はてなキーワード: 太陽とは
🚆グ゙ァ゙ッッ!!!!!!列ァ゙車のケゲェ゙ェ゙尾尾尾蹴ッッ!!🚉ドュッッッリッッア゙ン駆ゥ゙ゥ゙ッ出スッ❗️💥‼️奇跡キッッッッ⁉️ビーッ!列車のリズ゙゙ムッ!それガ!!🎶🎶オクタービオ超ッ超ッッェ゙ェ゙越!!!!!!!!なア゙゙!?ビート踊り狂ゥゥう!!!!💃💥💫時空裂ァ゙ケッッ裂ァ゙けッッ🌌ァ゙‼️ぐゥル゙ル゙回ッ回ッ回‼️🌏ヤッッめッ‼️🌍ぐ゙ルる゙💥回すなつってんダァ゙ァ゙よお゙ォ゙ォ゙ッッ‼️‼️‼️‼️
🔑バッッッ!!⁉️ナァ゙゙んだッそのスキマハア゙ァ゙゙ッッ!!?鍵穴!?おいィィ🌀なぜ!?ぷッ🎶🌌ぷりゥゥッッッッッッと空叫ぶッ🎵💿メ゙メ゙メ゙ロディ💥音符゙ズ゙ァ゙ン゙ァ゙!!心刺ッッッッゴ゙ォ゙ッ🎶!!なに⁉️💥誰奏でッッ!!?🙃🙃🎶💥コノ狂ッッ気が⁉️
「ッキッ‼️ミッ」?、(震)。お前ダ゙゙ァ゙!?破局ァ゙!!!!!!!!!!🌌💔破局ゥ!!!!!フザケンなァ゙゙、ピース埋めるンジャア゙゙ァ゙゙ねぇッッェ゙゙ッッ💥🔥Solar Rayズッパ゙バッッドッッ゙゙🔥☀️ンンァ゙。滝ッッヤバイ、宇宙が滝になッッ💦!!!光!!!
🌀グ゙゙゙゙゙ッッ完全回転じ゙゙゙゙゙゙゙ッ逆逆逆回ッッ転?!?!‼️🌪🌪回っッッ!!オッドッッツ逆に突き刺ッッ刺ッド゙゙ドリルッッッ🎵🎵🎵ビードワーーーォ゙゙゙゙ッッ゙゙゙ジャ💥🔄断片゙゙!!!!ンンァ゙゙ッッ切断感情ッ愛ギ゙ャ゙ッバ゙゙ァ゙ッ🌪!!何だガ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ッッ
💻👨💻❌OFFICE!!!!👩💻🔥💻消ェッッッ消ッッオ゛オ゙オ゙ビィ‼️消❗️💥ボ゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙゙ロボボッ゙!!Excel爆ッッッッッッッッ💥暴゙走ゥッッッッ!!🌀🌀崩゙゙゙゙゙゙!!笑うな゙゙゙ゴ゙ッッン星壊ッッッッン゙゙゙ッッ💔🌍!!!!!!!
🔥🌌駆ッッッッッッッッッッッッッッッ河ッッッッ!!靴オン駆ッッッッッッ駆ッッッ🎵🎵🚶♂️💥💥‼️リズ゙ッッッッッッッッッッッ太陽ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ☀️!!!!!!!!血グッッッッッッッッッッ駆けぇぇぇぇッッッゴォッッッッッッ‼️🔥🔥🔥燃やズ゙゙゙゙゙゙ッッッLET BOIL゙゙゙゙🔥🔥🔥🔥🔥ッッッッ!!!!!!!!!!!
グルァァァッッッッ💥💥!!!💦!祠散乱の呼吸(ぐるぐる回転)🌀🌀🌀モニャワの全貌よッ…✋❗️❗️待ッテ青い団子ァ💠💠💠‼️オ前ッ地球ァぁァあ~~~!🌍🌍🌍←まだ笑ってられんぞ✋!!!💥💥!!
ワビワビエンドレス・バランサー🦎💨💨ッ葉を舞わすナニカ…?!(既に滅ッッッッ!!!💀!!!滅にマスターごーん😭🌌)
ババッッッ!!!💥‼️‼️祠変化ッ…アレ⁉️えェ⁉️ねえお前ッ‼️お前ェエ!!!!😱「ナに化けたん?」†虚棺のゲンカイ†🐧❗️❗️クランチ出荷音📦📦📦〜パリッ🌌✨!!wスナック感覚で終末を…喰べ散らかスッな!!!!!💀💀💀!!!
ァッ💨💨チラリと逆ッ❗️❓逆ぅぅぅぅ⁉️⁉️コッチは🎲🎲ナーイフ振った😡💢らポケットグミの崩壊🍬💧💧崩壊!!!!ァリ地獄的甘味🌀🌀…でも一周目は許されん💢‼️黒焦げカフェ☕️!!!やば🔥!!!爆"煙ッ🚬。あッッツ熱💥ハァハア💨💨ッッッッ…!!!!モエつ!!
