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Landscapes by the roadside

路傍学会


界隈のLandscape 152

稲吉宿~府中宿 水戸街道(その2)
 3月26日号の続きである。
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 前号で歩いたかすみがうら市上土田の街並みである。右手に見える商家はパン店である。新しい店舗がその向こうにある。
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 観音寺の前を通り、県道53号を越えて石岡を目指す。
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 下土田の路傍である。左の建物は寺の本堂のように見える。右は仏堂か。手前に十九夜塔などの石塔が並んでいる。廃寺かもしれない。
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 この先にある蔵である。地棟梁にあるのは「慶」だろうか。
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 鯱が載った門もある。
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 こちらの蔵には〇に十の字である。
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 落ち着いた下土田の街並みである。
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 下土田の外れで水戸街道は国道6号と合流する。
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 インターチェンジの途中で見かけたオブジェである。テラコッタだろうか。
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 市川で国道6号から離れるが、分岐点に石碑が2つある。左には生馬神供養と刻されている。昭和13年の造立。右は馬歴神とある。中国の唐代に信仰された厩の神らしい。
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 市川で見かけた建物である。屋根の形が面白い。
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 恋瀬川の手前にあるお宅で見つけた電話番号票である。薄い金属の板をプレスして番号が浮き出させている。これまで見たことの無い形式である。
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 恋瀬橋から見た筑波山と恋瀬川である。これまで筑波山を眺めながら水戸街道を歩いてきたが随分大きく見えるようになった。
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 恋瀬橋を渡り、国府七丁目交差点で水戸街道は、国道6号から離れて坂を上る。いよいよ府中宿である。
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界隈のLandscape 151

稲吉宿~府中宿 水戸街道

 水戸街道の歩き旅は、今年の18日号で稲吉宿までたどり着いた。

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 かすみがうら市下稲吉である。今回の歩き旅は、ここからスタートする。

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 歩き始めて程なく、趣のある塀と門が現れる。

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 門の右手に「稲吉宿本陣」の説明板が見える。水戸街道で本陣が残るのは、これまで報告してきた取手宿、中貫宿と稲吉宿の3か所だけとある。

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 住居として使われているので、門から覗くだけにした。

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 本陣の隣は、元旅籠である。稲吉宿には17軒の旅籠があったという。

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 この旅籠は、江戸時代末期の建築で、桁行8間2階総瓦葺の堂々たる構えである。茨城県指定文化財。

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 近くには重厚な屋根を戴く民家もある。

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 大きな門を備えた家もある。稲吉宿が豊かな宿場であったことが伺える。

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 上の大きな門の向いの長い参道の先には香取神社が鎮座している。

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 上土田の街並みである。

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 上の写真の左手にある蔵の地棟梁には松と鶴の鏝絵がある。

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 上土田には蔵を持つお宅が多い。

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 この蔵には鶴と亀が見える。

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 長屋門もいくつも見ることが出来る。

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 この長屋門は木が茂って見づらいが、格式の高い長屋門である。

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 唐破風のある大変凝った造りである。

 水戸街道を歩く旅はまだ続く。

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路傍祠のLandscape 58

西東京市 西武新宿線界隈の路傍祠
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 西東京市芝久保町一丁目、府中道が石神井川を渡る橋は庚申橋と名付けられている。
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 庚申橋から坂道を上がると、坂の途中に銭湯がある。
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 その名も庚申湯である。
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 銭湯の右側に塚が見える。
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 塚上の祠の中に青面金剛が祀られている。六臂の合掌像は、宝永年間の造立である。銭湯脇の塚は庚申塚で、橋や銭湯の名はこの青面金剛に由来するものなのだろう。
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 西東京市向台町四丁目、市民公園前交差点近くの路傍に路傍祠がある。
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 青面金剛と大乗妙典供養塔が並んで祀られている。
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 青面金剛は六臂の合掌像である。顔が削られている。
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 三猿は、不言猿、不見猿が左を向き、不聞猿が正面を向いている。寛保年間の作である。
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 南町一丁目、文化通りと深大寺街道の交差点に「ほうろく地蔵尊」と記された路傍祠がある。頭光がほうろくに似ていることから「ほうろく地蔵」という名が付けられたという。
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 祠内には地蔵尊の坐像が祀られているが、よく見ると、地蔵尊の頭や肩などあちらこちらに盃状穴が穿たれている。地蔵尊の頭に穴を穿つことにどのような意味があるのだろうか。路傍学会の興味は尽きない。
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 深大寺街道を北上して西武線の踏切を渡ると富士街道の路傍にも路傍祠がある。
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 祠内には六角の石柱が祀られている。
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 六角の石柱の上部には6体の地蔵捕殺が浮彫りにされている六角地蔵石幢である。寛政年間の造立である。
 この後、西武柳沢駅まで歩いて帰途に就いた。
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神社のLandscape 308

