街道のLandscape 66
暫く歩くと、路傍にスナックがあった。その名も「クリーンラブ」である。ちょっと店内を覗いてみたい気もするが、先を急ごう。
スナックの先、石碑がある。字が薄くなっているが「馬力神」と刻されているようだ。愛馬を供養してのものだろう。
田川大橋から見た田川である。画面奥に見える橋は日光宇都宮道路の橋梁である。
田川大橋を渡るとリンゴの直売所があるが、この時店頭に並ぶのは野菜が多く、リンゴはわずかであった。まだ、リンゴの季節ではないようだ。
リンゴ直売所を過ぎて300m程あるくと、路傍に小振りな祠が建っている。金勢様が祀られているという。
石那田バス停付近である。石那田という地名は、村の畑には石が多く耕作するのに苦労し「石灘」といったことに由来するという。
石那田バス停の先の路傍に大振りの石に挟まれて青面金剛が祀られている。両側の石の表面は荒れていて文字が刻まれていたのかどうか不明である。
青面金剛は六臂の合掌像である。造立年は読み取れなかった。
石那田町で見かけたリンゴ畑である。収穫はもう少し先ではないか。
松本バス停の先の木立の中に石塔と祠の中の赤いものが見える。
祠の左手には庚申塔が並んでいた。右端の庚申塔は、地元の農家が昭和55年に造立したものである。
祠の中には赤い布をまとった地蔵尊が祀られている。自身の体の悪い所と地蔵の同じ所に赤い布を付け、願うと不思議と治ることから「お願い地蔵」と呼ばれている。享保15年(1730)の造立である。
地蔵尊の先の街道の並木には杉が混じるようになる。
ようやく日光市に入った。
市境の先からは街道の正面に男体山が見える。
日本ロマンチック街道の看板があった。日本ロマンチック街道は、長野県上田市から栃木県日光市までの全長約320 kmを通過する広域観光ルートからなる街道である。街道の名称はドイツのロマンティック街道に由来するという。その昔、ドイツに行った際にロマンティック街道を通ったことがあるのだが、どうもピンとこない。
暫く歩くと男体山は街道の左側に見えるようになる。男体山に導かれて日光街道を歩く旅は続く。
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界隈のLandscape 208
文京区本駒込三丁目に鎮座している駒込天祖神社である。これまで路傍学会では、境内奥の庚申塔や隣接している子育地蔵尊などを報告してきた。
社殿廻りの玉垣である。角の石柱に「駒込三業組合」の文字が刻されている。右の石畳を進むと・・・
反対側の角にも「駒込三業組合」の文字がある。
この玉垣の右手に以前報告した庚申塔が変わらぬ姿で祀られていた。
「旧駒込神明町」に三業地があったという。今の本駒込五丁目辺りのようだ。行ってみよう。
天祖神社の近くには2020年9月に報告した駒込名主屋敷がある。
本駒込四丁目と五丁目の間の「稲荷坂」である。かつてこの辺りあった「宗十郎稲荷」に因む坂名である。
稲荷坂の途中に公園がある。その名を「神明公園」というが、旧町名に由来するのではないか。
不忍通りの路傍に建つ都営アパートである。アパート名はタイルを用いて書かれていた。
不忍通りから本駒込五丁目に入る。
普通の住宅街である。窓の桟が木製のアパートがあった。
本駒込五丁目で「旧駒込神明町」の説明板を見つけた。神明の名は先程お参りしてきた天祖神社の旧称である「神明社」から名付けられたとある。さらに続いて、「駒込は一富士二鷹三茄子」の古川柳が記されている。富士は近くにある富士神社、鷹は現駒込病院の地にあった鷹匠屋敷で、周辺の畑からは富士裏なすが取れたという。一富士二鷹~が駒込の発祥だとは知らなかった。
不忍通りのバナーを見ると、一富士二鷹三なすびが描かれていた。
本駒込五丁目の路地を覗いても下町チックに住宅が並んでいるだけである。駒込三業地は開業時に料理屋32軒、待合21軒、芸妓置屋38軒という規模だったというが、その遺構はもう失われているようだ。
