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佐伯祐三のイーゼル

世間ばなし①
06 /24 2020
コロナ禍の自粛生活で、本ばかり読んでいた。

変わった本も読んだ。その一つが、
「明治天皇”すり替え”説の真相」
著者は落合莞爾、斎藤充功の二人。

本の中で落合氏は「明治天皇すり替え」説を肯定し、さらにこう述べていた。

「幕末に暗殺されたと言われている孝明天皇は実は生きていた。
皇太子の睦仁親王も生きていて、二人とも京都に隠れ住んでいた。

実は皇室には表と裏の2系統がある。
孝明天皇は裏の皇統で、これを京都皇統という」

また、横須賀造船所を作った幕府高官の小栗忠順にも言及していて、
「彼は官軍に殺されたと見せかけて、実はアメリカへ渡った」と。

東大法学部卒で、「経済白書」にも携わったという人だから、
荒唐無稽なことを言うはずはないと思ったものの、とても信じがたい。

落合氏の説の根拠は、京都皇統の「さる筋」からの仄聞と、
吉薗周蔵という人物の娘がもたらした吉薗メモだという。

この本の中に画家の佐伯祐三が出てきた。

佐伯祐三は昭和三年(1928)、30歳の若さでパリで亡くなった人。

私はこの人のイーゼルを画家の故・曽宮一念の家で見た。

かつて新聞の取材で、娘の夕見さんを訪ねた折、
「これ、佐伯がパリへ行くとき、父にプレゼントしていったの」と。

疎開当時建てられたアトリエに置かれた佐伯祐三のイーゼルと夕見さん。
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落合氏はその佐伯祐三を、
「佐伯は吉薗をパトロンに持ち、彼の草(スパイ)をしていた」と書いていた。

ちょっと待ってよ。

佐伯祐三は妻と幼い子供を連れてパリへ2度渡った。

佐伯家は裕福で、パトロンなど必要ではなかったし、
実際、佐伯祐三を全面的にバックアップしたのは、
大阪・光徳寺の実家を継いだ住職の兄だった。

精神を病み肺結核に侵されても、取りつかれたように絵を描き続けた人が、
スパイなんてできるわけないじゃないの。

これはひどいと思った。

自分が書いたたった一行でも、
人を殺しも生かしもすることの怖さは、私の頭にしみ込んでいる。

間違った記事で企業が倒産することもある。
いくらあとから訂正しても、一旦悪評を立てられたら再起できない。

それをここまで言い切る。

落合氏が根拠とする吉薗メモを、第三者が検証したことはあるのだろうか。

ネットを見たら、落合氏にメモをもたらした吉薗の娘は、
詐欺罪で有罪判決を受けていた。

佐伯家の誰もがこの吉薗なる人物を知らなかったし、
草(スパイ)は佐伯ではなく、吉薗本人だったとも書かれていた。

なんだか、ムナクソ悪くなった。

曽宮夕見さんの画文集「花と野仏」より
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夕見さんと私は高校の同窓生。

当時は言葉を交わすことはなかったが、教科書でしか見たことがなかった
曽宮一念があの人のお父さん!という驚きと憧れで見ていた。

曽宮一念「平野夕映え」1965。右は「毛無連峰」1970。絵葉書。
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父・一念さんは昭和46年、78歳で失明して画家を廃業。
平成六年、101歳で亡くなるまで無明の世界に生き、
書をものし、自ら「へなぶり」と称した歌を詠んだ。

曽宮一念「へなぶり拾遺」より
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 この橋に女童の夕見負いし日の
    背の暖かさ今も覚ゆる 
  曽宮一念

なんとも後味の悪い本を読んでしまった。

でも久々に夕見さんの穏やかな花と野仏の絵をながめ、
一念さんの心眼で書いた文字を見ていたら、いやな気分も吹っ飛んだ。

でも一旦流布した汚名は消えることはないのです。


※参考文献/「思い出にかえて・へなぶり拾遺」曽宮一念 曽宮夕見 曽宮潤
         文京書房 1995
         「画文集 花と野仏」曽宮夕見 木耳社 1996
         「明治天皇”すり替え”説の真相」落合莞爾 斎藤充功 
         学習研究社 2014
         「佐伯祐三のパリ」朝日晃 野見山暁治 新潮社 1998

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雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