Deep dream generator+透けていく画像

先日、透けていく絵の重ね合わせという手法を(一日遅れの)休刊日と、その翌日に紹介した。

重ねる画像を選んだり作ったりするのが面倒なのだけれど、以前、Deep dream generatorというネット・サービスを使って、1つの画像を多様な方法で加工したことを思い出した。この画像だったら、そのまま重ね合わせに使えるだろう。
ということで、以前にアップした画像を再利用してみた。

重ねる絵を選べるようにした(下のサムネイルをクリックして選択)。
透明化のスタートは前と同様([Pause/Restart]または画像をクリック)。


今日の記事の趣旨は、画像をハンドリングするテクニックを見てもらうということだけですね。

元画像の選定は、珍之助さまへの受けを狙ったもの


艦隊これくしょん「金剛」      

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2年に一度だったら

PyeongChang_Figure_free1-crop.jpg ピョンチャン・オリンピック、女子フィギュアは、予想通りメドヴェージェワとザギトワの争い。
結果、新星のザギトワ15歳が金メダルに輝いた。

もちろんザギトワの演技は素晴らしい。それもスケートとして見るのは措いて、氷上のバレエそのもの。とんでもない選手が出てきたものだ。
メドヴェージェワが登場したとき、これほどの選手は、当分現れないのではないかと思ったのだけれど、いやはや、ザギトワにはまいった。

だけれど、なんだかメドヴェージェワが気の毒である。
まだ18歳である。
そして、世界選手権は2016―2017の2連覇、グランプリ・ファイナルも2015―2016の2連覇である(2017は故障欠場、ザギトワが優勝)。
何度も歴代最高点を更新してきた選手である。
それが、15歳に勝てなかった。

この2人の妖精のどちらにもオリンピックの金メダルをあげたい。

2人の間では既にそうなっているのかもしれない。


ところで、ザギトワは、すべてのジャンプを加点のつく後半にもってきたことが取りざたされている。加点をもうらうために演技構成が歪んでいるという批判がある。(もっともこれをはじめたのはメドヴェージェワのショートプログラムだったと思う。)
しかし、私が見るところでは、ザギトワのプログラムは、後半に多くのジャンプをたたみかけることで、演技全体のストーリー性が高まっているし、前半が間延びしたりなどしていない。前半は、美しい滑りやスピン、コレオで魅せ、後半はあるときは力強く、あるときは華麗なジャンプで一気に盛り上げている。すばらしいプログラムだと思う。

PyeongChang_Figure_free2.jpg 対するメドヴェージェワもフリーでは、ザギトワと全く同点、さすがの演技だった。
ただ、メドヴェージェワのプログラムは、しっとりとしてしぶい良いプログラムだとは思うけど、受けという面、派手な演技効果という面では、むしろ点数を稼ぎにくいものではないかとも思った。

この2人の演技を見て、構成・振付もメダル争いの大きな要素だなぁと思った。
もっともこれは、スケート技術では完璧なこの2人だからであって、それに達していない選手なら、できる範囲での構成・振付をするのかもしれない。


2018-02-26_104637-crop.jpg もし2年間隔でオリンピックがあったなら、前回はメドヴェージェワが金(ザギトワは未だ出られない)、今回はザギトワが金でメドヴェージェワが銀、きっとそうなっただろう。

この伸び盛りの年代、とりわけ女子にあてはまると思うのだけれど、4年に1度の大会では、世代交代の波に追いつかないのではないだろうか。

そう思うと、男子の羽生の2連覇というのは凄いことと思わざるをえない。
そういえば、2014年ソチのとき、金メダル最有力といわれていたのは、当時、絶対王者といわれていたパトリック・チャンだったと思う。
羽生を応援する日本の人たちも、まさか羽生が金をとるとは思っていなかったのではないだろうか。
もし、オリンピックが2年毎であって、2012年にもオリンピックがあったら、そのときはパトリック・チャンが金メダルをとっていたことだろう。
Exhibition
これで15歳。末恐ろしい。妖精・妖艶
⇒昨日の珍之助さまブログもどうぞ

オリンピックが4年毎というのは、古代オリンピックを踏襲したものだという。
ただし、古代ギリシアには4つの競技大祭があって、うち2つは2年に1度の開催だったらしい。

4年というのは、10代の女子にとってはその間にピークが来るかどうか。
次の北京ではどうなるだろう。

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ピョンチャン・オリンピックの競技日程

ピョンチャン・オリンピックは無事、会期終了である。
それにかこつけた記事を用意していたところ、今日の朝刊のコラムで、私が書こうとしたことを、もっと辛辣に書いてあった。

だから、記事にアップするのも躊躇したのだけれど、私のほうは、前にも書いた、誰に合わせたスケジュール?を状況が客観的にわかるように用意したもの。ボツにするのももったいない(こともないが)ので、そのままアップ。

以前の記事では、競技(男子ジャンプ・ノーマルヒル)が深夜に行われ、結局、競技終了は日付が変わってからという、異様な状況で、「時間設定には、某大国のメディアの影響」ということを書いた。
そこで、どのぐらい異様なスケジュールなのか、各競技の開始時刻を時間単位に数え上げて見た。

元データはネット上の競技スケジュールから。日程が天候の影響で変わったものもあるので、実績とは違うかもしれない。


PyeongChangSchedule.jpg

アルペン競技は陽が高いうちに行われている。それは当然だろう。アルペンのコースを照明するなんてことはかなり無理がある。
同じように、陽が高いうちに行われているのはスノーボード。これは、照明下でもできそうな種目もあると思うけれど、敢えて夜にする必要はないのだろう。
他に、距離なども陽が高いうちにやるほうが良さそうだが、同じコースを回るのであれば、夜になっても照明でやれるんだろう。

と、物理的制約(陽の高さ)でスケジュールを決めるのは素直だろうけれど、やはり素直じゃないスケジュールだと思わざるをえないところが多々ある。
普通なら、競技が集中しそうに思う、昼下がりから夕方にかけて行われた競技が非常に少ないことに気づく。米国では良い子は寝ている深夜時間帯である。
アメリカがあまり強くなさそうな距離は、この時間帯に行われる。

アイスホッケーやカーリングはその時間帯にも試合が組まれてるけれど、物理的制約はなさそうで、別の時間帯にもたくさんの試合が組まれている。試合の軽重(決勝かどうかなど)、出場国構成なども関係しているかもしれない。


午前中の良い時間帯に無理なく競技が行われているように見えるところもあるが、普通なら開催地のゴールデンタイムに行われるであろうフィギュア・スケートがここに含まれる。

だから、フィギュア女子の演技が、日本では勤務時間中に行われることとなってしまった。
同じ時間帯でも、男子のフリーを土曜日にやってくれたのは、多くのサラリーマンにはありがたかった。

2020東京オリンピックのマラソンは、日本のお昼にはやらないことは、ほぼまちがいないだろう。

冒頭に言及した新聞のコラムでは、日付をまたぐようなことはやめてもらいたいとくくっていた。

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昨日の閉会式は、午後8時開始だったが、米国の人がゴールデンタイムに見られるように、午前10時(NY時間午後8時)に開始していたらなんと言われただろうか。

朝の閉会式、さあこれからという気分での閉会式。
おもしろいじゃないか。

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駆け引き

昨夜のピョンチャン、日本は、スピードスケート・マススタート女子で高木菜那選手が金メダル、カーリング女子でLS北見チームが銅メダルを獲得。

PyeongChang_Mass_start_Takagi1.jpg どちらも駆け引きが勝敗を分ける競技。

マススタートは、オリンピックでは今回が初めてということだが、オリンピック種目になるまで、その種目の存在を知らなかった。
したがって、テレビ中継を見るまで、日本選手は誰が出ているのかも知らなかった。
しかし、高木選手の金メダルで、この種目にも関心が高まるだろう。

高木菜那選手は、パシュートの金メダルで、気持ちにゆとりがあったということらしいし、個人種目では、妹の高木美帆選手に注目が集まっていて、本人は期するものがあったに違いないが、周囲の重圧というのも少しは軽かったのかもかもしれない。
それが冷静にレースの流れを読み、完璧な駆け引きにつながったように思える。

PyeongChang_Mass_start_Takagi2.jpg 見れば、おもしろいレースである。
本当に最後の最後に勝負がかかっている。

最後のコーナーで2位につけていた高木選手が、内側から一気に前へ出たわけだが、前を滑る選手がここで外へふくらむだろうということを予測していた、あるいはそれを逃しては勝機がないからそれだけを狙っていたか、見事に抜き去った。

本当に見ていて力の入るシーンだった。

それにしても、準決勝で佐藤選手が、内側にならんで滑っていた選手の転倒に巻き込まれ、レースを続けられなかった。こういう場合って、救済措置ってないんだろうか。そうしたアクシデントも含めた種目ということなんだろうか。

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昨夜のもう一つのメダルは、カーリング女子。
この競技も、プレイをしている姿はおなじみだけれど、ルールはよく知らない。

3位決定戦の相手のイギリスが、最終ショットで、難しいショットであったようだが、ミスといって良い。
この競技は、自分のショットの後にはどういうストーン配置になり、相手がどう出てくるかを予測しながら進めるもののようだ。
2018-02-24_231346-crop.jpg 「氷上のチェス」というそうだが、局面の変化と相手の手を読むというところからきているのだろう。

見た目ではチェスというより、むしろビリヤードだと思うのだけれど。


チームの意思確認で多発される「そだねー」が流行語になっている。

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京橋で飲み会

昨夜は、いつものメンバーで飲み会。

場所は、京橋(大阪)のココ

乗換案内のサイトやアプリで、「京橋」とやると、毎回、「京橋(東京)/京橋(大阪)」を選ばされる。

東京の京橋は、地下鉄銀座線の駅である(私は1度だけ利用したことがある)。「明治屋前」という副駅名があるから、正式名称もそちらにすれば、関西の人間には親切になると思う。って、そんなことを東京モンが考えるわけはないか。