本駒込五丁目のNTT柱のプレートに「三業支」の文字があった。
こちらのプレートは手書きの三業支である。こうしたプレートを通してでしか、かつてこの界隈に三業地があったことを知ることができなくなっている。
この後、アザレア通りから駒込駅へ向かった。
海苔店の軒先にでんわ、でんぽう看板があった。久しぶりに見た。
アザレア通りを抜け、駒込駅から山手線に乗り帰途に就いた。
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橋のLandscape 39
文京区後楽二丁目、神田川に沿ってバリケードフェンスが設置されている。
さらに進むと、白鳥橋の袂に白鳥橋通行止の標示がある。
その先の信号の下に「都電遺構公開会場」の立て看板がある。通行止めになっている白鳥橋では、都電の遺構が公開されているのだ。
白鳥橋の架け替え工事で舗装を撤去したところ、都電の遺構である敷石と複線のレールが発見されたのだ。平日の午前中の公開であるが、関心を持つ多くの人が集まっていた。
会場では、白鳥橋を渡るかつての都電の写真も掲示されていた。写っているのは早稲田~厩橋間を結んだ39系統である。
レールの南端部では穴が掘られ、レールの断面形状が見られた。
敷石の寸法を測っている人がいた。
こちらは複線レールの間隔を確認しているようだ。ちなみに都電の線路幅は4フィート6インチ(1367㎜)である。
都電レールの橋上遺構は、以前お茶の水橋でも見たことがある。東京都千代田、文京区境の神田川にかかるお茶の水橋の補修工事現場で戦時中に廃止された都電の遺構が見つかったのだ。
2020年2月に撮影したものだが、白鳥橋と同様に敷石の中にレールが敷設されている。
当たり前だが、レールも同一の形状である。
今のお茶の水橋である。都電のレールは撤去されたが、一部は日大の船橋キャンパスに保存されている。
都電レールが再び姿を現した時の御茶ノ水駅である。改良工事が進められていた。
現在の御茶ノ水駅である。ホームの延伸工事は終わり12両編成の快速電車が停車できるようになった。
お茶の水橋の袂から御茶ノ水駅の南方向を見ると建設中のビルがある。
かつてこの場所には名曲喫茶があった。これは2021年9月に撮影したものだが、お茶の水の風景として古くから親しんでいた建物が姿を消すのは寂しいものだ。
個性的な建物であった。ここにどのようなビルが現れ、お茶の水の景観はどのように変化していくのだろう。
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街道のLandscape 65
10月20日号の続きである。
宇都宮市下金井町の路傍に高谷林の一里塚がある。一里塚の前をバイクが疾走していく。江戸から29里目の一里塚である。
一里塚を過ぎると東北自動車道の下をくぐる。
上金井町の路傍に小高い塚があり、その上に西洋城郭を思わせるような煉瓦造りの八角形の建物がある。日光街道にほぼ平行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調節するための施設で、第六接合井と呼ばれている。大正4年に建造されたものである。
第六接合井の先、並木が現れるが、樹種は桧である。
徳次郎町の脇道を覗くと下町薬師堂が見える。
薬師堂の右手に3体の石仏が祀られており、右端は3面8臂の馬頭観音である。文化元年(1804)に徳次郎の石工が手掛けたものである。台石の側面に「右ハ山道、左ハ氏家、白沢道」と刻されている。
徳次郎の交差点を過ぎると路傍に牛乳店があるが、エンゼルマークがある。久しぶりの発見である。こういう出会いが街歩きの楽しみで、疲れが癒される。
エンゼルマークの先に見世蔵がある。建物の外壁の貼り石には地元の徳次郎石が用いられている。この辺りが中徳次郎宿のようだ。
