はてなキーワード: レンズとは
いまから三十年くらい前、まだスマホどころかろくなデジカメすらなかった昔のカメラ店で、新品を注意深く箱から出してできるだけ指紋つけないようにラップフィルムに包んで展示したり、客から買った中古品を隅々まで拭き掃除して値札を手書きして街路からよく見えるショーケースになるべく早く売れるように並べたり、なんてことしてた店員時代に自分の買い物としてリコーの28mmか45mmのパンケーキレンズとペンタックスのMZ-10ぐらいの一眼レフボディをさがしてた、なぜならその機種ならそのマニュアルフォーカスレンズでもキャッチインフォーカス機能が使えるしGRなんかのコンパクトカメラよりもフレーミングもフォーカスも精度がぜんぜん上だからな!って、持ってもないのに妄想してイキってたすれっからし(それらが入ってホルスターみたいにベルトに装備できそうなケース→カメラボディの順にみつけてたけどレンズだけは退職させられるまでに入手はできなかった)
シーリングライトの中にゴミがたまっているようなのでカバーを外してみたところ
虫の死骸やホコリでなく、プラスチックの破片が大量に入っていた。
どうやら、LEDライトの1つ1つに光を拡散するためのレンズが被せられており
そのレンズを固定するプラスチックの部品が劣化し割れてしまったようだ。
破片は指でつまむだけで粉々になるほど劣化していた。
LEDライトは1つも切れていないのだが、このまま使い続けても破片が落ちてくるばかりで
レンズが外れると結構暗くなることも分かったので、仕方なく交換することにした。
ファン付きのシーリングライトに変えようと思ったが、安いのは暗いと評判が悪く、まともなメーカーのは数万円するので、結局他メーカーの同性能のものを買うことにした。
最近、ネモフィラ畑で人形撮影をしていたら通りすがりに「キモい」と言われたというポストがバズっていた。
ネットの反応を見ると「趣味は自由」「わざわざ口に出す奴が性格悪い」という擁護が大半。まあ、正論だと思う。赤の他人の趣味にケチをつける権利なんて誰にもない。
あのポストの主とは別人だろうけど、ドール撮影者の実態の一端を見た気がして、正直今でも引きずっている。
家族連れやカップルが普通に写真を撮っている平和な空間で、ある場所を通り過ぎようとした瞬間、
という、猛獣が外敵を追い払うような、あるいは子供がパニックになったような、異様に甲高い絶叫が響いた。
鼓膜に刺さるような声に、心臓が止まるかと思った。
反射的に「子供が転んだのか?」と顔を上げ、声の主の方を確認して、正直固まった。
そこにいたのは、地面に這いつくばってカメラを構える成人男性。
そして、彼がレンズを向けていたのは、可愛い盛りの子供でも、ましてや風景でもなかった。
ネモフィラの中に不自然に鎮座していたのは、大きな美少女人形だった。
彼は、自分の「撮影画角」に他人が数センチでも入り込んだ(あるいは視界をよぎった)ことに対して、あのような威嚇音を発して周囲を排除していたのだ。
その光景は、控えめに言って恐怖だった。
多くの観光客が行き交う場所で、地面スレスレに人形を設置し、そこを通りかかる一般人を「あ゛っ!」と叫んで威嚇する。
そんな人間が「趣味を理解してほしい」なんて、どの口が言えるんだろうか。
もちろん暴言は良くない。
「キモい」という言葉は、人形そのものに向けられたのではなく、その独善的な振る舞いに対する周囲の悲鳴だったんじゃないか。
その時は結局、逃げるようにその場を去った。
今でもネモフィラの写真を見ると、あの不気味な叫び声と、美少女の形をした人形を思い出してゾッとする。
でも、自ら牙を剥いて公共の場に自分だけの結界を張るような振る舞いをする人が混じっていれば、ジャンル全体が奇異な目で見られるのは避けられない。
