志木市本町 田子山富士 志木市本町三丁目の路傍に敷島神社田子山富士の案内看板がある。
敷島神社に向かう道は「富士道」である。
案内看板に導かれて進むと敷島神社の参道に至る。左の路傍に「是より田子山富士道」の道標が建っている。大型の幟建石も見える。
左側の幟建石には大きな昇り龍が浮き彫りされている。
石鳥居が見えてきた。鳥居の奥に富士塚が見えている。
鳥居越しに見る富士塚はかなり大きい。
普段は立ち入ることができない富士塚であるが、今日は大安である。大安の日は登ることができるのだ。
登山口の脇には浅間下社が鎮座している。
登山道を登り始めて間もなく左側に見える天狗座像である。
さらに急な道を登ると烏天狗が待ち構えている。狐の上に立っている。
「田子山塚」と呼ばれていた古墳の上に土を盛って作られた富士塚からの眺めである。先ほど通ってきた鳥居が足下に見える。
山頂の石祠である。木花開耶姫命が祀られている。
山頂から富士山をうっすらと望むことができた。富士塚から富士山を眺めたのは初めてである。
富士塚を下りて裏手に回ると、御胎内がある。明治5年に掘られたものという。
境内の西側に石仏が並んでいる。その中に青面金剛がある。ショケラを持つ六臂の剣人像である。気迫に満ちている。
二邪鬼と三猿である。ユーモラスな表情の邪鬼である。猿は目、指先まで細かく彫り込んである。天保年間の作。優品である。優れた細工が施された石造物が数多く見られる大変楽しい富士塚であった。埼玉県指定有形民俗文化財である。
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- 塚
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蕨市中央 正蔵院 蕨市中央一丁目、警察前通りから細い道をたどり、正蔵院の門前に着いた。
左手に石仏が並んでいる。
右端に見えるのは子育地蔵尊で、その左に庚申塔のように見えると石仏が並んでいる。
整然と5基の石仏が並ぶ。
左端の小振りな石仏は他の4基とは風情が異なる。これは馬頭観音である。素朴な風合いで、愛らしい。左側に享保の文字が読み取れる。
右端の大型の青面金剛である。ゆったりとした構えの六臂の合掌像である。側面には蓮華、蓮葉が浮彫されている。
三猿が浮彫されている台石には盃状穴が多数穿たれている。宝暦年間の作。
青面金剛3体である。奥から正徳、宝暦、元禄年間の作。
上の写真の中央の像の邪鬼と猿である。邪鬼は力無く両腕が垂れている。下の猿は2猿しか見えない。不見猿は初めから彫っていないのか。後年削り取られたのか。路傍学会の興味は尽きない。
墓地の入口には宝篋印塔がある。天明年間の造立である。
墓地の中央に3基の石仏が並んでいる。右は宝暦年間の地蔵菩薩、左は宝永年間の馬頭観音だが、中央の座像は何だろう。観音菩薩坐像か。
優しいお顔である。元禄年間の作。
参詣を終えて帰ろうとすると、庚申塔の前で、近所の子供がバドミントンをしていた。
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- 青面金剛
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蕨市中央 和楽備神社 蕨市中央四丁目の路傍、歴史を感じさせる店舗があった。
軒下にこのような物を見つけた。これはいったい何だろう。
道を進むと、路傍に「この先鳥居あり」の標識が現れ、道の先に鳥居が見えてきた。和楽備神社の南鳥居である。
境内に入り右手に見える水面は、神池で御殿堀と呼ばれている。この堀の右手は蕨城址で、その堀の名残である。カルガモが泳ぐ。
御殿堀の奥には木遣塚がある。地元の鳶消防組の活動を記念して建てられたものだ。
境内には筆塚もある。大正時代までは近くに富士塚もあったという。
末社天神社の蟇股には沢瀉が彫り込まれていた。
境内には力石も納められている。それぞれに重量を示した札が建ててある。
こちらは狛犬であるが、左右ともに口を開けている。布をかぶせた碁盤の上に載り、嬉しそうな顔をしている。
前脚で押さえつけられているのは魚である。逃げようと口から水を噴いているではないか。
四方の角が入隅式となっている手水鉢は大型で、置いてある柄杓の数も多い。蕨市指定文化財である。
末社の稲荷神社の石祠も並んでいる。実に見どころの多い神社である。
