橋のLandscape 37
猿沢池の池から望む興福寺の五重塔である。
猿沢池から「ならまち」へ向かうと小さな石橋がある。「嶋嘉橋」と名付けられている。
近くに「率川地蔵尊、上ツ道 伊勢街道」と記された行灯サインがある。奈良から伊勢へ向かう伊勢街道は、古代から続く上ツ道が元になっているようだ。
嶋嘉橋から下を見ると舟形に地蔵尊が並んでいる。率川と刻された石柱が建っている。この川の名が率川(いさがわ)である。石段を伝って下りてみた。
水量が少なく歩行が可能であった。
橋脚に明和七庚寅年五月吉日」と刻されている。
年号の左側面には、下の部分は埋もれてしまっているが「椿井町施主嶋屋嘉兵衛」と刻され、施主の名前から橋名が付けられたことが分かる。
下から見た橋である。250年以上に渡って伊勢街道を通る人々を支えてきた橋である。
ここに集められた地蔵尊や石塔は、廃仏毀釈によって率川に捨てられたもののようで、護岸工事の度に地蔵尊の数が増えているという。
地蔵尊の中には双体地蔵尊もある。願主は夫婦だったのだろうか。
猿沢池を回って五重塔へやって来ると塔の下部が単管パイプに囲まれているではないか。
五重塔の保存修理工事が行われており、スケジュールを見ると、来年7月には素屋根が完成し、令和12年に素屋根の解体工事が終了予定とある。奈良を象徴する塔の姿をしばらくの間見ることが出来なくなる。
興福寺から東大寺戒壇堂へ向かう道の途中に写真家入江泰吉の旧居がある。入江泰吉の写真集は路傍学会も何冊か所蔵している。
大和路の風物を撮り続けた入江泰吉の住まいである。
写真家の庭の隅には石仏や小さな石塔があった。
大仏殿の鴟尾に見送られて今宵の宿へ向かった。
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街道のLandscape 25
小山市神鳥谷六丁目の路傍に大きな長屋門がある。
長屋門を過ぎた交差点の近くに大きな切株がある。小山市の保存樹木に指定されたムクノキの巨木が聳えていたのだが姿を消してしまった。
神鳥谷跨線橋を潜り、天満宮を過ぎると小山宿である。
天神町二丁目の路傍に古店舗がある。材木店のようだ。
軒下に琺瑯の電話番号票があった。局名無しの二二番である。
宮本町二丁目、須賀神社の参道である。須賀神社は小山六十六郷の総鎮守である。
覆屋の下にあるのは御神木の切り株である。
大正12年に、御神木であった樹齢800年の樅の大木が社殿の方へ傾いたことから切り詰め、その姿を額にとどめたという。その樅は昭和11年に今の姿になり、覆屋を設けたと説明板にあった。
須賀神社の前から国道4号を北へ進み、清水坂を下ると愛宕神社がある。鳥居の左手前にある欅は城主小山義政が康歴元年(1379)に植えたものと伝わる。
社殿の裏手に青面金剛が祀られている。
左側は剣、ショケラ持ちの六臂像である。
右側は六臂の合掌像であった。
愛宕神社から日光街道へ戻ると、中央町二丁目の路傍に明治天皇行在所碑が建っている。近くで工事が行われていて、工事関係のダンプが駐車しているが、その後ろに脇本陣跡がある。
玄関が残されており、風格漂う唐破風が見えた。
中央三丁目である。かつてこの辺りに小山宿の問屋場や控本陣などがあり、小山宿の中心部であったがようだが、そうした面影を見つけることは難しい。
小山宿中心部から小山市役所へ向かう途中、中央町一丁目から男体山の雄姿を望むことができた。
小山市役所近くに史跡小山評定跡がある。徳川家康が上杉景勝を討伐するため会津へ向かっていた途上、諸将を招集して三成の討伐を決した「小山評定」がここで開かれた。
「どうする家康」は今後どうなるのかと思いながら、小山駅まで歩き帰途に就いた。
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界隈のLandscape 180
千葉街道から船橋市港町二丁目の道を入ると、かつては老舗割烹旅館の入口が見えたのだが・・・
以前あった割烹の建物は姿を消し、マンションが建っている。敷地の角に小さな公園が造られていた。
その公園に「玉川旅館」の説明板がある。「桔梗の間」に太宰治が滞在したことなどが記されている。
2020年5月に撮影した玉川旅館である。昭和の風情が漂う純和風旅館で、国の登録有形文化財であったが、惜しくも解体されてしまった。
ここに割烹旅館があったことなど想像することも難しい。
近くにある公園である。
