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Landscapes by the roadside

路傍学会


神社のLandscape 285

柏市布施 八坂神社 香取神社
  八坂・香取1
 柏市布施の路傍、八坂神社の社殿が見える。鳥居が無い。
  八坂・香取2
 社殿もいわゆる神社らしくない。
  八坂・香取3
 ガラス戸越しに覗いて見ると、絢爛豪華な神社が納められていた。牛頭天王を祀る神輿であるという。
  八坂・香取4
 この神輿を平成2年に修復したのは、201951日号で報告した行徳の浅子神輿店であるが、2007年に廃業してしまった。
  八坂・香取5
 社殿の裏手、一段高くなった所に石塔が建てられている。
  八坂・香取6
 右側には卵塔と呼ばれる僧侶の墓塔が並んでいる。ここは宝永2年まで東海寺のあった場所で、眠っているのは東海寺の歴代住職である。
  八坂・香取7
 上の写真の左側には青面金剛も祀られている。静かに手を合わせる青面金剛である。元禄年間の作。
  八坂・香取8
 八坂神社の近くに香取神社も鎮座している。本殿は覆屋に護られている。
  八坂・香取9
 覆屋は古い海老虹梁を再利用して改築されたようだ。覆屋の格子から本殿を見てびっくり。
  八坂・香取10
 右の胴羽目板には「司馬温公の水瓶割り」。
  八坂・香取11
 背面には「黄石公と張良」が精緻に彫り込まれている。石川三之助信光の安政3年の作品である。組物も精巧極まる造りである。
  八坂・香取12
 覆屋の背後、車道に沿って石塔が建てられている。
  八坂・香取13
 左から2番目の青面金剛である。剣、ショケラを持つ六臂像であるが、細部ははっきりしなくなってしまった。寛政年間の作である。
  八坂・香取14
 境内の北側にも3体の青面金剛が並んでいる。右側の2体は享保年間、左は宝暦年間の作である。
  八坂・香取15
 中央の青面金剛である。きっぱりと合掌している。横に伸ばした後手も良いバランスである。邪鬼はユーモラスな表情。綺麗な像を見てから次の訪問先へ向かった。
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  2. 神社
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青面金剛のLandscape 351

奈良市新屋町 吉祥堂
 1124日号で東大寺転害門を報告したが、東大寺からホテルへ向かう途中に奈良町を通った。
  奈良21

 猿沢池と興福寺の五重塔である。池の中の竹に赤い提灯が吊り下げられていた。

  奈良22

 奈良市鵲町、元興寺東側の街路に東面して建つ近田家住宅である。

  奈良23

 奈良町における昭和初期の町家の好例で、国土の歴史的景観に寄与しているものとして登録有形文化財となっている。こうした文化財がさりげなく在るのは古都ならではである。

  奈良24

 奈良市中新屋町、漢方薬局の隣の地蔵尊である。奈良町ではこうした地蔵尊をよく見かける。

  奈良25

 西新屋町の路傍、奈良らしい町屋が並ぶ一角に建つ吉祥堂である。江戸時代から明治・大正にかけての看板や生活用品などの民俗資料や、仏像や骨董品などを展示している私設資料館である。

  奈良26

 身につければ災難を逃れることができ、背中に願いごとを書けば、願いが叶うという「身代り申」が吊り下げられている。

  奈良27

 この資料館に祀られている青面金剛である。2匹の邪鬼の上にすくっと立ち、剣、ショケラを持っている六臂像である。昔から「庚申さん」と呼ばれて親しまれているという。「身代り申」は、この青面金剛の使いである。

  奈良28

 資料館の軒の上には素焼きの三猿が並んでいる。

  奈良29

 近くの民家の軒下にも「身代り申」が下がっていた。

  奈良30

 吉祥堂の近くにある庚申堂である。奈良の庚申信仰の拠点である。

  奈良31

 軒下の提灯には吉祥天女、青面金剛、地蔵菩薩とある。

  奈良32

 扉が閉じていたので、ガラス越しに中を見てみた。左に青面金剛、中央に吉祥天女と記されたぼんぼりが見える。それぞれの厨子の中に、吉祥天女、青面金剛、地蔵菩薩が納められているのだろう。

  奈良33

 屋根の猿に見送られてホテルに向かった。

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  2. 青面金剛
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門のLandscape 56

