「子どもの難問」(その3)
野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の3回目。
3回目で最後にするので、1,2回でとりあげなかった問から。
まず「心っってどこにあるの?」。
ここでは心の問題を哲学のテーマとして立て、それはまだ入り口だというのだけれど、思うに、科学の世界では、問いの立て方がまったく違っているのではないだろうか。
本書では、心はどこにあるのだろうと問いかけているけれど、科学では心が身体のどこか一部にあるという考え方はとられていないと思う。
まず、心の存在を意識すること自体は、おそらく脳の機能だろう。ただし、それは脳のどこか一部が創り出すものではなく、脳の中のネットワーク全体の働きだろう(ミンスキー『心の社会』)。そしてそこへ集まる情報は全身的なものであるし、その情報の元には外界もある。これらの総体が心の意識に関与しているのではないだろうか。
私の理解では、科学はそういう「心のモデル」を追求しているに違いない。日常語で「心があたたまる」とか「心が痛む」というような表現は、「心のモデル」が示すであろう心の動き・ありようの一顕現なのではないだろうか。
科学者が探している心と、哲学者が語る心は同じものなのだろうか。つまり心の定義というか、心という言葉の用法の大きな違いというのをまず排除することが望ましいように思う。
論理学の授業で、こんな誤謬文を教えられたことがある。
次は、「神様っているのかなあ?」なのだが、本書(田島正樹)では存在には答えず、信頼と同様、神は生み出すものと説かれ、なんだか同語反復の判じ物のように思った。
私が今まで聞いてきた神の存在議論の多くは、
最近では、実在を問わず(存在論を離れ)、神というイリュージョンを持つことが現生人類が、ネアンデルタール人を駆逐っできたという説もある(ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』など)。
最後に引用するのは「哲学者って、何をする人なの?」
ここから、ほんの一部だけ引用して、この記事を終えることにする。
哲学というのは、それはそれでおもしろいかもしれない。何といっても正解を判定できないところで議論できるわけだから。
だが科学(自然科学だけではない、人文科学、社会科学も含めて)を信仰する私としては、やっぱり思う。真理を追い求めないのなら、それは神がする技ではないのだろうか。存在意義は神様と同程度にはあると思うが、それで心の平安も得られるかもしれないが、それで満足はできない。
科学と哲学は対立するものではない。相互に刺激し合うべきものだと思う。そして哲学は諸学の学ともいう。哲学はそうであってほしいと思う者にとっては、本書には、やっぱりはぐらかされ感が残ってしまう。知的遊戯だったのではないかと。
3回目で最後にするので、1,2回でとりあげなかった問から。
まず「心っってどこにあるの?」。
いま居場所を探している心とはなんだろう? 考えたり、見たり、感じたりするものだ。心は人それぞれがもつのだから、身体のどこかに宿っているに違いない。昔は、心臓にあると思われていたけれど、今では脳にあると言われている。
でも、脳にあると言っても、ぼくらの脳を解剖したって、そこに見つかるのはニューロンと呼ばれる神経組織や、血管や血液だけだろう。バッハを聴いているとき、チェンバロの「音」は脳の中でまったく鳴っていない。青い海を見ているときも、脳は少しも「青く」染まらない。
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それじゃ、世界は心がつくったのか? いや、それも違う。三人称的世界の一部であるきみの脳の側頭葉辺りに障害が起きると、忘れていた歌が突然聞こえてきたりする。つまり、きみの一人称的経験は予想もつかない仕方でいやでも変化する。だから、一人称的経験はある意味で三人称的世界からつくられる。このこんがらがった事態をどう理解したらいいのだろう。残念だけど、簡単な答えはない。ぼくらはようやく、心や脳や経験や世界についての 存在論という哲学の入り口に立ったところなのだ。
でも、脳にあると言っても、ぼくらの脳を解剖したって、そこに見つかるのはニューロンと呼ばれる神経組織や、血管や血液だけだろう。バッハを聴いているとき、チェンバロの「音」は脳の中でまったく鳴っていない。青い海を見ているときも、脳は少しも「青く」染まらない。
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それじゃ、世界は心がつくったのか? いや、それも違う。三人称的世界の一部であるきみの脳の側頭葉辺りに障害が起きると、忘れていた歌が突然聞こえてきたりする。つまり、きみの一人称的経験は予想もつかない仕方でいやでも変化する。だから、一人称的経験はある意味で三人称的世界からつくられる。このこんがらがった事態をどう理解したらいいのだろう。残念だけど、簡単な答えはない。ぼくらはようやく、心や脳や経験や世界についての 存在論という哲学の入り口に立ったところなのだ。
(心ってどこにあるの?―柴田正良)
はじめに | |
ぼくはいつ大人になるの? | 熊野純彦 野矢 茂樹 |
死んだらどうなるの? | 清水哲郎 雨宮民雄 |
勉強しなくちゃいけないの? | 土屋賢二 斎藤慶典 |
頭がいいとか悪いとかってどういうこと? | 大庭健 中島義道 |
人間は動物の中で特別なの? | 一ノ瀬正樹 伊勢田哲治 |
好きになるってどんなこと? | 田島正樹 山内志朗 |
過去はどこに行っちゃったの? | 野家啓一 永井均 |
なぜ生きてるんだろう? | 神崎繁 入不二基義 |
どうすればほかの人とわかりあえるんだろう? | 戸田山和久 古荘真敬 |
考えるってどうすればいいの? | 柏端達也 野矢 茂樹 |
科学でなんでもわかっちゃうの? | 伊勢田哲治 柴田正良 |
悪いことってなに? | 大庭健 田島正樹 |
自分らしいってどういうことだろう? | 鷲田清一 熊野純彦 |
きれいなものはどうしてきれいなの? | 神崎繁 鈴木泉 |
友だちって、いなくちゃいけないもの? | 清水哲郎 一ノ瀬正樹 |
人にやさしくするって、どうすること? | 斎藤慶典 渡辺邦夫 |
芸術ってなんのためにあるの? | 山内志朗 古荘真敬 |
心ってどこにあるの? | 柴田正良 柏端達也 |
えらい人とえらくない人がいるの? | 鷲田清一 野家啓一 |
神様っているのかなあ? | 田島正樹 永井均 |
哲学者って、何をする人なの? | 戸田山和久 入不二基義 |
幸せって、なんだろう? | 土屋賢二 雨宮民雄 |
後記 |
本書では、心はどこにあるのだろうと問いかけているけれど、科学では心が身体のどこか一部にあるという考え方はとられていないと思う。
まず、心の存在を意識すること自体は、おそらく脳の機能だろう。ただし、それは脳のどこか一部が創り出すものではなく、脳の中のネットワーク全体の働きだろう(ミンスキー『心の社会』)。そしてそこへ集まる情報は全身的なものであるし、その情報の元には外界もある。これらの総体が心の意識に関与しているのではないだろうか。
私の理解では、科学はそういう「心のモデル」を追求しているに違いない。日常語で「心があたたまる」とか「心が痛む」というような表現は、「心のモデル」が示すであろう心の動き・ありようの一顕現なのではないだろうか。
科学者が探している心と、哲学者が語る心は同じものなのだろうか。つまり心の定義というか、心という言葉の用法の大きな違いというのをまず排除することが望ましいように思う。
論理学の授業で、こんな誤謬文を教えられたことがある。
The end of life is perfect, and death is the end of life. Then death is perfect.
