たんたんたぬき
井上章一「妄想かもしれない日本の歴史」に、
『「たんたんたぬき……」を、さかのぼる』という節がある。
いうまでもなく、あの歌についてである。
著者は、狸の話に入る前に、招き猫がヨーロッパに受け入れられているということを指摘する。
そして、猫の像が崇拝されるということは、偶像崇拝で、かつてのヨーロッパでは考えられなかったのではないか、キリスト教の統制力が弱くなっているのではないか、というような分析をひとしきり講釈する。
そして、招き猫がこうして受け入れられているの対し、なぜあの狸の置物は受け入れられないのかと問題提起を行う。
しかるのち、著者の幅広い外国人との交流の中でも、あれはないだろうという話になる。
世界でキンタマをこんな形で笑いのネタにしているところはないだろうという。
ということで、猫が良くて狸がダメな理由を発見して、ひとまず落ち着く。
そして話はあの歌のことになる。
著者の指摘で思わずなるほどと思ったのは、この歌は学校で教えられるものではないし、メディアで流されるものでもない、子供から子供へ口伝えに伝承されてきたはず、それにもかかわらず全国に広く、ほぼ同じ歌詞で歌い継がれているという事実。
著者があげている歌詞は、
実際、ネットで見つけた「たんたんたぬき」の歌詞。他にもネットを探すといろんな歌詞がある。
ちなみに、私が子供のころ覚えたのは、
また、本書でも書かれているように、この歌は讃美歌の替え歌である。
いろんなところで讃美歌が替え歌になっているのかもしれない。
ところで、「たんたんたぬき」に良く似たメロディを聞いたことがある。
フランツ・クサヴァー・モーツァルト作曲 ピアノ四重奏曲の第三楽章のテーマである。
『「たんたんたぬき……」を、さかのぼる』という節がある。
いうまでもなく、あの歌についてである。
著者は、狸の話に入る前に、招き猫がヨーロッパに受け入れられているということを指摘する。
そして、猫の像が崇拝されるということは、偶像崇拝で、かつてのヨーロッパでは考えられなかったのではないか、キリスト教の統制力が弱くなっているのではないか、というような分析をひとしきり講釈する。
そして、招き猫がこうして受け入れられているの対し、なぜあの狸の置物は受け入れられないのかと問題提起を行う。
しかるのち、著者の幅広い外国人との交流の中でも、あれはないだろうという話になる。
世界でキンタマをこんな形で笑いのネタにしているところはないだろうという。
ということで、猫が良くて狸がダメな理由を発見して、ひとまず落ち着く。
というか狸って極東特産の動物で、ヨーロッパ人にはなじみがないのでは。
ちなみに、タヌキの分類上の位置は、哺乳綱ネコ目イヌ科タヌキ属。ネコとそう遠い関係ではない。
それと、どうも近頃、信楽の狸が、妙にかわいらしくなっているように思う。ネットで適当な画像を探していたのだけれど、デフォルメ狸という雰囲気のものが多い。昔はもっとおじさんっぽかったように記憶しているのだが。
そして話はあの歌のことになる。
著者の指摘で思わずなるほどと思ったのは、この歌は学校で教えられるものではないし、メディアで流されるものでもない、子供から子供へ口伝えに伝承されてきたはず、それにもかかわらず全国に広く、ほぼ同じ歌詞で歌い継がれているという事実。
なるほどと思いながら、良く考えてみると、わらべうたというのは、そういう成立のものが多いのではないだろうか。ただ、下品じゃないものはレコードになったり、メディアでとりあげられる機会もあるというだけで。
著者があげている歌詞は、
たんたんたぬきのきんたま
かぜにふかれてぶらぶら
それをみていた○○○
ふんどしかかえておおわらい
実際、ネットで見つけた「たんたんたぬき」の歌詞。他にもネットを探すといろんな歌詞がある。
ちなみに、私が子供のころ覚えたのは、
たんたんたぬきのどきんたま
電車にひかれてぺっしゃんこ
それを見ていた女の子
せんべえと間違えて食べちゃった
また、本書でも書かれているように、この歌は讃美歌の替え歌である。
Shall We Gather at the River(YouTube)
いろんなところで讃美歌が替え歌になっているのかもしれない。
ところで、「たんたんたぬき」に良く似たメロディを聞いたことがある。
フランツ・クサヴァー・モーツァルト作曲 ピアノ四重奏曲の第三楽章のテーマである。