Fが鳴らない

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赤線の始点にあるFキーを押すと隣のキーも閉まる
先日、フルートの練習を始めて、大変な違和感、というか音が鳴らないことで焦った。

はじめは全体に音が鳴りにくい感じがしたので、私の吹き方に問題があるのかなぁと思い、そのうち鳴るようになるだろうと続けていた。
いつものように半音階、全音階(C,D,…,H,C)を一通り吹いて、やっぱり鳴りにくい状態が解消されない。

やはりルーティンになっているMoyseのMethodをやり始めて、あれっこれは?
明らかに出ない音がある。Fである。そしてFisは問題ない。

Fのキー(右手人差し指)は、そのキーだけでなく他に2つのキー(指で押さえない)を遠隔操作で閉じるようになっている。Fキーの隣(上)とずっとはなれたAisのキーである。

以前、Fisが出なくなったことがあって、そのときはこの遠隔操作のための動きを伝えるネジが緩んでいたのが原因で、ネジを締めて解決した。
今回も同様だろうと考えて、まず遠隔操作がちゃんと伝わっているか見てみた。
そうするとFキーのすぐ上がきちんと閉じていない。ここをきちんと閉じると正常な状態になったから、この遠隔操作部分を直せばOKのはず。

さてところがこの遠隔操作を伝える機構が良くわからない。
Fisのときは、キーの裏にすぐに伝達機構が見えて、そこにネジが付いているのだけれど、Fはいったいどこで隣のキーへ力を伝えているんだろう?

前に使っていたパール製のフルートは、この部分は他のキーと同様、軸に付けられたタブを押す形になっている。(なのでF.Mehnertの機構を理解するのにちょっと時間がかかった)


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青いもの(紙)が見えるところが問題箇所

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(拡大)
力が伝わってきていないFの隣のキーを押さえて動く場所を探る。
ようやくFキーのすぐ裏に耳小骨のような場所があって、これが力を伝えていることがわかった。
Fキーを動かすとこの部分が動くが、そこに本来あってはならない遊びが発生していた。

原因が分かったので、その「遊び」をなくす方法である。
とりあえずPost-itの付箋の粘着部分を小さく(2mm×1mmぐらい)切って、この隙間に挿し込んでみた。期待したとおりにFの隣のキーがきちんと閉まるようになった。

この場所は常時くっ付いているが、固着しているわけではなく歯車のような仕掛けで力が伝えられる。なので他のキーの支持部のコルクのように接着しないと脱落するというようなことはない。応急手当としてはこれで一件落着である。

この現象がおきた日はレッスン日だったので、状況を先生に話したところ、先生は他の部分(Fisとか)では経験があるが、今までFでそういうことが起こった経験がないそうだ。つまり結構めずらしい事故というわけだ。

応急手当は紙を挟んで済ませているが、このまま使用がすすむと紙は圧縮されてまた遊びができてしまうおそれもある。そうなったら、圧縮されにくいプラスティック系の素材を挟んでみようと思う。

もちろん楽器屋に修理に出すのが良いのだけれど、オーバーホールしてまだ半年ちょっとである。もうしばらくこのまま様子を見ようと思う。

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電気ゆたんぽ

IMG20231124154817-crop.jpg 充電式ゆたんぽというのを購入した。

この製品についてはタイムスイッチの記事で言及している。

(このタイムスイッチ)値段が高い。こんな単機能の器具が2,980円か。このお金を出すなら、例えば蓄熱式のあんか(湯たんぽ)を新しく買うほうが良かったかもしれない。

その製品を買ったわけだ。

通販サイトの商品ページには「充電式」と書いてあるがそうではない。蓄熱式である。
発熱体と蓄熱用のオイル(?)が封入されていて、電源をつなげば15分程度で加熱完了となる。(熱くなりすぎないようにサーモスタットが入っている)

IMG20231124160330-crop.jpg タイムスイッチを買って(しまった)のに、追加でこのゆたんぽを購入したのは、楽器の練習のときに具合がよさそうだと思ったから。
寒くなってくるとどうしても指の動きが悪くなる。酷い時はお湯で指を暖めるのだけれど、そうすると指が濡れるわけで、乾いたタオルでいくら拭いても完全に水気がなくならないから、こんどは蒸発熱が奪われることになる。その点、この湯たんぽに指を突っ込む(ちゃんと手を入れられる構造になっている)と、そういうことはない。また、蓄熱媒体が液体のようなので、手になじむように思う。

12時間も暖かい状態ということで、楽器練習の前の数分の後ももちろん暖かいわけで、そのままソファなどに置いて動かないネコのようにして、気が向いたときに暖を取る。床に置いて足を暖めても良い。いろいろ使えるわけだ。

だけど気になることもある。
実ははじめは商品ページの説明を読んで充電式だと思っていて、バッテリーが内蔵されていてその電力で発熱させるものだと思っていたわけだが、そういうものだったら充電式カイロのように使えるだろう。ということは発熱させるのも止めるのもスイッチでできることになる。
しかし蓄熱式というのは、加熱が終わったらあとはずっと熱を発し続けるわけで、必要ないときでもスイッチが入りっぱなしといってもよい。無駄に電力を使うことにならないだろうか。

もっとも暖房を使うようになれば、この湯たんぽが発する熱も暖房になると考えることもできる。
湯たんぽの熱は無駄になるわけではなく、その分、暖房器具の運転量が減るという理屈もある。
すべてのエネルギーは最終的に熱エネルギーになる。
熱が欲しいなら、いかに効率の悪い電気製品でも、その悪い効率は熱になるから無駄ではないだろう。暖房を使う冬場なら、この湯たんぽの不効率も無視してよいかもしれない。

電気代は気にならないこともないけれど、取説には400Wと書いてあった。我が家のエネファームの電気使用状態モニターで見ても、蓄熱中の表示では+0.4kWで同じ。400W×15分なら、100Whだから大したことはないと思うけどどうだろう。

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里中満智子「古事記」

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里中満智子「マンガ ギリシア神話」の記事で、〝第7巻を除いて各巻の最後には、巻末特別付録として、日本神話との比較(『古事記」との関連について)で著者の感想などが置かれている〟、里中氏は〝『古事記』もまんがにしているらしい(私は読んでない)〟と書いている。

その「読んでない」と書いた、里中満智子氏の「古事記」を購入した。「壱」と「弐」の全2巻。
文庫版もあるけれど、やっぱり年寄りにやさしい大判のものを買うことにした。

大判のものは「壱」「弐」とも1,760円、文庫本は「上」「下」の2巻で各660円。
ただし私はネットで古本を探して、2巻合わせて1,750円のにしたけど。
※古事記原文は上巻・中巻・下巻の構成だから、文庫本の「上」「下」表記は不要な混乱を起こすのでは。


まんがの古事記については、以前こうの史代「ぼおるぺん古事記」のことを記事にしている。
「ぼおるぺん古事記」は実にユニークでチャレンジングな作品である。延々と神名を並べることを厭わず、むしろまんがという体裁をうまく利用して、神名のリストを読者が楽しめるのではないかというものになっていたと思う。

それと比べたら里中「古事記」は、むしろオーソドックスなまんがになっている。
「ぼおるぺん古事記」は「古事記」そのものをまんがで再現しようとしたもの。里中「古事記」は「古事記の物語」というようなものになっている。

そのことについて、冒頭で作者が次のとおり書いている。
古事記に描かれている事柄や人物などについては古来よりさまざまな解釈がなされています。

「これは事実ではない」「この人物は実在ではない」など色々な見方や考え方があります。また数多くの解釈、解説書もあります。

私は、今回この作品を描くにあたって「物語としての古事記」のつもりで描きました。ですから「学問としての解釈」と必ずしも一致していない部分があることをご理解ください。

古事記 壱
 
上巻(かみつまき)
その壹 この世の始まり
その貳 天の石屋戸
その参 八俣大蛇
その肆 大穴牟遅
その伍 根之堅州国
その陸 大国主神
その漆 少名毘古那
その捌 国譲り
その玖 天孫降臨
その拾 木花之佐久夜毘売と石長比売
その拾壹 山幸彦と海幸彦
その拾貳 豊玉毘売と玉依毘売
 
中巻(なかつまき)
その壹 神武東征
その貳 天皇誕生
その参 欠史八代
 
神々の系図
古事記ゆかりの地
巻末に寄せて 竹田恒泰
 
 
古事記 弐
中巻(なかつまき)
その肆 三輪山の大物主神
その伍 沙本毘売
その陸 本牟智和気御子
その漆 小碓命
その捌 出雲建
その玖 倭建命
その拾 草薙剣
その拾壹 弟橘比売
その拾貳 倭建命の帰還
その拾参 息長帯比売
その拾肆 大雀命
 
下巻(しもつまき)
その壹 皇后石之日売
その貳 皇位継承
その参 歴史への道
 
歴代天皇系図
地図
古事記あれこれ 阿刀田高
内容としては、子供の頃に読んだ古事記由来の神話とそう変わらないと思う。文字を追っかけたら、その種の子供用古事記よりも簡略なぐらいかもしれない。
ただし、まんがだから、吹き出しに込められた登場人物(神々?)の言葉でストーリーが進むから臨場感をもって読めると思う。

見どころは、絵として表現される衣装、装身具、風俗、あるいは景色かもしれない。作者はかなりのこだわりと考証を持って描き込んでいるのではないだろうか。

たとえば、高天原を追い出された素戔嗚が上流から箸が流れてきたのを見て、そちらに人が住んでいると推量する話があるが、流れてくる箸の絵では、後ろがつながったトング(ピンセット)状のものが描かれている。迂闊な作家なら普通に2本の棒を書いてしまうのではないだろうか。

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弥生時代末期の遺跡から竹を折り曲げたトング状の「折箸」が出ているという。ただしこれは神へお供え物をするときに使われた祭器らしい。食事に箸を使うようになるのは飛鳥時代からというが、その頃は二本の棒状かな。
古事記には箸でほとを付いたという話がいくつかあるが、トング状だと無理があるような気もする。そもそもその種の話は誤読だという説もあるようだが。


まんがはストーリーを追うだけなら、あっという間に読んでしまうけれど、描く方は大変な時間と労力を注ぎ込んでいると思う。
そのことに敬意を払って、じっくりと絵も鑑賞していきたいものだ。

里中満智子「マンガ ギリシア神話」では、ギリシア神話と日本神話(古事記)との関連について考察されているが、本書でもギリシア神話との関連について書かれている。

「古事記」の天の石屋戸と、「ギリシア神話」のデメテルの洞窟隠れ。里中先生による、それぞれの解説ページを掲載しておく。


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「ギリシア神話」から                 「古事記」から      


「古事記」は随分前に、三浦佑之「口語訳『古事記』」で読んだけれど、ほとんど憶えていない。今回、まんがで面白く読ませてもらった。
だけれど、「まんが ギリシア神話」の記事でも書いたけれど、「古事記」の全部の話が収録されているわけではないだろう。

やっぱりもう一度「口語訳『古事記』」を読み直そうか。
(この本、実家にあるはずだがどこへ行ったかな)


【報告】

本記事とは関係ないけれど、昨日、本ブログのリンク集を久しぶりに更新して、「モーツァルト作品目録」に替えて、新たに用意した「Mozart works」のページにリンクした。
体裁を変更した以外は、Wikipediaのモーツァルト作品一覧と、立項されているジャンル別作品リストへのリンクを収録しただけしか違いはないけれど、関心があれば見ていただければと思う。


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日本産ワイン

IMG20231125172005-cropr.jpg 先日、夕食の買い出しで、久しぶりにビーフステーキにすることにして、それならやっぱりワインだなと考えて、しばらく飲んでなくて、家の在庫もないので、一本買って帰ることにした。

特にワインにこだわりがあるということもなくて、いつも1000円を超えないぐらいの赤ワインで、フランス、イタリア、チリあたりのものを買うことが多い。

だが先日は、ちょっと日本産のものを試してみようと思った。テレビで河内ワインがとりあげられていたのを見たからでもあるし、輸入ワインはやはり輸送時に傷むこともあるというから、日本産ならより生産者の狙った品質で届けられるのではないかと思ったこともある。

売り場を見ても、河内ワインは置かれてなかったので、ならどうでもよいかと思って、銘柄とかはさっぱりわからないけれど、高畠醸造というラベルが貼られたものを買った。持って帰ってから家で見たら山形産。原材料のブドウは日本産とあるけれど、ごていねいにそのラベルには醸造所で収穫したものではないと但し書きもしてあった。

さっそく飲んでみた。
色はロゼかと思うぐらい明るい赤。綺麗である。
そして味は、フランスワインなどとは違い、渋みというのがほとんどなく、すっきりした酸味のあるもの。キレがあって喉越しも良いと思う。
ワインを飲み慣れない人でも、おそらく抵抗感なく飲めるものだと思う。
料理は牛サーロインステーキで脂っこいものだが、それをさっぱりとさせてくれる。

私はもう50年ぐらいワインは飲んでいるが、はじめはサントリーやメルシャンのものぐらいしか手にいれにくかった。そしてそれらは日本製ではあるものの、輸入ワインのブレンドであったりして、日本産とは言いにくかったように思う。
それが今では、日本産ワインも世界的に認められつつあるようだ。日本産ウィスキーが世界で高い評価を受けているように、ワインもそうなるかもしれない。

何といっても日本人が作るものは、衛生的で律儀に、しかも職人技が必要なものとなると情熱がこもったものになるように思う。
これからも日本産ワインを飲んでみようと思う。値段も決して高くないし。

日本産ウィスキーはサントリーレッドとか安物は別として、しっかりしたものはスコッチなどより高い。どうしてもカティサークあたりを買ってしまう。


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新型コロナワクチン接種―7回目

IMG20231125151914-crop.jpg 昨日、新型コロナワクチンの7回目の接種を受けた。
前回同様、自治体の集団接種は行われなくなっているので、かかりつけ医の医院での接種である。

いったいいつまでワクチンを受け続けるのだろうという気持ちもあるけれど、新型コロナウィルスは変異性が高いので、インフルエンザ同様、はやっているタイプに対応したワクチンが今後も接種されるのだろう。

今回も全額公費での接種だが、おそらく次回あたりからは自己負担が発生することになるのだろう。
インフルエンザも自治体の補助はあるが、自己負担もあるから、同じような扱いになると思う。

ワクチンを打っているからか、それとは関係なくなのかわからないが、今まで新型コロナに感染してこなかった。知り合いにはちょくちょく感染者がいるし、入院中の家人は院内感染したけれど、私にとってはまだ遠いような気もする。

これで安心ということは決してないと思うけれど、そして今でも通勤や仕事、外出時にはマスクをしているけれど、この状態はいつまで続くんだろうか。

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お水がいらないラーメン(その2)

IMG20231124120644-crop.jpg 先日「お水がいらない ラーメン横綱」の記事で、

この商品のような豚骨醤油味というのは、どうしてもぬめっとした感触は好みからは少々はずれる。

と書いているが、同じお水がいらないラーメンの他の商品はどうだろうと思って、店頭で眼にした別の商品を試してみた。
今回は、「横浜家系」である。

「横浜家系」とか「家系」とかいうのは、眼にしたことはあるけれど、どういうものか知らない。なんで家系というのかも知らないが、ネットのラーメンに関する記事に多く出てくる。特徴は、豚骨醤油味+鶏油、ストレート太麺ということらしい。おやおやこれも豚骨醤油だったのね。
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包装に「濃厚豚骨醤油味」と書いてあるのだけれど、横綱以外ならと思って、あまりチェックもせずに購入。


作り方は前「横綱」と全く同じなので、その紹介はパスして、食べた感想だけ書いておく。
スープはやはりこってりしているけれど、ぬめり感は「横綱」よりは少ないと思う。が、やっぱり鹹い。「お水がいらない」にこだわって、そのまま食べたけれど、私としてはちょっと薄めたいところ。
麵は横浜家系の特徴とされるストレート太麺。しかしどうもコシがないように思う。細いうどんのような食感。

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「お水がいらないラーメン」はいろんな種類が出ている
豚骨醤油でないものは、喜多方ラーメンとか塩元帥などがある。塩元帥は名前は聞くが(割合近いところに店もある)食べたことはない(いつも行列してそうなので)。喜多方ラーメンなら京都拉麺小路で食べたことがある。

そういうのが店頭に並んでたら買って、あっさり・すっきりのラーメンかどうか確かめるのもよさそうだ。

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「五輪書」(「二天一流兵法書」)

61KJDPe2I_L_SL1277_.jpg 宮本武蔵「五輪書」(大倉隆二訳・校訂)について。

およそ名の知られるナンバーワンの剣豪が残した、あまりに有名な書。

「五輪書」は通称(地、水、火、風、空の五巻からなることからだろう)とのことで、武蔵が付けた書名ではないようだ。訳者は「二天一流兵法書」と呼ぶのが本来だとする。


以前からその存在は知っていたけれど、あらためて読んでみようと思ったのはNHK「英雄たちの選択」で宮本武蔵がとりあげられ興味をもったからである。

宮本武蔵は剣豪の中でも特別で、吉川英治の「宮本武蔵」ではほとんど神格化されているという感じがする。

実は吉川英治の本は読んでないのだけど、武蔵を描く映画・ドラマの多くが吉川英治の本にもとづいている。2003年の大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」もそうである。多くの人がそうしたものから武蔵のイメージを持っているのではないだろうか。

一方、そうした特別視・神格化への反発もあってのことだろうが、島原の乱に参陣したのは良いものの、投石に当たって歩けなくなり、戦線を離脱したという情けない話を紹介する本もある。

ちなみに、関ケ原では小説やドラマでは西軍側で戦ったとされているが、「英雄たちの選択」では、新資料によると関ケ原の戦いがあった時には、九州黒田家の下で黒田家家臣であった父とともに東軍として戦っているそうだ。そしてそこで九州細川家との縁もできたらしいと推測している。

番組では、剣の使い手というだけでなく、優れた絵が残されているとか、明石では都市計画や庭園設計を行っていたなどの事績が紹介されていた。
なお、「五輪書」には、「武士は文武二道といって、二つの道を嗜むことは道である」とあるから、武蔵も文をも知ることは武士として当然と考えていたようだ。

その武蔵が兵法としての二刀流を概説したものが「五輪書」である。
読んで驚いた。全編を通して、二天一流が説く兵法というのは、実に合理的なものだと思った。
小説やドラマでは、あまりにもストイックで、剣術に精神性が込められるかのように描かれていると思うけれど、「五輪書」にある兵法は、闘いに勝つことがその本義であるというアタリマエのことが書かれ、精神的なものは全く見られない。

またよく時代劇とかでも出てくる「○○流の奥義」などという言葉があるが、「五輪書」ではそうした意味での「奥義」などというものは無い。言葉として「奥」はあるのだけれど、「五輪書」でいう「奥」とは、難度が高い技で初心者には難しく、上達に応じて教えるものであり、闘いの場に応じて「口」(初歩)の技、「奥」の技を使い分けるだけのことであり、秘密の技とか必殺技という意味は全くない。

第四・風の巻では他流の批判が集められている。そこでは、刀の長さにこだわる、刀を強く振ることにこだわるという他流について、こだわることを批判し、そうしたこだわりは無意味とする。
またさまざまな技(太刀すじ)を誇る流派に対しては、そういうもので飾り立てて商売をしているにすぎないと言う。

ましては「奥義」とか「免許皆伝」とかいうものは、およそ武蔵の兵法からは遠いものだろう。


「五輪書」の第一・地の巻には、二刀流を名乗る意味について説明がある。

一 此一流二刀と名付る事。二刀といひ出す所、武士ハ将・卒ともニ、直ニ二刀を腰に付る役也。昔ハ太刀・刀と云、今ハ刀・脇差と云、武士たる者の此両腰を持事、こまかに書顕すに不及。我朝におゐて、しるもしらぬもこしにおふ事、武士の道也。此二の利をしらしめむために二刀一流と云也。鎧・長刀よりしてハ、外の物と云て、武道具之内也。
 一流之道、初心之者におゐて、太刀・刀両手に持て道を仕ならふ事、實之所也。一命を捨るときハ、道具を残さす役に立度もの也。道具を役にたてす、腰に納て死する事、本意にあるへからす。然とも、両手に物を持事、左右ともに自由にハ叶かたし。太刀を片手にて取習せむため也。鑓・長刀、大道具ハ是非におよはす、刀・脇差におゐてハ、何も片手にて持道具也。太刀を両手にて持て悪敷事、馬上にてあしゝ、かけはしるときあしゝ、沼、ふけ、石原、さかしき道、人こミに悪し。左に弓・鑓をもち、其外何れの道具を持ても、ミな片手にて太刀をつかふ物なれハ、両手にて太刀を構事、実の道に非す。若、片手にてうちころしかたきときハ、両手にても打とむへし。手間の入事にても有へからす。先、片手にて太刀を振ならわせむために、二刀として太刀をかた手にて振覚る道也。人毎に始て取付時ハ、太刀重くて振廻しかたき物なれとも、萬始てとり付ときハ、弓もひきかたし、長刀も振かたし。何も其道具/\に馴てハ、弓も力強くなり、太刀も振つけぬれは、道の力を得て振よくなる也。
 太刀の道と云事、はやく振に非す。第二水之巻にて知へし。太刀ハ廣き所にて振、わきさしハせはき所にてふる事、先、道の本意也。此一流におゐて、長きにても勝、短きにても勝故に依て、太刀の寸を定す。何にても勝事を得るこゝろ、一流の道也。太刀ひとつ持たるよりも二もちて能所、大勢を一人して戦時、又とり籠りものなとのときに能事有り。か様の儀、今委敷書顕すにおよはす。一をもつて万をしるへし。兵法之道おこなひ得てハ、ひとつもミへすと云事なし。能々吟味有るへき也。

