「超訳 芭蕉百句」(その2)

嵐山光三郎「超訳 芭蕉百句」の2回目。

51QBAw-cOnL.jpg 昨日は芭蕉隠密説のことで終わったが、今日は俳人芭蕉。
隠密であったかどうかは歴史的・文学史的には瑣末なことである。

まず取り上げる句は「春やこし年や行けん小晦日」。
恥ずかしながら、本書が最初に掲げ、そして年代がはっきりしている句のうち最も古いとされるこの句を知らなかった。
 芭蕉最初の一句。寛文二年(一六六二)の作で芭蕉は十九歳、俳号は宗房であった。 『千宜理記』に「伊賀上野宗房」として入集している。
「春やこし」は、「春はもう来てしまったのだろうか」という詠嘆。「年や行けん」は「年は新年をむかえてしまったのだろうか」という驚き。 小晦日は大晦日の前日で十二月三十日。この年は十二月二十九日が暦の上の立春であったという。そこから、新春の気分を感じ暮れの心情を詠んだ。
 この句には二つの和歌の下敷きがあり、ひとつは 『古今集』巻頭の「年の内に春は来にけりひととせを去年とやいはむ今年とやいはむ」 で、これを俳諧式に五七五とまとめた。さらに『伊勢物語』の「君や来し我や行きけむおもほえず夢かうつつかねてかさめてか」のイメージを重ねた貞門俳諧の技巧が見られる。
はじめに―「旅する者」も闘いである
 
第1章 伊賀の少年は江戸をめざす
  ―春やこし年や行けん小晦日(宗房)
  1 春やこし年や行けん小晦日
  2 七夕は夕辺の雨に逢八ぬかも
  3 紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ
     兄分に梅をたのむや児桜
  4 天秤*や京江戸かけて千代の春(*は金偏)
  5 此梅に牛も初音と鳴つべし
  6 猫の妻へついの崩より通ひけり
  7 あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁
  8 かびたんもつくばゝせけり君が春
  9 実や月間口千金の通り町
 10 阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
 
第2章 深川へ隠棲した本当の理由
  ―夜ル竊二虫は月下の栗を穿ツ(桃青)
 11 夜ル竊二虫は月下の栗を穿ッ
 12 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
 13 櫓の声波うつて傷氷夜やなみだ
 14 雪の朝獨干鮭を囓得タリ
 15 藻にすだく白魚やとらば消ぬべき
 16 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
 17 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 18 雪の魨左勝水無月の鯉
 19 あさがほに我は食くふおとこ哉
 20 世にふるもさらに宗祇のやどり哉
 21 椹や花なき蝶の世捨て酒
 22 馬ぼく〳〵我をゑに見る夏野哉
 23 野ざらしを心に風のしむ身哉
 24 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
 25 道のべの木槿は馬にくはれけり
 26 馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
 27 明ぼのやしら魚しろきこと一寸
 28 海くれて鴨の聲ほのかに白し
 29 水とりや氷の僧のの音
 30 辛崎の松は花より朧にて
 31 菜畠に花見顔なる雀哉
 32 命二ツの中に活たるさくらかな
 33 山路来て何やらゆかしすみれ草
 34 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 35 白げしにはねもぐ蝶の形見哉
 
第3章 古池とは何か
  ―古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 36 古池や蛙飛こむ水の音
 37 名月や池をめぐりて夜もすがら
 38 ものひとつ我がよはかろきひさご哉
 39 水寒く寝入かねたるかもめかな
 40 初雪や水仙の葉のたはむまで
 41 月はやし梢は雨を持ながら
 42 寺に寝てまこと顔なる月見哉
 43 塒せよわらほす宿の友すゞめ
      あきをこめたるくねの指杉
 44 旅人と我名よばれん初しぐれ
 45 星崎の闇を見よやと啼千鳥
 
第4章 『笈の小文』は禁断の旅である
  ―冬の日や馬上に氷る影法師(芭蕉)
 46 冬の日や馬上に氷る影法師
 47 鷹一つ見付てうれしいらご崎
 48 ふるさとや臍の緒に泣年の暮
 49 蓑虫の音を聞に来よ草の庵
 50 さまざまの事おもひ出す桜かな
 51 よし野にて櫻見せうぞ檜の木笠
 52 蛸壺やはかなき夢を夏の月
 53 おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな
 54 あの中に蒔絵書たし宿の月
 55 棧橋やいのちをからむつたかづら
 56 俤や姨ひとり泣月の友
 57 吹とばす石はあさまの野分哉
 
第5章 『ほそ道』紀行を決意する
  ―蛙のからに身を入るる声(芭蕉)
 58 草の戸も住替る代ぞひなの家
 59 行春や鳥啼魚の目は泪
 60 あらたうと青葉若葉の日の光
 61 暫時は滝に籠るや夏の初
 62 野を横に馬牽むけよほとゝぎす
 63 田一枚植てたち去る柳かな
 64 風流の初やおくの田植うた
 65 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 
第6章 「あやめふく日」仙台に入る
  ―あやめ草足に結ん草鞋の緒(芭蕉)
 66 あやめ草足に結ん草鞋の緒
 67 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす
 68 夏草や兵どもがゆめの跡
 69 五月雨の降のこしてや光堂
 70 蚤虱馬の尿する枕もと
 71 涼しさを我宿にしてねまる也
 72 閑さや岩にしみ入蝉の聲
 73 五月雨をあつめて早し最上川
 74 涼しさやほの三か月の羽黒山
 75 雲の峰幾つ崩て月の山
 76 暑き日を海にいれたり最上川
 77 象潟や雨に西施がねぶの花
 
第7章 幻視する内面の宇宙
  ─荒海や佐渡によこたふ天河(芭蕉)
 78 荒海や佐渡によこたふ天河
 79 一家に遊女もねたり萩と月
 80 わせの香や分入右は有磯海
 81 塚も動け我泣聲は秋の風
 82 むざんやな甲の下のきり〴〵す
 83 石山の石より白し秋の風
 84 山中や菊はたおらぬ湯の匂
 85 浪の間や小貝にまじる萩の塵
 86 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
 
第8章 こころざしは高くやさしい言葉で
  ―初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(芭蕉)
 87 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
 88 病鳫の夜さむに落て旅ね哉
 89 うぐひすの笠おとしたる椿哉
 90 行春を近江の人とおしみける
 91 先たのむ椎の木も有夏木立
 92 うき我をさびしがらせよかんこ鳥
 93 鶯や餅に糞する縁の先
 94 年〴〵や猿に着せたる猿の面
 95 菊の香奈良には古き仏達
 96 此道や行人なしに秋の暮
 97 升買て分別かはる月見かな
 98 秋の夜を打崩したる咄かな
 99 秋深き隣は何をする人ぞ
100 旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 
あとがき―「軽み」俳句をめざして
上の引用にあるとおり、古今集と伊勢物語を踏まえて詠むという才知を、嵐山氏は素直にすぐれた技巧とし、この句を思いついた芭蕉がどんなもんだいと自賛していると評されている。

一方、ネットでこの句を検索すると、類型的でつまらない句と評価する意見も見られる。そもそも古今集の歌にしてから、暮れに立春を迎えたことで感情が動かされるのかという意見もあるだろうし、それを踏まえるのは、ただ古典の素養をひけらかしているだけにも見えなくもない。
私のように古典文学の素養が乏しい者は、その技巧に感心しながら、素養がなければ鑑賞が成り立たないというのも困ると思うけれど、本歌取りは作者が狙ってやっていることだから、やはり本歌を知った上で鑑賞することが正しい態度なのだろう。

もっとも知らないことで、その世界から門前払いを食らうようでは不愉快になるのだが。

本書では、続く各句の解説でも、こうした本歌取りの技法や下敷きとなる事が丁寧に説明されている。しっかりとした鑑賞の手引きとなっていると思う。

そうした古典の素養に加えて、「はじめに」によると、詠まれている場所・土地について、嵐山氏はすべて現地を訪れた上で検証したとのことである。
 超訳としたのは、百句すべてを現場検証したためです。 芭蕉百句は芭蕉百景となって、読者を「旅へ!」と誘う。古典文学は足で読む。カラダを使って一歩一歩読むのです。

(はじめに)


ろくに俳句のことも、芭蕉のことも知らず、せいぜいが学校の国語や日本史の授業で教えられる程度の知識しかない私が思っていたのは、芭蕉は、それまでの諧謔的な言葉遊び(俳諧)を、情景描写とそれによる感興を表現する芸術に高めた、というような理解だった。
前述の本歌取りの技巧のようなものは、俳諧を少し上品にした程度のもので、芭蕉においても、この種の句がしばらく続く。
七夕は夕辺の雨に逢いぬかも
       宗房 寛文五年『野は雪に』 百韻

 侍大将藤堂新七郎家の家臣は二十名ほどで、最下位奉公人宗房であっても、若君良忠(蝉吟)に仕えたことで道が開けた。和歌をたしなむ新七郎家には、謡曲、『源氏』をはじめ古典書物が揃っていた。それは宝の山で、蝉吟と付合をすれば、みるみる腕が上がっていく。
 貞門の俳諧は、機智滑稽をねらった言語遊戯である。俳諧には和歌では得られない解放感があり、卑俗な笑いが許される。『源氏』や謡曲のイメージを重ねれば、言葉が化学反応して自分でも予測できない小宇宙が現われるのだ。これが「言葉の魔法」でもうひとつの「人格」を獲得できる。
 俳諧は理屈ではない。言語遊戯と断定してしまうと身も蓋もないが、密室に集まって、虚空からひとかけの物語をつむぐ秘儀である。古典文学の教養は、知る者のみが共有する手品の種のようなものだ。

嵐山氏は、こうした俳諧を否定はされていないようだ。いわゆる蕉風のみが価値あるものということではない、これはこれで鑑賞する値打ちがあるということだろう。

それが、情景描写という形をとるようになったとき、浅薄な私の理解では、その描写は「写生」だと思っていた。ところが、実際には、芭蕉は情景を見ているわけではないのだという。
 芭蕉の発句は、のちの枯淡なる独白、風雅なる旅の句も、基本的には作り話が多い。芭蕉の頭のなかには中国詩人や西行の吟ほか多くの雑多な古典の引用があって、風景などはさして見ていない。『おくのほそ道』にしても、観念としてある風景を現場にあてはめた。
 これは悪いことではなく、旅行記も俳席も、別世界を幻視するところに妙があり、晩年の芭蕉は作意を嫌った。芭蕉のいう作意は、作り手の仕掛けが見えすいてしまうことである。句が上達すると、技巧が先行して純粋の感動が消えてしまう。子どもの句が新鮮なのは、無駄な仕掛けがなく、直截な目があるためだ。芭蕉が作意を嫌ったのは、自分が作意の人であったからだ。人は悟るため吟じるのではない。芭蕉は求道的になろうとすると破綻しはじめる。枯淡静寂を求めつつも、風狂のなかに身をおく。
『貝おほひ』は、素の芭蕉がむきだしで出てくる。ぎらぎらしている。
 悶着、言葉遊び、相反する理念との格闘、そこに素の芭蕉がいる。失意と不安が芭蕉のなかでくすぶっている。五十一歳で没するまでこの本性は変っていない。たえず前衛であろうとする意志。図太い神経と貪欲な精神と、時代に対応する力。この原型があったから、芭蕉は進化しつづけた。
えっ、作り話が多い!? 観念としてある風景を現場にあてはめた?
これで解かれる句は多い。
蕉風開眼の句といわれる「古池や蛙飛びこむ水の音」では、蛇足的に次のように問いかける。
 ところで、「蛙が水に飛び込む音」を聴いた人がいるだろうか。
 この句が詠まれたのは深川であるから、私はたびたび、芭蕉庵を訪れ、隅田川や小名木川沿いを歩いて、蛙をさがした。清澄庭園には「古池や……」の句碑が立ち、池には蛙がいる。春の一日を清澄庭園ですごし、蛙が飛び込む音を聴こうとしたが、聴こえなかった。
 蛙はいるのに飛び込む音はしない。蛙は池の上から音をたてて飛び込まない。池の端より這うようにスルッと水中に入っていく。
 蛙が池に飛び込むのは、ヘビなどの天敵や人間に襲われそうになったときだけである。絶体絶命のときだけ、ジャンプして水中に飛ぶのである。それも音をたてずにするりと水中にもぐりこむ。
 ということは、芭蕉が聴いた音は幻聴ではなかろうか。あるいは聴きもしなかったのに、観念として「飛び込む音」を創作してしまった。世界的に有名な「古池や……」は、写生ではなく、フィクションであったことに気がついた。
 多くの人が「蛙が飛び込む音を聴いた」と錯覚しているのは、まず、芭蕉の句が先入観として入っているためと思われる。それほどに蛙の句は日本人の頭にしみこんでしまった。事実よりも虚構が先行した。
この句については、私が読んだ数少ない俳句関連書物長谷川櫂「古池に蛙は飛びこんだか」に詳細な解説があるが、同書でも、古池に蛙は飛びこまなかったとしている。それは俳句論としてで、実際に音がするかどうかを問題にしているわけではないが、文学の世界からでも同じ結論になるということだ。凡人にはこれほどの洞察力はない。

この句はあまりにも有名になったためか、
 天保になると「古池やその後とびこむ鮭なし」と川柳にからかわれた
との余談も紹介されている。
これも読みようによっては、この句に並ぶような秀句が生まれなかったともとれるけど。


もう一つ、写生とは言えない例を紹介しておこう。
荒海や佐渡によこたふ天河

 なんと大きい句だろう。十七音のなかに、天と海と島が入っている。芭蕉の句のなかでも、きわだって勇壮で、奥ゆきがある。『ほそ道』の出雲崎での吟であるが、もうひとつの旅中の俳文「銀河の序」にも出てくる。

 ……出雲崎に泊まる。 佐渡島までは海上十八里。青々とした波をへだてて、東西三十五里にわたって島が横たわっている。金が採れる宝島であるのに、大罪朝敵で多くの罪人(順徳天皇、日蓮上人、 日野資朝、文覚上人など)が配流され、おそろしい気がして、しばらく物思いにふけっていると、日が沈んだ。月はほの暗く、銀河が中空に浮かび、星がきらきらと輝き、沖より波の音が聞こえてきて、胸がしめつけられ、悲しみがこみあげて、ああ、どうにも眠れない。

 しかし、『旅日記』によると、この日は雨で佐渡は見えなかった。晴れていても、荒海のときは出雲崎からは佐渡は見えない。芭蕉が幻視した風景である。
『ほそ道』の句は俳諧の歌仙を巻く配列になっており、ここは「恋の旬」の出番となっている。七夕の夜に、牽牛星と織女星が会う物語が句の背景にある。
句に対する感想は私もまったく同感だ。そしてこれほどの大きな世界を、実際には見ずに吟じたというのは、凄まじい想像力だと、あらためて芭蕉の力量に感じ入ってしまう。
なお、この句の「よこたふ」は文法的には破格であるという指摘がある(本書では触れていない)。

(⇒「俳句文法」入門 (31) 2021年9月号


関連記事

「超訳 芭蕉百句」

51QBAw-cOnL.jpg 嵐山光三郎「超訳 芭蕉百句」について。

著者は、よくテレビでもお見掛けしていたが、なんとなく憎めない風貌と、ユニークだけれど突飛ではない物言いが印象的だった。あらためて本業はなにかとWikipediaを見たら、編集者がスタートでそれからエッセイストになったとかだが、本書以外にも、俳句に関する著作は多いようだが、俳人というわけではない。であるけれど、芭蕉愛が一通りではないことは、本書を読めばすぐにわかる。

嵐山氏が芭蕉ファンとなったきっかけは、編集者として携わった企画記事だったそうだ。芭蕉の旅をテーマした企画物で、編集者としては、ただ俳句を知っていれば済むはずもなく、詠まれた状況や背景、人間関係、さらにはビジュアルを付けるなら、歌枕の変容など、多岐にわたる知識を仕入れて取り組まれたのだろう。もちろんその企画を成立させる俳人なり俳句研究者なりの指導を受けながらだろう。
結局、それが昂じて、知ることで好きになった、ということと想像する。

そういう入り方をしたからかもしれない、文芸の世界からははみ出して、芭蕉隠密説をとっている。「はじめに」でそのことを宣言している。
はじめに―「旅する者」も闘いである
 
第1章 伊賀の少年は江戸をめざす
  ―春やこし年や行けん小晦日(宗房)
  1 春やこし年や行けん小晦日
  2 七夕は夕辺の雨に逢八ぬかも
  3 紅梅のつぼミやあかいこんぶくろ
     兄分に梅をたのむや児桜
  4 天秤*や京江戸かけて千代の春(*は金偏)
  5 此梅に牛も初音と鳴つべし
  6 猫の妻へついの崩より通ひけり
  7 あら何ともなやきのふは過ぎてふくと汁
  8 かびたんもつくばゝせけり君が春
  9 実や月間口千金の通り町
 10 阿蘭陀も花に来にけり馬に鞍
 
第2章 深川へ隠棲した本当の理由
  ―夜ル竊二虫は月下の栗を穿ツ(桃青)
 11 夜ル竊二虫は月下の栗を穿ッ
 12 枯枝に烏のとまりたるや秋の暮
 13 櫓の声波うつて傷氷夜やなみだ
 14 雪の朝獨干鮭を囓得タリ
 15 藻にすだく白魚やとらば消ぬべき
 16 芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉
 17 氷苦く偃鼠が咽をうるほせり
 18 雪の魨左勝水無月の鯉
 19 あさがほに我は食くふおとこ哉
 20 世にふるもさらに宗祇のやどり哉
 21 椹や花なき蝶の世捨て酒
 22 馬ぼく〳〵我をゑに見る夏野哉
 23 野ざらしを心に風のしむ身哉
 24 猿をきく人すて子にあきのかぜいかに
 25 道のべの木槿は馬にくはれけり
 26 馬に寝て残夢月遠しちやのけぶり
 27 明ぼのやしら魚しろきこと一寸
 28 海くれて鴨の聲ほのかに白し
 29 水とりや氷の僧のの音
 30 辛崎の松は花より朧にて
 31 菜畠に花見顔なる雀哉
 32 命二ツの中に活たるさくらかな
 33 山路来て何やらゆかしすみれ草
 34 狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉
 35 白げしにはねもぐ蝶の形見哉
 
第3章 古池とは何か
  ―古池や蛙飛こむ水の音(芭蕉)
 36 古池や蛙飛こむ水の音
 37 名月や池をめぐりて夜もすがら
 38 ものひとつ我がよはかろきひさご哉
 39 水寒く寝入かねたるかもめかな
 40 初雪や水仙の葉のたはむまで
 41 月はやし梢は雨を持ながら
 42 寺に寝てまこと顔なる月見哉
 43 塒せよわらほす宿の友すゞめ
      あきをこめたるくねの指杉
 44 旅人と我名よばれん初しぐれ
 45 星崎の闇を見よやと啼千鳥
 
第4章 『笈の小文』は禁断の旅である
  ―冬の日や馬上に氷る影法師(芭蕉)
 46 冬の日や馬上に氷る影法師
 47 鷹一つ見付てうれしいらご崎
 48 ふるさとや臍の緒に泣年の暮
 49 蓑虫の音を聞に来よ草の庵
 50 さまざまの事おもひ出す桜かな
 51 よし野にて櫻見せうぞ檜の木笠
 52 蛸壺やはかなき夢を夏の月
 53 おもしろうてやがてかなしき鵜舟かな
 54 あの中に蒔絵書たし宿の月
 55 棧橋やいのちをからむつたかづら
 56 俤や姨ひとり泣月の友
 57 吹とばす石はあさまの野分哉
 
第5章 『ほそ道』紀行を決意する
  ―蛙のからに身を入るる声(芭蕉)
 58 草の戸も住替る代ぞひなの家
 59 行春や鳥啼魚の目は泪
 60 あらたうと青葉若葉の日の光
 61 暫時は滝に籠るや夏の初
 62 野を横に馬牽むけよほとゝぎす
 63 田一枚植てたち去る柳かな
 64 風流の初やおくの田植うた
 65 早苗とる手もとや昔しのぶ摺
 
