2009年08月04日 (火) | 編集 |
インターネットで、ではあるが、ハンセン病のことについていろいろ調べてみた。
関係する文章を読みながら、あまりの悲惨さと、
人間の尊厳を蹴散らかす「らい予防法」という法律の酷さに絶句する。
2009年4月18日の朝日新聞に載っていた、”ハンセン病を理由にした最後の堕胎実施が1996年(「らい予防法」が廃止された年)に行われたということを、私はノートにメモしていて、記事自体は無いのだが気になっていたので、昨日の自分のブログ記事のこともあり、ネットで見てみた。
(堕胎された一部の胎児が、ホルマリン漬けにされて保存されていることは以前から知っていたが、
堕胎されてもまだ生きている子どもを看護婦が窒息死させた、という記事を読んだ時は、にわかには信じられなかった。テレビで証言している人の顔を見て、涙が出てきた)
「財団法人日弁連法務研究財団」という団体が厚生労働省から委託されて、2005年3月にまとめた、
『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の年表によると、
(この年表はまた違う団体--おそらくハンセン病患者か支援団体--が原本を引用したもの)
1995年 優生保護法のハンセン病を理由とした最後の断種実施
1996年 優生保護法のハンセン病を理由とした最後の堕胎実施
と、書かれている。
私は学生の時に、「らい予防法」について習った。
あまり関心は無く、「そんな怖い伝染病があるんだ」くらいにしか捉えていなかった。
しかし、1996年の「らい予防法廃止」の時に、1943年にはアメリカで「プロミン」という薬がハンセン病に効果があるということが確認されていたと知り、
それを知りながら政府が1996年までこの法律を生かしておいた(というか放置とも言えるか)ことに驚く。
そして、これはただ事じゃない・・と、事の重大さにそこで初めて気がついた。
一つ前のブログ記事で取り上げた、「ナウル」のことも含まれているのかいないのか正確ではないが、
下記のHPに、太平洋戦争時の、旧日本軍が南太平洋の島々のハンセン病患者に対していかに非道な扱いをしたか、記述がある。
→『滝尾英二的こころ』「ミクロネシアの四箇所のハンセン病収容所」へハンセン病患者を隔離収容した日本政府の責任とその謝罪を求める 2005年10月15日(金)
また、最新の『滝尾英二的こころ』は、
こちらです→『滝尾英二的こころ.part2(第二部)』
このHPは、ハンセン病問題や人権問題のことなどについて、
詳しく、分かりやすく書かれている、と思いました。
関係する文章を読みながら、あまりの悲惨さと、
人間の尊厳を蹴散らかす「らい予防法」という法律の酷さに絶句する。
2009年4月18日の朝日新聞に載っていた、”ハンセン病を理由にした最後の堕胎実施が1996年(「らい予防法」が廃止された年)に行われたということを、私はノートにメモしていて、記事自体は無いのだが気になっていたので、昨日の自分のブログ記事のこともあり、ネットで見てみた。
(堕胎された一部の胎児が、ホルマリン漬けにされて保存されていることは以前から知っていたが、
堕胎されてもまだ生きている子どもを看護婦が窒息死させた、という記事を読んだ時は、にわかには信じられなかった。テレビで証言している人の顔を見て、涙が出てきた)
「財団法人日弁連法務研究財団」という団体が厚生労働省から委託されて、2005年3月にまとめた、
『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』の年表によると、
(この年表はまた違う団体--おそらくハンセン病患者か支援団体--が原本を引用したもの)
1995年 優生保護法のハンセン病を理由とした最後の断種実施
1996年 優生保護法のハンセン病を理由とした最後の堕胎実施
と、書かれている。
私は学生の時に、「らい予防法」について習った。
あまり関心は無く、「そんな怖い伝染病があるんだ」くらいにしか捉えていなかった。
しかし、1996年の「らい予防法廃止」の時に、1943年にはアメリカで「プロミン」という薬がハンセン病に効果があるということが確認されていたと知り、
それを知りながら政府が1996年までこの法律を生かしておいた(というか放置とも言えるか)ことに驚く。
そして、これはただ事じゃない・・と、事の重大さにそこで初めて気がついた。
一つ前のブログ記事で取り上げた、「ナウル」のことも含まれているのかいないのか正確ではないが、
下記のHPに、太平洋戦争時の、旧日本軍が南太平洋の島々のハンセン病患者に対していかに非道な扱いをしたか、記述がある。
→『滝尾英二的こころ』「ミクロネシアの四箇所のハンセン病収容所」へハンセン病患者を隔離収容した日本政府の責任とその謝罪を求める 2005年10月15日(金)
また、最新の『滝尾英二的こころ』は、
こちらです→『滝尾英二的こころ.part2(第二部)』
このHPは、ハンセン病問題や人権問題のことなどについて、
詳しく、分かりやすく書かれている、と思いました。
2009年08月04日 (火) | 編集 |
2008年12月7日の山梨日日新聞社会面掲載の記事。
共同通信社から配信されている。
読んでいるとあまりにも重く、自分のブログで取り上げていいのか、
「ネタ」なんかにしていいのか、と、切り取った記事をたまに出しては眺め、
考えていた。
考えていたら年を越して更に8月にもなってしまった。