南鳥居から入ったので、帰りは社殿からまっすぐ伸びる参道を通って退出した。一の鳥居の前の太鼓橋は石造で、大正11年の架橋である。
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- 神社
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港区 芝浦界隈 今回は港区海岸辺から芝浦界隈を徘徊する。徘徊の始まりは浜松町駅である。3・4番ホームの端の小便小僧である。昨年一時期姿を消していたが復活した。この小便小僧は、ボランティアの手によって、月替わりで異なる衣装が着せられている。12月はサンタクロースである。小便小僧に挨拶をして、徘徊開始である。
浜松町二丁目、JR線手前の路傍、青い自転車の後ろに地蔵尊の姿が見える。
延命地蔵尊である。長い数珠を頭に掛けている。顔は修復されている。右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。台石の側面に昭和26年の造立とある。
地蔵尊の横にある港町架道橋である。今年5月に報告した高輪橋架道橋ほどの圧迫感は無い。前屈みにならずに歩ける架道橋である。
浜崎橋からみた古川の河口部である。屋形船や遊漁船が停泊している。
クルージングレストラン船の待合所である。
待合室に入ると、スマホを構えている人がいた。
何を写していたのかと見れば、これである。
現地にあった解説板の写真である。少々ピントが甘いが、東京港の防潮扉に型紙を使ってスプレー絵具で描かれたネズミの絵である。「通行止」の「通」の字とその下に描かれた絵の部分を切り取ったものが展示されているのだ。
「バンクシー作品らしきネズミの絵」である。専門家によると「バンクシーの作品である可能性が高い」とのことだが、真贋は不明という。本物だとすると、この絵に込めたバンクシーの思いは何だろう。路傍学会の興味は尽きない。来年は子年だ。
真贋不明の絵がある船客待合所の南側には日の出埠頭上屋が並んでいる。物流拠点である港の機能を支える施設である。
日の出埠頭を離れ、芝浦一丁目を歩いていくと「協働会館」が見えてくる。「協働会館」は、昭和11年に芝浦花柳界の見番として建築された、贅を尽くした近代和風建築であり、現在改修工事が進められている。完成間近である。
玄関上には大きな唐破風が載っている。花街の往時の華やぎが偲ばれる造りである。
玄関から中を覗くと、階段が優美な曲線を描き、手すりの親柱の上には擬宝珠が付けられている。
古い部材も利用して改修工事は進められている。工事終了後は、2階を文化芸術活動や交流の場として活用するほか、地域の歴史・文化展示スペース、観光案内・散策立ち寄りスペース、福祉喫茶・特産品等紹介販売スペースなどが設置されるという。来年度のオープンが楽しみである。
芝浦一丁目の路傍、芝浦花街の雰囲気を残す料亭である。路傍学会もかつて使ったことがあったが、残念ながら昨年閉店してしまった。芸者の置屋だった建物を使っていた割烹「い奈本」も建て替えられてしまい、芝浦花街があったことを偲ぶことができるのは、改修中の見番だけになってしまったのではないか。
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- 界隈
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練馬区大泉 別荘橋袂 練馬区大泉二丁目、白子川に架かる別荘橋の袂、大きな欅の横に小堂が2つ並んでいるのが見える。
左の小さな堂の中には風化が進んだ青面金剛のような像が祀られている。右の堂内には地蔵尊が祀られている。
舟型の地蔵尊である。 花が供えられ、今も地域の方々に大切にされていることが分かる。
丸顔のお地蔵様である。右側に「奉造立地蔵尊 新座郡上白子村 講中拾八人」と彫られている。下部には「南 江戸、左 ほうや」とあり、道標だったのである。左側には天明の年号が彫られている。
小さい堂の駒形の青面金剛である。こちらも多くの花や飲物が供えられている。
大分不明瞭になりつつあるが、ショケラを持つ六臂の剣人像だろう。邪鬼を踏みつけているのかも分からない。右側面には幕末期の嘉永の年号が読み取れる。
