横浜市西区戸部町 岩亀稲荷 横浜の桜木町駅前と横浜ワールドポーターズ前を結ぶ都市型ロープウェイが運行を開始した。その名を「YOKOHAMA AIR CABIN」という。関内駅から汽車道に向かうと、ゴンドラが連なっているのが見える。
運河パーク駅からゴンドラに乗り込んだ。
最高高さは40mで、ゴンドラには8人乗ることができる。汽車道を眼下に眺めながらのゴンドラ移動は、ハマの新名所になりそうだ。
横浜の魅力的な景観を空から楽しんだ後、廃線敷を辿って雪見橋交差点に来た。横浜市西区戸部町四丁目と五丁目の境になる道である。横浜開港当時、高島町にあった遊郭「岩亀楼」の遊女が静養する寮が設けられたことから、「岩亀横丁」と呼ばれるようになったという。
酒店のシャッターに「岩亀横丁」の文字が見える。この店の壁に亀甲模様がある。この亀甲模様は岩亀の亀に因むものだろうか。
岩亀横丁の中程に幟が一対建っている。
岩亀稲荷の参道である。人一人が通るがやっとの幅しかない。
岩亀稲荷の扁額が掛る。
狭い参道を進むと、左手に社殿が現れる。
遊女が信仰したという稲荷であるが、油揚げや清酒などの供物が並び、今でも多くの信仰を集めていることが伺える。
「・・・ふるあめりかに袖はぬらさじ」 岩亀楼一番の売れっ子遊女が異国人からの身請け話を拒み、自害した際の辞世とされるが、攘夷論者の創作とする説もある。
岩亀稲荷の向いにある整骨院の名も岩亀である。あれ、軒下のガラス戸には接骨院とある。どっちだ?
少し先の鰻屋である。こちらも岩亀である。
脇道に入ったお宅には、「蘇民将来子孫也」の厄除粽が吊り下げられていた。この界隈は、国道16号を挟んだ横浜みなとみらい21とは対照的に、再開発は行われておらず、落ち着いた街並みであった。
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- 神社
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草加市吉町、八潮市西袋界隈の青面金剛 草加市吉町三丁目の路傍、日枝神社である。
鳥居の左手に青面金剛が祀られている。六臂の合掌像である。
邪鬼のこの姿勢は珍しい。宝暦年間の作である。
参道の右手には奉納された力石が二つある。穴があるが、どうして穿たれたのだろうか。
日枝神社から東方向へ進むと伝右川に架かる山王橋がある。山王橋の袂に水盤と青面金剛がある。
ショケラを持つ剣人である。往来の激しい路傍にあるにも関わらず、傷みの少ない綺麗な青面金剛である。彫りも細かい。
主尊の足元を水平にして、邪鬼は限られたスペースに何とか収められている形。些か不自然な姿勢である。
三猿はそれぞれが自由なポーズをとっている。この青面金剛の前、後ろ、左右のどこを見ても紀年銘は見当たらなかった。
山王橋から伝右川を下って、県道を東に進むと氷川神社の一の鳥居が現れる。参道は生活道路になっている。鳥居を見ると、車両の高さを制限する鋼製のゲートがある。
明治32年に建立された二の鳥居の足元に石が置かれているが、力石だろうか。
三の鳥居は両部鳥居である。鳥居の前にある幟建は下部がコンクリートで補強されている。幟建としては使用できないのでないか。
境内にある富嶽登山記念碑の周りには力石が置かれている。
参拝を終えて、参道を戻る。
一の鳥居の手前に青面金剛が並んでいる。
いずれの青面金剛も顔が削られている。どこからかここへ運ばれてきたのだろう。造花が供えられていた。
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- 青面金剛
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越谷市南後谷 西福寺 八潮市南後谷、綾瀬川の沿いの道から大木とお寺の屋根を望むことができる。
西福寺の山門前である。中央の樹木は、八潮市の天然記念物に指定されているタブノキである。
境内からみたタブノキである。山門脇に八潮市教育委員会が設置した看板によると、推定樹齢500年、樹高15mとあるが、とても15mあるとは思えない。カメラを構えていたら、石材店の職人さんが台風で上部が折れたと教えてくれた。
山門の先、六地蔵の脇に4基の青面金剛が並んでいる。画面左の軽トラックは、タブノキが折れた原因を教えてくれた石材店のものである。
仕事を終えた石材店が帰った後に撮った1枚である。右端はショケラを持つ六臂の剣人で、他は六臂の合掌像である。
右端の青面金剛である。鬼気迫る像である。
ショケラも細かく表現されている。ショケラは手を合わせて身を屈めている。文政年間の作である。
左から2番目の合掌像である。下膨れの顔で、愛嬌が漂う。
