界隈のLandscape 203
京成の東中山駅で下車し、船橋市西船界隈を歩いた。
県道180号を北上し、西船六丁目の坂道を下る。
突当りに欅の大木が見える。
欅の傍らに説明板がある。この欅は船橋市内で最大のものという。説明板には「葛羅の井」と記されている。
「葛羅の井」である。今では、水は濁り金魚が泳いでいるが、昔はこの水脈が竜宮界まで通じていて、いかなる日照りにも涸れることなく、マラリアの一種を患う者がこの水を飲めば治るともいわれていた。これまで、路傍学会では「勝間田の池」、「二子浦の池」、「二子藤の池」などを報告してきたが、かつての葛飾の地は水に恵まれた地域だったようだ。
「葛羅の井」の前に石碑が建っている。戦後、この辺りを散歩していた永井荷風は、宣伝広告が貼られた石碑の、僅かに露出していた文字が気になり、傍の井戸でハンカチを濡らし石碑をきれいにすると、現れた碑文と筆跡は大田南畝の揮毫によるものであった。後日、これが新聞に掲載され葛羅之井は一躍有名となったという。
路傍に建つ説明板には、この石碑の傍らに立つ永井荷風の写真が掲げられている。
葛羅の井から南へ歩く。
西船六丁目の路傍に宝成寺が境内を構えている。
参道の坂を上ると山門の右手に六地蔵や十九夜塔と並んで馬頭観音が祀られていた。元号の部分が剥落しており、造立年は不明である。
この一帯はかつて栗原郷といわれ、江戸時代の初期は成瀬氏が治めており、墓地の奥に成瀬正寿の巨大な墓石がある。高さ約3.6m、幅90㎝、厚さ40㎝余りで、千葉県内で最大級の墓石という。
江戸名所図会の「葛飾神明社」である。画面右の赤い丸の中に「葛の井」とある。葛羅の井である。画面左のオレンジ色の丸が宝成寺である。右上の文章に、宝成寺に椿の大樹ありとあるが、今、その姿はない。この名所図会を見ると、葛羅の井、宝成寺などは江戸時代から近接した名所として認識されていたことが分かる。
宝成寺から南下し、京成線を越えるが、踏切から京成西船駅が見えた。
さらに南下し、総武線の地下通路を通る。うーむ、こうした通路の落書きは何とかならないものだろうか。
市川市に入り、二俣日枝神社を参拝してから県道179号を越えると福泉寺がある。行徳山福泉寺は江戸時代に本行徳の金剛院から移されたという。
福泉寺近くの県道の路傍に庚申塔が祀られている。左端の青面金剛碑の右側の側面には「左 舟はしミち」とあり、道標を兼ねた庚申塔である。文政元年(1818)の造立。
背後を流れる水路を見ると、体長15㎝程の魚が泳いでいた。ボラの幼魚だろうか。
この後、西船橋駅まで歩き帰途に就いた。
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界隈のLandscape 202
中門跡である。中門は、金堂、講堂などの主要建物を囲む塀の南面中央に設けられた門である。この門の奥に国分寺の伽藍中枢部が広がっていた。
中門の北に大正13年に建てられた「史蹟 武蔵國分寺址」と刻された石柱がある。100年前に建てられた碑である。
武蔵國分寺址碑の後ろに金堂跡がある。国分寺の金堂としては全国でも最大級の規模と荘厳さを誇っていたという。
基壇の中央部には須弥壇が復元されている。3つある八角形は本尊である釈迦如来像と脇侍菩薩像(文殊菩薩、普賢菩薩)が安置されていた場所を示している。
講堂跡を向こうには、前号で報告した薬師堂へ上る石段が見える。
説明板に掲げられていた伽藍中枢部の復元模型の写真である。伽藍中枢部は東西約156m、南北約132mに及んでいた。薬師堂は、北方建物の位置に建っているのかもしれない。
武蔵国分寺址の北、国分寺市西元町一丁目に境内を構える国分寺の楼門である。
国分寺の楼門前を東へ進むと清流に沿ってお鷹の道遊歩道がある。
お鷹の道を左に折れると真姿の池湧水群がある。
国分寺崖線の下部から清水がこんこんと湧き出ている。この湧水群は全国名水百選に選ばれている。猛暑の中、水浴びをしたくなる。
湧水を湛えた真姿の池の中には真姿弁財天が鎮座している。
お鷹の道を進むと長屋門があった。
次第に水路の両側に家が増えてきてお鷹の道は終了する。
国分寺街道に出て、歩いていると理容店があった。日本橋という名である。その由来を訊ねてみたくなる。