第6章 「あやめふく日」仙台に入る
  ―あやめ草足に結ん草鞋の緒(芭蕉)
 66 あやめ草足に結ん草鞋の緒
 67 松嶋や鶴に身をかれほとゝぎす
 68 夏草や兵どもがゆめの跡
 69 五月雨の降のこしてや光堂
 70 蚤虱馬の尿する枕もと
 71 涼しさを我宿にしてねまる也
 72 閑さや岩にしみ入蝉の聲
 73 五月雨をあつめて早し最上川
 74 涼しさやほの三か月の羽黒山
 75 雲の峰幾つ崩て月の山
 76 暑き日を海にいれたり最上川
 77 象潟や雨に西施がねぶの花
 
第7章 幻視する内面の宇宙
  ─荒海や佐渡によこたふ天河(芭蕉)
 78 荒海や佐渡によこたふ天河
 79 一家に遊女もねたり萩と月
 80 わせの香や分入右は有磯海
 81 塚も動け我泣聲は秋の風
 82 むざんやな甲の下のきり〴〵す
 83 石山の石より白し秋の風
 84 山中や菊はたおらぬ湯の匂
 85 浪の間や小貝にまじる萩の塵
 86 蛤のふたみにわかれ行秋ぞ
 
第8章 こころざしは高くやさしい言葉で
  ―初しぐれ猿も小蓑をほしげ也(芭蕉)
 87 初しぐれ猿も小蓑をほしげ也
 88 病鳫の夜さむに落て旅ね哉
 89 うぐひすの笠おとしたる椿哉
 90 行春を近江の人とおしみける
 91 先たのむ椎の木も有夏木立
 92 うき我をさびしがらせよかんこ鳥
 93 鶯や餅に糞する縁の先
 94 年〴〵や猿に着せたる猿の面
 95 菊の香奈良には古き仏達
 96 此道や行人なしに秋の暮
 97 升買て分別かはる月見かな
 98 秋の夜を打崩したる咄かな
 99 秋深き隣は何をする人ぞ
100 旅に病で夢は枯野をかけ廻る
 
あとがき―「軽み」俳句をめざして
 この百句は「おくのほそ道」の旅が、幕府の諜報をかねていた、という前提で訳しています。と言うと、純朴実直な芭蕉ファンは、「どうしてそんな訳をするのだ」とたちまち怒り出したりする。東京の深川芭蕉庵でも伊賀上野でも、小夜の中山、鹿島神宮、平泉でも、出羽三山でも「おくのほそ道」の文庫本を持った紳士淑女が感慨深げに旅をしている。芭蕉さんは国民的人気があります。

芭蕉隠密説は、今までに何度か、学校の授業でもそんな話があったし、テレビ番組ではおもしろおかしく、そしてまことしやかに紹介されてきたと思う。
私はやや眉に唾して聞いてきたけれど、本書では門人の多くが幕府の諜報員と断言されている。その根拠は明示されていないのだけれど、それだけ諜報員に囲まれ、また一緒に旅をしたのなら、諜報活動をどのぐらいしたかは別としても、それに協力したということはたしかかもしれない。

幕府隠密説でネット検索すると、芭蕉忍者説という形でヒットする記事が多い。ただ忍者という言葉で、高く跳んだり、手裏剣を投げたりすることを想像すると間違いだろう。


状況証拠という感じで示されているのが、おくのほそ道の旅に出た時期と場所が、幕府が情報を必要としていたところに一致しているという話である。
この旅の前、日光東照宮が災害にあって社殿が大きな被害を受け、その修理(といってもほとんど新築)が伊達家に命じられた。だが誰の眼にも膨大な負担であり、伊達家はそれ以前にも多くの普請をいいつけられているから、素直に従うのか幕閣は不審に考えた。そこで日光をまわり、仙台へと、修理工事や本国の様子を探る必要があった、というわけである。
この間の事情について本書は次のように詳しく説明している。
 綱吉の代になると、徳川家が持っていた金は使いはたされていた。幕府にとって要注意の敵は仙台藩伊達家である。日本一多くの家臣団を持ち、軍事力、経済力がある伊達がぬきんでていた。
 これより三十年前、幕府は神田川工事を伊達家に命じた。 水道橋からお茶の水、神田、柳橋経由で隅田川へ通じる水路を、「仙台堀」という。この工事により、伊達家は莫大な労力と金銭を使った。幕府による収奪は徹底してつづき、財政は大赤字となった。そんななかで「伊達騒動」がおきた。
 四代将軍家綱のとき、三代藩主の伊達綱宗が、吉原で酒を飲みすぎた、というささいな罪をとがめられて、二十一歳の若さで品川にある伊達家の下屋敷に隠居を命じられた。わずか二歳の綱村(亀千代)が家督を相続して伊達宗勝が後見役となった。これに反対した伊達安芸(宗重)は非道を幕府に訴えた。酒井雅楽頭の邸で裁決の日、宗勝の腹心原田甲斐(宗輔)が安芸を斬り、甲斐もその場で斬殺された。この事件は歌舞伎や浄瑠璃で『先代萩』に脚色された。
 亀千代こと綱村は三十歳で江戸屋敷におり、隠居を命じられた伊達綱宗は四十九歳となり、品川の下屋敷にいた。
 五代綱吉の時代になって改易される大名はますます増えている。日光東照宮修理といっても新築と大差がない。財政が逼迫して借金が二十三万両の仙台藩に修理工事を押しつければ、反乱をおこすかもしれない。「窮鼠猫を噛む」事態が考えられる。
 元禄元年(一六八八)十一月四日、江戸の屋敷にいた伊達綱村は幕府より、
「日光御宮御堂普請の命」
 が申し渡された。伊達家にとっては神田川掘削以来の難題が命じられた。
 修復工事の指揮は幕府がとり、日光修造惣奉行は井伊掃部頭直該(彦根藩主三十万石)。井伊家は徳川幕府の先鋒を務める家柄で、藤堂家とともに朝廷(京)への抑えの役割を担っていた。直該は元禄十年には幕府大老を務め、向う気が強い。その指揮下で伊達家は多額の費用と人足を出さなければならない。屈辱的な命令に対し、綱村は、老中や普請奉行の家へお礼回りをしなければならなかった。
 伊達家の最高責任者となった伊達安芸宗元が江戸にやってきた。表向きは幕府の命に従うが、仙台藩のなかでは反対派が生じる可能性がある。
 日光東照宮修復工事が伊達家に申し渡された。十二月三日に芭蕉庵に集ったのは芭蕉、杉風、路通、宗波の四名で、いずれも隠密関係者ばかりで、「冬の句」四吟。
 芭蕉庵へは常連が集まった。「皆こころざしの類するものをもて友とす」。依水、苔翠、泥芹、夕菊、友五、曾良、路通の句が示される。路通は放浪の俳人。『おくのほそ道』の旅の同伴者候補であったが、曾良に代られた。同席していた友五は、大垣藩士で潮来の赤ヒゲ医(隠密) 本間自準の養子で諜報官。元禄元年秋から芭蕉の歌仙に五回連続出席している。
 元禄二年正月十七日付の松尾半左衛門(芭蕉の兄)宛の手紙に「(おくのほそ道の)北国の旅のあと伊賀上野に立ち寄る」と書いているから、奥羽行脚計画は決まっていた。
 閏正月頃、猿難 (推定) 宛手紙には、「三月には塩竈の桜、松島の朧月、あさかの沼の花かつみ(『古今集』に出てくる花)が咲くころ、北国を廻る」と書いている。奥羽行脚の予定が三月節句過ぎにきまった。
 元禄二年二月は大垣藩江戸藩邸武士此筋、大垣商人嗒山、江戸蕉門の武士嵐蘭(松倉氏)、嵐竹(嵐蘭の弟)、北鯤(石川氏)といった面々に曾良を加えての「かげろう」の歌仙。歌仙の席で、『おくのほそ道』の旅こと「伊達藩調査の旅」の密議が練られていく。
 二月十五日、熱田の旅籠主人、桐葉へは、「拙者三月節句すぎに松島の朧月を見ようと思い、白河、塩竈の桜を見て、仙台より北陸道を歩いて美濃へ出て、くたびれたら熱田の旅館へも立ち寄るかもしれません」と書いている。松島の名が出てくるのは、仙台に住み、松島に庵を構えて、奥州地方を放浪した俳諧師大淀三千風のことが頭にあったろう。
 二月十六日付、伊賀上野の惣七郎(猿雖)・宗無宛の手紙に、「松島の月が朧であるうち、塩竈の桜が散らぬうちにと、心そぞろ」と、書いている。
 三月二十三日、奥羽行脚直前、岐阜の呉服商落梧宛の手紙は、進物を贈られた礼状である。松島を一見しようという思いがやまず。

 兄へも東北行脚の報告を書いた。こんなに吹聴していいのだろうかと心配するほどの意気がある。

思うに伊達家のほうも、芭蕉一行が情報収集の役割をもっていることは知っていたのではないだろうか。知って、彼らの行動を邪魔せず、謀反の意思がないことをスパイに報告させようと考えたのかもしれない。

芭蕉隠密説を大きく取り上げたが、本書ではこれを論証しようとするものではなく、それに関する記述量は上に引用した程度である。
なお、隠密説の傍証ということだろうか、おくのほそ道の旅が、歌枕を訪ね歩くにしては、それにかける時間は案外短かったりすることを次のように書いている。
「夏草や」と言えば多くの日本人が「兵どもが夢の跡」とつづけてしまう。高館に登ると、美しき御婦人が、じっと夏草を見つめている。冬でも春でも「夏草」です。日本はまことに文芸国家であって、芭蕉さんは力技だが読者にも力があるのです。「ほそ道」の旅で圧巻となる平泉へは五月十三日(陽暦では六月二十九日)の一日だけ。しかも一関からの日帰りでした。『旅日記』には「午前十時ごろ一関を出て、午後三時に帰る」とあります。 一関から平泉へは二里半(約九キロメートル)。高館・衣川・中尊寺・光堂・泉城・桜川・桜山・秀衡屋敷を巡覧し、月山・白山・金鶏山・無量劫院跡を見て、やたらとあわただしい。片道一時間半として、平泉を見物したのは実質二時間でした。こんな短時間で 「藤原三代の栄耀がほんの一眠りのようにはかなく、秀衝の屋敷がただの田野になっていた」と書く。

芭蕉隠密説について書くのはこれきりにして、芭蕉の俳句については稿をあらためることにする。

関連記事

確定申告(令和4年分)

今年もe-Taxで確定申告を行った。
年一回のことだから、前年にやったことをきちんと憶えているとはいいにくいが、今年はなんだか操作方法などがだいぶいじられているように思った。

2022_e-tax04.png
マイナポータル連携が選択できる(私はやらなかった)

2022_e-tax10.png
こちらは見慣れた申告書作成画面
申告書データを作成するところは多分前年と大差ないと思うのだけれど、それに至るまで、そして各項目の入力もなんだかちょっと違うような気がした。

去年もあったかもしれないが、マイナポータルとの連携というのがあって、これをやれば、年金とかの入力が連携先のデータで自動的に埋め込まれるらしい。
ちょっと試してみようと思ってやりはじめたのだが、アタリマエのことかもしれないが、連携先にもマイナポータル連携をすることを登録しておかないといけないようだ。
年金が3種類、生命保険、投資信託、ふるさと納税とか、連携できるものがいろいろあるのだけれど、年金のようにずっとあるものはともかく、他は、年一回の確定申告のためにわざわざ登録する気になれなかった。
結局、例年通り、書類から入力することにした。

もっともこの仕様自体は、仕方がないものだと思う。マイナンバーは「名寄せに利用しない」という、反対意見を封じるための姑息なポリシーがあるから、あちこちのサービスに登録されたマイナンバーで自動的にリンクすることは避けられているのだろう。
ではあるが、便利にしようとして連携を拡げれば、実質的な名寄せになるわけだ。それは利用する個々人の意志であるというたてまえで運用することになる。
公的年金などの公的なサービスでは、既にマイナンバーは捕捉されているから、やろうとすればいつでも名寄せをできる状態である。目的外利用や外部提供の禁止という、紙切れ一枚の情報管理ルールだけがたのみというわけだ。

私は別に名寄せに反対しているわけではない。私のように脱税するつもりも、資産もないものにとっては、どんどんサービスを連携してもらうことは、むしろありがたい。
便利なものにしようとするなら実質的に名寄せの範囲を拡大しなければならないにもかかわらず、少なくとも当初の「名寄せに利用しない」という説明が誠実さを欠いていると思うだけだ。
そしてそういう足枷をはめられたために、歪んだ制度・システム設計、そして高額な投資になっているのではないかと思う。


一番不思議に思ったのは、今まで申告書を送信するときには電子署名が求められ、そのパスワード入力があったと記憶するのだが、今年はそのシーンがなかった。勝手に署名を読みだせるはずがないから、電子署名はいらなくなったんだろうか。
もしそうなら、情報の改ざん防止や否認対抗など、厳重なセキュリティをかけていたポリシーはどうなったんだろう?
そしてマイナンバーカードでの電子署名って、一般人はe-Tax以外には普通使うことがないと思うのだが、マイナンバーカードへの証明書搭載はどうするんだろう。

ところで送信後、公金口座登録がうながされるようだ。私は既に登録しているからそれはなかったが、未登録の人はご丁寧にその案内が出るらしい。

そして今年もまた追加納税が〇万円も発生してしまった。

関連記事

車検

20230224_101914533-crop.jpg 昨日、家の車を車検に出した。
問題がなければ、今日の午後には受け出せる予定。

車検に出すにあたって、自動車税の納税済通知(領収書)を家探ししたのだが見つからなかった。納税時に、車検で必要だからと思ってどこかに保管したはずなのだが。
まぁ、このディーラーの車検では、納税証明取得手数料とかはとられないようだから、よしとしよう。

代車は不要としていたが、昨日は雨だったので、やっぱり代車を用意してもらったほうが良かったかな。もっともディーラーと家の間は、歩いて10分ちょっとだけど。

今の車(プリウス第三世代)は9年乗ってきていて、車検は4回目になる。
10年たったら車を変えても良いかなとも思うのだが、私が運転するのはあと何年だろうと考えると、今の車に乗り続けたほうが良いような気もする。

もし買い替えるとしたら、次は自動運転機能がしっかりしているものにしたいと思うのだが、あと1,2年でそういう車が販売されるだろうか、またその価格はどうだろう。今の車もレーダークルーズコントロールは付いている。
「やっちゃえ日産」では、それなりの運転支援機能が付いているらしいから、そっちの選択肢もあるかもしれない。

もっとも、この頃は長距離ドライブはまったくしていない。片道50kmぐらいがMAX。したがって高速道路も使っていない。とくにこの1年は家人の体調の問題で、家人の実家へ行くこともなかった。自動運転機能がつくにしても、最初は高速道路での自動運転だろうから、使う機会はほとんどゼロかもしれない。
あるいは近場しか乗らないのなら、軽自動車でも良いかなと考えたり。

まだ5,6年は運転するだろうと思うが、どうしたものか。

関連記事

読書用ルーペ

老眼がすすんで細かい文字が読みにくい。
なのでいままでも本を読むときなどはリーディンググラス(要するに老眼鏡)を使う。

マスク生活が続いて、電車の中で本を読むときなど、眼鏡が曇る。いろいろ対策はしてきていて、レンズを拭くと曇りにくくなるくもり止めクロスとか、吐息が鼻のほうへ抜けないようにするパッドを使ってきた。

くもり止めクロスは日が経って(購入から2年)薬の効果が落ちてきているし、パッドもなかなか完全な効果は得られない。
新しいのを買おうかとも考えていたが、もうすぐマスクなしで電車に乗っても許されるようになりそうなので、今から買うかなぁとためらっていた。

IMG20230223122653-crop.jpg どちらも効果は大したことはないので、別の物を試してみようと思って、ネットを渉猟していたら、読書用ルーペというものを見つけた。フレネルレンズでとても薄くできているもののようなので、これなら持ち歩いても邪魔にならないだろうと考えて、試しに買ってみることにした。

購入したのは、ページ拡大シートとカード拡大鏡、それぞれ3枚ずつまとめて買って780円。

拡大シートのほうはB6サイズ。薄っぺらいので本にはさんでおくこともできる。
フレネルレンズというのはだいたいがそんなにクリアなものではないと思うが、この商品もやはりクリアではない。文字を拡大して読むのには支障はないが、写真とかを丁寧に見ようとするとボケた感じになる。
また、やわらかいのちょっと反っていて、像が歪む。
電車の中で使おうと思ったが、あまりにも老眼がひどそうに思われそうだし、座っていないとまず使えない。

IMG20230223122924-crop.jpg カード拡大鏡のほうは、いわゆるカードサイズで、こちらは小さいから同じ薄さでもシートよりもしっかりした印象。見える範囲はもちろん小さいけれど、案外、これはいざというときに役に立ちそうに思う。定期入れにもしのばせてある。

安かろう、悪かろうというけれど、悪さの程度問題。
この値段なら、使わなくても後悔は小さくて済む。

入院中の家人が目が見えにくいと訴えるので、何か助けになるものはないかと考えたというのが本当のところ。
まだ持って行っていないが、持って行っても使ってくれるような気はしないけど。

関連記事

「子どもの難問」(その3)

野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の3回目。

A1vDwZH1IiL.jpg 3回目で最後にするので、1,2回でとりあげなかった問から。

まず「心っってどこにあるの?」
 いま居場所を探している心とはなんだろう? 考えたり、見たり、感じたりするものだ。心は人それぞれがもつのだから、身体のどこかに宿っているに違いない。昔は、心臓にあると思われていたけれど、今では脳にあると言われている。
 でも、脳にあると言っても、ぼくらの脳を解剖したって、そこに見つかるのはニューロンと呼ばれる神経組織や、血管や血液だけだろう。バッハを聴いているとき、チェンバロの「音」は脳の中でまったく鳴っていない。青い海を見ているときも、脳は少しも「青く」染まらない。
  :
  :
 それじゃ、世界は心がつくったのか? いや、それも違う。三人称的世界の一部であるきみの脳の側頭葉辺りに障害が起きると、忘れていた歌が突然聞こえてきたりする。つまり、きみの一人称的経験は予想もつかない仕方でいやでも変化する。だから、一人称的経験はある意味で三人称的世界からつくられる。このこんがらがった事態をどう理解したらいいのだろう。残念だけど、簡単な答えはない。ぼくらはようやく、心や脳や経験や世界についての 存在論という哲学の入り口に立ったところなのだ。

(心ってどこにあるの?―柴田正良)

    はじめに
 ぼくはいつ大人になるの?熊野純彦
野矢 茂樹
 死んだらどうなるの?清水哲郎
雨宮民雄
 勉強しなくちゃいけないの?土屋賢二
斎藤慶典
 頭がいいとか悪いとかってどういうこと?大庭健
中島義道
 人間は動物の中で特別なの?一ノ瀬正樹
伊勢田哲治
 好きになるってどんなこと?田島正樹
山内志朗
 過去はどこに行っちゃったの?野家啓一
永井均
 なぜ生きてるんだろう?神崎繁
入不二基義
 どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?戸田山和久
古荘真敬
 考えるってどうすればいいの?柏端達也
野矢 茂樹
 科学でなんでもわかっちゃうの?伊勢田哲治
柴田正良
 悪いことってなに?大庭健
田島正樹
 自分らしいってどういうことだろう?鷲田清一
熊野純彦
 きれいなものはどうしてきれいなの?神崎繁
鈴木泉
 友だちって、いなくちゃいけないもの?清水哲郎
一ノ瀬正樹
 人にやさしくするって、どうすること?斎藤慶典
渡辺邦夫
 芸術ってなんのためにあるの?山内志朗
古荘真敬
 心ってどこにあるの?柴田正良
柏端達也
 えらい人とえらくない人がいるの?鷲田清一
野家啓一
 神様っているのかなあ?田島正樹
永井均
 哲学者って、何をする人なの?戸田山和久
入不二基義
 幸せって、なんだろう?土屋賢二
雨宮民雄
    後記
ここでは心の問題を哲学のテーマとして立て、それはまだ入り口だというのだけれど、思うに、科学の世界では、問いの立て方がまったく違っているのではないだろうか。

本書では、心はどこにあるのだろうと問いかけているけれど、科学では心が身体のどこか一部にあるという考え方はとられていないと思う。
まず、心の存在を意識すること自体は、おそらく脳の機能だろう。ただし、それは脳のどこか一部が創り出すものではなく、脳の中のネットワーク全体の働きだろう(ミンスキー『心の社会』)。そしてそこへ集まる情報は全身的なものであるし、その情報の元には外界もある。これらの総体が心の意識に関与しているのではないだろうか。

私の理解では、科学はそういう「心のモデル」を追求しているに違いない。日常語で「心があたたまる」とか「心が痛む」というような表現は、「心のモデル」が示すであろう心の動き・ありようの一顕現なのではないだろうか。
科学者が探している心と、哲学者が語る心は同じものなのだろうか。つまり心の定義というか、心という言葉の用法の大きな違いというのをまず排除することが望ましいように思う。
論理学の授業で、こんな誤謬文を教えられたことがある。

The end of life is perfect, and death is the end of life. Then death is perfect.