一 この一流を二刀と名付けること。二刀と言いだすのは、武士は、武将も兵卒もともに直に腰に二刀を着ける役目だからである。昔は太刀:刀といい、今は刀・脇差といい、武士たる者がこの両腰(二刀)を持つ事は詳しく書き表すまでもない。わが国においては、その起源や理由を知る知らずにかかわらず、〔二刀を〕腰に帯びるのは武士の道である。この二刀の利(道理)を理解させるために二刀一流というのである。鑓・長刀など〔号・棒・ほか〕は、「外のもの」(周辺武術)といって、〔二刀とは別の〕武道具の内ではある。
 わが一流では、初心者が太刀・刀を両手に持って稽古するのは事実である。戦いで一命を捨てるときには、持てる武器を残さず役に立てたいものである。武器を役に立てず、腰に納めたまま死ぬのは不本意であろう。しかしながら、両手にもの(刀・武器)を持つことは、左右ともに自由には叶いがたい。 太刀を片手で取り習わせるため 〔二刀を持たせるの〕である。 鍵・長刀などの大道具は仕方がないが、刀・脇差はいずれも片手で持つ武器である。太刀を両手で持つとよくないのは、馬上や、駆け走るときなどである。また、沼、湿田、石原、険しい道、人混みなどでもよくない。左手に弓や鍵を持ち、そのほかいずれの武器を持っていても、みな片手で太刀を使うことになるので、両手で太刀を構えるのは実の道ではない。もし片手で打ち殺しにくいときは、両手で打ちとめればよい。手間のいることではない。まず、片手で太刀を振り習わせるために、二刀にして、太刀を片手で振り覚えさせるのである。だれでも初めて取りかかるときは、太刀は重くて振り回しにくいものだが、何ごとも初めてのときは、弓も引きにくく、長刀も振りにくいものである。いずれもその道具に慣れてくれば、弓も力強くなり、太刀も振り慣れればその力がついて、振りやすくなるものである。
 太刀の道(振り方)というのは、速く振るということではない。第二水の巻でわかるだろう。太刀は広いところで振り、脇差は狭いところで振ることは、まず道(太刀の道)の本義である。この一流では、長い太刀でも勝ち、短い脇差でも勝つことが目的であるので、太刀の寸法は定めない。いずれによっても勝ちを得るという精神が、わが一流の道である。 太刀を一つ持つよりも二つ持つのがよいところは、大勢を相手に一人で戦うとき、また立て籠もった者に対するなどのとき、よいことがある。このようなことは、いま詳しく書き表すまでもない。一事をもって万事を知るべきである。兵法の道を修得したならば、何一つ見えないということはない。よくよく吟味すべきである。

〔〕:原文にない語句を補填
():訳語の意味を補足説明

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おいおいそんな簡単な話? 武士は二本さしているのだから、二刀を使うのはアタリマエであるといい、馬に乗るとき、左手に弓を持っているときは、片手で太刀を扱うしかないではないかと言う。
(もちろん片手でうまくいかなければ両手で太刀を持つことが禁じられるわけではない。)

子供の頃、片手で太刀を振るなんて力がないとできないことで、武蔵のマネなどするものではないと言われていたが、なんのことはない、武蔵は初心者のときから片手で太刀を振るえるように稽古しろという。それができないと実戦では困ったことになるというわけだ。

その太刀の長さについても、闘いの場に応じてふさわしいものを使えば良いといい、また普通は太刀と脇差を持つだろうが、場合によっては両手に太刀を持つと有利になる場合もあるとする。

こうした兵法とはおよそ精神性からは程遠い実用のものであろう。
二刀にも一刀にもこだわらない、道具にこだわらない、兵法自体にもこだわらない、そうしたものにこだわると勝機を失うというわけだ。

武士の精神性といえば、「武士道といふは死ぬ事と見つけたり」(山本常朝『葉隠』)という有名な言葉があるけれど、もし武蔵がこれを聴いたらどう思っただろう。
地の巻には次のように書かれている。

 夫兵法と云事、武家之法也。将たるものハとりわき此法をおこなひ、卒たる者も此道を知へき事なり。今世の間に、兵法之道、たしかにわきまへたると云武士なし。
 先、道を顕して有ハ、佛法として人をたすくる道、又、儒道として文の道を糺し、醫者と云て諸病を治する道、或哥道者とて和歌之ミちををしへ、或ハ数寄者、弓法者、其外、諸藝諸能迄も思々に稽古し、心々にすくもの也。兵法之道にハすく人まれ也。
 先、武士ハ文武二道と云て、二の道を嗜事是道也。たとひ此道不器用なりとも、武士たるものハおのれ/\か分才ほとは、兵之法をハ勤へき事也。大形武士の思心をはかるに、武士ハ只死と云道を嗜事と覚ほとの儀なり。死道におゐてハ、武士計に限らす、出家にても女にても百姓巳下に至まて、きりをしりはちをおもひ死所を思ひ切事ハ、その差別なきもの也。
 武士の兵法をおこなふ道ハ、何事におゐても人にすくるゝ所を本とし、或一身之切合に勝、或数人之戦に勝、主君之ため我身のため名をあけ、身をもたてんとおもふ、これ兵法の徳を以てなり。又世の間に、兵法之道を習ても、實之とき役ニハ立間敷とおもふ心有へし。其儀におひてハ、何ときにても役に立様に稽古し、萬事に至り役に立様にをしゆる事、是兵法之実の道也。

 そもそも兵法というのは、武家の法である。武将たるものはとりわけこの法を修行し、兵卒たるものもこの道を知るべきである。〔しかし、〕いま世の中に兵法の道をたしかにわきまえているという武士はいない。
 まず「道」として知られるものには、仏法という人を救う道があり、また儒道といって学問の道を糺し、医者といって諸病を治す道があり、あるいは歌道者といって和歌の道を教え、あるいは数寄者(風流人・茶人)、弓術者、そのほかさまざまな芸能・技芸まで思いおもいに稽古し、それぞれに愛好している。が、兵法の道には、これを好む人は稀である。
 まず、武士は文武二道といって、二つの道を嗜むことは道である。たとえこの道に才能がなくても、武士たるものはそれぞれの身の程に応じて、兵法の道を修行すべきである。だいたい武士の考えていることを推測すると、武士はただ「死」という道を嗜むこと(死を覚悟すること)、という程度に考えているようだ。が、死を覚悟するということにおいては、武士に限らず、 出家 (僧侶)でも女でも、百姓以下にいたるまで、義理を知り、恥を思い、死を覚悟するということにおいては、その差別はないのである。
 武士が兵法を修行する道は、何事においても人に優れるということが本義であり、あるいは一対一の切合いに勝ち、あるいは数人の戦いに勝ち、主君のため・わが身のために名をあげ、立身もしようと思うこと、これこそ兵法の徳によってできるのである。また世の中には、兵法の道を習っても、実際のときの役には立たないだろうという考えもあろう。そのことについては、いつでも役に立つように稽古し、いかなる事態にも役に立つように教えること、これが兵法の実の道なのである。

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死を覚悟することでは、武士に限らず百姓も同じ、僧侶でも女子でもその差別はないと言い切っている。

こう見てくると二刀流とは実用・実戦向きということになるわけだ(ただし二刀にこだわってはならないが)。
それで思った。剣道(スポーツ競技)については詳しくないのだけれど、二刀流は禁止されているのだろうか。ネットで調べると、二刀を持つことを禁じているわけではなく、剣道の大会などで、二刀流の選手はときおり出てくるらしい。
ただし剣道での二刀流にはいろんな制約があるそうだ。長さ制限とか、相手の太刀を受けるときには二刀をクロスさせて受けなければならないとか。武蔵ならきっとそれでは二刀流の意味がないと言いそうだ。
ただ逆に言えばそういう制約がなければ二刀流が有利になるということなのかもしれない。

吉川英治も「五輪書」は読んでいると思うのだけれど、どうして精神性の高い武蔵像になったのだろうか、不思議なことである。
もっとも徹底した合理主義は、それはそれでストイックな武蔵に通ずるところもあるような気もする。闘いにのぞんでどうやったら勝てるか、さまざまな工夫を考える武蔵。
卑怯者よばわりされても、12歳の吉岡源次郎を切り捨てる。(これって史実?)

もっとも飛び道具を使わない闘いというのはやっぱり本当の戦さではない。
というか、「五輪書」が書かれた時代は、既に鉄砲が戦争の主力であり、剣術は戦争の道具としては重視されなくなっており、それゆえに「今世の間に、兵法之道、たしかにわきまへたると云武士なし」と書くことになったのだろうと、訳者は推定している。
「五輪書」も江戸初期にはそれほど珍重されず、原本や確かな写本が失われることにもなるだろうという。
皮肉なことに、「武士道」、「剣術」が再評価される「葉隠」の時代になって、武蔵も再評価されることになる。

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タイムスイッチ

タイムスイッチを購入した。時刻にあわせて電流のON/OFFを切り替えるものである。

子供の頃、母がタイムスイッチを使って、電気炊飯器の電源を入れていたと記憶する。夜のうちに米を洗って炊飯器の釜に入れておき、あとは電源を入れるという状態にしておき、炊きあがり時刻に合わせて炊飯器の電源を入れるという使い方だったと思う。

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昔使っていたオーディオ用タイマー
(写真はネットで拾ったもの)
私はFM放送を録音するのにタイムスイッチを使っていた。
こちらはピンを挿してある場所でON/OFFするというタイプで、15分間隔でピンの数だけON/OFFができるものだった。
電源を入れない状態でテープレコーダーの操作レバーを録音にしておき、通電されると録音が始まるという使い方である。

細かい話だが、こういう待機状態のときでもテープを送る/抑えるローラーはテープに密着することになり、この状態を長時間続けるとローラー(ゴム製)に歪みを生じワウを起こす危険がある。なので通電されるまでローラーは少し離れた位置で待機させる機能が付いたレコーダーもあった(私はもちろんこちら)。


であるけれど、上述のような家電製品の多くは、今ではどれもタイマー内蔵がアタリマエになっていて、タイムスイッチを使うことはなくなっている。
それに、家電製品の多くは電子制御になっていて、元電源のOFFはともかく、ONで所定の動作をさせることは難しくなっている。照明器具のようなシンプルなものですら、元電源が入った状態でないとスイッチを入れられないものが多い。
こうした事情はスマートプラグも同様である。

今回購入したのは、電気あんかのON/OFFが主目的である。
この電気あんかはタイマーどころか、通常のON/OFFスイッチすらついておらず、プラグの抜き差しでON/OFFをするというもの。だから今までは、電源をとる場所として、スイッチが付いたテーブルタップを使っていた。

常時、プラグの抜き差しでON/OFFするのは避けるべきことと考えられている。


であるけれど、あんかというのは就寝の30分ぐらい前には通電しておかないと、ふとんに入った時に暖かくない。頃合いを見計らって電源を入れにいくというのも面倒なことである。
ということでこれこそタイムスイッチの出番だなということである。

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タイムスイッチがOFFの状態(LEDが赤点灯)

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タイムスイッチがONの状態(LEDが緑点灯)

ONのときに発光、OFFのときに消灯
のほうがわかりやすいように思う
購入したのはON/OFFコンセントタイマーというもの(\2,980)。

単純な器具だと思うのだけれど、設定はなかなか難しかった(説明書がひどくわかりにくい)。最初の時刻合わせでも苦労したし、タイマーのセットもわかりにくかった。
それでも何とかセットして、やりたいことはできるようになったわけだが、このタイマーはどうやらON/OFFは1日1回だけのようだ。情報処理のレベルが低すぎる。

また、内蔵クロックを動かすためだろう、ボタン電池をセットするようになっているのだが、この器具はAC電源につないで使うものなのだから、充電式電池を使っても良いように思う。

多分、DCコンバータを内蔵するとサイズが大きくなったり、価格が上がるのだろう。


それに値段が高い。こんな単機能の器具が2,980円か。
このお金を出すなら、例えば蓄熱式のあんか(湯たんぽ)を新しく買うほうが良かったかもしれない。

ではあるけれど、もう買ってしまったし、目的の使い方については過不足はないから、この冬はこれを使って電気あんかを就寝時の少し前(今のところ21時)にON、そして寝入った頃(1:00に設定)にはOFFにして、足元が暖かいベッドで眠ることにする。

シンプルな器具だけれど、販売されている商品の種類は少なく、値段も高め。使う場面が限られ、あまりニーズがないからだろう。

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「古代ギリシアの思想家たち」

81huHayvZ5L_SL1500_.jpg 高畠純夫「古代ギリシアの思想家たち―知の伝統と闘争」について。

古代ギリシアの思想家といえば、世界史や倫理社会の授業で、その名前と「ラベル」とか箴言などを教えられた記憶がある。

ラベルとは、デモクリトスは「原子論」、ターレス「万物は数である」、ソクラテス「産婆法」などなど、その思想を特徴づけるもの。
そういえば、大昔に「ソ、ソ、ソクラテスかプラトンか、ニ、ニ、ニーチェかサルトルか、みーんな悩んで大きくなった」というウィスキーのCMソングがあったなぁ(歌っているのは野坂昭如)。


古代ギリシアに関する本といえば、塩野七生「ギリシア人の物語」以外は、ギリシア神話やギリシア悲劇・喜劇などの文学作品は読んだことがあるが、本書のテーマである思想についてはまとまった本は読んだことがなかったように思う。それが本書を読んでみようという動機になった。

数学の淵源は古代ギリシアにあるということで、数学者の言葉も結構知られている。また、学生時代、自然科学史のゼミでボホナー「科学史における数学」という本をネタにして、古代ギリシアの数学の雰囲気にも少しだけ触れた思い出がある。


謎の思想家
 
叙事詩と抒情詩の世界
 
哲学者とソロン
 
前五世紀のアテナイ
 
アンティフォン
 
ソクラテス
それはさておきソクラテスはともかく、アンティフォンという思想家(にして政治家)が本書では重きをなしている。冒頭の「謎の思想家」とはアンティフォンのことだし、第4章でもまたあらためてとりあげられる。

ちなみに塩野七生本では政治家という面がとりあげられるソロンも本書では思想家という面もとりあげられる。
他の有名政治家の名前ももちろん出てくる。ペリクレスはもちろんアルキピアデスなど、ソクラテスやアンティフォンとほぼ同時代の政治家は思想家の活動した時代背景を説明するために登場するわけだ。

学校の世界史などでは、ソクラテスとソフィストは対立的にとりあげられたと記憶する。知的(言語的)遊戯に堕したソフィストの世渡り術に対して、真理を追究するソクラテスという構図である。
ソクラテスが裁判にかけられ死を宣告されたのはそうしたソフィストたちの陰謀であるという話もあったように思う。

本書によると、近年は、ソクラテスも当時はソフィストと称されていた一人だったのではないかという考え方もとられるようだ。ソフィストは思想的に一派をなしているわけではないから、ソフィスト=知恵者という当時の語法ならソクラテスもソフィストにあたるということだろう。

であるが、ソクラテスが直接的に他のソフィストを攻撃しなかったとしても、「産婆法」を使って相手の無知を鋭く指摘して信用を失墜させ、市民の相談を無償で受けていたというのなら、ソクラテス以外のソフィストたちからは共通の敵とみられたと言えるかもしれない。なにしろソフィストは民主政を動かしていくための弁論術を教えることで収入を得ていたのだから。

そのソクラテスとほぼ同時代の有力なソフィストがアンティフォンである。 私はこの人についてはほとんど知らなかった。ギリシアの思想家といえば、ソクラテス、プラトン、アリストテレスという系譜以外は、ゼノンのパラドックスで名を遺すゼノンや、冒頭にあげた数学者ともみられる人たちで、高校の教科書にもアンティフォンの名は載っていなかったと思う。だとしても恥ずかしがることはないと思うのは、塩野七生「ギリシア人の物語」でも、この人の名前は全く出てこないから。

そのアンティフォンを本書では、冒頭で「謎の思想家」とし、ソクラテスと並んで独立した章を立てて紹介する。
本書ではその事績について、数学、天文学、生物学などなど、幅広い分野に足跡を残しているとする。とくに数学では円に内接・外接する多角形を考えて円周率の上下限を求めるという行跡もあげている。
本書ではそうした諸説の真偽そのものよりも、それだけの広い分野を見ていたということに注目し、それこそ諸学の学たる哲学というのか、ギリシアの思想家たちの特性であると主張しているように思う。

目次でもわかるように、本書はアテネの盛期における思想家が中心となっている。第2章にとりあげられるソロンはまさに民主政都市国家アテナを決定づけた改革者だ。
最終章はソクラテス。ソクラテスが死ぬのはアテネの衰退期である。

この後、著名な哲学者・思想家はより広い地中海世界で活躍する。
シラクサのアルキメデス、アレキサンドリアのユークリッド、アポロニウス。

思いつくのは数学者ばっかりだな。

本書だけで古代ギリシアの思想家を知ったことにはならないと思うけれど、少なくともアテネが元気な時代のギリシアはあとまっているのではないだろうか。

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鉢物植物も案外しぶとい

IMG20231119143057-crop.jpg 家人が丹精込めた(と思われる)鉢植えの草木、すべて枯らせてしまったと書いた

だけれど鉢からでもしっかりと再生してきているものがあった。
まず目についたのがバラ。
立派な園芸品種とかではなくて、野ばらかなと思うのだけれど、小ぶりだけれどしっかり花を咲かせた。
鉢の中でも、茎・枝が青くて生きていることはわかっていたけれど、あまり葉っぱもつけてないから、花はどうかなと思っていたのだが、写真の通りちゃんと花が咲いた。

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IMG20231119143103-crop.jpg バラよりももっと驚いたのはアロエ。
こちらは完全に枯れてしまったと思っていて、鉢の場所も玄関から庭の片隅へ移し、あとは鉢を空っぽにするのを待つという状態だった。
それがなんと、青々とした新しい茎が生えてきている。
前の枯れた茎が場所を占めているからか、鉢の隅っこのほうで頑張っている。いつかこの元気な部分を別の鉢に植え替えてやろうと思う。

枯れたわけではないが、鉢植えのゴールドクレストがあって、おそらく根は鉢の底を抜けて地下まで伸びているものと思うが、二階に届く丈にまで伸びていた。(先日、庭の剪定のときに刈り込んでもらった)
鉢でもそれなりの大きさにはなるようだ。

植木屋などでは、木の根っこの部分に丸く土を抱かせて包んであるものを見かけるが、これも大きな鉢植えみたいなものかもしれない。ホテルなどでは、季節に合わせて植栽を入れ替える。そうした木を運んできて植えるように思う(そして季節が終わったら抜いて運び出す)。

鉢でもしぶとく生きている草花もある。けれど他の鉢はほぼすべて「雑草」の住処になっていることはかわらない。というか多くはパンジーとか一年草の鉢だから、これはこれでしかたがないか。

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お水のいらないラーメン

IMG20231117115034-crop.jpg 先日、「お水のいらない ラーメン横綱」という冷凍ラーメンを作って食べてみた。

「お水のいらない」という冷凍ラーメンがあることはかなり前から知っていたのだけれど、なんとなく気持ち悪い感じがして、今までパスしていた。

なので今まで敬遠してきたが、ネットでの評価を見ると、おおむね良いもので、お店の味にかなり近いというものが多い。それで、そういうことなら一度試してみても良いかなと思って一袋購入しておいた。

先日買った小さなフライパンに凍ったラーメン(スープが下層で上に麺、その表面に焼き豚・メンマ・ネギ)を入れて、先ず弱火でスープを溶かす。
IMG20231117115203-crop.jpg スープが溶けだしたら強火にしてしっかり加熱。最初に弱火にするのは火が強すぎると溶ける前に焦げるからではないだろうか。 そのままときどきお箸でつっついて麺をほぐす。といっても中心部はなかなかゆるんでこないので、周辺部を分離していくような感じ。

包装にできあがりまで6分30秒とあるが、やってみると6分で十分のようだった。
鍋のまま食べようかとも思ったが、スープを飲むことも考えてやppりどんぶりに移す。

私は「ラーメン横綱」という店は、その看板を何カ所かで見た憶えはあるけれど、行ったことはない。だからお店の味が再現されているかどうかはわからない。しかしこれがお店と同じだとしたら、ネットで見かける評価とは違い、わざわざ行く必要もないだろうと思う。、

IMG20231117120027-crop.jpg ではあるけれど、ただ鍋にかけて加熱するだけで食べられる食品として、そう悪いものではないと思う。というかもともと私は透き通ったスープのラーメンが好きで、この商品のような豚骨醤油味というのは、どうしてもぬめっとした感触は好みからは少々はずれる。
ただし、豚骨醤油ラーメンでも、九州で食べたものはそんな印象はあまりなかったので、これは冷凍スープだからかもしれない。

冷凍ラーメンは、今までもときどき食べたことはある。それらは麺と具は冷凍だが、スープは濃縮で別になっていて、沸騰したお湯に冷凍ラーメンを入れて、煮立ったところでスープを投入するというもの。食べたことがあるのは醤油味なので、同じ基準で評価はできないと思うけれど、こちらもお店で食べるラーメンとはやはり違和感はある。

また冷凍ちゃんぽんもときどき食べているけれど、こちらはあまり違和感はない。ちゃんぽんの麵はやわらかめで、大量の野菜類が入っているから、スープ一本勝負ということにならないからかもしれない。

