はてなキーワード: 脱オタとは
これはファッションとかに限った話じゃないが、ネットでも匿名掲示板や個人HP、個人ブログがメインだった2000年代だと、「それなりに纏まったちゃんとした情報」にアクセスしようとするとまあまあ大変だったわけで。
ファッションなんか若者向けの雑誌を1年くらい買って読めば「季節ごとの無難なファッション」くらいわかるのに金出してまで読みたくないとかそもそも雑誌とか抵抗感あるみたいな奴らが多かったからな。
あとそいつらの親とか家族とかがたまたま若者ファッションに詳しければいいけど、基本そうじゃないから「お母さんの買ってくれた服(そしてそれは基本的に若者目線ではダサい)」になってしまうわけでな。
今の時代「無難なファッション」程度ならインスタやTikTok活用ですぐ量産型的な正解にアクセスできちゃうから、逆に不正解にたどり着くのが難しいだろ。
シロクマ先生もdaleさんも一生懸命長文で語ってるけど、的外れだと思うな。
っていうかdaleさん復活してたんだね。久しぶりじゃん元気だった?
当時の脱オタって、2chのファッション板でなされていた議論が中心だったし、それを無視して何を語っても意味ないと思うよ。
まぁ、過去ログが全部消えちゃってるから、どんな感じだったかを確認しようにもできないんだけど。
『脱オタクファッションガイド』がオタク達を惑わしてマルイ系の服を買わせようとしてたなんてことは少しはあったかもしれないけど、そこまで大きな影響はなかったと思うな。
だってあれ発売当時にはすでに「ろくなこと書いてないからこんなもん読むよりファ板の脱オタスレを半年ROMった方が有意義」って言われてたぐらいだし……。
コムサで黒のテーラードジャケットを買うってくだりがあったはず。
当時の脱オタ希望者にとって電車男は一番わかりやすいロールモデルだったからね。
ファ板民は「無印良品のハリントンジャケットにユニクロのジーンズ、スタンスミスを履けば無難なコーディネートとしていつの時代も通用すると思うよ」とアドバイスしてくれていたんだけど、誰も話聞かないから諦めて「いかにマルイで失敗しないか」というアドバイスをするようになった。
いや〜、親切な人達だなぁ。
脱オタクファッションはなぜ失敗したのか?というのも的外れだと思うな。
みんな脱オタクファッションがそもそも何なのか?ということを理解してない。
ファッションのことなんて何にも知らないくせにファッションなんて意味ない!こんなものくだらない!って決めつけていたオタク達が、実際にファッションとは何かを体験することで、今までの自分の考えは勝手な思い込みだったのだと気付くことが重要だった。
でも、そこで見た目だけちょっと変えただけで満足して中身が変わらない奴らが現れて、そいつらが「脱オタは失敗した!あれは意味ない!」とか言ってるわけ。
ほら、今も「清潔感」っていう、自分にとってよくわからない概念をよく考えもせず思い込みで差別扱いしてるじゃん?
