街道のLandscape 70
長野県の宿場を訪ねる小旅行に出かけた。
軽井沢でしなの鉄道に乗り換え、信濃追分駅で下車し、歩き始めた。
静かな別荘地を歩いて国道18号を目指した。
軽井沢町追分、国道18号の路傍に一里塚がある。江戸から39番目の一里塚である。
一里塚のすぐ先で旧街道は国道から右方向へ分かれていく。
追分宿に入ると旧街道は石畳風に舗装され快適に歩くことが出来る。
堀辰雄文学記念館である。軽井沢に別荘を構えて晩年を過ごした堀辰雄の旧居跡である。記念館の正門は、追分宿本陣の裏門を移築したものである。
手前の建物は元旅籠で、宿場内に残存する江戸時代の貴重な建物である。
左の石積みの柱には「中山道追分宿 旧本陣」と記された表札があり、右側の石柱には「明治天皇追分宿行在所」と刻されている。明治11年、旧本陣の敷地に行在所が設けられたという。
旧本陣先の路傍に石柱が建っている。「浅間山道路第一指石」と刻されている。石柱の左は浅間山に至る道路である。
この建物は、文政2年(1819)に追分宿の旅籠として建てられたものである。元禄期には追分宿には旅籠が71軒あったという。このような建物が軒を連ねていたのだろう。
諏訪神社である。古来より追分の鎮守産土の神である。
黄色の落ち葉はオオモミジだろうか。
江戸期の追分宿京口近くにある茶屋である。
枡形の茶屋と呼ばれ、2階の壁には屋号が漆喰で描かれている。江戸時代、この茶屋の近くに枡形があったのだろう。
追分宿の西、旧街道は国道18号に合流する。
ここは中山道と越後に向かう北国街道の分岐点で追分宿の分去れ(わかされ)と呼ばれている。旅人同士が、ここで別れを惜しみ、袂を分けて旅を続けたことが、名の由来という。
北国街道と中山道の分岐点には、常夜燈、地蔵尊坐像、 馬頭観音などともに勢至菩薩も祀られていた。
北国街道を少し進んで右に入ると馬頭観音、庚申塔が並ぶ庚申塚公園がある。
この公園の中にシャーロックホームズの像がある。延原謙が追分の別荘でコナンドイルが書いたホームズ物語全60作品を翻訳したことに因み建てられたものである。
浅間山麓にあった中山道の三宿、軽井沢、沓掛、追分の中で、本陣、脇本陣、問屋、旅籠が建ち並び、最も賑わったのが追分宿といわれている。ホームズに見送られて追分宿を後にした。
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街道のLandscape 69
鹿島神社の拝殿である。昔話に出てきそうな茅葺である。
鹿島神社先の路傍に石碑がある。字が薄く、読みづらいのだが、馬頭観音のようだ。
国道から離れ、大形の集落を歩いていると長屋門が並んでいた。
西大形バス停の先で旧道は水田の中を通る。旧道の右側に石碑が2つ建っている。その奥に見える山は筑波山である。
上の写真の2つの石碑はそれぞれ馬頭観音であった。街道で行き倒れた馬を供養するためのものだろう。右の馬頭観音は昭和に造立されたものである。
この先、旧道は国道と合流した後、小田入口バス停付近でまた国道から離れる。
小田の集落入口近くに石碑が2つある。左は庚申塔だが、右は何だろう。文字が不明瞭で分からない。
集落に入ってまもなく、左の路傍に立派な門がある。門の後ろには煙突も見える。醬油の醸造所のようだが、醸造所特有の匂いはあまり感じられなかった。今も醸造しているのだろうか。
醬油醸造所の先に解脱寺がある。
石畳の参道を歩くと、山門越しに二十三夜堂が見える。寛政3年(1791)に建てられたものである。
解脱寺の先、三叉路の路傍に営業を終えたたばこ店があった。
軒下には「たばこ販売店」の琺瑯看板がある。古いたばこ店では縦書きの「煙草小賣所」の琺瑯を見かけるが、縦書きから横書きになるのはいつ頃なのだろう。
たばこ店を過ぎた交差点の角に大型の庚申塔が建っている。道標を兼ねているようなのだが、表面が荒れていて文字は読めない。
庚申塔の前から筑波方向を見ると、正面に火の見櫓が建っている。左に見える塀は、蔵をリフォームしたカフェの塀である。
カフェの先には、風格のある門構えの屋敷がある。
筑波街道はまだ続いているが、今回はここまで。
近くの小田バス停から土浦駅へ向かい、帰途に就いた。
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街道のLandscape 68
