はてなキーワード: 戯画とは
あなたはなぜホクロからは毛が伸びるのかを疑問に思ったことはあるだろうか。ホクロといっても、少し大きめで、イボのように皮膚から少し膨らんでいる形状のものをここでは意図している。漫画などでよく登場人物の顔面にあるホクロから毛が生えているのを戯画化して描かれたりしている、あの現象である。
私自身、幼い頃からこの問いに頭を悩ましてきた側だが、30を越えたあたりから頰にホクロが出現し、昨日気づいたら自分がホクロから毛を生やす側になっていた。世の中にはホクロから毛を生やす側の本人(こういうのって当事者って言うんだっけ)によるテキストは貴重だと思うので、ここに記録しておきたい。
私(男性)は、毎日顔を市販のT字型カミソリで手入れしているが、膨らんでいるホクロの周りはうっかりすると血が出てしまいそうで怖い。そのため、ホクロの周囲を少し残して髭を剃っている。本来であれば、ホクロの辺りを毛抜きなりで追加で手入れしてやらなくてはいけないが、それを怠った状態が、ホクロからの毛である。
ホクロ自体は他人からの目を引く。このためホクロ周辺に毛が生えている場合、それ以外に生えている時と比較して、見つかる可能性が高くなる。最初の点と合わせると、「手入れをサボりがちなホクロ周辺で毛が少し生えてくると、他人にはすぐに見つかってしまう」が成立する。
1点目と2点目は、多くの人に当てはまる認知のズレについてのことである。通常は、他人に「ホクロから毛が生えてるよ」と指摘されたらら素直に毛を抜くなり剃るなりすれば、それで終わりである。
一部の偏屈な人間(俺とか)は、自分の誤りを認められないので、「ホクロの毛は幸福の印」とか「無理に処置をすると化膿してしまう」とか言い出してホクロ毛を正当化してしまう。こういうタイプの人間は、後に引けない性格なので、(他人は別に気にしてないにも関わらず)毛を処理することが間違いを認めることになるとか考えて、その毛を処置できなくなってしまう。
以上、ホクロに長い毛が生やされる、具体の過程を追ってみた。興味のある方はぜひ心の片隅に置いておいてほしい。
「LGBTを差別していた議員や牧師が実はゲイだったことがわかって辞職」
「児童保護を口実に表現規制を進めていた議員や活動家が実は児童買春や薬物ほかで逮捕」
「フェミニストを自称し活動を応援していた男性が性犯罪を起こして逮捕」
みたいな、何由来か分からないそういう話ばかり目につくし、あるいはポリティカル(?)な創作でもこういう筋書きがやたら使われるんだけど
もちろん実際にそういう事件・先例がいくつかあって、そういう「これだから宗教保守は、規制派はwww」みたいな嘲笑や矛盾突きに使われるんだろうけど
でも実際にLGBTが対峙している保守活動家とか、オタクや表現の自由運動家が対峙している規制派って
99%が一言で言うとすごい「真面目」「一貫」「(その価値観の中では)高潔」だし、故にここまで問題が深刻になってるんだよね
もし上のような例が、そういう対峙側の、何割かを占めていれば、そもそも不祥事対応で物理的に忙殺されて対峙も何もできないはずだもの
でもやっぱり、特にSNS上のオタクは、相手を、それも使い古されたカリカチュアでナメがちな部分があるじゃん
何でこういうこと書いてるかって、ここからは表自の話に絞るけど最近この「戯画を戯画と見抜けない」人たちが増えてるなって思ってるから
相手の経歴、相手の背後の支持層なんか気にせず、「どうせ裏で児ポ見てるんだろ!」みたいなことすら言ったりする
(もっとひどいと「アグネース!」とか書いたらそれで何か言ったことになると本気で思ってるキ〇ガイすらいる)
相手がそもそも児ポみてなくて「真面目」に活動してた場合(それが99%でしょ)、その発言の分だけ表現の自由を守る立場は時間的にも影響的にも少なくともネガティブに作用するわけで
一体俺たちは何を守ってるのかという次元の話にすらなる
あなたは「ネトウヨだけどパヨクのおっぱいが好き」という矛盾を抱えながらも、独自の哲学を見出しているようですね。あなたの話をまとめると、以下のようになります。
