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薬物注射による死刑執行の失敗例(アメリカ)。 自ブログ過去記事を振り返ります。
2014年05月29日 (木) | 編集 |
こんばんは。今日は少し重い話題です。
死刑制度の続き。約5ヶ月ぶりです。

私は以前(2013年12月16日)、死刑は刑であるが、国家による殺人でもある。
という記事を書きました。
その中で、
『私は、今の絞首刑は、残虐だと思います。
その点では、死刑を今すぐ廃止すのは無理でも、
薬物注射など、できるだけ苦痛の少ない方法に変えた方がいいのでは、

と、思います。』

と書いて記事を結びました。
しかし、薬物による死刑執行では、アメリカで失敗した死刑囚が何人かいる、
というのを(今年)4月になって知りました。
最期は眠るように・・という、ドラマや映画のような死刑囚の死を想像していました。
でも、違いました。
(死刑で「きれいな死」を想像する自分の心は、無意識にグロテスクです)


下に、アメリカで死刑囚に対する死刑執行が失敗した例を、リンクします。

■AFP BBニュース(2009年10月18日付)
AFP BBニュース 「 米国の死刑、執行失敗例では中世並みの悶絶」

■CNNニュース(2014年1月17日付)
死刑に使う薬物変更、10分間あえいで死亡 論議も 米オハイオ州 2014.01.17

■The Huffington Post国際(2014年05月01日付)
アメリカで死刑執行に失敗 死刑囚は意識回復後に死亡

AFPの2009年の死刑執行の失敗例では、
死刑囚は、『9月、ローメル・ブラウン(Romell Brown)死刑囚の刑執行では、致死薬注射が試みられたが、針を刺すのに連続18回失敗し、』という状態だったようです。
執行する側の不手際なのか薬物が合わなかったのかそれとも違う理由か不明ですが、
この頃はまだ、
「薬物の在庫がなく、本来とは違う薬物で失敗」という理由ではないようです。

2014年1月の例では、(一部抜粋、転載。色文字の部分)
米国ではオハイオ州など多くの州が死刑執行の際に薬物を投与しているが、欧州の医薬品メーカー各社が自社の製品を米国の死刑に使うことを禁じたため、代替薬の使用を迫られていた。
オハイオ州は、デンマークのルンドベック社が製造する麻酔薬のペントバルビタールを使っていたが、ペントバルビタールの在庫が昨年9月で底を突いたことから、マグワイア死刑囚の死刑では初めて、鎮静剤のミダゾラムと鎮痛剤のヒドロモルフォンを組み合わせて使った。

デンマーク製の麻酔薬の「在庫が底を突いた」という理由で他の薬物にしたら、
死刑囚が『約10分間にわたってあえぎ、体を震わせながら死亡した。』
ということです。

今年4月29日の失敗例では、(引用、抜粋。色文字の部分)
『死刑囚は最初の薬物が投与された約10分後に意識を失ったと宣告されたが、その約3分後に息が荒くなり、体を動かして頭を上げようとし、声も出したという。州は注入に問題があると判断して執行を中止したが、死刑囚はその後死亡。執行開始から約40分たっていたという。』(「The Huffington Post国際」が「朝日新聞デジタル」から引用)
これも、『ヨーロッパの大手製薬会社数社が、死刑執行のための薬物販売を拒否しているからだ。』(上リンクHuffington Postの記事より)
というのが理由でしょうか。

ヨーロッパの製薬会社が、死刑執行のための薬物を売るのを拒否していて、その代替として他の薬物を使ったら、死刑執行時に、死刑囚に著しい苦痛を与えた、
というのを私が知ってからもう一ヶ月は経っていますが、
なかなか重い内容で書くことができませんでした。
上にも書きましたが、繰り返し。
昨年12月16日の記事で私は、
『薬物注射など、できるだけ苦痛の少ない方法に変えた方がいいのでは、
と、思います。』
と書きましたが、それはちょっと、考え直すべきだと思いました。
薬物でも、「すんなりと死ぬ」わけではないと知ったからです。



記事「死刑は刑であるが、国家による殺人でもある。」への拍手コメント返信です。
2014年01月07日 (火) | 編集 |
2013年12月16日 (月) の私のブログ記事
「死刑は刑であるが、国家による殺人でもある。」
に、拍手でコメントを下さった方が、二人いました。