メインメニューは牡蠣鍋(土手鍋)。
といっても、お品書きにも、ネット情報にも、牡蠣鍋はない。
今回の幹事(珍之助さま)のお知り合いで、この店をよく利用するという人からの「頼めばやってくれる」という情報にもとづいたもの。

もっとも、牡蠣はおいしいのだけれど、数が少なかった。私には2粒しかあたらなかった。せめて5粒は欲しいところ。ここで金を惜しまないほうが良かったかも。(他の品もあって、トータルでは十分だったけれど)


さて、この面子での飲み会、前回は去年の11月だった

まだまだ、本ブログの記事になる回数も増えそうであるから、この集まりを「友゛の会」として記事にすることにする。(というか、今までも仲間うちではこの名前で了解されている)

ということで、この飲み会の記事を遡ると、以下の通りとなった。(日付は、開催日)
飲み会 in 梅田2015/08/31
休刊日2016/02/12
その手は桑名の焼き蛤2016/05/26
夙川で一献2016/10/07
新年会2017/02/09
マナミの次はミナミ2017/11/06

このシリーズ、ブログを始める前は2014/02/19にやっている。このときは、私の定年退職がネタになっていたはずだ。
会のメンバーにも、この3月末で、こちら側へ来る人がいる。

次回は、それをネタに、だから、そう間隔はあきそうにない。
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e-TAX、もう少しサービスしてもらっても良さそうだけれど

一昨日は、e-TAXでのICカードリーダーのちょっとしたトラブルと対応について記事にした。

2018-02-21_131807.jpg 今日は、e-TAXについて、前にもおなじようなことを書いたけれど、せっかく電子化とマイナンバー制度の創設ができたんだから、もうちょっと簡単にしてもらいたいと思うこと。

細かい制度は知らないが、税務当局は、申告者の収入源である支払元から、支払額・源泉徴収額を捕捉できるだろう。

それなら、電子申告しようというときに、申告者がマイナンバーを入力したら、それらの情報が自動的に申告書に反映するようにしてもらえたら随分助かるのではないだろうか。
私の場合、収入の源泉となるところは、私がマイナンバーを届けているところしかない。
配偶者控除や扶養控除など、税計算に必要な申告情報もあるが、それらは簡単にチェックできるものだろうから、マイナンバーを入れるだけで、ほとんど申告書類はできあがるだろう。
e-TAX_mynumber_familym.png

配偶者控除を受ける場合、配偶者が確定申告をしてその所得額が、こちらの配偶者控除額に矛盾がないかチェックできるようにするためだろうか、配偶者のマイナンバーも記入が求められる。
それなら、配偶者が先に申告していたら、その情報も持ってこれるだろう。


なんだか、今の制度は、まるで税務当局は、マイナンバー制度があるから、お前のデータは全部知っている、嘘の申告をしてもすぐにバレるんだぞ(コンピュータで自動チェックできるからいとも簡単に)と言ってるように思える。
知ってるんだったら、そっちでやっといてよ、そう考える人も多いのでは。

最終的に申告は本人がしなければならないだろうが、せめて書類の調製の手助けぐらいはやって、これで間違いないですかっていうようにしてもらうわけにはゆかないものでしょうか。
善良な納税者めにございます、お役人さまに、何もかも情報開示いたしますので。

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オリンピック・カタルシス

昨夜、ピョンチャン・オリンピックの女子パシュートで、日本チームが金メダル。

もちろんこのブログで伝えるようなことでもない、周知の情報だけれど、やっぱり記事にしておきたい。

カナダとの準決勝では、レース終盤でスピードを落として決勝にそなえる余裕。

そしてオランダとの決勝。
オランダは、全メンバーがメダリスト。
体格にすぐれ、個々の力が高いチームだと思う。

スタートこそ日本リードだったが、中盤でリードを許す展開に。
中継画面上に表示されるラップタイムでは、最大0.47秒の差をつけられた。

しかし、そこからの終盤のねばりは凄い、
そして観戦者の眼には、オランダ選手の顔に疲労と苦痛の色が見えるのに対し、日本チームにはぐいぐいと進む表情だけがうかがえた。

終わってみれば、1.38秒の差をつけて、完勝。

大会前から、今シーズンの日本チームは、世界記録を3度更新し、絶対的な強さ。オリンピックでも金メダルに最も近いという前評判だった。

選手個々の力では、オランダの方があるのかもしれない。
しかし、ワンラインの滑り、リーダー交替の方法で、チームとしての力では優ったということだそうだ。
精神的なものとか、単純な足し算とかではない。
メンバーの掛け算、チームとしての技術。

500mの小平奈緒選手も順当勝ちというところだったが、終わるまではハラハラドキドキ。
パシュートでも同じ思いをさせられた。

そして見ている方も、1足ごとに力が入るところも同じ。それも6本の足である。

中盤でリードを許し、悲壮感を与えたうえでの逆転勝ち。
できすぎのストーリー。
オリンピックのカタルシス。
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e-TAX、ちょっとトラブル

昨夜、ノルディック複合ラージヒルの競技を見ながら、e-TAXで確定申告。

昨年は、はじめてふるさと納税というのもやってみたので、申告すべきものが1つ増えた。

ふるさと納税の趣旨は承知しているのだけれど、収入が限られている私としては、その趣旨は忘れて通販感覚。


もちろん、申告に必要な各種証明類は暮れから注意して集めているから、入力そのものにはそうまごつくことはない。e-TAXも去年、マイナンバーカードを使ってやっているから、要領も解っているし、税申告用の利用者識別番号や暗証番号も取得済み。

順調に入力を終わって、さて送信しようとしたら……
あらあら、ICカードリーダーを認識しないというエラー。

2018-02-20_230937.jpg

リーダーは古いパソリだから調子がおかしいのかと思って、USBからとりはずして、再装着
……エラー変わらず。フェリカ(Edy)はちゃんと処理できたから、何が悪いのか。

PCを再起動して、リトライ……エラー変わらず。

ふと思い立って、JPKIのクライアントソフトを再インストール

JPKI利用者クライアントソフトのダウンロード

……エラー変わらず。

そして、次にSONYのパソリのページへいって、ドライバーを再インストール。

SONY アプリ・ソフトウェア ダウンロード
felica用と、type-B(マイナンバーカード)用とそれぞれある。
私はEdyやICOCAも使うので、felica用もインストールしている。

おそるおそるJPKIクライアントソフトを起動して、電子証明書の確認をやってみたら、無事、認識。

ということで、確定申告送信前に保存しておいたデータを取り込んで、送信!
無事、確定申告終了。

昨年、e-TAXをやってから、Windows10のメジャーアップデートをしたのが影響したのかもしれない。
(他に理由が見当たらない)

私と同じように、マイナンバーカードを認識しないであわてる人もいるかもしれないと思って、本記事で情報提供させていただくことにした。

こんなことをしている間に、ノルディック複合、日本選手はクロスカントリーで大きく遅れ、メダルならず。

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知人の祝い事

以前、知人が某宗教の小さな教会の会長になるあたり、それに伴う儀式へ同伴したことを記事にした。

P_20180218_095124_vHDR_On.jpg そのときは、教団トップからの認可を受ける儀式だったが、一昨日の日曜日、今度は、教会側で、信仰の対象である神様に奉告するという趣旨の儀式が行われた。
そして、これにも参列を頼まれた。

上級の教会の会長や役員が参加。儀式自体は、特に重々しいというわけでもなく、2時間ぐらいで終了。

以前、その上級教会の会長が代替わりしたときにも出席を求められた。そのときは地元の市長が来賓で来るので、その応接を頼まれた。他にも国会議員とか府会議員とかが来ていて大層だった。
今回は小さい教会なので、そうした来賓はなく気楽。


P_20180218_131055_vHDR_On.jpg そして、この教会は、写真のとおり、手狭なので、近くの上級の教会で直会。
直会というのは、民俗学では神人共食という意味があるはずだけれど、今回は、神棚の傍というわけでもなく、要するに酒盛りである。

はじめからそのつもりで行っているから、当然、出されたものは楽しくいただいた。
祝いの品として、たくさんの日本酒が届けられていたが、そのなかから「越乃寒梅」を開けた。

この「越乃寒梅」は、同じテーブルに着いた人からのお祝いだったのだが、この人、私の高校・大学の先輩で、未だ若いのに突然亡くなられた人の娘さんと結婚しているということを、話していて初めて知った。

その先輩というのは、文学部哲学科で、音楽にも不思議な趣味(ブルックナーが好き)のある人だった。私が持っていたメシアンのオルガン曲全集(もちろんメシアン自身が演奏)もいたく気に入られ、それを氏のコレクションの何かと交換した憶えがある。

暁に祈る
作詩 野村俊夫
作曲 古関裕而
 
1 ああ あの顔で あの声で
  手柄頼むと 妻や子が
  ちぎれる程に 振った旗
  遠い雲間に また浮かぶ
あるとき、その先輩と話していて、軍歌の話題になったことがあった。曰く、

暁に祈る」は、出征する夫や父に手柄を頼むという軍国主義礼賛の歌だという輩がいるが、「ちぎれる程に旗を振る」のは、別れの辛さ、生きて帰ってほしいという願いを込めたものである。しかし声としてあげられるのは「手柄頼む」しかないのだ、泣きながら旗を振っているんだ、それが「ちぎれる程」の語に込められた思いだ。
それがわからないって、どんな感性をしてるんだ、

と仰ったことが、今でも強く記憶に残っている。

(私もこの言に100%賛同)


惜しい人を失くした、当時、私も、多くの人も、そう思った。

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順当勝ち、でも終わるまではハラハラドキドキ

連日の日本選手の金メダルのニュース。
昨日、ピョンチャン・オリンピックのスピードスケート 女子500mで、小平奈緒選手が1位になった。

記事にするのも恥ずかしい周知のニュースだけれど、記録のために記事にしておくことにした。

2018-02-18_215124-crop.jpg

このオリンピックで、全競技種目中、最も金メダルの可能性が高いという前評判の中、見事なレースでレコード勝ち(オリンピック・レコード)。
タイトルは「順当勝ち、でも終わるまでは」としたけれど、むしろ、「だからこそ終わるまでは」というほうが正しいかもしれない。