次は、「神様っているのかなあ?」なのだが、本書(田島正樹)では存在には答えず、信頼と同様、神は生み出すものと説かれ、なんだか同語反復の判じ物のように思った。

私が今まで聞いてきた神の存在議論の多くは、

循環論(「神がいなければ世界はこうはなっていない」式の議論)、
理神論(神と世界を同一視する)、
損得勘定(パスカルの賭け)

というようなもの。
最近では、実在を問わず(存在論を離れ)、神というイリュージョンを持つことが現生人類が、ネアンデルタール人を駆逐っできたという説もある(ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』など)。

神をもたない部族があるという(ダニエル・エヴェレット『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』)。この本を読んでないし、この文化観察が本当に正しいのか私にはわからないが、もしそうだとするとかれらはどういう原理で統合されているのだろうか。


最後に引用するのは「哲学者って、何をする人なの?」
ここから、ほんの一部だけ引用して、この記事を終えることにする。
 私たちは「穴」を掘ります。しかも、わざわざ掘らなくてもいい所に「穴」を掘って、歩きにくくしてしまったり、中に落ちてしまったり、時には掘りすぎて出られったりもします。そして、「穴」から出ようとしてもがいたり、落ちないように「穴」を塞いだり、元の平らな大地に戻したりします。時には、出られなくてもいいから「穴」の中にじっと留まったり、もっと掘り進めたりすることもあるでしょう。
  :
  :
 これは、元々「穴」のない所に、わざわざ「穴」を掘ったうえで、その「穴」を埋めようとしていることに等しいでしょう。 はたして、「穴」はうまく埋まるでしょうか。あるいは、いったん掘ってしまった「穴」は、どんなに塞ごうとしても埋まらないままでしょうか。あるいは、そもそも「穴」などほんとうは掘ることはできないのだと、認識を改めることができるでしょうか。あるいは、「穴」掘りも「穴」塞ぎも、どちらも虚しいことだと悟って、「穴」のことなど忘れて、ふつうの大地を歩いたり、走ったりすることに戻れるでしょうか。どの方向を選択するとしても、(スタイルが違うだけで)すべてが「哲学」であるように見えます。哲学者とは、それぞれの仕方で、どうしても「穴」に関わっ人たちなのだと思います。

(哲学者って、何をする人なの?―入不二基義)

これは「はじめに」にあった、たちどまって考えるという哲学のありかたに対応しているように思う。
哲学というのは、それはそれでおもしろいかもしれない。何といっても正解を判定できないところで議論できるわけだから。
だが科学(自然科学だけではない、人文科学、社会科学も含めて)を信仰する私としては、やっぱり思う。真理を追い求めないのなら、それは神がする技ではないのだろうか。存在意義は神様と同程度にはあると思うが、それで心の平安も得られるかもしれないが、それで満足はできない。

科学と哲学は対立するものではない。相互に刺激し合うべきものだと思う。そして哲学は諸学の学ともいう。哲学はそうであってほしいと思う者にとっては、本書には、やっぱりはぐらかされ感が残ってしまう。知的遊戯だったのではないかと。

高校の歴史か倫理の授業で、古代ギリシアのソフィストを随分悪く教えられた憶えがある。


関連記事

「子どもの難問」(その2)

野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の2回目。

A1vDwZH1IiL.jpg 1回目では、面白いなと思った短い文章を切り出して紹介したが、2回目では、もう少し内容を詳しく紹介する。

まず紹介するのは、「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?―戸田山和久」。この文章では、「サリーとアン課題」を説明して、他人の心をわかるということの基本をおさえている。
この理解の仕方は哲学的ではなくて、科学的態度であると思う。だからだろう、科学ではそういうアプローチをするけれど、これをもって「難問」への答えであるとはしない。これに続く、他人を尊重することまでが「わかる」に含まれているのではないかと述べている。

科学的理解と哲学的思考とはどちらが広いのだろう。科学的理解に立って(前提として)、さらに問題を掘り下げるなら、哲学的思考のほうが広い(よりたくさん考えた)と言えるかもしれないが、一方で科学的理解のほうが一般性があるという意味では広いと言うこともできるかもしれない。


    はじめに
 ぼくはいつ大人になるの?熊野純彦
野矢 茂樹
 死んだらどうなるの?清水哲郎
雨宮民雄
 勉強しなくちゃいけないの?土屋賢二
斎藤慶典
 頭がいいとか悪いとかってどういうこと?大庭健
中島義道
 人間は動物の中で特別なの?一ノ瀬正樹
伊勢田哲治
 好きになるってどんなこと?田島正樹
山内志朗
 過去はどこに行っちゃったの?野家啓一
永井均
 なぜ生きてるんだろう?神崎繁
入不二基義
 どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?戸田山和久
古荘真敬
 考えるってどうすればいいの?柏端達也
野矢 茂樹
 科学でなんでもわかっちゃうの?伊勢田哲治
柴田正良
 悪いことってなに?大庭健
田島正樹
 自分らしいってどういうことだろう?鷲田清一
熊野純彦
 きれいなものはどうしてきれいなの?神崎繁
鈴木泉
 友だちって、いなくちゃいけないもの?清水哲郎
一ノ瀬正樹
 人にやさしくするって、どうすること?斎藤慶典
渡辺邦夫
 芸術ってなんのためにあるの?山内志朗
古荘真敬
 心ってどこにあるの?柴田正良
柏端達也
 えらい人とえらくない人がいるの?鷲田清一
野家啓一
 神様っているのかなあ?田島正樹
永井均
 哲学者って、何をする人なの?戸田山和久
入不二基義
 幸せって、なんだろう?土屋賢二
雨宮民雄
    後記
その科学にこだわるようだけど、「科学でなんでもわかっちゃうの?」では、もちろんそんなことはないことが丁寧に説明されているけれど、思うに子供はこういう問いを発するだろうか。「なんでも」とは問わず、特定の事象に対して科学がどう説明するのかという問いになるのではないだろうか。
私が子供の頃読んでいた本に「なぜだろうなぜかしら」というのがある。いろんな現象について科学的に説明するものだ。今でもよくラジオ番組とかで、子供の質問を受け付けるというのがあるが、子供は何かあるものについて疑問を持ち、知りたいと思うのではないだろうか。

言葉の遊び(私が好きな)もある。
「自分らしいってどういうことだろう?」
これは(論理的な?)言葉遊びになっているから、長くなるけど、該当部分を転載しよう。
 仮にもし、自分らしさを発見できたにしても、それを自分の「自分らしさ」と呼ぶのなら、それはもう自分ではありません。これまで見えていなかったもの、自分がもっているとは思っていなかったもののほうへ移行してゆくわけですから、自分らしさを身につけたときには、もうこれまでの自分ではないということになります。自分を見つけたときにはもう(これまでの)自分ではなくなる......。
 いったい何のために自分を探していたのでしょう。 わたしには、ここで「自分らしさ」として求められているものが、じつは、自分がそうありたい、あるいはそうなりたいと思っているもののように思えてなりません。そうだとすると、「自分らしさ」とは(いまの)自分らしくないもののことだ、ということになってしまいます。
 では反対に、自分がそうありたいと思っているのではない「ありのままの自分」というものがどこかにあるのでしょうか。もしそういうものがあるとすれば、「自分らしさ」を問うこのいまの語り口に「自分らしさ」はおのずと出ているはずです。ですが、それが何かわからないからこそそれを問うているわけで、となると結局のところ、「それが何であるかわからないまま、しかしそれを問わずにはいられないもの」、それが「自分(らしさ)」であるということになってしまいます。
 そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。
 「ありのままの自分」「本来の自分」……………。これらの言いまわしが奇妙なのは、自分という存在のリアルさが痛いくらいきわだってくる場面、そう他者の前、他者のあいだにいる自分というものをあえて見ないで、自分について自分だけで問う、そういう閉じこもりの状態に自分を置いているからです。自分はだれかある他者に対して、いつもその(他者の)他者として存在しています。そのことに眼を塞いでいるから、「自分らしさ」への問いは空転するのです。

(自分らしいってどういうことだろう?―鷲田清一)


これなど、哲学者の先生が考え、そして語った言葉であるとしても、その哲学者の先生自身がこの答えに満足しているのだろうかと思えてくる。
私もこういう言葉遊びが好きなのだが、これを真剣に言ったとしたら友達をなくすような気がするのだがどうだろう。

かと思うといかにも学校現場で言われそうな言葉もある。
 こんな風に考えたらどうかな。友だちと一緒にいることは自分以外の誰かと一緒にいるってことだとしても、一緒にいるというのは、なにも目の前にいることとは限らない。手紙を通じて、ビデオを通じて、写真を通じて、一緒にいることだってできる。想い出を通じて、あるいは独り言で呼びかけたり、想像をしたりしてだって、一緒にいることはできる。そもそも、ぼくたちは、誰だって親から生まれてきたのだし、誰かが作ったものを使って、誰かから学んだことに頼って、生きている。誰かのおかげで生きている。その意味で、実はいつも誰かと一緒にいる。お椀を見る。それを作った人々がその後ろにいる。 感じる気ならば、その作者のぬくもりをそこに感じ取ることがきっとできる。家族やペットが亡くなってしまっても、彼らを脳裏に思い浮かべると、一緒にいることができる。本を読んだり、町並みを見たり、動物や虫や植物と触れあったりするとき、そこにも一緒にいる誰か、つまり友だちを感じ取ることができる。いや、昔の自分だって、いまの自分とは相当に違っているのならば、たぶん、自分以外の誰かみたいなもので、昔を思い起こして自分に呼びかけるとき、ぼくは昔の自分と一緒にいるんだ。こう考えたら、「ひとりぼっち」な人なんて本当は存在しない。友だちがいない人なんていない。それどころか、「ひとりぼっち」という捉え方それ自体が、実は誰かに教わったことなんだよ。そんな風に考えてみたらどうかな。

(友だちって、いなくちゃいけないもの?―一ノ瀬正樹)

同じ哲学者の先生が語っているわけではなく、それぞれの問いに別の先生が答えているのだから、答え方のスタンスというものが問いによって随分違っていると思う。
この本に一貫性を求めてはいけない。

関連記事

「子どもの難問」

野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」について。

A1vDwZH1IiL.jpg 22の問いに対して、それぞれ2人の哲学者の先生が、かみくだいて(子供相手を想定して)、答えているという形式になっている。
この本を企画した野矢茂樹氏が、「はじめに」に次のようにその意図を説明している。
 はじめに                 野矢茂樹

 私たちの多くは、たえず前に進むことを強いられている。そして哲学は、私たちを立ち止まらせようとする。
 たとえばひとは野菜を作ったり、書類を書いたり、パワーショベルを操作したり、商品を売ったりする。そのとき、どうすれば渋滞を避けて時間通りに取引先の会社に着けるかは考えても、「なぜひとは働くのか」とは問わない。どうすれば売れ行きを伸ばすことができるかは考えても、「働くとはどういうことなのか」と考えこんだりはしないだろう。そんなことを考えていては、約束の時間に間に合わなくなるし、売れるものも売れなくなってしまう。仕事が順調にいっている人ほど、そういう「余計なこと」は考えないにちがいない。
 だが、哲学の問いは問う者を立ち止まらせる。「働くとは何か」と考えて、ほかにこれといって何も働こうとしない。それは、「前に進め」という圧力に縛られた者の目からは、ちょうど蟻の行列に目を奪われてその場を動けなくなってしまった子どものような姿にも見えるだろう。哲学の問いは、「前に進め」という声から自由な者だけに許されている。
 だから、子どもにしか哲学はできない。しかし、同時に、子どもには哲学はできない。「なぜ働くのだろう」と問い続けているだけでは哲学とは言えない。そもそも、たんに「なぜ働くのだろう」と口にするだけでは、まだ問いにさえ到達していない。それはたぶん、何かため息のようなものにすぎない。
 哲学の問いは、明確な答えをもつような問いではないばかりか、問いの意味さえ、定かではない。問いの答えが何であるかと、そもそも自分が問うている問いの意味は何かを、同時に手探りしていかなければならない。哲学の問いを問うにも、独特の技術と力を必要とする。それは子どもにはまだ難しいにちがいない。
  :
  :
 本書は、あたかも子どもが哲学者に向けて難問を発しているかのような体裁をとっている。しかし、その問いを発したのはありていに言えばすべて私——恥じらいと自負をこめて言わせていただければ、一人の哲学者である私——であり、しかも私はけっして子どもになりかわって子どもらしい問いかけを考えてみたというわけではない。では、どうして「子どもの難問」なのか。
 実を言えば、私自身、研究者の端くれとして、哲学の研究において「前に進め」という圧力にさらされ、なにがしかの成果を生み出さねばならないという規範の中にいる(率直に言えば、そうしてたいへん肩身の狭い、居心地の悪い思いをしている)。だからこそ私は、子どもとして、その圧力から解放され、もっとも無防備で粗野な姿で、哲学の問いを立ち上がらせたかったのである。

    はじめに
 ぼくはいつ大人になるの?熊野純彦
野矢 茂樹
 死んだらどうなるの?清水哲郎
雨宮民雄
 勉強しなくちゃいけないの?土屋賢二
斎藤慶典
 頭がいいとか悪いとかってどういうこと?大庭健
中島義道
 人間は動物の中で特別なの?一ノ瀬正樹
伊勢田哲治
 好きになるってどんなこと?田島正樹
山内志朗
 過去はどこに行っちゃったの?野家啓一
永井均
 なぜ生きてるんだろう?神崎繁
入不二基義
 どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?戸田山和久
古荘真敬
 考えるってどうすればいいの?柏端達也
野矢 茂樹
 科学でなんでもわかっちゃうの?伊勢田哲治
柴田正良
 悪いことってなに?大庭健
田島正樹
 自分らしいってどういうことだろう?鷲田清一
熊野純彦
 きれいなものはどうしてきれいなの?神崎繁
鈴木泉
 友だちって、いなくちゃいけないもの?清水哲郎
一ノ瀬正樹
 人にやさしくするって、どうすること?斎藤慶典
渡辺邦夫
 芸術ってなんのためにあるの?山内志朗
古荘真敬
 心ってどこにあるの?柴田正良
柏端達也
 えらい人とえらくない人がいるの?鷲田清一
野家啓一
 神様っているのかなあ?田島正樹
永井均
 哲学者って、何をする人なの?戸田山和久
入不二基義
 幸せって、なんだろう?土屋賢二
雨宮民雄
    後記
タイトルを見て、哲学者は素朴な質問にどう答えるのだろうと思って読んでみたのだけど、やっぱり腑に落ちないというのが読後感である。
なるほど、そういう見方があるのか、とか、うまいこと言うなぁ、というところはあるのだけれど、素朴に言うと、なんだかはぐらかされているような、知りたいことに答えてもらってないという気持ちになる。

それは私が哲学というものの語法を知らないからだろう。

なので、本書にあった、ちょっとおもしろい見方とか表現をピックアップする。

子どもは時に「自分勝手」ですし、ときとしてひどく「残酷」です。それは無理もないところで、子どもは「自分以外のもの」をほとんど知らないし、知る必要もないからです。

(ぼくはいつ大人になるの?―熊野純彦)

う~ん、ちょっと言葉が足りない気はする。子供はなんにでも興味を示す。この本もそうした子供の質問に答えようというわけだから、この言葉は補う必要があるだろう。「自分以外のもの」とは、自分中心で見るもの以外のものということなのだろう。
上に続けてこうある。
じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置きかえのできないひと、そうしたなにかを知ることが、おそらくは「大人」になる入口になるのでしょう。
これならそれなりに納得感もある。

こんな文章もある。
勉強しなくても大丈夫です。勉強をやめてもすぐ死ぬようなことはありません。

(勉強しなくちゃいけないの?―土屋賢二)

そしてこんなことも書いてある。
物理学の勉強をしていないと、「いつまでたっても決められないなんて、お前はハイゼンベルクか!」といったツッコミを聞いても笑えません。
物理に詳しい人はこんなツッコミはしないと思う、不確定性原理の文脈とは違うから。

鋭い洞察のように思ったのは、
一見したところ乱雑なまとまりを前にして、こうした秩序・規則性が成り立っていることに、自分から気づく、という点です。ですから、人から教わったこと・本に書いてあったことをたくさん暗記できるからといって、必ずしも頭がいいといういことにはなりません。

(頭がいいとか悪いとかってどういうこと?―大庭健)

しかし一方で、現代のAIは、膨大なデータを投入することで秩序・規則性を見出す。基本的にはクラスタ分析の応用のようにも思うけれど、知識の量はそうした気づきに重要な関係があることを示しているのではないだろうか。子供の日常で経験できることは限らていると思うから、たくさん本を読むことで疑似体験を得ることも、暗記というわけではなく、大事なことではないだろうか。だからまったく一致はしないものの、試験の点が良い子供と頭の良い子供には重なるところ、正の相関関係があるのではないかとも思う。

他のテーマでもおもしろいところ、それでは答えになってないと思うもの、いろいろあるが、長くなるので稿をあらためる。

関連記事

とうとう宅配を利用した

IMG20230219172535-crop.jpg 昨日の夕食は、宅配を利用した。

独居老人にはありがたいサービスではあるが、割高になるだろうと、テイクアウトは利用しても、宅配は今まで利用してこなかった。ネットでチャッチャッと注文できてしまう、あまりの手軽さに、そこまで手抜きをして良いのか、堕落ではないかという気持ちが邪魔をしたところがある。

まだ子供たちも同居していた時には、ピザの宅配とかは利用したことがある。


今回宅配を利用したのは、ごはんのストックが心もとなくて、平日にストックが切れる計算だったので、弁当をたのもうというのが動機。それで近所にあるステーキガストの宅配をみてみたら、1500円以上の注文で宅配料は無料になるというので、ちょっと贅沢してみようかと思った。

uberとか、KFCやさととかでも宅配はしているが、宅配料が上乗せされる。それならテイクアウトのほうが良いと考えてしまう、貧乏人だから。


IMG20230219172920-crop.jpg 注文したのは、カットステーキ240gの弁当、1700円(税込)、これに初回利用者割引260円があるので、1440円である。

普通ステーキを240gも食べることはないので、半分残すつもりだったのだが、明日の夕食にするのもなんだか面倒になって、結局全部食べた。ただしご飯は半分残した。

肉は、固いのやら柔らかいのやら混ざっていて、ステーキを焼いてカットしたのではなく、端肉を集めて焼いたのではないのかなとも思わせる。肉厚は5mmぐらい。
肉の味というのはあまり感じられず、甘いソースで食べさせるようにしたのかな。やはりスーパーで肉を買って自分で焼く方がステーキらしいと思う。
ステーキとしては期待すると裏切られるが、焼肉だと思えば許せるか。