公園の中に「三田浜塩田発祥の地」、「川端康成「童謡」より」の碑があり、その前に「三田浜塩田」、「三田浜楽園」の説明板がある。
市川塩浜という地名が残されているように、かつて東京湾には多くの塩田があった。三田浜塩田は明治13年に造られ、昭和4年に廃止された。その塩田の跡地には割烹旅館や遊園地が造られ「三田浜楽園」となった。川端康成は三田浜楽園を訪れ、「童謡」を執筆したという。
これは「船橋市役所」と「船橋市観光協会」が昭和26年に発行したパンフレット「PARADISE FUNABASHI」である。中央に「三田浜楽園」、その下に「玉川」が記されている。かなり大規模な施設であったことが伺える。「三田浜楽園」は平成18年に廃業し、跡地には4枚目の写真で玉川の後ろに写っている高層マンションが建っている。
三田浜楽園の西側に開渠がある。
水路を辿ると、南本町の路傍に簡易な造りの家が並んでいるところがある。建物が無い場所には「立入禁止」の看板がある。
こういう所で見る「家 塗り替えませんか」の看板には苦笑してしまう。家々の背後は水路で、「澪」と呼ばれ、かつては海から魚を運ぶために使われたという。
自治会の掲示板である。「都疎浜」とある。この辺りもかつては塩田であったが、太平洋戦争のさなかに住宅地が造成され、「東京から疎開してきた人たちが住む浜辺」として「都疎浜」と名付けられたようだ。
今でも居住しているのだろうか。
こちらは蔦に半分程覆われてしまったが、店舗だったのだろう。水路を背にした家は徐々に減っているようだが、今後どのような街造りが行われるのか気になるところである。
玉川旅館に滞在した太宰治は、金銭的に苦しくて宿賃が払えず、フランス語の辞書と万年筆を置いていったという逸話を聞いたので、塩田跡を離れて太宰治所縁の場所を訪ねた。
船橋市本町四丁目と宮本一丁目を結ぶ九重橋に、太宰治の肖像と、代表作「走れメロス」の一節を刻んだレリーフが設置されている。
九重橋で海老川を越え、宮本一丁目の静かな住宅街を歩くと太宰治旧宅跡を示す石柱と説明板がある。昭和10年7月から11年10月まで船橋に住んだという。
九重橋をまた渡って京成船橋駅へ向かい、帰途に就いた。
今回は船橋に所縁の文豪の足跡を辿る旅となった。
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街道のLandscape 24
11月19日号の続きである。
小山市間々田四丁目交差点の近くに旅籠の面影を残す古旅館がある。
2階の窓手摺に歴史が感じられる。
軒下の電話番号票は局名無しの一一番である。
古旅館から100m程進むと浄光院の鐘楼門がある。
観音堂の左手に青面金剛が祀られた一画がある。
2体の青面金剛が並んでいる。駒形と笠付きという違いがあるものの、主尊は共に六臂の合掌像で、形は苽二つである。右が宝永元年、左が宝永3年の造立である。
浄光院から1㎞程歩くと、千駄塚の路傍に「古墳のまち千駄塚」の看板が建っている。看板の支柱の右に建つ石柱には「栃木県指定史跡 千駄塚古墳」と刻されている。看板の奥に見える千駄塚古墳は、直径70m、高さ10mの円墳である。
この看板の手前に路傍祠がある。
手前には六臂の合掌している青面金剛が祀られている。天保年間に造立された後ろの石仏の台座には「天引山」とあるので、天引観音であろう。
千駄塚古墳の墳頂部には浅間神社が鎮座しているので、古墳の道は浅間神社の参道でもある。
墳頂部の浅間神社である。どうしたことか、屋根にはビニールシートが掛けられている。シートの上には樹木も生えているので、この状態はかなり続いているのではないか。
千駄塚古墳の麓には近くの古墳から発掘された家形石棺が保存されている。
小山市栗宮の路傍に西堀酒造がある。明治5年創業の酒造会社である。仕込蔵、瓶詰場、長屋門などが国の登録有形文化財となっている。
長屋門から煉瓦積みの煙突が見えた。
門前には杉玉が吊り下げられている。四合瓶を一本買って帰りたかったが、先が長いのであきらめた。
酒造会社の先、東京から75㎞地点を過ぎると、日光街道は国道4号から離れ直進する。
日光街道を歩く旅はまだ続く。
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街道のLandscape 23
小山市乙女三丁目、国道4号の日光方向を望むと、白壁の土蔵が見える。