よくわからないものをよくわからないまま否定するなんて、そういう態度こそが差別なんだけど、それに気付けないまま20年も経っちゃったんだね……。
かわいそうに……。
かつて「脱オタク」という言葉が流行した時代があった。二〇〇〇年代、いや、もう少し前かもしれぬ。彼らは「普通」への帰依を夢見た。眼鏡をコンタクトに替え、チェックシャツを脱ぎ、ユニクロやセレクトショップで「無難」を装った。だが、どうしてか、その努力は多くの場合、痛ましいほどの違和感を纏って終わった。
――彼らには「風景」がなかったのだ。
社会というものは、ただ服飾や言葉遣いの集合ではない。そこには時代特有の空気感、あるいは「通信の作法」とでも呼ぶべきものがある。脱オタ世代の青年たちは、テレビや雑誌の中に「正しき青春」のイメージを探した。だが彼らの属した世界には、それを実感させる空気がなかった。インターネットはまだ断片的で、匿名掲示板は夜の雑踏のように騒々しく、他人の生き方を照らす明るさを持たなかった。
それに比べて、いまの若い世代はまるで違う。彼らはSNSとともに育ち、最初から「見られる自己」の演出を呼吸のように行っている。自分という存在を、現実とデジタルの中間に置く技術を、無意識に身につけているのだ。彼らにはもはや「脱オタ」という言葉が必要ない。なぜなら、自己の趣味や奇癖を「演出可能」な文化資本として接続する術を知っているからである。
かつてのオタクたちにとって、趣味とは「内にこもる小宇宙」であり、それを社会に接続する回路を持たなかった。その孤立の感覚こそが、「脱却」という幻想を生んだ。しかしSNS以後の子らにとって、趣味とは最初から「共有」の単位であり、孤立しようにも孤立できない。自己というものが、生まれながらにして発信の端末であるからだ。
かつての日本人は、「内」と「外」を峻別する文化を持っていた。書院造の襖の向こうに外界を置き、心は和室のように整えてきた。だがSNSの空間においては、襖という構造そのものが消滅した。心の奥までも、すべてがタイムラインの上に流れていく。そこでは、羞恥も秘密も、もはや「演出素材」にすぎない。
マネキン買い、未だにやっとる奴おるんか
マネキンのコーデは無難でもハイセンスでもなんでもなくて、遠目でも目立つガチャガチャコーデという事を脱オタ指南書は教えてくれんかったのか
前回書いたことのこぼれ話。
「別に自分はオシャレがしたいわけではなくてダサくなければいい」、「無難でいい」ってな感じの人はまあいるよね。
件の話でも、脱オタにおいて真に求められていたのはそこって話だったし。
そういう話に乗っかってくる時、ちょくちょく見かけるのがトレンドに対して無理解な人。
でもトレンドから遠すぎると「時代遅れ」とか「ダサい」ってなっちゃう。
つまり“無難”なファッションをやりたければ、つかず離れず“トレンドから適切な距離をとる”ことが求められてくる。
そのためには“トレンドの位置”を知っておく必要があるから、結局トレンドに一定の理解は必要となる。
「ダサい」と「オシャレ」の中間値が“無難”になりやすいわけだから、何がダサくなりやすいかも知っとかないといけない。
日本だって、洋服全般が蘭服なんて括られていた頃は、和服が“無難”だったわけじゃん。
その例えが極端だっていうのなら、昭和なり平成なり「時代ごとの無難なファッション」を思い浮かべてもらえばいいけど。
無難を目指すにしろ、自分のファッションセンスをコントロールする必要は出てくる。
そのためにはリテラシーを高めるしかなく、知識を積み重ねて、アンテナを張っておいてアップデートし続けないといけない(前回書いたことの復唱になるけど)。
妥当性ある判断力を高めるためにはリテラシーが必要ってのは、何もファッションに限った話じゃない。
一旦、自分の現状とかコンプレックスとかそういうバイアス抜きにして、トレンドを小ばかにする周りのそれっぽい言い分も無視して。
周りの“それっぽい言い分”とは、例えば「好きなものを着ればいい」とかね。