奈良市雑司町 転害門
  奈良1
 奈良を訪れた。近鉄奈良駅から奈良街道を北上する。奈良らしく鹿に注意の標識が建つ。
  奈良2
 とことこ歩いてたどり着いたのは、国宝転害門である。東大寺は、平重衝の南都焼討や三好・松永の戦いの大火にさらされ、主要伽藍をことごとく失ったが、転害門は焼け残り、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構となっている。
  奈良3
 大注連縄は、川上町の有志により懸けられている。
  奈良4
 千年を超える風雪に耐えてきた柱である。
  奈良5
 転害門の傍らに地蔵尊が祀られている。国宝の門の近くで地元の方々の信仰も永く、永く続いているのだろう。
  奈良6
 転害門へ向かう途中、路傍で見かけた石には東大寺西大門趾と刻まれていた。西大門趾から西に奈良市街地を伸びる道は「旧二条大路」で、平城宮の朱雀門から直線で結ばれており、西大門が正門のような役割を果たしていたという。現存する南大門を上回る規模を持つ巨大な門であったが、天正11年の暴風で倒壊してしまった。西大門勅額は博物館に保管されている。
  奈良7
 国宝南大門である。鎌倉時代、重源上人が再建したものである。様式は異なるが、これ以上の規模の門が西門趾に聳えていたというのだ。
  奈良8
 どのような構造で、どのような景観であったのだろうか。路傍学会の興味は尽きない。
 東大寺の転害門が国内最古の門に違いないと思ってググってみたら、どうやら違うらしい。法隆寺の東大門が現存する最古の門であるとする資料を目にした。
  奈良9
 翌日訪れた国宝法隆寺東大門である。これが最古の門か。西院伽藍から東院伽藍へ通じる参道の途中に建つ。
  奈良10
 東大門からは夢殿が望める。
  奈良11
 丁度、夢殿本尊救世観音の特別開扉期間であった。救世観音は撮影禁止なので、救世観音の拝観風景を写した。
  奈良12
 救世観音を拝観した後、今回奈良を訪ねた目的地へ向かう。
  奈良13
 法龍寺へ来た目的は、これである。昭和24年の金堂火災で焼損した壁画をどうしても見たくて、将来の公開に向けた研究調査資金を集めるクラウドファンディングに協力したのだ。
  奈良14
 これは、当日配布されたパンフである。温度、湿度のみならず、CO2濃度も管理された収蔵庫内で20分間の至福の時を過ごすことができた。収蔵庫内は撮影禁止であったので、内部の様子を伝えられないのが残念。
  奈良15
 焼損壁画を拝見した後、記念撮影をしている修学旅行生の脇を通って帰京の途に着いた。
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神社のLandscape 284

流山市南 神明神社
  神明神社1
 流山市上新宿の八坂神社を参拝してから畑の中を歩いていると道標がある。目指す神明神社は左の方向である。流山市内にはこのような道標が整備されており、迷うことなく街歩きができる。
  神明神社2
 農家の庭先にある井戸である。ポンプが設置されている。
  神明神社3
 流山市南、流山街道の路傍に神明神社の鳥居が見える。
  神明神社4
 玉垣の北の外れには3基の石塔が建っている。
  神明神社5
 剣を持つ六臂の青面金剛が2基並んでいる。
  神明神社6
 左の青面金剛である。左手で持つショケラは大振りである。
  神明神社7
 邪鬼は正面を向いて肘を張っている。三猿は菱形パターン。宝永年間の作。
  神明神社8
 右の青面金剛も剣とショケラを持っている。
  神明神社9 
 ショケラも細かく彫り出されている。
  神明神社10
 邪鬼はすっかり困った顔である。寛政年間の作。
  神明神社11
 鳥居の注連縄である。注連縄は、神聖な場所を不浄なものから仕切るための縄というが、この藁の大きな房は何を表しているのだろう。
  神明神社12
 鳥居を潜った右手に建つ石塔である。上部には瑞雲に囲まれた月と日。下部には猿らしきものが見える。青面金剛が削り取られた跡ではないか。11月17日号で報告した流山市八坂神社の境内にも同様な石塔があった。神域に祀られた青面金剛が、廃仏毀釈で削り取られたのではないだろうか。
  神明神社13
 御神木之碑である。碑前には枯株があるが、これは高さ38mにも及ぶ欅の株で、かつては江戸川を行き来する船頭の目印ともなった大欅であったというが、昭和51年の台風によって伐採を余儀なくされたという。
  神明神社14
 力石である。石井氏が奉納したものか。
  神明神社15
 参拝を終え、次の訪問先を目指している途中、路傍の木に烏瓜が鈴生りに実を付けていた。
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  2. 神社
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地蔵尊のLandscape 66

