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Landscapes by the roadside

路傍学会


界隈のLandscape 46

八千代市萱田町 大和田宿界隈
  萱田町①
 八千代市萱田町、成田街道の路傍に円光院の山門が見える。
  萱田町②
 円光院の山門から向かいにある長妙寺の山門が見える。この山門の横にも銀杏の大木がある。
  萱田町③
 境内の手水鉢に近づくと、像の鼻から水が噴き出す。
  萱田町④
 本堂の左手には放火の大罪で捕らえられ、火あぶりの刑に処せられた八百屋お七の墓がある。2016827日号で報告した文京区の円乗寺にも八百屋お七の墓があったが、お七の母親が彼女の骨を探し出し長妙寺に葬ったものという。
  萱田町⑤
 悲母観音が載る台座の横には子安観音が並んでいる。
  萱田町⑥
 この寺院では痔の呪いをしてくれるようだ。
  萱田町⑦
 萱田町で見かけた信号機である。斜めの深緑色の帯が見える。最近はあまり見かけなくなったタイプである。「信号灯背面板付き信号機」と呼ぶようだ。
  萱田町⑧
 これは飯綱神社への道を示す道標である。「いつ奈大権現道」と刻まれているのだろう。この道は萱田道または権現道といわれている。
  萱田町⑨
 八千代市萱田町、薬師寺の門前である。
  萱田町⑩
 境内の奥には、子安観音が並んでいる。大和田宿界隈は子安観音信仰が大変厚いところである。
  萱田町⑪
 大和田宿の東端に鎮座する時平神社である。宿内の大和田側にも同名の神社がある。菅原道真を大宰府へ左遷させた藤原時平を祀る神社である。
  萱田町⑫
 境内からは東方向に北総台地を望むことができる。
  萱田町⑬
 大和田宿の探訪を終えて京成大和田駅へ向かう途中、小板橋時平神社への案内看板があった。
  萱田町⑭
 小板橋時平神社である。もう一つ時平神社があったのだ。
  萱田町⑮
 境内には平成の出羽三山参拝記念碑があった。
 3回に渡って大和田宿を紹介した。大和田宿は、江戸成田を結ぶ成田街道のほぼ中間に位置しており、成田詣での旅人が江戸を発って最初に泊まる宿場で大変な賑わいであったという。旅籠も5軒あったというが、今、往時の面影を見ることはできない。だが、子安観音への厚い信仰や出羽三山への参拝は、宿場町時代から途切れることなく現代まで続いている。
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  2. 界隈
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界隈のLandscape 45

八千代市大和田新田 大和田宿界隈
  大和田宿①
 八千代市大和田新田、新木戸交差点にあるガソリンスタンドの一画に石柱が建っている。セメントで補修されているが、「血流地蔵道」と刻されている。傍らにある説明板によると、貞福寺の本尊、血流地蔵へ案内する道標であるという。
  大和田宿②
 交差点の向かいにも石柱がある。これも途中で折れて、補修されているが「成田山」への道標である。二つの道標は、交通史の重要な文化財である。
  大和田宿③
 成田街道の路傍に鎮座する八幡神社である。新木戸の鎮守である。
  大和田宿④
 社殿の左手には、手前に金刀比羅大神碑、奥には子安観音が並んでいる。子安観音は、天保三年から平成十九年までに造立されたものである。
  大和田宿⑤
 これは平成の子安観音である。この後、令和の観音様も造立されるのだろうか。
  大和田宿⑥
 大和田新田、神明社の路傍には多くの石碑が並んでいる。
  大和田宿⑦
 馬頭観音が多いが、その中には日露戦争に徴用された2頭の馬を供養するものもあった。庚申塔や出羽三山参拝記念碑も数多く見ることができる。
  大和田宿⑧
 大和田新田、工業団地入口交差点の路傍に「おたきさん道」道標がある。船橋市金杉にある御滝不動尊へ続く道を示している。慶応元年の造立である。
  大和田宿⑨
 この道を少し進むと、石仏群が見えてくる。
  大和田宿⑩
 注連縄が巻かれた青面金剛が二基祀られている。
  大和田宿⑪
 合掌した手先が若干欠けているが、綺麗な青面金剛である。
  大和田宿⑫
 邪鬼はすっかり観念した様子である。
  大和田宿⑬
 右端の青面金剛は、ショケラを持つ剣人像である。
  大和田宿⑭
 頭に髑髏を付けた青面金剛は不適な笑みを浮かべている。この像も傷みの無い綺麗な像である。地元の人々に大切にされているのだろう。
  大和田宿⑮
 邪鬼は顔を横にして苦しそうである。猿は扇を持って何をしているのか。鶏も一つしか見えない。面白い青面金剛に出会うことができた。
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  2. 界隈
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琺瑯看板のLandscape 43