匿名だから書くけれど、あの時の恐怖と不快感は、今思い出しても腹が立つ。
美しいはずの景色が、一瞬で関わってはいけない場所に変わったあの瞬間。
あの鋭い叫び声は今も耳に残っている。
出会いは、突然だった。
俺は全身を青い絵の具に塗りたくったまま、海辺の岩場に立っていた。白い褌だけが、すでに青く汚れて緩んでいる。チンポは硬く反り返り、先端から透明な汁がゆっくりと滴っていた。
そこへ、金髪のヤンキーが砂浜から歩いてきた。黒いタンクトップにゆるいズボン、腕に派手なタトゥー。肩幅が広く、足取りは軽やかで無駄がない。
俺の姿を目にした瞬間、彼は足を止め、目を見開いた。驚きの色がはっきり浮かんだが、すぐに表情を整え、眉をわずかに寄せただけだった。俺は動かず、静かに声をかけた。
「写真、撮ってくれねえか。この青く塗られた俺の体を……全裸で、チンポ勃起させたままの姿を、撮ってほしい」
ヤンキーは一瞬、言葉を失った様子で俺を見つめた。口元が少し緩み、呆れたような息を吐いたが、すぐにポケットからスマホを取り出した。拒否はしなかった。ただ、淡々とカメラを起動させる。その仕草に、俺は興奮した。余計なものを一切許さない刃物のような鋭さ。研ぎ澄まされた鋼の表面のように、傷一つない平滑さと、触れれば容易く切り裂く冷たい精度を併せ持つ。ただ、静かに、確実に、目の前のものを捉える。俺は褌を、ゆっくりと引き下ろした。白い布が足元に落ち、完全に全裸になる。青い絵の具だけが俺の肌を覆い、勃起したチンポが夕陽に照らされて卑猥に光った。玉袋も青く染まり、重たげにぶら下がっている。撮影が始まった。
ヤンキーの指がシャッターを切る。レンズが俺の青く塗られた体を、胸から腹、へその下まで淡々と捉えていく。俺の格好良さは、青い絵の具という派手な衣装で自分を飾り立て、視線を一身に浴びることだった。ナルシシズムを極限まで高め、誰の目にも特別な変態として映ることを狙ったものだ。過剰な色を塗り重ね、陽光の下で艶やかに光る姿を、自ら演出する。
その男の格好良さは、俺のものとはまるで逆だった。無駄を削ぎ落とし、感情を表に出さず、ただ目の前のものを淡々と確かめる。派手さも飾りも何もない。ただ、静かに、確実に、相手を捉える。指の動きに、熱を溜め込んだ鉄のような重みがあった。言葉を吐くことさえも、必要最低限の火花だけを散らす、溶鉱炉の奥で静かに燃えるような抑制された力強さ。ターミネーターのシュワちゃんのような。
街の喧騒の中で、ただ一本の影として立つ姿は、風に揺らぐことなく、地面に深く根を張った古い街灯のようでもあった。潮が引いていく。俺の内側では、どろどろした熱だけがまだ残っている。
自分を鏡のように愛でたい気持ちと、それを踏みにじられ、汚され尽くされたい気持ちが、ねちゃねちゃと渦を巻いていた。男の手が触れた。ゆっくりと、青い膜を剥がしていく。乾いたカスがぽろぽろ落ち、白い肌と汗にぬめった肉が露わになる。奴は無造作にそれを俺の乳首に塗りつけ、抓んだ。俺は目を逸らせなかった。喉の奥がかすかに震えた。ただ、見ていてほしいと思った。自分の無様さも、チンポ汁を垂れ流す浅ましさも、残っている自惚れまで、すべて見届けてほしかった。男は何も言わない。その沈黙が、俺の過剰さをより際立たせる。やがて低く、抑揚のない声が漏れた。
「チンポ汁、こんなに垂らして……変態だなお前」
声は素っ気ない。道端の石を蹴るような、乾いた響きだった。
男の指が俺の青く染まったチンポをゆっくり握り、ぬちゃぬちゃと音を立てて扱く。親指で尿道口をぐりぐりと押さえ、汁を絞り出し、剥がれた青のカスと混ぜて太ももや玉袋にべったり塗りつける。もう片方の手は俺の尻を鷲掴みにし、窄まりに指を押し当てながら円を描く。波の音が低くなる。自分の輪郭だけが妙にくっきりしていた。