小金井市関野町 北関野八幡神社
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 中央線東小金井駅北口から西へ300m程歩いた信号の先、小金井市緑町一丁目の路傍に路傍祠がある。
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 祠中には六臂の合掌する青面金剛が祀られている。説明碑によると、道路の拡幅工事により40m西方の現在地に移動したとあった。宝暦年間の造立である。
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 足元には小さな地蔵尊も祀られていた。
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 梶野町四丁目、仙川沿いを北上していくと大きな松が見えてくる。
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 松の左に橋が架かり、祠が見える。ここは市杵島神社の参道の入口である。画面に見える松は庚申様の二本松と呼ばれている。明治3年に武蔵野12村の農民が品川県への門訴を決行し、武力鎮圧された事件を記念して植えられたものという。
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 市杵島神社の境内社であるが、格子戸の前には絵馬が下げられており、内部をよく見ることは出来ない。
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 絵馬の間から青面金剛を除き見ることができる。六臂の合掌像である。宝暦年間の作。
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 参道の先に鎮座する市杵島神社は、玉川上水開削後に開拓された梶野新田の鎮守である。
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 市杵島神社前の道を北上すると梶野橋で玉川上水を越える。羽村から多摩川の水を江戸に供給するために開削された水路である。江戸、東京の発展を支えた歴史的価値を有する土木施設・遺構として、国の史跡に指定されている。
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 関野橋の近くには「桜樹接種碑」がある。嘉永3年、桜の名所として賑わいを見せた玉川上水の桜の老木化進んだため、桜の苗木の補植が行われた。この石碑は、補植の経緯を伝え、桜樹が永久に植え継がれ、保護されること願って建てられたものという。「さくら折るべからず」と刻されている。
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 現在は、東京都教育委員会の手で桜の捕植が行われている。
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 関野町一丁目、五日市街道の路傍に北関野八幡神社が鎮座している。北関野八幡神社は、関野新田の鎮守社だが、昭和18年、小金井公園造成のため、現在地に遷座した子育て、勝守の神である。