一人は、匿名の方。もう一人は、このブログのリンク先の、原田 正治さん。

拍手コメントは、一般のコメントと違い、「拍手ボタン」を押さない限り、
見ることができないです。
なので、この記事を書くにあたり、拍手コメントをブログ本記事に公開して、
引用して書きます。

■12月16日にくださったコメント内容。(文字色の部分)(匿名)
絶対、被害者の悲しみを抜きにして考えてはならないが、
死刑囚にも人権があるのも間違いない。


■12月29日に、原田さんがくださったコメント内容。(文字色の部分)
国家による、国家の為よる、如何なる理由があるにせよ、死刑執行は避けるべきだと思います。被害者遺族にとっても虚無感だけが残るだけだと・・・。

私が、16日投稿の匿名の方のコメントに引っかかったのは(こういうことを言う人は多いような気がしますが)、『絶対、被害者の悲しみを抜きにして考えてはならないが』という部分。
殺人事件には、被害者・そして被害者遺族がいるのは当然です。

ひっかかること、というのは。
法務大臣による死刑執行が成された時に死刑制度につての議論が高まる時など、必ずと言っていいほど、「死刑制度反対を訴える人」に対して、「では、被害者はどうなるのか」という、「吹っかけ議論」みたいな議論が起こることです。

殺された人、殺人未遂で苦しむ被害者(例えば、地下鉄サリン事件や秋葉原無差別殺傷事件のような)や遺族は、<「被告(殺人犯)が死刑判決を受け、国家によって死刑という刑になることを望むだろう」、「傍観者」の中には、そう見ている人がいるのだろうか。
上の匿名コメントの方の、
『被害者の悲しみを抜きにして考えてはならない』
というのはもちろんなのですが、

( ↓ 私は、(投稿者の文章が短いということもありますが)そういう風にも受け取りましたが)
【 被害者の悲しみを癒すのは、犯人を死刑にすること 】
と考えるのは・・ちょっと違うのではないかなと思います。
犯人が死刑にされたことで、気持ちの上でひと段落つく、
という遺族もいるかもしれない。それはあくまで、遺族です。
しかも、全員の遺族がそう思うとは限らない。
「犯人を死刑にしてほしくない」という遺族、「犯人と会って、なぜ殺したか、(秋葉の被害者のタクシー運転手など)なぜあのような事件を起こしたか知りたい」という被害者もいます。
被害者や遺族=犯人の死刑を望んでいる とは限りません。

そういう考えが、被害者遺族で犯人の死刑を望んでいない人を、
「遺族なのに死刑を望まないなんでおかしい」と、苦しめることになるのではないか。
「世間が求めるような『良い遺族』でいないとならないのか」と、
被害者遺族で苦しんでいる人もいる。

被害者や、被害者遺族は、心身に大きなダメージを受けることが多いです。
国は、「死刑は国民の支持」などと言わず、経済的心理的に、被害者・被害者遺族を徹底してサポートする必要があります。
なのに、国民がこの状態では、心もとない。
死刑が、「本当に被害者のため」になるのだろうか。

2013年12月16日 (月) の私のブログ記事
「死刑は刑であるが、国家による殺人でもある。」の続きでもありますが、
繰り返し。
死刑とは、国民が、国家によって殺されることです。


死刑は刑であるが、国家による殺人でもある。
2013年12月16日 (月) | 編集 |
12月12日に、二人の死刑囚の刑が、執行されました。
以下、ニュース内容を毎日新聞配信のwebページより転載。
====================ここから。

<死刑>2人の刑を執行…
政権交代後4回目 毎日新聞 12月12日(木)10時21分配信


 法務省は12日午前、1986年に山梨・新潟両県で2人を殺害した藤島光雄死刑囚(55)=東京拘置所=と、2000年と08年に大阪市で2人を殺害した加賀山領治死刑囚(63)=大阪拘置所=の2人の刑を執行した。死刑執行は9月12日以来。昨年12月末の政権交代後では4回目で、計8人に執行されたことになる。今回の執行により確定死刑囚は129人となった。

【その日までの「生」 昼食にスタミナ焼きも】写真特集「東京拘置所が処遇公開」

(7枚の写真がありました。リンクしておきます。クリックすると見られます)