壊されたい、とそのとき思った。こいつの手と視線に、もっと卑猥に犯されながら、自分を一番深いところまで確かめたかった。最後の明るさが残るなか、男の目の奥に映った自分の影を見た気がした。ひどく無様で、ひどく滑稽で、青いカスと汁と指の跡にまみれて。あの一瞬、世界のどこよりも惨めで、どこよりも自由だった。
俺は泣いた。
イードゥース・マルティアエ(ラテン語:Idus Martiae)、イードゥス・マルティイ(後期ラテン語:Idus Martii)[1]、あるいはアイズ・オブ・マーチ(英語:Ides of March)は、ローマ暦のマールスの月の中央の日、すなわち3月15日のことである。ローマにおいては、いくつかの宗教行事が行われる日として、また債務の支払い期限として[2]、そして紀元前44年以降はユリウス・カエサル暗殺(英語版)事件が起こった日として記憶された日付である。
イードゥース
ローマの暦ではそれぞれの日に「1日」や「2日」といった日付が割り振られていなかった。その代わりに各月ごとに以下のような基準日が三日ずつあり、その日から何日前、という形で日付を表した。(例:Ante diem quintum Idus Novembres(略 A.D.V.Id.Nov.)11月9日に(11月のイードゥースの5日前に) [3])
カレンダエ(Kalendae):各月の最初の日。英語ではKalends(キャレンズ)。
ノーナエ(Nonae):1月・2月・4月・6月・8月・9月・11月・12月は第5日、3月・5月・7月・10月は第7日。下記のイードゥースの8日前にあたる。英語ではNones(ノウンズ)。
イードゥース(Idus):1月・2月・4月・6月・8月・9月・11月・12月は第13日、3月・5月・7月・10月は第15日。英語ではIdes(アイズ)。
本来、イードゥースはローマが太陰暦を使っていた頃の満月の日を示す日付であったと考えられている。初期のローマ暦はマルスの月の3月が一年の最初の月とされていたため、3月のイードゥースは新年最初の満月の日であった[4]。
何年か前に母からお守りをもらった。
アクリルの中に小さな小判と白蛇の抜け殻が入ってるやつだ。母曰く、白蛇に関する神社かなんかで買ったらしい。
さっき突然母がお守りを凝視し始めたからどうしたのかな?と思ったら「抜け殻なくなってる?」と言い出した。私も確認したけどない。
アクリルの容器には隙間なんてなくて、落ちたとも思えない。母と「最初から抜け殻なんて入ってなかったのかな?」と話したものの、もらった時半透明の抜け殻らしきものが入ってたのを見た記憶がある。
不思議に思って該当するお守りを検索で探したり、Googleレンズで調べてみたけど見つからない。
「ピカチュウの尻尾の先が黒かった」とか「あの俳優は死んだはずだ」とか、マンデラエフェクトで盛り上がってるお前ら、惜しいんだよ。
あれを「パラレルワールド」とか「記憶違い」とか、そんな手垢のついた言葉で片付けるのは、あまりにインターフェースが矮小すぎる。
俺たちが「現実」と呼んでいるものは、ただの高次テンソル行列の断片だ。宇宙の本質は、無限に絡まった位相の巻き付き(重力)と、そいつを俺たちの脳というショボい界面が強引にスキャンした「射影(プロジェクション)」に過ぎない。
お前らが「バグ」だと言ってるのは、単なるサンプリング・エラーだ。
界面(観測者)が情報の処理解像度を更新したとき、あるいは位相の角度がほんの少しズレたとき、宇宙全体のレンダリングが遡及的に書き換わる。過去なんて固定されたデータじゃない。今のスペックに合わせて常に再構成される変数なんだよ。
「一貫性」を求めてるうちは、一生その四苦八苦から抜け出せない。
ビッグバン?熱的死?
