「もっとヘンな論文」
サンキュータツオ「もっとヘンな論文」について。
いうまでもなく、「ヘンな論文」の二匹目のどじょうを狙ったもの。
二匹目のどじょうが成功したかどうかはわからないが、内容的には前作なみにはなっていると思う。なお、「もっと」は「ヘンな論文」全体を修飾しており、「もっとヘン」ではない。いずれにせよ、著者が「ヘン」と評する論文が生産される限り、この本は続けられそうだ。
さて、2作目では、卒業論文も探索範囲に入っているようだ(一本目、四本目)。
私は卒業論文など書かずに卒業した(大学側の方針。卒論に代えるゼミがある)が、本書で紹介されているような卒論なら、私も書いてみたいという気になる。
特に一本目、執筆者は卒業研究であることを盾として、野球場へ足を運び、アンケートを配って、楽しんでいたのだろう。この研究過程自体に値打ちがありそうだ。
卒業研究ではないが、同様の執念深い研究過程がわかるものが「六本目 競艇場のユルさについて」。論文中にも書かれているらしいが、来場者の多くがオジサンの競艇場に、うら若き女性が研究と称して入り込んでいる。これ、野郎の研究者だったらオジサンは協力しただろうか?
八本目は大変な労働量の投入が信じがたい。1万数千冊のマンガを読んで、鍼灸などが描かれたり言及されるシーンがあるか、どんな風に描かれているかを抜き出し、とりあえがかたで分類するというもの。
紹介されている論文の中で、ものすごい執念、探求心に脱帽するのが、十本目〝「坊っちゃん」と瀬戸内航路〟である。
漱石がどのようなルートで松山へ赴任したのかを研究したものだが、まずそのどうでもよさそうなことに興味を持ったということが尋常ではないわけだが、そこから先行研究を調べて、既に答えとして示されたものがあるにもかかわらず、それに疑問を持って調べなおす。しかも文献渉猟とかではなく、現地にまで行って(徒労に終わるかもしれないのに)事実を確かめる。
なにより感心するのは、それなりに権威のありそうな先行研究に「答え」が書かれているにもかかわらず、本当にそうだろうか、と自信の知識・経験から疑問をもち、そしてそれを徹底的に追及するという姿勢。ただの優等生(教科書をおぼえて試験で点がとれる)にはマネできない。
この論文の執筆者には驚かされる、というか脱帽せざるをえない。本書著者が執筆者を訪れたことが十本目その2に書かれているが、そこから長くなるけれど引用しよう。
この論文執筆者は、大学とか研究機関の所属してなくて市井の研究者、いわばアマチュアなのだそうだが、語弊を恐れずにいえば、こうしたニッチの研究というのは、なかなかプロが飯のタネにするのは難しいのかもしれない。
一作目は、著者がおもしろいと思ったものを素直に紹介していたが、二作目は、一作目がウケたことで、なんだか「これはウケそう」という下心や、表現面で盛ったところがあるようにも感じるが、そこは個々の論文の面白さに免じて、紹介の労を素直にほめることにする。
いうまでもなく、「ヘンな論文」の二匹目のどじょうを狙ったもの。
二匹目のどじょうが成功したかどうかはわからないが、内容的には前作なみにはなっていると思う。なお、「もっと」は「ヘンな論文」全体を修飾しており、「もっとヘン」ではない。いずれにせよ、著者が「ヘン」と評する論文が生産される限り、この本は続けられそうだ。
最初の本の続編を出すときには、タイトルに「続」とか「もっと」とかを前に付けることがある。その例で一番スゴイと思うのは、團伊玖磨のエッセイ「パイプのけむり」で、「まだまだパイプのけむり」というぐらいまでは目にしたことがあるが、Wikipediaによると「パイプのけむり」の前に付く言葉が、{続、続々、又、又々、まだ、まだまだ、も一つ、なお、なおなお、重ねて、重ね重ね、なおかつ、またして、さて、さてさて、ひねもす、よもすがら、明けても、暮れても、晴れても、降っても、さわやか、じわじわ、どっこい、しっとり、さよなら}と26、最初の何もつかないのを入れて27冊もの本が出ている。
はじめに | |
一本目 プロ野球選手と結婚する方法 | |
向井裕美子(2008)「プロ野球選手と結婚するための方法論に関する研究」 明治学院大学 卒業論文 | |
二本目 「追いかけてくるもの」研究 | |
三柴友太(2009)「追いかけてくるもの」研究―諸相と変容―」 『重話伝説研究』 第29号 昔話伝説研究会 | |
三本目 徹底調査! 縄文時代の栗サイズ | |
