2014年11月16日 (日) | 編集 |
きのう4~5日ぶりに、辺見庸ブログを読みました。
辺見さんのあるひと言で、私は「ん?」と思いました。
辺見庸ブログ:
日録1―8 私事片々 2014/11/11~(2014/11/12の記事)
の中で辺見庸さんは、
========================ここから一部転載。
ただたんに在るだけの現実世界に、人間がただたんに在るだけというのは、おもえば、バカげている。ただたんに在るだけというのは、じつは酷薄なのである。ただたんに在るだけの現実世界には、仔細にみれば、なにか危ういものが刻々闌けてきている。それにたいし、ただ無害であるだけの(そう主観的におもいこんでいる)人間存在というのは、むしろ酷薄で冷酷であり、ほんとうはすこしも無害ではありえないのだ。ただたんに在るだけの民は、けっして無辜ではない。だんじて。無害で善なる民は、存在として、酷薄で冷酷なのだ。〈ひどく卑しいもの〉にこそ、みいだすべき自己存在のヒントがある。唐突だが、この点で、わたしは宮崎駿をいとう。その延長線上で、『時間』の「わたし」=堀田善衛のありようをしばしばいぶかる。〈悪〉の、〈善〉とみまがう多重構造が描ききれていないか、描くのを避けているかのようだ。結果、ニッポンはすくわれる。かれらは善の顔をした〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉であり、存在論的には〈ひどく卑しいもの〉よりも、より卑しいのではないか。妻子が日本兵に強姦され惨殺されたというのに、血の復讐ではなく、さかしげに「新しい価値」をかたり、マタイ受難曲を想う中国人の「わたし」というインテリは、たんに被害者をじにんする者または〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉であるがゆえに、〈ひどく卑しいもの〉なのであって、〈知的〉善面がだんだん鼻もちならなくなる。
======================転載ここまで。(太字部分は私による)
辺見さんはブログで、堀田善衛という人の作品:「時間」について語っています。
私は堀田さんの作品を読んだこともないのですが、
辺見さんの言う、〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉や、〈ひどく卑しいもの〉
はおおよそ分かるような気がしました。
私自身はおそらく、〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉に属するでしょう。
そして本題です。
辺見さんは文中で、「唐突だが、この点で、わたしは宮崎駿をいとう。」
と書いているのですが、確かに、唐突でした・・・。
このコラムの終わりのほうで、
宮崎駿ていどの口あたりのよい〈正義〉で、闌けてくるこの卑しさと戦えるか。
(※注:「闌(た)けて」=【闌ける】=まっ盛りになる。また、盛りを幾らか過ぎる。)
とも、書いています。
さらに、コラムの終わりのほう、抜粋。(色つき文字)
戦うからには、市民的安全圏をも戦線にするくらいの覚悟がなくてなにができるというのか。戦うからにはこちらも相応に傷つくしかない。このクニの卑しさはそうまで闌けてきている。どんどん悪擦れしてきている。
これを読むと、単純に「では、武器(本物の武器・兵器)を持ったり、空爆されることも覚悟で、ということ?」と辺見さんが考えていると思ってしまうが、このクニの卑しさはそうまで闌けてきている。どんどん悪擦れしてきている。(下線は私)というように、そのくらい酷いということを辺見さんは言いたいのだと思います。
そういう辺見さんからすると、宮崎駿さん映画というのは、映画に政治的メッセージ(環境破壊への警鐘・戦争反対)が隠れているように思えるのですが、それが"生っちょろく"見えるのでしょうか。
では、私は、宮崎駿さんのアニメ映画をどのように思っているかといいますと、
例えば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」は難しい。
(私が宮崎駿さんのアニメに、そんなに興味を持っていないせいもある)
そうはいっても、面白いと感じる作品もあります。
「魔女の宅急便」は、"少女の成長"だとか、評論家みたいな人は言っていますが、(そういう小難しいことは置いておいて)主人公の女の子は、あの男の子と友達になれてよかったと思いました。
また、何がテーマなのは分からないですが、絵と音楽が美しくて好きなのは、
「千と千尋の神隠し」です。
水の上を走る電車、女中さんたちが雑魚寝する寝室・・・窓が開け放たれた青い空・・
言葉では言い表せないですが、懐かしさで胸が締め付けられそうになる感覚。
忘れていた。「カリオストロの城」もいいですね。
ルパンかっこいいし、銭形警部の名言も!