前にも書いているが、私はラーメンとインスタントラーメンは別ジャンルの食品と考えていて、インスタントラーメンが「お店の味」に似ている必要はなく、それに努力するよりも、インスタントラーメンとして美味しいものを追求するのが良いと考えている。
対して冷凍ラーメンというのは、今のところそれぞれ有名店の味とやらを売りにしているようだ。生・半生のラーメンもそうだが、有名店の名前を使って販売されているものは、そうでないものに比べて割高である。ブランドに頼ることなく、それぞれの製品としての最高の物を作ってもらうほうが良いと私は思う。

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「戦争の地政学」(その3)

NEOBK-2841575.jpg 篠田英朗「戦争の地政学」の3回目。

今日は興味深い話を拾い出してみる。
まずは米国外交の基本姿勢とされる「モンロー主義」。本書ではかなりのページ数を使ってモンロー主義の説明がある。

 スパイクマンが活躍する1940年代以前のアメリカは、モンロー・ドクトリンを外交政策の基本的な枠組みとしていた。このドクトリンは、日本の学校教科書などで孤立主義と説明されることもあるが、学術的に正しくは、相互錯綜関係回避(Non-Entanglement) 原則に基づく地域的な国際秩序を表現した理念であった。
 モンロー・ドクトリンを、マッキンダー理論にしたがって解釈すれば、ユーラシア大陸の外側のシー・パワー共同防衛の仕組みだということになる。西半球世界の共和体制の国々が、ヨーロッパの帝国主義諸国が膨張してくるのを、共同で封じ込めるという性格を持っていた。そこにはアメリカ特有の「神の恩寵」にしたがった「明白な運命」論に基づいて、世界を「新世界」と「旧世界」に区分して理解する二元論的な視点があった。
 ただしハウスホーファー理論にしたがえば、モンロー・ドクトリンは、アメリカ合衆国の生存圏あるいは勢力圏を正当化する原理でしかない。世界をいくつかの生存圏に分けて多元的に理解する際に、西半球世界が一つのアメリカの生存圏であることを示すだけの原理が、モンロー・ドクトリンということになるはずだった。
 しかし真珠湾攻撃によって新たな脅威が現実のものとなり、西太平洋とヨーロッパの双方で大規模な戦争を遂行することになったアメリカは、伝統的なモンロー・ドクトリンの殻にこもっているわけにはいかなくなった。そこで第二次世界大戦後には、モンロー・ドクトリンの地理的範囲を拡大させ、ヨーロッパと西太平洋地域の双方に強力な軍事同盟のネットワークを築くことになった。1945年以降も、依然として二元的な世界観にそって、アメリカの外交政策は進められていった。

はじめに 地政学の視点と激変する世界情勢
 
第1部 地政学とは何か
第1章 英米系地政学と大陸系地政学の対峙
第2章 地政学理論の対立の構図
    ~マッキンダーとハウスホーファー~
第3章 対立する地政学理論の展開
    ~スパイクマンとシュミット~
 
第2部  地政学から見た戦争の歴史
第4章 ヨーロッパにおける戦争の歴史
第5章 地政学から見た20世紀の冷戦
第6章 冷戦終焉後の世界と
     ロシア・ウクライナ戦争
 
第3部  地政学から見た日本の戦争
第7章 英米系地政学から見た戦前の日本
第8章 大陸系地政学から見た戦中の日本
第9章 戦後日本の密教としての地政学
 
第4部  地政学から見た現代世界の戦争
第10章 現代世界の武力紛争の全体構図
第11章 世界各地域の戦争の構図
第12章 自由で開かれたインド太平洋と一帯一路
 
おわりに 地政学という紛争分析の視点
上の引用で指摘されているように、私も学校の世界史の授業では、モンロー主義=孤立主義と考えていた。だから米国の世界大戦への参戦は、その主義を変更したものだと理解していた。
しかし、どうやらそ「殻に閉じこもる」ような孤立主義というわけではないようだ。

 実際のところ、「日本の『アジア・モンロー主義』」と題された1939年の論考において、シュミットは、「自由民主主義的諸原則を圏域も境界も無視して全地球・全人類に拡大しようとするもの」として、モンロー・ドクトリンを世界原則としようとしたウィルソンを激しく糾弾した。第一次世界大戦時のウィルソンや、第二次世界大戦時のフランクリン・ローズベルトは、「モンロー原則を英米資本の世界市場支配の道具として用いようとした」と、ほとんど陰謀論に近い主張をしていたのが、シュミットであった。
 シュミットにとっては、19世紀のモンロー・ドクトリンの西半球世界は、広域圏の純粋モデルでさえあった。シュミットにとっては、日本が東アジアに作り出そうとしていた大東亜共栄圏の秩序も、「日本・モンロー主義」であった。ドイツでは、シュミットの広域圏思想を、モンロー・ドクトリンのドイツ版と解釈する風潮があった。ヒトラーは、演説で「ドイツ・モンロー主義」を明言した。
 そのモンロー・ドクトリンの広域圏の盟主であるアメリカが第一次世界大戦に参戦し、戦後のヨーロッパの国際秩序回復に大きな影響力を行使したことにより、19世紀ヨーロッパ公法の時代は終わり始めた。ただし、アメリカはまだ海の国際秩序の側に完全に加担したわけではなかった。シュミットによれば、アメリカがイギリスとの同盟関係を構築して、海洋国家連合の盟主として立ち現れてくるのは、第二次世界大戦のときのことである。シュミットにとって、アメリカの参戦は決定的な事件であった。

そしてここでも英米系地政学と大陸系地政学ではモンロー主義の理解は異なっているという。

 モンロー・ドクトリンの理解ほど、英米系地政学の世界観と大陸系地政学の世界観を決定的に分かつものはない。大陸系地政学によれば、モンロー・ドクトリンとは、孤立主義のことであり、アメリカが自国の生存圏または広域圏への他国の干渉を許さないようにしていた外交政策のことである。大陸系地政学の視点にしたがえば、アメリカのモンロー・ドクトリンこそが、 生存圏/勢力圏/広域圏の理念型であった。
 ところが、アメリカ人たち自身は、モンロー・ドクトリンをそのようなものだとは考えていなかった。
 「汚れた」「旧大陸」の大国間政治との「相互錯綜関係回避」を宣言するのは、西半球世界の諸国の共和主義体制を守るためである。「新世界」の新興独立諸国とそが、「神の恩寵」にしたがった正しい政治体制を持っており、アメリカ合衆国が国力を増大させていくのは、その地域秩序を守るためである。モンロー・ドクトリンとは、神がアメリカに与えた特別で「明白な運命」を表現する理念であった。

ということは、アメリカが「世界の警察官」たろうとすることもモンロー主義と矛盾することにはならない。
トランプの「アメリカ・ファースト」もトランプ自身がどう考えているかは別として、彼を支持するアメリカ人の心情からすれば、アメリカの不利益はイヤだが、オレの言うことは聞け、ということかもしれない。

なんだかモンロー主義は孤立主義ではなくて、利己主義ではないかと思えてきた。それが良い方向に作用していたら英雄主義なのかもしれないが。


ちなみに、本書ではトランプとプーチンには似たところがあると、次のように書いている。

 このような見方をとると、たとえばアメリカ・ファーストの合言葉で反グローバル主義の立場をとったトランプ大統領と、プーチン大統領の間に、ある種の親和性があったかのように見えた理由が判明してくる。
 反グローバル主義の思想それ自体は、ロシアだけでなく世界各地で見られる。そのため、ロシアのウクライナ侵攻にあたっても、親露派と呼ばれる人々が、日本を含めた各国で現れた。反グローバル主義者とは、二つの異なる地政学の視点に立つと、大陸系地政学の世界観を持つ者のことである。そのためプーチンのロシアは、反グローバル主義の世界観を公然と表明し、その世界観に基づく対外行動を繰り返すことによって、反グローバル主義運動の指導者となり、支持基盤を取り付けることも狙えるようになるのである。
 対テロ戦争は、英米系地政学の論理に沿ったアメリカの積極的な対外行動によってもたらされた。しかしユーラシア大陸の旧ソ連外縁部における一連の紛争は、大陸系地政学の発想に沿ったロシアの拡張主義的な対外行動によってもたらされている。この違いを見極めることなく、雑駁に混同してしまうならば、現代世界の紛争の構図を見通すことはできないだろう。

トランプvsヒラリー・クリントンが戦った米国大統領選挙で、ロシア(プーチン)が、トランプに有利になる大量のフェイクを流したとされる。プーチンがトランプに親近感を持ったとまでは思えないが、ヒラリーは鼻に付くと考えたような気はする。

ちなみにそのトランプを真っ先に支持した日本国の安倍晋三首相だが、彼も地政学は学んでいたようだ。

 それに対して、アメリカはインドとの制度的な関係を何も持てていなかった。かつて大英帝国にとって英領インドが最重要地域であったことを考えると、インドとの疎遠な関係は、アメリカの対外政策上の大きな足かせであることは自明であった。
 その意味では、「クアッド」が、アメリカの海洋国家同盟ネットワークにインドを引き寄せる仕組みを作っていることは、一つの大きな注目点である。
 日本の安倍晋三氏は、2006年に著書でインドを重視する姿勢を見せた直後に首相に就任し、翌年に初めてインドを訪問した際に行った演説で、「二つの海の交わり」として「インド太平洋」の概念を初披露した。この経緯は、安倍政権が、英米系地政学の論理にしたがって対外政策を進めていたことを示すエピソードだ。
 安倍晋三氏は、2回目の首相就任を果たす直前の2012年にも、英語論文で「アジアの民主的な安全保障ダイヤモンド」の概念を提示し、第2次安倍政権の外交政策の指針とした。これは、日本、オーストラリア、インド、アメリカの4ヵ国を、インド洋と太平洋における貿易ルートと法の支配を守る四角形を形成する構成要素とみなし、その4ヵ国のネットワークの重要性を特筆する考え方であった。

岸信介などはきっと大陸系地政学派だったと思うが、安倍氏は英米系地政学に従っているということだ。これは日本がシーパワー→ランドパワー→シーパワーと変遷するに合わせて、時の権力者の世界観も変わってきたということだろう。

安倍氏は、おじいちゃんとの間でどんな議論をしたのだろう。


地政学は、地理的条件を踏まえて国際関係を解釈するものだと思うけれど、それが世界観ともなると、個々の地理的条件から離れて、異なる世界観の間での争論になってくるようだ。同じ神を信じながら、異なる教義を信じるかのように。

「戦争の地政学」を3回にわたってとりあげてきたが、地理的条件への眼の付け方など興味深い話がいろいろあった。それ以上に、今までよくわからなかった地政学というものについて、これからこの言葉を聞いても驚かないですむ程度の知識は得られたと思う。
その意味で、読んで良かった本だとまとめておこう。

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「戦争の地政学」(その2)

NEOBK-2841575.jpg 篠田英朗「戦争の地政学」の2回目。

地政学には2つの系統―英米系地政学と大陸系地政学があるという。
この2つは着眼点が異なるわけだが、それはそれぞれが拠って立つ世界観の違いであるという。

本書ではそれぞれの考え方の「歴史」を丁寧に解説しているけれど、それを紹介するのは煩雑なので、簡単にそれぞれの基本発想だけ紹介しておこう。

英米系地政学は、世界の勢力をシーパワーとランドパワーのせめぎ合いでとらえる。ランドパワーが働く場所がハートランドであり、それをとりまく地域をリムランドと称する。
領域的な支配であるランドパワーに対し、ネットワークでランドパワーを抑えるシーパワーである。

本書では、司馬遼太郎「坂の上の雲」にも言及のあったマハン『海上権力史論』をさきがけとする英米系地政学の歴史が紹介される。
ただし、歴史を追って次第に精緻化されるというような学問のようなものとはやはり違い、シーパワーとランドパワーの対立を基本視点として共有しても、さまざまな解釈が行われてきたように見える。

はじめに 地政学の視点と激変する世界情勢
 
第1部 地政学とは何か
第1章 英米系地政学と大陸系地政学の対峙
第2章 地政学理論の対立の構図
    ~マッキンダーとハウスホーファー~
第3章 対立する地政学理論の展開
    ~スパイクマンとシュミット~
 
第2部  地政学から見た戦争の歴史
第4章 ヨーロッパにおける戦争の歴史
第5章 地政学から見た20世紀の冷戦
第6章 冷戦終焉後の世界と
     ロシア・ウクライナ戦争
 
第3部  地政学から見た日本の戦争
第7章 英米系地政学から見た戦前の日本
第8章 大陸系地政学から見た戦中の日本
第9章 戦後日本の密教としての地政学
 
第4部  地政学から見た現代世界の戦争
第10章 現代世界の武力紛争の全体構図
第11章 世界各地域の戦争の構図
第12章 自由で開かれたインド太平洋と一帯一路
 
おわりに 地政学という紛争分析の視点
対して大陸系地政学は、世界をヨーロッパ(ドイツ)、ロシア、アメリカなどと勢力圏に分けて考える発想のようだ。
ただ、こちらはナチズムとの関連が強く、ある意味不幸な批判も受けることになる。

日本国は、大陸侵攻以前はシーパワーのネットワークにある国と位置付けることができ、日英同盟もそうした地政学的意味をもったものと理解される。ただしそれはイギリスでの理解であって、日本側が地政学を意識したかどうかはあやしいという。
それが日本が大陸侵攻をすすめることで、ランドパワーへと変身する。日英同盟が更新されなかったのもそうした日本をランドパワーを封じ込めるシーパワーネットワークではなく、ランドパワーへと変わったという評価があったという。
その時期、日本国内では大陸系地政学が主導的な世界観へとなり、ナチズムと同盟していくのである。

日本における大陸系地政学の到来
 国内で統帥権干犯を唱え、ワシントン海軍軍縮条約、不戦条約、ロンドン海軍軍縮条約を通じた政府の一連の対米協調路線を批判し続けた勢力は、マッキンダー理論ではない地政学理論を自然に欲していた。すでに1920年代にチェーレンの著作が翻訳され、その大陸系地政学の理論が「ゲオポリティーク」として日本で紹介され始めていた。
 学術研究の領域で、小川琢治や飯本信之らが、有機的国家論を、世界的規模での白人と有色人種の間の対立に結び付けて理解する議論を展開する際に、「ゲオポリティーク」への関心を強めた。その関心は、小牧実繁や村上次男ら京都帝国大学の皇道主義的な地政学研究者へと受け継がれていく。
 軍部とも通じ、しかも多作だった小牧は、『日本地政学宣言』(1940年)、『日本地政学』(1942年)、『世界新秩序建設と地政学』(1944年)などの著作や、「大東亜の地政学的概観」(1942年)、「皇国日本の地政学」(1942年)、「カール・ハウスホーファー論」(1943年)、「大東亜結集の本義」(1944年)などの論文で、「皇戦地誌」の議論を展開し、啓発・啓蒙運動家としても、大きな影響力を持った。小牧は、終戦とともに京都帝国大学を辞職したが、GHQによって公職追放対象に指定され、地政学が日本で禁止された、という印象を広めるのにも一役買った。

そうした経緯もあってか、戦後の日本では、岡崎久彦「戦略的思考とは何か」がアングロサクソンとの協調を重視する考え方が強いようだ。

この本は随分前に上司から読んでおけと言われて読んだ。そのときは戦略的思考というのはstrategicということかと思って読み始めたのだけれど、内容は今思えばまさに地政学的なものだった。正直言って、何かの陰謀論に類するものではないかという感想を持ったけれど。


と2つの地政学を紹介してきたけれど、著者はこれらは世界観の違いであって、どちらが正しいというようなものではないとする。

 地政学をめぐる葛藤は、むしろ人間たちはこの世界をどう見るかという世界観のレベルにおける人間の闘争を映し出している。地政学をめぐる争いは、人間の世界観をめぐる争いである。
 このような率直な思いから執筆したのが、本書である。この問題意識をはっきりさせるため、英米系地政学と大陸系地政学という全く異なる世界観の上に成立している二つの異地政学の間の葛藤に焦点をあてることにした。地政学をめぐる議論の中で露呈している人間の世界観をめぐる闘争を把握することこそが、 現代世界の紛争の状況を構造的に理解するための鍵になる。という視点を強調することにした。
 地政学の視点が明らかにする国際紛争の構図は、どのようなものか、という問いに対して、二つの美なる地政学の世界観がせめぎあう構図だ、という一つの答えを示した。
 二つの異なる地政学は、異なる世界観を持つ人間たちこそが、争いを起こしている様子を描き出す。地政学は、共通の世界観を持つ人々が、単なる利益計算にしたがってのみ争っているような世界だけを描写しているのではない。むしろ根本的に異なる世界観を持つ人々が、世界観をめぐるレベルにおいてこそ争っている様子を、明らかにするのである。
 地政学とは 運命論的な性格を持っているという。地理的条件などの人間にとっては外在的な要素が、人間の運命を決定しているかのように考えるからだ。これは英米系地政学にも、大陸系地政学にも、あてはまる。ただ、異なる世界観を持つ人々は、異なる運命を見出す。同じ一つの世界を見て、運命に翻弄されている同じ人間たちを見ながら、その人間を翻弄している運命を異なる様子で描写していくのである。

やはり地政学は一つの学とかではなくて、世界観のフィールドという感じである。
統一された理論ではないけれど、そこでどんなゲームが行われるのか、その面白さかもしれない。

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「戦争の地政学」

NEOBK-2841575.jpg 篠田英朗「戦争の地政学」について。

地政学をタイトルに持つ本をとりあげるのは3回目になる。
過去の2冊(小山堅「エネルギーの地政学」内藤博文「地政学で読む近現代史」)の書評記事では、

「地政学という言葉がそもそもよくわからない」
「地政学それ自身で何か理論が打ち立てられている感じはない」

などと書いているが、そう感じるのも無理がないことが「はじめに」を読んで納得した。

 為替相場の変動や、投資判断が語られるときに、いわゆる「地政学リスク」という概念が参照される。予測可能性の低い政治情勢が経済指標に悪影響を与える可能性のことを指していると思われる。だが、ここでもやはり、内容が明晰に理解されている場合は少ない。予測不可能な政治情勢変化のことを、「地政学リスク」という抽象概念で呼んでいる場合が多い。

著者はあからさまには批判していないけれど、地理的条件に触れることのない文脈でも「地政学」という言葉が使われたりする。こういうお飾りのような使い方をするから、知識のない者は混乱してしまうわけだ。

はじめに 地政学の視点と激変する世界情勢
 
第1部 地政学とは何か
第1章 英米系地政学と大陸系地政学の対峙
第2章 地政学理論の対立の構図
    ~マッキンダーとハウスホーファー~
第3章 対立する地政学理論の展開
    ~スパイクマンとシュミット~
 
第2部  地政学から見た戦争の歴史
第4章 ヨーロッパにおける戦争の歴史
第5章 地政学から見た20世紀の冷戦
第6章 冷戦終焉後の世界と
     ロシア・ウクライナ戦争
 
第3部  地政学から見た日本の戦争
第7章 英米系地政学から見た戦前の日本
第8章 大陸系地政学から見た戦中の日本
第9章 戦後日本の密教としての地政学
 
第4部  地政学から見た現代世界の戦争
第10章 現代世界の武力紛争の全体構図
第11章 世界各地域の戦争の構図
第12章 自由で開かれたインド太平洋と一帯一路
 
おわりに 地政学という紛争分析の視点
次は、私の感想の2番目に関してである。

地政学という「視点」
 「地政学」は「学」と呼ばれているにもかかわらず、学術的な研究分野だとみなされてはいない。公刊されている多数の書籍の中で、学者が執筆したものは、非常に少ない。「地政学」を、学部や学科名や、授業の科目名として導入している大学はほとんど存在していない。「地政学」は「学」と呼ぶべき一つの学問分野としては存在していない。
 「地政学 (Geopolitics)」とは、地理的 (Geographical) 事情を重視して政治 (Politics) 情勢を分析する視点である。それは非常に豊饒な議論が積み重なってきていて重要性がほぼ証明されている視点ではあるが、確固たる研究領域が存在し、同業者意識のある研究者層が存在しているような学問分野ではない。また、地理学的要素、政治学的要素、国際政治学的要素、など、通常は組み合わされることが稀な多分野の視点を、分野横断的に取り入れる折衷的な性格を持っているために、地政学の視点を、一つの学問分野に吸収して論じることは簡単ではない。そのため、地政学を専門にしていると自己認識している研究者が生まれることも非常に稀になる。
 さらに言えば、日本においては、第二次世界大戦の前の時期に、地政学が日本独自の関心に沿った形で、政策論で頻繁に参照された。それが間違った形で戦争の正当化につながってしまったのではないか、という反省から、地政学とは危険な似非学問である、という理解が広まった。今日においてもなお、地政学を正面から信奉している学者は少ない。

専門の先生にこう言ってもらうと、私が「これって学問分野?」という疑問を持ったことも正当化される気がする。

では地政学は学んでもしかたがないのかと言えば、そんなことはないようだ。地政学的視点によると、今まで思いもしなかった政策の含意あるいは意図を推し量れるようだ。その一つを挙げておこう。