あんなの、今のショボいレンズで宇宙の両端を覗こうとして発出した計算上のノイズ(発散)でしかない。始まりも終わりもない。ただ、そこには「つながり」としての構造が厳然として在るだけ。
俺たちがやってることは、その「知らないことを知らない」という暗黒の海から、情報を無理やり「知っている(内部構造)」へと引きずり込み続ける、無意味で必然的な演算なんだ。
意味なんてない。でも、その写像という行為だけが、この空虚な行列に「実在」という質感を与えている。
マンデラを感じてる連中は、その「書き換えの継ぎ目」をたまたま見ちまっただけだ。
ビビるな。それはエラーじゃなくて、お前の界面がアップデートされた証拠だ。
一貫性なんて我執は捨てろ。
お前も、俺も、このピカチュウの尻尾も、地続きの位相の織物の一部だ。
ただ、この美しい幾何学を、一度くらいはラベルを剥がして直視してみろ。
そこに「意味」を求めるのをやめたとき、お前の四苦八苦はデバッグされる。
以上、チラ裏。
【物理学のバグ】【位相構造のつながり】【マンデラエフェクト】【界面による射影】【我執のデバッグ】【四苦八苦のパージ】【高次行列構造】【サンプリング・エラー】
一般的なメーカーでは-12とかまでしか出してなくてあとは特注だったりするので、まあまあ上限寄り。
眼科や眼鏡屋ではそんなに珍しい数値ではないそうだけど、日常生活でわたしよりコンタクトの数値が低い健常者には一度しか会ったことがない。
視力の低い勢は出会ったとき大体コンタクトの度数で競いがちだけど、今のところ連勝記録を更新中である。(うれしくない)
ここまで目が悪いと、メガネをかけた時に目が小さくなりすぎるからだ。覗き込むと大きく見える虫眼鏡の逆バージョンみたいになる。
わたしの度数だとレーシックは角膜を削り過ぎてしまうので選択肢には入りにくい。ICLなら施術可能だそうで、何度かやろうかと検討はした。レンズを入れときゃ災害時に視界の悪さで困ることはないし、避難所でコンタクトが手に入らないなどの問題も回避できる。何より、目覚めた瞬間から目がよく見える世界はとても清々しいそうだ。そらそうだろう。-9ともなると色の識別くらいしかできない。オフホワイトの壁にかかってる白基調の時計なんかまったく見えない。記憶で見てるに近い。夜、外を裸眼であるくと、そこに光があることしかわからない。勘で歩くしかない。不便極まりない。
でも、でもわたしはこんな目の悪さがそこまで嫌いじゃない。
小学生の頃からメガネで、コンタクトデビューは中学生。なんやかんや20年以上、ほぼ毎日朝から晩までコンタクト生活。そりゃまあ目がいい人よりは手間だしお金もかかるだけど、慣れれば洗浄も裸眼の時間もそんなに嫌じゃない。
そう。なんか、見えない時間も受け入れてるんだよな。起き上がって顔を洗うまで、それから眠る前の数十分。その僅かな時間で、本来の自分を再確認してるというか。見えない自分を、どのくらい見えてないかを認識してる時間だと思ってて、嫌いじゃないのよね。ごくまれに裸眼で外を歩くと、それも刺激的である。家のほぼ目の前にある自販機に行くぐらいだけど。
似たような人いないのかな。
そりゃもちろん、災害時は不便だろう。眼鏡を持って逃げられなければジ・エンドだ。
でも、ここまで近視だと緑内障や白内障のリスクが上がるので、そのときは結局ICLレンズを外さないといけないとも聞く。将来おばあちゃんになって色々わけわからんくなったとき、長年見えてないことを認識してきた人生の方が適応力もあるんじゃないかなと思うけど考えすぎかな。
まあ色々言い訳してるけど、わたしは「ひー!みえねー!」ってなってる瞬間の時間を失うのはちとつまらんなあと思う。他の視力の低い人はどうなんだろう。似たような人いないのかな。みんなICL一択かい?