本当に個人的に好きなものを着ていたい人、或いはファッションに無頓着なまま生きていたいって人は、そんな“定型句”に頼る必要すらなく、ただスルーして自由を謳歌していれば済む話。
もしそうではなく、ファッションに一定の関心がある人、世間とのすり合わせをしたい人、自分が納得できるところまでいきたいって人が言ってしまっているなら危うい。
厳密には「不自由という枠組みの中に、“自由”とか“好きなもの”がある」というべきか。
ゲームをしたことない人間にオープンワールドゲームをやらせる感じ。
いくら自由といったってファッションにだってルールがあるし、コードがあるし、セオリーがある(勿論それらは微妙に変化していく)。
そりゃあ、葬式にリクスー使いまわしたり、ローファー履いてくる大人とかもいるけどね。
ただ、それはリテラシーが低くはあっても一応「黒いスーツに革靴がいい」くらいのことは漠然と分かっていて、それに従った方がいいとも思ってるからの状態なわけじゃん。
つまりファッションというものが時に漠然としていて不定形な部分がありつつも、どこかしらで共通しているし、共有すべきだと大半の人は思っている。
カジュアルな場だって、捕まらない範囲でギリギリの格好する人なんてほぼいないわけじゃん。
“好きなものを着ればいい”と皆が本気で思ってるんだったら、もっと個性あふれる多種多様な恰好した人々で溢れかえってるわけで。
それに“無難”というのだって、ルールなりコードなり、セオリーがあるからこそ出てくる概念だと思うんだけどなあ。
……なんか、これまで書いてきたことを、ほぼ言葉を変えただけの内容になってしまったような。
まあ、いいや。
シロクマ先生が『なぜ彼らは脱オタクファッションに失敗したのか』 的な記事あげてたけど、ファッションについて詳しく語っているわけではない著書を参考にしてきて首を傾げた。
「なんでその話を、その観点から語ろうとするんだ」って感じの記事をシロクマ先生はよく書いてる印象だけど、ただ実のところ今回は全く的外れってわけでもない。
そうしてでた見解が、擦り倒された無個性ファッションのノウハウを焼き増しでしかなく、ファッションに詳しい人たちはより直接的かつ具体的に語ってきたことだけどな~とは思うけど。
でも、はてブの人たちのファッション感度ってシロクマ先生と近い人が多い印象なので、身内でワイワイする分には丁度いいのかも。
ちなみに俺は「当時あれらにしっかりとした基盤、体系からのアプローチが不足していた」のが要因だと思ってる。
あれらはオタクのあるあるファッションをNG設定にすることが前提で、当時の主流スタイルをとにかくやらせるってのばかりだった。
ああしろこうしろ、あれはダメこれはダメというその場しのぎの説明が前面に出ていて。
「1+1=2です」です、「2-1=1です」、「1+1=3ではありません」じゃなくて、足し算や引き算のやり方を教えないといけないのに。
ファッションは流動性の高い分野だから、応用の利かない教え方をしたら容易くボタンをかけちがえる。
そうならないようコンテキストを理解しないといけないし、そのためには知識を蓄え続ける必要がある。
例えば近年あったスニーカーローファーの流行ひとつとっても、まずローファー自体が流行ってたって前提を踏まえておく必要があるわけ。
じゃあなんでローファーが流行ったかっていうと、スタイルの流行がストリートからクラシックへ変わっていく途中だったから。
でも、そういうものってすぐに切り替わるわけじゃなくて、上から下へ、ゆっくりと流れていく。
だから厚底のスニーカーから、いきなりクラシックなドレスシューズが流行るわけじゃなくて、段階的にまずはローテクなレザースニーカーだったり、カジュアルよりなローファーが間に入ってくる。
その過程を知っていたら、スニーカーローファーがでてくるのも不思議じゃないことは分かるよね。
しかもスニーカーブームが落ちつきつつある時期だから、スニーカーのメーカーはそこに注力して売れるなら売りたい。