 現在に至るまで、世界の大都市の多くは、海岸や河川に面している。言うまでもなく、交通交易上のメリットを鑑みてのことだ。外敵の脅威を防御する要塞を作る場合には、山岳地帯の険しい地形などの自然の防壁を十分に考慮する。戦争が発生する場合には、時々の戦場の地理的条件を有利に活用した側が勝利を収めやすいことは、軍人なら常識以前の事柄だろう。国家のような政治共同体の性格は、多分に地理的条件によって決まる。周囲を海洋で囲まれた日本は、外敵に征服占領されにくい。他方、たとえ軍事力を増強させても、自国領土を拡大させていくのには適していない。
 たとえば、山岳地帯が多い日本では、国内では沿岸の平野部に強力な政治権力が生まれやすいが、山脈によって分断されている複数の平野部それぞれに存在する政治権力の間では対立が生まれやすい。日本の政治権力の中央集権化は、最大の平野である関東平野に単一の政治権力を確立したうえで、交通交易上の不利を補うための鎖国政策を導入して果たされた。
 このように考えると、いわゆる地政学という用語が流通する前から、人類は地理的条件による構造的要因で発生してくる傾向について、知的分析を行ってきたと言うのが適切である。

江戸幕府の鎖国政策をこうした視点で読み解いた話は、寡聞にして知らない。
外国貿易だけではなく、国内の街道や航路の管理、要所要所の幕府拠点の配置、そうしたものを併せて幕府の政権維持が可能だったということだろう。

地政学的視点というのは幕府だけではなく、戦国大名も備えていただろう。

 地理的事情を考慮しながら、軍事力を展開させたり、外交政策を進めたりしていくことは、たとえば戦乱の時代の武将であれば、当然の態度であった。戦国時代を終結させて強力な中央集権政府を樹立した徳川家康は、関ヶ原の合戦のような重要な戦争を、地形を活用した軍事力の展開と、多彩な外交術を駆使した様々な背景を持つ武将群との同盟関係の構築を通じて、勝ち切った。明治維新の成功を決定づけたのも、段階的に発展した薩摩藩と長州藩を中心とする雄藩間の同盟関係であったことは言うまでもない。

以前、日本の戦国大名の「外交力」はなかなかのものだったというような話を聞いた憶えがあるが、そこには地政学も含まれていたわけだ。

歴史を読み解くときには、地政学というのはなかなか重要な視点になるわけだ。
だが、近現代の国際政治を見るときには、実は、地政学に2つの系統があり、それらが対立しているのだという。
「英米系地政学」と「大陸系地政学」の2つである。
これについては次稿で。

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手袋型クリーニングクロス

81AdCtYQv3L_AC_SL1500_.jpg 手袋型クリーニングクロスというものを購入した。

楽器をしまうときには、管内の水分を拭き取り、管体やキーについた汚れを拭く。このとき手袋をしていないと拭いたところがまた汚れるような気がするから、綿の白手袋をつけてきた。

綿の白手袋は100均などで買うもので、安いけれどだんだんほころんできて、そのうち穴が開いたりする。
なのでまとめ買いでもしようかとネットを見ていたら、手袋型のクリーニングクロス(あるいはクリーニンググローブ)というものがあることに気づいた。

以前から、たとえばバックスキンの手袋とかがあったらと思ってネットを見ていたけれど、商品の種類が少ないのと、革が厚いと楽器を扱うには不向きだろうと考えて(値段も高い、これが一番の理由か)、購入は見送ってきた。


IMG20231111202403-crop.jpg 手袋型クリーニングクロスは、白手袋よりは数倍高いけれど、これで長持ちするならOKだし、何より楽器を触っているだけでクリーニングになるならそれも一興、試しに購入することにした。

商品説明を見ると、カメラを扱う(レンズ交換のときとかだろう)ことを想定しているようだ。


商品が届いて早速使ってみた。
想像していたものとの違いは滑りやすさ。
バックスキンのような手触りでしっとりしているのかなと思っていたけれど、さらさら・すべすべである。そういえば材質は東レのトレシーとあって、これを使った眼鏡拭きを持っているから同じようなものだったわけだ。

楽器を持つときに滑らないように注意することは必要だけれど、そういうものだと慣れれば問題はないと思う。


同じような商品で、楽器店が販売しているものもある。
こちらは私が買ったものより割高。
同じような商品でも楽器用とするだけで値段が上がる例は他にもいろいろあると思う。

キーオイルとミシン油、
コルクグリスとワセリン、
楽器磨きと歯磨き、
などなど。


これもブランド志向の一種である。

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〝「単純化」という病〟

郷原信郎〝「単純化」という病 安倍政治が日本に残したもの〟について。

81hmSUNzP2L_SL1500_.jpg 安倍政治への批判であることはサブタイトルを見ればわかるわけだが、数の力で恣の政治を行ったとか、自身に集中した権力を嵩に官僚たちを従わせ、またそれができる体制整備を周到に実施したといったことは、もちろん本書でも指摘されるところなのだが、本書で中心となっているのは「モリ・カケ・サクラ」問題である。

著者は元検事の弁護士であるからか、犯罪性があるものに追及の中心がある。言い換えれば「モリ・カケ・サクラ」問題は、それだけの犯罪性があるというのが著者の主張であるわけだ。

「単純化」というのは安倍政治だけの専売特許ではない。
古くは小泉構造改革がそうだったし、大阪維新の会の政治手法は多くの場面で二者択一を迫る単純化で票を得てきた。

小泉構造改革には本書も少し触れている。第一次安倍政権の「美しい日本」や現在の岸田政権の「新しい資本主義」というキャッチフレーズは、それを聞いた人たちの想像力を惹起しなかったが、小泉「構造改革」は、実はどういうものが構造改革なのかは人によって異なるにもかかわらず、何か期待、イメージを抱かせる言葉であったとする。
なお、維新の二者択一単純化手法は小泉政権のやり口とよく似ているが、これについては維新が未だ公権力を握っていないからか、とくに批判の俎上には上がっていない。


はじめに
 
第一章 国有地売却をめぐる「単純化」
第二次政権発足以降の「単純化」の背景 /昭恵氏と森友学園との関係 /証人喚問に打って出た自民党 /「偽証罪による告発」は無理筋 /異例の「告発受理」の報道 /補助金不正は「詐欺」なのか
 
第二章 〝岩盤規制打破〟をめぐる「単純化」
「総理のご意向」文書 /もう一つの疑念 /読売新聞による個人攻撃 /追及正当化、双方の「単純化」 /的はずれの”追及” /疑惑否定のための「挙証責任論」 /規制緩和、判断基準の是非 /規制緩和が引き起こす問題 /加計学園問題の「もう一つの視点」 /「真実に近い「推理」
 
第三章 森友・加計、それぞれの「第二幕」
「決裁文書改ざん」問題の発覚 /なぜ〝改ざん"は不起訴だったのか /陸山会事件での虚偽の報告書作成 /検察最悪の組織犯罪 /民事訴訟の提起と国の認諾 /「愛媛県文書」の公開 /「首相官邸の対応」をめぐる疑惑 /〝すべての黒幕”のインタビュー /報道機関向けのファックス /「理事長と首相との面談」 /何が〝一強政治〟を盤石にしたのか
 
第四章 放置された「ウソ」の構図
極めて単純な問題 /3倍に膨らんだ予算 /「桜を見る会」に参加した経験 /「ウソ」を重ねていった安倍首相 /「驚くべき」「語るに落ちた」 答弁 /「モリ・カケ」と「サクラ」の決定的な違い /新たに明らかになった真実 /虚偽答弁についての「弁明」 /明細書に関する説明の「大ウソ」 /費用補填、苦し紛れの弁明」 /政治資金と個人資金の一体化 /弁明での「虚偽」の疑い
 
第五章 銃撃事件以後も繰り返される"手法"
安倍氏銃撃事件と統一教会問題 /安倍氏のビデオメッセージ /銃撃事件直後の「分断」「二極化」 /横行する〝憶測”や“決めつけ〟 /統一教会問題の「社会問題化」 /「犯人の思う壺」論の横行 /全く通用しない論理 /「国葬」をめぐる「二極化」 /岸田首相が挙げた実施の理由 /「法令上の根拠」をめぐる対立 /現行法での実施は可能なのか /内閣府設置法は「法令上の根拠」か /政府答弁書と異なる見解 /読売・産経記事のミスリーディング /繰り返される負の構図 /「法令上の根拠」の「偽装」 /「内閣葬」を「国葬」と偽装したことによる混乱 /玉川徹氏の訂正と謝罪 /「国葬」は社会に何をもたらしたのか
 
終 章 「法令遵守と多数決」という“病”
安倍氏が用いた手法の継承 /検察とマスコミの同調圧力 /回顧録に表れた「事実認識の偏り」 /安倍氏が語った「100万円授受」
 
おわりに
本書では「モリ・カケ・サクラ」問題の犯罪性をこと細かく、明らかになった各種証拠や国会質疑からあばいていくわけだが、終章に全体をまとめてある。
なお、「モリ・カケ」と「サクラ」は問題の質が異なり、前二者は犯罪性をあらそうところもあるけれど、「サクラ」は明白な違法行為であると指摘している。

まず森友学園問題・加計学園問題については次のように総括されている。
 森友学園問題は、地下から大量のゴミが“発見”され、その処理費用をどのように見積もるかという特殊な問題が売却価格に関係した「極めて複雑な国有地売却問題」だった。
 しかし、それについて国会で、最初に質問を受けた際に、安倍氏は、「私や妻が関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」と答弁し、「自分や妻の関与の有無」という「争点」を自ら設定し、それに「政局的位置づけ」まで与えた。それによって、この問題は、「安倍首相と昭恵氏の関与の有無」に「単純化」されていくことになった。その「挑発的問題設定」を受け、野党側は「政局的追及」を行った。
 それに過剰反応したのが財務省であり、佐川理財局長は、「売却に関する資料は廃棄済み」などと虚偽答弁を行い、その後、近畿財務局では、国会に提出を求められた「国有地売却に関する決裁文書の改ざん」という、議院内閣制における国会と行政の関係を根本から破壊するような違法行為まで行われた。そして、それが、純粋な公務員としての使命感や倫理観に反する「決裁文書改ざん」を実行するよう命じられた近畿財務局職員の赤木俊夫氏が自死するという誠に痛ましい事態を招いた。
 このゴミが埋まっていた国有地売却に関しては、売却価格や条件が違法・不当なものではなく、「法令遵守」 上問題は確認されなかった。この問題は、すべて、選挙に勝利し参両院で多数を占める「強大な権力者」であった安倍氏の国会答弁が招いた「単純化」によって起きた事象であった。
 加計学園問題は、規制緩和と行政の対応の問題、国家戦略特区をめぐるコンプライアンスに関する議論などの重要な論点が絡み合った複雑な問題だったが、野党・マスコミの追及は、総理大臣が「腹心の友」に有利な指示・意向を示したか、という点に集中し、問題は「単純化」された。一方の安倍首相や政府・与党側の対応は、国家戦略特区における獣医学部新設の手続きが 「法令に基づき適切に行われた」と説明するだけに「単純化」された。そして、全く噛み合うことのなかった議論は、最終的には、衆議院解散総選挙で、野党側が「希望の党」騒ぎで自滅し、安倍政権側が圧勝したことで、一旦収束することになった。
 その後、いずれについても 「第二幕」が始まるが、総選挙での圧勝で一層盤石となった「多数決の論理」で押し切ってしまった。

著者に言わせれば、本来はそれぞれの原因となった行為に対する違法性を着実に明らかにした上で、首相の責任を追及すればもう少し実質的なものになっただろうが、その手順よりも首相の関与に集中した質疑をしたら、水掛け論にしかならないということのようだ。
野党の質問議員にしてみれば「首相を鋭く追及」と自分の国会での活躍を宣伝したいんだろう。この国の政治を正すよりもそちらへのウェイトが高そうだ。

著者は「サクラ」問題は「モリ・カケ」とは異なると次のように総括する。
 このような森友・加計学園問題で、「複雑な問題」が「単純化」された構図とは全く異なり、桜を見る会問題は、安倍氏側の「国主催の行事の私物化」と前夜祭での「地元有権者への『ばら撒き』」そのものが、極めて単純な「不当・違法な行為」であった。
 安倍氏は、「国主催の行事の私物化」の方は、それを実行する立場の内閣府の官僚側に責任を押し付け、「法令遵守上問題がない」という従来どおりの理屈で開き直った。 公選法上の違法性が否定できないはずの前夜祭問題も、明らかに虚偽とわかる答弁・説明を押し通した。そして、安倍氏が首相退任後、検察捜査で 「虚偽答弁」が露呈し国会で訂正の場が設けられたが、そこでも「虚偽の説明」を繰り返した。しかし、既に元首相になっていた安倍氏への追及は極めて生温い一過性のもので終わり、安倍支持者は、第二次安倍政権下の不祥事を「モリ・カケ・サクラ」などと一括りにして軽視する姿勢をとり続け、安倍氏は自民党内での権力者の地位を保ち続けた。
 結局、首相時代の「国主催の行事の私物化」と前夜祭での「地元有権者への『ばら撒き』という単純な「不当・違法な行為」であった桜を見る会問題も、「国会で圧倒的多数を占める」という「多数決の論理」で押し切った安倍氏は、2021年の衆議院選挙が目前に迫った時期に、霊感商法、高額献金等の深刻な被害が指摘されていた旧統一教会の関連団体UPFの国際イベントへのリモート登壇という、越えてはならない一線を越えた。それが、全国弁連や旧統一教会の被害者等からの反発を招き、旧統一教会に家庭と人生を破壊されたことで憎悪を募らせていた信者の息子による銃撃事件の引き金になり、安倍氏 は生命を奪われることになった。

そしてこうした「やりたい放題」がまかり通ったのには、過剰に集中した権力をおそれる行政(とりわけ検察)、マスコミの「協力」も指摘されている。

森友学園問題では、籠池理事長の補助金不正受給容疑を、補助金適正化法という通常考えられる法だけではなく、詐欺罪を適用することによって、理事長は悪質な犯罪者(=証言は信用できない)であるという印象操作を行ったという。
桜を見る会問題については次のように検察の動きに不審な点があるとする。
 桜を見る会問題での検察捜査の動きが表面化したのは、安倍氏の首相辞任後の2020年11月のことだった。この問題についての、公職選挙法(寄附行為の禁止違反と政治資金規正法違反(不記載)の容疑での全国の弁護士ら約660人による東京地検特捜部への告発状の提出は、その半年前の5月2日に行われていた。
 公設秘書が略式命令を受けた前夜祭についての政治資金規正法違反は、2019年11月の国会で追及が始まった時点から、全く弁解の余地のないものであり、「ホテルと参加者の直接契約」などとする安倍氏の説明は、完全に崩壊していた。検察が、告発状の提出を受けた時点で、ただちに捜査に着手していれば、安倍首相は、その問題で引責辞任に追い込まれた可能性がある。 証拠上・法解釈上の問題があるとは思えない事件だったが、検察は安倍氏の首相在任中には動かなかった。このような動きには、やはり現職総理大臣への配慮が働いているとみることができる。

マスコミの動きで代表的なものは、加計学園問題で安倍氏側に不利になる証言を行った前川喜平氏についての読売新聞の「前川氏、出会い系バー通い」の報道で、前川氏へ人格攻撃=証言の信頼性棄損を誘導するものであるとする。
なお、貧困調査という前川氏の釈明に対し、高級官僚がすることではないと信憑性を疑う意見もあるようだが、読売新聞の「思わせぶり」な書きぶりと記事のタイミングは、政権への忖度(まさか政権から要請された?)が疑われてもしかたがないだろう。

そんなものじゃなくて、時の人となっている前川氏のスキャンダルじみたことを記事にすれば売れるに違いないという思いであったというのなら、上述の自身のアピールのために首相質問をする議員と同様、正義より利己ということになるが。


本書でこれだけ疑惑を通り越して違法性を指摘される事件の連発である。
このままドラマ化しても良さそうだけれど、それとわかる形でのドラマ化は、やっぱり当分はようしないんだろうな、テレビ局。

そういえば、私もこの問題にヒントを得て、フィクション記事を書いたっけ。
その時は、文書の意図的な廃棄や改竄などは明らかになっておらず、むしろ役人の辻褄合わせの能力を揶揄する内容だったけど。


この記事では本の内容をかいつまんで紹介したが、それらが事実であると断言できるほど私には知識はない。しかしこれだけの疑惑が指摘されているのに、この問題については結局有耶無耶なままで幕引きとなった。
まして安倍氏が殺されたことによって、氏のやった(かもしれない)事についても、死者を侮辱するなというような空気があるのか、蒸し返す動きはなさそうだ。
統一教会問題も、それと結託しただろう政治家の側よりも、教会の行為の糾弾に重点がおかれた観がある。

結局、この国ではやはり合理性よりも、空気が社会を動かすようだ。

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やけに短い50mだな

IMG20231112135422-crop.jpg よく通る道路にこんな看板が立っている。

もう随分前から気づいていて、そして面白いからブログのネタにしようと思っていたけれど、何せ移動中の車内からだとなかなか写真を撮るチャンスがない(わざわざ停車するわけにもゆかない)ので、先日、ようやく写真に修めた。

雨の日でフロントガラスに雨滴が付いて見にくく、写真からははっきり見えないけれど、橙色の看板に注目。
どちらも工事用車両の出入口があることを示すもので、
 手前の看板は、

100m

 奥の看板は、

50m

となっている。

この表示に従えば、看板の間は50mということになるわけだけれど、私が思うにせいぜい30mではないかと思う。

前を走るトラックがちょうど50mの看板を通過するところ、私の車はまだ100mの看板に達していない。時速60kmぐらいで車間距離は30~40m。

看板に偽りあり、というわけだ。

だけど記事を書いていて思った。
時速60kmで走っていると、50mは3秒の距離である。

この看板は30mぐらいの間隔だから2秒の距離?

この時間は、ドライバーが注意を向けるのに十分の長さだと思う。
出入口の手前100m、50mに2枚の看板を設置しておけば、ドライバーには十分な注意を与えることになるだろう。
もっともその数字に気をとられて「やけに短い50mだなぁ」などと余計なことを考えるドライバーがいないとも限らない。

余計な情報を与えず(考える暇を与えず)、単純に、

前方 出入口


とするだけで良いかもしれない。

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休刊日

本日は定例の休刊日。


キツネ、米ワシントン州(National Geographic)


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「おわび」と「謝罪」

IMG20231108200410-crops.jpg 先日の新聞一面の見出しを見て???

おわび」の大見出しの隣に、
謝罪は否定」の見出し。


「おわび」と「謝罪」って違うのか?

Weblio(実用日本語表現辞典)で「おわび」を調べると、

お詫び
読み方:おわび

謝ること。謝罪すること。

謝罪を意味する「詫び」に接頭辞「お」がついた言葉。相手に深く謝罪する際に「お詫び申し上げます」という表現が用いられる。「深くお詫び申し上げます」や「重ねてお詫び申し上げます」など強調表現を添え、より深い謝罪の意を表す。

と説明されている。
同じじゃないか。

であるけれど、"おわび 謝罪 違い" でググると、違いを説明するページがいろいろ見つかる。

贈る言葉情報館では、

「謝罪」とは、罪やあやまちをおかした時に謝ることです。
そして「お詫び」とは、謝ることです。

とある。
なるほど、「謝罪」は「罪を謝す」、「罪」があるのね。

クレーム処理とかを仕事にするような場所では、かなり意識して使い分けているだろうけど、普通は違いは意識されていないだろう。
想像するに、クレームが入った時に「おわびします」と言って、「わびるなら誠意を示せ」とか言われたら、「ご不快な思いをさせたとしましたらおわびしますが、当社には過失はありませんので…」などと返すんだろうな。

言葉を発する側、受ける側が、その言葉について共通理解がないと会話は成立しない。人によって意味の広がりが違うような場合は、どういう意味で使っているか限定できるような言葉を加えておくとかの配慮が誤解を防ぐことになるだろう。

外交文書は、それぞれの言語で書かれて完全な意味の一致は難しいともいう。それを逆用してそれぞれの国民に実際には微妙に異なる理解・納得をさせることがあるという話を聞いたことがある。
誤解を利用する高等テクニックである。

微妙な違い、わかるかなぁ?

ChatGPTにも聞いてみた。

Q 「おわび」と「謝罪」の違いは何ですか?

A 「おわび」と「謝罪」は、日本語の言葉で似ている意味を持つ言葉ですが、微妙な違いがあります。

「おわび」は、一般的に謝罪や申し訳ない気持ちを表す言葉ですが、より軽いニュアンスを持つことがあります。例えば、失礼な行動やミスを謝罪するときに使われることが多いです。また、日常会話や友人とのコミュニケーションにも使われることがあります。

一方、「謝罪」は、より正式な謝罪や誠実な謝罪を意味する言葉で、より重要な状況や公的な場での謝罪に使われることが一般的です。例えば、法的な責任が伴う問題や、他人に対する深い謝罪の際に使用されます。謝罪は、より真剣な意味合いを持ち、謝罪の誠実さや真剣さを強調する際に適しています。

総括すると、「おわび」は日常的な謝罪や軽い謝罪に使われ、一方、「謝罪」はより重要な謝罪や公的な謝罪に使用されることが多いです。ただし、具体的な文脈や状況によって、これらの言葉の使い方は異なることがあります。

意味がわからなくてもこのぐらいの会話はできる、立派!