死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(部屋の間取り)
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(死刑囚の運動場)
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(死刑囚と同型の「単独室」)
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(死刑囚の食事)←(写真に添えてある文)『取材した日の昼食は麦入りご飯と豚肉のスタミナ焼き、切り干し大根、中華ナメコ汁だった=2012年10月4日、須賀川理撮影』
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(キリスト教用の教誨室の祭壇)
死刑囚:東京拘置所が処遇公開 運動場は金網越しに空 2013年01月14日(死刑囚に関する書類)←」(写真に添えてある文)『札幌矯正管区が開示した内部文書。死刑囚が遺骨の引き渡し先や言い残しておきたいことなどを記載する』

 確定判決によると、藤島死刑囚は86年3月、山梨県笛吹市(旧春日居町)の前妻宅で、口論になった前妻の伯母(当時73歳)を浴槽に押し込んで殺害。5日後、逃走資金を得るため、前妻の知人男性(同26歳)を新潟市内のホテルに呼び出し、金を脅し取って殺害した。

 加賀山死刑囚は00年7月、大阪市中央区の路上で中国人留学生の女性(同24歳)からバッグを奪って刺殺。取り押さえようとした男性(同34歳)にもけがをさせた。08年2月には、大阪市北区の商業施設のトイレで強盗目的で男性会社員(同30歳)を刺殺した。

 記者会見した谷垣禎一法相は「いずれも極めて残忍な事案だ。十分な審理を経た上で死刑が確定しており、慎重な検討を加えた上で執行した」と述べた。【伊藤一郎、近松仁太郎】


============================転載終わり。

私は死刑制度をテーマに、死刑囚と看守(刑務官)の日常を描いた、漫画「モリのアサガオ」原作のドラマを3年前に見ていたからか、
死刑囚の部屋ですが、"死刑囚の居室と同型の「単独室」"をリンクの画像から見ると、
「けっこう明るいんだな」という印象を持ちました。
あとは・・何と言っていいのか。分からないです。

13日朝の、私のツイートです。
谷垣法務大臣についての、朝日新聞記事について。


----------------------

「死刑」は日本の最高刑で、「死ぬこと」そのものが刑です。

自分が死刑制度に関心を持ってから、夫や友人と話したり(友人とはメールで)(しかしなかなかそのようなことを話せる人はいない、こういう空間でしか)、ネットや新聞などで日本の世情を見ると、
殺人の犯罪者であれ、その人間が「日本の国家権力に命を奪われる」という考えが希薄なのに気がつきました。以前の自分もそうでした。
例えば、1999年4月の山口光市の母子殺害事件。
少年といえど、なぜ死刑にならないのか。そんな風に考えて。日本が普通で世界が甘い、と。

でもそれは間違って考えであった、とある時気づきました。

私は、作家の辺見庸の著書が好きでよく読みましたが、(私が死刑囚に死刑が執行されるとその体がどうなるのか知ったのは辺見さんの著書によって、とは何度も書いたが)不思議に思っていたのは、辺見さんは殺人の被害者のことについては、ほとんど触れていないこと。
けれども、そこは自分でよく考えないとならない。
行き着いたのは、被害者・遺族に対する補償や生活のことは、国が支援しなければならないこと。それとは別に、殺人犯でも人権が存在すること。

それを考えると、現状の法律では、もちろん死刑は「刑」なのですが、
同時に、国家による殺人だとも、言えると思います。
日本国憲法第36条に、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」
という一文があります。
私は、今の絞首刑は、残虐だと思います。
その点では、死刑を今すぐ廃止すのは無理でも、
薬物注射など、できるだけ苦痛の少ない方法に変えた方がいいのでは、
と、思います。

この続き・・・まだ私は書きたいことがあるのですが、まとまりません。


犯罪の被害者になる、または、犯罪被害者の遺族になるということは
2013年11月14日 (木) | 編集 |
こんにちは。

一つ前の記事ですが、私の母のがん治療のことについて、一番重要な部分を(ほとんど大部分)誤って携帯電話から消してしまいました。
また、ぽつりぽつり、思い出したら書いていこうと思います。