小山市立車屋美術館である。車屋美術館は、江戸時代から明治時代にかけて乙女河岸で肥料問屋を営んでいた豪商の建造物を活用した美術館である。
遠くから見えた土蔵は、主屋、米蔵などとともに国の登録有形文化財となっている。
小山市間々田の酒店の看板の「男の酒じゃまつり」の下に「逢いの榎」とある。この辺りの江戸へ18里、日光へ18里の地点に「榎」があると聞いていたのだが、気がつかなかった。
見過ごしたのかと思い、少し戻ってみると、「日光街道中間点 逢いの榎」の説明板とその後ろに榎があった。大木を想像していたので見過ごしてしまった。間々田宿は、江戸、日光からそれぞれ11番目の宿場にあたり、距離もほぼ18里の中間点に位置していた。例幣使がこの榎を植えて道のりを知ったという伝承が残されている。今ある榎は、何代目かのものではないか。
逢いの榎の先に龍昌寺の山門が見える。龍昌寺は、徳川家光の遺骸を日光へ葬送する途中、安置所が設けられた寺院である。
山門から不動堂が見えた。元亀年間に模庵和尚が旅の途中に衰弱で倒れた際、枕元に現れた不動明王のお告げを聞いて旅を続け、この地に尊像を祀ったと伝わる。現在の堂は延享2年に建てられたものである。
格子戸から堂内を見てみた。肉眼では暗いだけの堂内だが、デジタルカメラには極彩色の彫刻で彩られた堂内の様子が写っていた。
龍昌寺から250m程歩くと古い商家がある。
軒下の琺瑯電話番号票は、局名無しの五番である。
戸袋に取り付けられている牛乳受け箱である。側面に薄くなっているが「コーヒー牛乳」とある。左の側面には「フルーツ牛乳」とあった。
2階の戸袋には〇に「質」の字が見える。質店だったのだろうか。
トタン板張りの入念な防火対策は質店ならではのものか。
間々田交差点近くで見かけた靴店である。鞄、雨具も商っていたようだ。
間々田交差点を過ぎると「間々田宿本陣跡」の説明板が建っている。この手前には問屋場跡の説明板もあった。この辺りが間々田宿の中心部だったのだろう。
日光街道を歩く旅はまだまだ続く。
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神社のLandscape 322
船橋市西船五丁目、千葉街道の路傍に公園がある。勝間田公園である。ありふれた公園に見えるが、かつてはここに勝間田の池があり、風光明媚な観光スポットとして江戸名所図会にも紹介されていた。
江戸名所図会に描かれた勝間田の池である。万葉集に収められている新田部親王の歌が添えられている。江戸名所図会にはこの勝間田の池を詠った歌がいくつも収録されている。画面左下に鳥居とその奥に社殿が描かれ、熊野宮と記されている。
勝間田公園の西側に鳥居が建っている。葛飾神社の鳥居である。大正5年に葛飾大権現を江戸名所図会に描かれていた熊野権現に合祀し、葛飾神社と改称したという。
社殿の後ろには幹が二股に分かれたクロマツの大木が聳えている。船橋市内で最も太いクロマツである。江戸名所図会にも社殿の周りに松の大木が描かれており、その中の1本がこの松なのかもしれない。船橋市の天然記念物に指定されている。
葛飾神社の裏手の坂道を上っていくと、途中の斜面に青面金剛が祀られている。
六臂の合掌像で、状態はまずまずである。大きな邪鬼は正面を向いている。三猿が邪鬼の周りを囲んでいる。享保年間の作。
青面金剛の上に薬師如来の坐像が浮彫りにされた石塔がある。「奉造立薬師如来 庚申待結衆念願 成就二世安楽攸」の刻字があり、薬師如来を主尊とする庚申塔であった。
薬師如来の右側に不見猿が見える。寛文年間の造立。
中山競馬場入口の交差点を過ぎると南へ下る坂道がある。
坂道を下った所に池がある。説明板によると「葛飾神社の池」とある。神社所有の池として大事にされて現在まで引き継がれてきたものである。
葛飾神社の池から千葉街道を西へ歩くと、東中山一丁目の路傍に「二子浦の池」と記された看板があり、その後ろに池が見える。
二子浦の池である。池の名前は、かつてこの辺りは二子浦と称され、日蓮上人が鎌倉との往来の際に利用した「降り津」であったという伝説に因むものである。
千葉街道をさらに西進すると路傍に多聞寺の山門がある。
山門の向いには「二子藤の池」がある。池の名は藤の古木に由来し、街道を往来する人々に親しまれていたという。
この地域の台地南下には、溜と呼ばれる池が東西に並んでいくつもあり、農作業や日常生活に利用されていたという。今回はその名残を紹介した。
本中山一丁目の路傍にある商家である。
