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Landscapes by the roadside

路傍学会


界隈のLandscape 97

渋谷区西原界隈
 427日号の続きである。
  西原1
 渋谷区西原三丁目、坂道の途中に雲照寺の山門がある。
  西原2
 境内に青面金剛が祀られている。剣、ショケラを持つ六臂像である。
  西原3
 舟形に彫り窪めた中に青面金剛が陽刻されているが、日月の瑞雲はその境目に浮彫りされている。面白い配置である。ショケラの手足など、彫が大変細かい。
  西原4
 邪鬼は何とも嬉しそうではないか。傷みは全く見られない。元々この寺院で造立されたのだろう。寛文年間の作。
  西原5
 鐘楼からは初台の東京オペラシティや西新宿の高層ビル群を眺めることができる。
  西原6
 雲照寺前の坂道を下ると路傍に銭湯の看板がある。洗濯機が並んでいる。
  西原7
 銭湯の入口の両側には洗濯機がずらりと並んでいる。
  西原8
 洗濯機の上には芸能人のサインが掲げられている。スポーツ選手のサインもある。
  西原9
 洗剤、漂白剤の自動販売機は故障中である。
  西原10
 近くで見かけたアパートである。斜めに並ぶ窓の背後には階段があるのだろうか。このアパートの住人は先ほどの銭湯を利用していたのだろう。
  西原11
 代々木上原駅の先にある坂道を上り、脇道に入るとガンタ積み擁壁がある。古い煉瓦塀などを再利用した擁壁である。
  西原12
 刻印を探してみたが、明瞭なものはなかなか見つからない。
  西原13
 地表近くにやっと見つけた。「上敷免製」である。深谷市上敷免にあった日本煉瓦製造株式会社が製造したものである。東京駅や迎賓館の煉瓦を製造した会社である。
 この後、代々木上原から小田急に乗って帰途に着いた。
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  2. 界隈
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地蔵尊のLandscape 68

渋谷区元代々木町 田中地蔵尊
  元代々木町1
 渋谷区元代々木町、地蔵通り商店街である。
  元代々木町2
 営業を終えた店舗は落書きだらけだ。
  元代々木町3
 右奥に見える小田急の高架の壁に落書きが見える。こちらも落書きだらけだ。見苦しく、悲しい眺めである。
  元代々木町4
 この商店街から應慶寺へ向かう小路に入ると小さな堂がある。
  元代々木町5
 堂内には5体の石仏が祀られている。田中地蔵と呼ばれている。
  元代々木町6
 後列中央は鶏亀地蔵菩薩である。
  元代々木町7
 地蔵堂の左手前には石碑と並んで青面金剛が祀られている。六臂の合掌像。傷みの少ない綺麗な像である。
  元代々木町8
 邪鬼は魔法のランプから現れたかのような足である。享保年間の作。
  元代々木町9
 田中地蔵近くの路傍、門柱に椿森神社とある。行ってみよう。
  元代々木町10
 道の先には石段が続く。石段を上っても鳥居があるわけではない。少し不思議な空気が漂っていた。
  元代々木町11
 石段脇の琺瑯看板である。いつ頃、取り付けられたものだろうかと思っていると、石段を岸辺露伴が下りてきた・・・ ということはなかった。
  元代々木町12
 椿森神社を後にして西へ進むとマンションの外壁と同じタイルの庇の下、石仏が祀られている。
  元代々木町13
 3体の石仏が並んでいる。左の地蔵菩薩は周辺部が欠損し補修されている。紀年銘は分からない。右の青面金剛も傷みが酷く紀年銘は読み取れない。
  元代々木町14
 中央の石仏も傷んでおり、詳細は不明である。
  元代々木町15
 補修された青面金剛はドラえもんと一緒に祀られている。
 この界隈を徘徊する旅はまだ続く。
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  2. 地蔵尊
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界隈のLandscape 96