とはいうものの、後片付けがラクだから、たまにはこういうものを利用しても良いとは思う。
だが、やっぱり時間に余裕があるなら、テイクアウトのほうが良いかもしれない。

関連記事

梅一輪 2023

IMG20230218103015-crop.jpg 昨日、庭の梅(南高梅)が、花を一輪付けた。
写真でわかるとおり、蕾も順調に膨らんでいるから、来週あたりには3~5分咲きぐらいになるかもしれない。

昨年は2月13日に開花しているから、今年は少し遅いようだ。

問題は、この梅の下に置いてある枝垂れ梅。こちらが全く花を付けそうな雰囲気がない。蕾すら見当たらない。
この枝垂れ梅は、白梅に実を付けさせるために置いてあるのだが、これではその役割は果たせそうにない。

隣の紅梅は蕾も付けて花が期待できるのだが、いつも開花時期が白梅より遅れて、こちらも受粉の役割は十分には果たせていない。

こうなるとどこか近所で梅が咲くところがないだろうか、虫が花粉を運んできてくれるのを期待しよう。

関連記事

かんたん八宝菜―中華名菜

前に「中華名菜」という半調理食品で酢豚を作った話を書いた。そのとき、このシリーズで八宝菜、青椒肉絲も作ったと書いたのだけれど、その後、作る機会(意欲?)がなかった。

1752_ext_11_0.jpg 先日、このシリーズで八宝菜を作ったので、未だ記事にしてなかったので書いておくことにした。

八宝菜は白菜だけ足せばできる。
ではあるけれど、主菜として食べるので、肉気が足りないだろうと考えて、豚ロース薄切りを追加することにした。

まず白菜を適当な大きさに切っておく。
追加する豚ロースをフライパンで炒めて、火が通ったところで白菜を投入。

作り方の説明では、葉の部分はあとから入れるとあったが、残っていた白菜は芯の部分が大半なので全部まとめて入れた。

そして商品の中の具のパックをその上へぶちまける。
加熱すること3分。そして商品の中のあんと水50mlをかけて、さらに加熱1分。
これで出来上がりなのだが、後で思ったのだが、椎茸が残っていたからこれも入れたら良かったなぁ。

IMG20230211172553-crop.jpg 家内が作る八宝菜とくらべて、あんの粘りが強い。本当は私はそういうさっぱりした感じのほうが好きだけれど、贅沢は言えない。

水を多めにしたら良いのかも。

これで一品できあがり。それなりにおいしくいただいた。

だが、面倒なのは後片付け。
フライパンも食器も、粘っこいあんが付いているから、ペーパータオルである程度拭き取ってから洗うことになる。
そして、この商品、二人前である。
これを作ったら、翌日も八宝菜である。

酢豚のときにも書いた通り、独居老人にはありがたい商品なのだが、スーパーへ行ってもこの頃は置いてないことが多い。
先日、めずらしく置いてあるなぁと思って八宝菜を買ったが、青椒肉絲は置いてなかった。

私はこのシリーズでは青椒肉絲が良くできてると思っている。


ちゃんとした家庭ではこういうものは使わないのだろうし、独居老人でわざわざこれを使って料理しようという人も少ないのかもしれない。良い商品だと思うけれど、顧客層が限られるのかもしれない。

関連記事

電子メトロノーム&チューナー

014010000011.jpg 電子メトロノーム&チューナーを購入。

スマホやタブレットでどちらの機能もあるから、別に買う必要などなかったのだが、以前、Sofmapでプリンターを買った(見た限り多くの通販サイトのなかで一番安かった)ときにポイントが2,145付いた
Sofmapの通販なんてこのときが初めてで、あまり利用することはない。そのポイントが近々失効するので、Sofmapで何か買う物はないだろうかといろいろ考えていたが、これといったものが思い当たらない。
ポイントは全部使いたいが、かといってあまりそれをオーバーする価格のものは買いたくない。となると決定的なものがない。
一つ買っておきたいと前から思っているものに、半田こてとかがあるのだが、値段が合わない。かといってPCアクセサリーの類もだいたい間に合っている。

それでどうせ捨てるポイントなら、スマホ代替でなくて、しっかりしたメトロノーム&チューナーに思い当たったわけだ。
購入したのは、セイコー製の「メトロノーム&チューナー、ストップウォッチ STH100」という機種。
これが不思議なことに、他の通販サイトでももちろん販売されているのだけれど、値付けが随分ばらばら。中心価格帯は4,000円ぐらいなのだが、Sofmapでは2,869円。ただし、送料550円が別途必要で、あと431円買えば送料無料となるので、充電式バッテリーも併せて購入した。

届いた商品だけれど、思っていたとおりのもので、特にどうということはない。ただスマホ(タブレット)のメトロノームは、CPUのディスパッチかメモリのロールイン/アウトかで、極くまれだが、ひっかかることがある。安定動作という点では、やはり専用機器に軍配が上がることになる。

IMG20230210171117-crop.jpg
譜面台に付けたところ
他に良いところは、譜面台の下部にセットできるようになっていること。ただしクリップとかバネ仕掛けではなくて、ただ機器背面の足に譜面台を挟めるぐらいのスリットがあるだけで不安定だが。

悪い点をあげれば、まず操作性。
スマホアプリのメトロノームだと画面タッチで思うようにスピードを変えることができるが、専用機器はテンポアップ/ダウンをボタン操作することになって面倒。
次に音量。ボリュームを最大にしても、メトロノームの音小さい。スマホの貧弱な音よりもさらに小さい。

これを先日レッスンに持って行ったところ、先生は譜面台に付けられるのは良いと言いつつ、やっぱり音が小さいね、やっぱりスマホのほうが良いかなと。

ただ、こんな機械を持って行ったために、メトロノームにきっちり合わせなさいと、ダメだしをいっぱいされてしまった。

翌日、練習して思った。メトロノームに合わせようとするからかえって合わないのではないか。そうではなく、メトロノームは補助であって、それが刻む拍子を感じながら演奏する(ポップスでなら乗るというところだろう)ことが大事なのではないだろうか。


関連記事

○○消費、全国一位都市

yamagata-002_size5.jpg
「日本一奪還」の横断幕を掲げる職員=山形市(河北新報)
2月6日といささか旧聞に属するが、家計調査の結果が公表されて、その結果に沸く・落ち込む都市の様子が報道されていた。

餃子(宮崎市、宇都宮市、浜松市)、ラーメン(山形市、新潟市)など、その消費量(世帯当たり)を競っている都市が、この調査で日本一になることを街おこしの材料として市民を督励しているようだ。

そういうものと無縁なよそ者としては、別にどうでも良いじゃないかと思うのだけれど、当事者は本気のようで、競い合う各市の市長が、喜び・落胆のコメントを発している。

gaishoku-ramen-2022.png
外食_中華そばの支出額(クリックで出典サイト:秋田魁新報社へ)
家計調査は抽出調査で、国勢調査とかと比べて、そんなにメジャーな調査ではないと思う。
実は、我が家はこの調査対象世帯に選ばれたことがあって、県か市の役人が我が家にやってきて、是非ともお受けいただきたいとお願いされた。調査に必要な食品秤とボールペンか何かをいただいた。

調査世帯数は全国で8,000程度、品目別の結果が示される県庁所在市及び政令市が5,500世帯程度である。

聴くと、対象世帯に選ばれても拒否する家が多いらしい。そもそも悉皆調査ではないから、何で協力しなければならないのかという反発がある上に、前に書いたが、家計調査は実に面倒な調査なのである。

家計調査の対象となる世帯は、都道府県庁所在都市と政令指定都市のすべて(52市)と、他に市町村を層化して選び出しているとのことだが、餃子やラーメンなど、品目別で結果が公表されているのは、都道府県庁所在都市と政令指定都市に限られているようだ。

したがって、都道府県庁所在都市・政令市以外はいくら頑張ろうとランキングには入ってこない。

例えば今回の調査でのラーメン日本一は山形市だが、同じ東北地方なら福島県喜多方市のほうがネームバリューがあるのではないかと思うし、俗に三大ラーメンというのは、この喜多方と、札幌、博多である。(札幌も福岡も調査対象市だと思うが、日本一にはなってない)

統計に表れない隠れ日本一がある可能性は否定できない。(喜んでいる市には水を差すようだが)

また、都市別に示されているというものの、それは居住市であって、消費地というわけではない。どこの人がラーメンを食べたであって、どこでラーメンを食べたではない。ラーメン好き市民の多い市とは言えても、我が町のラーメンが一番食べられているとはならない。新潟市在住の調査対象者が山形市へ行ってラーメンを食べても、それは新潟市のラーメン消費とカウントされるわけだ。
そういう調査だから、市外から客を集めて餃子やラーメンを食べてもらっても結果には反映しない。市内の調査対象世帯に、ラーメンを食べてください、どこで食べても良いけれど、ということになるわけだ。

誰が調査対象者であるかは、都道府県の調査担当者なら知っているだろうが、市の担当者も知っているんだろうか? まさか対象者に、毎日餃子だかラーメンだかを食べろというわけではないだろうが。


それにしてもどうして餃子とラーメンという、ちょっと中華よりの食べ物でばかりが注目されているんだろう。
ちなみに、外食の部の「日本そば・うどん」では、ダントツで高松市、2位の静岡市の1.5倍以上である。さすがにどこもうどんで高松に張り合う意欲はないようだ。

ところで、ラーメンは外食の部だが、餃子は調理済食品の部のようだ。調査品目に鰻の蒲焼があるが、一番食べるのは京都市、ついで大津市である。うなぎの養殖で名高い浜松は第3位である(2019~2021の平均)。

特定の品目にこだわらず外食全体で見ると(2019~2021平均)、第1位は東京都区部で、続いて名古屋市、さいたま市となっているのだが、大都市及び大都市への通勤圏の都市が並ぶことは理解できるのだが、4位が岐阜というのでちょっと? そして驚いたことに、大阪市がなんと23位。大阪のビジネスマンは弁当派が多いのだろうかと思ったが、弁当の購入でも大阪市は36位である。となると家から弁当を持って行っているか、ランチにお金はかけないということか。統計には夕食も入っているから、食い倒れの街というものの、大阪人は案外外食に金をかけないということかもしれない。

食い倒れるのは他所から来た人で、大阪人は食い倒れたりしないという話もあるらしい。


なかなか解釈が難しい統計だと思うが、それだからこそ、無責任な順位競争も実害がなく楽しめるのかもしれない。

関連記事

「ダントツ技術」

瀧井宏臣 "ダントツ技術―日本を支える「世界シェア8割」"について。

4396113404.jpg 図書館の新着棚にあったので借り出したが、10年前の本だ。

図書館はどういう方針で新着棚に置く本を決めてるんだろう。再版・増刷とかで初刷より時間が経っても新着になることもあるだろうけれど、この本は奥付を見ると2013年10月10日初版第1刷とある。

この分野(先端産業)では、10年前は一昔というが、とりあげられているのはリアルな世界だから、デジタル技術ほどではないようで、本書にあるトップ企業は今でもトップのようだ。

デジタル、とりわけAIの進歩はすさまじい。本ブログでAIをとりあげたのは「2045年問題」の書評記事で、9年ぐらい前のことだが、コンピュータが支配するかどうかはともかくとして、今やAIは日常生活に根付いているといって良い。
そしてこの分野での企業間競争は苛烈なようだ。特にAI用の半導体が大きな戦場となっている。今のAIの応用ではデータ量・計算量が決定的に重要で高速性が勝敗を分けるような場面が多いらしい。


「あとがき」に執筆の契機となったのは、スカイツリーに使われた世界最高の技術について著者が紹介記事を書き、そこから日本企業のもつ最高の技術を紹介する本の執筆を依頼されたからだという。

はじめに
 
第一章 日本の世界一企業に学べ
世界一高いタワー/ 世界最速のスパコン/ 成功への険しい道のり/ 世界一がいっぱい/ 世界一企業を調査する/ ジャパンアズナンバーワンの時代/ 実体経済をどう立て直すか
 
第二章 とにかくやってみろ
 ~日本の世界一企業その一・浜松ホトニクス~
巨大なホトマルを作れ/ ノーベル賞を取る!/ ホトマルでシェア世界一/ 未知未踏の追求/ 新たな産業を創成する/ 世界一を目指せ
 
第三章 他人のやれないことをやる
 ~日本の世界一企業その二・クラレ~
大原美術館という奇跡/ クラレ創業のスピリット/ 世界で使われるポバール/ ミラバケッソ~クラレという企業/ 独創的なクラレの製品群/ スペシャリティ化学企業へ
 
第四章 アイデアは人を幸せにする
 ~日本の世界一企業その三・ハードロック工業~
ナニワの発明王/ 世界から引っ張りだこ/ 絶対に緩まないナットの秘密/ 発明王一代記~青春篇~/ 発明王一代記~ハードロック篇~/ 中小企業はこうして生き残れ
 
第五章 おもしろおかしく
 ~日本の世界一企業その四・堀場製作所~
これは絶対に売れます~世界一製品開発秘話/ トータルソリューション/ グローバル企業への道/ おもしろおかしく~ユニークな社是/ オープン&フェア~ユニークな企業方針/ 京都の企業は、なぜ独創的か
 
第六章 起て! 臥竜企業
国際経済の真相/ アベノミクスの行方/ 臥竜企業を国際化せよ
 
あとがき
本書はそのスカイツリーの技術の紹介からはじまる。
 タワーと言われても私たちはピンと来ませんが、要するに巨大な鉄の塊です。それも、鉄の板を丸めて円柱状にした鋼管を溶接して網の目のように接合したものです。一番太い鋼管で直径二・三メートル、長さ四メートル、厚さ一〇センチで、重さは二五トンに上りますが、足元が三角形で上部が円形というタワーの形状から、鋼管はひとつも同じものがありません。
 これらを一五社一九の工場で、ある程度まで溶接し、現場に搬入してさらに溶接して組み上げるという段取りでしたが、一回の溶接ミスが工期の遅れにつながるというギリギリの状況だったと言います。つまり、工期通りに終わったということは作業がほぼ完璧だったことを意味し、日本の溶接技術の高さを内外に示したのです。
 また、タワーに使われた鉄骨は標準的な製品の二倍の強度を持つ特注品で、国内の製鉄会社四社が手分けして製造しました。四社は日頃、ライバルとしてしのぎを削っており、それぞれ製法も材料も製鉄文化も異なっています。大林組の田村達一さんは「ふだんは競合している四社が、東京スカイツリーのために話し合い、強度や性質をそろえた鉄骨を開発してくれた」と話しています。東京スカイツリー建設はWBCに臨む侍ジャパンと同じように、いわばオールジャパンのプロジェクトだったのです。
 三年半という短い工期で前人未到のタワーを建てるという難題をクリアしたのは、鉄を加工する現場の高い技術力と鋼材会社のエゴを超えた連帯でした。日頃から磨いてきた技を活かし、力を合わせて挑むという、運動会の校長挨拶で出てきそうな「キホンのキ」が世界一を成し遂げたポイントだったと言えるかもしれません。
高さでは、ドバイのブルジュ・ハリファ(828m)、クアラルンプールのPNB118(679m)のほうが高く、しかも人が中で過ごせる建物だから、それらのほうがすごいものだと思っていたが、建て方が全く違うわけで、スカイツリーがいかに優れた建造物であるかと認識をあらためた。やはり世界一の構造物だろう。

第一章ではスーパーコンピュータの話もとりあげられている。
民主党(当時)の蓮舫議員の浅知恵が失笑をかった「二位じゃだめなのか」で有名になったプロジェクトだが、一位を目指すことについて、大変わかりやすい説明が掲載されていたので、これも転載しよう。
……テレビニュースで流された「二位じゃダメなんですか」という民主党の蓮舫参議院議員の言葉が流行語となり、いまだに鮮烈な記憶として残っています。この判定に対し、理化学研究所理事長でノーベル化学賞を受賞した野依良治さんらが緊急記者会見し、「世界一を目指さないと二位にもなれない」と表明するなど、科学技術関連団体が強く抗議した結果、政府予算は減額されたものの復活しています。
 なぜ世界一でないとダメなのか。伊東本部長代理に改めて尋ねたところ、こういう答えが返ってきました。
「世界一位のスパコンと一〇位のスパコンでは計算速度が一〇倍以上違います。ということは、たとえばシミュレーションで新薬を開発する場合、世界一位のスパコンなら一年でできる計算が、世界一〇位のスパコンでは一〇年以上かかるということになり、時間の利得が非常に大きいことになります。この差は一人の研究者にとって、人生の限られた時間のなかで、どのくらい開発に従事できるか、開発成果を上げることができるかにも関わってきます。そのため、世界一のスパコンがある施設には世界中からトップの研究者が集まり、結果として新たな技術のプレイクスルーが起こり、それが経済にも波及していくことになります。また、二位になるのも大変で、二位を目指しても二位にはなれない。やはり世界一、つまり極限の目標を目指さないとダメなのです」(富士通 次世代テクニカルコンピューティング開発本部伊東本部長代理)
学生時代、同級生が「遅いコンピューターはたちがわるい」と言っていた。当時の私は、数値計算のスキームは勉強していて、数学的に有効性が証明されている計算方法を数値例で確かめることはしたものの、計算結果そのものには関心がなかったので、あまりピンとこなかった。プログラムが動けば良いという程度の意識だった。

1000までの素数を求めるのに数分かかるコンピュータでも速いと思ったぐらい。

が、現在のパソコンやスマホを見ていると、コンテンツがどんどんリッチになっているため、速さは絶対的に重要だと考えるようになっている。反応の悪いスマホはたちが悪い。次にスマホを買い替えるときは何をおいてもCPU性能がトップクラスのものを選びたいと思う。

第二章~第五章で、世界シェアトップを誇る企業4社が紹介される。
いずれも有名企業で、その製品も良く知られているので、ここでは繰り返さない。余談にあたるところだけちょっと抜き出しておこう。

まずはどうでも良いことだが、クラレの〈クラリーノ〉という名前のこと。
 人工皮革〈クラリーノ〉もクラレの世界一製品のひとつで、世界シェアは二五%となっています。私たち五十歳代の世代は、〈クラリーノ〉をよく知っています。子どもの頃、本物のアヒルを主人公にしたテレビのコマーシャルを見ていたからです。〈クラリーノ〉というのは社名をもじった名前だと思っていましたが、そうではなくイタリアの古い型のトランペットの名前だということを今回初めて知りました。
〈クラリーノ〉は、天然皮革の構造や性能を化学の力で再現した人工皮革で、合成皮革とは異なるカテゴリーの製品です。 合成皮革というのは、織物や生地の上に塩化ビニルなどをコーティングしたものですが、人工皮革はこれとまったく違って天然皮革にかなり似通った構造を持ちます。その結果、風合や強度が合成皮革とは違うのです。〈クラリーノ〉は軽くて丈夫なうえに水に強いため、靴やカバン、ランドセル、スポーツ用品、 ジャケットなどに使われています。なかでも、ランドセルに関しては、小学校に通う児童の七割が〈クラリーノ〉を使ったランドセルを使っていると見られています。のべにすると二〇〇〇万人を超える児童が〈クラリーノ〉にお世話になっているのです。
私もクラリーノは社名をもじったネーミングだと思っていた。それに人工皮革なのに天然皮革の靴と変わらない価格というか、普通の革靴ならいくらでも安いものがあるのに、クラリーノの靴には廉価品はなかったと思う。(実はクラリーノが欲しかったのだが、高くて断念してきた)