この像の邪鬼である。主尊の顔に似てふっくらとした佇まいである。元文年間の作。
右から二番目の邪鬼である。正面を向いて肘を張っている。その両側に二鶏を浮彫りにし、下に菱形の三猿が並んでいる。享保年間の作である。
こちらは左端の宝永年間に造立された邪鬼である。正面を向いて肘を張っている。うーむ、二鶏、三猿の配置も上の像とよく似ている。造立年も近く、同じ石工の手によるものだろうか。
青面金剛の奥には地蔵尊が祀られている。下部が溶けたようになっている。貞享年間の造立である。手を合わせて次の目的地に向かった。
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- 青面金剛
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北区 十条界隈の煉瓦構造物 昨年9月27日号で、陸軍板橋火薬製造所跡に残る煉瓦構造物を報告したが、今号では、北区十条台界隈の煉瓦構造物を報告する。
北区十条台一丁目、埼京線(赤羽線)原町踏切から線路に沿ったコンクリート塀が見える。
裏側から見ると煉瓦が積み上げられている。モルタルで覆われた煉瓦塀だったのだ。煉瓦塀は、明治38年に小石川から移転してきた東京砲兵工廠銃包製造所の西側の敷地境界の塀であった。現地の説明板によるとこの塀で使用されている煉瓦は、金町煉瓦製造所製であるという。2017年12月31日号で報告した葛飾区にあった旧三菱製紙中川工場煉瓦工場で使われていた煉瓦と同じ製造所のものである。 銃包製造所の跡地の一部は自衛隊の十条駐屯地となっている。
十条駐屯地の東側には一般開放されている広場がある。広場の奥に煉瓦構造物がある。
変圧所として建設された煉瓦造平屋の建物を利用したモニュメントである。
変圧所らしく碍子が並んでいる。
中十条と王子を結ぶ陸橋南大橋である。
この陸橋の下にちんちん山児童遊園がある。
石のアーチは軍の施設を結ぶ鉄道のトンネルのアーチである。要石には、団子を三角形に並べ、その上にもう一つ重ねたようなマークがある。砲弾を4つ組み合わせたもので、砲兵工廠の標識である。
駐屯地ではドローンの飛行は禁止されている。
十条駐屯地の東側に北区中央図書館がある。この図書館も煉瓦造の倉庫を活用している。
大正8年竣工の倉庫は、重厚な雰囲気である。
図書館内のカフェの屋根裏である。鉄骨で屋根を支えているのだ。
中央図書館近くの小路の路傍にルーペ博物館がある。見学無料とある。興味はあるのだが、何となく足を踏み入れにくい。
王子駅へ向かう途中にある和菓子屋である。王子と言えば狐だが、狸の最中もあるのだ。
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- 煉瓦
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板橋区 小豆沢界隈の青面金剛 板橋区小豆沢四丁目21番の路傍、ブロック塀が凹んだ所に屋根がかけられている。鈴緒のような紐も見える。
銅葺き屋根の下に青面金剛と庚申塔が祀られている。
ショケラを持つ六臂の剣人である。側面には「わたしば、あかばね 道」とあり、道標として造立されたものである。
精緻な彫りである。裏面を覗き込んでみると明治36年と読み取れた。
小豆沢二丁目36番の路傍、万年塀の中に祠的な空間がある。
中には表面が妙に滑らかな印象の青面金剛が祀られている。
腕がおかしくないか。前腕がえぐられたようにも見える。頭に蛇が巻き付いている。元の姿を見てみたかった。延享年間の作である。
万年塀の下のわずかな隙間に菫の花が咲いていた。
同じく小豆沢二丁目5番の路傍、スーパーの前のお宅の石塀に窪みがある。
その中に青面金剛が祀られている。合掌した手先が欠けているが、その他には傷みの少ない綺麗な像である。元文年間の作である。
鶏も丁寧に彫られている。
小豆沢三丁目、小豆沢公園である。2015年6月27日号で報告した戸田橋の親柱の横に弓道場の案内看板がある。
弓道場の裏手である。石塔が二つ見える。
これは正徳四年に地元の人々が造立した庚申塔である。右の石塔は、上部が折れてしまっているが、三猿が浮彫りにされており、庚申塔だろう。公の施設の中に庚申塔があるのは何故だろう。弓道場の西には寺院があることと関係があるのかもしれない。
今号では板橋区小豆沢界隈の青面金剛を報告したが、生花や榊が供えられるなど、傷んでいるものであっても、地域の方々に丁寧に、大事にされていることが分かった。
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- 青面金剛