江東区清澄 清澄庭園界隈
  清澄1
 江東区清澄三丁目にある都立清澄庭園である。元々、三菱社員の慰安と賓客接待を目的として整備された深川親睦園だが、関東大震災後、その東半分が東京市に寄贈された。池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物は、明治42年に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものである。
  清澄2
 清澄庭園の大泉水の南側に、富士山を模した築山がある。以前は背後の樹木が鬱蒼と茂り、富士山の斜面にも低木が多く見られたが、すっきりと富士山の姿が望めるようになった。
  清澄3
 この富士山を回り込むと江東区の文化財に登録された石仏群がある。
  清澄4
 中央に阿弥陀如来、その右に寛文年間の庚申塔がある。阿弥陀如来の左には馬頭観音、その背後に庚申塔がある。
  清澄5
 一面六臂の馬頭観音坐像である。安永年間の造立である。
  清澄6
 石仏群の両側には石柱があるが、それぞれに錆の付いた穴が2つあり、上部には装飾がある。どこかの施設の門柱か橋の親柱を再利用したものではないだろうか。
  清澄7
 石仏群の左へ続く擁壁である。ガンタ積みである。管理用のスペースを確保するために築かれたのだろうか。いささか雑な仕上げである。
  清澄8

 清澄庭園の東、清澄通りに沿って約250mにわたって鉄筋コンクリート造の長屋が並んでいる。

  清澄9

 関東大震災後の復興事業の一環として、東京市が昭和3年に建設した店舗付住宅で「東京市営店舗向住宅」と呼ばれている。当初は賃貸で、その家賃は庭園の管理維持に充てられていたが、戦後、居住者に払い下げられたという。

  清澄10

 払い下げられて以降、各戸で改造が進められているが、南端部分には三角柱で仕切られた縦長の窓が3つ並び、建物の角にギザギザのアールデコ調装飾が付いている。これが当初のスタイルではなかろうか。

  清澄11

 築90年以上の長屋を見てから深川資料館通りに入ると、前から見ると2階建てで、側面に屋根裏部屋の窓のある店舗が見える。4月2日号で中央区湊界隈にある実質3階建てを実現したギャンブレル屋根を報告したが、この建物も実質3階建てなのだろう。

  清澄12

 この建物の電話番号票である。局番付きである。いつ頃のものだろか。

  清澄13

 この店舗の裏側にあたる三好一丁目の路傍に、玉垣で囲まれた一画がある。門柱には「紀文会」と刻された文字が見える。

  清澄14

 奥には「紀伊国屋文左衛門之碑」がある。この碑の左に石塔が見えるが、これが豪商紀伊国屋文左衛門の墓である。清澄庭園の地は久世家の下屋敷になる前、元禄年間には文左衛門の屋敷があったと伝えられている。

  清澄15

 出世には縁がないが、出世不動尊にお参りして帰途に着いた。

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青面金剛のLandscape 374

越谷市宮本町 宮本町二丁目集会所
  越谷市宮本町1

 越谷市宮本町二丁目の路傍、堂宇が見える。左には宮本町二丁目集会所がある。参道の右にある覆屋の下には石塔が並んでいる。

  越谷市宮本町2

 左端の庚申塔は文化年間、左から二番目の青面金剛は文政年間、六地蔵塔は寛政年間、右端の青面金剛は宝暦年間の造立である。右端と左から2番目の台石が入れ替わっているという指摘もある。確かに、台石と石塔の色合いを比べて見ると入れ替わっているようにも思える。

  越谷市宮本町3

 右端の青面金剛は傷みが進み、細部は不明となっている。

  越谷市宮本町4

 右端の青面金剛の側面には穴が穿たれ、厳しい時代を経てきたことが偲ばれる。

  越谷市宮本町5

 左から2番目は剣、ショケラを持つ六臂像である。衣の裾が面白い曲線を描いている。

  越谷市宮本町6

 邪鬼は仰向けで顔を踏み付けられている。これは辛い。

  越谷市宮本町7

 ここは、薬王寺と呼ばれていた寺院の跡地で、堂内には薬師如来像が安置されているという。

  越谷市宮本町8

 堂宇の横に掲げられた額には「薬王寺」の文字があった。

  越谷市宮本町9

 ガラス戸越しに堂内を覗かせていただいた。金色の2体の仏像の後ろの厨子の中に薬師如来が納められているのだろう。

  越谷市宮本町10

 「め」が向かい合わせに書かれた絵馬が奉納されている。眼病平癒を願って奉納されたものである。参拝を済ませ、越谷駅までトコトコ歩いて帰途に着いた。

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  2. 青面金剛
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青面金剛のLandscape 373

