佐倉市 臼井宿界隈(その1) 7月26日号、29日号で成田街道大和田宿について報告したが、今号と次号では、一つ成田寄りの臼井宿を報告する。京成のユーカリが丘駅で下車し、歩き始めた。画面の高架構造物は、ユーカリが丘タウン内を運行する新交通システムである。
ユーカリが丘駅から成田街道と京成線の間の道を臼井方面に向かって進むと塚がある。塚の上の樹木は茶の木だろうか。樹木の右側には石塔が並んでいる。
並んでいる石塔は庚申塔である。
右から三番目の青面金剛である。逞しいショケラ持ちの剣人像である。ショケラは丸彫りに近いくらい彫りが深い。
邪鬼は仰向けになって苦しそうである。天保年間の作であるが、傷みの無い綺麗な像である。この庚申塚は「上座荒具1号墳」という古墳を利用したもののようである。
庚申塚の向かいには道祖神社が鎮座している。
成田街道を進むと、右手に皇産霊神社の扁額を付けた鳥居がある。夏草が生い茂り、境内の様子はよく見えないが、社殿は無いようだ。出羽三山参拝記念碑が草の上に見えた。
成田街道は手繰川に向かって下っていく。
上座の緩やかな下り坂の路傍に、大師堂がある。その左に並ぶ石塔は馬頭観音である。
手繰川を越えると旧道は国道からそれて坂道を登るようになる。坂道の上に青面金剛が祀られていると聞き、息を切らせて登ってきたのだが見当たらない。道路の左側にある電柱横の小道を登ると・・・
道路沿いの木の後ろに青面金剛があった。
六臂の合掌像である。笠は一部欠けているが、綺麗な像である。正徳年間の作。隣の石仏は首が無い。
この青面金剛の丘からの眺めである。画面の右に見えるタワーマンションはユーカリが丘駅近くのマンションである。昔の旅人も坂道を登り終えてこの風景を眺めたのだろう。臼井宿の旅は次号へと続く。
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- 界隈
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足立区江北 薬王院 足立区江北三丁目の路傍に鳥居が見える。以前来た時には、鳥居の左にあるプラタナスが電信柱のように強烈に剪定されていたが、また小枝が伸び、葉が繁茂するようになった。
北野神社の扁額である。
境内には鳥居と社殿しかないのか、と歩き回ると、社殿の後ろに出羽三山登拝記念碑があった。
北野神社に隣には薬王院がある。
参道の途中には沼田小学校跡の碑がある。薬王院には明治20年まで沼田学校があったという。明治22年には村役場も置かれたと説明板にある。
山門の前には石仏が並んでいる。
右側の地蔵菩薩、青面金剛、板碑型の3基が庚申塔である。
板碑型の庚申塔である。中央に「奉供養庚申二世悉地成就之所」と刻され、両側に計16名の名前がある。多くの人々が集まって庚申待をしている様子が伝わってくる。
菱形パターンの三猿は手足が逞しい。三猿の下の模様も面白い。 元禄年間の作である。
六臂の合掌像である。邪鬼はおとなしい。こちらも元禄年間の作である。
地蔵菩薩の右縁に寛文の文字が見える。
境内は蝉時雨の喧騒に満ちていた。
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- 青面金剛
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中央区銀座 中銀カプセルタワービル 中央区銀座八丁目、海岸通りの路傍にカプセルタワービルが見える。黒川紀章氏が設計し、世界で初めて実用化されたカプセル型の集合住宅である。
ドラム式洗濯機を積み重ねたようにも見える。
竣工は1972年。老朽化が進んだためだろうか、全体が細かなネットで覆われている。
「カプセルタワービル」が「カフセルタワーヒル」になってしまっている。これまでマンションの建て替え決議が行われたものの無効となったり、大規模修繕が否決されたり、保存すべきとの声もあると聞く。
下方のカプセルの窓には#saveの文字が見える。保存派なのか。メタボリズムの代表的な作品であるこのマンションが今後どうなるのか、路傍学会の興味は尽きない。
中銀カプセルタワービルから浜離宮方向に歩くと、路傍に踏切の警報機がある。
1987年まで、汐留駅から築地市場内にあった東京市場駅を結ぶ貨物線があり、海岸通りとの交点に設けられた踏切の警報機が保存されているのである。
現地にはこのような看板が建っている。後方に見えるのか朝日新聞社である。
汐留駅跡に建つビルから眺めた築地市場である。豊洲への移転が完了し、建物の解体工事中の写真である。築地市場建物の外周に沿って大きなカーブを描いて汐留駅からの線路が敷設されていた。市場の線路脇は、貨車から直接荷卸しができるようにプラットホームのような構造になっており、1度にワム換算で40両の貨車からの荷役作業が可能だったという。
