「子どもの難問」
野矢茂樹(編著)「子どもの難問 哲学者の先生、教えてください!」について。
22の問いに対して、それぞれ2人の哲学者の先生が、かみくだいて(子供相手を想定して)、答えているという形式になっている。
この本を企画した野矢茂樹氏が、「はじめに」に次のようにその意図を説明している。
タイトルを見て、哲学者は素朴な質問にどう答えるのだろうと思って読んでみたのだけど、やっぱり腑に落ちないというのが読後感である。
なるほど、そういう見方があるのか、とか、うまいこと言うなぁ、というところはあるのだけれど、素朴に言うと、なんだかはぐらかされているような、知りたいことに答えてもらってないという気持ちになる。
上に続けてこうある。
こんな文章もある。
鋭い洞察のように思ったのは、
他のテーマでもおもしろいところ、それでは答えになってないと思うもの、いろいろあるが、長くなるので稿をあらためる。
22の問いに対して、それぞれ2人の哲学者の先生が、かみくだいて(子供相手を想定して)、答えているという形式になっている。
この本を企画した野矢茂樹氏が、「はじめに」に次のようにその意図を説明している。
はじめに 野矢茂樹
私たちの多くは、たえず前に進むことを強いられている。そして哲学は、私たちを立ち止まらせようとする。
たとえばひとは野菜を作ったり、書類を書いたり、パワーショベルを操作したり、商品を売ったりする。そのとき、どうすれば渋滞を避けて時間通りに取引先の会社に着けるかは考えても、「なぜひとは働くのか」とは問わない。どうすれば売れ行きを伸ばすことができるかは考えても、「働くとはどういうことなのか」と考えこんだりはしないだろう。そんなことを考えていては、約束の時間に間に合わなくなるし、売れるものも売れなくなってしまう。仕事が順調にいっている人ほど、そういう「余計なこと」は考えないにちがいない。
だが、哲学の問いは問う者を立ち止まらせる。「働くとは何か」と考えて、ほかにこれといって何も働こうとしない。それは、「前に進め」という圧力に縛られた者の目からは、ちょうど蟻の行列に目を奪われてその場を動けなくなってしまった子どものような姿にも見えるだろう。哲学の問いは、「前に進め」という声から自由な者だけに許されている。
だから、子どもにしか哲学はできない。しかし、同時に、子どもには哲学はできない。「なぜ働くのだろう」と問い続けているだけでは哲学とは言えない。そもそも、たんに「なぜ働くのだろう」と口にするだけでは、まだ問いにさえ到達していない。それはたぶん、何かため息のようなものにすぎない。
哲学の問いは、明確な答えをもつような問いではないばかりか、問いの意味さえ、定かではない。問いの答えが何であるかと、そもそも自分が問うている問いの意味は何かを、同時に手探りしていかなければならない。哲学の問いを問うにも、独特の技術と力を必要とする。それは子どもにはまだ難しいにちがいない。
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本書は、あたかも子どもが哲学者に向けて難問を発しているかのような体裁をとっている。しかし、その問いを発したのはありていに言えばすべて私——恥じらいと自負をこめて言わせていただければ、一人の哲学者である私——であり、しかも私はけっして子どもになりかわって子どもらしい問いかけを考えてみたというわけではない。では、どうして「子どもの難問」なのか。
実を言えば、私自身、研究者の端くれとして、哲学の研究において「前に進め」という圧力にさらされ、なにがしかの成果を生み出さねばならないという規範の中にいる(率直に言えば、そうしてたいへん肩身の狭い、居心地の悪い思いをしている)。だからこそ私は、子どもとして、その圧力から解放され、もっとも無防備で粗野な姿で、哲学の問いを立ち上がらせたかったのである。
私たちの多くは、たえず前に進むことを強いられている。そして哲学は、私たちを立ち止まらせようとする。
たとえばひとは野菜を作ったり、書類を書いたり、パワーショベルを操作したり、商品を売ったりする。そのとき、どうすれば渋滞を避けて時間通りに取引先の会社に着けるかは考えても、「なぜひとは働くのか」とは問わない。どうすれば売れ行きを伸ばすことができるかは考えても、「働くとはどういうことなのか」と考えこんだりはしないだろう。そんなことを考えていては、約束の時間に間に合わなくなるし、売れるものも売れなくなってしまう。仕事が順調にいっている人ほど、そういう「余計なこと」は考えないにちがいない。
だが、哲学の問いは問う者を立ち止まらせる。「働くとは何か」と考えて、ほかにこれといって何も働こうとしない。それは、「前に進め」という圧力に縛られた者の目からは、ちょうど蟻の行列に目を奪われてその場を動けなくなってしまった子どものような姿にも見えるだろう。哲学の問いは、「前に進め」という声から自由な者だけに許されている。
だから、子どもにしか哲学はできない。しかし、同時に、子どもには哲学はできない。「なぜ働くのだろう」と問い続けているだけでは哲学とは言えない。そもそも、たんに「なぜ働くのだろう」と口にするだけでは、まだ問いにさえ到達していない。それはたぶん、何かため息のようなものにすぎない。