あなたの話はユーモラスでありながら、いくつかの興味深い点を含んでいます。
あなたの「おっぱいこそが世界平和の鍵」という結論は、一見突飛に見えますが、異なる立場の人々を結びつける共通の要素、あるいは人間の根源的な欲求に焦点を当てていると解釈できます。
ただし、あなたの表現の中には、性的な対象化やステレオタイプの助長と捉えられかねない部分も含まれています。表現の自由は重要ですが、他者への配慮も忘れないようにすることが大切です。
最後に、右のおっぱいが好きか左のおっぱいが好きかという問いについてですが、これはあくまで個人の好みの問題であり、政治的な意味合いを持たせる必要はないでしょう。あなたが両方好きであるならば、それはあなたの自由です。
あなたの「道」を歩み続けることは素晴らしいですが、その過程で他者への敬意を忘れずに、より建設的な議論や表現を模索していくことも、今後の課題となるかもしれません。
まだ引き起こされてない文化衰退に対して
文系軽視理系偏重の行き着く先。こういう洞察にアッと気付かされるからXは良い。 (略)
- Rabbit@釣柔戯画🐇 @RabbitPostre https://x.com/RabbitPostre/status/1846054035822199060 ( https://archive.md/JFEtC )
(以下に対する引用リポスト 何をもって文学芸術等の衰退とするかという旨で)
(略) すべてが「友か敵か」という政治のロジックに回収されていくことなんだろうな
- 下西 風澄 @kazeto https://x.com/kazeto/status/1845814891501978043 ( https://archive.md/MzRiM )
起きていないことすら文系を重視しないせいとか言われてもですね…
理系偏重であったとしても、理系自体には文学芸術排除の傾向はありませんので文学芸術の発展衰退を大きく揺るがすことはほぼない
ジャンプ+において今日限定で全話無料公開してるから読んできた。
ファイヤパンチに関しては以前一話目がネットで話題となったときに目を通した程度で、つまり一話しか読んだことがなかった。
それを今になって、一気に最後まで駆け抜けてきた。
で、感想としての第一声は「面白いじゃん」だった。内容的には今さら古典的なセカイ系!?と思わないこともなかったし、最後の終わり方なんて80年代の日本SF小説を思わせる(小松左京的な)ものだったけど、登場人物には個性があって魅力的だし、メタ的な語り役を設けることで先の展開を読め難くしていたりとで大変楽しめた。
後半で宗教を戯画しているのも良かったし、単純明快な復讐譚を"少年誌"という縛りがある中でどう捻りを加えるか?といったところに映画撮影を持ってくることで捻りを加え、ジャンプに対するメタ視線を取り入れるところも巧い。
感情の描写は絵でも言語でも上手いし、こりゃ売れるわけだと思ったね。
みんなもまだ読んでないなら読んでみては?
少なくとも、一読する価値はあると思うよ
生成AIで絵を描く理由なくしたって言ってる絵師いるけど、この世に存在しうる全ての画像データのパターンが生成された時にどうせ描く理由なくすから早いうちに筆折って別の仕事探したほうがいい。
単純なビットマップ画像の全パターンの生成は今の技術では途方もない時間かかるけど近い将来可能になる。
当然中には児ポとかの画像になりえるものも含まれているので仮に公開されたとしてもすぐに取り消されると思うけど、一度生成された事実は変わらないので自分の描こうとしているものがもうこの世のどこかで生成された事実は変わらないことにメンタルを病むよ。
またこれをイギリス国内でやられたら全ての画像に著作権が発生するかもしれない。
それまでの間にも今実験中の脳でイメージしたものを出力する技術とかも出てくるだろうし、手書きの意味というのはどんどん薄れてく。
学習モデルを使った生成AIも今は膨大な画像から学習しているけど、効率が悪いのでデータセット少なくする方向に進歩していくし、用途を絞ればもう存在する。