最近の築地市場跡地である。市場の建物はすっかり撤去され、東京五輪の車両基地として整備されている。
築地市場跡地の南には、かつて徳川将軍家の別邸であった浜離宮恩賜庭園が広がっている。浜離宮の周辺では活発な都市開発が行われ、風景は大きく変貌しているが、浜離宮は文化財に指定されており、江戸時代からの姿を今に伝えている。
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- 建物
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柏市高柳 高柳富士塚 柏市高柳の路傍のコンビニ前から、家屋越しに樹木が見える。あそこが今回目指す富士塚だろうか。
信号を渡り、狭い道路に入る。
その道を進むと左手に5基の青面金剛が並んでいる。
右端の青面金剛である。綺麗な像であるが、顔が欠落してしまった。五基の中でこの像だけが合掌像である。
槍の柄と邪鬼は彩色されていたようだ。邪鬼の頭には角が見える。不言猿が持っているのは桃の実か。寛政年間の作。
右から2番目の青面金剛である。六臂の剣人像である。右手に持っているのはショケラには見えないが、何だろう。金剛鈴にも見えない。調べてみたい。
中央のショケラを持つ剣人像である。細部まで彫り込まれた像である。
邪鬼は踏み付けられているが、決して諦めてはいないという表情である。文政年間の作。
左から2番目の青面金剛である。この像も六臂のショケラ持ちの剣人像であるが、このように剣を振り上げた青面金剛は初めて見た。天保年間の作。
左端もショケラ持ちの剣人像である。こちらは慶応年間の作。5基の青面金剛は、いずれも傷みの少ない綺麗な像であった。
青面金剛の前を通ると、鳥居が見えてくる。鳥居は平成13年に建立されたもの。
鳥居の先には富士塚を登る石段がある。この高さ5mほどの富士塚は、西向原古墳という前方後円墳の後円部であるという。石段の右側に見える鳥居の奥には、小御嶽石尊大権現が祀られている。
31段の石段を登ると山頂である。右は「仙元大菩薩」で、中央は御神体の鏡である。仙元大菩薩の石祠の裏側には文政十二年と刻されている。左の石には手摺で見えないが、「御實前」と彫られている。
鳥居の反対側から見た富士塚である。画面右に見える建物の方に前方後円墳の前方部が伸びていたようである。どなたが葬られていたのか分からないが、自分の墓が開発によって削平されたことをどのように感じているのだろう。
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- 塚
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幸手市北 聖福寺 幸手市北一丁目、旧日光街道から脇を見ると聖福寺の参道の先に勅使門がある。
唐破風の四脚門で、日光東照宮を参拝する徳川将軍や日光例幣使が通る時以外にこの門の扉が開くことはなかったという。
屋根にいるのは何だ?鯱か龍だろうと思ったが、鬼の顔だ。しかも歯が何本か抜けているではないか。
門に掛けられている山号額である。「菩提山」である。
将軍や勅使を迎えるに相応しい細やかな彫刻である。
優美な彫刻が入念に施されている。
頭貫、虹梁や蟇股にも気品が漂う。8月16日号で紹介した幸手宿にある酒店のシャッターに書かれていた曾良の句「松杉をはさみ揃ゆる寺の門 」にある「寺の門」はこの勅使門だという。
庫裏にはこのような絵があった。
六地蔵に見送られて、勅使門を後にした。往時、将軍たちはどのようにあの門をくぐったのだろうかなどと思いながら、炎天の下、東武線の幸手駅までよろよろと歩き、帰途に着いた。
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- 門
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幸手市北 浅間神社 幸手宿を歩いている途中、旧日光街道の荒宿交差点から東へ歩くと、幸手市北二丁目の路傍に浅間神社が見えてくる。
社号標に「武蔵国武州幸手宿浅間神社」とある。「武蔵国」と「武州」を並べて記す意味は何だろう。
石段を上ると石鳥居がある。石の扁額には「浅間宮」とある。
手水舎は石の柱の上に唐破風の屋根が載っている。
手水鉢である。「漱浄水」と刻されている。手水鉢の言い表し方は色々あるものである。
境内には大きな庚申塔もある。
稲荷社の隣には「子宝石」と刻まれた石がある。説明板は見当たらないが、この石を持ち上げると子宝に恵まれるのだろう。