ちなみに楽器のクラリネットも、クラリーノに由来するネーミングらしい。


紹介された4社に共通することだと思うが、代表して堀場製作所の話を。
 堀場製作所では、HORIBAグループで働く人全員を同じファミリーであると考え、「ホリバリアン」と呼んでいます。その根底には、ホリバリアンとしての自分の軸がしっかりしていれば、トラブルを乗り越えて新しい仕事に挑戦することができるはずだという考えがあります。このように、堀場製作所では社員を交換可能な部品ではなく、かけがえのない仲間として尊重するため、本格的なリストラをやったことがありません。リストラは社員のモラルを低下させるだけでなく、目に見えない資産を大切にする企業文化の根幹を破壊するからというのがその理由です。
昔、まだ日本がジャパン・アズ・ナンバーワンと言われた頃、日本企業は社員教育が充実しているが、米国では社員のスキルを上げると、そのスキルでより条件の良い企業へ転職してしまうから、社員教育に力を入れないという話を聞いたことがある。

また日本人はそうした教育でスキルを身につけると、周りの社員にも伝えようとするが、米国人はそんなことをすると自分の相対的価値が下がると考えて、秘密にするとも。

堀場製作所の話はそうした日本企業の性格を如実に表しているわけだ。

また、米国企業は株主利益を第一に考えるため短期に利益をあげようとするが、日本は長期的な視野で経営をすると言われていた。それがいつしか株主利益が最優先でなければならないという風潮になってきている。そしてそれは真面目な開発や製造とかでなく、金融投資で儲ければよいという風潮につながっているようにも思う。
本書で紹介されている企業は、そうした姿勢とは一線を画していると言えよう。
政府も実物経済の重要性(第三の矢)を言うわりにはその施策は乏しく、マネーゲームでの株価引き上げばかりに金を動かすほうに熱心であったのではないだろうか。

第六章では、京都大学大学院経済研究科岩本武和教授の日本経済分析が興味深い。一部を転載する。
 ところが、一九九九年のITバブル以後、アメリカ経済はバブルとその崩壊を繰り返し、キャピタルゲインが激しく乱高下する展開となりました。それは、アメリカが一国全体として預金や債券などの安全資産よりも、株や不動産などの危険資産を多く保有していたからに他なりません。もっとも、すでに見たように、乱高下はしたものの、アメリカはちゃんと稼ぐものは稼いできたわけです。
 ただし、国の稼ぎ高で、アメリカも実はたいしたことはありません。イギリスやスイスなどヨーロッパの国々のほうがずっとゼニ儲けがうまく、稼いでいます。その一方で、アイスランドやアイルランドのように、金融立国を目指しながら国家破綻に至るまでの金融危機に陥った国があったことも忘れてはなりません。
 実体経済については、どうでしょうか。岩本教授に講義してもらった国際経済の現実は仰天することばかりですが、なかでも驚きだったのが「日本が輸出主導の経済だというのはまったくのウソ」という指摘でした。
 日本は資源がない国なので、外国から資源を輸入して加工し、外国へ輸出して稼ぐ貿易立国である。つまり、日本が輸出で稼いでいる国だという言説をこれまで疑ったことはありませんでした。だから、貿易黒字が減ってきている昨今、輸出主導型の経済から内需主導型の経済へと転換しなければならないとマスコミで語られているのも、もっともなことだと思っていたのです。
 ところが、実際にデータを見ると、日本のGDP(国内総生産)に占める輸出額の比率は二〇〇五年から〇九年の平均で一五・六%にすぎません。これは、OECD(経済協力開発機構)加盟三一カ国のなかで三〇位、ビリから二番目です。ちなみに、GDPというのは、内需と外需から成ります。内需は、家計と企業の投資、それに政府支出の総和です。一方、外需には輸出と海外への直接投資、外国から日本への直接投資などが含まれますが、その外需が先進諸国に比べて著しく低いのが日本なのです。つまり、世界一企業を頂点とした輸出企業は多数あるものの、日本経済全体に占める比率は微々たるものであるわけです。
 これについて、岩本教授は「日本は輸出依存から脱却して内需を拡大する必要があるとよく言われますが、事実はまったく違います。輸出を増やすことのほうが重要です。日本の技術は捨てたものではありません。もっと輸出を増やすとともに、直接投資をして現地生産も増やしていく必要があります」と話しています。
非常に発達した国際分業が、今、ウクライナ戦争などで、その実態が身近に感じられるようになるとともに、その分業体制が、国際安全保障の揺らぎとともに、怪しくなっている。そういう現実はあるものの、だからといって国際分業がなくなることはないだろう。
ただ、経済のブロック化や、輸入しにくくなった物があればそれを代替する技術開発など、いろんな動きは出てきそうだ。
そうした中で、日本が持つ基礎的な技術力というのはその位置づけは高まるだろう。
安い労働力が欲しいだけの海外進出とかマネーゲームではない、本当の富を生産するという本来の企業のありかたが一層重要になるのではないだろうか。というか、そうあってほしいと考えるのは私だけだろうか。

関連記事

カラーで見る「花の生涯」

他の記事を優先させたので遅くなったけれど、カラーで見る「花の生涯」のことを。

正確な番組名は、"カラーでよみがえる!大河ドラマ第1作「花の生涯」"


colored-life-of-flower.png 周知のとおり、NHKの大河ドラマ第一作である。放送開始当時には、未だ「大河」という言い方はなくて、連続大型時代劇という呼び方だった。「大河」はマスコミがそう呼び、NHK側もそれを使いだしたということだ。

私はほとんどの大河ドラマを見て来たけれど、「花の生涯」は家で両親は見ていたものの、私は身を乗り出してみるということはなかった。
その次の「赤穂浪士」も同様だったが、討ち入りのシーンはしっかり見た記憶がある。

さて、カラー化された「花の生涯」だが、ここにもAIが使われていて、他の幕末物の大河ドラマのシーンをAIに見せて学習させたと番組で解説されていた。
今までもいろんな方法でモノクロのカラー化はされているが、この「花の生涯」は変な色ズレとかもあまりなくて、うまく処理されていると思う。

モノクロの明度だけからでは青か赤かの区別もできない場合もあると思うが、そこは考証家の先生が、この時代にこの身分の人がこういう場面では、この色は使わないというようにアドバイスされていたようだ。

もちろん現代のドラマと違い、精細度は低いし、セットなどの凝りようは比べるべくもない。
しかし、この第一作から、風格ある重厚なドラマになっていたと思う。
なにより、39話・9ヵ月30時間近くかけて描かれる人間劇は、映画では難しいものだろう。

colored-hana-no-shogai-chikage1.jpg
「こんなに胸がどきどきしてます」と長野の手をとって胸にあてる
印象的だったのは、淡島千景(村山たか)の色っぽさ。
そうだったんだ、第一回から長野主馬(佐田啓二)を誘って寝るんだ。

その前の台詞では、私は今まで身を売ったことはないといってるんだけど、この色っぽさ、どうみても長野主馬が初めての男とは思えないが。
Wikipediaによると、村山たかは、祇園の芸妓になり男子も生み、育てている。故郷彦根に戻って、井伊直弼と情を交わし、さらに直弼を通じて長野主膳と会って深い仲になるという。ただ、男を翻弄するわけでも、されるわけでもなく、何かしらきりっとした感じの女性だったのだろう、日本史上初めて名をとどめるスパイという。

ドラマでは長野がたかと情を交わしたあと、直弼に紹介するという設定で、逆になっている。


淡島千景は、このドラマ出演時は40歳だと思う。熟女の魅力がこぼれだしている。
史実の村山たかも、きっとこのように魅力的な女性だったのだろう。はまり役というやつだ。

淡島千景の芸名は『淡路島通ふ千鳥の鳴く声に 幾夜寝ざめぬ 須磨の関守』からとられたそうだが、千鳥になりたい男がテレビの前に千羽どころではなく殺到していたに違いない。


この番組に先立って「大河ドラマが生まれた日」というドラマをやっていたが、淡島千景はともさかりえが演じていたが、色香では圧倒的に淡島千景だな。ドラマ中、制作スタッフの父が「淡島千景のサインもらってくれ」と言うシーンがあったが、さもありなん。

ところで、大河ドラマの第一作がなぜ、井伊直弼だったんだろう。決して日本史上メジャーな名前ではないと思う。

その後の幕末物の大河ドラマで、井伊直弼が優れた人物とか立派な人物だと描いていたのってあったかな?

想像するに、この企画が大河ドラマとしてずっと続くと考えられたものではなく、テレビでどれだけの時代劇が作れるのか、多分に実験的な要素があったのだろう。

「大河ドラマが生まれた日」では、なぜ井伊直弼「花の生涯」になったのか、明解な説明はなかった。ただプロデューサーの妻の実家が彦根だとかいう話があった。


完全に残っているビデオは、第1話「青柳の糸」だけだそうだが、続きを見たいものだ。

関連記事

休刊日

本日は月例の休刊日。


ヒトの精子の減少が加速、70年代から6割減、打つ手見えず(National Geographic)


関連記事

「どうぶつのタマタマ学」(その5)

丸山貴史(著),成島悦雄(監修)「進化のたまもの! どうぶつのタマタマ学」の5回目。

71mznegMp2L.jpg 本ブログで同じ本の書評記事を5回も書くのははじめて。

4回書いたのは、稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」がある。

今日は、雑学の章をとりあげる。ここには驚きの話が並んでいる。

まず同じ種であっても、タマタマの大きさには随分違いがあり、それは個体がとる繁殖戦略の違いと密接な関係がある。種間(inter-species)競争だけでなく、種内(intrra-specied)競争でも、多様な繁殖戦略があるわけだ。

例にあがっているのはホエザルとクワガタムシだが、大きな顎をもつクワガタのタマタマは小さく、小さい顎のものは大きい。昆虫の場合、繁殖能力を持つ、すなわち成虫になってからは脱皮はせず、成長もしないと思うが、成虫になって、自分の体が小さいことに気づいて精巣を発達させるのか、それとも体が大きくなりそうにないと判断したら、蛹のうちに栄養を精巣に注ぎこむのか、どっちだろう。

ヒトに当てはめた場合、「色男、金と力はなかりけり」という言葉があるが、イケメンがもてるのは当然として、そうでなくても金持ちであったり、力(この場合は精力か)があってそっちで女を喜ばせる、そういう戦略がとれるということかもしれない。

はじめに
 
第1章 タマタマの基礎知識
1 タマタマとはなにか?
耳慣れないタマタマという言葉を使うわけ/生殖器って下品なの?/交尾を隠す動物もいる?/外性器と内性器/収納できる外性器/哺乳類はみんな包茎
2 タマタマの機能
タマタマは精子をつくる/精子と精液/雄性ホルモンをつくり出す/睾丸と金玉/それは私のおいなりさんだ
 
第2章 陰嚢の謎
1 陰嚢のある哺乳類
哺乳類の分類/陰嚢のない哺乳類もいる/もともとあったか、なかったか
2 陰嚢の役割
鼠径管を通って陰嚢へ/陰嚢ができたのはなぜ?/陰嚢は冷えやすい/血管による熱交換/本当に高温に弱いのか?/陰嚢をめぐるさまざまな説
3 鳥のタマタマ
鳥にもタマタマはある/チンチンを持つ鳥は少ない/卵とチンチン/鳥は陰嚢がなくても平気なの?/恐竜のタマタマ
 
第3章 タマタマを切ろう
1 動物の去勢
どうして切るの?/愛玩動物の去勢/食用動物の去勢/サラブレッドの去勢
2 ヒトの去勢
ヒトだって去勢する/去勢をして出世しよう!/宗教上の理由による去勢/美声を求めたカストラート/日本の去勢事情
 
第4章 食べものとしてのタマタマ
1 海の動物のタマタマ
わりとメジャーなマダラの白子/いろいろな魚の白子/卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣/そのほかの棘皮動物
2 陸の動物のタマタマ
意外とレア? 哺乳類のタマタマ/ブタのタマタマは出まわりやすい?/ウシのタマタマは「山のカキ」/レアな哺乳類のタマタマ/おうちでも食べられる?/わりとレアなニワトリのタマタマ/鳥のタマタマは小さい?
 
第5章 タマタマの雑学
1 タマタマの大きさくらべ
最大のタマタマの持ち主は?/最小のタマタマの持ち主は?/タマタマの大きさと繁殖スタイル/乱婚のものはタマタマが大きい/アンテキヌスの過酷な繁殖行動/タマタマが大きいと偉い?/同じ種でも大きさが変わる
2 いろいろな動物のタマタマ
陰嚢をなくした哺乳類/半水中生活をするアザラシ上科/カバのタマタマは移動する/おしりの穴に収納したビーパー/男勝りなプチハイエナのメス/オスも袋を持つ有袋類/穴を掘る哺乳類/中途半端に陰嚢をなくした哺乳類/タヌキの金玉は畳8枚分?/オスの体全体が陰嚢になる動物/タマタマだけで繁殖するパロロワーム
 
解説
参考文献
著者・監修者プロフィール
変わったところでは、カバのタマタマは数十cmも移動し、それによって競争者の攻撃からタマタマを守っているらしいという。

そして、一番の驚きは、タマタマの話ではない。偽タマタマである。

ブチハイエナの雌には、オスのチンチンそっくりの偽陰茎と、その後ろに偽陰嚢があるという。このメスのオス化は、ブチハイエナの群れは基本的にメスの階層社会で、テストステロンを多量に分泌し、結果的に偽性器をもつメスが上位になるからだとされている。

なおオスはメスよりずっと体格が劣る。ブチハイエナは最強の肉食獣という見方もあるようだが、それはメスのことのようだ。


ところが、このメスのオス化のせいで、メスが出産に失敗し、母子ともども死に至ることがまれではないという。

ブチハイエナにとって出産は極めて危険だということはテレビのネイチャー番組で聞いたことがあるのだが、その理由は(私の聞きまちがいかもしれないが)、ブチハイエナはメスの骨盤が小さいとかなんとか、構造上の問題だと思っていた。

その理由だが、本書によると、その偽陰茎を通って胎児が出てくるため、ここで詰まってしまうのだという。
 ただし、この偽陰茎のせいで、出産がとんでもなくリスキーになりました。 ブチハイエナは偽陰茎を通して赤ちゃんを生みますが、偽陰茎は細長いので、初めての出産は超難産になります。そのため初産では、赤ちゃんの60%、母親の8%以上が命を落とすそうです。ただし、一度出産を経験すると偽陰茎の一部が裂けるので、二度目以降はその裂け目から安全に出産できます。
 出産のリスクが高まれば、子孫を残しにくくなります。にもかかわらず、このような進化が起きたということは、それを上まわるメリットがあったということ。それほど、ブチハイエナのメスにとって、ほかのメスからの攻撃をかわすことは重要なのでしょう。

5回にわたって「どうぶつのタマタマ学」をとりあげてきた。
どちらかというと雑な感じのする本だが、知らない話題が盛りだくさんである。これも、学校教育などでは、生殖器について話題にすることをはばかるからだろう。
大人の科学だったら生殖・タマタマについても、隠さず事実をきちんと伝えるのだろうか。

たとえば、ちょっと不思議に思ったのは、よく見かける体の各部と脳の対応を表す「ペンフィールドのマップ」である。
たしかに、そこには生殖器との対応も、つつましやかに書き込まれている。
penfield-map-of-brain.gif しかし、セックスの話題には誰もが過敏に反応するのだから、もっと生殖に関する脳の領域は大きくても良さそうに思う。

右の図で、右側に描かれている男の股間から、巨大な陰茎が飛び出しても良いのではないか。


そうはならないのは、思うに、このマップの生殖器はせいぜい勃起にかかる制御部位が示されているだけなのではないだろうか。
生殖は全身的な行為で、マップで大きな場所を占める視覚や触覚なども総動員である。つまり、より高次に統合された活動で、特定の部位に結びつけることはできないと理解すべきなのだろう。

ファンクショナルMRIなどで、性行為中の脳の活動を調べた研究とかはないのだろうか。


この本で5回も書評記事を書いたけれど、読んだのは1日、それも通勤の往復と、昼休みに15分程度。それほど量がある本ではなかった。にもかかわらず5本も記事を書いたのは、はじめて聞いた話がいろいろあったからだろう。
動物たちの多様な生殖のありかた、そしてタマタマの話、楽しんで読める本である。

関連記事

「どうぶつのタマタマ学」(その4)

丸山貴史(著),成島悦雄(監修)「進化のたまもの! どうぶつのタマタマ学」の4回目。

71mznegMp2L.jpg 昨日の記事で、次はタマタマを食べるをとりあげようと書いたが、その前に、一つ紹介しておきたい話がある。去勢に関する話題である。
 了翁道覚という江戸時代の僧侶は、数え年で33歳のときに、性欲を断つため、自らチンチンを切り落とす「羅切」を行いました。さらに、禅宗には、僧侶が女性に触れないように、指を砕いて燃やす「指灯」という荒行もありますが、かれはこの指灯も34歳のときに行ったそうです。了翁道覚が行った指灯の方法は、左手の小指を砕いて油布で覆い、その布に火をつけ、右手には線香を持ちながら『般若心経』を唱え続けるという常軌を逸したもの。その結果、かれの左手は焼け落ち、数年のあいだ羅切と指灯の傷に苦しんだそうです。
 ところが、了翁道覚が36歳のとき、夢の中に高僧が現れ、妙薬の製法を伝授されます。そこで、実際に夢で見た通りに薬を調合してみると、その妙薬のおかげで、羅切と指灯の傷は癒やされたそうです。その後、かれはこの薬を「万病錦袋円」と名づけて売り出し、莫大な利益を生み出します。しかしもちろん、これほどストイックな了翁道覚が、私利私欲に走ることはありませんでした。そのお金は、お寺に寄進したり、学校をつくったり、被災者に義援金を送ったり、孤児を養育したりと、慈善救済にあてたそうです。
はじめに
 
第1章 タマタマの基礎知識
1 タマタマとはなにか?
耳慣れないタマタマという言葉を使うわけ/生殖器って下品なの?/交尾を隠す動物もいる?/外性器と内性器/収納できる外性器/哺乳類はみんな包茎
2 タマタマの機能
タマタマは精子をつくる/精子と精液/雄性ホルモンをつくり出す/睾丸と金玉/それは私のおいなりさんだ
 
第2章 陰嚢の謎
1 陰嚢のある哺乳類
哺乳類の分類/陰嚢のない哺乳類もいる/もともとあったか、なかったか
2 陰嚢の役割
鼠径管を通って陰嚢へ/陰嚢ができたのはなぜ?/陰嚢は冷えやすい/血管による熱交換/本当に高温に弱いのか?/陰嚢をめぐるさまざまな説
3 鳥のタマタマ
鳥にもタマタマはある/チンチンを持つ鳥は少ない/卵とチンチン/鳥は陰嚢がなくても平気なの?/恐竜のタマタマ
 
第3章 タマタマを切ろう
1 動物の去勢
どうして切るの?/愛玩動物の去勢/食用動物の去勢/サラブレッドの去勢
2 ヒトの去勢
ヒトだって去勢する/去勢をして出世しよう!/宗教上の理由による去勢/美声を求めたカストラート/日本の去勢事情
 
第4章 食べものとしてのタマタマ
1 海の動物のタマタマ
わりとメジャーなマダラの白子/いろいろな魚の白子/卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣/そのほかの棘皮動物
2 陸の動物のタマタマ
意外とレア? 哺乳類のタマタマ/ブタのタマタマは出まわりやすい?/ウシのタマタマは「山のカキ」/レアな哺乳類のタマタマ/おうちでも食べられる?/わりとレアなニワトリのタマタマ/鳥のタマタマは小さい?
 