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 拝殿の向拝虹梁には凝った彫刻がある。

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 境内社は猿田彦神社である。

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 社殿内には六臂の青面金剛が祀られている。

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 首を少し傾げた素朴な印象の像である。延享年間の作。

 この後、小金井公園へ向かった。

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界隈のLandscape 150

さいたま市緑区大門~上野田 日光御成街道(その2)
 3月15日号の続きである。南部領辻の総持院から日光御成街道へ戻り街道歩きを続けた。
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 さいたま市緑区代山の路傍に成田不動尊があった。裏手には、甲子園にも出場している浦和学院の野球場がある。
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 さらに進むと八幡社がある。御由緒を見ると、昔、綾瀬川の氾濫で高畑村から御神体が流れ着いたとも、近くの代山城が落城した際に城の守護神を村の鎮守としたものともいわれているという。
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 八幡社を過ぎた上野田の路傍、氷川神社の参道入口の幟建石の傍に石塔が見える。
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 前に水仙が生えていて全体が良く見えないが、剣とショケラを持つ六臂像である。顔や剣、ショケラは削られてしまっている。
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 邪鬼は膝を折り、顔は正面を向いている。安永年間の作。
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 氷川神社の鳥居である。「注意 はり下2.6メートル」の注意看板が貫に吊り下げられている。「貫下」と書いてもらいたいところである。
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 「さぎ山記念公園」の案内標識が現れた。さぎ山記念公園は、かつて国の天然記念物であったサギの集団営巣地「野田のさぎ山」を記念する公園である。
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 さぎ山記念公園入口の先に黄色い変わった車両が並んでいる。よく見ると競走馬を運搬するための車両であった。地図を見るとこの近くに浦和競走馬野田トレーニングセンターがある。このセンターへ競走馬を運ぶための車両だろう。
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 上野田交差点である。日光御成街道はこの先へ延びているが、膝が少し傷むので今回の街道歩き旅はここまで。
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 上野田交差点から大宮方向へ向かうと、加田屋川沿いに広大な田圃が広がっている。この区間の県道には歩道が無く、歩行者には危険な道である。
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 さいたま市見沼区片柳にある病院の西側の小径に路傍祠があり、大型の青面金剛が祀られている。
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 祠の傍には力石が置いてある。
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 剣、ショケラを持つ六臂像である。胴には龍が巻き付く。どこにも傷が無い、きっちりと彫られた、美しい像である。
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 下腹には獅子噛を着けている。両足首にも蛇が巻き付いている。
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 二匹の邪鬼の表情は憎々し気である。ごく最近彫られた物かと思いたくなるが、寛政年間の作である。
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 最近見た青面金剛の中では最も傷みの少ない綺麗な像に別れを告げ、帰途に就いた。
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青面金剛のLandscape 421

練馬区桜台界隈の青面金剛
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 練馬区桜台四丁目、大門通り商店街の路傍に銭湯がある。昭和3年に創業した夫婦の夫が辰年で、妻が巳年だったことから辰巳湯と名付けたという。
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 この「ゆ」をデザインした全国の銭湯のシンボルマークは、親子のコミュニケーションと、人と人とのふれあいを表現しているという。
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 大門通り商店街の西、練馬一丁目に弁天通りがある。その通りの路傍に植込みがあり、石塔が見える。
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 四ツ目垣を巡らせた一画に青面金剛が祀られている。
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 右手に剣、左手にショケラを持つ六臂像である。
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 顔が大きな像である。渋い表情である。右手に持っている剣は随分小さい。剣ではないのか。
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 邪鬼はいかにも悔しそうな顔である。宝暦年間の作。
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 綺麗な花が供えられていた。精巧に作られた造花のようだ。
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 南町小学校の西にある墓地にお邪魔した。墓地の中に馬頭観音が祀られていた。
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 憤怒の形相である。
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 蓮華座の下、右側は大きく欠けてしまっている。
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 南町小学校外周部のネットフェンスに掲げられていた絵である。児童が描いた「おいしそうな、きれいなみかん」である。みずみずしい感性!
 この後、練馬駅まで歩き、帰途に就いた。
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  2. 青面金剛
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界隈のLandscape 149

さいたま市緑区大門~上野田 日光御成街道
 20219月以来の日光御成街道である。埼玉高速鉄道の終点、浦和美園駅から前回の旅の終点の大興寺まで歩いた。
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 大興寺の参道入口である。ここから日光御成街道を歩く旅を再開する。
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 大興寺前から東北自動車道、越谷浦和バイパスを越えて先を目指す。
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 さいたま市緑区玄蕃新田の三叉路に路傍祠が建っている。路傍祠の後ろには塚があるが何か謂れがあるのだろうか。
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 祠内に青面金剛が祀られている。
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 六臂の合掌像であるが、髪の毛はカールしているように見える。独特の雰囲気を湛えた像である。享保年間の作。
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 路傍祠の横では山茱萸が咲いていた。
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 写真では見づらいが、緑区大崎に入ると左手の路傍に石塔が見えてくる。
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 小高い塚の上に青面金剛が祀られている。
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顔や手が欠けているが、六臂の合掌像である。これも享保年間の作である。
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 青面金剛のすぐ近くの民家の壁に琺瑯看板があった。ミツウロコ練炭の看板だろう。クサクナイのである。
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 南部領辻で街道を外れ、苗圃の中の小径を500m程進むと総持院の鐘楼門がある。
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 鐘楼門を潜ると参道の左に石仏が並んでいる。石仏の後ろは牡丹園である。
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 一番手前にある青面金剛である。かなり細かな彫りであるが、傷みが激しいのが残念。天保年間の作。
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 手前から二番目の青面金剛は剣、ショケラを持つ力みなぎる強い像である。
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 邪鬼は頭を踏み付けられ可哀想である。安永年間の作。
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 次の訪問先へ行こうと鐘楼門へ向かうと、門の先に手入れの行き届いた竹林が見えた。
 さいたま緑のトラスト保全第一号地であることを示す説明板があった。さいたまの原風景として末永く保全されますように。
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青面金剛のLandscape 420