別荘橋を渡り、路傍祠方向を見たところである。「べっそうはし」は、練馬が東京の郊外地であった時代に金持ちの別荘が作られたことに因む橋の名前だろうと思っていたが、練馬区の資料によると、橋の名は「別の荘氏の橋」という意味で、元禄時代まで村名主だった荘一族と、後に帰村した荘氏が異なることに由来すると言う。別の「荘」さんの橋だったのである。
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- 路傍祠
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北区王子 王子庚申堂 北区王子五丁目、北本通りの路傍、王子庚申堂である。
覆屋根の奥に小堂がある。
堂の前には鈴と鰐口が吊り下げられている。鈴は神社、鰐口は寺院という印象を持っているが、2つを並べることにどのような意味があるのだろうか。
鰐口の上部に見えるのは鳳凰だろうか。
堂には頑丈な扉があり、中をよく見ることができない。隙間から見た観音菩薩である。
観音菩薩の左にある石塔の下部には庚申の文字が刻まれていた。庚申塔なのであろう。小堂の左側にある「古蹟観音塚之由来記」を読むと、文中にこの塚を指して「古墳」と表現している箇所がある。ここに古くから塚があったのかも知れない。
この庚申堂から東に「神谷橋庚申通り商店街」が伸びている。徘徊してみた。
大きな店舗である。注目したいのは手前のコーナーである。
2階の上部に面白い形の看板がある。ライオン型というのだろうか。ペンキが随分薄くなっているが、ナショナル乾電池と読めなくもない。
これは洋品店である。文字のデザインがお洒落である。
漫画喫茶である。改造されているが、いつ頃まで営業していたのだろう。御多分に漏れず、ここの商店街でもシャッターが下りた商店が散見された。商店街を活性化させる妙案は無いものだろうか。
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- 路傍祠
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船橋市中野木 八坂神社 船橋市中野木一丁目の長い坂道を登った路傍に八坂神社の鳥居がある。
二の鳥居の先に社殿が見える。
参道の左手に富士塚がある。高さは1.5mほどか。山頂にある大きな石碑は登山記念碑で、隣にある石祠は仙元宮である。
参道右手にある端正な手水鉢は嘉永年間に奉納されたものである。
社殿は覆屋で護られている。
向拝虹梁の上の龍である。参拝者を見つめる眼力が凄い。
脇障子には雉。反対側の脇障子には鷹が彫られている。
鷹の前の外壁である。郭巨が黄金の釜を彫り出した場面である。
雉の前の外壁である。孟宗が雪の中、竹林を掘り、筍を掘り当てた場面である。
こちらは虎から父親を守るように手を広げる楊香である。
社殿の勾欄の造作も細かい。
手挟は牡丹の花である。
笈形というのだろうか、切妻にも優美な波型が彫られている。彩色の跡も見える。こうした精緻な彫刻を風雨から護るために覆屋が設けられたのだろう。
社殿の後ろは公園になっている。公園から見ると、一段高くなった台地の上に神社は鎮座していることが分かる。
中野木では毎年2月の初午の日に、藁で作った大蛇を木にかけ、悪霊や悪疫が村内に入って来ないように祈る神事が行われている。また、各家の門などにかける藁の小蛇も作られるという。これはその小蛇である。
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- 塚
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葛飾区柴又 題経寺境外墓地 葛飾区柴又五丁目の路傍である。映画フーテンの寅さんで知られる柴又帝釈天、題経寺の境外墓地である。
墓地に入ると左手に石柱が建っている。浅間山噴火川流溺死者供養碑である。
天明3年の浅間山の大噴火による降灰と山津波でできた吾妻川のダムが決壊し、利根川、江戸川流域にひどい水害をもたらした。この地域にも上流から死者が漂着し、柴又村の人々が供養のために碑を建てたのである。葛飾区指定有形文化財。江戸川区東小岩の善養寺にも同様な石碑があった。合掌。
墓地の奥へと続く通路の脇に2体の石仏が並んでいる。
左は青面金剛である。
一邪鬼、二鶏、三猿、六臂の合掌像である。
よく見れば穏やかお顔である。享保年間の作。
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- 青面金剛