柏市藤心界隈の青面金剛
 4月13日号の続きである。
  藤心1
 柏市高柳の庚申塔から西へ歩くと、慈本寺の屋根が見えた。
  藤心2
 さらに歩を進めると、旧逆井、藤心、高柳村の境にある交差点に石塔が建っている。
  藤心3
 上部に青面金剛があり、その下に「東 たかやなぎ ふじがや 道」とある。村境に建つ道標である。

  藤心4
 上部の青面金剛は剣、ショケラを持つ六臂像である。
  藤心5
 右側面には「北 かしわ ふじごころ ふせ みち」と刻されている。
  藤心6
 旧村境の道標から北上すると、藤心の路傍にブロックに囲まれた青面金剛がある。
  藤心7
 右手に剣、左手に生首を持つ六臂像である。宝暦年間の作。
  藤心8
 藤心八幡神社の近くに藤心陣屋跡がある。藤心陣屋は、本多正信の弟である本多正重によって築かれた飛地陣屋で、明治を迎えるまで本多領として代官が置かれていたという。陣屋跡は農地となっており遺構は見当たらない。
  藤心9
 東武鉄道の逆井駅に向かって歩いていると、藤心一丁目の路傍、数本の電柱の背後に石塔が見えてきた。
  藤心10
 正面から見ると3体の青面金剛が並んでいる。左端の石碑には、この土地が元駒形神社の土地だったが、明治41年に八幡神社の土地となった経緯が記されている。
  藤心11
 3体の青面金剛の左端の像である。六臂の合掌像である。状態は良好である。
  藤心12
 中央の青面金剛も六臂の合掌像である。瞑目の表情である。
  藤心13
 この像の邪鬼の顔は主尊の顔に良く似ている。享保年間の作。
  藤心14
 右端の青面金剛である。渋い表情である。
  藤心15
 この像の邪鬼も主尊と似て口をへの字に曲げている。この像も享保年間の作である。
 この後、東武逆井駅までトコトコ歩き、帰途に着いた。
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  2. 青面金剛
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神社のLandscape 294

墨田区業平 押上天祖神社
  押業立1
 墨田区業平二丁目の路傍、押上天祖神社の鳥居が見える。
  押業立2
 鳥居の上には東京スカイツリーが聳えている。
  押業立3
 鳥居の手前にレトロ電柱が建っている。新しい灯具が取り付けられていて、現役である。
  押業立4
 途中にこのようなものがある。春は桜、夏は七夕飾り、秋には紅葉などの飾りを差し込む金具ではないか。枝垂れ飾りと呼ぶらしいが、この電柱もどこかの商店街から移されてきたものなのだろう。
  押業立5
 レトロ電柱の傍らには御大典記念の国旗掲揚塔がある。昭和5年の建立である。
  押業立6
 押上天祖神社から東へ歩くと、業平四丁目の路傍に防火用水が置いてあった。
  押業立7
 近くの角にも防火用水が置いてある。防火意識の高い町会である。
  押業立8
 似たようなものが墨田区の他地区にもある。これは天水尊と呼ばれ、雨水を一時的に貯めて水源化するとともに、水害防止のために流水量を分散させるためのもののようだ。
  押業立9
 北十間川に沿って歩いていたら、吾嬬神社の先の路傍に琺瑯看板を見つけた。
  押業立10
 寄贈者は家具店であるが、注目すべきは所在地の表記である。「トロリーバス通り中程」とある。江戸川区今井と上野公園とを結ぶトロリーバス101系統が亀戸天神通りを走っていたことを伝えている。101系統は昭和43年に廃止されたが、都市交通史の証となる琺瑯看板である。
  押業立11
 この看板の近くから見たスカイツリーである。押上天祖神社で見たスカイツリーに比べると随分小さくなった。
  押業立12
 北十間川から離れて立花通りを歩いていると、墨田区立花三丁目の路傍で鳥居が目に入った。手元の地図は表記の無い小さな神社である。
  押業立13
 大井戸稲荷神社である。かつては傍らの井戸からこんこんと清水が湧き、旅人の喉を潤したと言われている。
  押業立14
 立花六丁目、狭い道を入ると小堂がある。南を背にして北向に建っている。
  押業立15
 堂内には石仏が祀られている。中央の2体の地蔵尊は溶けたようにやせ細っている。北向地蔵尊である。
 この後、旧中川沿いの桜を眺めてから、京成八広駅まで歩き帰途に着いた。
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  2. 神社
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建物のLandscape 44