杉並区善福寺界隈の地蔵尊
  善福寺1
 杉並区善福寺四丁目青梅街道の交差点、コインランドリーの前に地蔵尊が祀られている。
  善福寺2
 近くに住む男性が箒を手に朝の掃除をしていた。
  善福寺3
 掃除が済んだ地蔵尊である。地蔵菩薩は享保年間に造立された「江戸向き地蔵」である。文字通り、青梅街道の上り方向(江戸の方角)を向いて立っている。左に建つ石塔は、「三山百番供養塔」で、文政年間の造立である。
  善福寺4
 江戸向き地蔵の左の道を進むと善福寺がある。
  善福寺5
 境内に入ると左手に地蔵尊が建っている。これは、享保年間に造立された地蔵尊で、施主は上荻久保村の小張吉兵衛と彫られている。
  善福寺6

 こちらは、天明年間の造立された地蔵尊である。「善福寺 新町 向原 念仏講中 遅野井村」とある。石工名は「江戸本材木町八丁目 石工 上総屋治助」である。顔に傷がある。厳しい時代を経てきたのだろう。

  善福寺7

 善福寺の西側の塀が途切れた所に小堂が設けられている。

  善福寺8

 中には2体の石仏が祀られている。

  善福寺9

 右は、青面金剛ではなく勢至菩薩である。元文年間の造立。

  善福寺10

 左は、馬に跨る将軍地蔵である。延享年間の造立。

  善福寺11

 善福寺の山門前の道を進むと都立善福寺公園がある。今年開園60年を迎えた善福寺公園では、「トロールの森」というアートイベントが行われていた。

  善福寺12

 これはどんぐりの木の下に置かれた「どんぐり収集家の家」というアート作品である。

  善福寺13

 プラコップをダブルクリップで繋げた作品。落ちてきたどんぐりをコップで受け止めるというもの。誰かが入れたのか、自然に入ったのか、コップの中にどんぐりが入っていた。

  善福寺14

 杭の上に置かれた小瓶の中、小さなボートが浮いている。これもアート作品。あれ、蜘蛛が入っているぞ。

  善福寺15

 珍しいアートを楽しみ、帰途に着いた。

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  2. 地蔵尊
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青面金剛のLandscape 350

流山市上新宿 八坂神社
  八坂神社1
 流山市上新宿の路傍、葱畑である。
  八坂神社2
 畑の向こうに鳥居が見える。
  八坂神社3
 八坂神社である。鳥居の手前の左右に石塔が建っている。
  八坂神社4
 扁額には素戔嗚大神の文字が陽刻されている。鳥居は平成元年の建立だが、この扁額はもっと古いものだろう。
  八坂神社5
 左側に建つ庚申塔である。
  八坂神社6
 三猿はちょこんと正座をしていて、愛らしい。文化年間の作。
  八坂神社7
 右側は六臂の青面金剛の合掌像である。
  八坂神社9
 邪鬼と三猿である。逃げ出そうと邪鬼は腕を伸ばしているように見える。右の不言猿は下半身が彫られていない。この猿だけ足を省略したのは何故だろうか。路傍学会の興味は尽きない。
  八坂神社10
 青面金剛の後ろにも庚申塔が祀られている。
  八坂神社11
拝殿脇に並ぶ石塔である。左から鹿嶋大神宮、二十三夜塔、熊野権現である。右端は何だろう。
  八坂神社12
 上部に日月、台石には三猿が浮彫りされている。三猿は明瞭な姿を留めているので、風化したとは考えにくい。青面金剛が削り取られた跡かもしれない。廃仏毀釈の嵐が吹いたか。しかし、鳥居前の青面金剛はほとんど傷みが無かった。うーむ、またまた路傍学会の興味は尽きない。
  八坂神社13
 拝殿前で見上げると、電球は針金のガードで護られていた。参拝を終え、次の訪問先へ向かった。
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  2. 青面金剛
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青面金剛のLandscape 349