練馬区桜台界隈の青面金剛
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 練馬区桜台六丁目、高稲荷橋から見た石神井川である。左手に見える樹林は高稲荷公園である。
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 高稲荷公園の石神井川側の路傍に青面金剛が建っている。
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 六臂の合掌像である。説明板によると、元禄2年の造立である。
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 公園の奥に高稲荷神社がある。
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 石段を上った先の境内にはスダジイの大木が大きな影を作っていた。
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 高稲荷神社から南へ進む。桜台五丁目の路傍に青面金剛が祀られている。
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 剣、ショケラを持つ六臂像で、丁寧な仕上げである。
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 剣先やショケラの顔などは欠けてしまっているが、膝回りの皺など、細部まで彫刻されている。
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 邪鬼は左手で足を抱える面白いポーズである。
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 二鶏の回りにはヒヨコが三羽遊んでいる。見ていて楽しくなる青面金剛である。左側面には石工の名が刻まれていた。自信作なのではないか。安永年間の作である。
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 さらに南へ進むとT字路となるが、突き当りに4基の石塔がある。右から馬頭観音、青面金剛、地蔵尊、青面金剛の順に並んでいる。
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 右から2番目の青面金剛である。六臂の合掌像である。衣の襞なども細かく彫り込まれた丁寧な像となっている。顔が欠けているのが残念。
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 しっかり踏み付けられた邪鬼は足を伸ばして倒れている。足を伸ばしている姿は珍しいのではないか。延享年間の作。
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 左端の青面金剛は、剣、ショケラ持ちの六臂像だが、彫が浅く、剥落も進み像容ははっきりしない。寛政年間の作である。
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 石塔列の右手の擁壁は、古いコンクリート塊や煉瓦塊を再利用して造られたガンタ積みの擁壁であった。煉瓦の刻印がないかと探してみたが見つけることはできず、次の訪問先へ向かった。
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  2. 青面金剛
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界隈のLandscape 148

荒川区南千住 南千住仲通り
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 荒川区南千住五丁目、三ノ輪橋近くの日光街道路傍である。2階の窓、戸袋の大きさが不揃いのアパートのような建物がある。
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 裏側に回ってみると、裏側の窓の大きさもまちまちであった。
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 1階の奥には、金庫扉のような防火戸のついた窓がある。この裏はどのような部屋になっているのだろうか。この窓に繋がるコードは何だ?ミステリアスな窓である。
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 このアパートの前の細い路地を進むと、以前報告した常磐線第3三の輪ガードの前に出た。煉瓦積みのガードは渋い風格を湛えている。
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 ガードから北へ歩くと南千住仲通りがある。丁度昼時だったので、右に見える中華料理店に入った。
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 何を食べようかと迷っていたら、壁に「あらかわ満点メニュー」の貼紙があった。あらかわ満点メニューは、荒川区民の健康づくりを応援するため、飲食店と女子栄養大学短期大学部、荒川区が連携して、「安くて、おいしくて、ヘルシー」をコンセプトにお店独自の味を生かしながら考案されたメニューである。
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 ポスターの満点野菜ラーメンを注文した。シャキシャキとした野菜と醬油ベースのスープでおいしくいただいた。
 南千住仲通りの中程の路地を北に入ると銭湯があったのだが、既に姿は無くなっていた。
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 銭湯があった近くの道路である。
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 右手の店舗の日除けの裏の軒下には塩小売店の琺瑯看板が取り付けられていた。
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 吊り下げ式の塩看板もあった。この看板には書体が異なるいくつかの種類があるようだ。
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 さらに東へ歩くと路傍に小さな神社が現れる。
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 仲通り側に出入口があるが、鳥居は無い。
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 右側の細い道を入ると鳥居があった。手前の柱に豊川稲荷、奥に吒枳尼眞天とある。
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 境内に入ると、社殿前の左右に狐が並んでいる。狐の裏に願い事と名前を書いて納められたものである。
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 そろそろ南千住仲通りもおしまいである。右手の和菓子店で桜餅を買って帰途に就いた。
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神社のLandscape 307