----------------------

今日はカテゴリ:「死刑について」なのですが、書くのは久しぶりです。

ブログのリンクに加えさせていただいたので、紹介します。

『原田正治日誌、気ままに~、』
(ブログ副題に、「日常から~死刑廃止に向けて・・・・、」とあります)

原田さんのことを、私はこのブログで取り上げさせていただいたことがあります。
記事も読んでくださったと思います。
こちら→死刑がテーマのドラマ「モリのアサガオ」が10月18日スタート テレビ東京
この記事を書いたのは、2010年10月16日 (土) で、
今は、私はブログカテゴリに死刑についてを設けてありますが、その頃は「人の死は」というカテゴリ内に入っていて、死刑について書いた記事には読者の方からコメントもかなりいただいたのですが、もしも、記事を探していた方がいたら、これは発見できなかったかもしれないです。今頃、遅くなりましたが、申し訳ないです。

もしも「仇討ち制度」が復活したら
この記事は、2012年10月18日 (木)の私のブログ記事です。
おそらく、これ以降は書いていないかと自分では思います。
この記事の中より
転載。===============
自分一人で考えていても、ずっと、「もしも自分の家族が」「自分が遺族になった場合」と言う人の気持ちが、理解できないんですね。ずっと、です。考えていました。
===========
また、この記事にコメントをしてくれた読者さんへの私の返信を転載。
=============
「極刑にしてほしい」という遺族が「良い遺族」で、
「犯人を死刑にしないでくれ」、と訴えた遺族は、白い目で見られる。
・・・・
「被害者の身にもなってみろ」「執行を粛々と(言い方はきれいですが)」
などと言う人はいますが、
それは、「お前にはぜっったいに、更正の機会を与えないからな!」
という、メッセージでもあります。

私がもしも殺人による被害者(死んでしまっていますが)や遺族になったら、
まず、「なぜ殺したのか」を知りたい、と思います。

=============
という部分は、今でも変わっていないです。(文字色の部分)


自分の兄弟が、アメリカで犯罪に遭い、病院に運び込まれたが意識不明になりその後死亡した、という男性がツイッターでツイートしていて、私はリツイート(リツイートボタンで転載)したのですが、今はその方はアカウントは残っているものの、ログは残されておらず、つぶやいてはいません。

私のつぶやき、そして死刑制度についてリツイートしたものだけが、
ツイログに残されています。
もしよければ、ご覧下さい。
こちら→@upishi1970c 2013年01月13日(日)54 tweets

「私は日弁連で死刑廃止に取り組んでいる弁護士です。」
とおっしゃっている、櫻井光政さんという方のツイートです。
こちら→https://twitter.com/okinahimeji/statuses/290504912759042048

もう一つ、こちらを紹介します。
弁護士辻孝司オフィシャルブログ: 2012/11/24 死刑廃止への道~京都女子大学公開講座 11.24~
この方のブログの記事に、
「会場に、兄を強盗に殺された遺族の方が来ておられました。
事件からずっと犯人を憎み、死刑制度も当然だと思っていた。
でも、だんだんと死刑に対する考えが変わってきた。
そういう意見を言えないことがつらいと語っておられました。
とても重い言葉でした。」

と書かれていますが、私がツイッターで見かけた犯罪被害者遺族は、
「兄を強盗に殺された」というその方だと思います。


今日は、死刑について、
いろいろリンクしながら書きました。
死刑制度を考える上で、参考になれば、と思います。
私は、死刑制度は廃止するべきだと思っています。
これからも、私自身も考え続けていきます。



もしも「仇討ち制度」が復活したら
2012年10月18日 (木) | 編集 |
滝実法務大臣就任中、二回目の死刑執行12/09/28
死刑執行について書いたブログ記事について。12/10/01

これらのブログ記事の、続きを。

いつだったか、死刑制度の話を書いたときに、
「死刑の問題と量刑の問題とがごちゃまぜになっていることが混乱を招いているように思います。」(原文のままです)
というコメントをいただいたことがありますが、
今日は、そういうことはおいておきます。
死刑制度反対(今日は、そのものについては、書きません)の記事を書くと、
他のブログで取り上げている時や、2ちゃんねる等の掲示板でも散見しますが、
必ず出てくるのが、
「もしも自分の家族が殺されたら、犯人を殺したいと思う」
「もし自分が、遺族の立場でだったら、到底許せるものではない」
「もしも遺族ならば、自分でぶっ殺したい」
そんなような言葉です。