府中市府中町、宮町界隈の庚申塔
  府中1
 府中市府中町二丁目、商店会のアーチに「庚申様」の文字が見える。アーチの左に庚申塔が祀られている。
  府中2
 この庚申塔が商店会のシンボルのようだ。
  府中3
 庚申塔の提灯の下には三猿の陶板が吊り下げられている。
  府中4
 庚申塔の先にある珈琲店である。店先に丸型ポストが置いてある。
  府中5
 これはオブジェで、投函することできない。
  府中6
 大國魂神社の参道である。欅並木は国指定の天然記念物である。
  府中7
 宮町一丁目の並木の途中に路傍祠がある。
  府中8
 右は剣を持つ青面金剛だが、細部は分からなくなっている。天保年間の作。うーむ、左も庚申塔だろうか。
  府中9
 大國魂神社の大鳥居である。鳥居の先には夥しい提灯が見える。
  府中10
 大國魂神社の東側の道を進むと、赤い柱が建ち並ぶ一画がある。ここは国史跡の武蔵国府跡で、柱穴遺構の上にかつてここにあった建物の柱を表示している。
  府中11
 府中市宮町二丁目、普門寺交差点に庚申塔が建っている。
  府中12
 全体に傷みがあり、中ほどには折れた跡もある。下部には浮彫りの蓮華がある。延宝年間の作。
  府中13
 京所通りを西に進んだ路傍にも庚申塔がある。大正四年の造立。奥に大國魂神社の杜が見える。
  府中14
 京所通りを進み、大國魂神社の境内を抜けると府中街道の路傍に国史跡武蔵国府跡の石柱があり、背後には建物の柱を表示する柱が林立している。ここには国司館が建っており、徳川家康もその跡地に御殿を建てたという。領国支配の正統性を示したかったのだろうか。
  府中15
 広場には国司館が10分の1の大きさで復元されている。主殿の前の広場では国司が赴任した時の儀式が再現されている。
 律令時代の国府に思いを馳せながら帰途に着いた。
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  2. 青面金剛
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塚のLandscape 115

文京区向丘 海蔵寺 身禄行者墓
  身禄行者の墓1
 文京区向丘二丁目、海蔵寺の山門が見える。
  身禄行者の墓2
 野鳥の鳴き声が賑やかな海蔵寺の墓地の中に、鳥居とその後ろに塚が見える。
  身禄行者の墓3
 溶岩を富士塚状に積み上げた塚の上に石碑が載っている。
  身禄行者の墓4
 これは、江戸庶民を中心にさかえた富士信仰の中興の祖として知られる食行身禄の墓である。
  身禄行者の墓5
 右にあるこの石碑には享保十八年とある。こちらが身禄行者没直後に作られた墓碑なのだろう。
  身禄行者の墓6
 裏側から見た墓である。大きな墓碑の後ろに大正十一年と刻されている。
  身禄行者の墓7
 墓の左に建つこの石碑は、身禄山の再興を記念して大正十一年に建立されたものである。
  身禄行者の墓8
 墓の脇に建つ稲荷社では、狐たちが何やらひそひそ話をしている。
  身禄行者の墓9

 参道脇に建つ灯籠は、かつて上野の鈴本演芸場の玄関脇にあったもので、改築の際に昭和の三味線漫談家、都家かつ江宅に寄贈されたが、「都家かつ江之碑」が建立されるのを機に当地に移されたという。灯籠の左が都屋かつ江之碑である。右側面には森繁久彌による献句が刻まれている。

  身禄行者の墓10

 身禄行者の墓へのお参りを済ませ、本郷通りを歩いていると、大きな布袋尊が現れる。浄心寺の山門である。

 資料によると「雷除けの地蔵尊」があるというので、境内を探してみたが、それらしい地蔵尊は見当たらない。

  身禄行者の墓11

 本堂の近くに祀られている地蔵尊だが、これが雷除け地蔵尊? 結局、分からずじまいである。

  身禄行者の墓12

 この地蔵尊の後ろには庚申塔が祀られている。現世安穏、来世清浄を祈るものである。寛文年間の作。

  身禄行者の墓13

 門前のバス停近くには「春日のお局さん御愛祈のお地蔵さん」があるが、由緒ははっきりしないようだ。この後、秋葉原行の都バスに乗って帰途に着いた。

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界隈のLandscape 83

さいたま市大宮区浅間町~土手町 大宮宿界隈(その2)

 11月7日号の続きである。

  大宮宿⑯

 塩地蔵尊の前の路地を進むと大宮区役所があり、その背後には氷川神社の参道がある。参道の先、浅間町二丁目の路傍に庚申神社が鎮座している。

  大宮宿⑰

 堂内には青面金剛が祀られている。

  大宮宿⑱

 右手に剣、左手にショケラを持つ六臂の青面金剛である。

  大宮宿⑲

 二鶏、邪鬼、三猿である。いずれも丁寧に彫られており、鶏には躍動感がある。宝暦年間の作である。

  大宮宿⑳

 旧中山道に戻り、下町二丁目の路地を入ると「旧跡涙𣘺」と刻された石が置いてある。「涙𣘺」は、下町の水路に架かっていた石橋で、刑場へと送られる罪人はこの橋あたりで遺される者と涙の別れをしたため、涙橋と呼ばれるようになったという。江戸の鈴ヶ森刑場、小塚原刑場の近くにも涙橋があった。