「私はいろんな事を”ネタ”にして書いていて・・」と以前私は自分のブログのことを気にしていた時があったが、ある人が「たとえネタでも、無関心よりはいいと思う」とコメントをくれた。
そのことを思い出して、書こうと思った。
2008年12月7日付山梨日日新聞社会面より(共同通信社配信)
旧日本軍のナウル・ハンセン病39人砲撃
患者虐殺の記録発見
オーストラリア公文書館所蔵 二重の加害浮き彫り
太平洋戦争中に日本が占領した南太平洋の環礁ナウルで1943年7月、旧日本海軍の警備隊が現地のハンセン病患者39人をボートで海上に連れ出し、砲撃や銃撃を加え虐殺していた事件の詳細な実態が(12月)6日、オーストラリア国立公文書館に所蔵されているBC級戦犯法廷の裁判記録などから明らかになった。
ナウルでハンセン病患者が旧軍に殺害された事実は、地元住民や戦後ナウルを統治した関係者の証言で断片的に指摘されていたが、それを具体的に裏付ける公文書の発見は初めてと見られる。
虐殺に関与し終身刑を言い渡された元海軍兵の法廷証言録も含まれており、患者への偏見と民間人の殺害という二重の加害を浮き彫りにしている。
関東学院大の林博史教授(現代史)が同公文書館やオーストラリア戦争記念館で先月(2008年11月)発見した。
判決言い渡しのために48年11月29日から12月3日に香港で開かれた裁判の判決記録や被告の証言録によると、ナウルに駐屯した海軍第六七警備隊の副長=別件で死刑=は43年7月9日ごろ、米軍の空襲で隔離中の患者が逃亡するのを恐れ、部下の兵曹長に殺害を命令。
兵曹長は別の島に新設された収容所に移送すると偽り患者39人をボートに乗せ、海軍船でえい航し殺害することを計画した。
計画に基づき、兵士4人と軍属の船員8人が乗り組んだ海軍船が患者のボートを海上に誘導。
砲撃でボートを沈没させ、水死を逃れた患者は射殺した。
事件に関与した兵士や軍属の大半が戦死する中、生き延びた兵曹長と砲撃を行った二曹、見張り役の一等水平が訴追され、兵曹長と二曹は終身刑を言い渡された。
犠牲となった患者は11~69歳で、男性24人、女性15人。戦前ナウルを委任統治したオーストラリアが地元住民の証言を元に捜査したが、旧軍上層部がどこまで把握していたかは解明できなかった。
::::::::::::::::::::::::::::::::以上、山梨日日新聞に掲載されていた記事を全文転載しました。
下線は私が引きました。また、読みやすいように段落をつくりました。
このことだけでも私は衝撃を受けたが、ネットで調べてみたらさらに、太平洋戦争時のほかの占領地区にも現地のハンセン病患者収容施設があったという。私は、知らなかった。
共同通信社から配信されている。
読んでいるとあまりにも重く、自分のブログで取り上げていいのか、
「ネタ」なんかにしていいのか、と、切り取った記事をたまに出しては眺め、
考えていた。
考えていたら年を越して更に8月にもなってしまった。
「私はいろんな事を”ネタ”にして書いていて・・」と以前私は自分のブログのことを気にしていた時があったが、ある人が「たとえネタでも、無関心よりはいいと思う」とコメントをくれた。
そのことを思い出して、書こうと思った。
2008年12月7日付山梨日日新聞社会面より(共同通信社配信)
旧日本軍のナウル・ハンセン病39人砲撃
患者虐殺の記録発見
オーストラリア公文書館所蔵 二重の加害浮き彫り
太平洋戦争中に日本が占領した南太平洋の環礁ナウルで1943年7月、旧日本海軍の警備隊が現地のハンセン病患者39人をボートで海上に連れ出し、砲撃や銃撃を加え虐殺していた事件の詳細な実態が(12月)6日、オーストラリア国立公文書館に所蔵されているBC級戦犯法廷の裁判記録などから明らかになった。
ナウルでハンセン病患者が旧軍に殺害された事実は、地元住民や戦後ナウルを統治した関係者の証言で断片的に指摘されていたが、それを具体的に裏付ける公文書の発見は初めてと見られる。
虐殺に関与し終身刑を言い渡された元海軍兵の法廷証言録も含まれており、患者への偏見と民間人の殺害という二重の加害を浮き彫りにしている。
関東学院大の林博史教授(現代史)が同公文書館やオーストラリア戦争記念館で先月(2008年11月)発見した。
判決言い渡しのために48年11月29日から12月3日に香港で開かれた裁判の判決記録や被告の証言録によると、ナウルに駐屯した海軍第六七警備隊の副長=別件で死刑=は43年7月9日ごろ、米軍の空襲で隔離中の患者が逃亡するのを恐れ、部下の兵曹長に殺害を命令。
兵曹長は別の島に新設された収容所に移送すると偽り患者39人をボートに乗せ、海軍船でえい航し殺害することを計画した。
計画に基づき、兵士4人と軍属の船員8人が乗り組んだ海軍船が患者のボートを海上に誘導。
砲撃でボートを沈没させ、水死を逃れた患者は射殺した。
事件に関与した兵士や軍属の大半が戦死する中、生き延びた兵曹長と砲撃を行った二曹、見張り役の一等水平が訴追され、兵曹長と二曹は終身刑を言い渡された。
犠牲となった患者は11~69歳で、男性24人、女性15人。戦前ナウルを委任統治したオーストラリアが地元住民の証言を元に捜査したが、旧軍上層部がどこまで把握していたかは解明できなかった。
::::::::::::::::::::::::::::::::以上、山梨日日新聞に掲載されていた記事を全文転載しました。
下線は私が引きました。また、読みやすいように段落をつくりました。
このことだけでも私は衝撃を受けたが、ネットで調べてみたらさらに、太平洋戦争時のほかの占領地区にも現地のハンセン病患者収容施設があったという。私は、知らなかった。
| ホーム |