「ふるさとの富士」 …12
十人の釣り客
私が日本に帰国してから10年後、姉ヨーコは大腸がんの手術を受けた。
その年の年末に、「せめて来年の6月までは生きたい」と弱気の手紙がきた。
でも明けて1月には力強く、「なんとしても生き抜く」と、したため、
「おいしい梅干しが食べたい」とあった。
私はスーパーを駆けずり回って「おいしい梅干し」を探して送った。
でも音沙汰無し。再び送ったが、やっぱり何も言ってこない。
そのうち、
「清子から何の便りもない」と、姉が落胆していることを人づてに聞いた。
ようやく連絡がとれたときは、すでに余命いくばくもなかった。
これは訃報と前後して届いた姉からの絵はがきです。
慌てていて住所を間違えたのか、何かの手違いなのか、
とにかく荷物も手紙も届かなかった。
手にすることができなかった梅干しなのに、
姉は「色々とおいしいものを送って下さってありがとう」と書いてきた。
衰えてペンを持つ気力もなかったのに、姉はどうしてもお礼を言いたい、と。
「ほんとに一筆のみ お元気で」
私へのあて名は、代筆だった。
今でも鮮明に思い出すのは、遠い夏の日、駅前で会った姉のこと。
幼い長女の手を引き赤ん坊をおんぶした姉は、やつれて見る影もなかった。
あんなに美しかった姉さんが、と私は言葉を失った。
降るような縁談に応じようとしなかった姉は、
突然、入院患者だった男と結婚した。平家ガニみたいな顔の陰気な男だった。
姉さんは名家のしがらみを嫌って「平凡」を選んだのだろうが、
平凡=小心者=妻に嫉妬する=妻をいじめて憂さを晴らす
って図式もあるわけで…。
案の定、その通りになった。
産後17日目の姉。初めての出産は涙で始まった。
このとき実家の母は、仕事を休んで手伝いのため上京した。
しばらくすると、兄が東京にいる私へ電話をかけてきた。
「どうもお母さんの様子がおかしい。見に行ってくれないか」と。
行ってみると、布団の中で姉が泣いていた。
母は公園の暗がりで、やはり泣いていた。
姉の夫は母を無視して口も利かず、
母の作ったものは汚いと言って毎晩、実家へ食べに帰るというのだ。
怒った兄が抗議して、即座に母を連れ戻した。
誰にも助けを求めることができなくなった姉が、
産後間もない体に無理を重ねて乗り切ったと思うと、なんとも切ない。
しかし、姉への「いじめ」は、ますます陰湿になっていった。
「女房は家事をやって、求めに応じて夜の相手をするだけでいい」といい、
台所でラジオの英会話講座を聞いていたら、いきなりバンとスイッチを切り、
「女が偉くなる必要はない」と、のたまったという。
学びたし、ただ学びたし学びたし
この情熱の燃え尽きるまで ヨーコ
強烈な日差しで白い世界と化したあの夏の日、姉さんはこう宣言した。
「この子たちが保育園に入る年になったら働くつもり。
働いて働いて貯金して。20年たったら自立するつもり。
成人まで見届けたら、母親の務めを果たしたと思うから。
この子たちも許してくれると思うから」
子どもが3歳と6歳になった時、
姉は二人を抱き寄せて、母の夢を聞いてもらったという。
三つと六つ無駄とわかりつ母の夢
聞きてうなづく吾が味方あり ヨーコ
その宣言通り、姉は叔父の医院で再び看護婦として働き出した。
子どもの頃の私と姉
「自分の自由になるお金がない」と言っていた姉が、
その自由になるお金を自ら手にした。そして誰はばかることなく、
車の免許を取り念願の英語学校へ通い、中断していた生け花も再開した。
新婚当時、「平家ガニ」は家を訪れた会社の同僚に、
「こいつの取りえは顔がきれいなだけで頭はカラッポ」と嘲った。
その嘲りを自ら録音して、繰り返し姉に聞かせるという念の入れよう。
でもそれを無視できるほど、姉は強くなった。
輝きを取り戻した姉は、
「食わせてやっているのに何が不服か」と怒鳴られても、
食卓をゲンコツで叩いて威嚇されても、もう動じなかった。
悔いなきや乾坤一擲わが人生
その光芒の夢をたぐりて ヨーコ
そして20年。
姉はあの言葉通り、夫に離婚を突き付けて、
実家の父の援助で建てた家も車も家財道具もいっさい置いて家を出た。
成人したとはいえ、子を捨てたことに変わりはない。
その罪悪感にさいなまれながらも、不安と希望を胸に、
片道切符を握りしめてカナダへの機上の人となった。
45歳の新たな旅立ちだった。
いずくにも青山ありと海渡り
路傍に死すとも還らじと決む ヨーコ
渡加して2年後、スベンさんと知り合い、
アメリカに住む従姉の立ち合いのもと、再婚した。
しかし、スベンさんの事業の失敗から、
