「子どもの難問」(その2)
野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」の2回目。
1回目では、面白いなと思った短い文章を切り出して紹介したが、2回目では、もう少し内容を詳しく紹介する。
まず紹介するのは、「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?―戸田山和久」。この文章では、「サリーとアン課題」を説明して、他人の心をわかるということの基本をおさえている。
この理解の仕方は哲学的ではなくて、科学的態度であると思う。だからだろう、科学ではそういうアプローチをするけれど、これをもって「難問」への答えであるとはしない。これに続く、他人を尊重することまでが「わかる」に含まれているのではないかと述べている。
その科学にこだわるようだけど、「科学でなんでもわかっちゃうの?」では、もちろんそんなことはないことが丁寧に説明されているけれど、思うに子供はこういう問いを発するだろうか。「なんでも」とは問わず、特定の事象に対して科学がどう説明するのかという問いになるのではないだろうか。
私が子供の頃読んでいた本に「なぜだろうなぜかしら」というのがある。いろんな現象について科学的に説明するものだ。今でもよくラジオ番組とかで、子供の質問を受け付けるというのがあるが、子供は何かあるものについて疑問を持ち、知りたいと思うのではないだろうか。
言葉の遊び(私が好きな)もある。
「自分らしいってどういうことだろう?」
これは(論理的な?)言葉遊びになっているから、長くなるけど、該当部分を転載しよう。
これなど、哲学者の先生が考え、そして語った言葉であるとしても、その哲学者の先生自身がこの答えに満足しているのだろうかと思えてくる。
私もこういう言葉遊びが好きなのだが、これを真剣に言ったとしたら友達をなくすような気がするのだがどうだろう。
かと思うといかにも学校現場で言われそうな言葉もある。
この本に一貫性を求めてはいけない。
1回目では、面白いなと思った短い文章を切り出して紹介したが、2回目では、もう少し内容を詳しく紹介する。
まず紹介するのは、「どうすればほかの人とわかりあえるんだろう?―戸田山和久」。この文章では、「サリーとアン課題」を説明して、他人の心をわかるということの基本をおさえている。
この理解の仕方は哲学的ではなくて、科学的態度であると思う。だからだろう、科学ではそういうアプローチをするけれど、これをもって「難問」への答えであるとはしない。これに続く、他人を尊重することまでが「わかる」に含まれているのではないかと述べている。
科学的理解と哲学的思考とはどちらが広いのだろう。科学的理解に立って(前提として)、さらに問題を掘り下げるなら、哲学的思考のほうが広い(よりたくさん考えた)と言えるかもしれないが、一方で科学的理解のほうが一般性があるという意味では広いと言うこともできるかもしれない。
はじめに | |
ぼくはいつ大人になるの? | 熊野純彦 野矢 茂樹 |
死んだらどうなるの? | 清水哲郎 雨宮民雄 |
勉強しなくちゃいけないの? | 土屋賢二 斎藤慶典 |
頭がいいとか悪いとかってどういうこと? | 大庭健 中島義道 |
人間は動物の中で特別なの? | 一ノ瀬正樹 伊勢田哲治 |
好きになるってどんなこと? | 田島正樹 山内志朗 |
過去はどこに行っちゃったの? | 野家啓一 永井均 |
なぜ生きてるんだろう? | 神崎繁 入不二基義 |
どうすればほかの人とわかりあえるんだろう? | 戸田山和久 古荘真敬 |
考えるってどうすればいいの? | 柏端達也 野矢 茂樹 |
科学でなんでもわかっちゃうの? | 伊勢田哲治 柴田正良 |
悪いことってなに? | 大庭健 田島正樹 |
自分らしいってどういうことだろう? | 鷲田清一 熊野純彦 |
きれいなものはどうしてきれいなの? | 神崎繁 鈴木泉 |
友だちって、いなくちゃいけないもの? | 清水哲郎 一ノ瀬正樹 |
人にやさしくするって、どうすること? | 斎藤慶典 渡辺邦夫 |
芸術ってなんのためにあるの? | 山内志朗 古荘真敬 |
心ってどこにあるの? | 柴田正良 柏端達也 |
えらい人とえらくない人がいるの? | 鷲田清一 野家啓一 |
神様っているのかなあ? | 田島正樹 永井均 |
哲学者って、何をする人なの? | 戸田山和久 入不二基義 |
幸せって、なんだろう? | 土屋賢二 雨宮民雄 |
後記 |
私が子供の頃読んでいた本に「なぜだろうなぜかしら」というのがある。いろんな現象について科学的に説明するものだ。今でもよくラジオ番組とかで、子供の質問を受け付けるというのがあるが、子供は何かあるものについて疑問を持ち、知りたいと思うのではないだろうか。
言葉の遊び(私が好きな)もある。
「自分らしいってどういうことだろう?」
これは(論理的な?)言葉遊びになっているから、長くなるけど、該当部分を転載しよう。
仮にもし、自分らしさを発見できたにしても、それを自分の「自分らしさ」と呼ぶのなら、それはもう自分ではありません。これまで見えていなかったもの、自分がもっているとは思っていなかったもののほうへ移行してゆくわけですから、自分らしさを身につけたときには、もうこれまでの自分ではないということになります。自分を見つけたときにはもう(これまでの)自分ではなくなる......。