社殿の横には「御奉社再建」の額が掛っている。この社殿は文久二年に再建されたのだろうか。
再建額の反対側の壁には「富士浅間宮」と記された扁額がある。
これは現在、拝殿に掲げられている扁額である。社号標と同じ「浅間神社」である。時代によって神社の名称が変化しているのだ。
拝殿前にある賽銭箱は重厚な銅板張である。
裏側から見た浅間神社である。神社自体が富士塚の上にあることがわかる。手前の大きな建物は本殿の覆屋である。本殿には見事な彫刻が随所に施され、幸手市の文化財に指定されているが、外光がガラスに反射してしまい、うまく撮影することができなかった。
神社の前の道は「浅間横町」と呼ばれている。この後幸手宿を訪ねる旅に戻った。
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- 塚
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幸手市 幸手宿界隈 これまで、日光街道の宿場町を順番に訪問してきたが、今回は、今年5月27日号の杉戸宿に続いて幸手宿である。東武の幸手駅から歩き始めた。
幸手市中二丁目の路傍にある神明神社の入口左手の灯籠の台石には几号水準点が刻まれている。東京と宮城県塩竃との間の水準測量を行った際に刻されたもので、以前訪れた草加宿の神社でも見ることができた。
神明神社の近くにある建物である。元醤油醸造業を営んでいた商家である。屋根の形が面白い。現在はカフェとして利用されている。国登録有形文化財である。
これは医院の建物である。代々医・薬種業を営んでいる家である。1階玄関部分を改造し、現役の医院として使われている。
近代的な外観の旅館であるが、創業は1819年で200年以上の歴史がある。板垣退助や伊藤博文らも宿泊したという。
中一丁目の路傍で見かけた建物である。昭和ロマンの雰囲気が漂う。何を商っていたのだろう。気になるところである。
中一丁目の路傍にある酒店である。路傍学会が好きな銘柄も見える。街道に面した町屋の特徴で、狭い間口と奥行きのある敷地となっている。このため、「横丁鉄道」と呼ばれるレールの上を動く人力トロッコがある。
レールは約70mの長さがあるという。
トロッコのレール脇には琺瑯看板もある。
局番無しの三十五番。老舗の証である。
側壁には、奥の細道を行く松尾芭蕉と河合曾良と思われる人物が描かれている。「幸手を行ば栗橋の関 焦」(芭蕉)と「松杉をはさみ揃ゆる寺の門 良」(曾良)の句が書かれているのは、横にスライドするシャッターである。
こちらは薬局である。歴史的な建物を近代的なファサードに改めて利用している。
今も続く肥料商の軒下を見ると、老舗の証とも言うべき電話番号がある。
このような琺瑯看板もあった。歴史ある商家ならではであろう。
幸手宿を歩いていると、手を加えながら活用されている古い建物が数多くあることに気づく。オリジナルではないものの、宿場町の風情を感じることができる。
この商家の近くの街路灯柱である。「らき☆すた」のプレートが付いている。幸手市は「らき☆すた」の作者の出身地であり、「らき☆すた」による町おこしが行われている。「らき☆すた」ラベルの純米酒も用意されているという。歴史的な宿場町と漫画・アニメのコラボである。町おこしがうまく行くことを願い、次の訪問先に向かった。
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台東区浅草 銭塚地蔵尊 台東区浅草二丁目、浅草寺の境内の奥にぽっかりと空地があいている。これは2018年6月30日号で報告した浅草寺銭塚地蔵堂の再建工事の予定地である。当時、平成31年11月に竣工する旨の看板があったことを思い出し、浅草寺を訪問した。
立派に完成していた。
浅草寺貫首の筆による扁額である。
六角形の堂内を見上げると極彩色の天蓋がある。
天蓋の下には金色に輝く六地蔵が祀られている。六地蔵の背後には地蔵堂再建工事高額寄進者の名前がある。高額とは、いくらかなどと詮索してはいけない。
六地蔵のそれぞれの名前は色々あるようだが、この数珠をお持ちの地蔵尊は地持地蔵だろうか。
これは浅草寺を描いた江戸名所図会である。本堂の裏手の部分である。画面中央の松の下に読みにくいが「銭塚弁天」とある。ここが銭塚地蔵尊を祀る現在地と同一なのだろうか。
地蔵堂の右手にカンカン地蔵尊が祀られている。もとは大日如来と伝わるが、ほとんど原型をとどめていない。小石でカンカンと叩き、願い事をするのだ。石の粉を持ち帰ると金に困らなくなるというが、現在では削ることは禁じられている。
この写真も2018年6月のものである。更地の向こうに青面金剛が祀られているのが見える。地蔵堂の工事が終われば見やすくなるのではないかと期待していたが、地蔵堂が建ち、かえって見にくくなった。