前日の羽生選手の金メダルで、同じ日本選手として、少しは重圧が軽減されたかもしれない。


500mは、昔、イン・スタート、アウト・スタートでの有利不利があるということで、イン、アウトそれぞれの2回の合計タイムで競っていたが、今回は、昔に戻って、一発勝負。
テレビ解説では、技術の向上で、むしろアウト有利という話があったので、イン・スタートの小平選手はどうだろうと思ったけれど、結果はご覧のとおり。

アウト有利だというのなら、やっぱり2回滑ってもよさそうに思う。もっと言えば、4回ぐらい滑っても良いんじゃないか。あまりにも緊張が強い種目だから。
けど、小平選手が勝ったから、1回で十分。(負けてたら、もう1回やらせてくれ、だけど。)


それにしても、スピードスケートのレースを見ると、とにかく力が入る。
足を後ろではなく、横に蹴って、グイッ、グイッと進む姿がなんとも言えない。
見ているほうも、それに合せて体を右、左に。

はじける気持ちは、当人はもちろん、観戦者もである。

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来た、見せた、勝った

ピョンチャン・オリンピック、フィギュア男子で羽生選手がソチに続いて連覇。

足の怪我で出場が危ぶまれたが、ピョンチャンに来た
今できることをやりきって、見(魅)せた
そして、勝った

いつも通りの、素早く腕を引き付け、全身を錐にした、美しいジャンプを見せてくれた。
怪我の影響か、ジャンプの回数や難度を落としたようだが、ショートプログラムの貯金がきいて、トータルで1位。

FabPlayer_[20180217-181232-202] 応援者が心配したのは、怪我の後、全く姿を見せず、何の情報もなかったこと。順調に回復している旨の報道もあったけれど、それを裏付けるような映像などはなく、本当に回復しているのか、多くの人が不安を持っていただろう。
個人戦に先立つ団体戦でも、羽生選手は出場を回避し、やはり関係者には不安があるのだろうかと、これも多くの人が感じたのではないだろうか。

ようやく、それなりの演技ができるかもしれないと思ったのは、現地での練習で4回転も跳んだという映像・ニュースを目にしてからだろう。それでも、なかなか本調子というわけではないだろうとも。

フィギュアの得点は、技術点(要素点)と、構成点(program components score)からなり、構成点には、スケート技術、要素のつなぎ、動作/身のこなし、振り付け/構成、曲の解釈という評価項目があるそうだ。よくはわからないが、羽生選手の演技には、ぎごちなさは感じられず、楽曲にぴったり合った気持よさがある。

昔、オリンピックのメダリストで、バレエとフィギュアスケートの二刀流の人がいたが、この人の演技と比べると、当時の日本人は、音楽に乘って演じるというより、音楽に合わせるのに必死という感じがしていた。それが、このところ海外の選手よりも、日本選手、といっても羽生や宇野といったトップだけれど、楽曲のつかみかた、それへの演技の合わせ方(というより乗り方)のほうが優れていると思うぐらいになった。

FabPlayer_[20180217-181344-394]-crop テレビ中継では、技術点はほぼリアルタイムで表示され、その時点でトップの選手の技術点と比較できるわけだが、羽生選手の場合、技術点が同じなら、大きなミスで演技の流れがよほど乱れない限り、構成点との合計では負けることはないと思う。だから、後半、ジャンプに乱れはあったものの、演技終了時点で、1位になるだろうと思った。

ところで、ソチで金メダルをとったとき、羽生選手は、次のオリンピックで競技からは引退するというようなことを言っていたと思う。
しかし、今回、シーズン当初に用意していたプログラムはきちんとできたわけではない。
全種類の4回転をとりいれた、最高の演技に挑戦してもらいたい。オリンピックだけが舞台ではない。
それまでは引退はしないでほしい。

さて、次は異次元・異世界の二人、
エフゲニア・アルマノヴナ・メドベージェワと
アリーナ・イルナゾヴナ・ザギトワの女子に注目。


■YouTubeで配信されている主なビデオ

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答弁撤回

DVYJ1xPVwAAgEuDrrggrrtteerr.jpg 国会での「働き方改革」をめぐって、ゴタゴタしている。

働き方改革自体は、厚労省のページを見る限り、もっともな(らしい)言葉が並んでいる。

働き方改革についてはいろいろ思うところもあるのだけれど、

「働き続ける高齢社会」って、年金財政が維持できないだけだろう、
付加価値が上がらなければ、パイの取り合いにしかならないだろう、など。

それはともかく、今日は、働き方改革そのものではなくて、安倍首相が答弁を撤回したことについて考えてみたい。(その経緯は朝日新聞のページに解説されていた。)

touben_tekkai_asahi.jpg 間違っていたら訂正するのは自然なことだと思うけれど、間違いを指摘されなかったらそのまま済んでしまうのなら、やはり決定過程に問題があるということになる。
間違いを認める態度は、決して悪いものではないから、しつこく答弁撤回を批判するのはスジが違うだろう。

ただ、この間のやりとりをテレビのニュースで見ていて、不思議だったのは(私の聞き間違いだったらゴメン)、根拠となった調査の方法についての質問に対して厚生労働大臣が「答えられない」と言ったというあたり。
おいおい、それじゃ調査の信憑性云々以前の問題ではないか。

首相や担当大臣がこんな答弁をするのは、そのもとになる政策立案・根拠固めをした官僚の質が悪いということを意味する。しかし、彼ら官僚が、能力的に低いわけではないだろう。
となると、政治家から、説得材料になる数字を示せと言われて、あるいは、それを忖度して、誤魔化しの根拠数字を入れたということかもしれない。

政治主導は、権力に阿る役人による歪んだ政策立案になる危険を孕んでいる。
最近、そういう事例が多いように思うのは私だけだろうか。

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「蘭学事始」

杉田玄白「蘭学事始」(全訳注:片桐一男)について。

Rangaku-kotohajime_katagiri.jpg 図書館の書棚で見つけて、「風雲児たち~蘭学革命篇」を見たあとだったので、借りて読んだ。

「蘭学事始」は、高校の国語の教科書に一部が収録されていたことは覚えているのだけれど、どの部分だったのか、おそらく冒頭ではないかと思うのだけれど、もう一つ記憶が曖昧である。

本書は、現代語訳、原文、解説からなる。現代語訳はとても読みやすい。全部読み通すのに1時間もかからない。(文庫版で70ページ)
現代語訳を読んだあと、原文も読んでみたが、書き下し文で、ルビもふられているから、こちらも、そう苦労なく読める。前述の、本書収録の教科書も現代国語のものだったのではないだろうか。
また、原文には、豊富な注(132個)が付いている。34ページもある。原文は50ページだが、大きな活字でルビもふられている。注のフォントサイズは小さいから、実量としては注のほうが多いだろう。

現代語訳
蘭学事始上の巻
蘭学事始下の巻
原文
長崎本『蘭東事始』凡例
蘭東事始上之巻
蘭東事始下之巻
解説
一 『蘭学事始』執筆の目的と著作の意義
二 「蘭学事始」「蘭東事始」「和蘭事始」
三 底本「蘭東事始」
四 古写本とその分類
五 杉田玄白の著作
六 蘭学事始附記
七 杉田氏略系図
八 記念碑・史跡・墓地
九 『蘭学事始』に関するおもな参考文献
 
あとがき
『蘭学事始』年表
件のドラマでも、ネタに面白く使われていた「フルヘッヘンド」については、解説ではなく、注に記載があった。
「フルヘッヘンド」を「堆し」(うずたかし)と訳すくだりは、訳語をあてる苦労の代表例として有名な個所であるわけだけれど、それだけでなく、原文で10行もあって、玄白の得意な様子がうかがわれる。
ところが、近年の研究で、ターヘル・アナトミアにはその語自体が見当たらないということで、さらに有名になったといういわくつきの場所である。
本書では次のように注が付されている。

(82)フルヘッヘンドせし物 玄白が例にあげた鼻の個所に該当する記述を原書に探しても「フルヘッヘンド」という発音に当たる文字はみえない。しいていえば附図のXIにみえる鼻の解剖につけられたa印に対応する本文aのところにみえる文、a Dorsum, de rug, naamentlyk de verhevene langte der Neus. のうちのverheveneを指すということになろう。意は「盛り上がった」である。玄白の老齢故の記憶違いかと思われる。

本書のように老齢に帰するのが妥当なところかもしれないが、なかにはこれを玄白の創作と見る向きもあるようだ。私は、むしろ玄白がその後、オランダ語の習熟度を上げた、その結果、単語の派生関係なども理解するようになって、親縁の語を取り違えるに至ったのではないかと想像する。
なお、ネットのオランダ語辞書で、verhevene(verheven)を調べると、その例文中に、verhevenheidという語が見いだせる。

ドラマで前野良沢が一節切を吹くシーンがあったが、みなもと太郎の原作では特にこれには触れられていないが、「蘭学事始」には、そのことが書かれている。
此良沢といへる男も天然の奇士にてありしなり。専ら医業を励ミ東洞の流法を信じて其業を勤め、遊芸にても、世にすたりし一重切を稽古して其秘曲を極め、又をかしきハ、猿若狂言の会ありと聞て、これも稽古に通ひし事もありたり。

三谷幸喜氏は、原作をドラマ化するにあたって、そのさらにもとになった史料も読んでいたということだろうか。
なお、なぜ良沢が「世にすたりし一重切」を演奏したかについては、上の引用個所のすぐ前に、良沢を養った伯父宮田全沢の教えとして、「人と云者は、世に廃れんと思ふ芸能は習置て末々までも不絶様にし、当時人のすてはててせぬことになりしをハこれを為して、世のために後にも其事の残る様にすへしと教られし由」とある。