レイクのほとりの家を手放し、あの大草原の小さな家に転居。
経済的には恵まれなかったものの、
「スベンの大きな愛に包まれて、幸せいっぱい夢いっぱい」の
カナダライフを満喫していた。
その後、スベンさんの高齢とケガを機に町へ移り住んだ。
そこがヨーコの終焉の場所となった。
これはカナダの海岸で、姉と二人で夢中で拾った貝や瓶のかけらです。
死期を悟った姉は、この世に自分の痕跡は一つも残したくないといい、
茶道具や着物、花器や琴などに贈与する人の名札をつけた。
残った財産は処分してもらい、
アビューズ(虐待)に苦しむ女性たちを救う団体に寄付するつもり、
とも言っていた。
そして遺言通り、遺灰は海へ流した。
元夫から言われ続けた「料理が下手」は、トラウマになり、
母親の悪口を聞かされ続けた子供たちからは誤解もされたけれど、
姉は確実に、ここカナダで人間としての尊厳を取り戻した。
もう日本にはなんの未練もないと言っていた姉だったが、
「胃袋だけは日本回帰してね、日本食しか受け付けなくなった」と、
ちょっと恥ずかしそうに手紙に書いてきた。
貝殻拾いをしたキャンベルリバーの海岸。のちに姉の散骨が行われた
生前、姉はたびたび富士山の写真を欲しがった。
住み慣れたカナダの地から大海原へ船出した姉さん、
その富士の聳えるふるさとを目指して、懸命に泳ぐ姿が目に浮かびます。
日本より中継されしスポーツに
つつがなきかなふるさとの富士 ヨーコ
―――――◇―――――
精神的DVは身体的DVと違って外部に見えにくく、子供にはよき父親であるため、
周囲になかなか理解してもらえません。
本人は渦中にいるため、自分は被害者だという自覚すらできにくい。
姉自身も異常と感じてはいても、
自分がDV被害者だったとはっきり自覚したのは、再婚してからだった。
世間体を気にする肉親からの、
「なぜ我慢できないのか」「外人と結婚だなんてパンパンになり下がったか」
という非難も姉を苦しめたが、姉はそれをもバネにして誇り高く生き抜いた。
いつも前向きで自分を見失わず周囲を気遣い、一生懸命だった姉の生きざまが、
今、DVに直面している人へ少しでも力になればと思っています。(ちから姫)
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その年の年末に、「せめて来年の6月までは生きたい」と弱気の手紙がきた。
でも明けて1月には力強く、「なんとしても生き抜く」と、したため、
「おいしい梅干しが食べたい」とあった。
私はスーパーを駆けずり回って「おいしい梅干し」を探して送った。
でも音沙汰無し。再び送ったが、やっぱり何も言ってこない。
そのうち、
「清子から何の便りもない」と、姉が落胆していることを人づてに聞いた。
ようやく連絡がとれたときは、すでに余命いくばくもなかった。
これは訃報と前後して届いた姉からの絵はがきです。
慌てていて住所を間違えたのか、何かの手違いなのか、
とにかく荷物も手紙も届かなかった。
手にすることができなかった梅干しなのに、
姉は「色々とおいしいものを送って下さってありがとう」と書いてきた。
衰えてペンを持つ気力もなかったのに、姉はどうしてもお礼を言いたい、と。
「ほんとに一筆のみ お元気で」
私へのあて名は、代筆だった。
今でも鮮明に思い出すのは、遠い夏の日、駅前で会った姉のこと。
幼い長女の手を引き赤ん坊をおんぶした姉は、やつれて見る影もなかった。
あんなに美しかった姉さんが、と私は言葉を失った。
降るような縁談に応じようとしなかった姉は、
突然、入院患者だった男と結婚した。平家ガニみたいな顔の陰気な男だった。
姉さんは名家のしがらみを嫌って「平凡」を選んだのだろうが、
平凡=小心者=妻に嫉妬する=妻をいじめて憂さを晴らす
って図式もあるわけで…。
案の定、その通りになった。
産後17日目の姉。初めての出産は涙で始まった。
このとき実家の母は、仕事を休んで手伝いのため上京した。
しばらくすると、兄が東京にいる私へ電話をかけてきた。
「どうもお母さんの様子がおかしい。見に行ってくれないか」と。
行ってみると、布団の中で姉が泣いていた。
母は公園の暗がりで、やはり泣いていた。
姉の夫は母を無視して口も利かず、
母の作ったものは汚いと言って毎晩、実家へ食べに帰るというのだ。
怒った兄が抗議して、即座に母を連れ戻した。
誰にも助けを求めることができなくなった姉が、
産後間もない体に無理を重ねて乗り切ったと思うと、なんとも切ない。