筑波街道を歩いた。昨年水戸街道を歩いた際に、土浦一高前から筑波山神社へ至る街道があることを知り、いつか歩いてみたいと思っていた道である。
土浦駅から関東鉄道バスに乗り、土浦一高前で下車して筑波街道を歩き始めた。
土浦市真鍋五丁目、筑波街道は八坂通りと呼ばれている。
300m程歩くと路傍に欅の大木が見えてきた。
欅の大木は八坂神社の参道に植えられたものであった。八坂神社は、江戸時代、土浦城の鎮守として藩主の篤い崇敬を受けたという。
享保13年(1728)に建築された拝殿の向拝虹梁の上には彩色された龍が横たわっている。
本殿の側面には百獣の王である獅子と百花の王である牡丹を組み合わせた吉祥の文様の彫刻がある。唐獅子牡丹の上には鳳凰が羽を広げている。
八坂神社の参拝を終え、八坂通りを歩いていると、路傍に琺瑯看板があった。日本農産工業の飼料の看板である。
土浦バイパスを跨ぐ真鍋跨道橋の先で筑波街道は県道から逸れて右方向へ進むが、その先には筑波山の嶺が見える。
並木一丁目の路傍、菓子店の店先に石柱が建っている。
逆光で見づらいが「都和村道路元標」と刻されている。旧都和村は昭和22年に土浦市に編入され消滅したが、この辺りが都和村の中心地だったのだろう。
並木三丁目で県道と合流した旧街道は、藤沢小の前で国道から離れる。国道から離れた旧道沿いにある米穀店である。
「主食小賣店」の琺瑯看板があった。初めて見るものである。
米穀店の先で国道に合流し緩い坂道を上がっていくと藤沢下宿である。
藤沢十字路交差点の角に石柱が建っている。文字がかなり薄くなっているが、都和村、並木、真鍋、土浦、小田などの地名がある。道標なのであろう。
藤沢下宿では、両側に立派な門構えの屋敷が並んでいる。
振り返って見ると、背の高い電柱がずらりと並んでいて面白い眺めである。
八坂神社の前で旧街道は国道から右手に分かれる。
旧街道を進むと右手に祠がある。中には二十三夜供養板碑が2つ祀られていた。江戸時代初期の月待信仰の様子を示すものとして土浦市の文化財となっている。
二十三夜供養板碑の向いの角に石柱がある。上部に「指差し」が線刻された道標である。
道標を過ぎて歩いていくと旧街道は国道125号となり、緩やかな坂を下りつくば市へ入っていく。筑波街道を歩く旅はまだ続く。
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青面金剛のLandscape 479
11月20日号の続きである。
春日部市下大増新田と谷原新田の間を流れる中之堀川では、タナゴ釣りだろうか、釣りに興じている人の姿が見られた。
中之堀川沿いの道を北上すると有名スポーツ選手を輩出している私立学校の校舎がある。
さらに北上すると路傍に石塔が建っている。
庚申塔が並んで祀られていた。
右側2体はともに六臂の合掌像である。左の邪鬼は腹の上に青面金剛が載り、苦しそうだ。明和8年(1771)の造立。
右端の青面金剛は古代マヤ文明の石像を思わせるような意匠である。正徳3年(1713)に造立されたものである。
この2基の庚申塔には、いわつき、じおんじ、かすかべ、の文字が刻されており、道標を兼ねたものである。
上の庚申塔から東へ歩くと、水田の向こうに神明社の社殿が見える。前号で報告した香取神社と同様に参道が分からない。
狭い砂利道を通って参道に辿り着いた。
拝殿には「合格」と記された板が吊り下げられている。合格祈願の絵馬のようなものだろうか。
境内には大正9年、庚申の年に建てられた猨田毘古神の碑がある。
神明社から東へ歩くと大沼香取神社が鎮座している。
社殿脇の通路を進むと石塔が並んでいる。
石塔列の中に剣、ショケラを持つ六臂の青面金剛がある。スリムな像で、後手は肘で直角に曲がっている。川口辺りでよく見るタイプである。
石塔列には大正時代に建てられた馬頭観音もあった。
大沼香取神社に隣接している集会所は廃寺跡で、その前には端正な地蔵尊が祀られていた。
豊春駅へ戻る途中、道順川戸の三叉路に火の見櫓が建っていた。よく見ると半鐘の代わりにサイレンが取り付けられている。
この後、豊春駅から帰途に就いた。
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青面金剛のLandscape 478
10月6日号、12日号で、春日部市豊春界隈の青面金剛について報告したが、今回は隣接する上大増新田、谷原新田の青面金剛を訪ねた。
春日部市上大増新田の水田の中にポツンと香取神社が見える。参道はどこにある?