日本橋の近くには板張りの看板建築がある。何を商っているのだろうか、気になるところである。
南町三丁目、野川と元町用水の合流点に不動橋が架かっている。その橋の先に石塔が見える。
小屋根の下に不明王碑と青面金剛が並んでいる。
青面金剛は六臂の合掌像である。新しいものかと思ったが、延享2年(1745)の造立であった。
この後、国分寺駅まで歩き、帰途に就いた。
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青面金剛のLandscape 470
東山道武蔵路の路傍で国分寺市役所の新しい庁舎の建設が進められている。古代官道に面しており、庁舎が建つに相応しい場所であろう。
東山道武蔵路跡を進み、国分寺崖線の坂の途中に本村八幡神社の鳥居がある。
石段を上がると、鳥居の前にまだ新しい祠がある。
祠内には六臂の合掌青面金剛が祀られている。表面が荒れているが、寛保元年(1741)の造立である。令和2年に東元町から遷されたという。
社殿前には力石が安置されている。
本村八幡神社前の坂を少し下ると国分寺薬師堂へ至る石段がある。
石段を上ると仁王門の前に石塔が並んでいる。
中央は六臂の合掌青面金剛である。笠も残り、綺麗な像だが顔が傷んでいるのが惜しい。宝暦14年(1764)の作。
仁王門は宝暦年間に建立された入母屋造の八脚門である。
享保3年に造立された仁王像が安置されている。
仁王門の先にはさらに石段がある。
石段を上ると薬師堂がある。薬師堂は、建武2年(1335年)新田義貞の寄進により、武蔵国分寺史跡の金堂跡付近に建立され、宝暦年間に今の場所に移され建て替えられたものという。
武蔵国分寺の扁額が掲げられている。
向拝虹梁や持送りには繊細な彫刻が施されている。
薬師堂の裏手には石仏がずらりと並んでいる。
これは千手観音だろうか。
この後、武蔵国分寺跡へ向かった。
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界隈のLandscape 201
平安時代からこの地を治めていた豊島氏に由来する豊島を歩いてみよう。
豊島八丁目、庚申通り商店街にある食堂の食品サンプルである。安くて美味そうである。
豊島七丁目、釣具店がある。
店先の貼紙に「近くの荒川、隅田川で釣り出来ます」とある。ハゼや鰻が釣れるのだろうか。
釣具店の東、庭の植込みの上に鉄道の腕木式信号機が見えるではないか。趣味として庭に設置しているのだろう。羨ましい。
豊島三丁目、豊島中央通り商店街に豊島湯がある。商店街の連続する雨よけテントが唐破風のカーブに合わせてこんもりと盛り上がっている。
豊島二丁目、並ぶ神社の幟の奥に遊具が見える。児童遊園のようだ。
遊具の後ろに若宮八幡神社が鎮座している。
本殿である。由来に「旧若宮村の村社にして、豊島清光がその子清泰の死を悲しみて、その霊を祭れるを起こりと伝えられる」とある。この社も豊島氏に関係するものだった。
豊島一丁目、いなり通りである。豊島一丁目にはかつて東京製絨(せいじゅう)会社があったが、震災で倒壊し、その跡に「王子三業地」が出来たという。
いなり通りから築地通りに入ると「扇屋」と記されたビルがある。これは卵焼きで有名な王子扇屋の支店かと思ったが、調べてみたら貨物トラックの運送業者であった。花街とは関係がなさそうだ。
「扇屋」の先にある「日満運輸」の看板には「運輸省陸運局免許」の文字が見える。運輸省は、平成13年に建設省などと統合して国土交通省となっているので、それ以前のままの看板である。
「日満運輸」の先に錆びた町名看板があった。スポンサーの動物病院は、北区西が丘で今も営業を続けている。
築地通りである。王子三業地は、昭和30年頃にピークを迎え待合、料亭が27軒を数え、この通りには映画館もあったというが、その面影は感じられない。どこかに痕跡はないものだろうか。
手前に見える「えびすや」は弁当、仕出し料理店だが、ひょっとしたら花街の料亭がルーツにあるのかなどと思いたくなる。
王子二丁目に美容室がある。ここで芸者が髪を結ったのではなどと妄想は膨らんでしまう。
この後、王子駅まで歩き帰途に就いた。
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神社のLandscape 335