しかし、姉への「いじめ」は、ますます陰湿になっていった。
「女房は家事をやって、求めに応じて夜の相手をするだけでいい」といい、
台所でラジオの英会話講座を聞いていたら、いきなりバンとスイッチを切り、
「女が偉くなる必要はない」と、のたまったという。
学びたし、ただ学びたし学びたし
この情熱の燃え尽きるまで ヨーコ
強烈な日差しで白い世界と化したあの夏の日、姉さんはこう宣言した。
「この子たちが保育園に入る年になったら働くつもり。
働いて働いて貯金して。20年たったら自立するつもり。
成人まで見届けたら、母親の務めを果たしたと思うから。
この子たちも許してくれると思うから」
子どもが3歳と6歳になった時、
姉は二人を抱き寄せて、母の夢を聞いてもらったという。
三つと六つ無駄とわかりつ母の夢
聞きてうなづく吾が味方あり ヨーコ
その宣言通り、姉は叔父の医院で再び看護婦として働き出した。
子どもの頃の私と姉
「自分の自由になるお金がない」と言っていた姉が、
その自由になるお金を自ら手にした。そして誰はばかることなく、
車の免許を取り念願の英語学校へ通い、中断していた生け花も再開した。
新婚当時、「平家ガニ」は家を訪れた会社の同僚に、
「こいつの取りえは顔がきれいなだけで頭はカラッポ」と嘲った。
その嘲りを自ら録音して、繰り返し姉に聞かせるという念の入れよう。
でもそれを無視できるほど、姉は強くなった。
輝きを取り戻した姉は、
「食わせてやっているのに何が不服か」と怒鳴られても、
食卓をゲンコツで叩いて威嚇されても、もう動じなかった。
悔いなきや乾坤一擲わが人生
その光芒の夢をたぐりて ヨーコ
そして20年。
姉はあの言葉通り、夫に離婚を突き付けて、
実家の父の援助で建てた家も車も家財道具もいっさい置いて家を出た。
成人したとはいえ、子を捨てたことに変わりはない。
その罪悪感にさいなまれながらも、不安と希望を胸に、
片道切符を握りしめてカナダへの機上の人となった。
45歳の新たな旅立ちだった。
いずくにも青山ありと海渡り
路傍に死すとも還らじと決む ヨーコ
渡加して2年後、スベンさんと知り合い、
アメリカに住む従姉の立ち合いのもと、再婚した。
しかし、スベンさんの事業の失敗から、
レイクのほとりの家を手放し、あの大草原の小さな家に転居。
経済的には恵まれなかったものの、
「スベンの大きな愛に包まれて、幸せいっぱい夢いっぱい」の
カナダライフを満喫していた。
その後、スベンさんの高齢とケガを機に町へ移り住んだ。
そこがヨーコの終焉の場所となった。
これはカナダの海岸で、姉と二人で夢中で拾った貝や瓶のかけらです。
死期を悟った姉は、この世に自分の痕跡は一つも残したくないといい、
茶道具や着物、花器や琴などに贈与する人の名札をつけた。
残った財産は処分してもらい、
アビューズ(虐待)に苦しむ女性たちを救う団体に寄付するつもり、
とも言っていた。
そして遺言通り、遺灰は海へ流した。
元夫から言われ続けた「料理が下手」は、トラウマになり、
母親の悪口を聞かされ続けた子供たちからは誤解もされたけれど、
姉は確実に、ここカナダで人間としての尊厳を取り戻した。
もう日本にはなんの未練もないと言っていた姉だったが、
「胃袋だけは日本回帰してね、日本食しか受け付けなくなった」と、
ちょっと恥ずかしそうに手紙に書いてきた。
貝殻拾いをしたキャンベルリバーの海岸。のちに姉の散骨が行われた
生前、姉はたびたび富士山の写真を欲しがった。
住み慣れたカナダの地から大海原へ船出した姉さん、
その富士の聳えるふるさとを目指して、懸命に泳ぐ姿が目に浮かびます。
日本より中継されしスポーツに
つつがなきかなふるさとの富士 ヨーコ
―――――◇―――――
精神的DVは身体的DVと違って外部に見えにくく、子供にはよき父親であるため、
周囲になかなか理解してもらえません。
本人は渦中にいるため、自分は被害者だという自覚すらできにくい。
姉自身も異常と感じてはいても、
自分がDV被害者だったとはっきり自覚したのは、再婚してからだった。
世間体を気にする肉親からの、
「なぜ我慢できないのか」「外人と結婚だなんてパンパンになり下がったか」
という非難も姉を苦しめたが、姉はそれをもバネにして誇り高く生き抜いた。
いつも前向きで自分を見失わず周囲を気遣い、一生懸命だった姉の生きざまが、
今、DVに直面している人へ少しでも力になればと思っています。(ちから姫)
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