この見世蔵の軒下に琺瑯の電話番号票があるが「5甲」と記されている。「甲」は何を意味するのだろうか。「5乙」があるのか。路傍学会の興味は尽きない。
上の見世蔵の向いにある石蔵である。庇が繊細、優美である。
見世蔵から500m程先に智賀津神社の鳥居が見える。上、中、下と3つある徳次郎宿の総鎮守である。
鳥居の両脇に生えている欅は、2本とも樹高約40mに及ぶ巨木で栃木県指定天然記念物となっている。
境内にある手水鉢は3匹の鬼?力神?が支えている。
智賀津神社を過ぎて暫く進むと並木は桜になる。春はさぞ美しいことだろう。
ハイキングコース道標の先に大網町の入口を示す道標が建っている。
画面右の白い建物は、宇都宮市の指定文化財である徳次郎上町の屋台の倉庫である。この倉庫の前にある上徳治郎宿跡の説明板によると、宿内には本陣1軒、脇本陣が2軒あったという。
石那田町に入り暫く歩くと路傍に石那田一里塚がある。江戸から30番目の一里塚となる。東側の塚だけが残されている。
時計を見るともう予定した時刻に近づいている。近くの一里塚バス停から帰途に就いた。
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街道のLandscape 64
日光街道を辿る旅は、6月12日号で宇都宮市泉町の奥州街道と日光街道の追分まで到達した。今回は追分から歩き旅を再開する。
奥州街道との追分から北の方向を見たところである。画面右が宇都宮市泉町、左が小幡一丁目となる。
歩き始めて程なく、右側の路傍に黒い蔵が見えた。重厚な造りである。
清住一丁目の路傍にも見世蔵がある。奥には漆喰塗りの蔵もあり、かつては大いに繁盛していたのだろう。
見世蔵の先の店舗に琺瑯看板があった。練炭、豆炭の看板である。最近は琺瑯看板を目にする機会が随分と減ったように思う。
星が丘二丁目で見かけた店舗である。モダンなデザイン。垂直、水平に取り付けられた板が作り出す影によって建物の表情が変化することを考えたのだろう。
松原二丁目からは、雲で見づらいが進行方向に日光方面の山が見える。
これまで歩いてきた清住通りと桜通りの交差点に架かる歩道橋からみた日光方面である。正面に見えるのは那須の山々か。松原二丁目から見えた山と同じ山だ。
上戸祭一丁目の路傍では沿道の店舗の看板が林立している。色彩があふれ、それぞれを視認することが難しいのではないか。
宇都宮環状道路を越え、上戸祭三丁目に入ると街道の両側に並木が現れる。並木は土塁の上にあり、車道は少し下がった位置にあるが、この高低差は次第に大きくなる。
上戸祭三丁目の路傍に大谷石造の蔵がある。二階の庇は優美な曲線を描いている。細工が細かく美しい蔵である。日光街道の沿道では所々でこのような大谷石造の蔵を目にする。
上戸祭四丁目、文星芸術大学の手前、柵に囲われた塚の上に石柱が建っている。
上戸祭の一里塚である。江戸から28里であることを示している。
野沢町では車道と並行する歩道が無くなり、この先暫くは車道の脇を歩かなければならない。ドライバーにとっても気を遣う道となる。
野沢町の路傍に光明寺が境内を構えている。徳川将軍が日光へ社参する際には境内にお茶場を設け休憩所として利用されたという。
野沢町、農業試験場入口交差点である。車道と歩道の高低差が大きくなってきた。
下金井町で前方に高架道路が見えてくる。東北自動車道と宇都宮環状道路を結ぶ宇都宮北道路と呼ばれる道路である。
宇都宮北道路の前後で失われた並木は下金井バス停付近で復活する。
上金井町で観覧車が見えた。宇都宮動物園に設けられた観覧車である。
上金井町の路傍に小さな地蔵尊が祀られている。宝珠と錫杖をしっかり持っている。旅の安全をお願いして、日光街道の歩き旅を続けた。
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界隈のLandscape 207