そういう気持ちは理解できなくもないのですが、私はやはり、自分自身の家族がそうなってみないと、他人のそういう言葉を見ていても、聞いても、本当の意味では、「そういう気持ちは分からない。いざとなったらそう思うかもしれないけど、『犯人をぶっ殺す』まではいかない」、としか、言いようがないです。

なぜ、「死刑制度の問題」(特に、制度存続に賛成ではなく反対の意見を表明した場合)で、
「もしも自分の遺族が殺されたら・・」というフレーズが出てくるのか、と、
9月28日に記事を書いて、それについていただいたコメントを読んで、その他に掲示板や他の人のブログも見たり、それ以来ずっと、考えてきました。なぜそういう人が多いのか、と。

自分一人で考えていても、ずっと、「もしも自分の家族が」「自分が遺族になった場合」と言う人の気持ちが、理解できないんですね。ずっと、です。考えていました。

一人で考えていても、同じところばかりを廻ってしまいます。

私の話はいつも暗くなりがちで、それに死刑のこととなると、その話題がテレビで流れている状態でもないと、夫には聞きにくい、と思いましたが、きのう、夜ご飯を食べている時に、「一般的に考えて、だよ」という断りを入れて、
自分がブログに書いた、
滝実前法務大臣のブログ記事やそれに続く記事への反応の話をしました。
そして、「ネットの掲示板や質問箱みたいなのでも、『死刑廃止論者の人って、自分の家族が殺されても死刑にしろって言わないのかね』、っていうのが出てくるんだけど・・。それに、『自分だったらぶっ殺す』という人もいるけど、こういうのはどう思う?」と私は夫に話しかけて(夫は、「人を殺せば、死刑でしょ」とよく言います。要するに死刑制度存続派だと私は見ているが)、そこで、思い切って、「大昔の『仇討ち制度』を復活させる」、ってのは、どう?」と、聞いてみました。

夫の、第一声。「仇討ち制度、あった方がいいと思うよ」
私は、とにかく人の意見が聞きたかったので、「うーん、そうか」(死刑制度存続派の夫のことだ、やっぱり、とは思った)と返事をしました。
さらに、夫。「でも、ただの『仇討ち制度賛成』、じゃない」 と言うのです。
私は、「それって、どういうことだろう?」と、さらに聞いてみました。

ここからは、夫が、私に話した内容です。

----------------

仇討ち制度っていうのは、遺族が、家族を殺した犯人を殺す、ってことでしょ。
だから、そういう制度があったら「犯人を殺す権利が与えられた」、ってわけ。
で、犯人を目の前にして、日本刀だののこぎりだの、チェーンソーだの、何でもいいから殺していい、ってことでしょ。
でも、実際にいざ、「さあ、殺していいですよ。権利なんだから」と言われて、殺せる人間っているか?
もしかしたら、被害者に猟奇的なことをしてよほど頭にきた場合は躊躇なく殺す、ってこともあるかもしれないけど、オレは、だいたいの人間は、そんなことは出来ないと思う。
で、殺したら殺したで、今度は、自分が殺人犯と同じ立場になるわけ。
自分はあいつを殺した殺した、ってなって、夜も眠れない日が続くわ。
家族を殺した犯人を自分が殺したはいいけど、今度は罪悪感にさいなまれるようになるんじゃない?自殺する人だっているかもしれん。
そういうことじゃん。
だから、オレは、一度そういう制度を作ってみたらいいと思う。
だからオレは、死刑反対論者が出てきた時にそれに対抗して、「じゃあ自分の家族が殺されても死刑反対なのかよ」とか、反射的に言ってるわけじゃない。
命には命ってそういうこんだろ(ことでしょ)。

----------------------

上の夫の話は、「ちょっともう一回ゆっくり言って」とメモを取りながら、
内容はほぼそのまま、私がつなげて書き起こした文章です。
(昔の「仇討ち」に言及している部分が正確ではないかもしれない)

想像以上に、夫が死刑制度について、
私よりもずっと真剣で具体的に考えているなぁ、と、驚きました。

重い話、暗い話ではありますが、避けては通れない、と、
自分では思っています。また、続きを書きます。