永福寺点景③
消えた間宮一族
寺なのに、下高野・東大寺の墓は神道式の「奥津城」と称している。
なぜかというと、
明治新政府の「神仏分離令」で、東大寺が廃寺とされたため、
住職はいち早く、坊さんから神主への転身を図った。
それで、墓も神式に呼ぶようになったというわけです。
東大寺が修験道の寺だったので、転身しやすかったのかもしれませんが、
当時は坊さんが神主に早変わりという例が多かったようです。
下は、「東家累代之奥津城」に移設された「西行見返之松」碑です。
右側面に、
「道いそぐ遠近人(おちこちびと)も駒とめて
みかえり松をみかえざらめや」
左側面に、「信州 池田 蓮庵負 七十八才」と、あるそうです。
さて、明治以前は神仏習合で、神主と坊さんが一緒に祭りをおこなっていた。
そして坊さんの方がちょっと偉かった。
当時の祭りの絵巻を見ると、坊さんは重要な場所に描かれています。
神主の家で育った私の父は、時々こんな恨み言をこぼしていた。
「私たちはずっと坊さんの下に置かれてきた」
で、幕末、世の中が騒がしくなったとき、
父の祖父は神さまの復権を願って、尊王攘夷の運動に加わり、
富士山本宮浅間大社・富士氏の「駿州赤心隊」の一員になった。
でも、期待通りにはいかなかったのです。
確かに「神仏分離令」が出されて、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたけれど、
父の先祖は神社を手放すはめになり、没落して「平民」になった。
東大寺の坊さんの方が、先見の明があったということになります。
この東大寺の一族、なかなか多彩な人材揃いです。
一族の娘の中には、のちに有名な芸術家になった息子を産んだ人がいます。
その芸術家とは、彫刻家の高村光雲で、
あの上野恩賜公園の「西郷隆盛像」を制作した人です。
後ろ姿です。犬のシッポにさりげない威厳を感じます。
光雲は「幕末維新懐古談」の中で、自分の母親の名は「増」と言っています。
でも、これがなんだかあやふやで…。
実は「すぎ」という名だったとか、本名は「すぎ」だが通称は「ます」だとか、
いや、「ます」は「すぎ」の母親の名前だとか、もういろいろ。
光雲の息子・光太郎の「高村光太郎全集」では、
光雲の母親は、東大寺25世・道甫の娘「ます」が産んだ「すぎ」としています。
で、このおすぎさん、光雲の父とどこで知り合ったかというと、
これもどうもはっきりしない。
香具師だった光雲の父親・兼松(兼吉)が、
永福寺の「どじょう施餓鬼」に露店を出していて、
そこで隣りの東大寺の「すぎ」を見初めた」なんて話も…。
下高野・東大寺の絵図です。
すでに妻子持ちだった兼松は、妻を離縁して、
3歳年上のこの「おすぎ」さんと一緒になったそうな。
時に兼松33歳、すぎ36歳。
なんだかいろいろ
「わけありのおとっつぁんとおっかさん」みたいだけれど、
息子は素晴らしい彫刻家になったし、孫は高名な詩人になったし、
終わりよければすべてよし!だよね。
さて、東大寺のご子孫で幸宮神社の宮司だった東氏が、
「武州高野東大寺」に、こんなことを書いています。
「坊さんから神主に乗り換えたのが、この「すぎ」の甥っ子「道貞」で、
慶応三年いち早く、村の鎮守・木々子(このこ)神社の神主となり、
菅原を名乗ったが、のちに東(あずま)と改めた。
話題の多い人で、明治二年から7年間、八丈島へ流された。
流刑の理由はわからない」
さらに、間宮家の第25世で、平成28年に82歳でこの世を去った
間宮清氏の談話として、
「遠島になった道貞は、22世の間宮佐伍平と行動を共にしていた」
また、大橋本次郎氏の談話として、
「明治九年、道貞がご赦免となって八丈島から帰ってきたとき、
4,5歳の女の子を連れてきた」
なんともドラスティック!