水田の中を大回りしてやっと参道にたどり着いた。しかし、道路の進行方向と鳥居の向きがおかしい。
鳥居の手前でUターンするような形で参道はカーブしている。耕地整理でこのような形になったのではないか。
両部鳥居の先に社殿がある。社殿の右には富士塚もある。
逆光となっていて見づらいのだが、社殿の左手に青面金剛が祀られている。
8臂の合掌像である。右下手には羂索、左下手に持っているのは金剛鈴だろう。安永7年(1778)の造立である。
香取神社の南の方向に塚が見える。古墳かと思ったが、調べてみたら、埼玉県営の都市公園の築山であった。
香取神社の東側を通る車道を南下すると、路傍の小屋根の下に石塔が並んでいる。
右から庚申塔、青面金剛碑、青面金剛、如意輪観音である。
青面金剛は右手に剣を持っているが、左手に持っているのはショケラか、金剛鈴か。よく分からない。
顔は傷んでしまって残念だが、髪などは細かく彫られている。瑞雲も立体的である。寛政7年(1795)の作。
青面金剛碑の「剛」の周りに直線が見えるが、よく見ると鉄線であった。恐らく割れた石塔を修繕したときに用いた補強用の鉄線が露出したものではないか。
鉄線補強の青面金剛碑からさらに南下すると、また小屋根の下に石塔が並んでいた。
右から2番目に青面金剛、中央には六地蔵が祀られている。
青面金剛は素朴な印象の六臂の合掌像である。
邪鬼と三猿である。三猿は菱形パターンで、目、口、耳をしっかり押えている。邪鬼の上で主尊の衣の裾がくるりと丸くなっている。
享保6年(1721)に造立された六地蔵の、この奥の地蔵尊は傷みが少なく優しいお顔であった。
地蔵尊に見送られ、春日部市を歩く旅を続けた。
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建物のLandscape 59
これまで4回に渡って日本橋人形町や日本橋蛎殻町にあるレトロ建築を報告してきたが、今回はその続編である。
階段にこのビルの歴史がしみ込んでいる。昭和5年の建築。
大原第5ビルから大伝馬本町通りを歩いていくと、日本橋大伝馬町の路傍に蔦屋重三郎の書肆「耕書堂」跡を示す説明板がある。蔦屋重三郎は来年の大河ドラマの主人公である。
喜多川歌麿、葛飾北斎、山東京伝、滝沢馬琴らを見出し、東洲斎写楽を世に送り出したことで知られる江戸のメディア王はこの辺りに店を構えていたのだ。
蔦重の店跡からさらに大伝馬本町通りを進むと、江戸屋の看板が目に入る。
江戸屋は、享保3年(1718)創業の刷毛屋である。大正13年に大工職人が自由な解釈で建てた洋風建築という。国の登録有形文化財となっている。
刷毛屋の前から振り返るとスカイツリーが見えた。
刷毛屋の向いのビルに大きな提灯に灯りがともっている。「べったら市」「宝田恵比寿神社」とある。調べてみると宝田恵比寿神社はすぐ近くだ、行ってみよう。
日本橋本町三丁目、宝田恵比寿神社である。宝田恵比寿神社は徳川家康の江戸入府以前から宝田村(皇居外苑)の鎮守として祀られていたが、江戸城拡張に伴い、宝田村が日本橋に移転した際に遷座したという。「べったら市」は、江戸中期の中ごろから、この宝田恵比寿神社の門前で10月20日の恵比寿講に供えるために、前日に市が立ち魚や野菜、神棚などが売られるようになったことを起源とし、この神社の周辺には、たくさんのべったら漬の屋台が並ぶという。
宝田恵比寿神社の裏側には飲食店が集まった一画がある。
人形町一丁目に下見板張の店舗が建っている。
上の店舗の奥に老舗豆腐店がある。正面を銅板貼りとして軒を立ち上げ、陸屋根風に見せる昭和初期の看板建築である。光線が悪く良く見えないが、戸袋の亀甲貼りなど、細部に凝った銅板貼りの装飾がみられる。
老舗豆腐店の近くには2階部分に銅板を貼った看板建築もあった。店舗脇の通路は立入禁止となっており、近々取り壊しになるのかもしれない。
人形町から新大橋通りを渡ると日本橋蛎殻町一丁目である。新大橋通りの路傍に老舗シャツ店のモルタル看板建築があったのだが・・・ その場所にマンションが建っているではないか。
これは2022年2月19日号で報告したシャツ店である。2階窓を列柱風の装飾とするなど、看板建築の中でも凝った外観意匠のモルタル塗り看板建築であったのだが。
蛎殻町の南、霊厳橋の上から亀島川の畔に第2井上ビルの姿が見える。
個性あるテナントが入居し、人気ビルとなったリノベーションの好例という。昭和2年の建築である。
この後、日比谷線の茅場町駅まで歩いて帰途に就いた。
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界隈のLandscape 212
下館駅である。JRと関東鉄道、真岡鉄道が利用できる。
駅前通りである。右手に筑西市役所がある。
駅前から巽坂を上るとレトロな洋風建築の菓子店がある。明治15年(1882)創業という。
花形に赤の文字で「かせき堂」である。
菓子店の向いで見つけた琺瑯看板である。下はたばこ小賣所だが、上は何賣店?