中央区湊、入船、新富界隈のレトロ建物
  中央区レトロ1
 中央区湊三丁目の路傍、雁行型に建築された建物がある。2階の下見板はまだ新しい。補修しながら大切に使われている建物である。
  中央区レトロ2
 右側は洋風の造りで、壁には鋳物工場の文字がある。住宅兼工場の建物である。
  中央区レトロ3
 住宅兼工場の前を西に進むと、入船三丁目の路傍に味のある古店舗が建っている。周辺は駐車場になっており、この建物も早晩姿を消すのではないか。
  中央区レトロ4
 電力量計もすでに撤去されていた。
  中央区レトロ5
 入船二丁目、伊勢金商店である。せんべいやあられなどの江戸みやげを商う店である。
  中央区レトロ6
 2階の手摺のデザインは面白い。
  中央区レトロ7
 新大橋通りを越えると新富である。新富二丁目、新富橋交差点の角に大野屋総本店がある。
  中央区レトロ8
 安永年間に創業し、現在も足袋を作り続けおり、足袋の他にも和装雑貨も製造している。
  中央区レトロ9
 大正末期に建てられた木造建築は、国登録有形文化財となっている。
  中央区レトロ10
 無断駐車禁止の琺瑯看板はいつ頃取り付けられたのだろう。
  中央区レトロ11
 雨樋には「志ん富」の文字が見える。町名へのこだわりであろう。
  中央区レトロ12
 新富橋を渡ると銀座に入る。銀座一丁目路傍にも銅板貼りの看板建築があった。鮨店が利用している。
  中央区レトロ13
 銅板には時間がしみ込んでいる。
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  2. 建物
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青面金剛のLandscape 372

柏市高柳界隈の青面金剛
  柏市高柳1
 柏市高柳にある交差点の路傍に石塔が並んでいる。
  柏市高柳2
 左の2体は青面金剛、右は地蔵尊である。
  柏市高柳3
 左端の青面金剛は、右手で矢を持ち、左手でショケラを持つ六臂像である。
  柏市高柳4
 三面で険しい表情である。元禄年間の作である。
  柏市高柳5
 中央は二手青面金剛である。粘土細工のように曲がった腕。2月に報告した鎌ヶ谷市中佐津間の大宮神社に祀られていた二手青面金剛と良く似ている。同じ石工の手によるものなのだろう。元禄年間の作。
  柏市高柳6
 庚申塔がある交差点から北上すると交通島状の所に石塔が並んでいるのが見える。
  柏市高柳7
 西側から見ると青面金剛が4体祀られている。
  柏市高柳8
 右の青面金剛は、右手で弓、左手に矢を持つ二手青面金剛である。元禄年間の作。左の青面金剛は六臂の合掌像である。
  柏市高柳9
 この像の邪鬼は髭を生やしているように見える。宝暦年間の作。
  柏市高柳10
 左から2番目の六臂の合掌像である。上部、邪鬼の顔が欠損しているが、滑らかな仕上げの像である。享保年間の作である。
  柏市高柳11
 左端の現代的な彫りの青面金剛は昭和61年造立である。
  柏市高柳12
 交通島の奥に傾いた祠がある。祠内に勢至菩薩が祀られている。
  柏市高柳13
 優しいお顔である。勢至菩薩に手を合わせ、次の訪問先へ向かった。
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  2. 青面金剛
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建物のLandscape 43

中央区湊界隈のレトロ建物

 43日号の続きである。

  湊1

 中央区湊一丁目の路傍、銅板貼りの重厚な建物がある。

  湊2

 庇にもきっちりと銅が貼られている。

  湊3

 日本不・・・の左下に「東京浅草 博文堂 鳥越神社隣」と記された丸い琺瑯プレートがある。博文堂とは一体何?

