「世界史を大きく動かした植物」(その4)

81aCBR0WRgL.jpg サッカーやコロナワクチンの記事を優先して遅くなったが
稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」の4回目。

■タマネギ
タマネギが現存する最古の栽培植物の一つだという。原産地は中央アジアらしく、早くから中東や地中海周辺地域にも広がった。

アテネのペリクレスは、頭が長く、そのため当時ギリシアで栽培されていた縦長のタマネギになぞらえてタマネギ野郎と言われたそうだ。
日本ではタマネギ頭と言えば、丸っこいものを言うと思う。「たまねぎたまちゃん」である。


だけれど、日本に入ってきたのは結構遅いそうだ。
 日本にタマネギが伝えられたのは江戸時代のことである。 防腐効果があり、保存が利くタマネギは、長い航海の食料として適していた。そのため、長い航海に出掛ける船はタマネギを積んでいたのである。
 こうしてタマネギは日本にやってきたオランダ船から長崎へ伝えられたが、ネギ類が豊富に栽培されていた日
本では、タマネギは食用としては普及しなかった。その代わり、ネギに比べると花が美しいため、観賞用の植物として栽培されたのである。
 タマネギが本格的に栽培されるようになったのは、明治時代になってさまざまな西洋野菜が導入されるようになってからである。しかし、試作に成功した後も、「ラッキョウのおばけ」と噂され、なかなか日本人のあいだに普及しなかったという。  ところが、である。明治時代に関西でコレラが流行すると、どこからともなく「タマネギがコレラに効くらしい」という噂が広まった。そして日本中に一気に広まっていったのである。
 もちろん、迷信だったが、こうして日本の食卓にもタマネギが登場するようになったのである。

タマネギは保存が利くというのは、私も体感する。もらったタマネギを随分長い間放置していたが、腐るどころか芽を出してきた。

そのまま庭に植えようかとも考えた。結局はそうせず捨てたけど。

またタマネギの球の部分は鱗茎といって根ではないと小学校でも習った憶えがあるが、茎の字が使われているが、実は茎でもなくて葉っぱなのだそうだ(茎は中央下のちょこっとした部分だけだそうだ)。
言われてみればなるほど、あれが茎とは思えない、やはり葉っぱっぽいな。
はじめに
 
第1章 コムギ
    ―一粒の種から文明が生まれた
あるとき、私たちの祖先は、人類の歴史でもっとも「偉大な」発見をした。
突然変異を起こした「ヒトツブコムギ」 との出合いにより、 私たちは狩猟生活を捨てて農耕を選択する。
木と草はどちらが進化形? /双子葉植物と単子葉植物の違い /イネ科植物の登場 /イネ科植物のさらなる工夫 /動物の生き残り戦略 /そして人類が生まれた /農業は重労働 /それは牧畜から始まった /穀物が炭水化物をもつ理由 /そして富が生まれた /後戻りできない道
 
第2章 イネ
    ―稲作文化が「日本」を作った
戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
稲作以前の食べ物 /呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!? /イネを受け入れなかった東日本 /農業の拡大 /イネを選んだ日本人 /コメは栄養価に優れている /稲作に適した日本列島 /田んぼを作る /田んぼの歴史 /どうしてコメが大切なのか /江戸時代の新田開発 /コメが貨幣になった理由 /なぜ日本は人口密度が高いのか
 
第3章 コショウ
    ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であったが、肉は腐りやすいので保存できない。
/香辛料は、「いつでも美味しい肉を食べる」という贅沢な食生活を実現する魔法の薬だった。
金と同じ価値を持つ植物 /コショウを求めて /世界を二分した二つの国 /大国の凋落 /オランダの貿易支配 /熱帯に香辛料が多い理由 /日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ
    ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
コロンブスは、アメリカ大陸で発見したトウガラシを「ペッパー(コショウ)」と呼ぶのである。
しかし、彼は本当にコショウの味を知らなかったのだろうか。 これには彼の苦悩が隠されている。
コロンブスの苦悩 /アメリカ大陸の発見 /アジアに広まったトウガラシ /植物の魅惑の成分 /トウガラシの魔力 /コショウに置き換わったトウガラシ /不思議な赤い実 /日本にやってきたトウガラシ /キムチとトウガラシ /アジアからヨーロッパへ
 