第5章 タマタマの雑学
1 タマタマの大きさくらべ
最大のタマタマの持ち主は?/最小のタマタマの持ち主は?/タマタマの大きさと繁殖スタイル/乱婚のものはタマタマが大きい/アンテキヌスの過酷な繁殖行動/タマタマが大きいと偉い?/同じ種でも大きさが変わる
2 いろいろな動物のタマタマ
陰嚢をなくした哺乳類/半水中生活をするアザラシ上科/カバのタマタマは移動する/おしりの穴に収納したビーパー/男勝りなプチハイエナのメス/オスも袋を持つ有袋類/穴を掘る哺乳類/中途半端に陰嚢をなくした哺乳類/タヌキの金玉は畳8枚分?/オスの体全体が陰嚢になる動物/タマタマだけで繁殖するパロロワーム
 
解説
参考文献
著者・監修者プロフィール
何とも凄まじい話で、たしかに大変な修練をされたのだと感心する一方で、「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」という教え(儒教だろうけど)とはどう折り合いを付けるのか、それ以上に、お釈迦様は苦行を否定されたと思うが、そのお釈迦様の教えを守る僧侶がこれで良いのかと思ってしまった。

自分には絶対できない言い訳かもしれないけど。


ところで本書では「やりまくりたい」人がパイプカットみたいな話も載せている。パイプカットも去勢の一種なのだが、およそ普通にいう去勢とは真逆の行為のようだ。

おそろしい話はこのぐらいにして、次は本書で一番の読み物ではないかと思う、「第4章 食べものとしてのタマタマ」から。

今までまったく意識していなかったウニの話。
卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣
 日本では、ムラサキウニやバフンウニが食用とされるウニ。いったいどの部位を食べているのかご存知でしょうか。ウニの表面には硬い殻と棘があり、食べられるのはもっぱらオレンジ色の生殖巣(生殖腺)です。この生殖巣を、卵巣だと思っている人もいるかも知れませんが、ウニには性別があります。そのため、わたしたちがウニを食べるときは、だいたい半分の確率でメスの卵巣かオスの精巣(タマタマ)を食べているわけです。
 棘皮動物に分類されるウニの体は、左右対称ではなく、上面にある肛門と下面にある口を中心に、5本の軸を持つ「五放射相称」という形状です。そのため、内部も5つのブロックに分かれており、ウニの殻を割るとオレンジ色の生殖巣が5つ入っています。
 ウニに性別はありますが、外見からオスとメスを見分けることは難しく、殻を割っても卵巣と精巣の見た目に違いはほとんどありません。ただし産卵期になると、卵巣の色がだんだん濃くなるので、赤に近い鮮やかなオレンジなのが卵巣、黄色に近いくすんだオレンジなのが精巣と、やや見分けやすくなります。ほかにも、卵巣は水分が多いので、形がくずれてべちゃっとしやすく、精巣は水分が少ないので、表面のつぶつぶがはっきりした状態を保ちやすいようです。そのため精巣のほうが輸送しても形がくずれにくく、おいしく食べられる期間も長くなります。
 この水分量の違いは、味にも影響するようです。水分の多い卵巣は、やわらかい食感を楽しめますが、水分の少ない精巣のほうが、身がしっかりしていて、味も濃厚でおいしいとされます。ウニの卸売業者(問屋)が行うセリでは、オスはメスの1.5倍くらいの値段がつくこともめずらしくありません。
この話を知ったら、寿司屋で板前さんに「このウニはオスですか、メスですか?」と聞きたくなるのでは(高級店はオスだけを仕入れるという話もある)。あるいは連れに訊いてみるのも良いかもしれない。蘊蓄の塊ですな。

ふと思った本書と無関係なこと。ウニのオスがメスの1.5倍で売れるとして、オス・メス区別なく売る場合はいくらの値付けにすれば良いんだろう。プロでないとできない選別作業のコストがかかってないわけだから単純にメスの1.25倍とも言えないのではないかと思うのだけれど。


タマタマを食べる話では、そんなに凝った料理とかは紹介されていない。そういうのがあるのかどうかもわからない。刺身や湯通ししたぐらいで食べるものが中心。やはり貴重なものだから、素材を味わおうということかもしれない。

ネットで調べると、睾丸料理世界選手権という催しが行われたことがあるらしい。
ところで、「たんたんたぬき」の歌で、私が子供の頃おぼえた歌詞では、煎餅と間違えて食べるのだが(これに性的意味は感じないが)。

ホーデンというのは話には聞くが、私は食べたことはない。
フグの白子も今まで食べたことはない。かろうじてタラ(マダラだろう)の白子は食べた憶えがある。ただ裏通りの一杯飲み屋みたいなところで、高級品という印象もなく、珍しいから食べたけど、おいしいかなぁ、という感じだった。

ホーデン、牛も豚も、珍しいのは、成熟するまで育成されるオスが少ないかららしい。豚は牛に比べて生育が早いことに加え、いろんな種類を掛け合わせて三元豚、四元豚を作るために、成熟オスもそれなりに飼われていることから、牛ほどは珍しくないらしい。
ちなみに本書によると、ホーデンを喜んで食べるのは女性が多いのだとか。男性は身につまされて食指が動かぬとか。

AVには女性が精液を飲み込むシーンがあるらしいが、そういう女性にすれば、ホーデンなどなんということもないのかもしれぬ。

ホーデンは、他の臓物とは異なり、それに付随する生殖器=隠しておきたいものというイメージがあるからだろう。この本の最初の記事に書いたとおりだ。

関連記事

「どうぶつのタマタマ学」(その3)

丸山貴史(著),成島悦雄(監修)「進化のたまもの! どうぶつのタマタマ学」の3回目。

71mznegMp2L.jpg 今日こそタマタマそのものに迫る話題を紹介しよう。
まずはタマタマの大きさについて。

最大のタマタマの持ち主は?
 世界で一番大きなタマタマの持ち主は、どんな動物でしょう。おそらくみなさんが想像した通り、ヒゲクジラの仲間です。タマタマの大きさは体の大きさにあるていど比例しますから、当然かもしれませんね。
 ただし、最大のタマタマを持つのは、最大の動物としておなじみのシロナガスクジラではありません。セミクジラは平均体重でいえばシロナガスクジラの半分以下ですが、シロナガスクジラよりもはるかに重いタマタマを持っています。セミクジラのタマタマの最大記録は、なんと2つあわせて972㎏。このセミクジラのオスは体重78.5tだったそうですが、それにしても大きすぎます。これはヒトでいうと、体重80㎏の男性のタマタマ1つが、500mlのペットボトル1本というサイズ感です。
なお、シロナガスクジラでは、体長23~26mの個体でタマタマの重さはだいたい30~60kgだったそうである。
この差は、生殖戦略の違いのようだ。セミクジラは大勢のオスがメスを取り囲み輪姦するのだそうで、そうなると精子間競争は苛烈になるだろう。

ところで、上の記述に続けてタマタマの大きさについて、次の計算式が掲載されている。
【哺乳類の体重とタマタマの重さの関係】
   0.035×体重0.72=タマタマの総重量 (単位はg)
ただし、133種を調べて得られた近似式のようだが、かなりばらつきがあって適合度はあまり良くない。本書に掲載されている具体的な数値もあげておく。
はじめに
 
第1章 タマタマの基礎知識
1 タマタマとはなにか?
耳慣れないタマタマという言葉を使うわけ/生殖器って下品なの?/交尾を隠す動物もいる?/外性器と内性器/収納できる外性器/哺乳類はみんな包茎
2 タマタマの機能
タマタマは精子をつくる/精子と精液/雄性ホルモンをつくり出す/睾丸と金玉/それは私のおいなりさんだ
 
第2章 陰嚢の謎
1 陰嚢のある哺乳類
哺乳類の分類/陰嚢のない哺乳類もいる/もともとあったか、なかったか
2 陰嚢の役割
鼠径管を通って陰嚢へ/陰嚢ができたのはなぜ?/陰嚢は冷えやすい/血管による熱交換/本当に高温に弱いのか?/陰嚢をめぐるさまざまな説
3 鳥のタマタマ
鳥にもタマタマはある/チンチンを持つ鳥は少ない/卵とチンチン/鳥は陰嚢がなくても平気なの?/恐竜のタマタマ
 
第3章 タマタマを切ろう
1 動物の去勢
どうして切るの?/愛玩動物の去勢/食用動物の去勢/サラブレッドの去勢
2 ヒトの去勢
ヒトだって去勢する/去勢をして出世しよう!/宗教上の理由による去勢/美声を求めたカストラート/日本の去勢事情
 
第4章 食べものとしてのタマタマ
1 海の動物のタマタマ
わりとメジャーなマダラの白子/いろいろな魚の白子/卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣/そのほかの棘皮動物
2 陸の動物のタマタマ
意外とレア? 哺乳類のタマタマ/ブタのタマタマは出まわりやすい?/ウシのタマタマは「山のカキ」/レアな哺乳類のタマタマ/おうちでも食べられる?/わりとレアなニワトリのタマタマ/鳥のタマタマは小さい?
 
第5章 タマタマの雑学
1 タマタマの大きさくらべ
最大のタマタマの持ち主は?/最小のタマタマの持ち主は?/タマタマの大きさと繁殖スタイル/乱婚のものはタマタマが大きい/アンテキヌスの過酷な繁殖行動/タマタマが大きいと偉い?/同じ種でも大きさが変わる
2 いろいろな動物のタマタマ
陰嚢をなくした哺乳類/半水中生活をするアザラシ上科/カバのタマタマは移動する/おしりの穴に収納したビーパー/男勝りなプチハイエナのメス/オスも袋を持つ有袋類/穴を掘る哺乳類/中途半端に陰嚢をなくした哺乳類/タヌキの金玉は畳8枚分?/オスの体全体が陰嚢になる動物/タマタマだけで繁殖するパロロワーム
 
解説
参考文献
著者・監修者プロフィール

体重80kgの男性の場合、この式にあてはめると約119gとなるが、日本人のタマタマは30gくらい、アフリカ系の男性でも50gくらいなので、ヒトのタマタマはやや小さいといえます。一方、体重78.5tのセミクジラのタマタマは、この式によると約17kgになるので、972kgというのはけた違いの重さです。


というか睾丸の大きさは、その生物種の生殖戦略に依存する。本書にもあるが、睾丸の大きさ(すなわち精子の量)は、交尾後のメス体内で起こる精子間競争の激しさに関連する。ボノボのような乱婚する種においては睾丸が大きく、おおむね群れでメスを独占できるゴリラでは小さい。人類はこの中間的な生殖戦略をとっているらしく、体重に対する睾丸の重さは、ボノボが最大、次いでヒト、そしてゴリラとなる。

近似式を作る目的が正確な推定にあるのなら、生殖戦略の違いをパラメータに入れるべきだろう。


なお、78.5tのセミクジラが972kgのタマタマ(2つ合わせて)を持っていることを、人間に置き換えたら(つまり体重比が同じとしたら)、80kgの男性のタマタマ1個が500mlのペットボトルに相当すると書いている(972/78500×80=0.991)が、竿の下に500mlのペットボトル2本をぶら下げていると書いたほうがおもしろかったのでは。

本書では、もっともタマタマの小さい生物として、おそらくホソハネコバチではないかとしている。最小のオスは体長0.139mm、体重0.002mgと推計されていて、この小ささからタマタマも最小ではないかとしている。
そしてこのハチのオスの哀れさは昨日書いたアンテキヌス以上のものかもしれない。
 最大に比べると、最小のデータは不明なことが多く、世界で一番小さなタマタマを持つ動物はなんなのか、知られていません。でも、地上の動物限定であれば、おそらくホソハネコバチの仲間 (Dicopomorpha echmepterygis) でしょう。かれらはチャタテムシの仲間の卵に産卵する寄生バチですが、知られる限り世界最小の昆虫です。
 このハチのメスは、生まれたときから寄生しているチャタテムシの卵の中で成虫になると、オスを探して飛んでいきます。そして、オスのいる別の卵に侵入し、その中で交尾をすませると、さらに別の卵に産卵するため、飛んでいくのです。一方、オスほ交尾を終えると、生まれた卵から出ることなく死んでしまいます。
 オスは生涯、寄生先の卵から出ることがないので、成虫になっても羽や複眼がなく、メスにしがみついて精子を送りこむことしかできません。そのため、移動に使う筋肉やエネルギーが不要になり、メスよりもさらに小さくなったようです。オスの最小記録は体長0.139㎜ですが、これはヒトの卵子の直径と同じくらい。体重は0.002mg以下と推測されていますから、そのタマタマが世界最小クラスなのは間違いないでしょう。

本書の中でとくに惹かれたのは、実は「第4章 食べものとしてのタマタマ」なのだけれど、これについて書くとますます長くなるので、次の稿で。

関連記事

「どうぶつのタマタマ学」(その2)

丸山貴史(著),成島悦雄(監修)「進化のたまもの! どうぶつのタマタマ学」の2回目。

71mznegMp2L.jpg 昨日は肝心のタマタマの話は全く紹介できなかったので、仕切り直して2回目。

まずタマタマは性器だが、性器にには内性器と外性器という区分がある。人間のタマタマはぶらぶらしているけれど、袋に包まれているので、外性器ではなく内性器だという。
そこでタマタマ以外にさまざまな婉曲表現が存在する。「袋」「玉袋」などはその代表だろうが、本書では他の表現も紹介している。
 また、「袋」の転じた「ふぐり」も、陰嚢の別名の1つです。現代において、ふぐりは死語に近いと思いますが、生きものの世界ではまだ息をしています。たとえば、イヌノフグリ。これはシソ目の一年草ですが、果実がイヌの陰嚢のような形をしていることからの命名です。在来種のイヌノフグリは、外来種であるオオイヌノフグリに生息地を奪われ、あまり見かけなくなってしまいました。でも、果実の「ふぐり度」でいえば、イヌノフグリの圧勝です。
 意外かもしれませんが、「まつぼっくり」の由来も 「マツふぐり」です。 まつぼっくりを見て、即座にタマタマを連想する方は、性の達人クラスではないかと思います。でも、図1-122のような姿で落ちていたなら、たしかにふぐりのように見えなくもありません。
 :
 ちなみに、わたしは以前、『ねこ自身2匹め』(光文社)という雑誌(ムック)で、ネコの陰嚢の袋とじ企画をやらせていただいたことがあります。そのときの企画名は、「あなたのねこの鈴カステラを見せてください!」というもの。ここでいう「鈴カステラ」とは、もちろん陰嚢のことです。ただし、去勢されると中身がなくなるので、しぼんでしまいます。
はじめに
 
第1章 タマタマの基礎知識
1 タマタマとはなにか?
耳慣れないタマタマという言葉を使うわけ/生殖器って下品なの?/交尾を隠す動物もいる?/外性器と内性器/収納できる外性器/哺乳類はみんな包茎
2 タマタマの機能
タマタマは精子をつくる/精子と精液/雄性ホルモンをつくり出す/睾丸と金玉/それは私のおいなりさんだ
 
第2章 陰嚢の謎
1 陰嚢のある哺乳類
哺乳類の分類/陰嚢のない哺乳類もいる/もともとあったか、なかったか
2 陰嚢の役割
鼠径管を通って陰嚢へ/陰嚢ができたのはなぜ?/陰嚢は冷えやすい/血管による熱交換/本当に高温に弱いのか?/陰嚢をめぐるさまざまな説
3 鳥のタマタマ
鳥にもタマタマはある/チンチンを持つ鳥は少ない/卵とチンチン/鳥は陰嚢がなくても平気なの?/恐竜のタマタマ
 
第3章 タマタマを切ろう
1 動物の去勢
どうして切るの?/愛玩動物の去勢/食用動物の去勢/サラブレッドの去勢
2 ヒトの去勢
ヒトだって去勢する/去勢をして出世しよう!/宗教上の理由による去勢/美声を求めたカストラート/日本の去勢事情
 
第4章 食べものとしてのタマタマ
1 海の動物のタマタマ
わりとメジャーなマダラの白子/いろいろな魚の白子/卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣/そのほかの棘皮動物
2 陸の動物のタマタマ
意外とレア? 哺乳類のタマタマ/ブタのタマタマは出まわりやすい?/ウシのタマタマは「山のカキ」/レアな哺乳類のタマタマ/おうちでも食べられる?/わりとレアなニワトリのタマタマ/鳥のタマタマは小さい?
 
第5章 タマタマの雑学
1 タマタマの大きさくらべ
最大のタマタマの持ち主は?/最小のタマタマの持ち主は?/タマタマの大きさと繁殖スタイル/乱婚のものはタマタマが大きい/アンテキヌスの過酷な繁殖行動/タマタマが大きいと偉い?/同じ種でも大きさが変わる
2 いろいろな動物のタマタマ
陰嚢をなくした哺乳類/半水中生活をするアザラシ上科/カバのタマタマは移動する/おしりの穴に収納したビーパー/男勝りなプチハイエナのメス/オスも袋を持つ有袋類/穴を掘る哺乳類/中途半端に陰嚢をなくした哺乳類/タヌキの金玉は畳8枚分?/オスの体全体が陰嚢になる動物/タマタマだけで繁殖するパロロワーム
 
解説
参考文献
著者・監修者プロフィール
まつぼっくりの語源が、松のフグリとは知らなかった。無邪気に「まつぼっくりがあったとさ」と子供たちが歌っているが、語源を知ったら子供たちはきっと大騒ぎ(大喜び)するだろう。(女の先生は顔を赤らめるだろう)

次の話は多くの人が知っているに違いない。
 でも、ほとんどのオスが去勢されてしまっているというのに、どうやって子孫を残しているのでしょう。じつは、ごく少数のオスを去勢せずに「種牛」や「種豚」として育て、「種付け」しているのです。
 ただし、実際に交尾をさせることはまれで、ほとんどが人工授精で妊娠させています。これは、体が大きく肉質のよいオスの遺伝子を、多数のメスに分配するため。いちいち交尾をさせていては、移動などにコストがかかるだけでなく、オスの体がもちません。とくに、ブランド牛においては、100%が人工授精で、少しでも肉質がよくなるよう血統の管理が行われています。たとえば、オスの血統を大切にする兵庫県の但馬牛の場合、わずか6~7頭のオスが、1万5000頭ものメスに種付けしているそうです。
但馬牛の種牛が6~7頭というのは驚きだが、彼らは別にメスと交尾しているわけではない。
そしてその逆パターンが競走馬の世界だという。こちらは競馬というものをあまり知らない私には意外だった。
……競馬業界では、世界的に人工授精が認められていないのです。
 ウシやブタのような食用動物は人工授精させるのが一般的ですが、競馬業界では人工授精が禁止されています。これは、特定の「種牡馬 繁殖用のオスのウマ)」の子どもばかりになることを防ぐためです。ウマの精液量は多く、1回の射精で30mlも出します(ヒトは2~6ml)。これを冷凍保存しておけば、種牡馬に負担をかけず、いくらでも牝馬に種付けすることができるわけです。そのため、もし人工授精を認めてしまえば、ごく少数の強いウマばかりに種付けが集中し、同期はすべて異母兄弟という事態にもなりかねません。すると、血統の多様性が失われ、競馬がおもしろくなくなるのです。
だから当て馬というのが必要なわけだ。
種牡馬がどれだけの子を成すかといえば、相当回数の交尾をしても必ずしも妊娠出産には至らないらしいから、但馬牛のようにはいかない。

ところが自然界にはもっと大変な例があるそうだ。
アンテキヌスの過酷な繁殖行動
 アンテキヌスという小型の有袋類は、生まれた翌年に交尾をして死ぬという、昆虫みたいな生き方をしています。でも、1歳の誕生日を迎えられずに死ぬのはオスだけ。しかも、その死因となるのは、交尾のしすぎです。
 アンテキヌスは冬になると、2週間ほどの繁殖シーズンを迎えます。 オスはこの期間、昼も夜も眠らずに活動し、メスを探しては交尾し続けるそうです。繁殖スタイルは、オスもメスも複数の相手と交尾をする乱婚。でも、メスがなかなか見つからないときには、オスは1回の交尾に2時間もかけて、メスがほかのオスと交尾しないようガードすることもあります。
 ひとたび交尾が終わっても、オスは不眠不休でメスを探しまわり、交尾のたびに大量の精子を放出しますから、体力の消耗は半端ではありません。そのため、ストレスは限界に達しますが、「副腎皮質」から「コルチゾール」というホルモンを大量に分泌することで、ストレスを軽減できます。さらに、コルチゾールには脂肪や筋肉を分解してエネルギーに変える働きもあり、オスたちはまさに身を削りながら交尾を続けるのです。その結果、繁殖シーズンが終わるころには、ほぼすべてのオスが力尽きて死んでしまいます。
 一方、メスには、おなかの袋で子育てをするという大役がありますから、交尾が原因で死ぬようなことはありません。メスはだいたい2~3年は生きるので、翌年の繁殖に参加することもできます。
交尾のしすぎで死ぬとは……。
人間なら「死ぬー、死ぬー」と言うのはメス(ただし死んだりはしない)なのに。