吉川純子(2011)「縄文時代におけるクリ果実の大きさの変化」 『植生史研究』 第18巻―第2号 | |
四本目 かぐや姫のおじいさんは何歳か | |
東﨑雅樹(2012)「竹取の翁の年齢について」 神戸学院大学人文学部 卒業論文 | |
番外編Ⅰ お色気論文大集合 | |
五本目 大人が本気でカブトムシ観察 | |
佐々木正人(2011)「「起き上がるカブトムシ」の観察―環境-行為系の創発」 『質的心理学研究』 第710号 | |
六本目 競艇場のユルさについて | |
寄藤晶子(2007)「曖昧さが残る場所―競艇場のエスノグラフィー」 『現代風俗学研究』 第13号 | |
七本目 前世の記憶をもつ子ども | |
大門正幸(2011)「「過去生の記憶」を持つ子供について―日本人児童の事例―」 『人体科学』 vol.20 | |
番外編Ⅱ 偉大な街の研究者 | |
八本目 鍼灸はマンガにどれだけ出てくるか | |
有馬義貴ほか(2012)「マンガの社会学 : 鍼灸・柔道整復の社会認知」 『健康プロデュース雑誌』 第6巻第1号 | |
九本目 花札の図像学的考察 | |
池間里代子(2009)「花札の図像学的考察」 『流通経済大学 社会学部論叢』 第19巻第2号 | |
十本目その1「坊っちゃん」と瀬戸内航路 | |
山田廸生(2009) 「「坊っちゃん」と瀬戸内航路」 『海事史研究』第66号 | |
十本目その2「坊っちゃん」と瀬戸内航路 後日譚 | |
あとがき |
私は卒業論文など書かずに卒業した(大学側の方針。卒論に代えるゼミがある)が、本書で紹介されているような卒論なら、私も書いてみたいという気になる。
特に一本目、執筆者は卒業研究であることを盾として、野球場へ足を運び、アンケートを配って、楽しんでいたのだろう。この研究過程自体に値打ちがありそうだ。
卒業研究ではないが、同様の執念深い研究過程がわかるものが「六本目 競艇場のユルさについて」。論文中にも書かれているらしいが、来場者の多くがオジサンの競艇場に、うら若き女性が研究と称して入り込んでいる。これ、野郎の研究者だったらオジサンは協力しただろうか?
八本目は大変な労働量の投入が信じがたい。1万数千冊のマンガを読んで、鍼灸などが描かれたり言及されるシーンがあるか、どんな風に描かれているかを抜き出し、とりあえがかたで分類するというもの。
であるけれど、抜き出されたシーン数は極めて少ない。そのこと自体が問題だという指摘もあるようだ。
紹介されている論文の中で、ものすごい執念、探求心に脱帽するのが、十本目〝「坊っちゃん」と瀬戸内航路〟である。
漱石がどのようなルートで松山へ赴任したのかを研究したものだが、まずそのどうでもよさそうなことに興味を持ったということが尋常ではないわけだが、そこから先行研究を調べて、既に答えとして示されたものがあるにもかかわらず、それに疑問を持って調べなおす。しかも文献渉猟とかではなく、現地にまで行って(徒労に終わるかもしれないのに)事実を確かめる。
なにより感心するのは、それなりに権威のありそうな先行研究に「答え」が書かれているにもかかわらず、本当にそうだろうか、と自信の知識・経験から疑問をもち、そしてそれを徹底的に追及するという姿勢。ただの優等生(教科書をおぼえて試験で点がとれる)にはマネできない。
この論文の執筆者には驚かされる、というか脱帽せざるをえない。本書著者が執筆者を訪れたことが十本目その2に書かれているが、そこから長くなるけれど引用しよう。
「タイタニックという映画を観たときに、船の様子が実際の史実とあっていてビックリしました。エンジンルームや一等船室など、きれいに再現されていたんですよ。それで、エンドロールを見ていたら、アメリカの客船史の研究家が、参加しているんですよね、ちゃんと」
船の研究のなかには「客船史」というジャンルが存在している。先生が研究している「移民船」も客船だ。客船史家が映像制作などにも加わっているから、しっかりとしたものが作られている。ところが、日本の、幕末から明治・大正にかけてのドラマや映画、さらにその時代を描いた小説などを読んでも、山田先生は違和感を覚えてしまう。「この時代にこの船はなかったんじゃないか」「その時代の船の客室には照明はなかったのではないか」など、気になるところが多いというのだ。
そのとき、先生はしみじみ思うのだ。
「ごめん、僕が悪いんです、と思うんですよねぇ……」
なにをいっているんだろう。船オタクだったら、「あそこちがう!」「それはない」とかいいそうなものだが、「僕が悪い」?