港区新橋 日比谷神社
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 日曜日の午前中だが、港区新橋三丁目の山手線ガード下では酒が飲める店がある。
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 第一京浜と環2通りの交差点路傍に日比谷神社が鎮座している。
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 反対方向には虎ノ門ヒルズが見える。
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 日比谷神社である。元々、今の日比谷公園の大塚山という所に鎮座していたが、慶長年間に江戸城日比谷御門造営に当たり、氏子と共に芝口(現在の東新橋)に移された。
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 この江戸名所図会には芝口時代の日比谷神社が描かれている。初午祭では大変賑わったようだ。明治時代には鉄道敷設の際に新橋四丁目へ遷座した。その境内地が環2通りの予定地であったため、平成21年に現在地へ遷座したという。3回も遷座している神社は珍しいのではないか。
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 別名「鯖稲荷」とも呼ばれ、虫歯に苦しむ人が鯖を断って祈願すると霊験があるとされ、成就すると鯖を奉納する習わしがあった。手水鉢の上には「鯖」の文字が見える。
 日比谷神社の参拝を済ませ、新橋にあるもう一つの神社へ向かった。
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 新橋二丁目、烏森神社の参道である。幟の奥に見える木製の一の鳥居は独特のフォルムである。
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 コンクリート製の二の鳥居も同じ形状であるが、よく見ると社殿もこのスタイルである。藤原秀郷が創建したと伝わる長い歴史を持つ神社で、江戸時代には「柳森神社」、「椙森神社」と共に「江戸三森」として崇敬を集めた神社であるが、斬新なデザインが導入されている。
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 江戸名所図会に描かれた烏森神社である。図中では烏森稲荷社となっている。この時の鳥居はオーソドックスな形である。大祭は日比谷神社と交互に隔年で行われている。

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 文字が薄くなっているが力石が置かれていた。江戸の若者が担いだのだろう。

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 二の鳥居脇の路地である。サラリーマンの聖地と呼ばれる新橋の路地だけあって、日が傾いたら素通りは難しそうである。

 江戸にはもう一つ、日比谷と名の付く神社がある。行ってみよう。

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 中央区八丁堀二丁目、道の突き当りに朱の鳥居が見える。幟に日比谷稲荷神社と染め抜かれている。

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 この神社には201411月にも訪れている。上の2枚を比べると、社殿の背後にマンションが建った以外は、変化の激しい東京にあってほとんど変化が無い。

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 現在の日比谷稲荷神社である。日比谷稲荷神社の御由緒によると、この神社のルーツは、新橋の日比谷神社と同じだが、芝口への遷座に際して、元々江戸海岸の入江にあった神社なのだから、どうしても海岸に祀られないと困るという崇敬者がいて、八丁堀先の干潟を埋築し、そこに社殿を造営して、日比谷稲荷の御神霊を遷座したのがこの神社であるという。日比谷稲荷神社は、この新しい土地の地主神として、丁寧に祭祀されていたので、この一画は日比谷町と公称されていた。

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 高橋から見た亀島川である。高橋から亀島橋までの亀島川の八丁堀側(画面の左側)は、当時の地名によって日比谷河岸と呼ばれていた。

 この後、茅場町まで歩き、帰途に就いた。

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