裏側に回ってみると、大きな石碑の裏手に六臂の合掌する青面金剛が見えた。
青面金剛の後ろにある石碑は何かと思い、また戻ってみると「金町一家」とある。どこかで見覚えがあると思っていたら、2019年11月9日号で報告した台東区橋場にあるお化け地蔵の傍らにも金町一家の碑があった。この後、観音様にお参りし帰途に着いた。
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- 地蔵尊
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台東区千束 吉原弁財天 台東区千束三丁目、せんわ通りの路傍に赤い幟が並んでいる。左の街路灯には吉原弁財天の案内看板が取り付けられている。
玉垣には妓楼と楼主の名が刻されたものの中に歌舞伎役者の名が刻まれているものも見える。
門柱はかつての吉原大門をイメージしたものという。明治14年に建てられた大門にあった吉原の情景を描写した句が彫り込まれている。右の門柱には「春夢正濃 満街櫻雲」とある。春の夢はまさにこまやかなり、街に満つる桜雲である。左の石柱には「秋信先通
両行灯影」で、秋のたよりは先に通じ、道の両側に燈かりの影である。これは花魁の追善供養のための盆灯篭が連なるさまを詠んだものである。
境内の岩を積み上げた築山の上には大きな観音菩薩が祀られている。関東大震災の際に、この地にあった花園池(弁天池)で溺死した人々を供養するために造立されたものである。
吉原観音の先に弁天堂がある。
扁額もカラフルである。
弁天堂には極彩色の壁画が描かれている。
弁天堂前に花園池(弁天池)の名残をとどめる小さな池があり、鯉や金魚が放たれている。
弁天堂である。鈴緒には小さな鈴がびっしりと取り付けられている。
格子越しに堂内を覗いてみると、なまめかしい弁天様が琵琶を弾いていた。
弁天堂の鉄柵内の右には石の花立がある。「飲食店組合」の文字が読み取れる。
左側の線香台には、「新吉原女子保健組合」とある。公娼制度が廃止された後、性病予防も従業婦の自主的運営に任されることになり、これによって誕生したのが「新吉原女子保健組合」という。
千束三丁目で見かけた看板である。女子保険組合と関係があるのだろうか。
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台東区千束 カフェー建築 台東区千束四丁目、土手通りの吉原大門交差点である。吉原遊郭のかつての入口である。画面左縁にスカイツリーが見える。吉原にカフェー建築を訪ねた。
まず、千束四丁目11番の路傍、優美な曲面を備えた建物である。手前の水色のトタン塀に小便しないでの看板がある。
千束四丁目15番の角地、吉原に現存するカフェー建築の代表選手とも言うべき岩渕荘である。旧屋号はプリンセス。
1階の窓の格子にも風情が漂う。
このような琺瑯看板が取り付けられている。意味が分かるような、分からないような標語である。
岩渕荘近くの裏路地の路傍で見かけた喫茶店である。バブル時代にはサラリーマンは24時間戦うことを求められたのだ。
四丁目17番の路傍である。2階の窓の上に小さな窓があるが、これは3階建てであるかのように見せる飾りである。1階は駐車場として利用されている。旧屋号は辰野。
四丁目41番路傍にあるこの建物も2階建てであるが、2階の窓が2段になっている。この窓は飾りでなないようだが、どのように利用していたのだろう。路傍学会の興味は尽きない。旧屋号は美富士。
吉原遊郭のメインストリートである仲之町通りには、今も風俗店が軒を連ねている。
四丁目28番の路傍である。丸い柱の間の石張りが特徴的である。ふるさとあさひ館という宿泊所になっている。
四丁目24番の角地である。各部屋の窓の上に照明が付いている。この照明にはどのような意味があるのだろうか。
玄関は太い柱に挟まれている。
側面の2階の窓周りはハート型だろうか。この窓の上にも照明が付いている。客を誘うものか。
隣接する建物の2階の窓には赤い日除けが残っていた。
風俗店が並ぶ路地の脇には古いコンクリート製のゴミ箱があった。前回の東京オリンピックを契機に姿を消していったが、久しぶりに歴史ある遊郭街跡で目にすることができた。
葭原から移転して300年に渡って営業を続けた吉原の痕跡を探すべく、カフェー建築を見てきた。さすがに60年以上の歳月の流れの中で多くが姿を消しているが、少しばかり色街の残り香が感じられる場所も残っていた。
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- 建物
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