佐伯祐三のイーゼル
世間ばなし①
コロナ禍の自粛生活で、本ばかり読んでいた。
変わった本も読んだ。その一つが、
「明治天皇”すり替え”説の真相」
著者は落合莞爾、斎藤充功の二人。
本の中で落合氏は「明治天皇すり替え」説を肯定し、さらにこう述べていた。
「幕末に暗殺されたと言われている孝明天皇は実は生きていた。
皇太子の睦仁親王も生きていて、二人とも京都に隠れ住んでいた。
実は皇室には表と裏の2系統がある。
孝明天皇は裏の皇統で、これを京都皇統という」
また、横須賀造船所を作った幕府高官の小栗忠順にも言及していて、
「彼は官軍に殺されたと見せかけて、実はアメリカへ渡った」と。
東大法学部卒で、「経済白書」にも携わったという人だから、
荒唐無稽なことを言うはずはないと思ったものの、とても信じがたい。
落合氏の説の根拠は、京都皇統の「さる筋」からの仄聞と、
吉薗周蔵という人物の娘がもたらした吉薗メモだという。
この本の中に画家の佐伯祐三が出てきた。
佐伯祐三は昭和三年(1928)、30歳の若さでパリで亡くなった人。
私はこの人のイーゼルを画家の故・曽宮一念の家で見た。
かつて新聞の取材で、娘の夕見さんを訪ねた折、
「これ、佐伯がパリへ行くとき、父にプレゼントしていったの」と。
疎開当時建てられたアトリエに置かれた佐伯祐三のイーゼルと夕見さん。
落合氏はその佐伯祐三を、
「佐伯は吉薗をパトロンに持ち、彼の草(スパイ)をしていた」と書いていた。
ちょっと待ってよ。
佐伯祐三は妻と幼い子供を連れてパリへ2度渡った。
佐伯家は裕福で、パトロンなど必要ではなかったし、
実際、佐伯祐三を全面的にバックアップしたのは、
大阪・光徳寺の実家を継いだ住職の兄だった。
精神を病み肺結核に侵されても、取りつかれたように絵を描き続けた人が、
スパイなんてできるわけないじゃないの。
これはひどいと思った。
自分が書いたたった一行でも、
人を殺しも生かしもすることの怖さは、私の頭にしみ込んでいる。
間違った記事で企業が倒産することもある。
いくらあとから訂正しても、一旦悪評を立てられたら再起できない。
それをここまで言い切る。
落合氏が根拠とする吉薗メモを、第三者が検証したことはあるのだろうか。
ネットを見たら、落合氏にメモをもたらした吉薗の娘は、
詐欺罪で有罪判決を受けていた。
佐伯家の誰もがこの吉薗なる人物を知らなかったし、
草(スパイ)は佐伯ではなく、吉薗本人だったとも書かれていた。
なんだか、ムナクソ悪くなった。
曽宮夕見さんの画文集「花と野仏」より
夕見さんと私は高校の同窓生。
当時は言葉を交わすことはなかったが、教科書でしか見たことがなかった
曽宮一念があの人のお父さん!という驚きと憧れで見ていた。
曽宮一念「平野夕映え」1965。右は「毛無連峰」1970。絵葉書。
父・一念さんは昭和46年、78歳で失明して画家を廃業。
平成六年、101歳で亡くなるまで無明の世界に生き、
書をものし、自ら「へなぶり」と称した歌を詠んだ。
曽宮一念「へなぶり拾遺」より
この橋に女童の夕見負いし日の
背の暖かさ今も覚ゆる 曽宮一念
なんとも後味の悪い本を読んでしまった。
でも久々に夕見さんの穏やかな花と野仏の絵をながめ、
一念さんの心眼で書いた文字を見ていたら、いやな気分も吹っ飛んだ。
でも一旦流布した汚名は消えることはないのです。
※参考文献/「思い出にかえて・へなぶり拾遺」曽宮一念 曽宮夕見 曽宮潤
文京書房 1995
「画文集 花と野仏」曽宮夕見 木耳社 1996
「明治天皇”すり替え”説の真相」落合莞爾 斎藤充功
学習研究社 2014
「佐伯祐三のパリ」朝日晃 野見山暁治 新潮社 1998