性行為でオルガスムに達してメスがしばらく動かなくなることがあるのは、性交後すぐにメスが直立二足歩行すると、せっかくの精液が子宮内にとどまりにくい(四本足ならその心配はない)からだと、モリス「裸のサル」に説明があったように思う。


おやおや、今回もタマタマの婉曲表現のこととか、性行動の話ばかりで、肝心のタマタマそのものの話が出てこない。
焦らすようだが、それについては次稿で。

関連記事

「どうぶつのタマタマ学」

丸山貴史(著),成島悦雄(監修)「進化のたまもの! どうぶつのタマタマ学」について。

71mznegMp2L.jpg 例によって通勤電車で読んだのだけれど、大きな見出しで「精液」とか「陰嚢」とかいう文字が現れるので、前や横に女性がいると、あわてて読み進むのだが、ページをめくってもやっぱりそういう文字が現れる。
生殖器って下品なの?
 では、なぜ生殖器の名前を出すことが下品だと思われるのでしょうか。それは、ヒトの社会において、交尾は隠す傾向にあるからです。そのため、交尾に用いられる生殖器についても、露骨に言及するのは無作法だと考える人が多いのでしょう。こうした感覚は、イギリスのヴィクトリア朝時代でとくに強く、同時代に活躍したチャールズ・ダーウィンは、フジツボの生殖器について記述するのにさえ、かなり窮屈な思いをしたようです。
 ちなみに、いまでも日本では、公共の場で生殖器を露出していると、「公然わいせつ」という罪に問われる可能性があります。有罪になると、6か月以下の懲役もしくは30万円以下の罰金という、そこそこ重い刑に処されますから、生殖器というのは国家的にも隠すべきものなのです。

(第1章冒頭から)

はじめに
 
第1章 タマタマの基礎知識
1 タマタマとはなにか?
耳慣れないタマタマという言葉を使うわけ/生殖器って下品なの?/交尾を隠す動物もいる?/外性器と内性器/収納できる外性器/哺乳類はみんな包茎
2 タマタマの機能
タマタマは精子をつくる/精子と精液/雄性ホルモンをつくり出す/睾丸と金玉/それは私のおいなりさんだ
 
第2章 陰嚢の謎
1 陰嚢のある哺乳類
哺乳類の分類/陰嚢のない哺乳類もいる/もともとあったか、なかったか
2 陰嚢の役割
鼠径管を通って陰嚢へ/陰嚢ができたのはなぜ?/陰嚢は冷えやすい/血管による熱交換/本当に高温に弱いのか?/陰嚢をめぐるさまざまな説
3 鳥のタマタマ
鳥にもタマタマはある/チンチンを持つ鳥は少ない/卵とチンチン/鳥は陰嚢がなくても平気なの?/恐竜のタマタマ
 
第3章 タマタマを切ろう
1 動物の去勢
どうして切るの?/愛玩動物の去勢/食用動物の去勢/サラブレッドの去勢
2 ヒトの去勢
ヒトだって去勢する/去勢をして出世しよう!/宗教上の理由による去勢/美声を求めたカストラート/日本の去勢事情
 
第4章 食べものとしてのタマタマ
1 海の動物のタマタマ
わりとメジャーなマダラの白子/いろいろな魚の白子/卵巣か? 精巣か? ウニの生殖巣/そのほかの棘皮動物
2 陸の動物のタマタマ
意外とレア? 哺乳類のタマタマ/ブタのタマタマは出まわりやすい?/ウシのタマタマは「山のカキ」/レアな哺乳類のタマタマ/おうちでも食べられる?/わりとレアなニワトリのタマタマ/鳥のタマタマは小さい?
 
第5章 タマタマの雑学
1 タマタマの大きさくらべ
最大のタマタマの持ち主は?/最小のタマタマの持ち主は?/タマタマの大きさと繁殖スタイル/乱婚のものはタマタマが大きい/アンテキヌスの過酷な繁殖行動/タマタマが大きいと偉い?/同じ種でも大きさが変わる
2 いろいろな動物のタマタマ
陰嚢をなくした哺乳類/半水中生活をするアザラシ上科/カバのタマタマは移動する/おしりの穴に収納したビーパー/男勝りなプチハイエナのメス/オスも袋を持つ有袋類/穴を掘る哺乳類/中途半端に陰嚢をなくした哺乳類/タヌキの金玉は畳8枚分?/オスの体全体が陰嚢になる動物/タマタマだけで繁殖するパロロワーム
 
解説
参考文献
著者・監修者プロフィール
ということで、書名を「金玉」とかにしなかったことの言い訳が次のように書かれている。
……書名に入れるワードとして、金玉はあまりにも下品すぎるという意見が出たためです。本書を手にとってくれた方であれば、「金玉のほうがわかりやすい」と思うかもしれません。でも、書店で生殖器の名前を目にすると、不快に感じる方も一定数いるようなのです。それが、タマタマであれば、「偶々」や「マタマタ」などと誤認してくれる可能性もありますから、婉曲に表現することには利点もあるんですね。
せっかく書名に配慮したのに、開くページページに「陰嚢」「精液」の文字が並んでは……
が、ここは真摯な生物学愛好家として、そうした周囲の眼など気にせず読み進めなければならぬ。

一方、多くの動物は生殖器を見せびらかす。生殖の準備ができていることを示し、雌雄とも相手にアピールするのである。
それが生物として自然な行動であるという含意を持ってだろうか、著者は書いている。
余談ですが、藤子・F・不二雄は『気楽に殺ろうよ』という作品で、「交尾をあけっぴろげに行い、食事を隠すべきものとする」 パラレルワールドを描きました。その世界において、主人公を診察した精神科医は、「種の繁栄につながる公益的な欲望である性欲は罪深いものではなく、個の生存を目的とした独善的な欲望である食欲は恥ずべきものだ」という価値観を示しています。
この作品については全く知らなかった。というか、こういう内容なら、藤子不二雄Aっぽいように思うのだけど。

どんなマンガか気になってネットを検索したら、YouTubeに動画化(アニメではない)したものがあった。

そういえば、隠れて食事をする動物が多い。自分が獲った・見つけた獲物を、横取りされないようにする。藤子・F・不二雄ワールドは実は普通の生物の世界だったのかも。

ところでデズモンド・モリスは『裸のサル』で、性を秘め事にする人類のスタイルは、一夫一婦制を守るためにできたものではないかとしていたと思う。人類のメスはセックス・アピールが強く多くのオスを引き付けてしまう。しかしそれでは他種に例がないほど負担の重い出産・育児へのオスの協力が得られにくくなる。確実に養い主のオスをつなぎとめるためには、セックスを秘め事にせざるを得ないというような理屈だったと思う。

上の藤子・F・不二雄ワールドの紹介の前に、次のように書いている。
でも、なぜヒトは交尾を隠すようになったのでしょう。さまざまな意見がありますが、ヒトは交尾行動や生殖器を隠すことで、交尾の価値を釣り上げているのだと考える人がいます。「隠されると見たくなる」という心理を突いているわけですね。そして、交尾の価値が上昇した結果、それを取り引き材料にして、メスはさまざまな要求をオスに突きつけることができるようになったのかもしれません。

もっとも人類は、陰に隠れて交尾していても、大きな声を上げるメスがいる。そうすると周囲のオスをも惹きつけてしまうのだが、なぜ声を上げるメスがいるのか。これもなかなか難しい問題である。

これをチコちゃん(Don't sleep through life!)に訊いても、多分、教えてくれないだろうなぁ。
深夜の民放番組で「〇〇ちゃんに笑われる」(Don't sleep in bed!)というような番組を企画したらどうかな。(〇〇ちゃんは、イクでもシコでも、ソコでもお好きな名前を入れてください。というかチコちゃんという名前には何か思いがこもってるのだろうか)


なんだか本の内容に入る前に妄想を書きすぎた。
中身の面白いところは稿をあらためて。

関連記事

歩車分離信号

我が家の近くに私がもう一つ納得できない信号機がある。

IMG20230129115740-crop.jpg


この信号が付いたのは比較的最近なのだが、そのときからどうも不思議に思っていた。
というのは、「歩車分離信号」とあるのに、歩行者と車が分離されていないんじゃないかということ。

写真でわかるように、車両用信号と歩行者用信号がどちらも青になっている。撮影したのは赤から青に変わったときである。
この交差点は三叉路で、写真を撮った私の車は左折か右折しかできないわけだが、左折すれば左に見える歩行者信号に従ってわたる歩行者と交錯することになる。

こういう状態が起こる信号でも歩者分離というのだろうか。
Wikipediaで調べると、次のようにある。
歩車分離式信号機(ほしゃぶんりしきしんごうき)とは、交差点において車両と歩行者が交錯することがなくなる、または少なくなる信号表示を行う制御方法(歩車分離制御)によって制御される交通信号機。

歩車分離式信号機

この説明では、「少なくなる」とあるから、左折車と横断する歩行者のどちらも青になるタイミングがあっても良いのかもしれないが、

歩行者用信号は結構早いタイミングで赤に変わっているようにも思う。

車両用・歩行者用が同時に赤から青に変わるというのはどうなんだろう。歩者分離とあるから、私が不思議に思うように、車が青なら歩行者は赤だと早合点してしまわないだろうか。

ここは裏通りで車の通行はあまり多くなく、歩行者はさらに少ないのだが、以前、車と歩行者の事故があった。信号が付けられたのはその後だったかもしれない。
まあ、信号を過信せず、歩行者の有無とかに十分注意して運転しよう。

関連記事

コウモリはどこから入ってきた?

独居老人の住まいは埃っぽい。
特にずぼらというほうではないので家がゴミ屋敷になっているわけではないが、さりとて、まめに掃除機を使ったりはしないので、うっすらとだけど埃が積もる。
また蜘蛛の巣が、カーテンと天井の間で漂っている。

そんな部屋に荒々しく入ると、埃が舞い上がる。
長い間、人がいなかった家に入って、家具にかけれたた覆い布をとると埃が立つというシーンを映画で見ることがあるが、そんな感じ。
そしてクローゼットの扉を開けると、埃が襲いかかってくる。そしてその埃の雲の向こうに、3つぐらいの黒っぽいものが揺れている。扉を開けた勢いで風に揺られているのかと思ったが、よく見るとそれらは自発的に揺れている。
Plecotus_auritus_2013-2.jpg コウモリだ。

思わず傍にあったモップを手にとって、コウモリを払い落とそうとした。
が、手元が狂ってコウモリにはあたらなかった。コウモリたちは特に抵抗することもなく、飛ぶこともなく、そのまま揺れている。埃だけが舞っている。

冷静になって考えた。
こいつらはいつからここにいるんだろう、ここで何を食べてるんだろう、そしてそもそもどこから入ってきたんだろう、窓もドアも閉め切っているのに。
そういえば家人の実家では二階の部屋にコウモリの死骸がころがっていたことがある。あれは屋根の下の換気口の格子が壊れていたから入ったに違いないが。

部屋を見回すと、換気扇が眼に入った。
換気扇の外側には、動作時に開くブレードがついている。ここを通ったのだろうか。汚れがついてブレードは完全には閉じられていない。
こういう小動物は、見た目はもこもこしていても、体はそれよりずっと小さい。ブレードの隙間を使っているのかもしれない。

そんなことを考えていたら眼が覚めた。全部夢だった。
我が家の付近は、夕方からコウモリが良く飛んでいる。だからといって家の中に入られたことはない。
そういえばコウモリをあたりまえに見るようになったのは、大学のとき。大学構内では夕方になると、さかんにコウモリが飛んでいたと思う。

それにしてもどうしてこんな夢を見たんだろう。
先日、窓を開けたらヤモリが入ってきたことがあったが。

(そのままになってる。まだいるのだろうか、生きているのだろうか。)


この記事を書くにあたって、コウモリの写真をネットで物色していたら、ウサギコウモリという種があることを見つけた。上に載せたのはその写真(Wikipediaから)。
兎歳にふさわしいかな。

※本記事の夢は年末に見たもので、ウサギコウモリにちなんで年始記事として一度アップしたけれど、他の記事で差し替えて引き戻した。曝していたのは短時間なのだが、その間に拍手までいただいていた。

それでわかったのだが、拍手をもらった記事を引き戻しても拍手数は残る。ということは、記事を書き変えても、それへの拍手に見えることになるわけだ。今回は同じ記事だから問題ないが、大きく記事を変更するなら、前のものは削除して新しく投稿するべきなのだろう。

前のアップから1ヵ月経ち、せっかく書いた記事だったので再アップすることにした。 
(二度目になる方には申し訳ありません。慢性的なネタ不足のため、ご寛恕願います。)

関連記事

京橋のスズメ

先日、仕事帰りに京橋で列車待ちをしていたときのこと。
乗る列車が車で7~8分あったので、空いている椅子に座ってぼーっとしていた。

いつもは本を読むのだが、ちょうど読み終わったところなので、手持無沙汰だった。


IMG20230203172948-crop.jpg

IMG20230203173000-crop.jpg
ふと気がつくと、すぐそばにスズメが来ていた。
見ると、プラットフォームにおちている食べかすをついばんでいるようだ。
そして、食べかすに釣られるようにチョンチョンと移動し、私が座っているところまでやってきた。

以前、やはり京橋で座っていたら、そばにハトがやってきたことがある。ハトはだいたいがなれなれしくて傍若無人のふるまいをするが、スズメはどちらかといえば警戒心が強いと思う。ここのスズメは、人を恐れないようだ。

私は別にバードウォッチングとかを趣味にする者ではないけれど、我が家の周りはけっこういろんな鳥が来る。

今の季節だとツグミをよく見かける。他には、ヒヨドリやイソヒヨドリ、メジロも来る。空き地の空にはヒバリがよく飛んでいる。
傍に来たら写真を撮りたいと思うけれど、だいたいそういうときにはカメラもスマートフォンも持っていないから、チャンスを逃す。かといって来たら撮ってやろうと身構えると寄ってこない。

庭などに食べ物を巻いて取り寄せをする人もいるようだが、こういう行為(餌付け)は、野鳥に対してはあまり推奨されることではないと聞いたことがあって、そういうことはしない。

スズメもよく来るけれど、やはり警戒心が強いようで、良い写真は撮れていない。
ところが、この京橋のスズメ、向こうからやってきて、わたしがスマホを取り出してスズメに向けても、全く関心を示さず、逃げも隠れもしない。おかげでゆっくりと写真におさめることができた。

南極のペンギンなどは、人をおそれない(怖さを知らない)から、人が寄っても逃げないという。
街にいる鳥は、獲物としてさんざん捕ってきたきた人類にはまだまだ気を許さないようだ。

あー、久しぶりにスズメを食いたい。

関連記事

恵方巻2023

昨日は節分。

IMG20230203182401-crop.jpg

IMG20230203182523-crop.jpg
であるけれど、独居老人としては豆まきなどは考えられない。
そして節分といえば、鰯と恵方巻となるわけだが、昨日は仕事に行っていて、帰ってきてからスーパーへ寄ってそういうものを買うのも面倒、もちろん料理(といって鰯を焼くだけだろうけど)も面倒。

節分だからといって、鬼を払うというその鬼を信じているわけではないのだけれど、食べるものに関しては、やはり季節のものを大事にしたいという思いから、鰯はともかく、恵方巻ぐらいはと考えていた。

退勤して駅のほうへ歩いて行ったら、居酒屋が入口脇でのり巻を売っていた。1本700円。ちょっと高いなぁと思ってやり過ごす。
そのまま歩いていくと、今度は、コンビニに「恵方巻あります」の張り紙。
やっぱり恵方巻ぐらいは食べようと考えてそのコンビニで恵方巻を1本買った。484円(税込み)

いつものように冷凍食材をチンして、それをあてに焼酎湯割りを飲み、1/3くらい残したところでアテがなくなり、恵方巻に手をのばした。

今年の恵方は南南東少し南、そちらを向いて、一本を口から離さず無言で食べきるのが、恵方巻を食べる「作法」ということだが、そういうものは一切守っていない。ちょっと方角は確認したが、すぐに食卓に向き直り、醤油を少しずつつけながらと、まったくルール無視。

そしてこのコンビニ恵方巻だが、今まではだいたいスーパーで大きな1本をだったが、コンビニで売ってるのは半分の大きさ。独居老人には1本は多すぎて、半分は翌日に残していたが、コンビニのものなら全部食べて問題ない。
であるけれど、寿司飯があまり酸味がないこと、七種の具材というが、それがかえって災いしているのか、はっきりしない味。
去年のスーパーの恵方巻のほうが良かったように思う。

明日は仕事はないから買い物も夕食も余裕があるのだが、鰯もクリスマス・チキンみたいに翌日は安売りとかしてくれないかな。

関連記事

神君伊賀越えゆかりの地

大河ドラマでとりあげられた人物・歴史は、いろんな土地で観光の呼び物となる。大河ドラマで町おこしである。
今年は「どうする家康」。ブラタモリでは駿府がとりあげられたし、鶴瓶の家族に乾杯では岡崎を家康様(松本潤)と回っていた。

ところが岡崎では、家康より東海オンエアというYouTuberのほうが有名で人気もあるとか。


IMG20230201074516-crop.jpg  IMG20230201074450-crop.jpg
さて、私が住まう土地(すぐばれるだろうから明らかにしておく、京田辺市)と家康にはたいした接点はないだろうなぁと思っていたのだけれど、駅前に
徳川家康公伊賀越えゆかりの地
という幟が立っているのに気がついた。
あらためてネット検索すると、地元市と観光協会が「ゆかりの地活性化事業」を実施しているとのこと。既にスタンプラリーも実施しているようだ。

神君伊賀越えというのは、いうまでもなく本能寺の変の後、堺に居た家康が本拠地三河へ帰還する行程を指す。天正10年6月2日から6月4日深夜または5日未明までのこと。

伊賀国は山城国より南に位置すると錯覚していたので、関係ないと思っていたのだけれど、あらためて地図を見ると、伊賀国庁があったのは木津川(新古今集では泉川)沿いで、我が家からはほぼ東の方向になる。

kataridoku-igagoemap01.gif


1671586565994.jpg 神君伊賀越えをネット検索すると、「神君伊賀越え」考というページがあり、家康が通過したルート(上の地図)と各地の写真が載せられている。

神君伊賀越えのルートについてはいくつか説があって、伊賀ではなく大和を通ったという南ルートという新説もあるようだ。

このルートで示されている普賢寺谷、草内渡というのが、京田辺市に属する地名のようだ。

本能寺の変の後、天正10年6月13日、明智光秀は山崎合戦で敗れ、近江坂本城を目指す途上、小栗栖で落ち武者狩りの百姓によって深手を負わされ、この地で自害する。
この小栗栖は京都市伏見区で、京田辺市から北の方向にあたる。近いけれど京田辺市は通っていない。

本能寺の変によって、武将たちが本拠へ帰還しようと伊賀や山城の道を急いだ。
一方は無事帰還を果たし、一方はできなかった。

神君伊賀越えで途中で別れた穴山梅雪は、京田辺市草内付近で一揆に襲われて死んだという。(付近に墓もあるらしい)


それにしても家康に特別な親近感などを持つ土地柄ではないところで、このキャンペーンはうまくゆくだろうか?
おそらくこの市単独ではあまり効果はなく、伊賀越え追体験ツアーとかを、ルート上の各自治体が協力して企画しないとダメなような気がする。