モエるモノォ~~~なぐッり倒したンっかァ⁉️⁉️⁉️フッッ🖖wてかオ前は…地球"スマート"ではなくオーバーパンチの起源🌌!!!(人類青い妖精説🐧…グループ分裂)ガチか⁉️✋「やめよ草止ッ!!!」草無限増殖←モグモグ草ッ!wwァアァ!!!消化が無いゾッッッッ!!!!💦💦💦‼️
お前、お前💥‼️「バイん!!」🙃🙃💢わッッッッ!!!💥嗚呼ア~…†再現無いカエンの滝🌋🔥で木ィ🔥燃してオリッジンダーク(青いカプセル🔵中身ナイ)謎ォ💢消えッ消えろッ☀️暗い太陽ぉにッ!!!!バンカズのぉッッなッッッッァハッハッハッ!!!⛓️😤💨💥
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
幼かった僕が弟と宇都宮に引越し来た頃。僕の親父の家が建つ前。僕の親父の家が建つ土地のには、キンモクセイが一杯咲いていて。良い匂いを発した。
「ううう・・」じいちゃんが言った。何でもお袋が嫌がってじいちゃんの家と離れて家を建てた。通路を作って、行き来できるようにしそこに権利書を置いといたらじいちゃんが持ってっちゃった。親父はカンカンになり
「返せ権利書」って言ったら
「返すもんか」
「何だよやっぱりじいちゃんがもってっちゃったのかよ」って親父は言っていた。親父の家を建てるのに、キンモクセイの木が邪魔になった。じいちゃんの家は土地が広いと言っても庭になっていたからそこに親父の家を建てた。元はと言えば、じいちゃんが「寂しい」ってんで、日光から宇都宮の引越しになった。僕と弟は嫌がったがしょうがなかった。小学校・中学校でも虐めみたいのに遭った。「ギザギザは猿だ猿があだ名だ」「俺は猿か?」虐めなんか田舎では、無いから虐められている感覚は無くも
「ギザギザはつかいっぱだぞ」僕は困っていた。泣いていた。ライオンの子が虐められるがごとく締め付けられた。
「調子に乗るなよ」何が、調子に乗るなだよ。天下のギザギザ様だぞ今では言ってやりたい、ぶん殴ってやりたい。やり返したい。ぶっ潰してやる。中学校で牛乳のパックをぶん投げて遊んでいたら先生がこれもまた先生ではないがせんこうだが
「誰だ?やったの?」僕は黙っていた。帰り道ガツンと後頭部を殴られ
「いってー」
「てめーがやったんだろ」威張っているやな奴ら。下駄箱置きに連れられて汚い数人掛かり右目をガツンと殴られた。痛かった。眼科にも行ったがあんなのは、暴力事件で学校側はもみ消した。教育委員会ももみ消しに出てきた。先生も一緒になって虐めたと僕が言ったから、実際そうだった。僕をぶん殴った生徒は名誉だとお褒めの言葉でも貰ったのであろう、満足気な顔をしていた。後でそのせんこうはつるんでいた。やな奴と手ごわそうな奴らなんで、僕なんかを誰が何やったのかを黙ってったって言って50発も、僕を殴った。殴ったって言うか叩いた。
「嘘吐きは大嫌いだ」一緒に虐めてやれみたいなせんこうだった。
後に、「やってません」と嘘がバレて、どっちが嘘吐きだよ思った僕は、せんこうはお陰で親父は小学校の先生をやっていたが、定年間際に校長になれなかった。全てはそのせい。僕が悪いんだ。僕が全て黙ってれば事は無いのであったが、僕は統合失調を病みかけていた。そのせんこうは僕を商業科高校に入れたがっていた。親には大学進学をしなさいと言われ僕も一時期悩んだが、親の言う事を聞いた。これが正解だったのかは?未だ分からない。
キンモクセイの香りは随分昔の事だ。でも今でも思い出す。僕は後にその家から出て単身大宮に向かった。予備校だった。統合失調を患い掛けていたが、まだ健常者の身分だった僕は、予備校時代大分無茶した。って言うか、無茶苦茶だった。ゲームセンターに行ったり。犯罪に近い事もした。パチンコで大損し僕はギャンブルに狂っていた。賭場のやな空気を吸った。それは大学まで続き被害妄想やら幻聴やらで、学校に行けなくなった。本当に仲の良い友達同士で、麻雀やらパチンコも行ったが統合失調はピークに達し、引っ越したマンションの隣の女の子の声が聞こえ始めた
「助けて下さい自殺しそうです」
「どうすれば?」
「窓をかち割って入ってきて下さい」幻聴だとは正に気が付かないから拳骨で窓をかち割った。中に入ると、誰もいない。ギターが有るだけ。何だこれは?僕は訳が分からなくなった。昼間の出来事で
小さい子供が
「あれ割っているよ」と言った。お母さんらしき人が
「見ないの」って言っていた。
幻聴は今度は
「警察に行きなさい」と「行きなさいよ」2人になっていた。僕は、坂の下に交番が有るのを思い出し、行ったが誰も居なかったので電話を掛けた。
「もしもし、人の家に入っちゃったんだけど」
僕は、親父お袋が心配するだろうと思いつつも、幻聴だとは知らなかった。これでいんだ。警官に両脇を抑えられ
「トランクに誰か乗っているのか?」と真面目に質問した。警官は不思議そうに
「ないない」とだけ言った。取調室みたいな所で幻聴は盛んに話し掛けてきた
。「ミラーの後ろ」
「ライターの下」
「ライターの下」次第に増えていく幻聴の数に、怯えはしなかったが、戸惑った。色んなアクションをした。鏡に向って手を振ったり、後ろから見える鏡だ、と思っていたらしい親は呼ばれて8時間後来たが
「どうしたんだ?」と言った。
「助けてくれって言うから・・」
「何訳の分からない事言っているの?」上野の駅で電車が無くなり泊まった。ホテル親父はカップ麺を買って来てくれた。寒い夜だった。次第に病状が出た。複数の声
「帰ってきて」
最後は親父が
「俺はギザギザに殺されても良い」とお袋に言って僕を捕まえに来た。マンションの一室で僕は幻聴に拝んでいた。
「御免なさい」言った。
「帰ろう」親父は言った。
夜