私はブログタイトルに<「善」のブランド---「宮崎駿」なのか>と書きましたが、
どのアニメもそういう部分はあるでしょうが、
特に宮崎さんのは「ブランド」みたいになっているなぁ、とは思います。
「ありの~ままの~」の歌詞で有名な、「アナと雪の女王」。
私はアナ雪は見ていないですが、ネットでの感想などを見ていると、ではありますが、
宮崎アニメとアナ雪に通じるのは、「きれいごと」なのかな。
そんな風に感じます。
自分のことばかりですみません。
私が唯一、これは好きだというアニメは、「攻殻機動隊」です。
ストーリーがとても複雑なので理解するには大変でしたが、
連続テレビアニメでは、本編ストーリーとは関係のない「ミニスピンオフ」のような
話があります。
アンドロイドや機械の中に人間の脳が入っている。
その脳が焼き切られれば本当の死になるのですが、
そういうことに関連して悲しい話や、何ともいえない気分になる話もあります。
辺見さんのあるひと言で、私は「ん?」と思いました。
辺見庸ブログ:
日録1―8 私事片々 2014/11/11~(2014/11/12の記事)
の中で辺見庸さんは、
========================ここから一部転載。
ただたんに在るだけの現実世界に、人間がただたんに在るだけというのは、おもえば、バカげている。ただたんに在るだけというのは、じつは酷薄なのである。ただたんに在るだけの現実世界には、仔細にみれば、なにか危ういものが刻々闌けてきている。それにたいし、ただ無害であるだけの(そう主観的におもいこんでいる)人間存在というのは、むしろ酷薄で冷酷であり、ほんとうはすこしも無害ではありえないのだ。ただたんに在るだけの民は、けっして無辜ではない。だんじて。無害で善なる民は、存在として、酷薄で冷酷なのだ。〈ひどく卑しいもの〉にこそ、みいだすべき自己存在のヒントがある。唐突だが、この点で、わたしは宮崎駿をいとう。その延長線上で、『時間』の「わたし」=堀田善衛のありようをしばしばいぶかる。〈悪〉の、〈善〉とみまがう多重構造が描ききれていないか、描くのを避けているかのようだ。結果、ニッポンはすくわれる。かれらは善の顔をした〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉であり、存在論的には〈ひどく卑しいもの〉よりも、より卑しいのではないか。妻子が日本兵に強姦され惨殺されたというのに、血の復讐ではなく、さかしげに「新しい価値」をかたり、マタイ受難曲を想う中国人の「わたし」というインテリは、たんに被害者をじにんする者または〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉であるがゆえに、〈ひどく卑しいもの〉なのであって、〈知的〉善面がだんだん鼻もちならなくなる。
======================転載ここまで。(太字部分は私による)
辺見さんはブログで、堀田善衛という人の作品:「時間」について語っています。
私は堀田さんの作品を読んだこともないのですが、
辺見さんの言う、〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉や、〈ひどく卑しいもの〉
はおおよそ分かるような気がしました。
私自身はおそらく、〈ふつうにナニゲにすこし卑しいもの〉に属するでしょう。
そして本題です。
辺見さんは文中で、「唐突だが、この点で、わたしは宮崎駿をいとう。」
と書いているのですが、確かに、唐突でした・・・。
このコラムの終わりのほうで、
宮崎駿ていどの口あたりのよい〈正義〉で、闌けてくるこの卑しさと戦えるか。
(※注:「闌(た)けて」=【闌ける】=まっ盛りになる。また、盛りを幾らか過ぎる。)
とも、書いています。
さらに、コラムの終わりのほう、抜粋。(色つき文字)
戦うからには、市民的安全圏をも戦線にするくらいの覚悟がなくてなにができるというのか。戦うからにはこちらも相応に傷つくしかない。このクニの卑しさはそうまで闌けてきている。どんどん悪擦れしてきている。
これを読むと、単純に「では、武器(本物の武器・兵器)を持ったり、空爆されることも覚悟で、ということ?」と辺見さんが考えていると思ってしまうが、このクニの卑しさはそうまで闌けてきている。どんどん悪擦れしてきている。(下線は私)というように、そのくらい酷いということを辺見さんは言いたいのだと思います。
そういう辺見さんからすると、宮崎駿さん映画というのは、映画に政治的メッセージ(環境破壊への警鐘・戦争反対)が隠れているように思えるのですが、それが"生っちょろく"見えるのでしょうか。
では、私は、宮崎駿さんのアニメ映画をどのように思っているかといいますと、
例えば、「風の谷のナウシカ」や「もののけ姫」は難しい。
(私が宮崎駿さんのアニメに、そんなに興味を持っていないせいもある)
そうはいっても、面白いと感じる作品もあります。
「魔女の宅急便」は、"少女の成長"だとか、評論家みたいな人は言っていますが、(そういう小難しいことは置いておいて)主人公の女の子は、あの男の子と友達になれてよかったと思いました。
また、何がテーマなのは分からないですが、絵と音楽が美しくて好きなのは、
「千と千尋の神隠し」です。
水の上を走る電車、女中さんたちが雑魚寝する寝室・・・窓が開け放たれた青い空・・
言葉では言い表せないですが、懐かしさで胸が締め付けられそうになる感覚。
忘れていた。「カリオストロの城」もいいですね。
ルパンかっこいいし、銭形警部の名言も!
私はブログタイトルに<「善」のブランド---「宮崎駿」なのか>と書きましたが、
どのアニメもそういう部分はあるでしょうが、
特に宮崎さんのは「ブランド」みたいになっているなぁ、とは思います。
「ありの~ままの~」の歌詞で有名な、「アナと雪の女王」。
私はアナ雪は見ていないですが、ネットでの感想などを見ていると、ではありますが、
宮崎アニメとアナ雪に通じるのは、「きれいごと」なのかな。
そんな風に感じます。
自分のことばかりですみません。
私が唯一、これは好きだというアニメは、「攻殻機動隊」です。
ストーリーがとても複雑なので理解するには大変でしたが、
連続テレビアニメでは、本編ストーリーとは関係のない「ミニスピンオフ」のような
話があります。
アンドロイドや機械の中に人間の脳が入っている。
その脳が焼き切られれば本当の死になるのですが、
そういうことに関連して悲しい話や、何ともいえない気分になる話もあります。
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