いったい何のために自分を探していたのでしょう。 わたしには、ここで「自分らしさ」として求められているものが、じつは、自分がそうありたい、あるいはそうなりたいと思っているもののように思えてなりません。そうだとすると、「自分らしさ」とは(いまの)自分らしくないもののことだ、ということになってしまいます。
では反対に、自分がそうありたいと思っているのではない「ありのままの自分」というものがどこかにあるのでしょうか。もしそういうものがあるとすれば、「自分らしさ」を問うこのいまの語り口に「自分らしさ」はおのずと出ているはずです。ですが、それが何かわからないからこそそれを問うているわけで、となると結局のところ、「それが何であるかわからないまま、しかしそれを問わずにはいられないもの」、それが「自分(らしさ)」であるということになってしまいます。
そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。
「ありのままの自分」「本来の自分」……………。これらの言いまわしが奇妙なのは、自分という存在のリアルさが痛いくらいきわだってくる場面、そう他者の前、他者のあいだにいる自分というものをあえて見ないで、自分について自分だけで問う、そういう閉じこもりの状態に自分を置いているからです。自分はだれかある他者に対して、いつもその(他者の)他者として存在しています。そのことに眼を塞いでいるから、「自分らしさ」への問いは空転するのです。
いったい何のために自分を探していたのでしょう。 わたしには、ここで「自分らしさ」として求められているものが、じつは、自分がそうありたい、あるいはそうなりたいと思っているもののように思えてなりません。そうだとすると、「自分らしさ」とは(いまの)自分らしくないもののことだ、ということになってしまいます。
では反対に、自分がそうありたいと思っているのではない「ありのままの自分」というものがどこかにあるのでしょうか。もしそういうものがあるとすれば、「自分らしさ」を問うこのいまの語り口に「自分らしさ」はおのずと出ているはずです。ですが、それが何かわからないからこそそれを問うているわけで、となると結局のところ、「それが何であるかわからないまま、しかしそれを問わずにはいられないもの」、それが「自分(らしさ)」であるということになってしまいます。
そう、「自分らしさ」を問う議論はどういうかたちであれ空転してしまうのです。自分が自分と一致しているかどうかを確かめるためにひとは「自分らしさ」を問うのでしょうが、そう問うひとは、その前提として、自分が自分自身と一致していないことを認めているわけです。
「ありのままの自分」「本来の自分」……………。これらの言いまわしが奇妙なのは、自分という存在のリアルさが痛いくらいきわだってくる場面、そう他者の前、他者のあいだにいる自分というものをあえて見ないで、自分について自分だけで問う、そういう閉じこもりの状態に自分を置いているからです。自分はだれかある他者に対して、いつもその(他者の)他者として存在しています。そのことに眼を塞いでいるから、「自分らしさ」への問いは空転するのです。
(自分らしいってどういうことだろう?―鷲田清一)
これなど、哲学者の先生が考え、そして語った言葉であるとしても、その哲学者の先生自身がこの答えに満足しているのだろうかと思えてくる。
私もこういう言葉遊びが好きなのだが、これを真剣に言ったとしたら友達をなくすような気がするのだがどうだろう。
かと思うといかにも学校現場で言われそうな言葉もある。
こんな風に考えたらどうかな。友だちと一緒にいることは自分以外の誰かと一緒にいるってことだとしても、一緒にいるというのは、なにも目の前にいることとは限らない。手紙を通じて、ビデオを通じて、写真を通じて、一緒にいることだってできる。想い出を通じて、あるいは独り言で呼びかけたり、想像をしたりしてだって、一緒にいることはできる。そもそも、ぼくたちは、誰だって親から生まれてきたのだし、誰かが作ったものを使って、誰かから学んだことに頼って、生きている。誰かのおかげで生きている。その意味で、実はいつも誰かと一緒にいる。お椀を見る。それを作った人々がその後ろにいる。 感じる気ならば、その作者のぬくもりをそこに感じ取ることがきっとできる。家族やペットが亡くなってしまっても、彼らを脳裏に思い浮かべると、一緒にいることができる。本を読んだり、町並みを見たり、動物や虫や植物と触れあったりするとき、そこにも一緒にいる誰か、つまり友だちを感じ取ることができる。いや、昔の自分だって、いまの自分とは相当に違っているのならば、たぶん、自分以外の誰かみたいなもので、昔を思い起こして自分に呼びかけるとき、ぼくは昔の自分と一緒にいるんだ。こう考えたら、「ひとりぼっち」な人なんて本当は存在しない。友だちがいない人なんていない。それどころか、「ひとりぼっち」という捉え方それ自体が、実は誰かに教わったことなんだよ。そんな風に考えてみたらどうかな。
同じ哲学者の先生が語っているわけではなく、それぞれの問いに別の先生が答えているのだから、答え方のスタンスというものが問いによって随分違っていると思う。(友だちって、いなくちゃいけないもの?―一ノ瀬正樹)
この本に一貫性を求めてはいけない。