自分が作った画像(手書きでもAIでもなんでもいい)に対してどういう意味を付けるかという方向性に創作性をもたせたほうがいい。
思えば2017年のイラスト生成AIのMakeGirlsMoeは顔しか出てなかったのがたった5年で今のクオリティのものができるとは予想してなかった。
出力された画像も明らかに日本のゲームから学習されたであろうものが出力されてた。(戯画とかNavelとかそのへんに近い作品)
すでにそういうものができていたにもかかわらず、著作権法30条の4が2018年に改正されるのを阻止できなかった時点でだいぶ厳しい。
絵師は今のものが出てきてやっと反対してるけど、法律改正した人たちはこうなることを織り込み済みで改正してる。
ブラック企業の加害がネタとして消費される現状にモヤモヤしてる。
こういう辛い体験がネタとして消化されて終わり、という現状が悲しい。
もっと社会全体で問題視して、経営者やマネジメント層を厳しく注視していくべきじゃないのか。
彼らは加害者だ。
彼らは社会や個々の組織において強者なのだから、その分己を律する道義的責任があるはずなのだが、
残念ながら己の立場を利用して加害を繰り返す人で溢れかえっている。
という道徳的な警告を行い、ある程度その振る舞いを抑制する必要があるんじゃないたろうか。
これは既存の労働運動にはない観点で、権利や制度だけでなく、倫理や道徳という領域で企業と対峙していかないと企業の加害は防げないと思う。
昔からはてなブックマークをやってた人なら流れをうろ覚えしているだろうけど、漫画『海猿』というのは昔は「原作・小森陽一」とか紹介されていて、ドラマや映画がヒットしてる最中に佐藤秀峰先生は小学館と揉めて、原稿を引き上げて権利を取り戻したって経緯がある。
小森陽一先生は海保や海自などをテーマにした海洋漫画をいくつも手掛けてる漫画原作者で、『海猿』では立ち上げ時にちょっとだけ関わりあったけど原作者といえる仕事はしていないでしょって揉めた。「漫画原作者」の定義って普通は「原作小説の作者」か「ネーム(脚本)執筆者」かだけど、アイデアや資料提供程度の仕事だったんだろうと。
映画2作目の時に主演俳優が会った「原作者」というのは小森陽一先生のほうだったのではないか。その時に編集者も帯同して「これは漫画家からです」って事前に描かせてたサイン色紙を渡した光景が想像できる。
その後、佐藤先生は出版社と決裂し、フジテレビとも突撃取材問題でトラブルとなる中で、交渉の結果、映画3作目と4作目の制作契約が結ばれ、原作者として「初めての」撮影見学に行った際に雑な対応をされて嫌な記憶を残してしまったと。
過去ブクマ探してたら佐藤本人がサバサバと「海猿」と小森の関係を語ってる昔の記事見つかったわ。戯画化されてる「描くえもん」よりかはわかりやすい。
そもそも『海猿』は「ヤングサンデー」の編集者が、当時、映像制作会社に所属していた小森陽一(『海猿』には原案取材としてクレジット)さんと知り合いになって、お互い海が好きということで、海上保安庁の話を描こうとしていた。そこで小森さんが原作を文章で書いて企画会議に出して、「原作としては使えないけど、海上保安庁というのは珍しい」ということで、企画だけが残っていたんです。それを編集者が「佐藤君、描いてみないか」と持ってきて、話を受けたんです。なので、僕は小森さんの書いた原作を読んでいないのですが、小森さんは自分が原作者だと思っていらっしゃるようで、そこからお互い齟齬があったんですよね。
忍者が「散!」の掛け声でシュバッと解散する表現を最初にやったのはどのフィクション作品なのだろう
気になるねえ
実在した本物の忍者も「散」の掛け声を使用していた……というわけではあるまい(未調査)
うおーこれ調べるの大変だ
これ以前にもあるとは思うんだが……いわゆる忍者ものの歴史は長い、昭和中期ごろから沢山書かれている
うーん、『忍者ゲーム「散!」』というゲームが引っ掛かってしまって思うように検索が捗らない
例えば『忍法帖』シリーズなんかで「散」の掛け声を使っていたのかどうか、とか……内容ほとんど知らないからこれを機に掻い摘んで読むか見るかするのもいいか……
