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永福寺点景②

消えた間宮一族
11 /11 2020
埼玉県にもあった「東大寺」。元は小さな庵(いおり)だったそうです。

隣り同士で並んでいた庵と永福寺の前を、中世の街道が走っていた。

文治二年(1186)、その街道を一人の旅の僧が歩いてきました。
元・北面の武士で歌人の西行法師です。

源平の合戦で目覚ましい働きをした義経が、
兄・頼朝の勘気に触れて追討され、奥州へ落ちて行ったころです。

かたや西行は、戦火で焼失した奈良の東大寺再建のため、
奥州・平泉の藤原氏へ砂金勧進に行く途中、ここを通ったと伝えられています。

ところが西行さん、病いに倒れこの小庵で療養することに。
数日後、村人たちの手厚い介護のおかげで病いも癒え、再び出立。

庭の松の木のところでふと振り向くと、そこには親切な村人たちの姿が…。
西行は何度も振り返りつつ、別れを惜しんだという。

それ以来この松の木は、
「西行見返りの松」と呼ばれるようになったそうな。

三代目の「西行見返りの松」です。
見返りの松
埼玉県北葛飾郡杉戸町下高野。写真は杉戸町HPからお借りしました。

「よくある話だ」などと一笑に付すなかれ。
心温まる、いいお話ではありませんか。

この僧が、たとえ西行でなかったとしても、
当時はどこの村でも、見知らぬ旅の僧を手厚くもてなしておりました。

うっかりドアも開けられない今の世の中の方が異常です。

で、グーグルマップのストリートビューで見ると、
松の木は青々と健在ですが、実はもうないんです。

昨年、斎藤氏が訪れたときは、
松の横に立っていた標石もご覧のありさま。

IMG_9088_20201109194224504.jpg

これ、町の第一号文化財なんですけどね。

で、今年、再訪した斎藤氏、再び立ち上がった標石を発見。

こちら(下の写真)です。

立ち上がったのは喜ばしいことですが、やっぱり松の木がないとねぇ。

画龍点睛(がりょうてんせい)を欠くというか、気が抜けた炭酸水と言いますか…。
 
 ※「画龍点睛を欠く」は、龍の絵が立派に仕上がったけれど、
  肝心の睛(瞳=ひとみ)を書き忘れたため、全部台無しになった意。

いずれ四代目の松が植えられることを期待して、

さらに、

 願わくは松の下にて力石(いし)生きよ
            標石と共に町の誇りに


石柱

で、この標石の新たな居場所となったのが墓地なんです。

墓地といってもただの墓地ではない。

東大寺の歴代住職を輩出した東家の歴史ある奥津城です。
 ※「奥津城」(おくつき)=神道式の墓所・墓石。神の宮居

明治新政府の「神仏分離令」で廃寺となって、寺は消滅しましたが、
歴代のご住職たちはここで静かにふるさとを見守っています。

赤矢印が「西行見返りの松」の標石。
赤い鳥居の奥が、「東家累代之奥津城」です。

奥津城東家

外郷内の共同墓地で「間宮左門」石を見つけ、
杉戸町で「忠治郎」石を見つけて、

そこから見えない糸を手繰り寄せ、
昔の人々の埋没したままの歴史や営みを明らかにしてきた斎藤氏、

ふと、こんな感想をもらしました。

「たった一つの力石から、
こんなにも濃密なドラマが掘り起こされるとは思ってもみなかった。

京都や奈良のような都でなくても、
こんな片田舎でも探せば深い歴史がいくらでもある。

そしてそれらがみんな繋がっていることを思い知らされました」


   ーーーーー◇ーーーーー

高島先生ブログ(11・10)

「埼玉県志木市下宗岡・下ノ氷川神社」

力石が4個、仲良く並んでいます。

若者たちの汗に濡れ、においを嗅ぎ、見事担いだときの雄たけびを聞いた、
あの遠い日を語り合っているかのようです。


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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