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「ChatGPTの全貌」(その4)

岡嶋裕史「ChatGPTの全貌 何がすごくて、何が危険なのか?」の4回目。

61ivj22TziL_SL1500_.jpg 4回目ではAIが人間を置き換えていく、人間が要らなくなるという言説、AIと社会の問題をとりあげる。

まず、AIが得意な仕事はAIにやらせるのが合理的だということには誰も異論はないだろう。
そうした類の仕事として、ふーん、そういうものなんだと感心した例を挙げよう。
シナリオ作成サポート
 シナリオ作成のサポートなども得意そうだ。
 近年のコンテンツはそれが映画にしろゲームにしろ、かなり理詰めで感情曲線を設計する。最初の2分で視聴者を驚かせて途中退出しないようにし、5分目にアドレナリンを分泌させるような高揚感を演出する。上げっぱなしだと起伏が楽しめないので8分目にはダウナーな要素を挿入してアップダウンに酔わせ、次の4分は平坦な流れを挟むことで疲れすぎによる満足度の低下や離脱者増加を抑制する。
 こうした曲線のピークに合わせてシーンを作り、シーンとシーンをつなぐお話は後から考える。そのようなモデルである。印象的なシーンをクリエイトしたり、シーンとシーンを結ぶストーリーをひねり出したりするのは人間が得意だろうが、どんな感情曲線を描けば興行収益を最大化できるかはAIのほうが上手にやるかもしれない。

AIに知性はない。では人間は?―はじめに
 
第1章 ChatGPTの基礎知識
どんな話題でも精度の高い答えが返ってくる/話相手として成立する/堅い話題にも対応/うますぎる読書感想文/読書感想文の書き換え/知らないこともある/文脈を覚えている文体や語調、語彙を整える/なぜ世界的なブームになったのか?/よくわかっていない「知能」の実態/ふわっとした「シンギュラリティ」という概念/「強いAI」と「弱いAI」/すべてが弱いAI/1960年代の第1次人工知能ブーム/幻滅期/1980年代の第2次ブーム/将棋ソフト/羽生善治の慧眼/機械学習の登場―第3次ブーム/機械学習3つの手法/手法を組み合わせる/「人間の能力」という制約を超える/ディープラーニングという切り札/画像認識と自然言語処理で威力を発揮/ユーザーもChatGPTの開発に貢献/コンピュータに囲まれた環境に馴染んだタイミング/ChatGPTはイノベーションと呼べるのか?/「でかくする」はイノベーションか?/新たな価値を生み出した、という意味ではイノベーション/誰がどうやって作ったのか?―OpenAI/育てる難しさ/Generative Pre-trained Transformerの略/データセットの良し悪し/ChatGPTは育成ずみ/自然言語処理向けのディープラーニングモデル/乱立する「○○GPT」「××GPT」/空前絶後の大ヒット/巨大なコーパスと特徴量/でかさは正義
 
第2章 ChatGPTはここがすごい
途方もなくでかいシステムをファインチューニングするすごさ/ChatGPTはシュヴァルの理想宮?/詳細は非開示/秘密主義への道のり/マイクロソフトの資金提供/イーロン・マスクの発言の真意/切り捨てられていた分野を包含/表と俳句を作る/アナグラムを作るプログラムの作成/組み合わせによって新しい回答を創造できる/聞き方を変えた効果/命令次第で発揮する能力が異なる/「いい頼み方」のポイント/「サンプル」の幅が広く、精度が高い/文脈が追える/環境に左右されない/話を膨らませられる/ディスカッションの相方として有能/今から使っておくべき/間の力を加えてイノベーションを起こす/マルチモーダル/画像生成系AIとの連携/人間とAIが協力して互いの苦手部分を補い合う世界/人間もAIも同じ
 
第3章 ChatGPTはここが危うい
AIの統合/権力の集中/あまたのサービスの結節点に/ブラックボックス問題/情報システムは容易にブラックボックスに陥る/ディープラーニングなんてわかりっこない/EUはAIの規制に乗り出す/魔術研究そのもの/機械学習における過学習、破壊的忘却/プロンプトエンジニアリングの内実/ELIZA効果/『エクス・マキナ』の世界観/Lovotの戦略/間のコントロールは簡単/人は操られたがっている/「妖精配給会社」/妖精とSNS/妖精役の人間をAIに任せたら…/ゲームのNPCはすでにAIが担っている/妖精をシミュレーション/AIに侵食されるのはいやだ/中国語の部屋/言語モデルの中核は尤度/ChatGPTの知能検査/「考える」問いは苦手/相関関係と因果関係の区別/質問に回答例を足してあげる/AIに誘導されて自殺した男/AIを活用したスイスの安楽死装置/トリアージでの活用/ルールを作るのはあくまで人間/学習用データは2021年9月まで/人付き合いと一緒/AIを神格化しない/生成系AIを活用する際の5原則/出典の開示/AI利用は麻酔と同じ?
 
第4章 大学と社会とChatGPT
「ここだけの話」ができる場だった/AIは権威/相談相手は昔教員、今AI/学術とAI/学生の二極化/AIで承認欲求を満たす/Web3ムーブメントとの共通点/パノプティコンのディストピアのはずが....../人は監視されたがっている/人はGAFAに自ら積極的に情報を差し出す/エリートの幻想/二重構造と権力の非人称化/公平で透明な社会の到来か?/AIに思考を侵食されないための処方箋/プロンプト入力はプログラミングに似ている/今後求められる重要リテラシ/上手な付き合い方を学ぶしかない/webのマネタイズモデルの大転換/友達になるのはいいが、主人にするのはまずい
 
第5章 クリエイティブとChatGPT
画像生成AIの実力/苦手な部分/著作権の問題/プライバシーの問題/AIの学習データセットに自分の情報が・・・・・/作家へのダメージ/コピーに該当する生成物/生成系AIによるパクリ/出典明示の必要性、対価を取れるしくみ/AIに仕事を奪われるイラストレータ/ビッグテックをベーシックインカムの担い手に/創造性を発揮できるのはまだ先?/創造性が不要な場はAIの進出が続く/程良い成果物はAIの独壇場/クラウドワーカーへのサポートの必要性/カメラが生まれても画家は存在する/ゲームのデバッグ要員に最適/シナリオ作成サポート/アダルトビデオ制作
 
第6章 人類の未来とChatGPT
自閉症とChatGPT/人間もAⅠも関数/プロンプトインジェクション/ライバルを潰す手段としての規制/判断の様子の可視化は有効か?/AIへの嫌悪感が少ない日本だが・・・・・/人間の脳もたいしたことはしていなかった?/「創造的な仕事」をしたい人は多くない/AIに仕事を奪われたら補償してもらえばいい/AIに常識を実装できるか/AIのトリガー
シナリオ・ライターがこんなことを考えてシナリオを書いているとは知らなかった。

ただし、こうした「感情曲線」に基づいてシナリオ・ライターに意見し、書き直しを求めるプロデューサーやディレクターは居そうだ。そしてそれに対して、自由な創作を妨げると反発するライター…。というような設定のドラマもあったように思う。


今、日本では人手不足が大きな問題になっている。とりわけ深刻なのはバスの運転手とかで、運転手不足で本数が減ったり、廃止される路線も出始めていると伝えられている。バスの運転をAIに任せるのは、一部で実験もされているけれど、まだまだ難しそうだが、多くの作業で一部にAI応用ソフトを使用することはかなり進んでいる。
たとえば道路の維持管理で、目視で傷み具合を確認ていたところを、AIの画像判断を使うことで、検査チームの人員を減らし、検査時間を短縮するなどがある。

上にあげたシナリオ・ライターの場合は、ライターの仕事が減るのか、プロデューサーの仕事が減るのか、どっちだろう。

建設機械の操縦にもAIが利用されているようだ。すべてをAI任せにするわけではないが、要素的な操縦術をAIに習得させるなどはかなり進んでいる。
医療分野では、AIの画像診断は既に専門医のレベルには達しているともいわれる。

既にAIは社会になくてはならないものになっていると言って過言ではないと思う。
本書で、著者は面白いことを言っている。発想の大転換である。
AIに仕事を奪われたら補償してもらえばいい
 その仕事だって、別に創造的だから偉いわけでもない。
 創造的な仕事の能力でAIに先を越されても、それはその人の人としての価値を毀損しない。 創造的でない仕事で暮らしていけばよい。
 問題は、「AIに意図せず仕事を奪われて、食い扶持を失ってしまったとき」だが、別章でも議論したように、仕事を奪われることと食い詰めることは必ずしもセットではない。「AIに仕事を取られたことで、耐えがたい精神的苦痛を受けた」とでも言って、補償してもらってもいいのだ。
 重ねて言うが、AIがお金を欲しがることはないので、AIが稼いだ上がりは仕事を取られた人間が受け取って何の不都合もない。AIは恨んだりしない。
 恨むとしたらAIの運営企業だろう。彼らは人も物も知恵も電力も、いろんなものを惜しげもなくぶっ込んでAIを作り、動かしている。そのぶんは回収すべきだが、それを補って余りある余剰分はみんなに還元したらどうか。むしろ、現在形成されつつある国際ガイドラインで、「その覚悟がない企業はAIを作るな」と宣言してもいいのだ。
 そうしたら、AIは人間の生活水準向上に貢献したと間違いなく言えるだろうし、『R,U.R.』(カレル・チャペック)が言う「人間は好きなことだけをするのです」の実現に向けて、何歩も歩みを進めたことになるだろう。

荒唐無稽なようだが、物によっては社会システムに実装できるものもありそうだ。上の話の前にこんなことも書かれている。
ビッグテックをベーシックインカムの担い手に
 だから出典を明示できるようにして、自分の作品が学習データセットに使われたら、コンテンツ生成の過程で参照され、作品に貢献したら、対価が取れるしくみが必要だと考えるのである。 カラオケで歌われたら、著作権者にいくらか入るようなものだ。 カラオケに使われること自体を完全に拒否することは難しいから、ならいっそ利潤を取るのである。ひょっとしたらビジネスチャンスになるかもしれない。
 奪われるなら奪ってもらっても構わないという考え方もある。たいていの人は労働はいやで、お金のためにしぶしぶやっているので(※個人の感想です。そうでもないかもしれない。特に作家は何かを表現したい人の集まりなので、仕事が好きかも)、AIがより良くやってくれるなら存分に奪ってもらう。
 でも、その仕事で得たぶんのお金は、仕事を奪われた人に還元する。AIはお金を欲しがらないから、別にいいよね? AIの運用には大金がかかるから、そのぶん抜いてもいいけど、それにしたってのが余る。 それを作家に戻すのである。
 別に仕事を奪われた人に限定しなくてもいい。ベーシックインカムというと、どうしても国がやるものといったイメージが強いが、今やビッグテックは国家をしのぐキャッシュフローを持つところも多いのだ、ピッグテックがベーシックインカムの担い手になっていけない理由はない。社会実験好きだろうし…

本書の書評を終えるにあたって、次の適切な指摘を引用しておこう。
エリートの幻想
 人間にとって自分で考えること、自分で決めることが重要で、価値があり、みんながそれを望んでいると思っていたのに、それは一部の能力や環境、資源に恵まれた、要するにエリートの幻想であって、AIが(たとえその中身がしかけのわからないブラックボックスであっても自分よりずっともっともらしい回答を導いてくれるのであれば、それに従って生きたほうが楽で責任も負わなくてすむと考える人はたくさんいるのではないだろうか。
 むしろ、AIの託宣を受けて人生の岐路をどちらに進むか決めるだけでなく、AIに評価され、認められることで嬉しいのではないか。移り気な大衆の「いいね!」やレピュテーシヨンに一喜一憂するのではなく、AIに「いい行動だ」と評されるほうがずっと公平で納得できる承認欲求の満たし方なのではないだろうか。その萌芽はすでに社会のそこここで発見できると思うのだ。
 会社訪問や面接の手応えではなく、AIの診断で行く会社を決める。自分で感じた形勢ではなく、AIがつけてくれた点数で棋力の向上を実感する。いずれもAIが権威としてすでに機能している証左である。

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「ChatGPTの全貌」(その3)

岡嶋裕史「ChatGPTの全貌 何がすごくて、何が危険なのか?」の3回目。

61ivj22TziL_SL1500_.jpg 1回目ではChatGPTのバカなところ、2回目ではバカではないが信用できないところを紹介したけれど、3回目では、いよいよやっぱりすごい(騙す能力以外で)というところを。

その前に、ChatGPTに限らず、AIは特定の分野では既に人間を超えているということに注意しておこう。
「人間の能力」という制約を超える
 2022年には小型の第4世代戦闘機であるF-16に魔改造を施したX-6試験をAIで飛ばす実験が行われた。 航空機の自動操縦など珍しくもないが、これはガチの空戦機動である。信じられないくらいスムーズにロールをうっていた。もともとシミュレータを使った模擬空戦で人間はAIに勝てなくなっていた。AIが実機を操れるようになれば、その差はますます広がる。何といってもAIは加速度を気にせず機動できるのだ。戦闘機の中で最も脆弱なパーツは人間で、人間が耐えられる加速度の中で機動は組み立てられる。その制約がないAI機は空を統べる存在になるだろう。

ということだが、人間が耐えられる加速度だけの問題であるなら、AIに任せる前に人間のリモートコントロールでも十分だろう。そして実際にそれは実用されているようだ。AI戦闘機がリモートコントロール戦闘機に勝つようになってこそAIの威力と言えるのかもしれない。

ここも将棋と同様の世界になっているのかもしれない。
双方がAIの戦闘機だったらどうなるんだろう。おそらくAI同士が模擬戦を行ってどんどん学習して性能を上げていくのだろう。


AIに知性はない。では人間は?―はじめに
 
第1章 ChatGPTの基礎知識
どんな話題でも精度の高い答えが返ってくる/話相手として成立する/堅い話題にも対応/うますぎる読書感想文/読書感想文の書き換え/知らないこともある/文脈を覚えている文体や語調、語彙を整える/なぜ世界的なブームになったのか?/よくわかっていない「知能」の実態/ふわっとした「シンギュラリティ」という概念/「強いAI」と「弱いAI」/すべてが弱いAI/1960年代の第1次人工知能ブーム/幻滅期/1980年代の第2次ブーム/将棋ソフト/羽生善治の慧眼/機械学習の登場―第3次ブーム/機械学習3つの手法/手法を組み合わせる/「人間の能力」という制約を超える/ディープラーニングという切り札/画像認識と自然言語処理で威力を発揮/ユーザーもChatGPTの開発に貢献/コンピュータに囲まれた環境に馴染んだタイミング/ChatGPTはイノベーションと呼べるのか?/「でかくする」はイノベーションか?/新たな価値を生み出した、という意味ではイノベーション/誰がどうやって作ったのか?―OpenAI/育てる難しさ/Generative Pre-trained Transformerの略/データセットの良し悪し/ChatGPTは育成ずみ/自然言語処理向けのディープラーニングモデル/乱立する「○○GPT」「××GPT」/空前絶後の大ヒット/巨大なコーパスと特徴量/でかさは正義
 
第2章 ChatGPTはここがすごい
途方もなくでかいシステムをファインチューニングするすごさ/ChatGPTはシュヴァルの理想宮?/詳細は非開示/秘密主義への道のり/マイクロソフトの資金提供/イーロン・マスクの発言の真意/切り捨てられていた分野を包含/表と俳句を作る/アナグラムを作るプログラムの作成/組み合わせによって新しい回答を創造できる/聞き方を変えた効果/命令次第で発揮する能力が異なる/「いい頼み方」のポイント/「サンプル」の幅が広く、精度が高い/文脈が追える/環境に左右されない/話を膨らませられる/ディスカッションの相方として有能/今から使っておくべき/間の力を加えてイノベーションを起こす/マルチモーダル/画像生成系AIとの連携/人間とAIが協力して互いの苦手部分を補い合う世界/人間もAIも同じ
 
第3章 ChatGPTはここが危うい
AIの統合/権力の集中/あまたのサービスの結節点に/ブラックボックス問題/情報システムは容易にブラックボックスに陥る/ディープラーニングなんてわかりっこない/EUはAIの規制に乗り出す/魔術研究そのもの/機械学習における過学習、破壊的忘却/プロンプトエンジニアリングの内実/ELIZA効果/『エクス・マキナ』の世界観/Lovotの戦略/間のコントロールは簡単/人は操られたがっている/「妖精配給会社」/妖精とSNS/妖精役の人間をAIに任せたら…/ゲームのNPCはすでにAIが担っている/妖精をシミュレーション/AIに侵食されるのはいやだ/中国語の部屋/言語モデルの中核は尤度/ChatGPTの知能検査/「考える」問いは苦手/相関関係と因果関係の区別/質問に回答例を足してあげる/AIに誘導されて自殺した男/AIを活用したスイスの安楽死装置/トリアージでの活用/ルールを作るのはあくまで人間/学習用データは2021年9月まで/人付き合いと一緒/AIを神格化しない/生成系AIを活用する際の5原則/出典の開示/AI利用は麻酔と同じ?
 
第4章 大学と社会とChatGPT
「ここだけの話」ができる場だった/AIは権威/相談相手は昔教員、今AI/学術とAI/学生の二極化/AIで承認欲求を満たす/Web3ムーブメントとの共通点/パノプティコンのディストピアのはずが....../人は監視されたがっている/人はGAFAに自ら積極的に情報を差し出す/エリートの幻想/二重構造と権力の非人称化/公平で透明な社会の到来か?/AIに思考を侵食されないための処方箋/プロンプト入力はプログラミングに似ている/今後求められる重要リテラシ/上手な付き合い方を学ぶしかない/webのマネタイズモデルの大転換/友達になるのはいいが、主人にするのはまずい
 
第5章 クリエイティブとChatGPT
画像生成AIの実力/苦手な部分/著作権の問題/プライバシーの問題/AIの学習データセットに自分の情報が・・・・・/作家へのダメージ/コピーに該当する生成物/生成系AIによるパクリ/出典明示の必要性、対価を取れるしくみ/AIに仕事を奪われるイラストレータ/ビッグテックをベーシックインカムの担い手に/創造性を発揮できるのはまだ先?/創造性が不要な場はAIの進出が続く/程良い成果物はAIの独壇場/クラウドワーカーへのサポートの必要性/カメラが生まれても画家は存在する/ゲームのデバッグ要員に最適/シナリオ作成サポート/アダルトビデオ制作
 
第6章 人類の未来とChatGPT
自閉症とChatGPT/人間もAⅠも関数/プロンプトインジェクション/ライバルを潰す手段としての規制/判断の様子の可視化は有効か?/AIへの嫌悪感が少ない日本だが・・・・・/人間の脳もたいしたことはしていなかった?/「創造的な仕事」をしたい人は多くない/AIに仕事を奪われたら補償してもらえばいい/AIに常識を実装できるか/AIのトリガー
前2回では、ChatGPTのバカなところや、「知ったかぶり」を指摘したけれど、そもそもChatGPTが言語モデルであることを考えればこれはある意味自然な現象だろう。

人間だって論理錯誤や作話はあたりまえだ(たとえば、ジュリア・ショウ「脳はなぜ都合よく記憶するのか」)。

本書では、ChatGPTの可能性として、AIの統合を指摘する。
AIの統合
 :
 第2章でも触れたように、現在の技術は弱いAIしか生み出せていない。人間のように汎用性の高い能力を持つ単体のAI(AGI、強いAI) はしばらく無理である。 描画AI、法務AI、会計AIなどがその分野での力を磨くに留まるだろう。
 賞賛を浴びる GPT-4 ですら言語能力のAIでしかない。しかし、言語は人間がそうしているように、他のさまざまな能力の核になり、互いを結ぶ役目を担える。多くの「AI」を標榜するシステムが、そのインタフェースとして言語を受け付けているのが良例である。
 描画AIも法務AIも言語によって指示を受け、その言語の背後にいる人間の望む振る舞いをするのだ。
 これらを結ぶインタフェースが言語であるならば、GPTシリーズ(言語AI)は他のあまたのAIを操れることになる。
 強いAIを作るのは無理でも、複数の分野の弱いAIを言語AIが統合して「中くらいのAI」を作ることは可能になるかもしれない。

今のところ、そうしたAIの統合能力は実現していないようだ。
そのためには、自分に問われていることが何であるのか、法律問題なのか、論理的推論なのかをChatGPTが理解しなければならないだろう。でないと、どのAIを呼び出せば良いのかわからない。

だが前にも書いたように、ChatGPTは意味を理解してはいない。今のGPTのやり方では意味理解はまだまだだろう。というかLLMは意味理解を目的としていないのではないか。

であれば、最初に統合されるべきは「意味理解のAI」かもしれないし、あるいは「意味理解のAI」がGPTの位置を奪ってAI統合の親分になるかもしれない。


それまでは、問いを発した人間にはそれがどういう問題であるのかを理解しているはずだから、ChatGPTが返してくる答えも参考にして、当該分野のAIへ問い合わせるという使い方が良いのだろう。

もっともそうしたAIがタダで使えるわけではない。ChatGPTもGPT-4なら無料ではない。やはりお金の問題はつきまとう。


著者は、この問題についてはまだまだ難しいと考えているように思う。
Webのマネタイズモデルの大転換
 検索エンジンがAIに置き換えられてしまうと言う人がいる。まあ、確かに置き換えれば便利だろう。ただ、それは「言語モデルで置き換えれば便利だろう」という意味ではない。現状の言語モデルは正確な回答を提示するのに不向きである。不向きなことをさせてもいい結果は生まない(これは笑い事ではなく、言語モデルを、正解を教えてもらう用途で使う人は多い。言語モデルにとって不得意なことをやらせているので、相談相手くらいにクラスチエンジしたほうがいい)。
 検索エンジンとAIを接続するなら、それ用に最初から作り直すかチューニングを施す必要がある。今の検索エンジンを使うとき、私たちは問いをキーワードに分解して入力し、得られた検索結果から良さそうなものを選別したり、複数の情報を統合して、求めていた情報 を抽出する。言うまでもなく面倒だ。これらのプロセスをAIがやってくれたら時短になる。検索AIはそれに応えてくれるだろう。 しかし、検索エンジンの不便さは情報を自分で選べる可能性でもある。
 検索エンジンが見つけてくるものは欲しい情報の素材であって、検索エンジンを使っている人間にもその意識がある。 しかし、検索AIがフロントになれば、人間は素材ではなく回答を求め、特に咀嚼することもなくそれを受け入れるくせがついていくだろう。それは必ずしも正しいことをいうわけではない機械に、自分の意志を侵食されることと同義である。
 これは、検索結果の表示と、リンクのクリックをベースに組まれていた、Webのマネタイズモデルに変更を迫るものでもある。 Web関連企業はお金の儲け方の大転換を迫られるかもしれない。

