「これが現象学だ」

419S037V98L.jpg 谷徹「これが現象学だ」について。

読んでいて頭が痛くなる本。
第二章ぐらいまでは何とかついていけるのだけれど、三章に突入するとだんだんわからなくなり、五章あたりからは、だんだん腹がたってくる。

第一章、第二章は、基礎なんだろうと思う。ここでは論理学を正当化というか、説明することが目的のようで、ここを通過できれば、「豊かな」哲学的思索に本格的に入れるということなんだろうか。

しかし三章以下は、読めども読めども、何を対象として思索しているのかすらわからなくなってしまった。
だから、この書評には書かない(書けない。なら書くな、という声も聞こえるが)。

「語りえぬものについては沈黙しなければならない」とウィトゲンシュタインは言いました。


そのまだついていけている範囲から、論理を正当化するということについて考えてみる。
私などは、「pならばq」というのは因果関係とはとらえず、それは「pでないかまたはq」あるいは「(pであってqでない)ということはない」という、平板な条件文の形式であって、「ならば」に意味を感じたりなどしない、つまり徹底的な形式論理信奉者であって、日常用語と形式論理命題の間に、特別な意味論的関連は認めない。

序章 あなたと私が現象学だ
転換期の大いなる気概……学問と現実……自分自身で考える人とともに哲学する……フッサールが話すのを聞きたい?
第一章 現象学の誕生
第一節 数学から哲学へ
第二節 学問の危機
コーヒーブレイク……現象学と分析哲学
第三節 フッサールの根源的着想
コーヒーブレイク] 絵画の遠近法
第四節 無前提性
第二章 現象学の学問論
第一節 論理学と心理主義
第二節 アプリオリ
第三節 論理学と存在論と真理論
第四節 カントとの対決
第三章 直接経験とは何か
第一節 志向性と指示関係
第二節 ノエマの意味と基体
コーヒーブレイク……日本語の数詞と助数詞
コーヒーブレイク……日本語の領域と越境
第三節 ノエマの時間性・空間性
コーヒーブレイク……名探偵の個体論
第四節 ノエマの存在
コーヒーブレイク……捏造遺跡の存在論
第五節 ノエマ的成分とノエシス的成分
コーヒーブレイク……超越論的自我は自転車に乗れるか
第四章 世界の発生と現象学
意味の発生的構成……様相の発生的構成……世界は最大のノエマか
コーヒーブレイク……意味と地平の関係
第五章 時間と空間の原構造
原受動性……時間の原構造(流れつつ立ちとどまる現在)……空間の原形式(不動の大地)……明証性と隠蔽性……原初の世界の先存在……原初の世界と自我の成立(誕生)
コーヒーブレイク……贈与・保有・遊戯
第六章 他者の現象学
フッサールの他者論の根源的着想(諸現出と現出者の相関関係の拡張)……ライプニッツとフッサールのモナド論……リップスとフッサールの自己移入論……ディルタイとフッサールの精神(文化)世界
第七章 現象学的形而上学と事実学的諸問題
経験的事実学としてのフロイトの精神分析……現象学の新たな始原
現象学の基本用語集
あとがき
いいかえれば、「pならばq」でも「p then q」でも良く、論理とは、pという命題とqという命題があるとき、pとqとの関係を示すものであって、それ以上でもそれ以下でもない、意味論を展開する必要などない、そう考えている。

なにかあるとしたら、それは条件文が示す命題間の関係を含意する(恣意的な?)言語との対応が、どのように形成されたかということではないのだろうか。

本書は、ほとんどがフッサールの現象学の解説となっている。

知らなかったのだがフッサールは数学が得意で、ワイエルシュトラスの下でも学んだという。


哲学が自然界の真理を解き明かすなどということはないと思うのだけれど、それでも、哲学的思索・考察というのが頭の体操にとどまらない、つまり無駄なものではないこともある。哲学がのぞむことかどうかは別として、ときとして科学へアイデアを提供することもあるようだ。

その一つが、本書にある私にもわずかに理解可能な部分にして、なるほどと思わせるものが、時間の経過についてのもの。(ただし、この私の理解は本書の主張とは関係がない。むしろ誤解と呼んで差支えない)

ド・レ・ミという一連の流れがあったとして、今レの音が鳴っているとする。レの音が「原印象」であるが、その前に鳴っていたドの音は「把持」されており、これから鳴るであろうミの音は「予持(期待)」されている。この働きによって、ドレミというメロディが現出者として知覚される。


PCMエンコーディングでは、音は標本点(時間)における音の強度が記録されるだけである。ピアノの音とかフルートの音とかが記録されるわけではない。そもそも周波数が記録されているわけではない。それがピアノの音になるのは、標本点での値が連なることによってである。

人間は、音を、周波数(あるいは波長)と振幅としてとらえるけれど、それは広域的な性質であって、究極まで(つまり微細構造まで)見ようとすれば、広域的なものは見えなくなる。

音は、その周波数で鳴ろうと思っているわけではない。一つ一つの空気の分子は(共振などによって)制約された動きをするだけ。音を音として感覚するのは、人間の問題である。

つまり、人間の知覚には、予持(期待)はともかく、把持は前提されているわけだ。
それが純粋思考である哲学から得られるアイデアというわけだ。
(というか、やはり科学のほうが、より刺激的、思索的に思えるのだが)

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