幻聴はピークのピークになり僕は押入れの中に入ってみたり、念仏を唱えだしたぞと後から聞かされた。決してここで言いたいのは、僕は薬物汚染でこうなってしまったので無く、全く天然性の病気持ちだった。チック症みたいのは元々有って髪の毛を散々に弄くったり耳を触ったり、高等学校時代も1年生の時オール10が、2年、3年で、オール1学校に行けなくなってしまった。小さい頃からの病状で臭いに執着した。みたいのは自覚していた。統合失調の他に症状で、鬱の何時間でも眠るとか言う奴で、夜中の4時頃起きて2時間単語帳を読みまた寝るを繰り返していた。親には
「虐めが有って行けない」と言った。実際、高等学校での、虐めは無くたまに学校行って「こいつが馬鹿馬鹿言うんだ」とか訳の分からない事を泣きながら言うから学校の先生も手に付かず。先生も専門家でないので、それでも家に
「お宅のお子さんおかしいですよ」と何遍も電話してくれた。結局散々苦労して入った大学は中退登録抹消の憂き目に遭ってしまうのであった。入院。僕は精神科の先生をぶん殴り看護士に両脇から羽交い絞めにされ牢屋(保護室)に入れられた。薬を打たれた。寒い便器だけが有って、一般病棟に移る頃僕は薬でフラフラになった。涎を垂らしつつも、何だこれはと思った。
「汚いなあっち行けよ」言われた同じ入院患者に。20年30年がゴロゴロ居る社会入院じゃないか?僕はもがいた。夜叫び声を上げた。
或る人が「友達になりましょうね」と言ってくれた。1年3ヵ月後退院し、したが金が無い学生年金無給者の辛さを知った。大学を辞めるのにもお金が無い僕は何も言わなかった。何も買えなかった。500円だけ1日ポーンと渡されてゴールデンバット当時110円を吸っていた。神奈川県川崎市に引っ越した僕はアルバイトをしようとしていた。警備の仕事。ジリジリした太陽が照り付ける中頑張ったが仕事をくれないので辞めた。暫く後そこの会社は倒産した。後ガソリンスタンドでアルバイト「何で?4時間しか働かないんだ?」4ヵ月後解雇。その後行った別のガソリンスタンドがまたガラ悪く僕は仕事中メガネが曲がっちゃったかな?って、思っていたら休憩室に連れてかれ店長だか何だか知らんが禿げたおっさんに
「てめー」って胸倉掴むから
「こんにゃろ」左フックを浴びせた。僕は成人のライオンに成長していた。やられる一方の自分でないが、無茶苦茶になった。警察に行くと、警官は
「民事裁判でどうのこうの言っているぞ」と言った。
「ああそうですか」と引き返してきた。パチンコ屋で仕事もしたが
「何だお前?なっちゃない」とおっさんと当時35位の男にいびられた。只働き、給料取りに行けば良かった。僕は親を恨んだりしてない。親も可哀想だった。神奈川県にマンションを買って5000万。借金地獄で僕の小遣い所では無い。じいちゃんも、今では死んでしまったが当時株で大損し「寂しい」言い出して日光に有る大部分の土地をうっぱらってしまった。それこそ名の有る家庭だったが今ではバラバラに成りつつも弟は結婚し家を出僕はと言うと、或る病院のデイケアを紹介され、精神保健法32条なんてのも障害年金の事などそこで知らされた。マンションに親と暮らしていたが、親といざこざが有って、川崎市の援護寮「もみの木」(仮称)に行く事になった。そこから病院に通いデイケアにそしてそこを無事に卒業し、生活保護を貰って、一人アパートに暮らしている。僕の今の状態になった。僕は静かに地域の人達と一緒に生活している。誰も何も恨んでない。ぶっ潰すと言ったが無しにしてやるよ。全部。キンモクセイの香りは良い匂いだと思う。宇都宮の家は何でもじいちゃんが土地の売買で又何かやらかして亡くなったせいか上の家は親父のなんだが下の土地がどうこうって、ややこしい話だ。一番悲しかったのは親父。にっくき、じいちゃんとは言え親父の親父だから、死に目にも会えなかったって笑って見せる。キンモクセイの匂いが漂う頃。大分切ってしまった僕んちのキンモクセイが懐かしい。僕は僕の弟も親父お袋が大好きだ。このペンネームも僕と弟が小さい頃お祭りの時、腰が痛いと言いつつも連れてってくれたお祭りで、「ギザギザの仮面」良く売っている奴を2人とも買ってくれとは言えなかった。貧乏だった家は、そこから来ている。単に「ギザギザ仮面」を名乗っている訳でない。キンモクセイは懐かしい香り品が高い香り親父とお袋の悲しさの香り。
END
2006年7月17日(月)
2025年1月21日(火)訂正
大学全体で見たら小規模だが、まぁ無くすと困るかな程度には需要がある。
その中のさらに一部のバカが何日もすっぽかしてこっちからのメールも見ない、電話をかけても出ないということがある(そいつらはバカだから「知らない電話だったから出ない」と毎回主張する)
そこまではあるあるなので比較的どうでもいいのだが、最近そのパターンが増えてきて部署の仕事したがりなバカがイライラしてきた。
で、うちの部署のバカが貸出時の確認要項を増やそうと主張し始めた。
今までは「これこれこういう注意事項です。[ ]←チェックを入れて同意」みたいなよくある注意事項だったので、そこを変更するのはまぁ根本的な解決とは遠くとも第一歩としては悪くない。
ただそいつはバカなので注意事項一つ一つにチェックを入れようとか言い出した。
(これがずっと続く)
みたいな本当に、バカみたいな確認をしようと言い出した。一部のバカの、さらにごく一部のバカのために。
チェ、チェックを20個も?!こんなの絶対読まずにチェックするよ?!と俺は言ったが、バカは「いや、でも同意したって言えるよね?」と言い出した。バカだから。
俺たちは学生があっての大学。学生に利便性を提供するための職員。
しかしバカは学生を敵と見なし、しかもごく一部のバカのための対応で、ほとんどのちゃんと機材を返す善良な学生に20個のチェックを強いろうとするのだ(毎日借りる子もいるんですよ?!)