八千代市大和田新田 ラーメン店
  ラーメン店①
 八千代市大和田新田、成田街道の路傍に琺瑯看板を取り付けたラーメン店があった。
  ラーメン店②
 白熱電球と琺瑯看板でレトロな雰囲気を演出している。
  ラーメン店③
 奥の建物にも琺瑯看板がある。
  ラーメン店④
 右縁に小さな文字で台湾総督府専売局指定納入酒とある。台湾総督府があった戦前の琺瑯看板である。広島の清酒「不二寿」が台湾で購入されていたのだ。
  ラーメン店⑤
 「君子蘭」は今も販売されている三重県の清酒であるが、ダイヤ焼酎は、今アサヒビールが販売している焼酎ダイヤに繋がるものなのだろうか。
  ラーメン店⑥
 おなじみの由美かおるさんである。水原弘さんの看板は見当たらない。
  ラーメン店⑦
 ラーメン店だが学生服の看板まである。琺瑯看板の効果か、この店はかなり繁盛している様子である。
  ラーメン店⑧
 ラーメン店から東へ歩くと、路傍に石仏が集積している一画がある。
  ラーメン店⑨
 風化が進んでいるものも多いが、その中に子安観音も祀られていた。
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  2. 看板
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青面金剛のLandscape 291

足立区 伊興、古千谷本町界隈
  伊興・古千谷①
 足立区伊興四丁目の路傍、覆屋に護られた石塔がある。
  伊興・古千谷②
 青面金剛である。前垂れの下を拝見すると六臂の合掌像であった。元禄年間の作である。
  伊興・古千谷③
 右側に建つ石柱である。上方に「東ノ方」とあり、その下に「竹の塚」「千住」と刻され、距離が記されている。明治19年に道標として造立された石柱であった。
  伊興・古千谷④
 伊興四丁目で見かけた店舗である。蕎麦、天ぷら、ラーメンなど、幅広い食事を提供する店だったようだ。何を食べようかと、迷う楽しみがある店舗が姿を消していくのは寂しいものだ。
  伊興・古千谷⑤
 上の店舗の右側の道を進むと小さな社が見えてきた。
  伊興・古千谷⑥
 鳥居もある。手元の地図には表示の無い神社である。扁額も無い。境内の説明板によると「大西島八幡神社」とある。
  伊興・古千谷⑦
 鳥居の後ろに青面金剛が祀られている。六臂の合掌像である。
  伊興・古千谷⑧
 邪鬼は両肘を張って懸命に堪えている。
  伊興・古千谷⑨
 台石には数多くの盃状穴が穿たれていた。明和年間の作である。小雨が降りだした。
  伊興・古千谷⑩
 小雨の中、古千谷本町にある全学寺の門前にたどり着いた。山門の右手に石仏が見える。
  伊興・古千谷⑪
 左に青面金剛が祀られている。
  伊興・古千谷⑫
 享保年間の六臂の合掌像であるが、傷みが少なく綺麗な像である。
  伊興・古千谷⑬
 邪鬼は諦めて両手を投げ出している。
  伊興・古千谷⑭
 中央の地蔵菩薩の両側には念仏講の女性の名前が刻まれている。この後、雨が強くなり帰途に着いた。
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  2. 青面金剛
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青面金剛のLandscape 290