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北区中十条 十条富士塚(その2) 北区中十条二丁目の路傍である。近くの歩道橋からの眺めである。道路の拡幅が進み、手前にはブルーシートに覆われた所がある。ここには2年ほど前まで、富士塚があった場所である。ブログ『古墳なう』で、旧岩槻街道の整備によって十条富士塚が再整備されること知り、やって来た。
これは2014年9月28日号で報告した当時の十条富士塚である。鳥居の先に直線的に頂上へ至る階段があった。
かなり急な階段であった。古墳と推定される塚を利用したと説明板にある。
山頂には石祠が鎮座していた。
現在、この石祠はネットフェンスに守られて路傍に鎮座している。
以前は2013年に富士山が世界遺産に登録されたことを祝う看板も設置されていた。
すっかり様子が変わってしまった。
これは現地に掲げられている整備イメージ図である。面積は半分以下になり、富士塚は西へ移動するようだ。
半分以下の面積で以前の高さを確保するため、石祠は塚ではなく、コンクリート製の構造物の上に鎮座する形になる。どのような姿となるのか気になるところである。
これは近くにあるNTT柱である。富士とある。富士塚がこの地域のアイデンティティーとなっていることの証左である。富士塚の再整備が終了したら、改めて参拝に来るとしよう。
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- 塚
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北区赤羽北 穀蔵稲荷 満蔵院 北区赤羽北一丁目、坂の途中の路傍に社の赤い屋根が見える。
神社前の坂道には「稲荷の坂」の標柱が建っている。この坂道は赤羽北一丁目から赤羽台四丁目まで続いているが、坂の途中にあるこの神社に因み「稲荷の坂」ともよばれるようになったという。
穀蔵稲荷である。石鳥居は大正7年の建立。江戸時代にはこの地には郷蔵があったという。「穀蔵」の名は郷蔵に由来するようだ。
境内に入ると右手に庚申堂がある。
左端の青面金剛である。六臂の合掌像である。顔は傷んでいる。
邪鬼と三猿である。菱形の三猿は不言、不聞、不見の区別がつきにくい。宝永年間の作。
これは庚申待供養塔の三猿である。この三猿も区別がつきにくい。こちらは元禄年間の作である。上の青面金剛より造立年は1年早い。同じ石工の手によるものかもしれない。
穀蔵稲荷近くの環八の路傍に満蔵院がある。
墓地の手前に小堂が二つ並んでいる。
左の堂である。
青面金剛尊の扁額である。
祀られている青面金剛は大分傷んでいるが、ショケラを持つ六臂の剣人である。割れを修復した跡もある。今でこそ、堂に守られているが、この青面金剛も厳しい時代を経てきたのではないか。造立は天明年間である。
隣の堂には、柔和なお顔の地蔵尊が祀られている。享保年間の作である。この後、環八を板橋方面へ向かった。
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- 青面金剛
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江東区牡丹、古石場界隈の神社 2018年11月17日号で、江東区牡丹一丁目にある黒船稲荷神社について報告したが、今号では、牡丹、古石場界隈の神社を紹介したい。
江東区古石場一丁目の小路に入ると、路傍に赤い幟が並んでいる。
妙栄稲荷大善神である。妙栄稲荷は、当地に抱屋敷を構えていた松平越中守の屋敷神であったという。
江東区牡丹一丁目の路傍に鳥居がある。
普通のお宅の入口ようにも見えるが、門柱に「於三稲荷」と「古木弁財天」とある。お邪魔してみた。
参道の奥には二つの社が並び建っている。社殿は溶岩を積み重ねた上に鎮座している。奥が古木弁財天、手前が於三稲荷である。於三稲荷の創建の年代や詳しい経緯は不明だが、「怪談・阿三(おさん)の森」の舞台とされる神社である。
境内は大変綺麗に管理されている。入口近くには水琴窟もあった。
牡丹二丁目にある牡丹町公園では、地名に因んで植えられた牡丹が綺麗な花を咲かせていた。
江東区古石場二丁目の路傍、二社神社の社号標がある。この路地が神社の入口なのだろうが、どう見ても正面に見えるお宅のアプローチである。牡丹一丁目の於三稲荷神社同様、お参りするのを若干躊躇してしまう。
遠慮気味に参道を進むと鳥居が現れる。二社神社は、白龍大明神と塩竈大神を祀っている。
境内にはかつて公孫樹の大木があったが朽ちてしまったという。その後継樹となる、仙台市秋保神社の銀杏から出芽した幼木に小さな葉が芽吹いていた。