久しぶりに墨田区東向島を訪ねた。
墨田区東向島二丁目から明治通り越しに向島百花園の木々が見える。
以前報告した百花園の手前の琺瑯製の町名看板は健在であった。
百花園横の道を進むと旧墨堤通りに出る。古い地図を見ると墨堤はこの辺りで湾曲している。今も旧堤の上に道路が通っていることが分かる。
堤の上を進むと猿田彦大神を主祭神とする白髭神社の森が見えてくる。
江戸名所図会に描かれている白髭明神社である。画面左に墨堤から下りる石段がある。
堤を下りて境内に入ると重厚な由緒書がある。由緒の中に「社前の狛犬は山谷の料亭八百善として有名な八百屋善四郎、吉原の松葉屋半左衛門が文化十二年に奉納した」とある。
社殿前の狛犬は鱗を纏ったような体である。
この台石に「八百屋善四郎 駿河屋市兵衛」と刻されている。この面の反対側に「松葉屋半左衛門」の銘があった。八百善は江戸で名高い料理店、松葉屋は遊郭で、市兵衛は、新吉原仲ノ町の引手茶屋である。由緒に「駿河屋市兵衛」名が記されていないのは何故だろう。
東向島三丁目、白髭神社の北側に法泉寺がある。
これは2013年8月に撮影した法泉寺境内にあった庚申塔である。白い紙が貼られている。無縁墳墓等改葬公告である。指定期日までに申し出がなければ無縁仏として改葬する旨が記されていた。庚申塔にこうした紙を貼ることに疑問を感じた。
これは2017年1月の法泉寺境内である。墓地の奥に無縁仏が集められていた。
この時、延宝年間の庚申塔とその台石を見つけたが、他の2基は分からなかった。
その後、庚申塔はどうなったのか気になっていた。
個人の墓が集められているエリアに庚申塔は見当たらなかった。
広い墓地をうろうろさせていただくと、明治通りの近くに三基の庚申塔が並んでいるのが見えた。場所は変わったが、きちんと安置されていた。
東向島四丁目、明治通りの路傍に長屋店舗があった。昔はこのような長屋店舗が通りに沿って連坦していたのだろう。
明治通りを進んで白髭橋を渡る。現在の橋は昭和6年に竣工したもので、アーチが美しい。白髭神社に狛犬を奉納した八百善があった場所に行ってみよう。
これは広重が描いた「江戸高名会亭尽」の内「山谷 八百善」である。八百善は、享保2年(1717)に浅草山谷で創業し、江戸でも随一の名店となり、文人墨客が集う高級サロンであった。狂歌師、戯作者の大田南畝は八百善の常連客の一人で、当時の一流を並べ「詩は五山 役者は杜若 傾はかの 芸者は小萬 料理八百善」と言わしめた。
台東区東浅草一丁目、画面中央の信用金庫が建っている辺りに八百善が店を構えていたようである。以前、駿馬塚を報告した際にも探してみたのだが、将軍も度々訪れた名店がここにあったことを示すものは何も見つけられなかった。
現在、八百善は十一代目が鎌倉で営業しているという。いつか行ってみたいものだ。
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水辺のLandscape 15
江東区佐賀一丁目、隅田川河岸から見た日本橋川である。河口近くに架かる橋は、以前報告した豊海橋である。元禄年間に初めて架けられた橋で、現在の橋は関東大震災後の復興事業で架けられたものである。
永代橋で隅田川を越える。トラスが美しい。
豊海橋から見た上流方向である。湊橋が見えている。湊橋の上流から、川の上に首都高が通るようになる。画面奥に見える建設中のビルは、中央区日本橋一丁目の再開発事業によって建てられている高層ビルである。日本橋川の両岸は高い護岸に沿ってビルが建ち、川面に近づくことができない。
新川一丁目では、護岸の上にウミネコが羽を休めていた。ウミネコがビルの屋上で繁殖し、鳴き声や糞が問題となっているが、このウミネコも都会育ちなのかもしれない。
日本橋茅場町一丁目、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する亀島川の上流端に日本橋水門がある。下流端には亀島川水門があり、高潮や津波時には、亀島川流域住民の生命、財産を守るため両水門を閉鎖する。耐震補強工事が行われていた。
茅場橋から見た鎧橋である。鎧橋の左手に東京証券取引所がある。江戸名所百景見ると、この辺りの川沿いには蔵が建ち並んでいた。