  大宮宿㉑

 北上すると、道路の拡幅に抗っているような形の建物がある。

  大宮宿㉒

 入口は塞がれているが、瀟洒な木造建築ではないか。近づいて見ると・・・ 

  大宮宿㉓

 玄関脇の明り取りは凝った造りである。

  大宮宿㉔

 外照明の金具も洒落ている。粋な料理屋であったのだろうか。

  大宮宿㉕

 電話番号は縦書きである。左の壁の青色が渋い。近いうちに取り壊されるのだろうが、興味深い建物である。

  大宮宿㉖

 大宮駅前から入るすずらん通りである。この通り中程に本陣跡という案内が立っていると聞いていたが、見つけることはできなかった。

  大宮宿㉗

 すずらん通りから路地を覗くと鳥居がある。鳥居の奥に鎮座する稲荷社は本陣稲荷と言うらしい。

  大宮宿㉘

 すずらん通りの北側の路地に入ると大谷石を積み上げた蔵があった。両側の下見板張りの建物は古いものなのか、新しいものを古く見せているものなのか、よくわからない。

  大宮宿㉙

 土手町三丁目の路傍に、氷川神社裏参道の入口を示す石柱が建っている。日本橋から数えて4番目の宿場である大宮宿には、商業ビルが立ち並び、当時の様子を示す建物は見ることはできなくなっていた。

  大宮宿㉚

 四恩寺の地蔵尊にお参りした後、東武の北大宮駅まで歩き、帰途に着いた。

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  2. 界隈
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界隈のLandscape 82

さいたま市浦和区北浦和~大宮区吉敷町 大宮宿界隈
 旧中山道を辿る旅である。JR北浦和駅からのスタートである。
  大宮宿①
 旧中山道を歩き始めて程なく、北浦和三丁目の路傍に渋い建材店があった。
  大宮宿②
 電話番号票である。局名に4桁は初めて見た。
  大宮宿③
 針ヶ谷三丁目、大原陸橋東の交差点に路傍祠がある。
  大宮宿④
 路傍祠内には六臂の青面金剛の合掌像が祀られている。路傍にありながら、傷みは少ない。正徳年間の作である。
  大宮宿⑤
 笠には大きな宝珠も載っている。宝珠は失われることが多いのだが、地域の方々に大切にされているのだろう。
  大宮宿⑥
 北袋町界隈には欅の街路樹があるが、ネットを被されている木がある。ムクドリなどの鳴き声、糞対策であろう。野鳥と共存する妙案はないものか。
  大宮宿⑦
 吉敷町四丁目の路傍に赤い屋根が見える。
  大宮宿⑧
 祠内には地蔵尊と不動明王が祀られている。
  大宮宿⑨
 これはお女郎地蔵と呼ばれる地蔵尊である。大宮宿の旅籠の飯盛女千鳥がかなわぬ恋に落ち、高台橋から身を投げた。それから間もなく辺りに火の玉が飛ぶようになり、その霊を慰めるために「お女郎地蔵」が建てられたという。
  大宮宿⑩
 こちらは「火の玉不動」である。高台橋の火の玉の正体を突き止めようとした男が火の玉を切り付けたところ、誤って不動明王を切ってしまった故事によるものという。
  大宮宿⑪
 旧中山道を北上すると、大宮の地名の由来ともなっている武蔵一宮氷川神社の参道入口がある。ここから約2㎞に及ぶ参道が神社まで続いている。
  大宮宿⑫
 吉敷町一丁目の路傍に塩地蔵尊、子育地蔵尊と記されたモザイク画がある。
  大宮宿⑬
 案内に従って路地に入ると、小堂が二つ並んでいる。
  大宮宿⑭
 向かって左の堂内にはアクリル板に仕切られているが地蔵尊が祀られている。塩地蔵である。病に倒れた父を救うため、2人の娘が地蔵尊のお告げに従い塩断ちした、という伝説が今に伝わる。供えられている色とりどりの花は折り紙製である。
  大宮宿⑮
 子育地蔵尊の前には折り紙で作られたハロウィンのカボチャが供えられていた。
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  2. 界隈
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