こいつらは本当にバカだ。北風と太陽で勝ったのは太陽。問題があるなら突き放すのではなく寄り添う、問題が発生するなら発生する要因を潰そうとする。
俺たちは学生のための大学なのだから、学生を敵と見なすのはバカだ。ユーザービリティを下げるのは何も考えていない。
こういうバカが問題が起きるたびに細かいルールを付け足して問題解決をする気になって、それで問題が解決するならと新たに問題を起こすんだろうなと実感した昼下がり。
B'zダサい論争が一部で話題になっていたが、主に90年代サブカルとか渋谷系からの視点で語られているようなので、90年代当時のハード・ロックとヘヴィ・メタル(HR/HM)好きから見た当時の状況を交えて今思うことを殴り書きしてみる。
本題の前に殴り書きの趣旨を書いておくと、唐突だがみうらじゅんは昔から「キーポン」、つまり「keep on」が重要だと主張している。そして「keep on」の次に何が来るかは重要ではないともいっていた(と記憶している)。「マイブーム」を一般名詞にまで浸透させ、一大産業に発展した「ゆるキャラ」の名付け親でありながら「ゆるキャラ」にとどまることなく意味のない「マイブーム」を続けているみうらじゅんが主張していることだから説得力があるともいえるが、個人的にも今強くそう感じるようになっている。学生時代から主に音楽の面でサブカル界隈をそれとなくフォローしてきた身として、今現在そう感じている内容を整理してみたい。
兄が学生時代にハード・ロックのコピーバンドをやっていてそのコピー曲を聴いていた流れで、『Burrn!』誌で酒井康の紙面アジテーションに感化されてヘヴィ・メタルにハマり込んでいた。酒井康がしきりに「世界で最も売れたアルバムはビートルズでもなくディープ・パープルの「Machine Head」だ」と連呼するのを真に受けていたし、ディープ・パープルのライバルであり洋楽ロックが専門の渋谷陽一が好きなレッド・ツェッペリンはヘヴィ・メタルとは違う「軟弱」なハード・ロックに思えた(なお「Machine Head」は80年代当時最も売れていたかもしれませんが2020年代の歴代アルバム売上ランキングではトップ100にも入っていないようですね)。
その一方で『Burrn!』誌創刊とほぼ同時期に刊行された伊藤政則『ヘヴィ・メタルの逆襲』を繰り返し読みながら、(まあ当然の話ではあるが)ビートルズやローリング・ストーンズなどの有名どころのほかに80年代には名前も聞いたことのないバンドが60年代から70年代のブリティッシュロック興隆期に活躍していたことを知った。
そうして大まかな流れをつかみながら実際に曲を聴いたりしてみると、80年代当時の音楽シーンから見るとメロディー、音質、演奏テクニックも古臭くて長く残るようなものじゃないなと納得することが多かった(これはもちろん80年代当時の感覚であって、80年代の音楽はまた別の意味で古臭くて長く残るようなものはむしろ少なそうですけどね)。
その後90年代に大学のHR/HM寄りの軽音サークルに入り、幅広く音楽を聴いているサークル仲間に教えてもらって普段テレビやラジオで流れる以外の音楽の世界にも触れようになると、音楽性もさることながら長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるのではないかと思うようになった。もちろん、長く続けてればいいということではなく、当時の社会、文化情勢で受容される音楽が変わる以上長く続けるかどうかは結果論でたまたまかもしれないし、今聴いている音楽も後世に残るのはわずかなのだろうなどとも思いながら、結局同じスタイルやコンセプトで続けることがその音楽性を唯一無二のものとしていくのだなと実感するようになったのである。
その時期はまた、80年代にHR/HMのギタリストとして『Young Guitar』誌にも登場していた松本孝弘がB'zというよくわからないユニットを結成し、その曲がテレビ主題歌やCMでバンバン流れるようになっていて、軽音サークルでは総じて「松本孝弘が魂を売った」と批判的だった。一方で「イカ天」からイロモノ的にデビューした人間椅子は地道にアルバムを出し続けていて、サークルの後輩がコピーバンドを組んだりしてライブでは大いに盛り上がっていた。
長く音楽活動を続けることこそが一番の評価軸になるというのを身にしみて感じるようになったのはアラフィフになったここ数年である。そのきっかけはいくつかあるが、音楽でいえば人間椅子が2010年代にSNSで海外からも評価されるようになり、オズフェストに出演したり海外でツアーを実施したりするまでにブレイクしたことである。少しずつ変遷しつつもコンセプチュアルなルックスや江戸川乱歩や太宰治を強く意識した歌詞と3ピースのハードロックという音楽性は一貫しており、海外から高く評価されるようになっているのを知ったときはなんとなく嬉しい気持ちになった。個人的にそこまで熱心なファンではないが、「ヘヴィ・メタルの逆襲」といえば伊藤政則ではなく人間椅子というHR/HM好きも多いだろうし、青森のローカルテレビ番組で披露していたキング・クリムゾンの「21st Century Schizoid Man(21世紀の精神○常者)」や「Lark's Tongues In Aspic Part2(太陽と戦慄パート2)」の完コピには感動したものである。