10月16日号で、川越街道を歩く旅は川越城本丸御殿まで到達しゴールとなったが、今号では帰路に見た城下の様子を報告したい。
川越市郭町、本丸御殿の隣接地に三芳野神社が鎮座している。三芳野神社は、川越城の鎮守として寛永元年(1624)、酒井忠勝によって再建されたといわれている。
境内にはわらべ唄発祥の所と彫られた石碑が建っている。ここ三芳野神社の参道は童謡「とおりゃんせ」の舞台とされている。川越城の築城により神社が城内に位置することになってから、警備の厳しい城内を通り参詣する人々の様子を歌ったものという。
本丸御殿へ来た道を戻ると宮下町一丁目に川越市役所がある。市庁舎の左前に太田道灌の銅像が建っている。その前に川越城の大手門跡を示す石柱がある。
市役所のはす向かいに銅板貼りの看板建築がある。右側面の上部に取れかけた「つり具」の文字が見えるが、今は蕎麦店となっている。昭和5年の建築である。
本町通りを西へ歩くと元町一丁目に豆腐店がある。店舗として使われているのは右半分である。豆腐を買って帰りたかったのだが、この日は保冷バッグを持っていなかったのであきらめた。
豆腐店の斜め向かいの米穀店の店先である。様々な煎餅が並べられている。商品名とともに製造会社が書いてあるのが面白い。店主のこだわりだろう。
米穀店の先にある長屋店舗の中央の区画はベランダを設けている。古い住宅を暮らしやすくするための工夫なのだろう。
札の辻を左へ曲がると蔵造りの街並みである。
幸町の小径を入ると川越のシンボル「時の鐘」が聳えている。高さ16mの三層構造の塔である。
重厚な蔵造りが軒を連ねている。中央の蔵は陶器店で、明治28年(1893)の建築である。
仲町に店舗を構える銅鉄店の軒下には陶製の電話番号票があった。一番下の文字は「番」だろう。
蔵の街並みを離れ、東へ歩くと小仙波町一丁目に喜多院がある。江戸城から家光誕生の間などが移築されている。この山門は喜多院最古の建造物で、重要文化財に指定されている。
喜多院の境内を通り南下すると仙波東照宮がある。随神門の先に石段が見える。
石段の上にある拝殿である。
手挟には彩色された牡丹の花が彫り込まれている。色の剥落が見られる。
塀越しに見た本殿である。本殿も極彩色が施されている。
小仙波町四丁目の三変稲荷神社は、一辺20m余りの方墳の上に鎮座している。喜多院山門前の日枝神社も古墳の上に鎮座しているという。この辺りは古墳の多いエリアのようだ。
この後、川越駅から東武東上線に乗って帰宅し、川越道中で見た事物を思いながら川越の酒をいただいた。
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街道のLandscape 63
川越街道を辿る旅の最終回、ゴールの川越城を目指す。
9月28日号で到達した川越市菅原町から歩き始めた。
南通町で見かけた看板である。アゴが落ちるほどの食パンというものを食べてみたいものだ。
南通町に川越八幡宮の参道がある。川越八幡宮は、長元3年(1030)に源頼信により創建された古社で、川越一の宮である。
社殿近くに置かれた焼物には「厄」の字が記されている。
厄割桃と呼ばれるこの焼物を、厄よ去れ!と念じつつ厄割石めがけて投げ、厄を落とす。
厄を落としてから街道に戻ると、見世蔵を意識したデザインの店舗があった。何屋かと思ったら美容院であった。
美容院を過ぎると道がクランク状に曲がっている。車が多く見通しが悪いが、城下町の鉤形である。
鉤形を越えた路傍に出桁造の家がある。改造された商家ではないか。かつては沿道にこのような家が軒を連ねていたのだろう。
松江町一丁目の路傍、うなぎ店と呉服店の間に蔵造りの店舗がある。何を商っていたのだろう。
松江町二丁目の路傍には、明治19年創業の老舗芋菓子店がある。天皇皇后様献上銘菓の看板が見えるが、この日は休業日で買うことが出来なかった。右隣は、昭和2年に建てられた川越商工会議所別館である。