真意を確認する。僕が悪いというのは、どういうことか。
「こういうことは、書いている作家や作った監督の責任ではなく、我々の責任なんです」
なんだって!?
「当時のことを調べて、形にして、それをなんらかの形で発信しないといけないんです。それができていないから、違和感のあるものが出てくる」
自分の責任で「いい加減な描かれ方」がされるというのだ。すごいレベル!
「明治以降は、資料もあんまりまとまっていなくて、わかってる人がいないんでねぇ……。実体を残していかないといけないなと思ってるんです。でも、やらないうちに死んじゃいそう……」(遠い目)
自分の関わっているジャンルが世間に誤解されて伝わるということはよくあるが、それを「自分の責任」と思うのが専門家の意識なのだ。
もう一度先生のおっしゃったことを整理すると、
①調べる
②形にする
③発信する
この3つの段階を経るのが専門家、研究者の使命だという。
①調べるというのは、調査である。資料を探し、それを読み取ったり整理したり考察したりする作業で、②というのはそれを論文なり書籍にする作業だ。そして、書いて形にするだけではなく、より大勢の人に知らしめる「発信」という作業を怠ってしまうと、結局②も存在しないことになってしまう。
多くの研究者が②までで満足してしまうのが現状だ。論文が雑誌に掲載される。本当はその雑誌をより多く販売したり購読してもらうように働く人がいてもいいのかもしれないが、実質そこまで手が回らない。③までが研究者の仕事、あるいはジャンルの責任だという。
船の研究のなかには「客船史」というジャンルが存在している。先生が研究している「移民船」も客船だ。客船史家が映像制作などにも加わっているから、しっかりとしたものが作られている。ところが、日本の、幕末から明治・大正にかけてのドラマや映画、さらにその時代を描いた小説などを読んでも、山田先生は違和感を覚えてしまう。「この時代にこの船はなかったんじゃないか」「その時代の船の客室には照明はなかったのではないか」など、気になるところが多いというのだ。
そのとき、先生はしみじみ思うのだ。
「ごめん、僕が悪いんです、と思うんですよねぇ……」
なにをいっているんだろう。船オタクだったら、「あそこちがう!」「それはない」とかいいそうなものだが、「僕が悪い」?
真意を確認する。僕が悪いというのは、どういうことか。
「こういうことは、書いている作家や作った監督の責任ではなく、我々の責任なんです」
なんだって!?
「当時のことを調べて、形にして、それをなんらかの形で発信しないといけないんです。それができていないから、違和感のあるものが出てくる」
自分の責任で「いい加減な描かれ方」がされるというのだ。すごいレベル!
「明治以降は、資料もあんまりまとまっていなくて、わかってる人がいないんでねぇ……。実体を残していかないといけないなと思ってるんです。でも、やらないうちに死んじゃいそう……」(遠い目)
自分の関わっているジャンルが世間に誤解されて伝わるということはよくあるが、それを「自分の責任」と思うのが専門家の意識なのだ。
もう一度先生のおっしゃったことを整理すると、
①調べる
②形にする
③発信する
この3つの段階を経るのが専門家、研究者の使命だという。
①調べるというのは、調査である。資料を探し、それを読み取ったり整理したり考察したりする作業で、②というのはそれを論文なり書籍にする作業だ。そして、書いて形にするだけではなく、より大勢の人に知らしめる「発信」という作業を怠ってしまうと、結局②も存在しないことになってしまう。
多くの研究者が②までで満足してしまうのが現状だ。論文が雑誌に掲載される。本当はその雑誌をより多く販売したり購読してもらうように働く人がいてもいいのかもしれないが、実質そこまで手が回らない。③までが研究者の仕事、あるいはジャンルの責任だという。
この論文執筆者は、大学とか研究機関の所属してなくて市井の研究者、いわばアマチュアなのだそうだが、語弊を恐れずにいえば、こうしたニッチの研究というのは、なかなかプロが飯のタネにするのは難しいのかもしれない。
もっともプロの研究者でも飯のタネにする研究以外に、趣味でとんでもないニッチな研究をしている人は多い。そういう人は、プロとして持つ知識・技術・特権(人脈とかいろんな研究機関の資料が参照できるとか)をそうした趣味にも活かせるだろうか、効率よく研究できるのではないだろうか。
ちなみに本書の著者サンキュータツオ氏の祖父は、父方・母方とも研究者だそうだが、母方は市井の研究者で仏像を専門にされていて、著書も出版されているようだ。
一作目は、著者がおもしろいと思ったものを素直に紹介していたが、二作目は、一作目がウケたことで、なんだか「これはウケそう」という下心や、表現面で盛ったところがあるようにも感じるが、そこは個々の論文の面白さに免じて、紹介の労を素直にほめることにする。