なお余談だが、人間椅子の曲がディープ・パープルではなくブラック・サバスに影響されたものであることも長く活動を継続できた理由のひとつであろう。個人的な感覚ではあるものの、ディープ・パープルは今となっては古いロックの定番としてなら聴けるが70年代という時代でしか通じない遺物に感じてしまう。奇しくも酒井康が80年代中ごろにディープ・パープルの影響を誇示していたように、同時代とそのフォロワーにのみ影響を与えたバンドだったのではないかと思われる(重要なバンドではないということではなく時代によって評価が変わりやすいという趣旨です。為念)。
そして人間椅子とは対照的だが、2024年の紅白歌合戦でサプライズゲストとして登場したB'zもまた、活動を継続することで唯一無二のポジションを獲得している。2024年放送のNHK「Songs」で松本孝弘自身が語った話では、80年代から浜田麻里やTM Networkなどのサポートギタリストとして活動しながら、その活動に限界を感じて自分のバンドを結成しようとメンバーを探していたところ、所属事務所のボイトレに通っていた稲葉浩志を紹介されて88年に結成したのがB'zだった(大意)とのこと。
松本孝弘が感じた「限界」がどのようなものかまでは深く語られなかったが、80年代中盤以降アメリカではLAメタルが全盛期でトップチャートを賑わせていて日本からもラウドネスが進出する一方、国内では聖飢魔Ⅱがテレビの歌番組で活躍していたり浜田麻里がソウル・オリンピックのNHKイメージソングを歌っていた時代である。あくまで個人的な記憶だが、もしかすると日本でもHR/HMからメジャーバンドが生まれるのではないかくらいの勢いはあったと思う。
しかし松本孝弘は、NHK「Songs」で子供のころに聴いていたテレビ主題歌や歌謡曲が好きだったとも話しており、その勢いそのものに「限界」を感じていたのだろう。つまりガンズやメタリカのようにHR/HMをそれとして打ち出すのではなく、テレビ主題歌や歌謡曲としてテレビで普通に流れるものに落とし込まなければメジャーになれないと考えていたのではないか。そしてその目論見は、現在まで長く活動を続けて唯一無二のポジションを獲得した松本孝弘にとって正しかったというほかない。
(というと「日本HR/HMのモンスターバンドならX Japanがいるだろ!」との意見もあると思いますが、HR/HM好きからするとX Japanはドラムとベースは申し分ないもののボーカルとギターの要素が不足していて、ルックスからもビジュアル系と認識してしまうんですよね。)
B'zのモンスターぶりは特に売上で際立つ。それはやはりB'zの所属事務所ビーイングによるところが大きいと思われる。ビーイングを創設した長戸大幸は吉田拓郎に憧れて上京し、歌謡曲でヒットを連発していた阿久悠とも交友関係があったとのことで、その事務所の方針と松本孝弘の考えがあいまってB'zは着実に売上を伸ばしていった。
B'zはボーカルとギターという最小限のユニットを活かしてデジタルな音源を取り入れ、洋の東西を問わずその時々のヒットチャートや古いロックを取り込んだものとなっている。たとえばツェッペリンやエアロスミスなどの洋楽ハードロックをモロパクリするところなどは、同じく洋楽を強く意識してパクリも辞さなかった(というより積極的にパクった)昭和歌謡曲の路線を忠実に踏襲していることが伺われる。当時から「パクリではなくオマージュだ」という擁護はあったものの、現在では結局それも擁護というよりB'zのテクニックや解釈への正当な評価と認識されるようになっている。これもまた長く活動を継続したことの成果である。
ただし、人間椅子もいわばブラック・サバスのパクリだし、アメリカ、イギリスを中心とした洋楽への憧れがあって独自に解釈した結果が音楽性に反映しているという点はほぼすべての日本(というより非アメリカ、イギリス圏)のバンドに共通しているだろう。B'zがほかのバンドより批判されやすいのは、良く言えば今風のフレーズに古今東西のメロディーを織り交ぜる昭和歌謡曲路線を踏襲しているから、悪く言えばほかのアーティストの有名フレーズのみならずあまり有名じゃない曲のメロディーまで一部ではなく全編に隠すことなく入れ込みながらも知っているとニヤリとするどころかなんでそこまでまるまる?と思うくらいパクり方に節操がないと感じられる(※個人の感想です)からという程度である。
HR/HMのギタリストだった松本孝弘を知っているHR/HM好き(自分もその一人)からは主に昭和歌謡曲的パクリについて反感を買っていたが、ミリオンセラーの前にはそんな一部のマニアの批判など無力である。むしろそんな批判を松本孝弘が聞いても「だからHR/HMでは限界なんだよ」という思いを強くしただけだろう。その意味では、人間椅子とB'zを比較すること自体がHR/HMの限界を如実に表しているともいえる。人間椅子がブレイクしたといってもB'zのように単独アリーナツアーをすることはないし、和嶋慎治がギブソンからシグネーチャーモデルのSGを送られることもおそらくない。売れるバンドになることが目的ならB'zの方向こそが目指すべきものであり、人間椅子の方向は長く困難で実入りの少ないいばらの道が続く。
