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Landscapes by the roadside

路傍学会


塚のLandscape 124

北区中十条 十条富士塚(その3)
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 北区中十条二丁目、日光御成街道の拡幅工事が進められている。左手は、セットバックした地福寺の塀である。
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 地福寺の山門である。
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 本堂の手前、右側に大きな石灯籠がある。竿部分に「有徳院殿」とある。8代将軍吉宗の戒名である。上野の寛永寺の霊廟前に佐貫城主が奉納したものである。
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 左側にも立派な石灯籠がある。こちらには「常憲院殿」とあり、5代将軍家綱の霊廟前に相馬の中村城主が奉納した灯籠である。
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 上の写真の左側に祀られている青面金剛である。六臂の合掌像である。享保年間の作。

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 山門の前には桔梗が咲いていた。

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 中十条三丁目でも拡幅が進んでいる。歩道橋が見えてきた。

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 歩道橋の上から見た十条富士神社である。道路の拡幅に伴い長く続いていた富士塚の移転工事もようやく終了するようだ。

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 これは2021417日号で報告した十条富士塚である。富士神社の前後の用地買収が進み、塚は削平されつつあった。

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 どのような姿になるのだろうかと思っていたが、このように様々な石碑が建ち並ぶ姿となって富士塚が蘇った。

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 これは2014928日号で報告した当時の十条富士塚である。樹木が茂り、落ち着いた空気感に包まれていた。

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 これは横から見た新富士塚である。塚と言うよりも、コンクリートのビルの上に石祠、石碑などが置かれている状況である。これでは、以前のような木々が繁った富士塚の姿は期待できないのではないだろうか。

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 これは20214月に現場で撮影した「再整備(現状変更)にあたっての条件」である。「1.富士塚および古墳部分を可能な限り保存する。」とあるのだが、結果はどうであろうか。日光社参の折に将軍も眺めた富士塚がすっかり別物に造り変えられてしまったのは残念でならない。十条富士と同じ北区の西ヶ原にある一里塚は、渋沢栄一らの運動によって保存されたという。令和の渋沢栄一は現れなかったようだ。

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塚のLandscape 123

八幡宿~五井界隈の塚

 八幡宿から五井間の房総往還を歩いたが、今号では、その道中で見かけた塚について報告したい。

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 八幡宿の地名の由来となった飯香岡八幡宮の社殿の右手奥に浅間神社の鳥居がある。

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 鳥居を潜ると大型の富士塚がある。高さは7~8m程もあろうか。合目石は、吉田口から始まっていた。

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 山頂には浅間祠が祀られている。

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 浅間神社の鳥居の手前に別の鳥居がある。鳥居の奥にはいくつも出羽三山供養塔が建っている。

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 一段高い塚の上には3本の梵天が建ててある。今年1月に八千代市勝田台の梵天塚を報告したが、この塚も梵天塚である。今も熱心に講が続けられており、年3回梵天を作り塚に建てているという。

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 梵天塚の近くにライダーズ神社の幟がはためいていた。ライダーズ神社とは、ライダーの交通安全、交通マナーの向上を祈念するとともに、ライダー同士の交流場所を提供し、地域活性も目標としているという。昨年18日号で報告した水戸街道藤代宿にも、同様の趣旨で設けられたオートバイ神社があった。

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 五井宿に入り、房総往還を左に進むと若宮八幡神社が鎮座している。

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 社殿の脇障子には木に止まり振り返る鳳凰がいる。社殿の背後には昇り、降り龍の彫刻もあった。

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 彫刻で飾られた社殿の右に浅間神社がある。「北五井富士」と呼ばれる富士塚である。

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 高さは5m程か。合目石も設置されている。

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 山頂には浅間大神と刻された石碑が建っている。昔は、本物の富士山がよく望めたのではないか。

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 市原市五井中央南一丁目、大宮神社である。五井の総鎮守である。

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 参道を進むと右手に富士塚がある。

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 山頂には富士嶽神社の碑が建っている。

 今号では、八幡宿から五井宿で見かけた富士塚、梵天塚を紹介した。改めて、出羽三山、富士山などの山岳信仰が盛んな地域であることを認識することができた。

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 この後、大正時代に奉納された狛犬に見送られて帰途に就いた。