江戸橋である。江戸橋の上空にも首都高が通り、その両側に出入口があった。
これは2021年1月に撮影した首都高の江戸橋入口である。入口の左には野村證券のビルが建っている。
同じ時期に撮影した首都高の江戸橋出口である。
2022年6月に撮影したもので、首都高の入口は閉鎖され、野村證券のビルの撤去が進められている。
入口のスロープの撤去が始まっていた。
最近撮影した江戸橋である。野村證券のビルの跡地では新たなビルの建設が始まっている。
入口のスロープはすっかり撤去され、川面を眺めることができるようになった。これは首都高都心環状線を地下化する工事の一環という。
日本橋から下流方向を見たところである。江戸橋と日本橋の北岸に魚河岸があった。
これは江戸名所図会に描かれた日本橋魚市で、さまざまな魚介が荷揚され、店頭に並び、威勢良く取引されている。利根川、江戸川を経て運ばれた千葉の鮮魚もここで取引されたのだろう。魚河岸では一日に千両の取引があったという。
大いに繁盛した魚河岸であったが、関東大震災により焼失したため、300年の歴史を閉じて築地へ移転した。日本橋の橋詰に「日本橋魚市場発祥の地」と刻された石柱が建っている。その奥には「龍宮城の住人である海の魚が、ことごとく日本橋に集まった」という意味を込めて、乙姫をイメージした像が置かれている。
三越前から見た日本橋である。背後に見える建設中のビルは湊橋の上に見えたビルである。完成すると284mの高さになるという。日本橋の上を通る首都高速道路は、地下トンネルの工事を経て、撤去が終わるのは2040年度の予定という。その時、日本橋ではどのような景観が広がっているのだろうか、路傍学会の興味は尽きない。
日本橋から移転してきた魚市場は、2018年10月に豊洲へ移転した。この築地市場跡地には、野球、サッカーなど各種スポーツの世界レベルの大会やコンサートの開催を想定した5万人収容の屋根付きスタジアムのほか、場外市場とも連携した日本食を提供する食のエリアや会議施設などが設けられるという。江戸時代、ここに松平定信の屋敷があり、浴恩園という名園があったのだが、そうした歴史を踏まえた街づくりはできないものだろうか。
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神社のLandscape 334
8月14日号の続きである。御岩神社からバスに揺られて日立駅に戻って来た。
日立駅の駅前広場には、日立製作所が試作した原子力発電所用のタービン動翼が展示されている。企業城下町らしいモニュメントである。
画面中央に見えるのは駅に併設されたカフェである。行ってみよう。
カフェの手前に「デジタル声優アイドル」として活動するグループのパネルがあった。
カフェからの眺望も素晴らしい。
景色を楽しみつつタコライスをいただいた。
腹を満たした後、大甕駅へ向かった。「甕」は「みか」と読む。難しい。
大甕駅から泉神社を目指す途中、理容店の前に馬頭観音が祀られている。昭和22年の建之である。
日立市水木町、緩やかな坂道の途中に泉神社の鳥居が見える。
参道には黒い幟がずらりと並んでいる。
参道の先に拝殿が見える。泉神社は「延喜式神名帳」に記載されている「天速玉姫命神社」に比定される古社である。現在の社殿は昭和58年に再建されたものである。
向拝虹梁、懸魚の龍が参拝者を見据えている。
社殿の左側に通路がある。
社殿を回るとこんこんと清水が湧き出ている池とその中に鎮座する厳島神社がある。泉神社の境内一帯は「泉が森」と呼ばれ、「常陸国風土記」久慈郡の条に「密筑の里の大井」とあるのがこの「泉が森」とされている。
湧水池の畔に「泉龍木」が展示されている。境内の奥地より発掘され、姿が龍に見えることから「泉龍木」と名付けられたという。確かに龍の姿に見える。
泉神社から道路を挟んで「イトヨの里泉が森公園」がある。
神社からの湧水が流れ込み、稀少魚イトヨが生息している。池の周りにはイトヨの観察デッキが設けられている。
泉神社から大甕駅へ戻る途中、三叉路に八坂神社が鎮座していた。約百四十年前に、現在のつくば市に鎮座する一の矢八坂神社の御祭神を勧請したものと伝わる。
大甕駅である。平成30年に供用が開始された駅舎である。