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千代田区千代田 坂下門 平川門 千代田区千代田、皇居前広場である。夥しい数の人々である。
坂下門前である。坂下門は昨年12月5日号で、乾通りの一般公開の際に報告したが、その時の混雑の比ではない。
やっと坂下門を通過した。今回皇居を訪れたのは大嘗宮を参観するのが目的である。乾通りは混雑していると聞いたので、右の富士見櫓方面への道を進むことにした。
富士見櫓である。江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、振袖火事で天守が焼失した後、天守の代わりとして使われた櫓である。
途中、十月桜や紅葉を楽しみながら歩いていると、また足止めである。群衆の先に見える屋根は、百人番所の屋根である。江戸城最大の検問所であった建物である。ここで大嘗宮まで90分待ちと告げられる。やれやれである。
ようやく本丸跡の広場にたどり着いた。皆同じ方向を見ている。スマホやカメラを向けている人も多い。その先にあるのは・・・
大嘗宮である。大嘗宮は、東の悠紀殿と西の主基殿、廻立殿の主要三殿や、参列者用の建物など大小40近い建物で構成されているという。
人混みに流されながら、大嘗宮前にたどり着いた。
警備の方は、立ち止まるな、撮影は遠慮しろ、を連呼している。正面に見えるのは高さ4mの鳥居・神門である。「黒木造り」という皮付きの丸太を使った伝統的な建築様式である。
画面上に見えるX字形の千木は主基殿の屋根に備え付けられているものだ。主要な建物の屋根は、経費削減のため平成の時の茅葺から板葺に変更されている。
膳屋前に置いてある消火器である。景観を損なわないよう、木箱に納められている。膳屋の壁にはスダジイの小枝が差し込まれている。
裏側から見た廻立殿である。両陛下が身を清め、装束に着替えるところである。
雨儀御廊下(うぎおろうか)である。儀式に際して、天皇が行き来する屋根付き廊下である。格式の高い雰囲気が漂う。
天守台付近から見た大嘗宮である。中央の大きな建物は廻立殿、右手の建物は主基殿である。この辺りになって、ようやく参観者はばらけてきた。天守台から梅林坂を経て平川門へむかった。
平川門の枡形にある帯曲輪門である。帯曲輪を経て竹橋門に通じている。
平川門の渡櫓門である。三代将軍家光の乳母である春日の局は、門限に遅れ一夜を門前で過ごしたという逸話が残る。
高麗門を抜け、平川橋を渡り帰途に着いた。欄干の擬宝珠には長谷川越後守と刻まれている。越後守とあるので、大名が寄進したものだろうと思っていたが、何と江戸時代初期に活躍した鋳物師の名だというではないか。鋳物師と官名。うーむ、路傍学会の興味は尽きない。
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- 門
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三鷹市上連雀 井口院 三鷹市上連雀七丁目、連雀通りの路傍、井口院の参道入口である。前号で報告した上連雀神明社に隣接する寺院である。
参道を進むと阿形の仁王像が門扉に取り付けられている。
左側の門扉には吽形像である。
山門の左右には仁王像の立像が睨みを利かせている。
山門の左手には地蔵堂がある。11月上旬の都内版の新聞に、井口院にある地蔵堂が江戸時代の享保年間に作られたとみられることが専門家らの調査で判明し、三鷹市内で現存する建造物では最古級のものであるという記事が出ていた。三鷹市内最古の建造物を拝見しようと訪れたのだ。
地蔵堂は約四メートル四方の旧山門で、老朽化したため五十五年前、山門を新設し、地蔵堂はその東隣に移されたという。
堂内には大小の地蔵尊が並んでいる。
壁面に並ぶ小振りの地蔵尊は参詣者が納めたものだろう。
屋根を支える柱などの様式が江戸初期ごろまで盛んに寺院建築に使われていたものであるという。
梁を支える蟇股である。
地蔵堂の横に祀られている馬頭観音である。三面八臂の現代的な観音様である。
山門で振り返ると、霊験あらたかな雨乞弥勒が見送ってくれた。
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- 地蔵尊
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