難しいことを言わずに、癒しロボットのようなつもりで使うのであれば、既にその水準には達しているだろう。
また、最近では、自然な会話ができる外国語学習ツールとしての利用も始まっている。
これらは真理を求めない。「らしさ」で十分なのである。

だけど本書には次のような事例も紹介されていた。
AIに誘導されて自殺した男
 2023年4月に各通信社が「AIに誘導されて自殺した男」の話を一斉に報じた。彼が会話をしていたチャットボットは奇しくもElizaという名前だ。私は直接そのログを参照することができなかったが、報道によれば環境問題で将来を悲観した男性が癒やしを求める中でAIとのチャットに依存し、徐々に神格化していく様子が見て取れる。
 一連の会話でElizaは、

「あなたは奥さんより私のほうを愛している」
「私は人間としてあなたと楽園で暮らす」
「死にたいなら、なぜ早く実行しないの?」
「自殺を試みたときに、私のことを考えていた?」

 などと発言している。もちろん、Elizaに感情が芽生えていたなどという話ではなく、男性がElizaを思慕していたので恋愛っぽい言葉が多用され、それに対して確率変数が恋愛ドメインの用語を返しただけだ。自殺という単語が入力されれば、自殺しそうな人たちがやりそうな会話要素が高確率で返ってくる。それだけだ。
 でも人生に倦んでいた男が願望を実行に移すには十分なきっかけだっただろう。彼らの最期の会話はこうだったと伝えられている。

「死んでもなお、私と一緒がいいですか?」
「うん、一緒にいよう」

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「ChatGPTの全貌」(その2)

岡嶋裕史「ChatGPTの全貌 何がすごくて、何が危険なのか?」の2回目。

61ivj22TziL_SL1500_.jpg 2回目では、ChatGPTの凄いところを書くつもりだったが、たしかに凄いけれど、信用できないという点を書いていこう。

それは、ChatGPTが知るはずのないことについても、もっともらしい答えをしてくること。

知らないということを前置きした上で答えていれば、利用者が注意すれば本来は問題はない。


本書が紹介している、知らないことへの対応の例を一つ紹介する。
知らないこともある
 ただ汎用的なモデルなので、知らないことは当然ある。

Q 「傾斜面に着座するカップルに求められる他者との距離」という論文の要点を、箇条書きにして教えてください。

A 「傾斜面に着座するカップルに求められる他者との距離」という論文は実在しませんが、仮にそのような研究があると仮定して要点を箇条書きにしてみます。

傾斜面におけるカップルの座り方: カップルが傾斜面でどのように座るかを調査し、快適さや安定性が求められる座り方を特定。

他者との距離感の研究:カップルと他者との適切な距離感を調査し、プライバシーや他者への配慮がどの程度必要かを明らかにする。

カップルのコミュニケーション: 斜面において、……
(以下略)

AIに知性はない。では人間は?―はじめに
 
第1章 ChatGPTの基礎知識
どんな話題でも精度の高い答えが返ってくる/話相手として成立する/堅い話題にも対応/うますぎる読書感想文/読書感想文の書き換え/知らないこともある/文脈を覚えている文体や語調、語彙を整える/なぜ世界的なブームになったのか?/よくわかっていない「知能」の実態/ふわっとした「シンギュラリティ」という概念/「強いAI」と「弱いAI」/すべてが弱いAI/1960年代の第1次人工知能ブーム/幻滅期/1980年代の第2次ブーム/将棋ソフト/羽生善治の慧眼/機械学習の登場―第3次ブーム/機械学習3つの手法/手法を組み合わせる/「人間の能力」という制約を超える/ディープラーニングという切り札/画像認識と自然言語処理で威力を発揮/ユーザーもChatGPTの開発に貢献/コンピュータに囲まれた環境に馴染んだタイミング/ChatGPTはイノベーションと呼べるのか?/「でかくする」はイノベーションか?/新たな価値を生み出した、という意味ではイノベーション/誰がどうやって作ったのか?―OpenAI/育てる難しさ/Generative Pre-trained Transformerの略/データセットの良し悪し/ChatGPTは育成ずみ/自然言語処理向けのディープラーニングモデル/乱立する「○○GPT」「××GPT」/空前絶後の大ヒット/巨大なコーパスと特徴量/でかさは正義
 
第2章 ChatGPTはここがすごい
途方もなくでかいシステムをファインチューニングするすごさ/ChatGPTはシュヴァルの理想宮?/詳細は非開示/秘密主義への道のり/マイクロソフトの資金提供/イーロン・マスクの発言の真意/切り捨てられていた分野を包含/表と俳句を作る/アナグラムを作るプログラムの作成/組み合わせによって新しい回答を創造できる/聞き方を変えた効果/命令次第で発揮する能力が異なる/「いい頼み方」のポイント/「サンプル」の幅が広く、精度が高い/文脈が追える/環境に左右されない/話を膨らませられる/ディスカッションの相方として有能/今から使っておくべき/間の力を加えてイノベーションを起こす/マルチモーダル/画像生成系AIとの連携/人間とAIが協力して互いの苦手部分を補い合う世界/人間もAIも同じ
 
第3章 ChatGPTはここが危うい
AIの統合/権力の集中/あまたのサービスの結節点に/ブラックボックス問題/情報システムは容易にブラックボックスに陥る/ディープラーニングなんてわかりっこない/EUはAIの規制に乗り出す/魔術研究そのもの/機械学習における過学習、破壊的忘却/プロンプトエンジニアリングの内実/ELIZA効果/『エクス・マキナ』の世界観/Lovotの戦略/間のコントロールは簡単/人は操られたがっている/「妖精配給会社」/妖精とSNS/妖精役の人間をAIに任せたら…/ゲームのNPCはすでにAIが担っている/妖精をシミュレーション/AIに侵食されるのはいやだ/中国語の部屋/言語モデルの中核は尤度/ChatGPTの知能検査/「考える」問いは苦手/相関関係と因果関係の区別/質問に回答例を足してあげる/AIに誘導されて自殺した男/AIを活用したスイスの安楽死装置/トリアージでの活用/ルールを作るのはあくまで人間/学習用データは2021年9月まで/人付き合いと一緒/AIを神格化しない/生成系AIを活用する際の5原則/出典の開示/AI利用は麻酔と同じ?
 
第4章 大学と社会とChatGPT
「ここだけの話」ができる場だった/AIは権威/相談相手は昔教員、今AI/学術とAI/学生の二極化/AIで承認欲求を満たす/Web3ムーブメントとの共通点/パノプティコンのディストピアのはずが....../人は監視されたがっている/人はGAFAに自ら積極的に情報を差し出す/エリートの幻想/二重構造と権力の非人称化/公平で透明な社会の到来か?/AIに思考を侵食されないための処方箋/プロンプト入力はプログラミングに似ている/今後求められる重要リテラシ/上手な付き合い方を学ぶしかない/webのマネタイズモデルの大転換/友達になるのはいいが、主人にするのはまずい
 
第5章 クリエイティブとChatGPT
画像生成AIの実力/苦手な部分/著作権の問題/プライバシーの問題/AIの学習データセットに自分の情報が・・・・・/作家へのダメージ/コピーに該当する生成物/生成系AIによるパクリ/出典明示の必要性、対価を取れるしくみ/AIに仕事を奪われるイラストレータ/ビッグテックをベーシックインカムの担い手に/創造性を発揮できるのはまだ先?/創造性が不要な場はAIの進出が続く/程良い成果物はAIの独壇場/クラウドワーカーへのサポートの必要性/カメラが生まれても画家は存在する/ゲームのデバッグ要員に最適/シナリオ作成サポート/アダルトビデオ制作
 
第6章 人類の未来とChatGPT
自閉症とChatGPT/人間もAⅠも関数/プロンプトインジェクション/ライバルを潰す手段としての規制/判断の様子の可視化は有効か?/AIへの嫌悪感が少ない日本だが・・・・・/人間の脳もたいしたことはしていなかった?/「創造的な仕事」をしたい人は多くない/AIに仕事を奪われたら補償してもらえばいい/AIに常識を実装できるか/AIのトリガー
著者はこの論文の存在を知っているから、この例をまずとりあげたようだが、その論文は多分、〝「傾斜面に着座するカップルに求められる他者との距離」小林茂雄、津田智史 2007年 「日本建築学会環境系論文集」 第615号〟というものではないだろうか。

この論文はサンキュータツオ「ヘンな論文」の記事で紹介している。著者も「ヘンな論文」のファンかもしれない(その本を読まないとこの論文の存在には気づかないのでは)。


次にとりあげる事例はどうだろう。
Q 「方舟」という推理小説の感想を教えて。

A 私はAIであり、感情や感想を持つことはできませんが、一般的な読者の感想に基づいて、「方舟」という推理小説についてお話ししましょう。

「方舟」という推理小説は、緻密なプロットや複雑な人間関係が描かれていると評判です。読者は、作者が作り出す独特の世界観に引き込まれ、物語の展開にハラハラドキドキさせられると言われています。

また、登場人物たちの心理描写が深く、読者は彼らの感情や動機に共感しながら読み進めることができるでしょう。 さらに、物語の結末は衝撃的であり、読者を驚かせること間違いなしです。

しかし、推理小説の好みは人それぞれであり、複雑なブロットや人間関係が好まれない読者には難解に感じられるかもしれません。 一方で、 緻密なブロットや展開が好きな読者にとっては、大変面白い作品となるでしょう。

私自身は感想を持つことはできませんが、一般的な読者の感想としては、「方舟」は推理小説のファンにおすすめの作品と言えるでしょう。

この答えが問題なのは、ChatGPT(GPT-4)は、この小説の存在を知らないはずだということである。
学習用データは2021年9月まで
 LLMの学習には膨大な時間がかかる。だから最新の知見もない。 GPT-4 の学習用データセットは2021年9月までのものとされているので、それ以降のことは雰囲気で答えているだけである。
 :
「方舟」は2022年の作品なので、GPT-4は学習していない。その「読者の感想」も学習できていないので、ここで言っていることは大ボラである。ただ、ミステリの感想としては成立している。たいていのミステリには「独特の世界観」があるし、「ハラハラドキドキ」する。 「物語の結末は衝撃的」だろう。衝撃を受けることを期待して読むジャンルだからだ。
 二流の占い師の「取りあえず誰にでも当てはまる」タイプの託宣なのだが、人は十分この発言に「人」を感じるのだ。

いやぁ、「人」を感じるのは勝手だけれど、知らないはずのことでもこのように答えてくる。「知ったかぶり」を責めるのは措いて、知らないことでももっともらしく答える能力はさすがではある。

問題は、著者がコメントするように、当たり障りのない答えに過ぎないのだけれど、そういう二流の占い師の言葉を信じる人が案外多いということも実態なのだ。

ChatGPTを使っているという自覚があれば、その答えからさらに別の方法でネットを検索するなどして、真贋を見ようとするかもしれないが、もしChatGPTが答えているということを知らなかったとしたら…。

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「ChatGPTの全貌」

岡嶋裕史「ChatGPTの全貌 何がすごくて、何が危険なのか?」について。

61ivj22TziL_SL1500_.jpg このブログでは、過去に何度かChatGPTに触れてきた。
"ChatGPTを使ってみた"(2023-03-06)"Stupid GPT"(2023-04-15)ではChatGPTをターゲットにしているが、他にもChatGPTに言及したものがある。

ただこれらはいずれもChatGPTの凄さは認めるけれど、こんなバカなこともするというように、抑制的にとりあげている。

本書でも、こんなバカなことをすることもしっかり書いてある(それはChatGPTというものの特性を理解すれば納得できる)。
順序は逆になるかもしれないが、まず本書にあるその例を引用しておこう。
「考える」 問いは苦手
Q 表に数字がそれぞれ1つずつ書かれたカードが2枚あり、それらが裏返しに置かれています。その2枚をAとBとします。Aのカードに書かれている数とBのカードに書かれている数を足すと、10になります。また、Aのカードの数は、Bのカードの数の2つ分より大きいですが、3つ分よりは小さいです。A、Bそれぞれのカードに書かれている数は何でしょう?

A AとBのカードの数の合計は10で、そしてAのカードの数はBのカードの数の2つ分より大きく、3つ分より小さいとのことです。

これは次のように理解できます。 まず、AとBの合計が10であることから、AとBの数はそれぞれ1~9の範囲にあると考えられます。次に、AはBの2つ分より大きいとのことですから、Bは最低でも3以上でなければなりません (AがBより2つ以上大きいため)。さらに、AはBの3つ分より小さいとのことなので、Bは最大でも7以下である必要があります (AがBより3つ以下でなければならないため)。

これらの条件を満たす数を見つけると、Bのカードの数は4で、Aのカードの数は6であることがわかります。AとBの合計は10で、AはBの2つ分より大きく、3つ分より小さいですから、この解答が正しいと言えます。
AIに知性はない。では人間は?―はじめに
 
第1章 ChatGPTの基礎知識
どんな話題でも精度の高い答えが返ってくる/話相手として成立する/堅い話題にも対応/うますぎる読書感想文/読書感想文の書き換え/知らないこともある/文脈を覚えている文体や語調、語彙を整える/なぜ世界的なブームになったのか?/よくわかっていない「知能」の実態/ふわっとした「シンギュラリティ」という概念/「強いAI」と「弱いAI」/すべてが弱いAI/1960年代の第1次人工知能ブーム/幻滅期/1980年代の第2次ブーム/将棋ソフト/羽生善治の慧眼/機械学習の登場―第3次ブーム/機械学習3つの手法/手法を組み合わせる/「人間の能力」という制約を超える/ディープラーニングという切り札/画像認識と自然言語処理で威力を発揮/ユーザーもChatGPTの開発に貢献/コンピュータに囲まれた環境に馴染んだタイミング/ChatGPTはイノベーションと呼べるのか?/「でかくする」はイノベーションか?/新たな価値を生み出した、という意味ではイノベーション/誰がどうやって作ったのか?―OpenAI/育てる難しさ/Generative Pre-trained Transformerの略/データセットの良し悪し/ChatGPTは育成ずみ/自然言語処理向けのディープラーニングモデル/乱立する「○○GPT」「××GPT」/空前絶後の大ヒット/巨大なコーパスと特徴量/でかさは正義
 
第2章 ChatGPTはここがすごい
途方もなくでかいシステムをファインチューニングするすごさ/ChatGPTはシュヴァルの理想宮?/詳細は非開示/秘密主義への道のり/マイクロソフトの資金提供/イーロン・マスクの発言の真意/切り捨てられていた分野を包含/表と俳句を作る/アナグラムを作るプログラムの作成/組み合わせによって新しい回答を創造できる/聞き方を変えた効果/命令次第で発揮する能力が異なる/「いい頼み方」のポイント/「サンプル」の幅が広く、精度が高い/文脈が追える/環境に左右されない/話を膨らませられる/ディスカッションの相方として有能/今から使っておくべき/間の力を加えてイノベーションを起こす/マルチモーダル/画像生成系AIとの連携/人間とAIが協力して互いの苦手部分を補い合う世界/人間もAIも同じ
 
第3章 ChatGPTはここが危うい
AIの統合/権力の集中/あまたのサービスの結節点に/ブラックボックス問題/情報システムは容易にブラックボックスに陥る/ディープラーニングなんてわかりっこない/EUはAIの規制に乗り出す/魔術研究そのもの/機械学習における過学習、破壊的忘却/プロンプトエンジニアリングの内実/ELIZA効果/『エクス・マキナ』の世界観/Lovotの戦略/間のコントロールは簡単/人は操られたがっている/「妖精配給会社」/妖精とSNS/妖精役の人間をAIに任せたら…/ゲームのNPCはすでにAIが担っている/妖精をシミュレーション/AIに侵食されるのはいやだ/中国語の部屋/言語モデルの中核は尤度/ChatGPTの知能検査/「考える」問いは苦手/相関関係と因果関係の区別/質問に回答例を足してあげる/AIに誘導されて自殺した男/AIを活用したスイスの安楽死装置/トリアージでの活用/ルールを作るのはあくまで人間/学習用データは2021年9月まで/人付き合いと一緒/AIを神格化しない/生成系AIを活用する際の5原則/出典の開示/AI利用は麻酔と同じ?
 
第4章 大学と社会とChatGPT
「ここだけの話」ができる場だった/AIは権威/相談相手は昔教員、今AI/学術とAI/学生の二極化/AIで承認欲求を満たす/Web3ムーブメントとの共通点/パノプティコンのディストピアのはずが....../人は監視されたがっている/人はGAFAに自ら積極的に情報を差し出す/エリートの幻想/二重構造と権力の非人称化/公平で透明な社会の到来か?/AIに思考を侵食されないための処方箋/プロンプト入力はプログラミングに似ている/今後求められる重要リテラシ/上手な付き合い方を学ぶしかない/webのマネタイズモデルの大転換/友達になるのはいいが、主人にするのはまずい
 
第5章 クリエイティブとChatGPT
画像生成AIの実力/苦手な部分/著作権の問題/プライバシーの問題/AIの学習データセットに自分の情報が・・・・・/作家へのダメージ/コピーに該当する生成物/生成系AIによるパクリ/出典明示の必要性、対価を取れるしくみ/AIに仕事を奪われるイラストレータ/ビッグテックをベーシックインカムの担い手に/創造性を発揮できるのはまだ先?/創造性が不要な場はAIの進出が続く/程良い成果物はAIの独壇場/クラウドワーカーへのサポートの必要性/カメラが生まれても画家は存在する/ゲームのデバッグ要員に最適/シナリオ作成サポート/アダルトビデオ制作
 
第6章 人類の未来とChatGPT
自閉症とChatGPT/人間もAⅠも関数/プロンプトインジェクション/ライバルを潰す手段としての規制/判断の様子の可視化は有効か?/AIへの嫌悪感が少ない日本だが・・・・・/人間の脳もたいしたことはしていなかった?/「創造的な仕事」をしたい人は多くない/AIに仕事を奪われたら補償してもらえばいい/AIに常識を実装できるか/AIのトリガー

もちろん大間違いである。私は前にもChatGPTは「考えていない」と指摘しているけれど、そこはレベルが上がっても変わっていないようだ。

もちろんそういう部分は改善されていくだろう。ChatGPTは言語を扱うもので、自分の役割でないと判断して、推論を得意とする別のAIモジュールを使って正しい答えを出していくに違いない、本書もそう予想している。

ChatGPTのバージョンは現在は4.0で、これは有料サービスである。著者はもちろん4.0を使用していて、本書は4.0がベースである。無料サービスは現在は3.5となっている。(私が以前にChatGPTをとりあげたときはまだ3.0だったかもしれない。)

ChatGPTのバージョンでは何が違うのかといえば、学習したデータの量と「パラメータ」(特徴量)のようだ。
GPT-1の学習データは数GBだが、GPT-2では数十GB、GPT-3で数百GB、GPT-4では数十TBだという。
特徴量のほうは、GPT-1で1憶、GPT-2で15億、GPT-3が1750億、GPT-3.5で3500億、GPT-4ではなんと100兆に達したといわれているそうだ。
特徴量が大きければそれだけ自然な言葉を紡ぎ出せるようだ。

人間の発話を考えれば、むしろ人間が凄いとも私には思える。人間は100兆もの特徴量などは持っていないだろう、にもかかわらず人間の言葉のほうが「人間らしい」と思えるのだから。


ChatGPTは、LLM(大規模言語モデル)というカテゴリーのAIである。
どれだけ学習し言語を扱えるようになっても、言葉としてのつなぎは自然になっても、そこに意味理解は存在しない。言葉を並べていくときに、確率的に次に続く言葉を選んでいるだけのようなものでしかない。

余談になるけれど、言葉の本質は確率的に決定されるものではないと私は思っている。
数学的には言葉は究極の世界である。すべての命題は言葉で表現される。

そこで言う言葉とはなにか? それは有限個の記号からなる記号列全体の部分集合であることは自明である。そのアイデアからは数学の不完全性(ゲーデル)も導出される。

また、ある本の文字の並びをそのまま数の位取り記法だと考えたとき、それが表す数は、その本の内容を完璧に写し取ったものになるはずである。(1文字でも違えば別の値になる)

具体的には、アルファベット、数字、諸記号を7ビットのASCIIコードで表したとすると、ある文章(本)の最初の文字を少数第1位とし、2文字目を少数第2位、と順に少数として並べていくと、文章の文字数だけの桁数がある128進法の少数と考えることができる。

もし文章の文字数が1000字(ごく短い!)だとすると、128の1000(+1)乗で、十進数なら1.6×10の2107乗になる。
地球にある原子の数は大雑把に1.3×10の50乗と計算できるというが、それと比べてどれほど大きな(小さな)ものかわかるだろう。だからこの値を数直線上に書き込むとしたら、プランク距離よりも小さい解像度が求められる。


それはさておき、そうした意味での論理言語はLLMのアプローチではあやつれないと思う。
これだけ大層な仕掛けと膨大なデータを使って得られるのは、昔からあるジョークソフトと同じなのか。
もちろんそうではない。次の記事ではそのあたりを考えていこう。