大甕駅から普通列車で帰途に就いた。
今回は「青春18きっぷ」を利用したが、青春というネームは高齢者には少し恥ずかしい。old
person用に「白秋88きっぷ」を作ってくれないだろうか、などと思いながら、現地で求めた地酒をいただいた。
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神社のLandscape 333
日立駅は美しいガラス張りの橋上駅舎で、グッドデザイン賞を受賞している。太平洋の眺めが素晴らしい。
日立駅から車に揺られて御岩神社前までやってきた。看板に常陸最古の霊山、旧水戸藩祈願所とある。
鳥居が見える。この近くでは熱中症対策のためのミストシャワーが出ていた。鳥居を潜ると背の高い樹木が立ち並び、凛とした空気に包まれる。
鳥居の先に御神木の三本杉が聳えている。地上3m位から3本に幹が分かれている樹高50mに及ぶ巨樹で、茨城県の天然記念物に指定されている。
楼門である。廃仏毀釈によって取り壊されたが、その後再建されたものである。両脇の仁王が睨んでいる。
楼門の天井画、日天図である。門を潜ると月天図がある。
境内に百観音堂、常念仏堂があったことを示す石碑である。御岩神社は中世より神仏混淆の霊場であったが、神仏分離令により諸堂が取り払われている。
斎神社回向殿の近くには石仏が並んでいる。
猫の石像もあった。
回向殿の天井には大迫力の雲龍図が描かれている。回向殿には阿弥陀如来像が安置されていて、神仏習合色が残っている。
回向殿の先にある石段を上ると御岩神社の社殿がある。国常立尊、伊邪那美命、大國主命など26柱が祀られており、御岩山全体では188柱の神々が祀られているという。
社殿の横にある祠の中におわすのは姥神である。元御岩山結界石像と記されている。子育て、安産の神様である。
社殿の裏手に賀毗礼神宮へ至る参道がある。賀毗礼は「かびれ」と読む。
参道を上り始めて間もなく、左に「ここまで 白亜紀 一億年前の地層」とあり、右に「これより カンブリア紀 日本最古の地層五億年前」とある。参道を挟んで地質時代が大きく異なるのは面白い。
汗をかきながら急勾配の山道を上ると賀毗礼神宮にたどり着く。社殿前の石段も急で上るのがつらい。天照大神、邇邇藝命、立速日男命が祀られている。
社殿は背の高い杉に囲まれ清々しい空気が流れていた。
この社殿の上に御岩山の山頂があるのだが、帰りのバスの時刻も気になり山頂は次の機会に登ることにして、裏参道を下った。
裏参道の途中に薩都神社中宮がある。常陸太田市里野宮町にある薩都神社の奥宮で、立速日男命を祀っている。参拝者が多くいるのだろう、参道では樹木の根が露出してしまっている。
御岩神社に戻ると狛犬が笑顔で迎えてくれた。
枯木の株の上、タマアジサイが花を咲かせていた。境内は苔に覆われ庭園のような美しさである。
この後、御岩神社前からバスに乗り日立駅へ向かった。
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界隈のLandscape 200
松戸市紙敷を訪ねた。
北総線の秋山駅で下車し、炎暑の中歩き始めた。
15分程歩くと、電柱に目的地の看板が見えてきた。
昭和の杜博物館入口である。昭和の杜博物館は、昭和30年代~50年代頃に使われていた民具、玩具や模型、車、鉄道、軽飛行機、小型船舶など、あれやこれやと集めたB級私設博物館である。
門を潜ると時代物の車が並ぶガレージがある。ガレージの上にはパイパー機が展示されているが、水平尾翼が見当たらない。
ガレージの中に日野コンテッサがあった。ジョヴァンニ・ミケロッティが手がけた優雅なスタイリングで、子供の頃にあこがれた車である。この他にスカイラインGT-Rやデボネアもあった。
冷房の無い展示館に足を踏み入れると、ゴジラやダースベイダー、C-3POなど鉄のオブジェが展示されている。
全長5mもある空母ホーネットや軍用機のプラモデルの展示室の先には、子供の頃に夢中になったプラモデルの箱絵を数多く手がけた小松崎茂氏の作品も展示されていた。
昭和の広場には、流山電鉄で走っていた「なの花」号や銚子電鉄のデハ1000等の車両が展示されている。なの花号の手前には腕木式信号機も見える。