軒下を覗くと琺瑯看板が見える。上部に「煙草」、右縁に(船橋組合)とある。おそらく「煙草小賣所」と記されているのだろうが、全体を見てみたい。うーむ、何とかならないものだろうか、などと思いつつ京成中山駅まで歩き、帰途に就いた。
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街道のLandscape 22
11月12日号の続きである。
鮮魚街道は、印西市浦部で県道59号に合流する。
浦部簡易郵便局の塀に「月影の井」への案内板がある。月影の井は鮮魚街道から少し外れるが行ってみよう。
鮮魚街道は左側だが、月影の井へは右側を進む。
月影の井である。鎌倉時代にこの辺に勢力があった大菅豊後守正氏が産湯や行水に使った水を汲んだ井戸という。奥州二本松の日影の井戸、鎌倉市の星影の井戸とともに日本三井戸の一つと伝わるが、日本三井戸なるものを初めて聞いた。
月影の井から、急な階段を上り県道59号に出ると路傍に「永治村道路元標」がある。永治村は、現在の印西市、白井市にまたがり、昭和29年に消滅した村である。今は特に何もない、この辺りが永治村の中心地だったのだろうか。
道路元標から200m程南下すると石の笠木の後ろに社殿がある。不思議な一画であるが、出世豊国稲荷という神社のようである。これで出世できるのか。
出世稲荷から数十m先に馬頭観音が集められた一角がある。街道で倒れた馬を供養するためのものだろう。
馬頭観音の先、木立の間に手水舎があり、その背後に赤いものが見える。少し不気味である。
赤いものの正体は赤く彩色された青面金剛であった。中央の青面金剛は、六臂の合掌像で、日月、主尊、邪気、三猿に彩色されている。文政年間の作。
左の青面金剛は、剣、ショケラ持ちの六臂像で、同様に彩色されている。いずれの像も傷みが見られない。赤い色に守られているのか。
少し歩くと、この先の沿道にずらりと彩色された庚申塔が並んでいる。壮観である。浦部の百庚申と呼ばれているようだ。
文字庚申塔9基ごとに青面金剛が1体祀られている。
青面金剛は風化が進んだものが多いが、この像は原型を保っている。剣、ショケラ持ちの六臂像で、天保年間の造立である。
百庚申の先の三差路を右に進むと消防団の建物があり、その左に石塔が祀られている。
庚申塚のようであるが、ここの青面金剛も赤く彩色されている。
この地域で主尊に彩色する理由は何だろうかなどと思いながら歩いていくと大きな鳥居が現れた。
鳥居脇に石尊阿夫利神社の看板がある。鮮魚街道は、阿夫利神社の参道でもあった。
今回は、この辺りで鮮魚街道を歩く旅を切り上げ、北総線の千葉ニュータウン中央駅へ向かい、帰途に就いた。
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街道のLandscape 21
鮮魚街道を歩こうと、成田線布佐駅で下車し、布佐観音堂へ向かった。
江戸時代、銚子や鹿島灘などで水揚げされた鮮魚は、旧暦の5月から7月の夏季には関宿を回って船便で日本橋まで送られた。それ以外の季節には銚子から木下、布佐等の河岸に送られ、そこで馬に積み替えられて布佐からは松戸へ運ばれ、再び船に積み替えられて日本橋に至った。銚子で夕刻に出発した鮮魚は翌日の夕刻から夜に日本橋に到着したという。布佐から松戸へ至る道は鮮魚(なま)街道と呼ばれていた。
布佐観音堂の裏手である。前に延びる道が鮮魚街道である。松戸まで七里半の距離である。
国道356号と交差し、南下する。
関枠橋で手賀川を渡る。
関枠橋を渡ると、鮮魚街道は100m程西へ向かい、県道59号から少し離れた所を通る。
農家が散在する道を進んでいくと前方に木立が見えてきた。
印西市発作、大杉神社である。カーブミラーの左の石柱には「六阿弥陀回向所」と刻されていた。
境内の外周に石塔が並んでいる。この中に青面金剛も祀られていた。
2童子を従えた、剣、ショケラ持ちの六臂像である。享保年間の作。
こちらは六臂の合掌像である。邪鬼は正面を向き畏まっている。安永年間の作。
発作の田圃の中の街道を進むと長屋門が見えてきた。
嵩上げした敷地に堂々たる長屋門が建っている。
長屋門の先、水田の奥に路傍祠がある。中に水神宮と記された石祠が祀られていた。
亀成川に架かる下前川橋である。
亀成川を越えて数百メートルの所で、街道は直角に右折する。これといった目標もなく、分かりにくい。スマホで進路をチェックしている同好の士がいた。