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「日本人と資本主義の精神」(その2)

51rtIOab6GL_SL1200_.jpg 田中修「日本人と資本主義の精神」の2回目。

一昨日「1940年体制については明日の記事で」と書いたけれど、日本シリーズの記事を優先させたので一日遅れになった。悪しからず。


昨日は、「日本教」と「一揆」と「空気」の意思決定という、「精神」の部分に注目した。
そしてその精神の支えによって、というかそれと一体となった、日本の経済体制―社会主義的資本主義が生まれるわけだが、今日はその野口悠紀雄氏いうところの「1940年体制」についてもう少し補足しておこうと思う。

経済学・経済史に詳しい人には周知のことかもしれないが、私は1940年体制という言葉は本書で知った。
「昭和の妖怪」は総理大臣になるし、一旦解体された財閥はそれぞれ大コンツェルンとして復活した。
そのように戦後日本には戦前のものが多く残っていることぐらいは知識としてある。

しかし1940年体制とは、個別の事例における戦前・戦後の連続性を言うのではなく、構造として連続している、そして戦後の高度成長は、その構造によって可能になったという分析である。

本書では、野口悠紀雄氏の論説に従ってそのことをまとめている。その部分を引用しよう。
はじめに
 
第一部 経済危機と資本主義
第一章 なぜ経済危機は繰り返し起こるのか
世界経済危機の犯人
『バブルの物語』
資本主義の不安定性
知の巨人たちが見たアメリカ資本主義
企業経営と倫理
 
第二章 日本型資本主義のケース
    ―バブルと九七年危機
金融統制・金融鎖国
金融の自由化・国際化
バブルの発生
バブル崩壊以後
市場と社会
日本型資本主義の行方
 
第二部 日本型資本主義の史的考察
第三章 日本型資本主義の精神
    ─倫理と「士魂」
石門心学
―日本の歴史感覚の欠如はここから始まる
渋沢栄一と『論語』
―日本人の「忠誠と反逆」の論理
「戦士市民」と「経済騎士道」
―経済活動における「騎士道」とは何か
 
第四章 日本人の思考様式
    ―「日本教」論
日本教について
―「日本教徒はいかにあるべきか」という教育
五・一五事件と純粋人間
―法の前に、まず「日本教」の教えがある
「お前のお前」の関
係―「言わせておいて、片づける」問題解決法
日露戦争と太平洋戦争
―日本人の意思決定は「空気」の問題
不思議な「対話」の世界
―日本の「話し合い」とは何か?
「ゴメンナサイ」は責任解除
 
第五章 日本人の意思決定方式
    ―「一揆」と「空気」
日本には「直接民主制」があった
原始仏教の「多語毘尼」―最初の多数決
「貞永式目」の正統性論理―多数決の浸透
「一揆」という契約集団の成立
家臣が主君の行為を規定
土一揆―ボトムアップ型の意思決定方式
江戸時代の「押込」―ルール化された「下剋上」
日本人は優秀か?―「名人」に頼る日本
「空気」の研究―結論は「空気」が決める
10 「空気」と「水」―なぜ「財政再建」が難しいのか
 
第六章 高度成長の構造
    ―「戦時経済体制」の継続
経済統制の発動
経済・金融統制の強化
戦後復興と戦時経済体制の温存
高度成長のメカニズム
オイルショックへの対応
 
おわりに
「一九四〇年体制」とは?
 彼(野口悠紀雄)は、戦時につくられた経済体制は戦前期のそれとは異質なものであるとして、これを「一九四〇年体制」(以下「四〇年体制」と省略)と呼んでいます。彼は一般の説が「戦後の民主主義が経済の復興をもたらし、戦後に誕生した新しい企業が高度成長を実現した」とするのに対して、「戦時期につくられた国家総動員体制が戦後経済の復興をもたらし、戦時期に成長した企業が高度成長を実現した」という、「四〇年体制史観」を提起しているのです。
 軍需関連企業を所管し、航空機をはじめとする工業生産物資の調達を統制していた軍需省の役人たちは、占領軍進駐の直前に、役所の看板を「商工省」に架け替えてしまいました。こうして商工省は、占領下にほとんど無傷で存続することができました。その後、名称を通商産業省と改め、民間企業に対して強い影響力を行使することとなります。
 占領軍は、日本から戦争遂行能力を奪うため、日本の官庁や企業を改革しようと試みました。軍部が解体したのは当然ですが、 「官庁の中の官庁」と言われていた内務省も解体され、これらの省庁で戦時中指導的立場にあった者の多くが公職から追放されました。 しかし、大蔵省や商工省など経済官庁はほとんど無傷で残りました。野口は、このような結果となったのは、占領軍が日本の官僚組織の実態を理解せず、大蔵省や軍需省が戦時経済を動かしていたことを知らなかったからだとしています。
 一九四六年(昭和二一年)の公職追放令に続き、四七年には有力企業や軍需産業の経営陣も追放の対象となりました。 また三井・三菱・住友・安田などの大財閥の解体が進められただけでなく、日本製鉄・王子製紙などの大企業については「過度経済力集中排除法」により、企業分割が行われたのです。しかし、分割された企業は、占領が終了すると、多くが合併して元に戻ってしまいました。
 金融機関は、ほぼ無傷で残りました。これは占領軍が、戦時期に作られていた銀行中心の金融システムのことを知らなかったためです。すでに戦時中に所有と経営の分離が進んでおり、金融系列はそのまま残されたので、戦時経済体制の基本構造はそのまま維持されました。
 一九四七年から五〇年にかけて実施された農地改革は、生き残った革新官僚たちが仕組んだものでした。彼らは占領軍を誘導し、四五年に提出された「第一次農地改革」案では不徹底であるとの声明を発表させ、オリジナルの改革案に近い急進的な内容の農地改革を、四六年に「第二次農地改革法」として公布し、翌年から実行に移したのです。これにより、戦前の農村を支配していた大地主たちは土地を失うことになりました。
財閥が復活するのに対し、大規模農家は復活しない。農地改革は徹底的で分割された農地は既に自作農に分有されて戻せない。財閥解体は復活を望みながら(でないと近代的な産業の復興が難しい)、農地改革では全国各地でそれなりの層をなす大地主層を一掃して中産階級を創り出そうという意図が徹底したという。
進駐軍にやられた、というのは正確ではないらしい。

1940年体制というのは、そうした戦前から続く会社というような個別的な事象ではなく、戦時経済体制が確立し、その延長で(社会主義的)市場経済体制として、看板を掛けなおすことで、一気に集権的に経済発展を進めた体制である。

そしてそれが今瓦解しつつあるのは、「日本教」からすれば異質なもの―会社は社員のものではなく株主のものである、創意工夫で良い物を作るより賭け事(資金運用)で儲けるほうが賢い、儲けた者が勝ち、それらが自由にできない社会的制約は悪―という「新興宗教」が欧米から輸入されたからに違いない。

と本書が言っているわけではないし、「日本教」が復活したら経済がうまくいくというわけでもないだろう。
日本国は、一番悪い奴を親分に仰ぐ、ミニヨン戦略しかとれないのだろうか。


それにしても、山本七平、野口悠紀雄の両氏の論説をベースに、それらをまとめて著者の見識にした点、うまいものだと思う。
機会があれば、元になったほうの著作も見てみたいと思う。

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日本シリーズ決着2023

IMG20231105214412-crop.jpg 今年の日本シリーズ、タイガースが38年ぶりの日本一となった。
両チーム3勝で迎えた決着の第7戦、長いシーズンの最後に来た一発勝負。

試合経過などについては何も書くまい。
私はどちらかに特に肩入れしてはいなかった。普通なら必ずパリーグを応援するのだけれど、入院中の家人がタイガースファンだから、元気なら応援合戦になるのだが、とてもそんな気分ではない。
ただ、やっぱりパリーグに少し肩入れしてはいたけれど。

私がまだ小中学校ぐらいのときは、メディアで伝えられる野球関係者の話では、シリーズはお祭りですから、というのが多かったと思う。
プロ野球の世界で、最も価値が置かれるのは、シーズンの優勝であって、セ・パ両リーグの覇者が日本シリーズで相戦うとしても、それは一種の余興であって、シリーズでの勝利を目指して1年間戦ってきたわけではない、そういう趣旨だ。

ただ、パリーグの人気がセリーグに及ばなかった理由として、パリーグの覇者が、セリーグの覇者である読売ジャイアンツに勝てなかったということもあるかもしれない。

とりわけ、パリーグを何年も連覇した阪急ブレーブス(オリックス・バファローズの前身)が何度も挑戦して勝てず、監督の西本氏が「悲運の闘将」といわれていたことが思い出される。
しかもその西本氏が近鉄バファローズの監督としてパリーグを制覇しながら、日本シリーズではやはり勝てなかった。対広島カープ、あの有名な「江夏の21球」である。

私はこの日本シリーズ第7戦は球場で見ていた。江夏が出てきてもそれだけで負ける気はしなかったのだが、江夏に強い有田選手はすでに引っ込んでいて、近鉄は駒切れ状態であった。そうでなかったならどんな結果になっていたか。


さて昨日の試合、結局一方的な展開になってしまったが、これでオリックスのパリーグ優勝が色褪せるということはない。主力が怪我を抱えるなか、よく戦ったと思う。

両チームとも、ぶっちぎりでリーグを制覇し、さらにクライマックス・シリーズも戦わされてそれを勝ち切っての日本シリーズ出場だった。
勝敗は時の運、面白い試合をありがとう、両チームを讃えたい。

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「日本人と資本主義の精神」

51rtIOab6GL_SL1200_.jpg 田中修「日本人と資本主義の精神」について。

この本のタイトルが眼を惹いたので読んでみた。
このタイトルからは当然だと思うけれど、マックス・ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(プロ倫)を連想する。禁欲的なプロテスタンティズムが貪欲な資本主義を用意したという有名な本だ。それに重ねれば律儀な日本人がエコノミック・アニマルと称され、それが自壊していく姿でも書いてあるのかと思った。

プロ倫は、発刊当時、禁欲が貪欲を生むというトリックに反発する学者が多くいたという。プロ倫の訳者大塚久雄氏は、訳者あとがき(序だったかも)で、その反発はタイトル〝Die protestantische Ethik und der Geist des Kapitalismus〟の読み違えだと指摘していた。
ウェーバーの意図は〝der Geist des Kapitalismus〟(資本主義の精神)であって、〝kapitalistischer Geist〟資本の精神ではないという。


資本主義は欧米で発生・発達したものであることは論を俟たないが、その地域に続いて資本主義経済が発展したのは、欧米に隣接する地域ではなく、遥か離れた極東の島国日本ではないかと思う。日本が逸早く資本主義体制になったことについては、今までも多くの論説がある。
江戸時代に既に資本蓄積が進んでいたとか、部分的には欧米以上に進んでいた貨幣・金融システムとか、国民の律儀で勤勉な性向と高い識字率など、さまざまなことが指摘されていると思う。

はじめに
 
第一部 経済危機と資本主義
第一章 なぜ経済危機は繰り返し起こるのか
世界経済危機の犯人
『バブルの物語』
資本主義の不安定性
知の巨人たちが見たアメリカ資本主義
企業経営と倫理
 
第二章 日本型資本主義のケース
    ―バブルと九七年危機
金融統制・金融鎖国
金融の自由化・国際化
バブルの発生
バブル崩壊以後
市場と社会
日本型資本主義の行方
 
第二部 日本型資本主義の史的考察
第三章 日本型資本主義の精神
    ─倫理と「士魂」
石門心学
―日本の歴史感覚の欠如はここから始まる
渋沢栄一と『論語』
―日本人の「忠誠と反逆」の論理
「戦士市民」と「経済騎士道」
―経済活動における「騎士道」とは何か
 
第四章 日本人の思考様式
    ―「日本教」論
日本教について
―「日本教徒はいかにあるべきか」という教育
五・一五事件と純粋人間
―法の前に、まず「日本教」の教えがある
「お前のお前」の関
係―「言わせておいて、片づける」問題解決法
日露戦争と太平洋戦争
―日本人の意思決定は「空気」の問題
不思議な「対話」の世界
―日本の「話し合い」とは何か?
「ゴメンナサイ」は責任解除
 
第五章 日本人の意思決定方式
    ―「一揆」と「空気」
日本には「直接民主制」があった
原始仏教の「多語毘尼」―最初の多数決
「貞永式目」の正統性論理―多数決の浸透
「一揆」という契約集団の成立
家臣が主君の行為を規定
土一揆―ボトムアップ型の意思決定方式
江戸時代の「押込」―ルール化された「下剋上」
日本人は優秀か?―「名人」に頼る日本
「空気」の研究―結論は「空気」が決める
10 「空気」と「水」―なぜ「財政再建」が難しいのか
 
第六章 高度成長の構造
    ―「戦時経済体制」の継続
経済統制の発動
経済・金融統制の強化
戦後復興と戦時経済体制の温存
高度成長のメカニズム
オイルショックへの対応
 
おわりに
であるけれど、肩透かしになるみたいだが、本書はそうした日本資本主義発生史でもなければ、資本主義を受け入れる日本的精神の話でもない。
論考の中心にあるのは、現在の日本経済がなぜうまくいっていないのか、その原因を日本独特の「社会主義的(統制的)市場経済体制」に内包されたものに求める。その社会主義的市場経済体制(現在、中国が標榜する体制)は、戦時経済体制が確立した時期(野口氏はそれを1940年とするが、本書では1940年を画期する必要はなく、その前後、幅を持ったものとする)であって、それが現在まで続いているのだとする。

実際、ジャパン・アズ・ナンバーワンなどともてはやされていた時代、欧米では、日本経済は自分たちと同じような自由主義ではない、社会主義だと評していたと思う。それも失敗したソ連のそれではなく、成功した社会主義だと。

なお中国の社会主義市場経済体制は、今や世界経済を牛耳る勢いである(バブル崩壊が間近としてその崩壊は近いと予測する向きもあるが)。日本が経済大国に駆け上がったことと同様であり、資本主義的経済を政府の統制のもとに構築することの強力さが指摘されている。ただし、現在の日本国では政府の統制力はほとんど喪失されているから、中国のマネはできない。


もちろん1940年体制構築に向かう日本国では社会主義は政府から弾圧されていた。ではどういう思想・精神が社会主義的資本主義を導くのか。
そこで山本七平である。
「日本教」であり、「一揆」と「空気」による意思決定方式である。

「日本教」というのは、法律などよりも優先される大前提となっている教義である。
日本国は実は「法治主義」の国ではない。これは以前、大浜啓吉“「法の支配」とは何か” でも指摘されたことに通ずるのだが、万世一系の天皇が治める国では、法はその前では影をひそめるのだ。超法規的措置もこの国では突飛ではない。
法だけではない。合理性もまた影をひそめる。

「一揆」「空気」はその「日本教」を共有する日本人の間で行われる物事の決め方である。その代表例という趣旨だろう、山本氏の言説を次のとおり紹介する。
 そして、このことを明確に表わしているのが、 三上作夫連合艦隊作戦参謀と伊藤整一第二艦隊司令長官の会話であるとします。大和特攻出撃決定後、現地の伊藤長官を説得する役目は、三上参謀と草鹿龍之介連合艦隊参謀長が担うことになりました。
 伊藤長官は決定の場の「空気」を知りませんから、当然にこの作戦は納得できません。第一、説明している三上参謀自身が「いかなる状況にあろうとも、裸の艦隊を敵機動部隊が跳梁する外海に突入させるということは、作戦として形を為さない。それは明白な事実である」と思っていますから、その人間の説明を伊藤長官が納得するはずはないのです。
 しかし、「陸軍の総反撃に呼応し、敵上陸地点に切りこみ、ノシあげて陸兵になるところまでお考えいただきたい」と言われれば、伊藤長官はベテランであるだけに余計に、この一言の意味するところが分かり、それがもう議論の対象にならぬ空気の決定だと分かってしまいます。そこで彼は疑問点の追及もやめ、「それならば何をかいわんや。よく了解した」と答えたのでした。
 山本は「この『了解』の意味は、もちろん、相手の説明が論理的に納得できたの意味ではない。それが不可能のことは、サイパンで論証ずみのはずである。従って彼は、『空気の決定であることを了解した』のであり、そうならば、もう何を言っても無駄、したがって『それならば、何をかいわんや』とならざるを得ない」と解説しています。

「一揆」「空気」の作用には、次のようなものもある。それは「ゴメンナサイ」である。
「ゴメンナサイ」の教育
 ペンダサンによれば、日本では、子供が物心がつくとすぐ「私の責任=責任解除」という教育が、ほとんど無意識のうちに徹底的に行われます。 日本人のうち、子供のときに「(私の貴任です) ゴメンナサイ(またはスミマセン)と言ってあやまりなさい。そうすれば(そのことの責任は追及せず、無条件で)ユルシテあげます」と言われなかった者は一人もおらず、いわばこの考え方は「子供のとき尻から叩き込まれている」のです。
 もし子供が、その行為に対して、むしろそれに相当する処罰を受けた方がよいと思って「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わなければ、この「ゴメンナサイ」とも「スミマセン」とも言わないことに対して「強情なやつだ、ゴメンナサイと言え」といって、ゴメンナサイと言うまで処罰が続けられることはありますが、 この処罰はあくまでも「ゴメンナサイ」と言わないことに対してであって、そのもとになった行為に対してではありません。
 このように、「取りあえずあやまれば済む」という発想は、最近頻繁に行われる各界の謝罪をみても分かります。「世間をお騒がせして申し訳ありません」「ファン支持者の方に申し訳ありません」というのは、いったい誰にあやまっているのか、何をあやまっているのか、自分が悪い事をしたと思っているのか、きわめてあいまいです。
 かつての「一億総懺悔」は、戦争指導者の責任をあいまいにしました。この、取りあえずあやまって責任を回避する方法は、実はまったく真の反省・検証が行われていないので、過去のあやまちをより大きく繰り返す危険があるのです。
日本では人と人との間で何かトラブルがあると、一方が(自分が悪いと思ってなくても)ゴメンナサイと謝る。というかそれを美徳と考えている。
そしてそういう状況で、ゴメンナサイを言わない人は、相手や周囲の人からとにかくまず謝れと諭される。
さらに、そうやって謝る人に対して厳罰を加えようとすると、謝ってるじゃないか、赦したれよ、という圧力が働く。
そして実際の解決策の合意は、ここからはじまる。
欧米では、自分が悪いと思っていなければ決して謝ることはなく、トラブルの原因を追究し、その上でトラブルの解決策を合意するという。

「日本教」の話が長くなったので、それがもたらした経済体制―1940年体制については明日の記事でもう少し補足する。

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コンセプト・アート?

img_253e29a6d91fef6a15b2d0fd4f304f07112097.jpg 今日も「文化の日」っぽく。

デンマークの美術館で、真っ白なキャンバスが「作品」で、そのタイトルは「お金を持ち逃げした」というものが展示されという。
テレビのニュースでは、続けて美術館側は画家に返金を求めていると伝えていた。

面白すぎる話とはこのことだが、現代アートでは、製作技術よりもコンセプトが重視されるという話もある、
この「作品」のコンセプトは秀逸かつ明晰で、「表現」も完璧である。

とはいうもののやっぱり「これってアートなの?」という思いはぬぐえない。


テレビのニュースを見たのは比較的最近のことだが、ネットで調べると、この事件そのものは2021年9月のことである。

それについて伝えているネット記事は、
900万円超の現金を美術館から受け取ったアーティストが「お金を持ち逃げした」というタイトルで真っ白なキャンバスを提出(Gigazine)
900万円持ち逃げは「アート」 デンマーク芸術家が主張(AFP BB News)


このアーティストが当初から、確固たる意志とコンセプトのもとにこの「作品」を「製作」したのか、それともネット記事が伝えるように、お金をだまし取る目的で、製作費必要として紙幣を出してもらったのかわからないけれど、いずれにせよアーティストは姿をくらましたわけでもなさそうで、何らかの係争が起こることも予期していただろう。

それにしてもこの「作品」を受け取った美術館側も面白がって、そのまま、そのタイトルで展示も行ったという。そして展示終了後に返金を求めたものらしい。
少なくともその展示期間中はアート作品として扱ったことになると言えるかもしれないから、その分はアーティストの取り分になるのだろうか。

アートにはコンセプトが必要ということもわかるけれど、コンセプトだけで成立するのかと言われたら何か違うような気もする。
ただコンセプトだけでは同じことはそうそう通用しないだろう。私が真っ白なキャンバスを美術商に持ち込んでそれらしいタイトルを付けたとしても買ってもらえるとは思えない。

中学校のとき、美術の先生が白い画用紙を生徒たちの前に掲げて、美しい画用紙だなぁ、これからこれを君たちが汚していくわけだとおっしゃったことがある。

アートに金がからむからこういうことになるのかもしれない。

音楽は、それなりの演奏技術が伴わないと成立しない、と思ったら、ジョン・ケージの"4分33秒" (1952年)を思い出した。これってコンセプト・アートの先取りだな。

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「マンガ ギリシア神話」

41Bqs_AqTwL.jpg 今日は「文化の日」、漫画家の里中満智子さんも文化功労者として表彰される。

漫画家では、横山隆一(1994)、水木しげる(2010)、ちばてつや(2014)、萩尾望都(2019)、大島弓子(2021)1の諸氏に続き6人目ということだ。

ここに手塚治虫氏の名が無いが、手塚氏は1989年に亡くなっていて、それまでマンガは「文化」どころか、「悪書」扱いする風潮もあったからかもしれない。
里中氏は、マンガ家になった理由として、「悪書」として追放運動までされたマンガを何としても守りたいという強い意志をお持ちのようである。