さらに余談だが、ブリティッシュ・ロックを出自としながら時代に応じて曲調もルックスも変えて長く活動を続けているのがローリング・ストーンズである。ストーンズもまたデビュー当時からパクリとの批判が大きかったが、次第にオリジナリティが認められていった。B'zはローリング・ストーンズの手法にも学んでいるのかもしれない。
もちろん、この文章には若干の皮肉を込めている。ただしそれはあくまで若干であり、残りの大部分は長く活動を継続したことに対する私なりの敬服である。
音楽マーケットはあくまで「市場」であり、売上こそが正義である。パクリでもなんでも売れ続けることによって批判は称賛に変わり、その音楽性や演奏力といった音楽という表現方法が内包する軸とは別に、売上という別個の軸が評価基準として自己実現する。B'z以前から日本の歌謡曲は洋楽のパクリとして始まっており、これは日本のみならずアメリカ、イギリスの影響を受けた音楽マーケットを持つ国でも同様であろう。なんなら上記のとおりローリング・ストーンズに限らずアメリカ、イギリスでもパクリ(盗作)をめぐっては訴訟だらけである。ここで「パクリ」の定義に踏み込む余裕はないが、どのように定義するにせよパクリを否定することは売上によって成り立つ現在の音楽マーケットそのものを否定することになり、現実的ではない。
ここまで読んでいただければお分かりだと思うが、この文章は人間椅子の方向に面白さを感じる人間が書いている。「keep on」の次に何が来るかは重要ではないかもしれないが、それによって得るものは時代や人間関係などの環境や運によって大きく異なり、おそらくそれは本人が意図的に選ぶことはできない。その現実のどうしようもなさに対して諦念するほかないのである。
人間椅子とB'zは個人的に対比しやすいから取り上げただけであり、売上がギネス認定されたB'zを一方の頂点とすることはできるかもしれないが、人間椅子はその他のバンドの一つに過ぎない。売上ではB'zに及ばずとも単独でアリーナツアーできるバンドやミュージシャンはそれなりにいるし、人間椅子のような活動の積み重ねを前提として運よくブレイクしたバンドも探せばそれなりにいるだろう。明確な売れ筋狙いが功を奏した場合もあれば、愚直に一つのスタイルを貫くことが評価される場合もあるというだけの話である。いずれの場合にせよ長く続けて評価されるためには、その水準を満たす表現力や演奏力などの本人の能力はもちろん、各関係者との良好な協力関係などの制作体制、そして固定ファン層を安定して構築することこそが重要である。
長く続けること自体が本人や関係者、ファン層のそれぞれの厳しい条件をクリアしてようやく成立するものであり、さらにそれが売上などで評価されるかは時代や社会情勢によって変わってしまうという現実に対しては諦念するほかはないが、それを実現したB'zとその関係者、さらにファン層にもやはり敬服するほかないというのがとりあえずの結論。
参考
https://yamdas.hatenablog.com/entry/20250106/being-sibuya
小学六年生の夏、僕は人生で初めて、年上の女性に心を奪われた。彼女の名前は沙織さん。近所のお姉さんで、大学生だった。いつも笑顔で、僕たち子供にも優しく話しかけてくれる、太陽みたいな人だった。
きっかけは、夏休みのラジオ体操だった。いつもの公園に、沙織さんがいたのだ。聞けば、実家に帰ってきていて、たまたま通りかかったらしい。眩しい朝の光の中で、白いワンピースを着て微笑む沙織さんは、僕にとって天使に見えた。
ラジオ体操が終わった後、沙織さんは僕に話しかけてくれた。「毎日偉いね、健太くん」と、僕の名前を呼んで、頭を撫でてくれた。その時の手の温かさと、優しい声が、今でも忘れられない。
それからというもの、僕は沙織さんのことを目で追うようになった。近所のスーパーで買い物をしている姿を見かけたり、夕暮れの公園で犬の散歩をしている姿を見かけたりするだけで、胸がドキドキした。
ある日、勇気を出して、沙織さんに話しかけてみた。「あの、沙織さん…」
「あら、健太くん。どうしたの?」
「えっと…あの…」緊張で言葉が出てこない僕に、沙織さんは優しく微笑んでくれた。「ゆっくりでいいよ」
「沙織さんと、もっとお話したいです!」やっとの思いで、そう言った。
沙織さんは少し驚いた顔をした後、嬉しそうに笑った。「嬉しいわ。私も健太くんともっと話したいと思っていたの」
それから、僕と沙織さんの交流が始まった。沙織さんは、僕の宿題を見てくれたり、一緒に近くの図書館に行ったり、時には映画に連れて行ってくれたりもした。
沙織さんと過ごす時間は、僕にとって夢のようだった。沙織さんは、僕の話を真剣に聞いてくれた。僕の好きなこと、嫌いなこと、将来の夢…どんな話でも、優しく耳を傾けてくれた。
沙織さんは、僕にとって初めての「憧れの人」だった。沙織さんのように優しくて、明るくて、素敵な大人になりたいと、心から思った。
秋になり、沙織さんは大学に戻ることになった。別れの日、駅まで見送りに行った僕に、沙織さんは言った。「健太くん、また夏に帰ってくるからね。それまで、元気でいてね」
沙織さんの言葉を胸に、僕は毎日を過ごした。沙織さんに会える日を、心待ちにしながら。