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塚のLandscape 122

荒川区西日暮里 蛇塚
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 荒川区西日暮里二丁目、三河島道踏切から見上げた三河島こ線線路橋である。常磐線と常磐貨物線がここで分かれるために架けられた線路橋である。橋の下は常磐貨物線である。
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 三河島道踏切から日暮里方向にあるガードである。資材置場として利用されているようだ。
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 第3蛇塚ガードと名付けられている。第3があるのなら第2もあるのではと、常磐線の沿線を歩いてみた。
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 日暮里側にあるガードである。
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 これが第2蛇塚ガードである。
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 さらに日暮里側には第一蛇塚ガードがあった。これらのガード名の基となった「蛇塚」を訪ねた。
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 三河島道踏切を渡って狭い道を進むと、突き当りに石碑が見えてくる。
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 蛇塚である。蛇塚は、かつて当地にあった塚で、新堀村と谷中本村との入会地にあたり、新堀村と谷中本村との両村に小名「蛇塚」という字名が付けられていた。その字名を後世に残すために設けられた石碑である。往時は田畑の中にあったといわれる蛇塚だが、現在は開発により塚は削平され、石碑のみが残されている。石碑の傍らには梅が咲いていた。
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 蛇塚から道灌山通りを渡って路地に入ると、西日暮里一丁目の路傍に興楽地蔵尊の幟が見える。
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 興楽地蔵尊である。花や千羽鶴が供えられ、地元の方々に大切にされていることが分かるのだが、由緒書きなどは見当たらない。
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 堂の脇には、昭和11年に建立された国旗掲揚塔もある。
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 興楽地蔵尊から京成線の高架をくぐると冠新道がある。入口に冠新道商興会のアーチがある。「冠」は、この道の建設に当たり土地を提供した人物の名前に由来するようだ。
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 冠新道の歩道部には冠のモチーフもある。
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 冠新道の商店街を散策し、みそかつが名物の店で昼食をとった。
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 名物みそかつ定食である。開店以来変わらぬ味という。美味であった。空腹を満たした後、新三河島駅まで歩き、帰途に就いた。
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塚のLandscape 121

八千代市勝田台 梵天塚
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 八千代市勝田台南二丁目に八勝園市民の森がある。その市民の森の外れに石塔が見える。
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 文化年間に造立された庚申塔である。樹木が茂りうまく撮れなかったが、左側面には「左下いちば道」、右側面に「右うすゐ道」と刻されている。
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 塔の台石の上に三猿が置いてある。楽しそうである。花瓶に使われているのは路傍学会が好きなスコッチの陶器ボトルである。三猿はスコッチに酔って赤くなったのか。
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 市民の森前の道を下ると田園風景になる。
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 勝田のT字路の路傍に石塔が並んでいる。
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 庚申塔に挟まれて青面金剛が祀られている。傷みも無く、堂々たる青面金剛である。安永年間の作。
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 不機嫌な邪鬼の前には清酒「鬼ころし」が供えられていた。
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 青面金剛の先に、大正9年に造立された馬頭観世音がある。
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 建てたのは運送連である。大正時代はまだ馬が運送の主力だったのだろう。
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 馬頭観世音にお参りしてから台地に上がると、勝田台五丁目の路傍に石塔が並び、塚が築かれている一画がある。
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 並ぶ石塔は出羽三山供養塔である。勝田地区では、男は一生に一度、40歳以上になると「奥州まいり(出羽三山登拝)」をすることになっていて、帰村すると梵天塚に梵天を納め、石碑を建てるという。

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 供養塔の後ろに青面金剛が見える。剣、ショケラを持つ綺麗な六臂像である。

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 邪鬼が体を大きく捩っているので、主尊の足元に三猿が入りきらなくなり、主尊の右側に押し出されてしまった。このような配置は珍しい。

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 両側面に一童子が彫られている。延享年間の作である。

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 この塚が梵天塚で、神の依り代である梵天を納める塚である。ここはかつての村境であった。

 出羽三山登拝の伝統にふれた後、次の訪問先へ向かった。

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塚のLandscape 120

春日部市 一ノ割香取神社、備後須賀稲荷神社、谷中稲荷神社
  4 一ノ割香取神社
 春日部市一ノ割一丁目の路傍、色づいた公孫樹が2本見える。
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 一ノ割香取神社である。
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 二の鳥居を潜ると左手に高さ2mほどの富士塚がある。丸岩講が築いたものという。富士塚の前にいくつか石塔が見える。
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 その中の1基には、鳥居の影で読みにくいが「孝心尊」と刻されている。石塔下部には三猿が見える。「孝心」を「庚申」に結び付けた石塔は、小谷三志が唱えた不二道によるものである。側面に慶応3年とある。
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 一ノ割香取神社から南へ向かうと、備後西五丁目の路傍に備後須賀稲荷神社が鎮座している。
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 鳥居の右手に青面金剛が祀られている。
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 すらりとした立ち姿の六臂の合掌像である。安永年間の作。
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 境内に入ると社殿の左に高さ2mほどの富士塚がある。
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 塚上には浅間大神と並んで磐長姫大神が祀られている。磐長姫は、木花咲耶姫の姉で、古来より延命長寿や縁結びの神様として信仰を集める神である。
 備後須賀稲荷神社からさらに南へ歩く。
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 大場の路傍、市民農園の先に鳥居が見える。
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 谷中稲荷神社である。
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 参道を進むと左手に富士塚がある。これも丸岩講が築いたものである。塚の上には浅間大神と刻された石碑が建っている。
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 富士塚の背後には青面金剛がある。剣、ショケラを持つ六臂像である。
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 三猿は丸っこく、行儀が良い。享保年間の作である。
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 富士塚の奥の建物には文殊菩薩奉安所と墨書された看板が下げられているが、その裏手にポツンと力石があった。もう振り向かれることもないのかも知れない。
 今号では、三神社の富士塚を報告したが、このエリアでは大変篤く富士山が信仰されていたことを感じることができた。
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