世田谷区成城 祖師谷観世音堂
  観世音堂①
 世田谷区成城を流れる仙川である。
  観世音堂②
 川沿いを歩いていくと、大石橋近くにこの看板があった。「近くには由緒ある祖師谷観音堂があります。」とある。行ってみよう。
  観世音堂③
 大石橋の先、右手に樹林地が見えてくる。
  観世音堂④
 石段の先に堂が見える。
  観世音堂⑤
 正面に見えるのは祖師谷観世音堂である。左手には薬師堂がある。
  観世音堂⑥
 観世音堂は、元禄年間に再建され、中には十一面観音が祀られている。
  観世音堂⑦
 薬師堂は、祖師谷村内にあったものを明治期に境内へ移設したものである。
  観世音堂⑧
 薬師堂の左手の塚状の小山の裾をなぞるように二十数体の石仏が並んでいる。この中に二基の青面金剛が祀られている。
  観世音堂⑨
 六臂の合掌像である。主尊の右に「南 登戸道」とある。左側面には「西 府中道」とあり、道標として造立された庚申塔である。寛政年間の作。
  観世音堂⑩
 上の青面金剛の右隣にある青面金剛である。こちらも六臂の合掌像である。石材を舟形に彫り窪め、主尊を陽刻している。
  観世音堂⑪
 横から見ると、彫り窪めた様子が良くわかる。丁寧な彫りである。元禄年間の作。
  観世音堂⑫
 地蔵尊も祀れているが、造立年は読み取れなかった。
  観世音堂⑬
 石仏群の上にはまだ紫陽花が咲いていた。
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  2. 青面金剛
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青面金剛のLandscape 289

世田谷区上祖師谷 安穏寺地蔵堂
  安穏寺①
 世田谷区上祖師谷二丁目の路傍に小堂と石仏が見える。
  安穏寺②
 画面右奥の堂は、地蔵堂である。地蔵堂の前、馬頭観音とともに二基の青面金剛が並んでいる。
  安穏寺③
 二基とも六臂の合掌像である。左側の像は高さが1mを超えている。三猿の右側に「武州荏原郡祖子ヶ谷村」とある。造立年は不明。右の青面金剛は、宝永年間の作である。
  安穏寺④
 裏側から見た庚申塔である。前の道路は交通量が多く、時折路線バスも通るので、前面からの写真をうまく撮ることができなかった。
  安穏寺⑩
 地蔵堂前には、祀られている岩船地蔵尊に因む石製の舟形線香台が置かれている。その手前には南天が供えられていた。
  安穏寺⑤
 地蔵堂の前の坂道を少し上ると、安穏寺の参道、その奥に山門が見える。「武家屋敷風の安穏寺」として、「せたがや百景」に選ばれている。瓦屋根の山門と壁が織りなす風景が「武家屋敷風」なのであろう。
  安穏寺⑥
 山門である。昭和45年に再建されたものである。
  安穏寺⑦
 門扉には透かし彫りの寺紋があり、淡い桃色の縁取りである。
  安穏寺⑧
 境内から見た山門である。重厚な屋根である。
  安穏寺⑨
 山門を潜り、右手に進むと、六地蔵が並んでいる。いずれも世田谷領上祖師ヶ谷村の村民による造立である。合掌し、帰途に着いた。
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  2. 青面金剛
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地蔵尊のLandscape 57

新宿区新宿 成覚寺
  成覚寺①
 丸の内線の新宿御苑前駅で下車し、新宿二丁目を歩いた。飲み屋街で見かけた看板である。不用意に入店すると戦闘機が緊急発進してくるかもしれない。
  成覚寺②
 如何にも新宿二丁目らしい店名である。
  成覚寺③
 伏魔殿的な香りの漂う一画である。
  成覚寺④
 カラフルな鳥居を備えた酒場もあった。
  成覚寺⑤
 靖国通りに面する塀越しに寺院の屋根が見える。
  成覚寺⑥
 塀の先に山門がある。
  成覚寺⑦
 成覚寺の山門である。
  成覚寺⑧
 境内は靖国通りから石段を下る形となる。
  成覚寺⑨
 入口の石段を下ってすぐ左側の塀下に「旭地蔵」がある。三界万霊と刻まれた台座の上に露座している。
  成覚寺⑩
 十八人の戒名が刻されている。これらの戒名は宿場内で不慮の死を遂げた人達のもので、そのうちの七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客達であるという。
  成覚寺⑪
 宿場町内藤新宿の悲しい男女を供養するために造立された地蔵尊なのである。
  成覚寺⑫
 紫陽花や枝垂桜の枝で見にくいが「子供合埋碑」である。病気などで死んだ旅籠屋の飯盛女(遊女)たちの霊を供養するもので、宿主が遊女のことを「子供」と呼んでいたことから、この名が付けられたという。
  成覚寺⑬
 この合埋碑の近くには「白糸塚」もある。「白糸塚」は、遊女白糸と鈴木主水に因む悲恋物語が市村座で上演されて大当たりし、白糸役の役者が嘉永5年に奉献したものである。「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と刻まれている。
  成覚寺⑭
 やぶ蚊の攻撃に耐えきれず、六地蔵に見送られて投げ込み寺を退散した。
  成覚寺⑮
 駅に向かう途中で見かけたホテルの入口である。面白いイラストである。
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  2. 地蔵尊
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青面金剛のLandscape 288