だからガンガン作るし、供給スピードが早ければ、あっという間に市場に広まる。
つまり“流行りきる”のが早いってわけで、その流れを把握していたら「スニーカーローファーのブームは寿命が短い」ってのは自ずと予測できる。
流行ってのは、その分野を良く知らない人にまで認知された時が終わりの始まり。
でもファッションを“点”で見ている人は「いきなりよく分からないものが流行って、よく分からないうちに廃れた」ように映る。
基礎知識を踏まえつつ、アンテナを張って、アップデートして、点と点を線でつないでいけば何ら不思議じゃない現象なんだけどね。
あえて一言でいうならば“リテラシー”がどれだけあるかって話。
リテラシーが求められるのって、何もファッションに限ったことではない。
それこそオタクならサブカルとか、にわか仕込みの知識を披露したり、周回遅れのことをいってる輩にどのような反応をしてきたか、されてきたか。
話題のアニメの感想を呟き、連載中の漫画の感想を1話ごとにコメントするような人間が、ファッションにもトレンドがあることは軽んじる。
通常なら働きやすい理性が、ことファッションになると鈍くなったり、そういう言説に同調したがる人が増える。
つまりファッションのスタート地点には自然と立てているから距離感を間違ってしまう。
そのスタート地点から進むためには、普段から“運動”していないとマトモに走り続けることができない。
でも、それって体力も根気もいるし、ゴールなんてない。
さっきのスニーカーローファーの流行を説明するだけでも、順を追って語ろうとするとあれだけ書かないといけない(まるでファッション分かってない人相手だと、あれでも不十分だし)。
だから説明する側は「ある程度は分かってる人」や「前向きに関わろうとしている人」向けの語りをする。
そうじゃない人は今すぐできて、楽で、それやってたら一生OKみたいな正解を求める。
そこに溝ができて、埋まらない、深まっていく。
まあ、それを怠惰と責めるのもお門違いだけど。
しかも日本の学校は大半が制服だから、そんなこと意識する必要もないまま大人になれるわけで。
なのに、いざ大人になったらファッションセンスがないだの、ダサいだのいわれる。
そりゃあ「ファッションは自由だ」とか「ダサいとかそういうの気にする奴の方がダサいんだ」みたいな定型句に頼りたくもなるよ。
必要に迫られてこなかったものを今さら迫られたところで、ねえ。
それにファッションに限らず、あらゆる分野はピラミッド構造で、関心の低い人ほどたくさんいる。
上層の提言は「お高くとまりやがって」って感じ、下層では「好きなもの着ればいい」の大合唱ができやすい。
そんな環境でオシャレに前向きになるのは難しい。
あと、こういう話のとき、“昔はファッション頑張ってた系”の人が出しゃばってくるの厄介だよなあ。
さっきも書いたけどファッションは流動性が高いから、昔の経験で語られても困るというか。
ところどころ言っていることは正しいんだけど、現状を踏まえてないから微妙にズレてて訂正や補足が面倒だし、リテラシーがない人は全面的に信じちゃうし。
そういえば、最近きつつあるプレッピーやクラシックのようなスタイルを、ノームコアとかいってる人がいたなあ。
クワイエットラグジュアリーのときもノームコアだのいってる人いたけど、派手じゃないスタイルは全部ノームコアに見えちゃうのかな。
……うーん、余談ばかりになってきて書くのも飽きてきたので、今回はここらで終わり~っと。
高度経済成長期の最後であるバブル景気を含む80年代は「躁」の時代。
バブル崩壊後の90年代は、リストラや自殺など「鬱」の時代。鬼畜ブームの時代背景。『完全自殺マニュアル』が1993年。
「ネアカとネクラ」は80年代前半の流行語。右翼(三島由紀夫の割腹自殺)と左翼(連合赤軍の内ゲバ殺人)は
ハナから論外だが、ノンポリ(無党派)でも地味で生真面目に思い詰めた感じのダサいやつ=「根暗(ネクラ)」には
否定的(攻撃的、嗜虐的)な時代思潮が80年代。本来は生真面目で思い詰めた感じの「ネクラ」に属するはずの学者が、