  湊4

 屋根の上には洋風の鬼飾りが付いている。

  湊5

 裏手には屋敷神が祀られている。

  湊6

 湊一丁目、鉄砲洲公園の東向いの路傍の建物である。木造の和風の建物と洋風の建物が一体化している。昭和4年の建築という。洋風部の3階窓の両側に色が変わった円形があるが、メダイヨンでも付いていたのだろうか。

  湊7

 湊二丁目の路傍にタイル張りの靴店がある。

  湊8

 昭和3年頃の建築というが、綺麗なタイル模様である。

  湊9

 歴史を感じさせる日除け巻き取り部である。

  湊10

 靴店から西へ進んだ路傍に建つ住宅である。バルコニーがある。アカンサス文様も見られる。

  湊11

 レリーフにはオーナーの名前が記されている。凝った仕上げである。

  湊12

 湊三丁目、突き当りに祠が見える。

  湊13

 明治時代に隅田川の川底を浚い、出現した汐見地蔵尊が祀られている。

  湊14

 ガラス戸越しに覗いて見た。石像は像高約55㎝、高さ70㎝ほどの台座の上に立っているというが、石像の姿は外からは見えない。石像を守るようにして表に立っているのは、昭和5年に造立された像高95㎝のコンクリート製の地蔵尊である。

  湊15

 汐見地蔵尊の背後は、隅田川で、大川端リバーシティのタワマンを望むことができる。レトロ建築が建つ湊界隈の景観と対極をなす景観である。

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  2. 建物
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建物のLandscape 42

足立区千住寿町 大黒湯
 4月初旬、放送大学足立学習センターへ向かう途中、千住五丁目にある安養院の前を通りかかった。
  1大黒湯 安養院
 左の門柱に「大黒湯唐破風移築保存」の立て看板があるではないか。千住寿町の大黒湯が昨年6月で営業を終えたことは承知していたが、唐破風移築保存とはどういうことか。
  2大黒湯 安養院
 境内に入ると、本堂の左手にも唐破風移築保存の立て看板がある。奥にブルーシートが見える。
  3大黒湯 安養院
 近づくことはできないが、このブルーシートが掛けられたところに唐破風が移築されるのだろう。
  4大黒湯 安養院
 すでに向拝虹梁のような部材が取り付けられているではないか。
  5大黒湯 安養院
 近くにこのような貼紙があった。大黒湯の玄関唐破風が安養院に移築保存されることを伝えている。取り外し工事は終わったとある。寿町へ向かった。
  6大黒湯

 工事用のパネル、シートに覆われた大黒湯である。シートの上から千鳥破風が見える。この下に唐破風があったのだ。

  7大黒湯

 狭い路地を抜けて裏側に回ると、まだ煙突は建っていた。閉店に際して「残してほしい」、「カフェにしてほしい」などの声が上がっていたので、何らかの形で「キングオブ銭湯」と呼ばれた建物が残ることを期待していたのだが、叶わなかった。

  千住寿町・大黒湯①

 これは2018829日号で報告した大黒湯である。正面に「唐破風」の曲線。その上に2段の三角の「千鳥破風」があり、上段は「狐格子」という木の格子となっている。キングと呼ばれるにふさわしい堂々たる構えである。

  千住寿町・大黒湯②

 唐破風の下には鳳凰の懸魚、その下の蟇股には打ち出の小槌形の中に大黒が陽刻され、入浴客を迎えてくれた。

  千住寿町・大黒湯③

 軒には弓矢が下がっていた。これは「湯に入る」と「弓を射入る」をかけた江戸流の駄酒落看板である。この弓矢も安養院で復元されるのだろうか、寺院では難しいか。路傍学会の興味は尽きない。

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