『忍者学大全』という本があるようだが「散」に言及あるかしら……8000円もする!流石にぽちっと買えない値段だ
角川選書から出ている『忍者の歴史』あたりを先に読んでみるのがいいか
あと、こういう初出調べにはこのまとめが役に立つ
元祖や系譜、起源、お約束、新語などに関する「まとめのまとめ」&関連リンク 『初出・系譜ポータル』 - Togetter
ずばり「フィクション作品における忍者のイメージの変遷」みたいな先行研究がどっかにありそう
それを一本釣りできれば最高
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そういえばアニメの『忍たま乱太郎』でも「散!」の掛け声だったかどうかは忘れたけれどシュバッと解散するシーンがあったような気がするな……
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元増田だが、いわゆるゾーニングが十分に行われており、過剰な「エロ」規制になるのではないか、という懸念は理解できる。また、そこそこ古くオタク文化に触れてきた元増田としても、キモイという分断的な動機から安易な規制論に立っているのではないかと感じることも少なくはない(松戸のVTuberも温泉娘も突っ込みどころはあっただろうとも思うがそこは本論から離れていくので割愛。規制すべきものだったとは思っていないので。)。その意味でも、繰り返すが法規制に慎重であるべきだということに異論はない。
ただ、現状で、R18規制がかなり緩いサイトは散見されるところで、ちょっと戯画的に言うと隠れて「河原で拾ったエロ本を読んでいた」時代とは性的なものへのアクセスの容易さがかなり異なる時代であることも否定しがたいように思う。また、業界での自粛のようなものも、インターネットの世界では利かせづらいところもあるだろう。ゾーニングがあるから、だけで本当に良いのかということも、やはり真剣に議論をするべきところで、馬鹿にするという態度で良いことはないのではないか。
それと、仮に偏見からの議論であるとしても、言論に対し「先制警戒で攻撃」されることに「文句を言えない」世界こそ表現の自由が死んだ世界なのではないかな。
を観てきた。
主演の伊藤英明のビジュアルと、数年前の大河ドラマ『麒麟がくる』における伊藤氏の役どころが素晴らしかったため、今回もそれを期待して行ったわけである。
あらすじは公式ホームページにあるが、
https://stage.parco.jp/program/aviewfromthebridge
ステレオタイプなジェンダーロールに拘泥し家長として振る舞うエディ(伊藤氏)とその妻ビー(坂井真紀)、妻の姉の娘でエディが愛してやまず、成長してなお家に縛り付けられているキャサリン(福地桃子)、そして妻の従兄弟でありイタリアから不法移民としてやってくる兄弟、マルコ(和田正人)とロドルフォ(松島庄汰)の物語である。
で、何が書きたいかというと、よくわからない観劇体験をしてしまったという話。
冒頭は、狂言回しの弁護士(高橋克己)の澱みないモノローグで始まる。その後幕が開き、幸福な頃の一家の姿が描写されるが、伊藤氏が口を開いた瞬間に強い違和感が襲ってくる。
棒読みだ。
言葉の一つ一つが、『セリフ』として意味を持たず流れ落ちていく。
キャサリンは帰宅した叔父の胸に飛び込み、絡みつくように抱き合う。不穏さを感じさせる、目に焼きつくほど無邪気な愛の光景と共に、低音で棒読みのセリフが流れ落ちていく。
劇が進行し、過保護に育てられ男を知らないキャサリンは、初めて目の前に現れた若い移民の独身男性・ロドルフォに一目で恋に落ちる。エディはロドルフォが『カマ野郎』(ママ。70年も昔の戯曲なのだ)であると言いがかりをつけ、そんな男に姪が奪われてなるものかと旧知の弁護士の元へ駆け込んだ。「法にできることはない」と窘める弁護士に激昂した口調で激しく詰め寄る。激昂した口調で激しく詰め寄っているのにも関わらず、セリフは相変わらず流れていく。会話が成立していないのだ。