第5章 ジャガイモ
    ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
アイルランドでは突如としてジャガイモの疫病が大流行。
大飢饉によって食糧を失った人々は、故郷を捨てて新天地のアメリカを目指す。 移住したアイルランド人の子孫の中から成功者が輩出する。
マリー・アントワネットが愛した花 /見たこともない作物 /「悪魔の植物」 /ジャガイモを広めろ /ドイツを支えたジャガイモ /ジャーマンポテトの登場 /ルイー六世の策略 /バラと散った王妃 /肉食の始まり /大航海時代の必需品 /日本のジャガイモがやってきた /各地に残る在来のジャガイモ /アイルランドの悲劇 /故郷を捨てた人々とアメリカ /カレーライスの誕生 /日本海軍の悩み
 
第6章 トマト
    ―世界の食を変えた赤すぎる果実
世界で四番目に多く栽培されている作物がトマトである。
アメリカ大陸由来の果実が、 ヨーロッパを経てアジアに紹介されてわずか数百年の間に、トマトは世界中の食文化を変えていった。
ジャガイモとトマトの運命 /有毒植物として扱われたトマト /赤すぎたトマト /ナポリタンの誕生 /里帰りしたトマト /世界で生産されるトマト /トマトは野菜か、果物か
 
第7章 ワタ
    ―「羊が生えた植物」と産業革命
十八世紀後半のイギリスで、安価な綿織物を求める社会に革新的な出来事が起こる。
蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大量生産が可能になった。
これが「産業革命」である。
人類最初の衣服 /草原地帯と動物の毛皮 /「羊が生えた植物」 /産業革命をもたらしたワタ /奴隷制度の始まり /奴隷解放宣言の真実 /そして湖が消えた /ワタがもたらした日本の自動車産業 /地場産業を作ったワタ
 
第8章 チャ
    ―アヘン戦争とカフェインの魔力
神秘の飲み物=紅茶を人々が愛すれば愛するほど、チャを清国から購入しなければならない。
大量の銀が流出していくなか、イギリスはアヘンを清国に売りつけることを画策する。
不老不死の薬 /独特の進化を遂げた抹茶 /ご婦人たちのセレモニー /産業革命を支えたチャ /独立戦争はチャが引き金となった /そして、アヘン戦争が起こった /日本にも変化がもたらされる /インドの紅茶の誕生 /カフェインの魔力
 
第9章 サトウキビ
    ―人類を惑わした甘美なる味
手間のかかる栽培のために必要な労力として、ヨーロッパ諸国は植民地の人々に目をつける。
そして、アフリカから新大陸に向かう船にサトウキビ栽培のための奴隷を積むのである。
人間は甘いものが好き /砂糖を生産する植物 /奴隷を必要とした農業 /砂糖のない幸せ /サトウキビに侵略された島 /アメリカ大陸と暗黒の歴史 /それは一杯の紅茶から始まった /そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第10章 ダイズ
    ─戦国時代の軍事食から新大陸へ
中国原産のダイズから生まれた味噌は、徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展を遂げていく。
ダイズは「醤油の豆」 /中国四千年の文明を支えた植物 /雑草から作られた作物 /「畑の肉」と呼ばれる理由 /コメとダイズは名コンビ /戦争が作り上げた食品 /家康が愛した赤味噌 /武田信玄が育てた信州味噌 /伊達政宗と仙台味噌 /ペリーが持ち帰ったダイズ /「裏庭の作物」
 
第11章 タマネギ
    ―巨大ピラミッドを支えた薬効
古代エジプトで重要な作物であったタマネギの原産地は、中央アジアである。
乾燥地帯に起源をもつタマネギは、害虫や病原菌から身を守るために、さまざまな物質を身につけた。
古代エジプトのタマネギ /エジプトに運ばれる /球根の正体 /日本にやってきたタマネギ
 
第12章 チューリップ
    ―世界初のバブル経済と球
オランダは東インド会社を設立し、海洋交易で資産を蓄えており、オランダ黄金時代の幕開けの時期だった。
そして、人々は余っていた金で球根を競って買い求めたのである。
勘違いで名付けられた /春を彩る花 /バブルの始まり /そして、それは壊れた
 
第13章 トウモロコシ
    ―世界を席巻する驚異の農作物
トウモロコシは単なる食糧ではない。
工業用アルコールやダンボールなどの資材、石油に代替されるバイオエタノールをはじめ、現代はトウモロコシなしには成立しない。
「宇宙からやってきた植物」 /マヤの伝説の作物 /ヨーロッパでは広まらず /「もろこし」と「とうきび」 /信長が愛した花 /最も多く作られている農作物 /広がり続ける用途 /トウモロコシが作る世界
 
第14章 サクラ
    ─ヤマザクラと日本人の精神
ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
日本人は、けっして散る桜に魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
日本人が愛する花 /ウメが愛された時代 /武士の美学 /豊臣秀吉の花見 /サクラが作った江戸の町 /八代将軍吉宗のサクラ /ソメイヨシノの誕生 /散り際の美しいソメイヨシノ /桜吹雪の真実
 