数ある車両の奥に車掌車の「ヨ」が置かれている。昔の貨物列車の最後尾には必ずこの車掌車が連結されて、子供心に乗ってみたいと思っていた。
中央に見えるのは暖房用の石油ストーブである。窓枠は木製である。
天井も板張りで、JNRマークの付いた扇風機がある。古いタイプの車掌車を堪能することができた。
「古民具館」には、和文タイプライターが展示されていた。若い頃、職場で目にしていたが、ワープロの普及で姿を消した事務機器である。ニコンの顕微鏡もあった。
とても紹介しきれない何でもありの博物館を後にして、東へ歩くと国の登録有形文化財になっている旧斎藤邸がある。この日はイベントがあり、見学できなかった。
旧斎藤邸の先を歩くと長屋門があった。重厚な造りである。
春日神社を参拝し、東松戸三丁目に入ると廣龍寺がある。
山門の前に石塔が並んでいる。
これは帝釈天を主尊とする庚申塔で、松戸市内で唯一のものという。嘉永5年(1852)の造立である。珍しい庚申塔なのだが、逆光で見づらいのが惜しい。
東松戸二丁目、墓地の外に髭題目が彫られた庚申塔が3基並び、その右側には馬頭観音が祀られている。古地図を見ると、この前の道路は古くからある道で、往来が多く、倒れる馬もいたのだろう。
この後、東松戸駅まで歩き、帰途に就いた。
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青面金剛のLandscape 469
京成線のユーカリが丘駅で下車した。4年前に成田街道を歩いた時以来である。
ユーカリが丘へやってきたのはこの車両に乗るためである。ユーカリが丘ニュータウンで開発会社である山万が運営する新交通システムである。昭和57年の開業以来無事故運転を継続している。
乗車の際にスイカは使えず、QRコードの切符を購入しなければならない。
車両にクーラーは無く、窓が開いている。クーラーの代わりに「つめたぁ~いおしぼり」?
クーラーボックスの中に冷えた紙おしぼりが入っている。その横にはうちわもある。
女子大駅で新交通システムを下りた。近くに女子大のセミナーハウスがある。
セミナーハウスの前を通り、雑木林沿いの道を歩くと三叉路に石塔が建つ塚がある。
小竹後谷津1号墳という古墳の上に4基の庚申塔が祀られている庚申塚である。青面金剛は六臂の合掌像で、手先がわずかに欠落しているが丁寧に彫られた綺麗な像である。延享2年(1745)の造立。
さらに100m程歩くと、また三叉路に石塔が建つ一画がある。
馬頭観音や庚申塔が25基建ち並ぶ中に青面金剛も祀られている。六臂の合掌像である。邪鬼がのけぞり、主尊の重さに耐えている。元文5年(1740)の造立である。
三叉路の先にある脇道を進むと四社大神が鎮座している。十二社を合祀していた井野八社大神から四社を小竹に分祀し、 四社大神としたといわれている。
両部鳥居を潜る。
明治24年に奉納された狛犬だけに日が当たっていた。
四社大神から戻る途中でタマムシを見つけた。死んでしまっているが、タマムシを見るのは何年ぶりだろうか。
路傍に鳥居があり、その後ろには石碑が建つ塚がみえる。
塚上には12基の出羽三山供養塔が建っている。平成のものもあり、出羽三山信仰は現在も続いているようだ。この塚も小竹御門屋敷2号墳の墳丘を利用したものである。
出羽三山供養塔から100m程のところに道祖神社が鎮座している。説明板によると、昭和の初め頃の縁日の日には、舞台を作って踊りをしたり屋台が出るなど大変賑やかだったとある。
道祖神社の近くには、以前訪れた臼井城の出城であった小竹城を築いた小竹五郎の墓がある。地元の方々によって大切に守り継がれてきたという。
成田街道に出て、ユーカリが丘駅方向へ歩いていると上座の路傍に旧志津村の道路元標が建っていた。この辺りは、昭和29年に佐倉市に合併された旧志津村の中心地だったのだろう。
道路元標から250m程歩くと、路傍に成田山道標が建っている。成田山新勝寺参りの里程標として明治27年に建てられたものであるが、東日本大震災で上下2つに折れてしまい、その後修復された。以前成田街道を歩いた時にこの道標を見落としていた。
この後、京成ユーカリが丘駅まで歩き帰途に就いた。
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