P_20180130_101531_vHDR.jpg 本書の底本は「長崎本」と呼ばれる長崎浩斎が入手したもの。
浩斎は、大槻玄沢の弟子で、玄白への入門を希んだが既に玄白は病中であったため、玄白の一の弟子である玄沢に入門した人だそうだ。高岡市の出身で、この原本は高岡市立図書館に寄託されている。
高岡市立図書館には古文書のデジタル画像を公開しているのだけれど、これはその対象となっていない。(公開してほしいなぁ、減るもんじゃなし。)

そしてこの底本の表紙は「蘭東事始」(蘭学東漸事始)となっているのだが、本書では、このタイトルを巡って、少々面倒くさい議論がなされている。
私は何の疑いもなく「蘭学事始」と思っていたが、こうした題名の本があり、また「和蘭事始」というものもあるのだそうだ。結局、元の本を持っていた大槻玄沢も、「蘭学事始」が良いと考えていたらしいと推測されている。(その結論までに随分の紙幅が費やされている。)

ところで「蘭学事始」によれば、「蘭学」という言葉自体が、「解体新書」後に使われ出した言葉だという。だからこそ、蘭学事始なのである。なお、蘭学事始の冒頭部分、蘭学が興る前に、西洋の医術を少しでも学んで実践する医術は「南蛮方」というような言い方がされていたとある。

先日、NHKの「大岡越前」を見ていたら、小石川養生所の蘭方医というのが出てくるのだけれど、これは吉宗の時代の話であるから、もし玄白が云うとおりなら、「蘭方医」という言い方ははなかったかもしれない。

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昨日の休刊日画像(透けてゆく画像の重ね合わせ)について

昨日は休刊日にした。
文字記事は休んで、休刊日の常套手段として、画像に技巧を施した。

Bartholomaeus: Minerva's victory   
気づかなかった人はいないと思うけれど、2枚の画像を重ね合わせて、前面にある画像を徐々に透明化していくというのをやってみたわけだ。

説明を入れなかったが、のボタンはクリックすると重ねている上の画像を、完全不透明⇔完全透明に切り替える。透明化が進行中のときは、進行を止めて完全不透明にする。


こういうことをするなら、同じアングル、同じポーズの絵が2枚あれば良いわけだが、そんな都合の良い絵はそうそうあるもんじゃない。
乏しい美術知識では、昨日のとおり、ゴヤの2枚しか思い当たらなかった。

ということで、それなら、もとの絵の一部をペイントしてやれば、それが少しずつ透明化していって、最後にオリジナルの絵が現れるようにできるだろう。
そして、当然、こういうことをするなら、美しい女性裸体画に限るわけで、ネットで画像をいろいろ物色してみた。

だけど、案外、印象に残っている裸体画ってないもので、ギリシア・ローマ神話に題材をとってる絵にはいくらでもありそうなものだが、そして実際たくさんあるんだけれど、どうも気に入ったものがない。
ようやくテストしてみようという気になったのが、Bartholomaeus: Minerva's victoryという1品。
できあがりをご確認ください。(胸がはだけている方が原画です、念のため。)

今日の記事は、敢えて自動スタートはさせていないので、画像をクリックしてください。


こうやって上に置く2枚目の画像を作ると良いこともある。
着衣・裸の2枚のマハの場合、そもそも別々に描かれたもので、絵がぴったり重なるというわけにはいかない。昨日の作例では、マハの顔が重なるように、ポジションと幅の縮小をいろいろとりかえて試している。
しかし、自前で作る場合は、いじる場所以外は元の絵のままだから、ぴったり重ねることは造作もないことである。


上の作例では、変化が乏しいので、もう少し派手なものも用意した。
見たい人は、ここをクリック


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一日遅れの休刊日

昨日は通常記事をアップしたので、今日を休刊日にした。

Hadaka
Goya: La maja vestida/La maja desnuda     

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採点競技はただ楽しめば良いかも

ピョンチャン・オリンピック、ようやく日本選手のメダル獲得が伝えられているが、今日はそれらではなくて、メダルにとどかなかったフィギュア団体戦のこと。
この競技、日本は決勝には進んだけれど、順位は決勝進出5チーム中の5位でおわった。

そのなかで、宮原知子のショートプログラムの得点が低いということが話題になっている。
私も、見終わったときにはかなりの高得点を期待した、それほど印象的な演技だと思った。
しかし、結果は、女子ショートプログラムのなかでは4番目の得点で終わった。

テレビ解説では、最初のコンビネーション・ジャンプが、2つのジャンプとも回転不足と判定されて、基礎点が低くなったと言っていた。

フィギュアスケートのルールには詳しくないから、なんとも言えないのだけれど、スロービデオを見ると、たしかに問題のジャンプは、回りきっていない状態でつま先から着氷し、そこからつま先を中心にして完全な回転角になるまでフォローしているように見える。完全に回転した状態で着氷しなければならないということのようだ。

他の選手のジャンプがどうなのかはチェックしていないから、宮原選手にだけ厳しかったのかどうかはわからない。
しかし、そもそも採点競技というのは、どうしても不満が出やすい。
ボクシングでもホームタウン・デシジョンという言葉があるぐらいで、村田諒太選手の最初のタイトルマッチでの疑惑の判定も記憶に新しい。

ただ、フィギュアスケートとボクシングでは楽しみ方は違うとも思う。
フィギュアスケートでは、得点云々ではなくて、演技自体をそのまま楽しめれば儲けものだ。

そう思わないとフラストレーションがたまってしまう。

そして、そういうものだと思えば、宮原選手の演技は随分と立派で、素晴らしいものに見える。

それにしても、ロシアの2人の演技は、別世界のものということに多くの人は異存がないと思う。
メドベージェワの演技は、フィギュアスケートの最高のものだと思うし、ザギトワのそれは、喩えでもなんでもなく、氷上のバレエと言える性質のものだと思う。

そう思うと、NHKがザギトワの演技中に、定時放送のために、フル解像度からサブチャンネルへ切り替え、画面が途切れ、そして粗い画面で見さされたことは腹立たしい。
せめて定時放送の方をサブチャンネルにするようにするわけにはゆかないのだろうか。

NHKは自身のホームページでも、YouTubeでもビデオを流しているから、ちょっとは救いがあるけれど。

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■YouTubeで流れているビデオ


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やっぱりディスク・クラッシュ

新しく使い始めたNAS(QNAP TS-231P)、ディスクが2枚入るところ、1枚だけ新調し、もう1枚は前に使っていたNASから抜いて使っていたが、とうとうダメになってしまった。

前のNASで1枚がダメでその生き残りだったわけだが、QNAP TS-231Pで使い始めた時から少々怪しかったのだが、金曜日の夜にデータを保存していたら、突然、エラーが出た。本体を確認すると赤ランプ。
とうとうダメになったようだ。

2018-02-11_112528.jpg


ただ、電源を入れ直すと、まだ読み出しはできるようだったので、使っていなかったUSB接続タイプのディスクとUSBメモリを、QNAP TS-231Pにローカル接続して、バックアップをとった。
もともと、クラッシュしても問題ないデータを入れていたので、そのままディスク1枚で使おうとも考えたのだが、やはり、いろいろ不便なので、新しいディスクを買うことにした。

P_20180211_112257_vHDR.jpg 今までは2TBのディスクだったが、今後のことも考えて4TBのものにすることにし、土曜日の夕方にAmazonで注文、日曜日の午前中には届いた。

ディスクの取り換えは実に簡単。
まずは該当するストレージを削除し、そのうえでディスクを抜き、新しいディスクに交換して装着。QNAP TS-231Pはホットスワップ可能なので、システムが入っていないディスクだと何の問題もない。

読み出し可能状態のときにとっておいたバックアップ・ディスクをUSB接続してバックアップ・ドライブとして設定すれば、あとは勝手に新しいディスクにデータを入れてくれる。
PCに接続してコピーしても良いのだが、そうするとPCへの負荷もかかる。もっとも、QNAP TS-231Pに直接接続したらもっと早くリストアできると思ったが、そうでもなく、結構時間がかかった。

PC接続からLANでデータコピーすると送受信とも平均で320Mbpsぐらいの速度。ローカルでもほぼ同じ速度のようだった。


何年かに1回ぐらいはこういう目に会うのだろうか。
やっぱりクラウドのバックアップ・サービスのほうがラクかな。

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誰に合わせたスケジュール?

pyeongchang_normal-hill.png ピョンチャン・オリンピック、昨夜、スキージャンプのノーマルヒル決勝が行われた。
結果は、ドイツのベリンガーという選手の優勝、日本勢は小林陵侑の7位(入賞)が最高。

日本勢のメダルも期待されていたようだが、テレビで見ている限り、ドイツ、ノルウェー、ポーランドなど、強い選手はいくらでもいるようで、メダル期待は、ちょっと身びいきの観がある。

それにしても、この競技、天候が結果に大きく影響する。
日本選手団でもっとも前評判の高かった小林潤志郎選手は、2回目に進めなかった(1回目31位。30位までが2回目へ進める)わけだが、小林選手と、その直前に飛んだ選手の2人は、まるで斜面に吸い付けられるように失速した。技術以上に運・不運がものをいうのかもしれない。

風の方向・強さで、Wind pointという制度があったり、スタート点を途中で変えたら、compensationが付いたりと、競技としての不公平を避ける工夫はされているけれど、やや技巧的に思う。笠谷が札幌で優勝したとき、そして90m級で失速したとき、そんなルールはなかったと思う。

以前、ジャンプ場全体を覆って、屋内ジャンプ場を作るという話を聞いたことがあるけれど、技術的、経済的な難しさだけでなく、それを選手、観客が受け入れられるかも問題だろう。


それにしても、頻繁に風の影響でスタートを止められる状況だったとはいえ、競技が終わったのは日付が変わってから。
競技の時間設定には、某大国のメディアの影響が大きいという話を聞いたことがあるが、こんな深夜に競技を行うのは、どうなんだろう。選手も観客も、この後、どこで休むのだろう。
韓国大統領も「アスリート・ファースト」って言ってたような気がするけれど。