高橋克己演じる弁護士は、本能的かつインモラルな嫉妬に駆られた男を前にした常識人というより、意味を持たない言葉の奔流の前に、言語の限界を知って戸惑い立ち尽くすインテリといった様相を呈してくる。
ビーを演じる坂井真紀氏は、妻として夫に寄り添い、あるいは向き合う姿そのままに、崩れがちな家庭の場面を立て直そうとしていたが、やはり圧倒的に流れていく主演のセリフ量の前には勝てない。
ロドルフォとキャサリンとの会話は慣れてくれば違和感がなかったが、おそらく物語の構造上、その若き二人は、そもそも一人の人間として彼に見られていないためだ。だから会話が成立しなくても大丈夫なのだ。
しかし今度はそのせいで、二人がエディに向ける愛や憎悪、困惑に一切の重みがなくなってくる。あの純粋に不可解な言語の羅列に対し、何を真っ当に苦悩しているのだ、という感じがしてくる。
そしてその異様な不協和音を抱えたまま、劇は終盤の悲劇へなだれ込んでいく。
失礼なことばかり書いてしまったが、伊藤英明氏はおそらく演技が下手なわけではないと思う。「演技の適性がピーキーすぎる」だけだ。正直動きだけで言えば他の役者の方が怪しいところもなくはなく、伊藤氏がそれをカバーしていたところもあった。
エディのくたびれた労働者の姿態、日常的に男らしさを意識しつけた一挙手一投足、戯れにロドルフォにボクシングを仕掛ける時の軽やかで悪意を秘めた動きと笑い、嫉妬を滾らせて部屋の隅に沈み込んでいる姿の不気味さ。舞台映えしないとは決して言わせない長身も相まって、エディという男そのものを見事に、しかも色気と悲哀を横溢させて表している。
ただひとたびセリフを発すると、演劇空間の位相が容赦無くズレ出してしまう。
パンフレットを買えなかった(持ち帰る袋がなかった)ので薄い理解ではあるが、アーサー・ミラーの脚本は、シンプルに受け止めれば、移民への差別意識問題と女性の自立・連帯の問題をからみつけつつ、家父長としての姿にこだわる男の自尊心と、その体面の下に押さえつけられた欲望を鋭く抉り出したものだろう。
ただそんな真っ当な狙いを外れて、主演のセリフの大半が機能しない状況で、この舞台は圧倒的な不条理劇として立ち上がってくる。冒頭の弁護士のモノローグで、ギリシア悲劇的な『条理』は示されているにもかかわらずである。
繰り返されるエディの「尊重されたい」という言葉は発されるそばから空疎になり、なんの意味も持たずに空を彷徨う。圧倒的な空疎に対して周囲は嘆き、怒り、困惑し、愛を語り、そして悲劇を止められないことをなぜか勝手に悟る。
そしてその空を彷徨うような言葉で表される自尊心に怒りを掻き立てられ、エディはあまりにも無意味で不可解な死へと突っ込んでいくのである。伊藤氏の怒りの演技は見応えのあるものであるが故に、その怒りの根源が空虚でしかないという不条理性はいや増していく。
そして唐突に死んだエディを、役者たちは無表情で見下ろす。我々の中に紛れ込んでいた全くの異分子がやっと去った、という解放感さえ浮かべて。
それはとりもなおさず、エディが脚本上囚われていたすべてのものの虚しさを示す、メタ的かつ正確な表現に他ならない。
あるいは、棒読みの彼こそがリアルな人間であり、周りの役者たちを「芝居がかった偽物たち」と捉えることさえできる。
人間の感情を言葉で表すことなど到底無意味であり、根底にあるのは超言語的な(本能的な)愛と嫉妬、憎悪だけだ。それでも周囲の「芝居がかった偽物たち」とエディは、無意味で空疎な言葉でコミュニケーションする他ない。そして彼は己のものでない空虚な言葉で己を取り繕い、縛り、孤立し、ついには偽物たちに殺されてしまう。
この姿が、あらゆるイズムに囲まれた現代人の戯画でなくてなんだろう。
つまりこの劇を伊藤英明の演技が不条理劇に昇華することによって、今回の舞台は一応の成立を見ているのである。
幕が降りた後、私はいい観劇体験をしたのかどうか一考した。期待していたものではなかった。しかし無ではない。あのエディは間違いなく、ただ達者な役者が演じるよりはるかに深みのある造型をしていた。よくわからない観劇体験だったが、今私にこれほどの長文を書かせるほどの体験ではあった。