この土蔵は、下館で20代続く旧家が所有する美術品を公開している美術サロンである。
美術サロンの先にある交差点を右に曲がると羽黒神社が鎮座している。
下館の氏神である。
境内社の愛宕神社である。かつてこの神社近辺に存在した西郷谷村の鎮守で、羽黒神社より早い時期からこの地にあったという。
本殿の側面には獅子の子落としがダイナミックに彫られている。
羽黒神社の下には営業を終えたたばこ店があった。喫煙者が減って、たばこ店も大分減ったのではないか。
たばこ店の先に煙突が見える。これは銭湯の煙突ではないか。探してみよう。
狭い道を回り込むと、銭湯「松の湯」があったが、これまた営業を終えていた。
銭湯の先、県道の路傍に菓子店がある。大正12年創業の老舗である。3階建てだが、2階、3階は古い店舗の部材をそのまま利用しているのではないか。
菓子店の近くで見かけた火の見櫓である。道路を跨いで建っている。よく見ると、櫓の上部と途中にも半鐘が付いている。どのように使い分けるのだろう。
しもだて美術館では、中井精也氏の写真展が開催されていた。
丙の菓子店には最中、どら焼きの自動販売機があった。こういうスィーツ自動販売機を見たのは初めてである。
下館駅から関東鉄道常総線に乗り、取手経由の帰途に就いた。
帰宅し、歩きながら出会った事物を思いつつ結城で求めた酒を頂いた。
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界隈のLandscape 211
軒下には、縦型と横型の電話番号票があった。
大町交差点から西方向を望むと毘沙門天の山門が見える。この通りは旧日光東往還である。
毘沙門天の山門である。門前の左右に道標を兼ねた常夜灯が建っている。
前に石仏が並んでいる。中央に庚申塔がある。その右は青面金剛かと思ったが剣、羂索を持つ不動明王のようである。
毘沙門天から煉瓦煙突が見える。行ってみよう。
毘沙門天の北に古い板塀が続いている。
塀の向こうに煙突が見えるが門は閉ざされている。
中の様子を塀の上から覗いてみると、煙突だけがポツンと建ち、何もない。ここには酒造会社があったのだが、2022年5月に火災で焼失したという。国登録有形文化財であった蔵が無くなってしまったのだ。残念!