石祠が並んでいる。左の石祠には水神宮と刻されている。
鮮魚街道を歩く旅はまだ続く。
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街道のLandscape 20
利根川の布施河岸と江戸川の加村河岸を結ぶ陸路は、我孫子の布佐河岸から松戸の納屋河岸に至る鮮魚(なま)街道とともに、江戸時代の鮮魚の輸送路であった。この街道は諏訪神社への参詣者が往来する信仰の道でもあり「諏訪道」と呼ばれていた。昨年9月に柏市高田聖徳寺から松ヶ崎の香取神社まで歩き、2年前には前原から布施弁天まで歩いているので、今回はその間を歩いてみることとした。
香取神社の参道入口である。諏訪道歩きをここから再開する。
香取神社の先で諏訪道は台地を上がっていく。
覚王寺へ至る道との三差路の路傍に小堂と石塔が並んでいる。ここから覚王寺へ至る狭い参道の傍らにあった石仏類を道路拡幅の際に集約したものである。
小堂には小さな地蔵尊も祀られていた。
石仏群の前の道から西の方向を見ると覚王寺境内に生えている大きなサワラの木が見る。
諏訪道へ戻り、150m程北へ進むと三差路の真ん中に一本の杉が生えている。
杉の根元には「御神木 一本杉」と墨書された立て札があるが、その由緒は不明である。
杉の手前の堂内には明治20年に製造された神輿が納められていた。その神輿庫の前には力石も置かれていた。古い神社の跡だろうか。不思議な場所である。
一本杉の先のお宅の庭でヤマボウシが赤い実を付けていた。
諏訪道を北上すると幼稚園の脇で台地を下りる。
松原町一丁目で、「こんぶくろ池」や「弁天池」などの湧水を水源とする地金堀を越える。
宿連寺簡易郵便局への道を入ると、その手前の路傍に宿連寺湧水がある。
樹林地の下部から水が湧いている。かつては旅人や馬の喉を潤したか。
湧水から坂道を上がると須賀神社の鳥居が見える。
鳥居の脇には青面金剛と刻された石塔が並んでいる。向かって右が寛政、左が文化年間の造立である。
境内に納められている力石である。「宿連寺村 神社 二十六〆目」とある。神社とあるのは、この神社へ奉納したことを示すものだろうか。
社殿の左にも石塔が並んでいる。奥の3基は庚申塔で、手前から、天和三年、元禄十六年、元禄五年の造立である。
この後、前原のバス停まで歩き、柏駅へ向かい帰途に就いた。
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建物のLandscape 54
これは2022年5月に撮影したもので、解体のための足場が組まれつつあり、下層部は工事用パネルで囲まれている。黒川紀章が設計し、1972年に完成したこのビルは、生物が新陳代謝するように時代や必要性に合わせ140個のカプセルを入れ替えて変化する「メタボリズム」の象徴として注目を集めたが、カプセルが入れ替えられることもなく、老朽化により解体されることになった。
解体工事が進められている2022年7月の様子である。向かって左側にあったB棟の姿は見えなくなっている。
これは解体前の中銀カプセルタワービルである。電通側からも首都高の上にドラム式洗濯機を積み上げたような特徴的な姿を眺めることができた。
2022年9月にはその姿をみることが出来なくなっていた。
これも解体前の1階、エントランス部分である。
現在、解体工事は終了し、敷地は白いパネルで囲まれている。
カプセルタワーの北東側のブロックの路傍にぽっかりと空き地がある。
昨年来た時には老舗の豆腐店があったのだが。
銀座の豆腐店が姿を消した。ここでも街が変容していた。
豆腐店の跡は何が建つのかなどと思いつつ、築地四丁目へ向かった。
画面中央やや左のビルは東劇ビルである。
采女橋を渡り、東劇ビルへ向かうと、10月7日にオープンした黒い壁とガラスで構成された展示スペースがある。ここに中銀カプセルタワービルから取り外されたカプセルが2個収納されている。
このスペースでは、カプセルの内部も活用した、美術作品や工芸品の展示・販売や、イベントが企画されている。
訪れた時は、オープニング展示企画として「伝統のメタボリズム」が開催されていたのだが、時間が合わす、体験することができなかった。残念。
ここから未来のオーセンティックが生まれるのか。今後どんな展示が展開されるのか、期待したい。
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