商工会議所別館に隣接するこの建物は元米問屋で、伝統的な町屋建築という。
この煉瓦造の建物は川越キリスト教会礼拝堂である。川越市内唯一の煉瓦建築で、大正10年に建築されたものである。
教会の先にもう一つ鉤形がある。城下町の守りは厳重である。
鉤形の手前にはリノベーションした蔵を活用して、カフェ、地域の名産品販売、茶道・華道・書道・日本舞踊などの日本文化の体験教室などが開かれている。
大手町の横道からは川越のシンボルともいううべき「時の鐘」を望むことが出来る。
川越市役所の前で右に曲がり、歩いていくと歩道脇に川越城中ノ門堀跡の案内看板がある。
導かれて門をくぐると空堀がある。3本の堀を組み合わせて侵入してきた敵の直進を防ぐ仕掛けという。
中ノ門堀跡の先に川越城跡と刻された示す石碑がある。いよいよゴールである。
川越城唯一の遺構、川越城本丸御殿である。板橋区板橋で中山道から分かれてスタートし、様々な事物に出会えた川越街道を歩く旅は、ここで終わりとする。
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水辺のLandscape 18
黒目川を辿る旅の最終回である。
浜崎黒目橋から歩き旅を再開した。この橋のアーチの形状は面白い。
浜崎黒目橋から見た黒目川の下流方向である。土手は草に覆われ、流路は緩く曲線を描く。
水道橋から黒目川を離れ、この坂道を上ってみる。
浜崎三丁目、三光院の山門がある。
境内に馬頭観音堂があり、ガラス越しに中を見ると、彩色された馬頭観音が祀られていた。おそらく造立年は側面に刻されているのだろうが、非常に美しい三面六臂像である。
三光院の東に浜崎氷川神社が鎮座している。
境内にこのような石柱があった。右の石柱には「従是南西北尾張殿鷹場」、左には「従是西北尾張殿鷹場」と刻されている。朝霞市教育委員会の資料によると、朝霞市内の膝折村、溝沼村、浜崎村、田島村、宮戸村などが尾張藩の鷹場となっていたという。この石柱は鷹場の境界を示すものであった。
浜崎氷川神社から県道112号を越えると東薬師堂がある。元禄5年(1692)の創建と伝わる。
参道の左側に石仏が並んでいる。一番手前には台石だけであるが、どのような石仏が載っていたのだろうか。
右から三番目に青面金剛が祀られている。剣、ショケラ持ちの六臂像のようであるが、全体に傷みが酷く、途中で折れた跡もある。造立年も分からない。
東薬師堂から黒目川に戻り、土手上の道を歩いていくと白いドームをのせた建物が見えてくる。温水プールのほかトレーニングルーム、浴場などの健康づくりに役立つ設備を備えた「健康増進センターわくわくどーむ」である。
これまで黒目川の左岸を歩いてきたが、地図を見ると花の木橋から下流では左岸の道が途切れるため右岸を歩く。
水色の太いパイプがあるが、これは東橋の上流側に架かる三園導水管橋である。荒川からの取水を朝霞浄水場経由で三園浄水場へ送る導水管である。
対岸の田島二丁目はわくわく田島緑地になっていて、釣りや散策を楽しむ人がいた。
東橋から下流の土手は草が生い茂り歩きにくい。
腰ほどまである草叢を抜けると新河岸川との合流部の前に出た。ここがゴールとなるのだが、合流部をすっきり見てみたいと思い、下流にある朝霞大橋へ向かった。
大回りして朝霞大橋から見た黒目川と新河岸川の合流部である。左が黒目川、右が新河岸川である。
黒目川の源流部では流水が見られない箇所もあったが、各所に湧水があり、次第に水量を増すとともに魚類の種類も増え、水遊びや釣りに興じる人の姿も見られた。かつては生活排水が流入し、水質が非常に悪化したというが、下水道や遊歩道の整備が進み市民に愛される川となったようだ。
写真の水門は朝霞水門である。この水門の向こうは荒川になる。今年は荒川放水路通水100周年。
黒目川から戻る途中、浜崎四丁目の内間木支所交差点近くに路傍祠があった。