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「集中講義 大乗仏教」

佐々木閑「集中講義 大乗仏教―こうしてブッダの教えは変容した」について。
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別冊NHK 100分de名著」というシリーズの1冊。

「100分de名著」というのはNHKの番組で、古今東西の「名著」を造詣の深い人たちが、短時間で、そのキモを説明してくれる番組。狙って視たことはない(惜しいことをした)が、何本か、枕草子、歎異抄、手塚治虫などは見た覚えがある。


昨日とりあげた「さかのぼり日本史⑥“天下泰平”の礎」も、NHKの番組に由来する本だったが、このような番組由来の本(ノベライズというわけにはゆかないけれど)というのは、それほどじっくりと読むような量が書かれているわけではない。
しかし、この本は意外に読み応えがあった。1回の番組ではこれだけの内容は語れないと思う。番組から離れて別途執筆されたものかもしれない。

NHKのホームページを見たが、この本に1対1で対応する番組を見つけられなかった。同じ著者による「般若心経」はあるけれど。


本書では、いきなりものすごいことを言い切る。
「釈迦の仏教」と、私たち日本人が信仰している大乗仏教とでは、じつは教義の内容がまるで異なっているのです。もともとあった「釈迦の仏教」にのちの人が手を加え、オリジナルの教えとは別のものとして、日本や中国に伝わったのが大乗仏教だと思ってください。

このことは、本書の第3講「久遠のブッダ―『法華経』」の中や、「おわりに」で繰り返される。
 大乗仏教の歴史を研究していると必ず出会う名前があります。江戸時代の町人学者、富永仲基です。彼は、それまでの仏教界では全くの常識とされた大乗仏教仏説論、すなわち「お経と名のつくものは皆、釈迦などのブッダが説いた仏説であり、そのすべてが正統なる仏教の教えだ」という考えに異をとなえ、「経典というものは、先にあったものを土台として、次の世代の人たちが別のものを新たに創作し、それをもとにまた別の人が次のもの左作るという連鎖的操作で生み出された」という説を主張しました。「加上の説」と言います。「加上の説」は、彼が実際に万巻の経典を読み込んだうえで到達したきわめて合理的な結論です。しかし、この説は当時の仏教界に非難の嵐を巻き起こしました。考えてみればそれも当然です。富永の主張に従えば、ほぼすべての経典は釈迦が説いたものではなく、のちの世代の人たちが釈迦の名をかたって次々に創作したものだということになるのですから、それらの経典を自分たちの教義の要に据えている日本の宗派にとって、この説はゆゆしき邪説とみなされたのです。

(おわりに)


以前、島田裕巳「ブッダは実在しない」の書評を書いたけれど、そこでも、宗教的な心情を思うなら、ブッダが教えたところの神(にあたるもの)が居て、後の仏教を発展させてきた多くの高僧・名僧は、宗教的体験をしてきて、その教えを深化させてきたとも言える。時代とともに何度でも仏の教えが更新されて何らおかしくはない、と書いた。
島田氏は、日本の仏教には、もともとのブッダの教えは入っていないことを問題視されるが、仏典・宗派というものは、そういう成り立ちであるという主張でもあり、ここは「加上の説」を認めているということだろう。

第1講 「釈迦の仏教」から大乗仏教へ
第2講 「空」の思想が広がった──『般若経』
第3講 久遠のブッダ──『法華経』
第4講 阿弥陀仏の力──浄土教
第5講 宇宙の真理を照らす仏──『華厳経』・密教
第6講 大乗仏教はどこへ向かうのか
そもそも釈迦が書き残したものというのはない。お経は釈迦の弟子たちが、釈迦の言葉を忘れないように書きとめたもの。その時点から複数の弟子がそれぞれ覚えていたし、「方便」が語られたこともあったろうか、そもそも最初から統一のとれたものでもなかっただろう。

合理的に考えて「加上の説」は否定できないようだが、多くの宗派が根本経典をお釈迦様の教えと言えない状況のなか、阿含宗のように、釈迦の時代からある阿含経のみを根本経典とし、華厳経、法華経などは中国で創作されたものと断ずる宗派もある。

ただ、阿含経が信者を集めているかというと、そうでもないようだ。


結局のところ、「釈迦の仏教」、すなわち釈迦を尊崇するのか、時代に合せて変容してきた仏教信仰を受け入れるのかという問題ということだ。

眼を転じれば、キリスト教も同様である。イエスが書き残したものはない。

イスラム教のクルアーンは、ムハンマド自身が書いてはいないにしても、ムハンマドの生前の記録がもとになっているそうだから、このあたりの事情は少し違うかもしれない。


神を信じるという人類の多くが持つ性質は、社会構成原理として生存に有利だっただろうという考え方がある。
人は何かを信じなければ頼りない気分になるものらしい。
「鰯の頭も信心から」

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ピョンチャン・オリンピック開幕

pyongchang0180208fl04_p.jpg ピョンチャン・オリンピックが開幕する。

開会式は、今日の夜20:00から行われるから、どの報道でも「本日開幕」扱いだけれど、競技は既に昨日から始まっているらしい。

昨日は午前中から、カーリングのミックスダブルスという種目が行われていた。夜にはスキージャンプの男子ノーマルヒル予選が行われた。


46年前、札幌のときは、私はちょうど大学入試のときで、テレビを見るどころではなかったはずなのだけれど、なぜか日の丸飛行隊表彰台独占も、当時はまだ氷に図形を描くコンパルソリーがあったフィギュアスケートも、やたらオランダが強かったスピードスケートもしっかり憶えている。

日本では長野でもオリンピックが開かれた。このおかげで、雪質が評価されて、世界的なスキー観光地になったというが、ピョンチャンはどうだろう。

PK2018020702100186_size0.jpg ピョンチャンはとても寒いという。
オリンピック選手村の入村式では、日本選手団は、選手は一人も出ず、役員だけが参加したそうだ。なんでも、選手の体調管理を優先したからだという。なんだか、考え過ぎというか、過保護のような気がする。
世話をしてくれる村の人たちは、選手が来なくて寂しい思いをしたかもしれない。

自由参加だと言ったら、それなりの人数の選手が参加しただろうから、選手団として欠席することを決めたのかもしれない。


開会式はさすがに選手なしでの入場行進はできないだろう。
もちろん事の軽重ということがあるから、入村式と開会式を同列に扱うことはできないと思うけれど、時間的には入村式のほうが短かそうだし、なによりすぐそこに宿舎もあるわけだから、そんなに負担になるものだろうか。
20130206P1000377.jpg
5年前、やはり2月に韓国に行ったことがある。
ソウルとその近辺しか行っていないけれど、たしかに寒かったと思う。人通りのないところは一面雪が深々と積もっていた。ところが、現地の人は、久しぶりに暖かいという。-10℃が普通のところ、せいぜい-5℃程度で、異例に暖かいのだと。
ソウルの寒さは旅行に行く前にさんざん脅かされていたので、防寒には万全を期していた。耳を覆える帽子も必需品だと聞いたので、その旅のために買った覚えがある。

オリンピック選手団なんかは特別の装備があるはずだから、-10℃なんてどうってことはないようにも思う。冬のオリンピックといえば、北京はもっと寒いかもしれないし。

それより2020年の東京の夏の暑さのほうが心配だ。


葛西紀明【写真:Getty Images】
以前、カルガリーのオリンピックでは、内陸部で日較差が大きい上に、日によって天候が大きく変わっていて、スキーのジャンプ台に雪がなくなったり、見物客が半袖Tシャツ1枚だったり、不思議なシーンがあったことも記憶する。

この記事は、スキージャンプ男子ノーマルヒルの予選を見ながら書いている。
日本からは4選手が出場、4人とも決勝へ進んだ。
長い会期のはじまりだ。


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「ナメクジの言い分」

Adachi_Norio_Namekuji_no_iibun.jpg 足立則夫「ナメクジの言い分」について。

これも岩波科学ライブラリーの一冊。
であるけれど、ちょっと毛色が違い、科学書とは言いにくく、しかも科学者でない(けれど科学する)人が書いたエッセーというべき本(著者自身がそう書いている)。

ナメクジといえば普通は嫌われ者、殻があるカタツムリは愛嬌があって子供のおもちゃにもなるが(殻があるからナメクジのヌメヌメしたところを触らなくて良いからではないだろうか)、ナメクジ相手に遊ぶ子供というのはまず見ない。

私の家でも、庭にはたくさんのナメクジが棲息していて、家人が大事にしている花などは相当被害を受けている。したがってナメクジを誘引・退治する薬剤を置いたこともある(ああ、なんと罪深いことをしたのだろう)。


さて、著者は、生物学とか動物学とかの学者ではなくて、したがってナメクジで飯を食っているわけではない。ジャーナリスト、それも科学ジャーナリストではなくて、社会、経済といった分野のようである。

1 晩秋のナメクジ
季節外れによく出遭う/きっかけは娘のマニキュア/エスカルゴも同じ仲間/八〇年代に忽然と消えたキイロ/目撃情報からナメクジマップ/北海道は宝庫/東北にもチャコウラは進出/新しい外来種が侵入しつつある関東地方/皇居も小笠原もわが故郷青梅もチャコウラに占領された東京/神奈川も米軍施設周辺はチャコウラの天下/宙に浮くナメクジも,拝まれるナメクジもいる中部地方/近畿の海岸線はチャコウラの天下/中国・四国地方,瀬戸内の島にも進出するチャコウラ/チャコウラは九州・沖縄にも渡る/ヨーロピアンブラッグが世界各国を席巻する?
 