次は、「神様っているのかなあ?」なのだが、本書(田島正樹)では存在には答えず、信頼と同様、神は生み出すものと説かれ、なんだか同語反復の判じ物のように思った。
私が今まで聞いてきた神の存在議論の多くは、
循環論(「神がいなければ世界はこうはなっていない」式の議論)、
理神論(神と世界を同一視する)、
損得勘定(パスカルの賭け)
最近では、実在を問わず(存在論を離れ)、神というイリュージョンを持つことが現生人類が、ネアンデルタール人を駆逐っできたという説もある(ユヴァル・ノア・ハラリ 『サピエンス全史』など)。
神をもたない部族があるという(ダニエル・エヴェレット『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』)。この本を読んでないし、この文化観察が本当に正しいのか私にはわからないが、もしそうだとするとかれらはどういう原理で統合されているのだろうか。
最後に引用するのは「哲学者って、何をする人なの?」
ここから、ほんの一部だけ引用して、この記事を終えることにする。
私たちは「穴」を掘ります。しかも、わざわざ掘らなくてもいい所に「穴」を掘って、歩きにくくしてしまったり、中に落ちてしまったり、時には掘りすぎて出られったりもします。そして、「穴」から出ようとしてもがいたり、落ちないように「穴」を塞いだり、元の平らな大地に戻したりします。時には、出られなくてもいいから「穴」の中にじっと留まったり、もっと掘り進めたりすることもあるでしょう。
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これは、元々「穴」のない所に、わざわざ「穴」を掘ったうえで、その「穴」を埋めようとしていることに等しいでしょう。 はたして、「穴」はうまく埋まるでしょうか。あるいは、いったん掘ってしまった「穴」は、どんなに塞ごうとしても埋まらないままでしょうか。あるいは、そもそも「穴」などほんとうは掘ることはできないのだと、認識を改めることができるでしょうか。あるいは、「穴」掘りも「穴」塞ぎも、どちらも虚しいことだと悟って、「穴」のことなど忘れて、ふつうの大地を歩いたり、走ったりすることに戻れるでしょうか。どの方向を選択するとしても、(スタイルが違うだけで)すべてが「哲学」であるように見えます。哲学者とは、それぞれの仕方で、どうしても「穴」に関わっ人たちなのだと思います。
これは「はじめに」にあった、たちどまって考えるという哲学のありかたに対応しているように思う。:
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これは、元々「穴」のない所に、わざわざ「穴」を掘ったうえで、その「穴」を埋めようとしていることに等しいでしょう。 はたして、「穴」はうまく埋まるでしょうか。あるいは、いったん掘ってしまった「穴」は、どんなに塞ごうとしても埋まらないままでしょうか。あるいは、そもそも「穴」などほんとうは掘ることはできないのだと、認識を改めることができるでしょうか。あるいは、「穴」掘りも「穴」塞ぎも、どちらも虚しいことだと悟って、「穴」のことなど忘れて、ふつうの大地を歩いたり、走ったりすることに戻れるでしょうか。どの方向を選択するとしても、(スタイルが違うだけで)すべてが「哲学」であるように見えます。哲学者とは、それぞれの仕方で、どうしても「穴」に関わっ人たちなのだと思います。
(哲学者って、何をする人なの?―入不二基義)
哲学というのは、それはそれでおもしろいかもしれない。何といっても正解を判定できないところで議論できるわけだから。
だが科学(自然科学だけではない、人文科学、社会科学も含めて)を信仰する私としては、やっぱり思う。真理を追い求めないのなら、それは神がする技ではないのだろうか。存在意義は神様と同程度にはあると思うが、それで心の平安も得られるかもしれないが、それで満足はできない。
科学と哲学は対立するものではない。相互に刺激し合うべきものだと思う。そして哲学は諸学の学ともいう。哲学はそうであってほしいと思う者にとっては、本書には、やっぱりはぐらかされ感が残ってしまう。知的遊戯だったのではないかと。
高校の歴史か倫理の授業で、古代ギリシアのソフィストを随分悪く教えられた憶えがある。