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変わった本も読んだ。その一つが、
「明治天皇”すり替え”説の真相」
著者は落合莞爾、斎藤充功の二人。
本の中で落合氏は「明治天皇すり替え」説を肯定し、さらにこう述べていた。
「幕末に暗殺されたと言われている孝明天皇は実は生きていた。
皇太子の睦仁親王も生きていて、二人とも京都に隠れ住んでいた。
実は皇室には表と裏の2系統がある。
孝明天皇は裏の皇統で、これを京都皇統という」
また、横須賀造船所を作った幕府高官の小栗忠順にも言及していて、
「彼は官軍に殺されたと見せかけて、実はアメリカへ渡った」と。
東大法学部卒で、「経済白書」にも携わったという人だから、
荒唐無稽なことを言うはずはないと思ったものの、とても信じがたい。
落合氏の説の根拠は、京都皇統の「さる筋」からの仄聞と、
吉薗周蔵という人物の娘がもたらした吉薗メモだという。
この本の中に画家の佐伯祐三が出てきた。
佐伯祐三は昭和三年(1928)、30歳の若さでパリで亡くなった人。
私はこの人のイーゼルを画家の故・曽宮一念の家で見た。
かつて新聞の取材で、娘の夕見さんを訪ねた折、
「これ、佐伯がパリへ行くとき、父にプレゼントしていったの」と。
疎開当時建てられたアトリエに置かれた佐伯祐三のイーゼルと夕見さん。
落合氏はその佐伯祐三を、
「佐伯は吉薗をパトロンに持ち、彼の草(スパイ)をしていた」と書いていた。
ちょっと待ってよ。
佐伯祐三は妻と幼い子供を連れてパリへ2度渡った。
佐伯家は裕福で、パトロンなど必要ではなかったし、
実際、佐伯祐三を全面的にバックアップしたのは、
大阪・光徳寺の実家を継いだ住職の兄だった。
精神を病み肺結核に侵されても、取りつかれたように絵を描き続けた人が、
スパイなんてできるわけないじゃないの。
これはひどいと思った。
自分が書いたたった一行でも、
人を殺しも生かしもすることの怖さは、私の頭にしみ込んでいる。
間違った記事で企業が倒産することもある。
いくらあとから訂正しても、一旦悪評を立てられたら再起できない。
それをここまで言い切る。
落合氏が根拠とする吉薗メモを、第三者が検証したことはあるのだろうか。
ネットを見たら、落合氏にメモをもたらした吉薗の娘は、
詐欺罪で有罪判決を受けていた。
佐伯家の誰もがこの吉薗なる人物を知らなかったし、
草(スパイ)は佐伯ではなく、吉薗本人だったとも書かれていた。
なんだか、ムナクソ悪くなった。
曽宮夕見さんの画文集「花と野仏」より
夕見さんと私は高校の同窓生。
当時は言葉を交わすことはなかったが、教科書でしか見たことがなかった
曽宮一念があの人のお父さん!という驚きと憧れで見ていた。
曽宮一念「平野夕映え」1965。右は「毛無連峰」1970。絵葉書。
父・一念さんは昭和46年、78歳で失明して画家を廃業。
平成六年、101歳で亡くなるまで無明の世界に生き、
書をものし、自ら「へなぶり」と称した歌を詠んだ。
曽宮一念「へなぶり拾遺」より
この橋に女童の夕見負いし日の
背の暖かさ今も覚ゆる 曽宮一念
なんとも後味の悪い本を読んでしまった。
でも久々に夕見さんの穏やかな花と野仏の絵をながめ、
一念さんの心眼で書いた文字を見ていたら、いやな気分も吹っ飛んだ。
でも一旦流布した汚名は消えることはないのです。
※参考文献/「思い出にかえて・へなぶり拾遺」曽宮一念 曽宮夕見 曽宮潤
文京書房 1995
「画文集 花と野仏」曽宮夕見 木耳社 1996
「明治天皇”すり替え”説の真相」落合莞爾 斎藤充功
学習研究社 2014
「佐伯祐三のパリ」朝日晃 野見山暁治 新潮社 1998
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