鎌ヶ谷市鎌ヶ谷 鎌ヶ谷八幡神社
  鎌ヶ谷八幡神社①
 鎌ヶ谷市鎌ヶ谷一丁目、木下街道の路傍に鎌ヶ谷八幡神社の鳥居が見える。
  鎌ヶ谷八幡神社②
 石段を上ると長い参道がある。以前は樹木が鬱蒼と茂っていたと記憶していたが、伐採されたようだ。画面の手前には、東日本大震災で倒壊した石鳥居の基部が残されている。
  鎌ヶ谷八幡神社③
 参道に沿って百庚申が並んでいる。青面金剛像10基と庚申塔90基で構成されている。
  鎌ヶ谷八幡神社④
 天保12年から13年にかけて建てられたものであるが、かなり風化の進んだ青面金剛像もある。
  鎌ヶ谷八幡神社⑤
 主尊の風化は進んでも、下部に彫られた邪鬼の状態は比較的良好である。これは如何にも鬼然とした邪鬼である。
  鎌ヶ谷八幡神社⑥
 これは両手で頭を抱えたユーモラスな邪鬼である。
  鎌ヶ谷八幡神社⑦
 穴蔵から辺りの様子を伺っている邪鬼である。二年間で造立された青面金剛であるが、邪鬼や三猿の彫り方は実に多彩である。
  鎌ヶ谷八幡神社⑧
 百庚申の中ほどにある狛犬である。中々味のあるお顔である。
  鎌ヶ谷八幡神社⑨
 これはパワフルな印象である。大正3年の奉納。
  鎌ヶ谷八幡神社⑩
 社殿の右奥には鎌ヶ谷市の有形文化財に指定されている庚申道標がある。背後に見える建物は新京成線の鎌ヶ谷大仏駅である。
  鎌ヶ谷八幡神社⑪
 台石の右側面には「東さくら道」と刻まれている。左側面には「西こがね道」とある。
  鎌ヶ谷八幡神社⑫
 鎌ヶ谷八幡神社を出ると、木下街道の向かい側には鎌ヶ谷大仏が鎮座している。鋳造青銅製の釈迦如来像で、高さ1.80m、台座を含めて2.30mである。我が国で大仏と称される仏像のうち、石像を除き最小のものという説もある。
  鎌ヶ谷八幡神社⑬
 大仏が祀られている墓地の一画に青面金剛がある。
  鎌ヶ谷八幡神社⑭
 蘚苔類に覆われて見にくいが、ショケラを持つ六臂の賢人像である。傷みが少ない綺麗な状態である。文字が読みにくいのだが、宝暦年間の作だろうか。
  鎌ヶ谷八幡神社⑮
 近くの蕎麦店の看板である。大仏は地域のアイデンティティーなのである。
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  2. 青面金剛
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神社のLandscape 238