祠内には青面金剛の六臂の合掌像が祀られている。延宝4年(1676)の古い庚申塔で、表面の風化が進み文字は読みづらくなっている。
この後、朝霞台駅までとことこ歩き黒目川を辿る旅を終えた。
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青面金剛のLandscape 477
10月6日号に続く豊春界隈の青面金剛を歩き訪ねる旅である。
春日部市増戸の路傍、神明神社の鳥居が見える。
鳥居の手前に青面金剛が祀られている。六臂の合掌像である。
残念ながら、顔は削られてしまったようだ。
邪鬼は物憂げな表情である。
三猿は菱形パターンである。天和2年(1682)造立の庚申塔である。
社殿前には甲子講が文化元年、甲子の年に造立した大黒天が祀られていた。
社殿脇の欅である。根元部分が腐朽し傾倒したが、その後接地部から新たに根を出して持ち直している。不撓不屈。
神明神社から東へ歩くと増富の路傍に香取神社が鎮座している。
鳥居の左側に石塔が並んでいる。
左から天和2年(1682)、文化8年(1811)、文政11年(1828)、嘉永4年(1851)に造立された4基の庚申塔である。
向拝柱には可愛い獅子が取り付けられている。古い社殿の木鼻だろうか。
香取神社からさらに東へ歩き、国道16号を越えると民家の間に地蔵尊と青面金剛が祀られている。
左の地蔵尊は明和9年(1772)の造立である。明和9年は、江戸三大大火の一つ明和の大火(目黒行人坂の大火事)が起きた年である。右の青面金剛は、剣、ショケラを持つ六臂像である。こちらは寛政4年(1792)に造立されたものである。
彫りが細かな像であるが、頭部が欠け、補修してある。
顔を踏み付けられている邪鬼は、左手で体を支え、右手で主尊の右足を受け止めている。丸っこい体形が可愛らしい。
上蛭田、豊春駅入口交差点の路傍、画面中央部のブロック塀の右に庚申塔があるのだが、草叢に覆われて見ることができない。草が枯れたらまた来るとしよう。
この草叢の隣の建物の看板である。「仲良くするのはコカ・コーラだけ」の時代のものだろうか。
この後、豊春駅まで歩き青面金剛を訪ねる旅を終えた。
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青面金剛のLandscape 476
2匹の邪鬼がユーモラスで、見ていて楽しくなる像である。宝永7年(1710)に造立されたものである。
流山市桐ケ谷、県道5号から西栄寺の山門が見える。
山門前の築地塀脇に青面金剛が祀られている。
右手に剣、左手にショケラを持つ険しい構えの六臂像である。細部までシャープに彫られている。
邪鬼と三猿である。実に掘りが深く立体的である。寛政4年(1792)の造立であるが、主尊の足は丸彫り状態で、よく折れずに当初の姿を保っている。
西栄寺の西、上貝塚の流山街道の路傍に2基の石塔が並んでいる。
左は女人講中が建てた成田山碑で上部に不動明王が刻されている。右は十九夜供養塔である。
下花輪、歩道スペースが狭い道をひやひやしながら歩く。
下花輪のガソリンスタンドの南で小堂を見つけた。その後ろには石仏のようなものも見える。
小堂の裏手、彼岸花の後ろに庚申の文字が刻された石塔が見える。
彼岸花で全容は見えないが、青面金剛も祀られている。六臂の合掌像で、文化元年(1804)に造立されたものである。
道路から見えた石仏は、六地蔵であった。調べてみたら、ここは西福寺という寺院の跡であるようだ。
下花輪交差点から南を見ると、流れ矢街道の旧道は右へ分かれていく。その上を昨年11月に開通した三郷流山有料道路が横切っている。
有料道路の下をくぐり旧道を進むと、三輪野山一丁目の路傍で6年前に報告した琺瑯看板がある商店が健在であった。
この後、流山電鉄の流山駅まで旧道をのんびり歩き、帰途に就いた。
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