関連記事

「歴史探偵 開戦から終戦まで」(その2)

81AJyNehvaL.jpg 半藤一利「歴史探偵 開戦から終戦まで」の2回目。

昨日は、第一章から第三章までをとりあげた。
「第四章 櫓太鼓や墨田川」は主に相撲の話で、どちらかというとほのぼのとした随想が集められている。
「開戦と終戦まで」というのとは随分はなれるので、ここで紹介してもなぁと思ったのだけれど、これがなかなか面白いので、やっぱり2回目の記事にすることにした。

著者は大変な相撲ファンのようで、相撲への思いや蘊蓄が語られるわけだが、やはり戦争中や戦後すぐぐらいの時期の話が中心。
ちょっとびっくりしたのは(著者も調べて驚いたと書いている)、相撲興行は、戦争中も昭和20年6月7日から一週間、場所も空襲で焼け落ちたあとの両国国技館を片付けて行われたのだという。
これは、まだ降参していないぞと海外向けのPRで、海外向けにラジオで実況中継もされたそうだ。

相撲と野球は長く日本の二大人気スポーツだが、一方は「国技」で一方は「敵性競技」というわけだ。


第一章 提督たちのリーダーシップ
はじめに/四十年のサイクル/リーダーシップは国の個性がでる/明治のリーダーたち/ニミッツとミッドウェイ/アメリカ海軍の組織/日本型リーダー大山巌/東郷平八郎と日本海海戦威厳と人徳/評判の悪い指揮官/ミッドウェイの南雲長官/牟田口廉也とインバール/リーダーの八つの条件/日本海軍の対米戦略/山本五十六の決断/真珠湾作戦の真の意味/目的があいまいなミッドウェイ/終わりに
 
第二章 昭和天皇とヒトラー
鴎外記念館/ベルリンの壁/明治のドイツ留学生、桂太郎/昭和のドイツ贔屓/歴史の中のドイツ/一九四五年のベルリン/SSの本部跡を訪ねる/昭和天皇のドイツ観
 
第三章 ドイツのなんということもない話
「最初に敗北ありき」/廃墟のベルリン/となりへ国際電話/ヒトラーという名の男/キャベツ頭のこと/犬のくそ/金色のプレート/二つの教科書/スターリン特注の円卓/ブラス四六〇万人/壁を跳ぶ男の話/ブランデンブルク門/同志、禁煙だぞ/『坊っちゃん』と対面/ドレスデンへの旅/ジャガイモ/食いたかった料理/『最後の授業』/一度はおいで/ロンメル将軍の息子/コーヒー好き/娼婦と日本人/歴史のいたずら/浦風なりけり
 
第四章 櫓太鼓や隅田川
○出し投げ/○内掛け/〇張り手/×引き分け/○寄り切り/●股くぐり/●キン出し /○ふんどし/〇四股名/○肩すかし/○吊り上げ/○中入り/●張り倒し/○立合い/●差し違い/○弓取り式/●焼け出され/○すくい投げ/○突っぱり/○押し出し/○横綱力士碑/○四天王/○封じこめ/●稽古不足/○千秋万歳/○呼び戻し
 
そして戦後の相撲の復活も早かったという。本書では米国人が熱狂する様子もうかがえる。転載しておこう。
〇すくい投げ
 敗戦日本、柔道や剣道から忠臣蔵まで禁止されたとき、GHQはなぜ相撲をあっさり許可したのだろうか。
 二十年十月には、天井が破れた国技館で、米軍慰問のため相撲をみせろといってきた。そしてGIたちは日本人が初めてみる缶ビールを片手に、もう一方の手で大和撫子を抱きながら、戦後の相撲をいの一番に見物した。
 本場所が再開したのは翌十一月。 まこと早い立直りだが、マッカーサーの日本統治政策のおかげかもしれない。九月末に天皇と会ったマッカーサーは、日本人の価値概念の根幹をつぶすことなく、外形的な改革で、日本の占領統治をしようと心にきめた。天皇を象徴として残す、ついでに天皇杯をおしいただいている大相撲も残すことも。まさか、とは思うが……。それに肉体がいくら大きくても、ハダカじゃ危険はあるまいと思ったのか。
 いずれにせよ相撲はハッケヨイと残って、天下泰平で、アメリカ産の野球と隆盛をわけ合うことになる。FENではいまじゃ野球なんかメじゃない。この進駐軍放送(なつかしい言葉だね)を聞くかぎり、野球が日本の国技、相撲はアメリカの国技じゃないか、と空恐ろしくなる。
 寄り切り=フロント・フォース・アウト。突き出し=スラスト・アウト。 上手投げ=アウター・ハンド・スロー。 すくい投げ=スコップ・スロー。叩き込み=スラップ・ダウン。切り返し=バック・ツイスト。うっちゃり=バックワード・ティボット・スロー。
 何だか舌を噛みそうな言葉が、どんどんラジオから流れているのを、アメ公は、さながら戦争中の日本人が相撲放送に熱中したように、キャッキャッといいながら聞いている。
「玉龍インサイド・レッグ・トリップ(内掛け)、千代の富士セイフ、セイフ(残った)、キープ・ファイティング(はっけよい)キープ・ファイティング……」
 聞いているこっちは、とうの昔にアウトだよ。

GIの熱狂ぶりを紹介したので、他の外国人の見た相撲についても本書から転載しておこう。
 このために仕切り直しをジッと見ているのが楽しい、といったら、いかにも通人を宣伝しているようで面映ゆいが、相撲の醍醐味は少なくとも、仕切り直しのくり返しから刹那の立上りの一瞬にある、ことだけは確かである。
 フランスの詩人ジャン・コクトオの戦前に日本を訪れての旅行記『日本印象記』をみると、立合いのすばらしさが見事に語られている。
浄めの塩を、土俵に振りまいてしまうと、両力士は股をひろげ、両手を腿にあて、悠々と力をこめて、交互に片足ずつ踏みしめる。この熊踊りが、かれらの筋肉を準備する。
 かれらは向いあって身をかがめ、絶好の一瞬を、
 〝バランスの奇蹟〟を、
 気合の投合を、待つものらしい。
 かれらは互いに、きっかけを狙い、息をはかり、緊張したかと思うと、ふと言い合わしたように力をぬき、ポーズを崩し見向きもせずに、土俵を下りる。行司は、これらの〝実りのない試み〟に充分に間をあたえる。
 不意に電流が走る。
 巨大な肉体が打合い、掴み合い、叩き合い、蹴合い、地面から抜き合う、と見る間に、カメラマンの稲妻一閃、人間の巨木がマグネシュームの雷に根こそぎされて、土俵の下にころげ落ちる

 詩人はさすがにうまいことをいう。バランスの奇蹟、気合の投合とは、 愚物のわれが千万言を弄するより、よほど説得的である。そういえば米大リーグの名選手ピート・ローズも「盗塁のコツは相撲の立合いを見習うといい」と感嘆していったという。天才の見る眼は同じということか。
私もさすがにコクトー、相撲を詩的に力強く表現していると思う。ピート・ローズも相撲を見たことがあるんだろうか。そういえば、当たりの強さではアメリカン・フットボールが最高と信じていた米国人も相撲の当たりに舌を巻いたという話もきいたことがある。

相撲の話をしててもやっぱり戦争のことは頭をよぎるようで、四股名から軍艦の名前を連想して次のように書いている。
……享保九年(一七二四)というから吉宗や大岡越前守の時代。 深川八幡境内にて相撲の興行があった。
「その番附の前頭の初めに奥州の人にて、 成瀬川土左衛門といふあり。東京にて水死人のことを俗に土左衛門といふは、水のために膨張したる形の、成瀬川の肥満に似たるをもつて名づけたりといふ。さもあるべし」
 と、大正五年刊の中根香亭の『塵塚』にある。
 成瀬川関にはとんだとばっちりだが、力士の名に国名や山や川の多いのはなぜだろうと考えたことがある。軍艦でいえば、国は長門・陸奥・大和・武蔵というように戦艦、山は重巡洋艦で愛宕・鳥海・足柄・羽黒、川は名取・那珂・五十鈴・多摩と軽巡洋艦。力士もまず大きくて強そうな名というところで、山や川をつけたのだろうが、隠された意味に、『万葉集』の歌にある国ほめ、土地ほめ的な要素があると思っている。
 生まれた土地をほめ、自然をほめ、国をほめる、つまり八百万の神々に疫病などからのがれ、五穀豊穣であらんことを祈る。だから、国技館のアナウンスは「横綱玉の海、愛知県蒲郡市出身、片男波部屋」と出身地をよびあげ、その土地へのはるかな祝福を送っている。そういえば、軍艦もむかしは国の護りだった。

軍艦のネーミングについては、日本海軍艦艇入門というページに詳しい。


書名から想像するものとは随分違った本だったが、そして少し古いし、随想のようなものなのだが、感じるところ多である。

関連記事

「歴史探偵 開戦から終戦まで」

81AJyNehvaL.jpg 半藤一利「歴史探偵 開戦から終戦まで」について。

図書館の新着棚に置いてあったのを借りた。半藤氏は2年ほど前にお亡くなりになっているから、新着棚にあるのも不思議だなと思った。奥付には「2021年12月20日 第一刷発行」とあって、氏の死後1年近く経っての発行ということになる。
であるけれど、普通ならありそうな偲び事のようなものは全くなかった。かろうじて扉の次に「本書のために執筆された新原稿」の写真が載せられていて、本書企画時には著者はまだ存命であったこと、そしてこの写真を載せることで、控えめに著者の死去を惜しむ雰囲気が伝わってくる。

「第一章 提督たちのリーダーシップ」は、随分前(1984年)の著者の講演をもとに、著者が手を入れたとある。

講演は、埼玉県市町村自治研修所「埼玉県市町村職員研修協議会」というところで行われたもので、聴衆には埼玉県の市町村の助役(今なら副市長)が多く入っていた様子が、演者の発言からうかがわれる。


40年近くも前の講演だから、その後の新事実とかはないわけだが、逆に今もって信じられているようなことでも、当時でも違うと認識されていたことが話されている。

第一章 提督たちのリーダーシップ
はじめに/四十年のサイクル/リーダーシップは国の個性がでる/明治のリーダーたち/ニミッツとミッドウェイ/アメリカ海軍の組織/日本型リーダー大山巌/東郷平八郎と日本海海戦威厳と人徳/評判の悪い指揮官/ミッドウェイの南雲長官/牟田口廉也とインバール/リーダーの八つの条件/日本海軍の対米戦略/山本五十六の決断/真珠湾作戦の真の意味/目的があいまいなミッドウェイ/終わりに
 
第二章 昭和天皇とヒトラー
鴎外記念館/ベルリンの壁/明治のドイツ留学生、桂太郎/昭和のドイツ贔屓/歴史の中のドイツ/一九四五年のベルリン/SSの本部跡を訪ねる/昭和天皇のドイツ観
 
第三章 ドイツのなんということもない話
「最初に敗北ありき」/廃墟のベルリン/となりへ国際電話/ヒトラーという名の男/キャベツ頭のこと/犬のくそ/金色のプレート/二つの教科書/スターリン特注の円卓/ブラス四六〇万人/壁を跳ぶ男の話/ブランデンブルク門/同志、禁煙だぞ/『坊っちゃん』と対面/ドレスデンへの旅/ジャガイモ/食いたかった料理/『最後の授業』/一度はおいで/ロンメル将軍の息子/コーヒー好き/娼婦と日本人/歴史のいたずら/浦風なりけり
 
第四章 櫓太鼓や隅田川
○出し投げ/○内掛け/〇張り手/×引き分け/○寄り切り/●股くぐり/●キン出し /○ふんどし/〇四股名/○肩すかし/○吊り上げ/○中入り/●張り倒し/○立合い/●差し違い/○弓取り式/●焼け出され/○すくい投げ/○突っぱり/○押し出し/○横綱力士碑/○四天王/○封じこめ/●稽古不足/○千秋万歳/○呼び戻し
 
その一つに、有名な大山巌のエピソードがある。日露戦争のとき総司令官であった大山巌がふらっと出てきて、児玉源太郎参謀長に対し「今日もどこかで戦(ゆっさ)でごわすか」と言ったという話だが、普通この飄々とした言葉で場を明るくしたようにとらえられていて、映画でもそのように描かれていたと思うし、司馬遼太郎「坂の上の雲」でも大山巌は同じような扱いだったと思う。
しかし本書によると、この言葉で参謀諸氏は青くなったという。
大山巌は実際には非常にやかましい人だったという。しかし、帝国陸軍では、幕僚(参謀)がしっかり考えて、司令官を支える(というか飾る?)という風が当時からあって、大山巌にも作戦などの相談はなかったらしく、それに対する痛烈な皮肉がこの発言なのだという。

大山巌が優れたリーダーだったかどうかはこれだけではわからない。著者も特にそれについては書いていないが、リーダーの条件というのをまとめておられるので、それを抜き出しておく。

リーダーの八つの条件
  1. 最大の仕事は決断すること。自分で決断すること。
  2. 部下に対して明確なる目標を与えること。
  3. 常に権威を明らかにしておくこと。部下の言うとおりにならないというためにも。
  4. 指揮官は常に焦点の場所に位置せよ。要するに一番大事なところに位置せよ。
    これは陸軍と海軍では違い、陸軍では全軍を展開させるために若干後方にいなければならないが、海軍の場合は全艦隊を率いるためには最先端に立ったほうがいい(指揮官先頭)。
  5. 情報は確実に自分の耳で聞け。
  6. 想像と現実を切り離せ、あるいはロマンと現実を切り離せ。
  7. 部下に最大限の任務の遂行を常に求めよ。
  8. 規格化された理論にすがるな。

1番目と2番目は、条件というよりそれが職務だと思う。3番目以降は、それができれば良いなぁという感じかもしれないし、良い補佐役がいればなぁということもあるかもしれない。
ただ、良いリーダーたらんとするならこの8つを留意しておくのは悪くないだろう。

「第二章 昭和天皇とヒトラー」は、1990年12月の『文芸春秋』に掲載の「昭和天皇の独白八時間」の解説を執筆直後にドイツを訪れて書かれ、私家版「ベルリン拝見」に収録されたもので、原題は「ドイツの戦後〝遺跡〟を歩く」というもの。日本の開戦・終戦ということではない。執筆時期からわかるように、ドイツ統一(西ドイツによる東ドイツの吸収)直後のドイツを自分の目で見たいということだそうだ。雑駁なエッセイ集という感じ。

中で興味が惹かれたのは、章冒頭の「鴎外記念館」。鴎外記念館というのは東ベルリン側にあった、鴎外旧居に作られていたものなのだが、その建物は共産党政府に没収されていたものだが、統一により元の持ち主の所有権が復活し、記念館がどうなるのかわからないという。

ネットで調べると、現在はフンボルト大学(旧ベルリン大学)日本学科の付属施設として存続しているとのこと。


「第三章 ドイツのなんということもない話」は、第二章とともに「ベルリン拝見」に収録されたもの。
それこそ「なんということもない話」だが、面白かったのは、ドイツ人の苗字にヘンテコなものが結構あるという話。
ヘーゲルは〝馬鹿頭〟、カントは〝パンの切れはし〟、ランケが〝蔓〟、シラーが〝閃光〟、グリムが〝憤怒〟なのだそうだ。そして統一ドイツの首相コールは〝キャベツ〟。
なんといってもヘーゲルの〝馬鹿頭〟は驚きの意味だろう。

手元の独和辞典(木村・相良)では、Hegelは、種雄豚;種畜、切れ味の悪いナイフという訳が付いている。


背筋がピンとなる話もある。「金色のプレート」である。
この節のはじめの部分を転載しておこう。
金色のプレート
 犬のくそだけではない。 夜間などとくにそうだが、ビールのほろ酔いでベルリンの大通りを歩いていると、やたらに石(?)につまずいて転びそうになる。何が出っぱっているのかと疑問に思って、翌日になって昨夜転びそうになったところに、探索でわざわざいってみると、金色の四角いプレートが埋めこまれているのである。上になにやら文字が彫られている。
 通訳兼案内人のペトラーさんに「何ですか、これは」と訊くと、彼女はしばし口ごもったが、答えにくそうに教えてくれた。
「かつてここに住んでいて、連れ去られて帰って来なかったユダヤ人の名前です」
 これには、太平楽にたずねたわたくしは棍棒でなぐられたように、立ちすくんだ。通りに面したその家はない。強制収容所に連行されたとき壊されたのか、あるいは陥落直前の市街戦のさいに砲弾で破壊されたものか、それはわからない。ドイツ人は、とにかく、そこにユダヤ人が住んでいたことを忘れないために、プレートを道にはめこんで残しているのである。
 ベルリンの通りには大小にかかわりなく、そんな「つまずきのプレート」が残されている。場所によっては、七つも八つものプレートがひと固まりになっているところもある。それらは負の遺産の象徴であるかのように並んでいる。われら旅行者なんかと違い、ベルリンに住むドイツ人たちはしょっ中それらに直面していて、目を逸らすわけにはいかない。
私は南ドイツには行ったことがあるが、ベルリンには行ったことがない。もし行くことがあったら金色のプレートを見たい。つまづいたり、踏んづけたりしないように。

教科書のことにも触れている。これも転載しておこう。
二つの教科書
 まだ壁が崩壊しないときの話である。
 東ベルリンの子供たちは「ソ連の特別の好意で、自分たちの国を作ってもらった。壁はその国を守るための防壁」と思っていた。
 西ベルリンの子供たちは「あの壁の向うはソ連という国だ」と思いこんでいた。かれらにとって、東ドイツという国はなかった。
 全部が全部、そう考えていたわけではあるまい。しかし、一九六一年いらい約三十年間、壁があることが日常なのだから、子供たちの誤まった観察を責めるわけにはいかない。
 日本へ帰ってから調べたことなのであるが、東ドイツでは、ベルリンの壁を単に「壁」ということは禁じられていた。正式文書では「反ファシスト防壁」と書くことを義務づけられた。
 小学校四年生の教科書には、つぎのように説明されている。
「資本家と西独の支配勢力は、われわれ共和国が豊かになることを妨げようと、スパイを送りこみ、騒動をおこした。六一年、西独の戦争推進者はわが国を奇襲攻撃する準備をしてきた。そこで、八月十二日から十三日にかけての夜、われわれの人民軍将兵と戦車は、西ベルリンに通じる国境に走り、反ファシストの防壁を建設した。西独支配勢力の戦争計画は無となって、平和が息を吹き返した」
 国家百年の計は教育にあり、というが、こんな教育をうけてきた子供が、統一となって、こんどは西ドイツの小学校と同じ教科書を使わせられることになった。それにはベルリンの壁がこう書かれている。
「六一年、東独は慢性的につづく若者たちの西独への流出をストップさせるため、壁を造った。若者の流出は東独の社会主義建設にとって致命的になる、とみられていた。この壁をのりこえようと多くの人びとが犠牲になるとともに、分断による家族離散の悲劇もうまれた」

為政者に都合のよい史観による教科書というのは他の国々にもあるらしい。何が正しいかを決めて、それに基づく教科書を使うというのは困難だろう。せめて各国の教育では、自国の教科書だけでなく、他国ではどのように教えられているかも併せて子供たちに示せたら良いのではないだろうか。

もっとも教師が「〇〇国ではこんなトンデンモナイことを教えている」と馬鹿にしたら効果はないかもしれないが。


「開戦から終戦まで」というタイトルだが、歴史を追いかけているものではなくて、思いつくままに時代に感じたことが綴られている。こういう本もおもしろいと思う。

関連記事
プロフィール

六二郎。六二郎。

ついに完全退職
貧乏年金生活です
検索フォーム

 記事一覧

Gallery
記事リスト
2023年02月の記事
最新コメント
カテゴリ
タグ

飲食 ITガジェット 書評 Audio/Visual マイナンバー アルキビアデス 

リンク
アーカイブ
現在の閲覧者数
聞いたもん