難解な現代フランス思想を軽薄なイメージで紹介して注目された「ニュー・アカデミズム」ブームが80年代前半。
お笑いに関しては、80年代前半に下品なホンネを剥き出しにした「漫才ブーム」と、80年代中期からのバブル景気と共に人気者になった「とんねるず」。
80年代後半(バブル絶頂期)の「オタク差別」の下地は、既に80年代前半に出来上がっていた(⇒ネクラの蔑視)。
批判される側には反論の場や方法が皆無で、一方的に「批判され放題」なのも、この時代(オールドメディア全盛)の特徴。
「ネクラなタモリ」が同類のネクラを攻撃(密告=裏切り)する時代。「脱オタしたオタク」がオタクを批判するのと相似形。
「ネクラ」も「オタク」も自認(自称)して引き受ける「属性」では無く、当初は否定的な目的でカテゴライズされた「蔑称」だった。
「陽キャと陰キャ」は2010年代。多様性の時代。「ネアカとネクラ」の時代と違い、「陰キャ」を自任する人間に
地方出身、2年前から東京住まい、36歳童貞、年収850万円。
兄弟たちの子供は好きだし結婚願望もあったし、東京にいるし、ちゃんと婚活してみようと思った。
もし、仮に、逆に、万が一、めちゃくちゃ上手くいって、女の子と会うのが怖い。
そこで、婚活のための活動、婚活活のために取り組んだことをここに残す。
不安に感じたことについてそれぞれ何をしたか、費用も含めて書く
・体毛が濃い
・太っている
・年相応に頭部が後退しはじめている
・人の目が怖い=自分に自信がない
・服がダサいかも
・おしゃれなお店にいくと汗が大量に出る
経過1年
ヒゲはまだ生えるが、夕方泥棒ヒゲは卒業した。VIOもきれいになって快適かつ体臭も改善した。
Vは整える程度に残しているが、その過程で一定期間全剃り状態だったので銭湯が恥ずかしかった
経過半年。
痩せてない。食生活変えるのがめちゃくちゃ難しい。
筋トレフォームを見てもらい、自分なりにトレーニングに課題が明確になった。
これは引き続き取り組んでいる。
半年経過。
諦めにより長めだった髪を短く切り、こまめに理容室に通うようにした。
理容室はバーバーみたいな男らしい感じのお店に行くようにした。
メンズ眉毛サロンはカッコつけたいというよりは、「社外の方とお会いする際に良い印象を与えたいのですが」と仕事を理由にするようにした。
数年メンテナンスしてなかったので歯医者にいき歯石除去した。虫歯できてた。
幸い歯並びが悪い方ではなかったけど、
また、回転数の高い高級歯ブラシを買い磨き残しがないようにして、舌ブラシとジェルも使うようにした。
舌については、どうやらジェルのおかげで舌の汚れが取れるので、ジェルもケチらず買った。
半年経過。
洗剤は消臭だけど無臭のものを選んだ。洗剤には過度に期待しない。衣類の熱湯や煮沸消毒も。
ボディブラシで脇や関節部位、VIOを洗うようにした。
ボディタオルよりボディブラシだとしっかり洗える。洗い終わったブラシが普通に臭くなる。
プレシャンプーで頭皮の皮脂が落ちてるようで頭のくささも改善した。
腕時計は中古市場があり、中古で買えば売っても差額は勉強代程度で済む。
中年だから、中古品のに傷も前から持ってる感が出る。中年だからこそできる試行錯誤。
10代の頃は電車男が流行っていて脱オタでファッションが課題とされていた。
この20年の間でノームコアが浸透したおかげでシンプルで、なおかつ人と被っても恥ずかしくない。中年だしね。
おかげで10代の頃は禁じ手だった、マネキンのあれください、が余裕でできる。
ならば、すべてのおしゃれなお店は難しいので、おしゃれなカフェに動じないようにすればよい。
スーツで出かけ、仕事中にちょっと休憩にきたという体裁で、間を開けず3回程度通う頃には冷や汗をかかなくなった。
冷や汗が出るのが定員さんと接しているときなので、タッチ決済で接触時間を短くした。
まだ全然ダメだが、結婚する気がありそうなちゃんとしている人には見える、、、かもしれない。
脱脱オタおじさん服なので