2 銀の筋は何なんだ
逃げ出したチャコウラ/「ゆっくりと」の警句の下で憤死/頼りになる米ソの文献/粘液には七つの機能/一つの足でなぜ動く/四本の角は視覚,嗅覚,味覚のセンサー/口には二万七〇〇〇枚もの鋭利な歯/便秘のナメクジがいてもおかしくない/喘息のナメクジはいない?/脈拍は人間と同じ/男性器も女性器も併せ持つ/超節電型の脳
 《コラム》平和な退治法
 
3 闇に包まれたライフスタイル
夜な夜な徘徊する/多くは菜食主義/天敵にはコウガイビルも/寒さの中で産卵,孵化する/広東住血線虫が寄生する/塩が苦手,砂糖は大丈夫
 
4 なぜ生き残ったのか
独立記念日はいつなのか/殻を捨てたのはなぜなのか/恐竜が絶滅したのはなぜなのか/ナメクジが生き延びたのはなぜなのか/ナメクジ史観とは何か
 
5 ナメクジに引かれた人たち
ナメクジに憑かれた研究者/文学大賞は内藤丈草と中村草田男,清少納言と村上春樹は落選/語源はどこから?/薬にしていた地方も/ナメクジ祭りの起源
そんな著者がなぜナメクジに興味をもったか、それはひょんなきっかけだったという。
マニキュアがきらいで、娘たちがマニキュア、ペティキュアを塗っているのをいまいましく思っていた著者が、あるとき銀色に光る筋を見つけ、娘たちのマニキュアがこぼれていると思い込んで叱りつけたところ、その銀色の筋をたどると、窓の方へ続き、あきらかに、それはナメクジの跡であることが了解され、娘たち、および彼女たちの母、つまり妻から、大逆襲に会う。
それがナメクジとはどういう生き物だろうという疑問と探究心が発現したのだそうだ。

だから、自身のナメクジ研究といっても、生体を解剖したり、化学物質(塩、砂糖を除く)の作用を調べるなどという、ハードなものではなくて、主として観察によるものである。

一番の特色は、人的ネットワークを活用した、ナメクジ分布の調査である。
といっても、特定地域をなめるように調べて、統計的手法で分布を推定するというような方法ではなくて、ナメクジを見つけたら報告してくださいという、実におっとりとしたやりかたである。
そんな中、現物を送ってくる人もいて、それが自身でナメクジを飼育することにもつながったらしい。

どこにでもいて、しぶとい奴と思われていそうなナメクジだけれど、飼育するとなると、これが案外難しいらしい。


だから、著者の研究は、自身の観察と、研究者からのヒアリング、諸文献の渉猟という方法になる。

ナメクジの研究者というのは、それは変な人が多いらしい。そういう人にはやはり著者同様、もともと文科系だったけれど、ナメクジへの興味が嵩じて生物学に転向したという人も複数紹介されている。


本書では、そうして集められた情報、考察に加え、文学におけるナメクジが取り上げられている。
残念ながら、ナメクジが登場する文学作品は数少ない。そしてその多くはけっして好意的なものではない。
著者が文学大賞を与えるとすれば、内藤丈草・中村草田男としている。(二人とも「草」が入っている。ナメクジの好物か。)内藤丈草は「芭蕉の十哲」に数えられる俳人だそうだが、次の一文が紹介されている(蛞蝓(かつゆ)とはナメクジのこと)。
多年屋ヲ負フ一蝸牛、化シテ蛞蝓トナリ自由ヲ得、
火宅最モ惶ル延沫尽ンコトヲ、法雨ヲ追尋シテ林丘二入ル

Teduka_Hinotori_namekuji.jpeg 文学作品というわけではないけれど、ナメクジが登場するフィクションといえば、本書でも触れられているけれど、手塚治虫「火の鳥-未来編」で、進化をやり直す過程で、ナメクジが知性を獲得し地球を支配する世界が現出し、そしてそれがあっけなく崩れていくというもの。

UltraQ-namegon.jpg もう一つ、私が覚えているのは、テレビ・シリーズ「ウルトラQ」で、巨大なナメクジが地球に飛来して、人類を脅かすもの。ただし、このナメクジ、最後は海に落ちてあっけなく死んでしまったと記憶している。

著者が本書を執筆して、一番希んでいるのは、「いみぢうきたなきもの なめくぢ」(枕草子)という、一面的で無思慮な言葉で片付けてしまう人が減ることだろう。

それにしても、全くの素人、関連分野の素養すら怪しい素人でも、探求心を持つことで、こんなに興味のひかれる本が書ける。
老境に入るものにとって、さわやかである。

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「ちいさい言語学者の冒険」

広瀬友紀「ちいさい言語学者の冒険―子どもに学ぶことばの秘密」について。
岩波科学ライブラリーの一冊。
やはりこのシリーズにはおもしろい本が多い。

子供のなにげない行動を、そのままやり過ごすか、そこにヒトの精神の秘密を読み解こうとするか。
発達心理学とか、本書の場合は言語学とか、ベースになる知識・理論を持っている人が見れば、子供の心で何が起こっているのか、こんなふうに洞察できる、そういう本。

本書の参考文献にも上げられているスティーブン・ピンカー「言語を生みだす本能」は随分前に読んでいるから、本書で紹介される事例やその解釈は、同書で読んだ覚えのあるものも多い。

ピンカーの本は音声言語の枠を超えないで洞察されているけれど(この本を書いた頃のピンカーはチョムスキー理論にかなり肩入れしていたと思う)、本書が最初にとりあげているのは、「『は』にてんてんをつけたら何ていう」のように、音声と文字システムのギャップをとらえている。

有声音―無声音の対応関係は、「ぱ」と「ば」。古い日本語では「は」は「ぱ」に近い「ふぁ」音。古い表記では濁点は記されないからかな文字上では音の変遷は追えないけれど、日葡辞書のローマ字綴りには反映している。これも外国人に教えられるということの一つかもしれない。


言語の研究といえば音声言語をベースに考えるのが正統なのかもしれないけれど、だからといって文字システムを否定、あるいは無視するのでなく、本書のように、音声言語と文字システムとの乖離を観察することで、かえって(音声)言語の習得過程の秘密を垣間見ることができるということかもしれない。

音声言語習得という事象に、文字習得というバイアスをかけることで、見えなかったものが見える――文字システムが試薬の役割りをしているといったら言い過ぎか――ということかもしれない。
つまり、文字システムとの乖離が子供を混乱させる要因になっていること、そしてその混乱がなぜ起こるのか考えるわけだ。
(そもそも、子供は、音声言語でも、文字でも、そこにシステム構造を無意識に嗅ぎ取るのだろう。)

文字システムから書き起こしているからまずそれについて評したけれど、その後は、やはり音声言語が中心になっている。
「過剰適用」や「適用拡張」といったピンカー本で指摘されている英語での事例も、日本人の子供であらためて確認されているわけだ。

本書では深入りは避けているようだけれど、ピンカーが大胆に「本能」と表現し、言語を生み出す「遺伝子」を想定したように、それは人類に共通だという証拠とも言える。


また、本書では、言語の隠れた法則を気づかせてくれるのは、子供や外国人だと指摘している。
これも、音声言語のシステムと文字システムの乖離から言語の秘密が垣間見えるのと同様、母国語システムと日本語システムの乖離から、それぞれの言語の秘密が垣間見えるということだろう。

子供の「間違い」には、言葉に関するものに限らず、思わず笑ってしまうようなものがたくさんある。そして、それがかえって微笑ましく、ネットにもいろいろな事例報告がなされる。
本書の著者も、そうしたネット情報もいろいろ参照して、事例収集をしているようだ。

小学校のとき、国語のテストで「右手の反対はなんですか?」という問に「左足」と答えて×をもらった覚えがある。そのときは、なぜ×なのか理不尽だと思ったのだが、今では、そのとき先生はきっと噴き出していただろうなぁと思いだす。


書評はやけに堅苦しい書き方をしたけれど、おもしろおかしく読める本である。
そうそう、イラスト(いずもり・よう)も楽しく、秀逸。
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まえがき
第1章 字を知らないからわかること
 「は」にテンテンつけたら何ていう?
テンテンの正体
「は」と「ば」の関係は普通じゃない
子どもはテンテンの正体を知っている
「は」行は昔「ぱ」行だった
字をマスターする前だから気づく
子どもと外国人に教わる日本語の秘密
数があわない
納得できない「ぢ」と「じ」
第2章 「みんな」は何文字?
日本語のリズム
日本語の数え方は少数派
子どもなりの区切り方
じつはかなり難しい「っ」
「かににさされてちががでた」
必殺!「とうも殺し」
第3章 「これ食べたら死む?」
        ――子どもは一般化の名人
「死む」「死まない」「死めば」―死の活用形!
規則を過剰にあてはめてしまう
「死にさせるの」
おおざっぱすぎる規則でも、まずはどんどん使ってみる
「これでマンガが読められる」
日本の子どもだけが規則好きなのではない
手持ちの規則でなんとか表現してしまおう
普通に大人をお手本にすればいいのに?
第4章 ジブンデ! ミツケル!
教えようとしても覚えません
教えてないことは覚えるのになあ!
ジブンデ! ミツケル!
「か」と「と」の使い方は難しい
結局、何が手がかりになっているのか
第5章 ことばの意味をつきとめる
はずかしいはなし
「ワンワン」とは?
「おでん」とは?
「坊主」とは?
どうやって意味の範囲を最初に決めるのか
どうやって意味を修正するか
モノの名前でなく動詞の場合は?
そもそも、どこからどこまでが単語?
ことばの旅はおわっていない
第6章 子どもには通用しないのだ
ぶぶ漬け伝説
子どもに通じるか
ことばにしていないことがどうして伝わるのか
500円持っているときに「ボク100円持っているよ」は正しいか
子どもも大人のような解釈ができるか
相手の心をよむチカラ
周りの状況をよむチカラ
第7章 ことばについて考える力
ことばを客観的に見る
音で遊ぶ――しりとり
意味で遊ぶ――「踏んでないよ」
構文で遊ぶ――「タヌキが猟師を鉄砲で」
解釈で遊ぶ――「大坂城を建てたのは誰?」
音で遊ぶ(その2)――「がっきゅう○んこ」
ことばの旅路をあたたかく見守ろう
あとがき
もっと知りたい人へのおすすめ書籍
        参考文献・引用文献
カバー・本文イラスト=いずもり・よう
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「多数決を疑う」をもう一度