哲学の問いは、明確な答えをもつような問いではないばかりか、問いの意味さえ、定かではない。問いの答えが何であるかと、そもそも自分が問うている問いの意味は何かを、同時に手探りしていかなければならない。哲学の問いを問うにも、独特の技術と力を必要とする。それは子どもにはまだ難しいにちがいない。
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本書は、あたかも子どもが哲学者に向けて難問を発しているかのような体裁をとっている。しかし、その問いを発したのはありていに言えばすべて私——恥じらいと自負をこめて言わせていただければ、一人の哲学者である私——であり、しかも私はけっして子どもになりかわって子どもらしい問いかけを考えてみたというわけではない。では、どうして「子どもの難問」なのか。
実を言えば、私自身、研究者の端くれとして、哲学の研究において「前に進め」という圧力にさらされ、なにがしかの成果を生み出さねばならないという規範の中にいる(率直に言えば、そうしてたいへん肩身の狭い、居心地の悪い思いをしている)。だからこそ私は、子どもとして、その圧力から解放され、もっとも無防備で粗野な姿で、哲学の問いを立ち上がらせたかったのである。
はじめに | |
ぼくはいつ大人になるの? | 熊野純彦 野矢 茂樹 |
死んだらどうなるの? | 清水哲郎 雨宮民雄 |
勉強しなくちゃいけないの? | 土屋賢二 斎藤慶典 |
頭がいいとか悪いとかってどういうこと? | 大庭健 中島義道 |
人間は動物の中で特別なの? | 一ノ瀬正樹 伊勢田哲治 |
好きになるってどんなこと? | 田島正樹 山内志朗 |
過去はどこに行っちゃったの? | 野家啓一 永井均 |
なぜ生きてるんだろう? | 神崎繁 入不二基義 |
どうすればほかの人とわかりあえるんだろう? | 戸田山和久 古荘真敬 |
考えるってどうすればいいの? | 柏端達也 野矢 茂樹 |
科学でなんでもわかっちゃうの? | 伊勢田哲治 柴田正良 |
悪いことってなに? | 大庭健 田島正樹 |
自分らしいってどういうことだろう? | 鷲田清一 熊野純彦 |
きれいなものはどうしてきれいなの? | 神崎繁 鈴木泉 |
友だちって、いなくちゃいけないもの? | 清水哲郎 一ノ瀬正樹 |
人にやさしくするって、どうすること? | 斎藤慶典 渡辺邦夫 |
芸術ってなんのためにあるの? | 山内志朗 古荘真敬 |
心ってどこにあるの? | 柴田正良 柏端達也 |
えらい人とえらくない人がいるの? | 鷲田清一 野家啓一 |
神様っているのかなあ? | 田島正樹 永井均 |
哲学者って、何をする人なの? | 戸田山和久 入不二基義 |
幸せって、なんだろう? | 土屋賢二 雨宮民雄 |
後記 |
なるほど、そういう見方があるのか、とか、うまいこと言うなぁ、というところはあるのだけれど、素朴に言うと、なんだかはぐらかされているような、知りたいことに答えてもらってないという気持ちになる。
それは私が哲学というものの語法を知らないからだろう。
子どもは時に「自分勝手」ですし、ときとしてひどく「残酷」です。それは無理もないところで、子どもは「自分以外のもの」をほとんど知らないし、知る必要もないからです。
う~ん、ちょっと言葉が足りない気はする。子供はなんにでも興味を示す。この本もそうした子供の質問に答えようというわけだから、この言葉は補う必要があるだろう。「自分以外のもの」とは、自分中心で見るもの以外のものということなのだろう。(ぼくはいつ大人になるの?―熊野純彦)
上に続けてこうある。
じぶんとおなじくらい大切なもの、かけがえのないこと、置きかえのできないひと、そうしたなにかを知ることが、おそらくは「大人」になる入口になるのでしょう。
これならそれなりに納得感もある。こんな文章もある。
勉強しなくても大丈夫です。勉強をやめてもすぐ死ぬようなことはありません。
そしてこんなことも書いてある。
(勉強しなくちゃいけないの?―土屋賢二)
物理学の勉強をしていないと、「いつまでたっても決められないなんて、お前はハイゼンベルクか!」といったツッコミを聞いても笑えません。
物理に詳しい人はこんなツッコミはしないと思う、不確定性原理の文脈とは違うから。鋭い洞察のように思ったのは、
一見したところ乱雑なまとまりを前にして、こうした秩序・規則性が成り立っていることに、自分から気づく、という点です。ですから、人から教わったこと・本に書いてあったことをたくさん暗記できるからといって、必ずしも頭がいいといういことにはなりません。
しかし一方で、現代のAIは、膨大なデータを投入することで秩序・規則性を見出す。基本的にはクラスタ分析の応用のようにも思うけれど、知識の量はそうした気づきに重要な関係があることを示しているのではないだろうか。子供の日常で経験できることは限らていると思うから、たくさん本を読むことで疑似体験を得ることも、暗記というわけではなく、大事なことではないだろうか。だからまったく一致はしないものの、試験の点が良い子供と頭の良い子供には重なるところ、正の相関関係があるのではないかとも思う。(頭がいいとか悪いとかってどういうこと?―大庭健)
他のテーマでもおもしろいところ、それでは答えになってないと思うもの、いろいろあるが、長くなるので稿をあらためる。