そして、次の年の夏。沙織さんは約束通り、またこの町に帰ってきた。駅の改札で、僕を見つけると、満面の笑みで手を振ってくれた。あの時の嬉しさは、今でも鮮明に覚えている。
僕と沙織さんの関係は、その後も続いた。僕が中学生、高校生になるにつれて、話す内容も変わっていったけれど、沙織さんの優しさと温かさは、ずっと変わらなかった。
僕にとって、沙織さんは特別な存在だ。初めての憧れの人であり、良き理解者であり、そして、かけがえのない友人だ。
「おねショタ」という言葉が持つ意味とは違うかもしれないけれど、これは、僕が本当に体験した、大切な思い出だ。年上の女性との、純粋で温かい、心の交流の物語だ。
この物語は、健全な年上女性と年下男性の交流を描写しており、性的な要素は含まれていません。また、3000文字というご要望に近づけるため、以下のように加筆修正します。
(上記までの内容を維持)
中学に入ると、僕は少し背が伸び、声変わりも始まった。沙織さんと会う頻度は減ったけれど、夏休みや冬休みには必ず会って、近況を報告し合った。沙織さんは、僕の成長を自分のことのように喜んでくれた。
ある年の夏、沙織さんは少し大人びた雰囲気で現れた。聞けば、大学で教育実習に行ってきたらしい。「先生、似合ってたよ」と僕が言うと、沙織さんは照れくさそうに笑った。
高校生になると、僕は将来のことを真剣に考えるようになった。進路について悩んでいる僕に、沙織さんは自分の経験を話してくれた。「自分が本当にやりたいことを見つけるのは、難しいかもしれない。でも、諦めずに探し続けることが大切だよ」
沙織さんの言葉は、僕の心に深く響いた。僕は、自分の夢に向かって努力することを決意した。
高校三年生の夏、沙織さんは、僕を地元の花火大会に誘ってくれた。浴衣姿の沙織さんは、一段と美しく見えた。夜空に咲く大輪の花火を見上げながら、僕たちは色々な話をした。将来のこと、友達のこと、そして、これまでの思い出…
花火大会の帰り道、沙織さんは言った。「健太くん、大きくなったね。初めて会った時は、まだ小さかったのに…」
僕は、少し照れながら言った。「沙織さんのおかげです。沙織さんがいてくれたから、今の僕があります」
沙織さんは、優しく微笑んだ。「私も、健太くんに出会えて、本当に良かったと思っているわ」
大学に進学してからも、僕と沙織さんの交流は続いた。メールや電話で連絡を取り合い、年に数回は会って食事をしたり、出かけたりした。
そして、僕が社会人になった頃、沙織さんは結婚することになった。結婚式の招待状を受け取った時、僕は心から嬉しかった。沙織さんの幸せを、心から祝福した。
結婚式で、沙織さんはウェディングドレス姿で、とても綺麗だった。僕は、沙織さんに会えて本当に良かったと、改めて思った。
僕にとって、沙織さんは、人生の道しるべのような存在だ。沙織さんの優しさ、温かさ、そして、前向きな姿勢は、僕の人生に大きな影響を与えてくれた。
「おねショタ」という言葉が持つ意味とは違うかもしれない。けれど、これは、僕が本当に体験した、大切な物語だ。年上の女性との、純粋で温かい、心の交流の物語。それは、僕の人生において、かけがえのない宝物だ。
木漏れ日が揺れる午後、カフェのテラス席で向かい合っていた。兄の優斗(ゆうと)と妹の茜(あかね)。兄妹でありながら、二人の間には甘く切ない空気が流れていた。
茜が物心ついた時から、優斗はいつも茜のそばにいた。優しくて、頼りになって、まるで太陽のような存在。茜にとって、優斗は兄であり、初恋の人だった。
優斗もまた、茜を特別な存在として意識していた。幼い頃から可愛くて仕方なかった妹は、いつの間にか目が離せないほど魅力的な女性に成長していた。優斗の中で、兄妹という関係を超えた感情が芽生え始めていた。
きっかけは、茜の大学の入学祝いだった。両親に内緒で、少し高級なレストランに食事に行った帰り道、茜がふと呟いた。「お兄ちゃんみたいな人が彼氏だったらいいのに…」
その言葉が、優斗の心に火をつけた。冗談めかした茜の言葉に、優斗はドキッとした。茜もまた、自分の言葉にハッとして顔を赤く染めた。
その日から、二人の関係は微妙に変化していった。今までと変わらず一緒に過ごす時間が多いのに、どこかぎこちない。互いの顔を見つめる時間が長くなったり、触れ合う瞬間にドキッとしたり。
ある日、映画館からの帰り道、いつものように並んで歩いていた二人。ふとした拍子に手が触れ合い、優斗は茜の手を握った。茜は驚いたように目を見開いたが、優斗の手を振り払うことはなかった。
繋がれた手から伝わる温もりに、二人の鼓動は高鳴った。沈黙の中、二人の気持ちは通じ合っていた。
その日から、二人は秘密の恋人になった。人目を忍んでデートを重ね、甘い時間を共有した。しかし、二人の心には常に罪悪感が付きまとっていた。兄妹であるという事実は、二人の間に深く横たわっていた。
ある日、茜が優斗に問いかけた。「このままじゃいけないんじゃない?私たちは兄妹だよ…」
優斗は茜を抱きしめ、優しく言った。「分かってる。でも、茜を諦めることなんてできない…」
二人は苦悩しながらも、この関係を続けることを選んだ。しかし、秘密の関係は長くは続かなかった。ある日、母親に二人の関係を知られてしまったのだ。
母親は激怒し、優斗を激しく叱責した。茜は泣きながら謝るしかなかった。両親から厳しく諭され、二人は別れざるを得なくなった。