東大寺、間宮家、大橋家とみんな見事につながっています。
東大寺跡に最後まで残っていた「阿闍羅堂」です。
この建物も近年更地にしたとき撤去されて今はない。
すでにボロボロだったそうですが、
子孫の東氏によると、この堂の傍らに力石が置かれていたそうです。
永福寺のご住職が斎藤氏に話した
「解体した大橋家の床下から出てきた」というのは、ご住職の勘違いだったかも。
その流転の「忠治郎」石です。
新居になった地蔵堂裏から、かつての住まいを眺めています。
「見返りの松」と碑は、不動産屋の幟が立っているあたりにありました。
おすぎさんの孫の高村光太郎は詩集「智恵子抄」で、
「智恵子は東京に空は無いといふ ー略ー
阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ」
と、精神を病んだ妻・智恵子をうたった。
「すぎ」の祖父は、和歌の門弟を多数有した文学者だったという。
そのDNAが、
すぎから光雲、光雲から光太郎へと受け継がれているのは、
確かなようです。
※参考文献・画像提供/埼玉史談第39号第4号「武州高野東大寺」東 大
埼玉県郷土文化会 平成五年
※兼松、すぎの生没年齢は光雲の著書による。
ーーーーー◇ーーーーー
高島先生ブログ(11・14)
「埼玉県越谷市越ヶ谷・久伊豆神社②」
2014年、三ノ宮卯之助の力石6個が市の有形文化財・歴史資料になり、
私も静岡からはるばる越谷市へ出かけました。
下の写真は、
その記念講演をしている高島愼助先生(元・四日市大学教授)です。
越谷市中央市民会館。2014年2月
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なぜかというと、
明治新政府の「神仏分離令」で、東大寺が廃寺とされたため、
住職はいち早く、坊さんから神主への転身を図った。
それで、墓も神式に呼ぶようになったというわけです。
東大寺が修験道の寺だったので、転身しやすかったのかもしれませんが、
当時は坊さんが神主に早変わりという例が多かったようです。
下は、「東家累代之奥津城」に移設された「西行見返之松」碑です。
右側面に、
「道いそぐ遠近人(おちこちびと)も駒とめて
みかえり松をみかえざらめや」
左側面に、「信州 池田 蓮庵負 七十八才」と、あるそうです。
さて、明治以前は神仏習合で、神主と坊さんが一緒に祭りをおこなっていた。
そして坊さんの方がちょっと偉かった。
当時の祭りの絵巻を見ると、坊さんは重要な場所に描かれています。
神主の家で育った私の父は、時々こんな恨み言をこぼしていた。
「私たちはずっと坊さんの下に置かれてきた」
で、幕末、世の中が騒がしくなったとき、
父の祖父は神さまの復権を願って、尊王攘夷の運動に加わり、
富士山本宮浅間大社・富士氏の「駿州赤心隊」の一員になった。
でも、期待通りにはいかなかったのです。
確かに「神仏分離令」が出されて、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたけれど、
父の先祖は神社を手放すはめになり、没落して「平民」になった。
東大寺の坊さんの方が、先見の明があったということになります。
この東大寺の一族、なかなか多彩な人材揃いです。
一族の娘の中には、のちに有名な芸術家になった息子を産んだ人がいます。
その芸術家とは、彫刻家の高村光雲で、
あの上野恩賜公園の「西郷隆盛像」を制作した人です。
後ろ姿です。犬のシッポにさりげない威厳を感じます。
光雲は「幕末維新懐古談」の中で、自分の母親の名は「増」と言っています。
でも、これがなんだかあやふやで…。
実は「すぎ」という名だったとか、本名は「すぎ」だが通称は「ます」だとか、
いや、「ます」は「すぎ」の母親の名前だとか、もういろいろ。
光雲の息子・光太郎の「高村光太郎全集」では、
光雲の母親は、東大寺25世・道甫の娘「ます」が産んだ「すぎ」としています。
で、このおすぎさん、光雲の父とどこで知り合ったかというと、
これもどうもはっきりしない。
香具師だった光雲の父親・兼松(兼吉)が、
永福寺の「どじょう施餓鬼」に露店を出していて、
そこで隣りの東大寺の「すぎ」を見初めた」なんて話も…。
下高野・東大寺の絵図です。
すでに妻子持ちだった兼松は、妻を離縁して、
3歳年上のこの「おすぎ」さんと一緒になったそうな。
時に兼松33歳、すぎ36歳。
なんだかいろいろ
「わけありのおとっつぁんとおっかさん」みたいだけれど、
息子は素晴らしい彫刻家になったし、孫は高名な詩人になったし、
終わりよければすべてよし!だよね。
さて、東大寺のご子孫で幸宮神社の宮司だった東氏が、
「武州高野東大寺」に、こんなことを書いています。
「坊さんから神主に乗り換えたのが、この「すぎ」の甥っ子「道貞」で、
慶応三年いち早く、村の鎮守・木々子(このこ)神社の神主となり、
菅原を名乗ったが、のちに東(あずま)と改めた。
話題の多い人で、明治二年から7年間、八丈島へ流された。
流刑の理由はわからない」
さらに、間宮家の第25世で、平成28年に82歳でこの世を去った
間宮清氏の談話として、
「遠島になった道貞は、22世の間宮佐伍平と行動を共にしていた」
また、大橋本次郎氏の談話として、
「明治九年、道貞がご赦免となって八丈島から帰ってきたとき、
4,5歳の女の子を連れてきた」
なんともドラスティック!
東大寺、間宮家、大橋家とみんな見事につながっています。
東大寺跡に最後まで残っていた「阿闍羅堂」です。
この建物も近年更地にしたとき撤去されて今はない。
すでにボロボロだったそうですが、
子孫の東氏によると、この堂の傍らに力石が置かれていたそうです。
永福寺のご住職が斎藤氏に話した
「解体した大橋家の床下から出てきた」というのは、ご住職の勘違いだったかも。
その流転の「忠治郎」石です。
新居になった地蔵堂裏から、かつての住まいを眺めています。
「見返りの松」と碑は、不動産屋の幟が立っているあたりにありました。
おすぎさんの孫の高村光太郎は詩集「智恵子抄」で、
「智恵子は東京に空は無いといふ ー略ー
阿多多羅山の山の上に 毎日出ている青い空が
智恵子のほんとの空だといふ」
と、精神を病んだ妻・智恵子をうたった。
「すぎ」の祖父は、和歌の門弟を多数有した文学者だったという。
そのDNAが、
すぎから光雲、光雲から光太郎へと受け継がれているのは、
確かなようです。
※参考文献・画像提供/埼玉史談第39号第4号「武州高野東大寺」東 大
埼玉県郷土文化会 平成五年
※兼松、すぎの生没年齢は光雲の著書による。
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高島先生ブログ(11・14)
「埼玉県越谷市越ヶ谷・久伊豆神社②」
2014年、三ノ宮卯之助の力石6個が市の有形文化財・歴史資料になり、
私も静岡からはるばる越谷市へ出かけました。
下の写真は、
その記念講演をしている高島愼助先生(元・四日市大学教授)です。
越谷市中央市民会館。2014年2月
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