鎌ヶ谷右京塚 右京塚神社
  右京塚神社①
 鎌ヶ谷市右京塚、県道の路傍に鳥居がある。
  右京塚神社②
 鳥居の先に真っ直ぐに参道が伸びている。
  右京塚神社③
 右京塚神社の扁額である。
  右京塚神社④
 参道の途中に太い切り株がある。かつてあった欅並木の名残であるという。
  右京塚神社⑤
 参道にはこのような案内板もある。
  右京塚神社⑥
 参道の途中には踏み切りもある。遮断機が下がった。
  右京塚神社⑦
 すると、間もなく新京成の電車が通過していった。参道を横切る形で線路が敷設されたのだ。
  右京塚神社⑧
 踏切を超えると二の鳥居がある。
  右京塚神社⑨
 拝殿の長押には拝礼の仕方が掲げられている。右京塚神社は、通称三塚さん、三塚様と呼ばれている。それは、この社の南側に三基の塚があったことに由来しているが、そのうちの二基は十年以上前に破壊され、今ではそのうちの一基が残されているという。
  右京塚神社⑩
 社殿の左手に鳥居がある。その奥には石段が見える。これが今も残る塚、富士塚である。
  右京塚神社⑪
 塚の上には石祠が祀られている。
  右京塚神社⑫
 社殿の反対側に、先ほどの案内板にあった夫婦神社がある。これは子宝にご利益がありそうな神社である。
  右京塚神社⑬
 拝殿の前にこのような物が下げられていた。新京成線に乗ると、五香、二和向台、三咲など、数字の付く駅名が多いことに気が付くが、これは明治時代、徳川将軍家の馬牧の入植順に由来するものであったのだ。
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  2. 神社
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界隈のLandscape 44

江戸川区北小岩 佐倉街道界隈
  佐倉街道①
 京成線を江戸川駅で下車して旧佐倉街道を歩いた。江戸川区北小岩四丁目の路傍、画面左手のカフェの前に石柱が建っている。
  佐倉街道②
 鉄火丼の看板の右の石柱には、風化が進んでいるが、正面に「是よりあさくさくわん世於ん道 二り二丁 伊与田村中」とある。浅草寺までの距離を示している。右側の石柱には「左成田ミち」とある。
  佐倉街道③
 浅草寺までの距離を示す道標の左側面である。「左にいしく道 い王徒きぢ於んじ迄七り」とある。「にいしく」は葛飾区の新宿である。水戸街道と佐倉街道は新宿で分かれる。「い王徒き~ 」は岩槻慈恩寺のことである。
  佐倉街道④
 先に進むと、路傍祠があり、地蔵菩薩が祀られている。
  佐倉街道⑤
 ニット帽をかぶる地蔵菩薩の周りには優しい空気が流れている。
  佐倉街道⑥
 地蔵菩薩の背後には、2014625日号で紹介した正真寺の境外仏堂である観音堂が建っている。この観音堂には、室町末期の武将である里見義豊、義俊が、甲冑に収めて戦場に赴いたと伝わる弘法大師作の小金像が安置されている。
  佐倉街道⑦
 曇ったガラス越しに撮影してみた。見えた。1寸八分の光ケ嶽観音である。幾多の戦をくぐり抜けてきた観音様である。
  佐倉街道⑧
 続いて、真光院の門前である。この寺院には高尾太夫の墓があるとネットで情報を得ていたが、どこにあるのやら、見つけられなかった。
  佐倉街道⑨
 山門右手の堂前に青面金剛が祀られている。素朴な構えの六臂の合掌像である。造立年は読み取れなかった。
  佐倉街道⑩
 大師供養塔などを祀る堂内には石のドラえもんもいた。
  佐倉街道⑪
 小岩田天祖神社である。
  佐倉街道⑫
 面白い形をした屋根の手水舎である。手水鉢は、江戸川の対岸の市川村に住む「萬太郎」さんが文政10年に奉納したものである。手水鉢の手前にある石は力石かも、と思いよく見てみたが、刻字はなかった。
  佐倉街道⑬
 扁額である。てっきり社号が記されているのだろうと思ったが、大嘗祭記念である。大正天皇即位の大嘗祭を記念するものである。揮毫者は千葉県知事や衆議院議員を務めた人物である。
  佐倉街道⑭
 社殿脇の末社である。石が積まれ、小高くなったところに石祠が鎮座しているので、富士塚かと思ったが、水神社であった。
  佐倉街道⑮
 帰り際、玉垣にそって石が三つ並んでいるのが目に入った。左の石には「大玉石」と刻まれている。力石と見て間違いないだろう。この後、柴又まで歩いて帰途に着いた。
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  2. 界隈
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