以前、「多数決を疑う」をとりあげたけれど、
その著者坂井豊貴氏は、「大人のための社会科―未来を語るために」でも3つの章を担当されている。
「GDP」、「多数決」、「公正」の3つの章である。

著者は、このそれぞれについて、アタリマエとして受け入れている、無批判に、あまり深く考えることなく使われることもあるこれらの言葉について、それぞれが持つ数学的挙動を考察している。
数学的遊びという評価をする人もいるだろうけれど、そういう人こそ、頭ごなしに、多数決は正しいと言い切るに違いない。

senkou_joukyou.jpg さて、前の記事でも説明を入れたけれど、「大人のための社会科」では、多数決というものを単純に信奉して良いかに疑問をなげかけるシンプルな例が紹介されていた。

一つは、単純多数決、決選投票(上位選択肢2を残して再投票)、ボルダルール(1,2,3位にそれぞれ3点、2点、1点を与える)の3種類の決定方法で、結果がすべて異なるという例。

これは前の記事でも書いたとおりだけれど、こっちのほうが「ペア比較」を省いて簡素化されているので、わかりやすい。


Ostrogolsky_paradox.jpg もう一つの例は、「オストロゴルスキーの逆理」というもので、複数の政策課題があって、人によってそれへの賛否の組合せが違うとき、一つ一つの政策の賛否と、全体としての賛否が逆になるというもの。

サンプル図は、5つの政党が3つの政策課題に対しそれぞれ賛否を表明している状況と考える。上3つの政党の政策がいずれも支持されていて、他の2党の反対意見はいれられない。結果、3つの課題のいずれも支持された形になっている。
ところが、一つ一つの政策課題に対して各政党ごとの賛否を調べると、どの課題についても支持されていない。


もう一つ、公平とは何かについておもしろい例が紹介されている。
初期ユダヤ教の口伝律法を書きとどめるという「バビロニア・タルムード」に書かれている、具体的な「公正」の計算方法が紹介されていた。
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2人の男が12単位の布の所有権であらそっている。一方(A)は12単位すべてが自分のものと主張し、もう一方(B)は6単位は自分のものだと主張している。さて、A,Bどちらの主張も正当性を立証できないとき、A,Bの取り分をどのようにするべきか。

という問題で、バビロニア・タルムードは、所有権を争っているのは6単位だけだから、これをA,Bで折半するのが正しいとしているのだそうだ。
これに対し、12を主張する人と、6を主張する人なのだから、その割合で分割すれば良いと考える人もいるだろうということだ。

もし、A,Bの主張の正当性評価が同等であるなら、私もバビロニア・タルムードのやりかたが自然だと思う。


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「大人のための社会科」

井手英策,宇野重規,坂井豊貴,松沢裕作「大人のための社会科―未来を語るために」について。

Otona_no_tameno_shakaika.jpg タイトルからは教科書みたいな印象を受けるけれど、実はその逆、つまり、お仕着せの社会科ではなくて、4人の気鋭の研究者による、現代社会を生きる人に、考えることの大事さを訴える本。

「序」に、「反知性主義へのささやかな抵抗」という副題が付いている。
読み進めれば、反知性主義的な事象を論駁しようとしている例が随所に出てくる。
そうなんだと納得する一方、「ささやかな抵抗」というのは、弱小な勢力にすぎないことを自覚しているということかもしれない。この人たちのような考え方を素直に受け入れない、あるいは難しいと思考停止する人は多いだろう。

また、『あえて「上から目線」で教科書を書く』としているのは「ささやかな抵抗」。
冒頭、お仕着せの教科書とは逆の本だと感想を書いたが、著者は上から目線の教科書と表現した。
よほど反知性主義に怒りをもっているのだろう、反知性主義と見える人に対しては、ちゃんと教導しなければならない、そのための教科書だという意識かもしれない。

研究者、専門家は、反知性主義者からは嫌われる側に身を置いていて、反知性主義あるいはポピュリズムの操作対象である大衆からは遊離し、何を難しいことをごちゃごちゃ言ってるんだと非難(あるいは無視)されることを承知しているということだ。

だから、本書を読んで、狙い通り、考える人が増えれば、著者たちへの尊敬も復活することになるだろう。

序 社会をほどき,結びなおすために(井出)
―反知性主義へのささやかな抵抗
 
 第1部 歴史のなかの「いま」
第1章 GDP(坂井)
―「社会のよさ」とは何だろうか
第2章 勤労(井手)
―生きづらさを加速させる自己責任の社会
第3章 時代(松沢)
―時代を分けることと捉えること
 
 第2部 〈私たち〉のゆらぎ
第4章 多数決(坂井)
―私たちのことを私たちで決める
第5章 運動(松沢)
―異議申し立てと正統性
第6章 私(宇野)
―自分の声が社会に届かない
 
 第3部 社会を支えるもの
第7章 公正(坂井)
―等しく扱われること
第8章 信頼(宇野)
―社会を支えるベースライン
第9章 ニーズ(井手)
―税を「取られるもの」から
  「みんなのたくわえ」に変える
 
 第4部 未来を語るために
第10章 歴史認識(松沢)
―過去をひらき未来につなぐ
第11章 公(井手)
―「生活の場」「生産の場」「保障の場」を作りかえる
第12章 希望(宇野)
―「まだ―ない」ものの力
という本なのだけれど、やはり教科書ではない。というのは、目次を見てわかるように、教科書のような、体系性・網羅性はない。
本書の構成は、思慮不足の人たちが無批判に繰り返す言葉に目を付けて、その言葉の本当の意味とか、それにまつわる社会事象の深さや拡がりというものを暴き立てる。。

各章は分担執筆のようだから、読み進むと、それぞれう~んとうならされるけれど、前後の関係はあまり見えない。反知性主義に体系があるわけではないだろうから、それにお付き合いして、反反知性主義を主張しても、組み立てが体系的にはならないということかもしれない。

ただ、執筆者が分担している章を並べて見れば、同一執筆者が持つ問題意識というか思考パターンは浮かび上がってくる。

たとえば、前に「多数決を疑う」をとりあげたけれど、坂井豊貴氏は、「GDP」、「多数決」、「公正」の3つの章を担当されている。このそれぞれには、アタリマエとして受け入れていることについて、それぞれが持つ数学的挙動を踏まえて、単純にこの言葉に代表させてよいものか、概念を使うときには、その定義・意味にも注意を向ける必要があると示される。

なるほどこれは反ポピュリズムと言って良い。言葉を表層理解と「勢い」にとどめ、アジテーションに用いるポピュリストからしてみれば、深く考えられては困るだろう。


「歴史認識」の章では、タイトルからすれば、日韓や日中の問題がとりあげられると予測できる。実際、慰安婦問題がとりあげられるのだけれど、その前に、歴史認識とはどういうことなのか、それが整理されて語られる。アタリマエのことだと思うけれど、出来事レベルと、解釈レベルがある。

ポピュリズムとフェイクは親戚関係である。著者は、せめて出来事レベルだけでもきちんとしよう、フェイクに惑わされないようにしようと考えているようだ。

そして、その基礎となるアーカイブが日本では発達していなかったことを指摘する。
慰安婦問題でも重要史料(上海領事館が、慰安婦募集について、警察に協力を求めた依頼文書が残っている)も、公的な記録としてではなかった。

そういえば、森友、加計問題でも文書はあっというまに廃棄されていたという。本当だとしたら、ヤバい資料だから急いで廃棄したのだろうか。


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気に入らないデザイン

P_20170810_151638_vHDR_Auto.jpg 昨日の記事は「お茶の科学」、それで思い出したことがある。
以前、喫茶店で、ケーキと紅茶のセットを頼んだときのこと。ちょっと洒落た店であれば当然だけれど、紅茶はポットで出てくる。

このポットのデザインが気に入らない。

見た感じ、ごく普通のものなのだけれど、いざカップに紅茶を注ごうとすると、蓋がとても熱くなっている。本体の取っ手を持って、おそるおそる注いだわけだけれど、普通、お茶を注ぐときって、蓋が落っこちたりしないように手を添えるんものじゃないだろうか。
蓋にツマミが付いていれば、そこは少しは温度が低くて、手をあてられるだろうと思う。

もっと低い温度で淹れる日本茶の急須でもツマミは付いているのが普通だろう。
ちなみに、日本茶用の湯飲みには取っ手はついていない。高温で茶を入れると磁器製のものは熱くなる(我が家の普段使いは砥部焼なので結構熱い)。日本茶をそんな高温で淹れるなと言われそうだけど。


さて、このポットに戻る。
これを製作した人、そしてこれを店で使おうと選択した人は、どう考えてたんだろう。

「デザイン性がある(ない)」とか、「デザインを重視」というような言葉がある。
私が大嫌いな言葉である。言葉自体がではなく、その使い方である。

見てくれを否定するわけではない。 「人は見た目が○割」というように、見てくれというのは大事だと思う。「整った顔・体つき」というのは、その個体は健康で欠陥がないというシグナルであるという話もある。


デザイン性云々という言葉は、絵画や彫刻などの芸術作品には使われない。
普通は実用品に使われる言葉だ。
機能性を離れてのデザイン性なんて、商品として失格だと思う。
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本来の機能を無視して、人を驚かせることで成り立つ商品もあるが、それは既に目的を異にしている。


私が考える良いデザインとは、機能性を高めるものだ。
機能性を高める、あるいは維持した上でなら、見た目を競うのも良いと思う。

私は無意味な装飾は嫌う方で、問題のポットはそうした装飾がないところは好印象なのだけれど、逆に必要なものが欠けているというわけだ。


以前、新国立競技場のことで、観客のスタンドの傾斜が緩くて、観戦しにくいのではないかという記事を見た。
前の席に座っている人が邪魔になるのではというわけである。
これなども、私流にいえば、悪いデザインである。

誰のためのデザイン?

