2008年03月10日 (月) | 編集 |
大方の人は、今日が何の日かなんてパッと思い出せないだろう。
思い出せないというか、知らないというか。
東京がアメリカ軍に爆撃で焼き尽くされた日。
私はどうしても、沈んだ気分になってしまう。
戦争というものを、初めて感情として恐ろしいと感じたのは、
小学校1、2年生の頃の学校で見た映画によって。
内容は、‘猫達が大きな火事に巻き込まれる’というものだった。
人形劇映画みたいな感じだったかな。
何匹もの猫が、毎日を平和にのんびり暮らしていた。
ある日の夜、火事を知らせるサイレンだったか、半鐘の音。
遠くの方で火事が起こっている。
・・でもそこで私は、子どもながらに普通の火事じゃない、
なにか得体の知れない怖さを感じたのを憶えている。
火は猫達の方にも迫ってきた。
でも、あまりに大きい火事だ。
逃げ惑う猫達。でも、逃げ切れない。
そこから先は記憶がはっきりしていないが、みんな死んでしまったのだと思う。
猫達の平和な日常ははそこで断ち切られてしまった。
「圧倒的な暴力」という言葉こそ知らなかったものの、それを感じた。
そしてその後、学校で「東京大空襲」があったことを勉強する。
『ガラスのうさぎ』のような映画も見た。
新聞の読者特集や、『写真版・東京大空襲』
という本も見た。
私は戦争というものを直接知らない。そういう人が人口の多くを占めている。
だから日本の戦時中を知るには、文字や写真で見る。
高校2年の時、どういうきっかけでか忘れたが父方の祖父の写真が出てきた。
軍服を着ている祖父が写っていた。30歳~35歳くらいの時か。
びっくりした。
祖父は2度召集令状を受け1度目は日中戦争へ、
2度目は太平洋戦争で、ニューギニア方面へ出征したようだ。
現地での写真がたくさんある。ニューギニアでは現地の人と一緒に写っていた。
日中戦争の写真の裏には、「北支」と書いてある。
北支とは北支那(きたしな)のことで、今の中国北部だと思う。
その後知ったが、中国の主要な都市を日本軍はかなり爆撃したらしい。
特に「重慶大爆撃」は数年前のサッカーの反日騒ぎの時に初めて知った。
今調べてみると1938年~1943年の5年半に及んで、爆撃による死傷者は6万1300人、
うち死者は2万3600人負傷者3万7700人とされている、と
『重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い』というブログに出ていた。
(これとはまた死傷者数が違うサイトもあった)
父から聞いた話では、祖父が持っていた写真は他にたくさんあったらしいが、
人の首を切り落としたり、殺しているような場面のものは
捨ててしまったらしい。
祖父がそういう爆撃や殺戮に加わった事があるのか。
祖父は戦争から帰ってきた2年後くらいに、胃潰瘍をひどくして亡くなったと聞いた。
命日は偶然にも、私の誕生日と同じ日だ。
祖母も死んでしまった今、はっきりしたことは分からない。
長い・・続く・・。
思い出せないというか、知らないというか。
東京がアメリカ軍に爆撃で焼き尽くされた日。
私はどうしても、沈んだ気分になってしまう。
戦争というものを、初めて感情として恐ろしいと感じたのは、
小学校1、2年生の頃の学校で見た映画によって。
内容は、‘猫達が大きな火事に巻き込まれる’というものだった。
人形劇映画みたいな感じだったかな。
何匹もの猫が、毎日を平和にのんびり暮らしていた。
ある日の夜、火事を知らせるサイレンだったか、半鐘の音。
遠くの方で火事が起こっている。
・・でもそこで私は、子どもながらに普通の火事じゃない、
なにか得体の知れない怖さを感じたのを憶えている。
火は猫達の方にも迫ってきた。
でも、あまりに大きい火事だ。
逃げ惑う猫達。でも、逃げ切れない。
そこから先は記憶がはっきりしていないが、みんな死んでしまったのだと思う。
猫達の平和な日常ははそこで断ち切られてしまった。
「圧倒的な暴力」という言葉こそ知らなかったものの、それを感じた。
そしてその後、学校で「東京大空襲」があったことを勉強する。
『ガラスのうさぎ』のような映画も見た。
新聞の読者特集や、『写真版・東京大空襲』
という本も見た。
私は戦争というものを直接知らない。そういう人が人口の多くを占めている。
だから日本の戦時中を知るには、文字や写真で見る。
高校2年の時、どういうきっかけでか忘れたが父方の祖父の写真が出てきた。
軍服を着ている祖父が写っていた。30歳~35歳くらいの時か。
びっくりした。
祖父は2度召集令状を受け1度目は日中戦争へ、
2度目は太平洋戦争で、ニューギニア方面へ出征したようだ。
現地での写真がたくさんある。ニューギニアでは現地の人と一緒に写っていた。
日中戦争の写真の裏には、「北支」と書いてある。
北支とは北支那(きたしな)のことで、今の中国北部だと思う。
その後知ったが、中国の主要な都市を日本軍はかなり爆撃したらしい。
特に「重慶大爆撃」は数年前のサッカーの反日騒ぎの時に初めて知った。
今調べてみると1938年~1943年の5年半に及んで、爆撃による死傷者は6万1300人、
うち死者は2万3600人負傷者3万7700人とされている、と
『重慶大爆撃被害者の謝罪と賠償を求める闘い』というブログに出ていた。
(これとはまた死傷者数が違うサイトもあった)
父から聞いた話では、祖父が持っていた写真は他にたくさんあったらしいが、
人の首を切り落としたり、殺しているような場面のものは
捨ててしまったらしい。
祖父がそういう爆撃や殺戮に加わった事があるのか。
祖父は戦争から帰ってきた2年後くらいに、胃潰瘍をひどくして亡くなったと聞いた。
命日は偶然にも、私の誕生日と同じ日だ。
祖母も死んでしまった今、はっきりしたことは分からない。
長い・・続く・・。
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