のお話では、
「昔、ここに東大寺という修験の寺があったが、明治の神仏分離令で消え、
そのあとに東大寺の関係者だった大橋さんのご先祖が家を建てた。
今度、その大橋家を解体することになって…。
そうしたら、床下から立派な力石が出てきた。
あまりにも立派だったので、
寺で引き取って地蔵堂の裏へ建立したのです」
更地になった解体跡です。広いお屋敷だったのですね。
鎌倉から室町時代、
さらに江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和。
この更地には、気の遠くなるような歴史が積み重なっています。
時代がどんどん動いていきます。
東大寺から大橋家。大橋家から更地へ。
そして今は、建売住宅を建設中です。
あの西行ゆかりの由緒ある場所です。
これからここにお住いの方々に、
この力石を大切にしていただけたら、こんな嬉しいことはありません。
みなさんに、
「あれ、この石、何だろう?」「文政っていつ?」
などと、そこから力石に興味を持っていただければ…。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(11・7)
「鹿児島県鹿児島市喜入瀬々串町・上公民館」
師匠のブログに「二才」という言葉が出てきます。
この「二才」は「にせ」と読みます。
鹿児島には「郷中」といって若者の自治的な教育機関があって、
これは年長者が年少者の教育をするという制度だったそうです。
「若者組」「若い衆組」に似ています。
西郷隆盛はこの「二才組(にせこ)」の頭だったそうです。
西郷さんが持ったと伝えられる力石が、
遠島処分で島暮らしをした鹿児島県大島郡天城町に残っています。
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なにが不思議な縁かというと、
実は斎藤氏、
今回の「間宮家」を全くご存じなかった昨年11月に、ここへ来ているんです。
そして例のごとくポタ放浪中、ここで力石を見つけました。
それがこの永福寺の地蔵堂だったのです。
これです。
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野・永福寺地蔵堂裏
御用とお急ぎのない方は、当時のブログ記事をご覧ください。
「ピピッとX波が…」
「文政八酉年 幸手久㐂町 紙屋 忠治郎 六十貫目 江戸□ 庄兵衛」
力石から発せられる「ピピッ」の電波をキャッチした斎藤氏、
引き寄せられるように電波発信元へ駆け寄ると、
立派に保存された力石があるじゃないですか。
しかも高島先生の全国力石一覧にもない、未発見の石です。
ところがです。
その興奮もつかの間、
実はすでに地元の方が、ひと足お先に発見して、
すでに町の広報紙に華々しく掲載されていたのです。
やっぱりねぇ、きれい過ぎますもん。
斎藤氏、潔く敗北宣言。
「おシけぇなすって!」
でも未調査の力石でしたから、斎藤氏のこの発見によって
全国力石の一覧に記録されたわけですから、決して無駄ではなかったのです。
ちなみに力石掲載の「杉戸町広報紙」二紙とも高島先生の手で、
三重県総合博物館の力石関連資料の中に収蔵されました。
さて斎藤氏、
このときはこの永福寺が「間宮家」と縁の深いお寺とは知らずに、
ご住職とお話をしています。
ご住職のお話では、
「昔、ここに東大寺という修験の寺があったが、明治の神仏分離令で消え、
そのあとに東大寺の関係者だった大橋さんのご先祖が家を建てた。
今度、その大橋家を解体することになって…。
そうしたら、床下から立派な力石が出てきた。
あまりにも立派だったので、
寺で引き取って地蔵堂の裏へ建立したのです」
更地になった解体跡です。広いお屋敷だったのですね。
鎌倉から室町時代、
さらに江戸、明治、大正、昭和、平成、そして令和。
この更地には、気の遠くなるような歴史が積み重なっています。
時代がどんどん動いていきます。
東大寺から大橋家。大橋家から更地へ。
そして今は、建売住宅を建設中です。
あの西行ゆかりの由緒ある場所です。
これからここにお住いの方々に、
この力石を大切にしていただけたら、こんな嬉しいことはありません。
みなさんに、
「あれ、この石、何だろう?」「文政っていつ?」
などと、そこから力石に興味を持っていただければ…。
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高島先生ブログ(11・7)
「鹿児島県鹿児島市喜入瀬々串町・上公民館」
師匠のブログに「二才」という言葉が出てきます。
この「二才」は「にせ」と読みます。
鹿児島には「郷中」といって若者の自治的な教育機関があって、
これは年長者が年少者の教育をするという制度だったそうです。
「若者組」「若い衆組」に似ています。
西郷隆盛はこの「二才組(にせこ)」の頭だったそうです。
西郷さんが持ったと伝えられる力石が、
遠島処分で島暮らしをした鹿児島県大島郡天城町に残っています。
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