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「お茶の科学」

大森正司「お茶の科学―『色・香り・味』を生み出す茶葉のひみつ」について。

Ocha_no_kagaku_Omori.jpg ブルーバックスの1冊。
ブルーバックスには「コーヒーの科学」(旦部幸博)という本もある。こちらはいわば姉妹編(お茶が後だからさしずめ妹か)ということになるか。

中学生のとき、紅茶に凝ったことがある。
ダージリンとか、アッサム、オレンジペコとかイングリッシュ・ブレックファストといった種類のリーフティーを集め、自分専用のポットを使って紅茶を入れていた。
もちろん、お湯は沸かしたてを使い、カップは前もって温めておくのは当然である。

紅茶のブランド物などは田舎では手に入りにくい。比較的高級なもので、当時どこでも手にはいるものといえば、トワイニングぐらいだったと思う。今だとトワイニングのダージリンだと、今の価格で1,000円/100gぐらいじゃないだろうか。
この頃は、マリアージュ・フレールとか、ルピシアとか、高級紅茶の店が増えた。これらだともちろん種類によるけれど、2,000~3,000円/100gというところだろうか。ダージリン・セカンド・フラッシュとかこだわるとさらに高価になる。

もっとも、普段飲むなら、リプトンのイエロー・ティーバッグがなんといっても気を使わず、扱いやすくて、それなりに紅茶の味わいがある。(これ以下だと、香りも味もなく、色だけ着く。)

リプトンのイエロー・ティーバッグは、浸出時間が長すぎると色は濃く、味は苦くなるのに、1つで2杯出そうとすると、2杯目はやたら気の抜けたものになる。1杯だけではもったいない気がするのに、2杯にすると情けなくなる。2杯分ぐらいの大きなカップにたっぷり入れるのが良いのかな。(お茶を出す、お茶を入れる、同じなのに逆の言葉だなぁ)
なお、本書によると、正しい入れ方は、まずお湯をカップに入れ、ティーバッグをその中に浸して1分間ほどそのままにするというもの。もちろん2杯出そうなどという貧乏根性はダメである。


それに、ティーバッグを馬鹿にしてはいけない。
ティーバッグの場合は、リーフグレードで、D(ダスト)とか、F(ファニングス)、BOPF(ブロークン・オレンジペコー・ファニングス)という、細かい葉が使われるが、茶葉の品質として悪いわけではないという。

等級の高い煙草の切れ端で作るシートタバコが、低等級の通常刻み葉のタバコより味わいがあるのと同様ではないだろうか。


第1章 お茶の「基本」をおさえる
~どんなお茶も、すべて同じ「チャ」だった
第2章 お茶はどこからきたのか?
~チャと茶のルーツを巡る旅
第3章 茶葉がお茶になるまで
~色や風味はいつどうやって作られるのか
第4章 お茶の色・香り・味の科学
~おいしさは何で決まる?
第5章 お茶の「おいしい淹れ方」を科学する
~煎茶を“玉露” にする方法
第6章 お茶と健康
~なぜお茶は身体にいいのか
第7章 進化するお茶
~味も楽しみ方も変える技術
本書では、緑茶やウーロン茶、さらには後発酵茶もとりあげられている。
ウーロン茶などについてはわからないけれど、緑茶は、紅茶よりもずっと繊細である。昔から、田舎の茶舗でも、かなり高いものが売られていて、そういうお茶は、葉がピンと細く巻いて、その抽出前の葉の上品さは、紅茶の比ではない。そして、トワイニングのダージリンの数倍の値がついていたように記憶する。

緑茶、つまり日本茶といえば茶道、煎茶道というわけで、子供が自分の小遣いでできるようなものではない。それらは「修行」みたいなものだから、趣味というには違うような気がする。
結局、紅茶の方が無難で近づきやすい趣味なのである。(日本の伝統というのは、どうして、こう重々しくて高くつくんだろう。)

さて、昔から、紅茶といえば、ミルクかレモンかという論争があるけれど(本書でも書かれているが、種類によっても向き不向きがあるらしい)、私は基本はストレートである。

そういえば、ミルク・ティーは、紅茶にミルクを注ぐのか、ミルクに紅茶を注ぐのかという論争もあった。


この頃はミルクかレモンかで論争になるどころか、フレーバー・ティーというのが流行っている。
紅茶の有名店というところへ行くと、ダージリン・セカンド・フラッシュなんてものも置いてたりするのだが、フレーバー・ティーが広い場所を占めている。当然、ストレートのリーフティーよりバリエーションが豊富だからそういうことになるのだろう。

私はフレーバー・ティーというのは、あんまり好きじゃなくて、出されたら飲むとしても、喫茶店でそうしたものを注文したり、そうした種類の紅茶を買うことはない。

フレーバーということではないが、以前はブランデーを滴らしたりしたこともあったが、この頃はブランデー自体が我が家には常備されていない。


そう思っていたところ、本書で著者が一言。
ところが、最近ではこうした紅茶本来の味を知らない人も少なくありません。「紅茶が好き」いって毎日飲んでいる人でも、話を聞いてみると、口にしているのはフレーバーティーである人が意外に多いのです。
    <中略>
 「どんな紅茶が好きですか?」と訊いたとき、瞬時に「アールグレイ」とか「ローズティー」などと答える客人には、筆者は笑顔で、次回からは出がらしの紅茶を煮出して差し上げることにしています。
 フレーバーティーしか馴染みがない人に、紅茶本来の渋みや香り、重厚さを味わえるリーフティーを淹れて差し上げると、「これが本当の紅茶の味なんですか!?」とたいてい驚かれます。
フレーバー・ティーをお洒落だと思って飲んでいる人が聴いたら、何と思うだろう。
筆写はフレーバー・ティーを馬鹿にしているわけではないだろう。ただ、そうした装飾をほどこさない、ストレートなお茶の味わいというものを知ってもらいたいということだと思う。その上で、お茶に自分の好みの香りづけを楽しむ、それはそれで好き好きだろう。

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定例の病院付き添い

昨日は、3ヶ月毎の家人の経過観察の日。

数年間はこのペースで診察を受ける予定。
今までの経過観察中に、再発(即処置)が一回あった。当初は、2年に1回ぐらいは再発するのかもしれない。これがだんだん間遠くなって、経過観察も半年後、1年後とかになればありがたい。

この日の検査は、午前中と午後に分かれている。
午前の検査は、エコーと、検体の提出。

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11:40受付で、順調に12:10に終了。

午後の検査は13:30開始ということなので、しばらく時間がある。
それに被検者は、午前の検査終了まで絶食だったので、この間に食事をとることにした。

病院内には、簡単な食事のできるカフェと、コンビニがあるけれど、ずっと病院内に居るのも気鬱なので、外で食べることにした。

病院の向かいにある喫茶室。
店内の様子と、食べたもの(ホットサンドセット)の写真を掲載。

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午後は、いつもと同様の検査。
13:30の予約だけれど、はじまったのは14:40。
前に受診した人の様子をうかがっていると、手術の打ち合わせをしている人、さらなる検査の相談をしている人など、重篤そうな患者が多いようだった。そのせいだろうか、それぞれ診察時間が長かったのかもしれない。

普通は、2年経てば、経過観察は3ヵ月ごとから、半年ごとに間隔があくのだけれど、前々回の検査のときに再発が認められたので、これでリセットがかかり、引き続き3ヵ月ごとの経過観察である。

さて、検査の結果は、特別な所見はなし。
一病息災ということで納得しておこう。
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スーパーブルーブラッドムーン with cloud

昨夜は皆既月食
それも、スーパーブルーブラッドムーンというそうだ。

月が地球に接近した際に見える月は
「スーパームーン」。
1カ月に2回、満月になる現象は
「ブルームーン」。
さらに皆既月食で、月の表面が赤っぽく見えることから
「ブラッドムーン」。

地球上でこの現象がみられるのは、35年ぶりだとか。

で、朝から天気予報をチェックしていたが、曇の予報である。

夜7時頃は、薄い雲がかかっていて、この雲が厚くなるのか、それとも薄くなるのか。半分あきらめながら、その時間を待つ。

そして、食が始まる時間、雲はかなり薄くなったようで、写真も撮ることができた。

CANON Power Shot SX30 IS。
最大望遠(35mm換算で840mm相当)にして、手持ち撮影(以下同様)


ベタな天文ファンというわけでも、写真に凝っているわけでもないから、だいたい15分おきぐらいに撮影することにして、少し食が進んだ状態、半分ぐらい欠けた状態までは、まず順調に写真を撮ることができた。

しかし、食が始まって約45分後、また雲が濃くなって、朧月に。

そして、皆既になった頃には、ほとんど見えなくなった。
それでも、しばらくして、少し薄くなったか、肉眼では赤い月がかろうじて見えた。写真を撮ることは撮ったけれど、やはりぼやっとした像にしかならなかった。

空模様を見る限り、もう雲が晴れる、あるいはもっと薄くなることは期待できそうにない。
結局、皆既が終了する23:08頃もほとんど見えない状態。

その後、皆既が終了し、日の当たる状態になって、月が光っていることはわかるようになったが、雲が厚くて、欠けていると見える状態ではなく、全体にぼやっとした光るものがあるといった見え方。
しかたがないので、ここで観察は終了。

まじめに観察するなら、ちゃんと望遠鏡をセットしなければならないだろう。


私などは、こういう天体ショーのときだけのファンだからいいけれど、これを楽しみに、ずっと準備してきた人たちにとっては、何も今夜に曇らなくても、だいたい午前中は晴れてたじゃないか、と恨み言を、どこにもぶつけようのない恨み言を言っていることだろう。

今回は、月食を見られる範囲はかなり広く、アメリカでも見えるとのこと。
あちこちでライブ中継もしているようだし、日本でも北海道の北見あたりは良く見えたと報道されていた。東京も関西よりは良く見えていたようだ。

そういう画像を暖かい部屋でゆっくり見ることにしよう。

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gesshoku2018_position-s.jpg

国立天文台の皆既月食案内ページから


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六二郎。六二郎。

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