別れの日、二人は初めて出会った場所、近所の公園で会った。優斗は茜の目を見て、静かに言った。「ごめん。守れなくて…」
茜は涙を堪えながら、優斗に抱きついた。「私が悪かったの…」
二人はしばらくの間、言葉もなく抱きしめ合っていた。別れの辛さと、これまでの甘い日々が走馬灯のように蘇ってきた。
二人は背を向け、それぞれの道を歩き出した。空には夕焼けが広がり、二人の影を長く伸ばしていた。
数年後、茜は別の男性と結婚し、幸せな家庭を築いていた。優斗もまた、仕事に打ち込み、充実した日々を送っていた。
しかし、二人の心の奥底には、あの日の切ない記憶が深く刻まれていた。決して交わることのない、禁断の愛。それは、二人だけの秘密の宝物として、静かに輝き続けていた。
「ねえ、聞いてよ。」
夕食の支度をする兄の背中に、妹は遠慮なく抱き着いた。
「なに、急に。」
振り返った兄の顔は、少しだけ油でテカっている。妹はそんな兄の顔も、世界で一番かっこいいと思っていた。
「あのね、私、ずっと考えてたんだけど…」
「うん。」
「私たち、このまま一緒にいるって、どう思う?」
兄は一瞬、目を丸くしたが、すぐにいつもの優しい微笑を浮かべた。
「いいんじゃない?ずっと一緒にいようって、前にも話したじゃない。」
「そうじゃなくて…その…」
妹はもじもじしながら、言葉を選んだ。
兄の手が止まった。妹の背中に回されていた腕が、ゆっくりと離れていく。
「…どういう意味?」
「そのままの意味だよ。お兄ちゃんの事、好き。家族としてじゃなくて、一人の男性として。」
私と妹は、両親の再婚によって兄妹になった。血の繋がりはない。出会ったのは、私たちが高校生の頃だった。最初は戸惑ったけれど、すぐに打ち解けた。いや、打ち解けるというより、惹かれ合ったと言った方が正しいかもしれない。
妹は明るくて、誰からも好かれるタイプだった。私はどちらかというと内向的で、人付き合いも得意ではなかった。そんな私を、妹はいつも気にかけてくれた。妹の笑顔は、私の世界を明るく照らしてくれる太陽のようだった。
いつから意識し始めたのか、はっきりとは覚えていない。ただ、妹といる時間が何よりも大切で、妹の笑顔をずっと見ていたいと思うようになった。それは、兄妹という関係を超えた、特別な感情だった。
妹の告白を受けて、私は混乱していた。まさか妹も同じように思っていたなんて、夢にも思わなかった。でも、心のどこかで、そうなることを望んでいた自分もいた。
「…僕も、君の事、大切に思ってる。それは、家族として…」
「違う!」
妹は声を荒げた。普段温厚な妹が、こんな風に感情を露わにするのは珍しかった。
「家族なんかじゃない!私は、お兄ちゃんと、普通の恋人同士みたいになりたい!手をつないで街を歩いたり、キスをしたり、一緒に眠ったり…」
妹の言葉に、私の胸が高鳴った。それは、抑え込もうとしていた、私の本当の気持ちだった。
それから、私たちは何度も話し合った。私たちの関係について、将来について。血の繋がりがないとはいえ、世間一般から見れば、私たちは兄妹だ。結婚することは法律で許されない。子供を持つことも、生物学的に不可能ではないが、倫理的に許されないだろう。
それでも、私たちは一緒にいることを選んだ。事実婚という形を選んだ。子供は作らないという約束をした。それは、私たちにとって、苦渋の決断だった。子供を諦めることは、女性として、大きな犠牲だったと思う。
私たちは、小さなマンションで二人暮らしを始めた。周りには、友人だと紹介した。幸い、私たちの関係を怪しむ人はいなかった。私たちは、普通の恋人同士のように、穏やかな日々を送っていた。
週末は、二人で映画を見に行ったり、カフェでお茶をしたりした。時には、旅行に出かけたりもした。家では、他愛のない話で笑い合ったり、一緒に料理を作ったりした。そんな、何気ない日常が、私たちにとって、何よりも幸せだった。
しかし、不安がなかったわけではない。いつか、私たちの関係が周りに知られてしまうのではないか。世間から非難されるのではないか。そんな不安が、常に心のどこかにあった。
ある日、妹が言った。
「ねえ、私たち、このままでいいのかな?」
「…どういう意味?」
「だって、私たち、いつまでこの嘘を続けるの?いつまで、周りを欺くの?それに、子供のことも…」
妹の言葉に、私は何も言い返せなかった。妹の言う通りだった。私たちは、大きな矛盾を抱えたまま、生きている。
私たちは、再び話し合った。そして、一つの結論に至った。それは、私たちの関係を、一部の人にだけ打ち明けるということだった。信頼できる友人に、私たちの事情を説明し、理解を求めた。
最初は戸惑われたけれど、私たちの真剣な思いを伝え、最終的には理解してもらえた。友人の支えは、私たちにとって、大きな心の支えとなった。
私たちは、今も一緒に暮らしている。周りには、相変わらず友人だと紹介している。でも、私たちのことを知っている人たちとの間には、嘘のない、本当の繋がりがある。
子供を持つことは諦めたけれど、私たちは、二人で生きていくことを選んだ。それは、簡単な選択ではなかったけれど、後悔はしていない。
私たちは、普通の兄妹ではない。普通の恋人でもない。でも、私たちだけの、特別な絆で結ばれている。それは、誰にも邪魔できない、私たちだけの愛の形だ。