この近くには別の酒造会社がある。
慶応3年(1867)創業の老舗蔵である。4合瓶を買い求めた。
酒造会社近くの日用品店の店先で、竹製の「うけ」が売られていた。竹ひごを丁寧に編んで作られたものだが、随分安くないか。左の「めかい」も安いように思うのだが。
日用品店の先に土蔵があり、「つむぎみそ」とある。
味噌蔵があるのだと思いながら、県道に出てみると、天保3年(1832)創業の味噌の大店であった。見世蔵は大正時代に建築されたもので、国の有形文化財に登録されている。
味噌店から南へ歩くと黒漆喰の重厚な見世蔵がある。明治13年に穀物商の店舗として建てられたものだが、近年喫茶店にリノベーションされている。
常光寺の阿弥陀如来座像の隣には、明治中期に乾物屋の店舗として建てられた見世蔵がある。2階の提灯様の照明が目立つ。今は住宅として使われているようだ。
さらに駅に近づくと11月10日号でも触れた旅館がある。昭和2年に建てられたものだが、2019年には旅館業を終了し、現在は貸イベントスペースとして利用されているという。結城では、古い建物が当初の役割を終えても、リノベーションされ活用されている事例をいくつも見ることができた。こうした取り組みによって街並みが保たれていくのだろう。
この後、再び水戸線に乗って下館へ向かった。
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界隈のLandscape 210
茨城県結城市を訪れる機会があった。日光街道を歩いた時に、小山から水戸へ至る街道を知り、気になっていた街である。
JR水戸線結城駅である。駅前に市役所もあるのだが、人通りはそれほど多くない。
駅前から続く商店街である。右手の路傍に建つ建物は旅館である。
旅館の裏手へ行ってみると、瓦が剝げ落ちつつある土蔵があった。
土蔵の先に健田須賀神社が鎮座している。明治3年に健田神社と須賀神社が合祀されたという。
鳥居の前、玉垣の控え壁には獅子が線刻されていた。
健田須賀神社の鳥居近くにある見世蔵である。もと金物店の店舗で、外壁は黒漆喰塗、明治初期に建てられたものという。
黒漆喰の見世蔵から県道に出て北上すると本場結城紬郷土館がある。機織りや八丁撚糸機などが展示され、結城紬ができるまでの工程を学ぶことができる。
郷土館から大町交差点を経て、北上するとかつて薬局であった見世蔵がある。今は甘味処として利用されている。
甘味処の見世蔵の先にある店舗である。看板に銀色のペンキが塗られているが、うっすらと菓子店の文字が見える。両側の円柱が目を引く。現役時代はどのような装飾が施されていたのだろう。気になるところである。
元菓子店前の交差点で見かけた琺瑯看板である。「コドモわた」は、「コドモのように柔らかいわたのお布団をご提供する」という意味を込めて、明治32年(1899)に創業した寝具メーカーという。その下の「洗濯機」の看板は何を意味するのか。
琺瑯看板の先の道路は城下町らしく鉤の手になっている。
鉤の手近くにある理髪店である。ハイカラな味のある建物だが、いつ頃建てられたものなのだろう。隣の神社の鳥居とのマッチングも良い。
理髪店前の道をさらに北上すると神明神社がある。社号標には「結城七社六之宮」とある。
境内の地蔵尊には赤い毛糸の帽子が被せられていた。
境内には古い6連ブランコがある。
ブランコの座板は曲げた鉄板の上に木板を載せたものだ。鎖は錆びておらず、今も近所の子供たちが遊んでいるようだ。
神明神社の手前を東に入ると、看板に「履物工場」と記された建物がある。桐下駄などを作っていたようだが、今も営業しているのだろうか。
履物工場の角を曲がると住吉神社がある。境内ではゲートボールに興じている人がいた。結城市内には人通りが少ないと感じたが、こうした場所で楽しい時間を過ごしているからか。
結城市内を徘徊する旅はまだ続く。
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神社のLandscape 337
11月6日号の続きである。
八千代市下高野の菅原神社から畑の中を歩くと佐倉市先崎に入る。「先崎」は「まっさき」と読む。路傍に石塔が見える。
素朴な鳥居の右は二十三夜塔で、その左は馬頭観音である。
道は森の中へと続いている。
森の中に覆屋に守られた社が見える。参道へ向かう。
先崎鷲神社である。
境内には、神社開創とともに植えられたものと伝わる大欅がある。
拝殿にはわら細工が飾られている。左は亀だが、右は鶴だろうか。
鷲神社本殿である。向拝柱の昇龍と降龍にはじまり、全体に見事な彫刻が施されている。胴羽目の彫刻は、源頼光の酒呑童子退治がテーマとなっている。
これは、頼光が、弟、四天王らとともに6人で大江山の酒呑童子退治に出かける場面である。
鷲神社の参道から坂道を下ると先崎地蔵尊の前に出る。
墓地に挟まれて地蔵堂が建っている。
格子から堂内を覗かせていただくと、地蔵尊の柔和なお顔を拝むことができた。慶安3年(1650)の造立である。
地蔵堂前の路傍に庚申塔が並んでいる。
右端の青面金剛である。六臂の合掌像だが、右上手、右下手の彫りが浅い。日輪、月輪周りの瑞雲が繋がってたなびいている。享保18年(1733)の造立である。
右から2番目の青面金剛は斜めに割れている。
後ろに割れた部分が落ちていた。六臂の合掌像で、顔は傷んでいる。正徳2年(1712)の造立。
右から4番目に建つ青面金剛である。こちらも素朴な印象の六臂の合掌像である。
邪鬼の顔は半分以上埋もれてしまい、ぎょろりと目が正面を見据えている。
この後、ユーカリが丘線の中学校駅まで歩き、帰途に就いた。
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