江東区牡丹三丁目の路傍、牡丹住吉神社である。牡丹住吉神社は、享保4年に当地周辺が佃島の漁民の網干場となったことから、佃島住吉神社の分祀として創建されたという。
玉垣である。路傍学会も足を運んだことのある居酒屋の名も見える。
力石である。中央の石には、「ちから姫」さんのブログで目にする「神田川徳蔵」の名が刻されている。
この「東光石」と名付けられた力石には「旧久世大和守別邸庭石」とある。岩崎弥太郎が「深川親睦園」を作るために、荒廃していた久世大和守下屋敷跡地を買い取ったのは明治11年であるから、それ以前に持ち出されたのだろうか。この石が奉納されたのは昭和29年4月29日とある。その間、この石はどこにあったのだろう。路傍学会の興味は尽きない。力石は江東区の民俗文化財に指定されている。
これは古い玉垣の石材である。右側の笹の葉の陰に見える洲崎二葉は、洲崎遊郭の見世の屋号であろうか。「魚三」などは、新しい玉垣にも同じ名前が見られる。
今回は、江東区牡丹、古石場界隈の神社を報告した。若干入りにくい神社もあったが、いずれの社も地域の方々に大切にされていることが実感できた。
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- 神社
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横浜市鶴見区生麦 新、旧国道架道橋 横浜市鶴見区生麦五丁目、旧東海道の先に鶴見線の架道橋がある。停車している電車が見える。
架道橋の下にはぽっかり穴が開いている。国道駅の入口である。
高架下は薄暗い。以前報告した、京成電鉄の博物館動物園駅に似た空気感である。
反対側を見ると、高架下は住居として利用されているようだ。先に見える鉄橋は鶴見川に架かるものである。
この架道橋は、「旧国道架道橋」という。
駅通路に入ると釣船屋がある。ドラマの中で釣船屋のモデルにもなったことがあるという。
ベニヤ板でふさがれた店舗が多いが、営業を続けている居酒屋があった。その名も「国道下」である。
画面左手が国道駅の改札口である。高架下の天井は高く、アーチが美しい。
改札口に掲げられている危険物持込みを禁止する看板である。「多量のマッチ」に時代を感じる。
改札口からホームへ至る階段も薄暗く、独特の雰囲気である。
ホーム上の鉄骨のカーブにも昭和レトロ感が漂う。
駅通路の第一京浜(国道15号線)側である。不動産屋の看板がある。いつ頃まで営業していたのだろうか。かつて、国道駅の高架下には「臨港デパート」と呼ばれる商業施設があり、食品、玩具、洋服、雑貨など、さまざまなものが販売されていたという。
第一京浜側の架道橋は「新国道架道橋」である。昭和5年に開業した国道駅は、まさに昭和のまま時が止まったような空間であった。
鶴見区鶴見中央五丁目、旧東海道の路傍に釣り餌を商っている商店がある。鄙びた風情で、ここでも時が止まっているかのようだ。
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- 橋
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越谷市蒲生愛宕町 蒲生愛宕町第二会館前 草加市青柳、葛西用水に架かる上中央橋から、3月31日号で報告した青柳久伊豆神社の社殿の屋根が見える。葛西用水の護岸は石張りに改修されている。
上中央橋から下流方向を見ると、左側の護岸はまだ土の法面である。路傍学会はこのような護岸が好きだが、洪水対策上、改修はやむを得ないのだろう。
越谷市伊原二丁目の路傍に石祠がある。
男体八幡神社とある。
この道を西へ進み、脇に入ると古綾瀬川が流れている。
古綾瀬川近くの路傍に馬頭観音が祀られている。八臂の馬頭観音である。寛政年間の造立だが、傷の少ない綺麗な像である。
古綾瀬川を辿り、綾瀬川に出た。
左岸の歩道を、以前報告した「蒲生の一里塚」方面に進むと、土手の下に蒲生愛宕町第二会館がある。
会館の前に石塔が3基並んでいる。右は、均整の取れた六臂の合掌像である。正徳年間の作。中央は、「これよりぢおんじミち 四里」と刻まれた道標である。幕府からも帰依を受けたさいたま市岩槻区にある慈恩寺への道標である。左は塞神塔である。紀年銘は見当たらない。
中央の道標の上には観音菩薩像が載っている。読みにくいが左縁に寛保の文字がある。今回は、草加市青柳から越谷市蒲生愛宕町にかけて散策した。しみじみと見どころの多いエリアであった。
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- 青面金剛
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