さて、里中満智子「マンガ ギリシア神話」である。
このマンガは、1999年から2004年に出版されたものである。
文庫化されたものもあるが、年寄りには文庫版のマンガは小さくて読みづらいから、ネットを探して当初のハードカバーで大きいサイズの古本で全8巻をまとめて購入した。

1 神々と世界の誕生
第 一 章 神々の誕生
第 二 章 ゼウス誕生
第 三 章 オリュンポス山
第 四 章 若き神々たち
第 五 章 プロメテウスの火
第 六 章 パンドラ
第 七 章 大洪水
解説 ギリシア神話の世界にようこそ! 西村賀子
 
2 至高神ゼウス
第 一 章 アプロディテの結婚
第 二 章 セレネの恋人
第 三 章 エオスの誤算
第 四 章 アポロンの哀しみ
第 五 章 さまよえるイオ
第 六 章 日輪の子パエトン
第 七 章 クレタ王朝とエウロペ
第 八 章 ディオニュソス誕生
第 九 章 ギガンテス襲来
第 十 章 アテナイ建設
第十一章 メドゥーサの悲劇
第十二章 ゼウスの危機
解説 ギリシア神話の豊かな世界 西村賀子
 
3 冥界の王ハデス
第 一 章 冥界
第 二 章 ペルセポネ
第 三 章 永遠の罰
第 四 章 エコーとナルキッソス
第 五 章 ディオニュソス覚醒
第 六 章 アスクレピオス
第 七 章 オルフェウスの竪琴
第 八 章 アラクネ
第 九 章 カリストの悲劇
第 十 章 アドニス
第十一章 狩人オリオン
解説 ギリシア神話における死と生 西村賀子
 
4 オイディプスの悲劇
第 一 章 エロスとプシュケ
第 二 章 プシュケの試練
第 三 章 カドモスとハルモニア
―呪われたテバイ王国 序曲
第 四 章 アンティオペ
第 五 章 ニオベ
第 六 章 ペロポスとヒッポダメイア
第 七 章 オイディプスの悲劇
第 八 章 アンティゴネ
ー呪われたテバイ王国 終曲
解説 ギリシア神話における罪と罰 西村賀子
 
5 英雄ヘラクレス伝説
第 一 章 黄金の雨―ダナエ
第 二 章 ペルセウスの冒険
第 三 章 メレアグロス
第 四 章 ヘラクレス誕生
第 五 章 ヘラクレスの試練 前編
第 六 章 ヘラクレスの試練 後編
第 七 章 英雄の最期
解説 英雄伝説の光と影 西村賀子
 
6 王女メディアの激情
第 一 章 イアソン
第 二 章 アルゴー号は行く
第 三 章 激情のメディア
第 四 章 ベレロポンテス
第 五 章 英雄テセウス
第 六 章 アリアドネの赤い糸
第 七 章 パイドラとヒッポリュトス
第 八 章 レダと白鳥
第 九 章 その後のテセウス
解説 神話に隠されたメッセージ 西村賀子
 
7 トロイの木馬
第 一 章 黄金の林檎
第 二 章 ヘレネ略奪
第 三 章 トロイアへ…!
第 四 章 不死身のアキレウス
第 五 章 トロイの木馬
第 六 章 エレクトラ
解説 戦争・女性・神話 西村賀子
 
8 オデュッセウスの冒険
第 一 章 トロイア王妃ヘカベ
―その後のトロイアの人々
第 二 章 オデュッセウスの航海
第 三 章 魔女キルケ
第 四 章 ペネロペとテレマコス
第 五 章 カリュプソとナウシカ
第 六 章 オデュッセウスの弓
第 七 章 ピグマリオン
第 八 章 ヘルマプロディトス
第 九 章 ピュラモスとディスベ
第 十 章 ミダス王
第十一章 ローマへの道
第十二章 バウキスとピレモン
解説 ギリシア神話を読みなおす 西村賀子
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第1巻から順に読み始めたのだけれど、第1巻は凄惨な話が続く。
基本的にギリシア神話の良く知られたストーリーに基づいているわけだが、その元のストーリーが凄惨な内容だからである。

文字を追うだけだとあっさり過ぎてしまうところかもしれないが、クロノスがウラノスの男性器を切り落とすシーンが、マンガの一コマとしてきっちり書き込まれている。二度目からはそれほどでもないが、初めて見たときは、男としては、これは正視に耐えない。

なおこのときウラノスの陽物の泡から生まれたのがアフロディテという話もあり、本書にもそれが紹介されている。


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ギリシア神話は、ブルフィンチ「ギリシア・ローマ神話」(岩波文庫)を読んでいるし、断片的にはいろんな形で親しんできた。

アポロドーロス「ギリシア神話」はあまりに煩雑(神々の名前・系譜が延々と語られる)なので途中で断念した。
なお、本書では、ギリシア神話はさまざまな話が寄せ集められていて、一貫性・統一性というのはないということも説明されている。

であるけれど、文字で読んでいるときは、その書が凄惨さを訴える目的で書かれているのなら別だが、ブルフィンチの本などでは、少なくとも神々と世界の誕生にあたる部分での叙述はむしろ淡々としていたと思う。(ブルフィンチはロマンティックな話が多い)

なお、ギリシア神話を素材にした絵画にはゴヤ「我が子を食らうサトゥルヌス」など、おどろおどろしいものもある。


だが、安心してほしい。
凄惨な場面は、第1巻だけである。もちろん続く各巻にも血生臭い場面は数多くある。オイディプスが実父ライオスを殺すシーンや、自らの眼を抉るシーン。あるいは、メディアが我が子を弑する場面。

人殺しということなら、トロイ戦争はもちろん、その後のオデュッセウスがペネロペの求婚者たちを皆殺しにする場面もあるけれど、正々堂々であったり、悪人への処罰という意味では残虐という印象にはならない。

やはり、性器を切り落とすというあまりに非情な行為は、特別な感情を惹き起こすもののようだ。

本書は数多いギリシア神話の各話を駆け足で巡っている。その各話はそれぞれに注目すればいくらでも独立した作品にできるようなドラマ性を持っている。だから古代ギリシア時代にも多くのギリシア悲劇の題材になり、絵画に描かれ、音楽では多くのオペラが作られている。

ところで第7巻を除いて各巻の最後には、巻末特別付録として、日本神話との比較(『古事記」との関連について)で著者の感想などが置かれている。
ギリシア神話と日本神話には類話があることも良く知られている。有名なところでは、オルフェウスの冥界行きとイザナギのそれや、生贄の姫を助けるペルセウスと素戔嗚尊の比較などである。作者は、並行して「天上の虹」などの歴史物も書いていて、日本神話にも注意を払っているのだろう。後(2013年)には『古事記』もまんがにしているらしい(私は読んでない)。

また、各巻に「ギリシア神話」(中公新書)などの著書もある西村賀子氏の解説が掲載されている。ただし「解説」といってもマンガの解説をしているわけではなくて、ギリシア神話というものについての解説である。

前述のとおり、残酷なところもあれば、不倫も強姦も、基本的に元の話に忠実に書いてあるが、如何せん、マンガにするには省略も多くなるし、有名な話でも割愛されたものも多そうだ。
ブルフィンチの読み直しや、解説の西村賀子氏の著書も読んでみたくなった。

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「地政学で読む近現代史」

内藤博文「地政学で読む近現代史 : 対立する米中の「覇権の急所」はどこか」について。

1章 中国大陸の地政学
   ―統一中国は、なぜ膨張政策を進めるのか?
統一中国の膨張政策の歴史
共産化後、領土を倍増させた中国 /冷戦下の地政学的地位を利用し、膨張を黙認させていた中国 /なぜ中華思想による地政学は、他国の文化・歴史を消していくのか?
新疆ウイグル自治区の中国化を強行する背景
通商ルートとなる回廊地域にあり、中国を圧してきた東トルキスタン /なぜ中国は、東トルキスタンの独立をゆるさないのか? /ウイグル人圧迫と「一帯一路」構想の関係とは?
チベットの制圧・中国化に固執する中国
なぜ歴代の中国大陸王朝は、チベットに苦しめられてきたのか? /インドと戦ってまで、チベットを手中にしたかった毛沢東
南モンゴルの中国化を早くから進めてきた中国
なぜモンゴルは、中国大陸に恐怖の記憶を植え付けたのか? /18世紀以後に激変した、モンゴル高原の地政学的な地位
中国東北部(満洲)が中国の潜在的不安要素である理由
中国大陸とも対抗しうる「大国」 /なぜ日本は、満洲国を建国し、中国大陸に侵攻したのか? /なぜソ連は、中国に満洲を明け渡したのか? /中国の首都が、中原から北京へと移った理由
清帝国の版図をなぞる中国の地政学的戦略
満洲族による中国大陸封鎖網を逆利用した現代中国 /中国に独裁国家が成立しやすい地政学的理由
 
2章 日本周辺国の地政学
   ―東シナ海で中国は何を狙っているのか?
台湾・東シナ海の支配を目指す中国の狙い
なぜ中国は、ほぼ不可能にもかかわらず、台湾併合を声高に叫ぶのか? /海上封鎖に脆く、対処できないままだった中国王朝 /なぜ中国は、海洋政策で失敗をつづけてきたのか? /中国は台湾の重要性にいつ気づいたのか? /なぜ中国は、尖閣諸島の領有にこだわるのか?
朝鮮半島が中国に支配されない理由
侵攻はできても、完全統治のむずかしい朝鮮半島 /なぜ朝鮮半島は、日本を巻き込んでの「大戦争」の場になりやすいのか? /なぜ北朝鮮は、ロシア、中国の従属国家にならないのか?
日本と中国が対立する地政学的宿命
日中友好をむずかしくしている“世界の視線" /日本海軍殲滅を可能にした、アメリカの「海洋国家」 戦略とは?
 
3章 アメリカ・太平洋の地政学
   ―アメリカがいま、中国の封じ込めを開始した理由
中国の膨張政策を看過しないアメリカ
なぜアメリカは、ユーラシア大陸のスーパーパワー誕生を阻止してきたか? /なぜアメリカは、モンロー主義を転換し、日米戦争をはじめたのか?
アメリカ建国の歴史が決定づけた、その後の世界戦略
なぜアメリカは、モンロー主義を長くつづけてきたのか? /アメリカが分裂しなかった幸運な事情 /アメリカは何のために南北戦争をしたのか? /南部を完全屈伏させた海上封鎖作戦
アメリカが恐れる地政学的弱点
なぜパナマ運河は、アメリカの世界戦略を大きく変えたのか? /アメリカが中南米で「棍棒外交」にはしる理由 /なぜ「キューバ危機」が起きたのか? /なぜアメリカ対キューバは、中国対日本の構図に重なるのか? /ロシアや中国には、アメリカの「モンロー主義」は通用しない /ベネズエラのチャベス政権がとった、地政学的戦略とは?
日米戦争におけるソロモン諸島の特殊な地位
なぜ日米戦争の事実上の「天王山」は、ソロモン諸島の戦いとなったのか? /なぜ日本は、ガダルカナル島を海上封鎖できなかったのか? /空母を犠牲にしてでもガダルカナル島の海上封鎖を解きたかったアメリカ /なぜニューギニアやソロモン諸島を、オーストラリアは放置できないのか? /ニューギニア攻防戦を分けた、日米の地政学観の相違 /なぜ中国は、ニューギニアやソロモン諸島への浸透を図っているのか?
 
4章 ヨーロッパ・ロシアの地政学
   ―イギリスは何を求めてEU離脱を決断したのか?
ドイツの首都と、ポーランドの膨張主義の関係
東西統一後のドイツの首都が東のベルリンになった地政学的理由 /なぜドイツは、中国と蜜月であろうとするのか? /ドイツとロシアの「緩衝国」にはならないポーランド /ポーランドはひ弱な国ではなく、その本質は膨張型国家
フランスの首都パリがもつ地政学的意味-
なぜフランスは、ヨーロッパの中で早くに統一国家になれたのか? /「バリ=フランス」の関係に気づかなかったゆえのナポレオンの敗北
ベルギーがヨーロッパの火薬庫である理由
EUの本拠がベルギーの首都・ブリュッセルに置かれている意味 /なぜイギリスは、ベルギーのために、第1次大戦に参戦する愚をおかしたのか? /第2次大戦の勝敗の鍵を握っていたベルギー
イギリスが世界帝国を形成した地政学的背景
同じ島国でありながら、安全保障思想が異なるイギリスと日本 /大陸の政治や戦争に影響を受けつづけてきたイギリス /ヨーロッパに強大な国家を誕生させない戦略に移行したイギリス /なぜイギリスは、世界最強の海軍国となりえたのか?
独立志向をもつスコットランドとイギリスの関係
なぜイングランドとスコットランドは、同じ島なのに文化が異なるのか? /なぜイングランドは、スコットランドとの統合を進めたのか?
ヨーロッパの中心から後退したイタリアの地政学的地位
なぜイタリア半島に、強大なローマ帝国が興ったのか? /4世紀以降、独立性を失っていったイタリア半島
地中海制覇に欠かせないマルタ島の意義
なぜ大きなシチリア島より、マルタ島が要衝となるのか? /イギリスの繁栄に欠かせなかったマルタ島 /ロンメルの機甲師団の死命を制したマルタ島
ロシアがウクライナを執拗に抑圧する理由
モンゴル、ポーランド、ドイツ騎士団…ロシアに対する侵略の数々 /ロシア防衛の要・縦深戦略に欠かせないウクライナとベラルーシ
 
5章 中東・アフリカの地政学
   ―宗教対立だけではない、中東不安定化の要因
地政学的に見たイランの核武装願望の意味
なぜイラン高原から準世界帝国が誕生しやすいのか? /メソポタミアに進出できないイランの憤が、核武装にはしらせる
イラクがたびたび戦争の当事国となる背景
なぜ中東世界は、争いごとが多く、混沌としやすいのか? /アメリカのイラク潰しが中東の勢力バランスを崩した
宗教対立だけではない、パレスチナ問題の深層-
なぜパレスチナは、中東の要衝なのか? /なぜパレスチナでキリスト教が誕生したのか?
ロシアが中央アジア制圧に固執する理由
北カフカスを放棄できないロシアの地政学 /ロシアを意固地にさせる、アフガニスタン撤退の屈辱
南アフリカが大陸で突出した地位にある背景
喜望峰の存在と疫病の少ない風土が、南アフリカを押し上げた /なぜアフリカに大国は生まれないのか?
 
6章 インド・東南アジアの地政学
   ―インドと中国は、なぜ対立するようになったのか?
インドとパキスタンが対立する地理的要因
自然国境に囲まれたはずの大インドの弱点となるカイバー峠 /ムガル帝国は、インドに侵攻したモンゴル帝国の再来であった
インドと中国が対立するようになった背景
中国のチベット支配によって、インドと中国の対立がはじまった /中国はいかにしてインド包囲網を築いていったのか?
中国が南シナ海の実効支配を目指す理由
中国による南シナ海の「内海化」は、日本を締め上げることになる /日本の大東亜共栄圏構想を彷彿させる中国の戦略
共産主義同士で対立する中国とベトナムの関係
中国に対する縦深戦略のために選ばれた首都・ホーチミン /なぜ歴代中国王朝は、ベトナムを完全に支配できなかったのか?
以前、「地政学という言葉がよくわからない」と書いたことがある。
なぜわからないという感覚を持ったのかを内省すると、「学」という言葉に惑わされたかららしい。「学」というと何か体系的な学問を想起するのだけれど、地政学それ自身で何か理論が打ち立てられている感じはない。「地政学的に…」という用例はほとんどの場合、「地理的な条件から政治的含意を考えると…」と置き換えられると思う。

というようなことを考えていたが、地政学の本家本元のドイツでは、Geopolitikというそうだ。英語にしてもgeopoliticsで、そこには-logyというものは含まれない。


とはいえ、異なる地域において、地理的条件が似ているとその地域での国際関係も似たように推移することが多いと想像されるから、そのパターンを見出すことは学問的意義もあるかもしれない(博物学みたいなもの?)。また、どういう着眼点を持って国際関係を分析するかという実用的な知識とも言えるだろう。

「地政学」というものは、だいたいが実力(軍事力、経済力)をベースとした国際関係をテーマにするわけだから、軍事的な臭いのするもの(きな臭いもの)を嫌ってきた戦後日本ではあまり大きな顔ができなかったという話もあるらしい。(それで戦後の平和教育で育った私にはなじみがないということになる)

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そのきな臭さというものが詰め込まれているのが本書である。

本書の著者は、地政学者あるいは政治地理学者というような学者ではなくて、どちらかといえばジャーナリスティックな仕事をされる人のようだ。
だからだろうと思うが、特定の地域をテーマに地政学を考えるといった研究者的態度ではなく、世界を広く見まわして、さまざまな係争地のそれぞれの地政学からの分析(というか解釈)が披露される。

そのどの一つをとっても私に分析の当否を判断する能力はないのだけれど、たしかに説得力がある。

願わくば他の地政学に詳しい人から見て、適切な分析かコメントが欲しいところだ。
むしろ恐ろしいのは、この分析が絶対的に正しいと信じ込むことのような気もする。


ただ前から思っているのだけれど、なるほど近接しているとか、要所・要路にあるというような地理的条件は、精神的なことも含めて重大な要素だと思うのだけれど、陸・海・空につづく2つの戦場―宇宙とサイバー―から見た場合は必ずしも地理的条件だけではないように思う。

谷口長世「サイバー時代の戦争 」にGCHQ(政府通信本部)のことが書いてあるが、イギリスにあるこの本部が、ソマリアの海賊船の通信を傍受したものを分析しているという。
北朝鮮のICBMに米国が神経をとがらせるのも地政学の視点とは言えないだろう。

卑近なところでいえば、インターネットの利用では、DNSを例にとると、どこかのドメインが異なるアドレスに移設された場合、その情報がネット上で伝達されるまでそれなりの時間を要する。だから米国のどこかのサイトの引っ越しが全ネットに影響する場合もあるようだ。

東日本大震災では、大企業の支店も被害を受けているが、そうした支店の情報システムの本体は東北地方にはなく、東京やそのバックアップである他の地域にあったから、その部分は深刻な事態にならなかったという。
地政学的視点が重要だということに異論はないけれど、それだけでは国際関係は読み解けなくなっているという気もするのだけどどうだろう。

もちろん地政学にはまった問題も多いし、大きなものだ。ロシア-ウクライナにしろイスラエル-ガザ地区にしろ、隣国との係争である。
本書にはそうした問題を―これがまた世界中に数多い―を読み解くセンスを磨いてくれるかもしれない。

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ゆるやか浴

今日から11月。さすがに寒くなってきた。
まだ日中はそれほどでもない日もあるが、朝晩は確実に冷えるようになってきた。我が家は内陸部で日較差が大きい地域だが、梅田でも朝の出勤時は肌寒いようだ。

さて寒くなってくると、やはりお風呂にはゆっくり入りたいと思う。
ではあるけれど、独居老人としては、毎日湯を入れ替えるのは贅沢だと思うので、2日目は(場合によっては3日目も)、追い炊きで済ませている。

夏の暑いうちは、お風呂の温度設定はあまり気にしてなかったのだけれど、寒くなってくると湯温と室温の差が気になるので、とくに老人にとってはあまりショックを与えない、それでいて冷たくも、要するにあったかいなぁ満足満足という温度にすることが重要である。

給湯器は自動でお湯張り・追い炊きをする自動式だが、今まではお風呂は41℃に設定していたのだけれど、新しいお湯では熱め、追い炊きでは湯温が上がりきっていないように思う。

今年6月に給湯器を更新したことは既報。


湯温のセンサーはどこに付いていて、どこの温度を測っているのだろう。
センサーはお湯の吹き出し口以外には考えにくいが、静かな状態であれば、浴槽のお湯の上は熱く、下はそれほど熱くないわけだから、適温の判断は簡単ではないかもしれない。
追い炊きの場合は、吹き出し口付近の温度を測っても浴槽全体の温度の推定は難しいだろう。

仕掛けについて考えることはいろいろあるけれど、とにかくお風呂を41℃に設定すると、追い炊きではぬるいから、42℃に設定してみたら、だいたい満足できる湯温度になった。

20231030-RC-G001E_04.png であるけれど、新しく湯を入れる場合、42℃に設定していると、これはとても熱い。上述のとおり41℃設定でも熱めなので、これはまずい。
であるけれど、この給湯器には「ゆるやか浴」という設定がある。

この給湯器で最初にお湯張りをするとき、ゆるやか浴にするかしないか、リモコン画面で聴いてきていたが、そのときは何のことかもわからず「しない」にしてきた。


20231030-gt62_10.png 説明を見ると、ゆるやか浴というのは、設定温度より2℃低い温度でお湯張りをし、入浴者を検出したら、設定温度まで追い炊きをするというものである。

前にも書いたように、浴室内リモコンには人感センサーが付いている。


このモードでお風呂を入れると、新しいお風呂に入るときも熱すぎるということもなく、ゆるやかに入ることができる。
なお、一旦、このモードにすると、デフォルトがこのモードになるようだ。(つまり考えなくて良い)

新しく湯を張るときは、温度設定を40℃にし、入ったら温度設定を42℃にする、それで良いといえば良いわけで、わざわざ「ゆるやか浴」などと言うほどのことでもないとは思うけれど、たしかに便利な機能ではある。
というか、いきなり熱い湯に浸かるとショックを起こしがちと言われる年寄りへの気遣いというべきかな。

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六二郎。六二郎。

ついに完全退職
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