おわりに



■チューリップ
本書で12番目にとりあげられているが、私には「世界史を大きく動かした」という評価は言い過ぎのように思える。だって食べられないし、ワタのように何かの原材料になるということもない、ほとんど観賞用でしかない。(食用の品種もあるらしいが)
なるほどオランダのチューリップバブルは世界史に刻まれているとは思う。
 どんなに富の象徴といっても、所詮は花の球根である。どこまでも価格が上がり続けるということはありえない。球根のあまりの高値に、多くの人々は球根が買えなくなってしまった。そして、ついにバブルが弾けるのである。
 人々が狂乱から醒めた後は、球根の価格は大暴落し、多くの人々は財産を失った。そして、多くの投資家たちは破産してしまうのである。
 この歴史的な出来事はチューリップ・バブルと呼ばれており、世界で最初のバブル経済であると言われている。
 歴史を紐解くと、人々が熱狂するバブルは何度も繰り返され、そのたびに虚しく弾けていった。人間というのは本当に何度も同じ過ちを犯す生き物である。チューリップ・バブルの時代から何も変わっていないし、何も学んでいないのである。
 こうして黄金時代を謳歌していたオランダの人々は富を失い、オランダの経済は大打撃を受けた。
 そして世界の金融の中心地はオランダからイギリスへと移っていき、やがてイギリスが世界一の大国になっていくのである。
 植物であるチューリップの球根が、世界の歴史の主役の座を変えてしまったのである。

チューリップバブルはこのように語られるのだけれど、近年、その真実がこれとは違うらしいという説が出ている。その説では、オランダ国民みんなを巻き込むような狂熱ではなくて、こうした投機的取引を行っていたのは裕福な商人が中心で(貧乏人は参加したくてもできなかったろうが)、貴族は参加していなかったという。チューリップ・バブル(Wikipedia)
チューリップは花が大きく鮮やかで、葉っぱはシンプル。子供に花の絵を描かせたら、たぶん多くの子供がチューリップの絵を描くのではないだろうか。
その意味では重要な植物かもしれない。



■トウモロコシ
「チコちゃんに叱られる」でトウモロコシのヒゲをとりあげて、ヒゲ一本一本が実の一粒一粒につながっていると説明していた。別に驚くようなことではない。驚きはヒゲと実(種)を広げて、実際にヒゲの数と種の数を数えるというテレビならではの絵、よくやるなぁ。

 トウモロコシは宇宙からやってきた植物であるという都市伝説がある。
  :
 なにしろトウモロコシには明確な祖先種である野生植物がない。たとえば私たちが食べるイネには、祖先となった野生のイネがある。また、コムギは直接の祖先があったわけではないが、コムギの元となったとされるタルホコムギやエンマコムギという植物が明らかになっている。ところがトウモロコシは、どのようにして生まれたのか、まったく謎に満ちているのである。
 トウモロコシは中米原産の作物である。祖先種なのではないかと考えられている植物には、テオシントと呼ばれる植物がある。しかし、テオシントの見た目はトウモロコシとは異なる。さらに、仮にテオシントが起源種であったとしても、テオシントにも近縁の植物はないのだ。
 トウモロコシはイネ科の植物と言われるが、ずいぶんと変わっている。
 一般的に植物は、一つの花の中に雄しべと雌しべがある。イネやコムギなどイネ科の多くは、一つの花の中に雄しべと雌しべがある両性花である。ところが、トウモロコシは茎の先端に雄花が咲く。そして、茎の中ほどに雌花ができる。雌花もずいぶんと変わっていて、絹糸という長い糸を大量に伸ばしている。この絹糸で花粉をキャッチしようとしているのである。
 この雌花の部分が、私たちが食べるトウモロコシになる部分である。私たちがトウモロコシを食べるときに皮を剥いて食べる。皮を剥くと中から黄色いトウモロコシの粒が現れる。このトウモロコシの粒は、種子である。
 当たり前のように思えるが、考えてみるとこれも不思議である。
 植物は種子を散布するために、さまざまな工夫を凝らしている。たとえばタンポポは綿毛で種子を飛ばすし、オナミモは人の衣服に種子をくっつける。ところが、トウモロコシは散布しなければならない種子を皮で包んでいるのだ。皮に包まれていては種子を落とすことはできない。さらには皮を巻いて黄色い粒をむき出しにしておいても、種子は落ちることがない。種子を落とすことができなければ、植物は子孫を残すことができない。つまり、トウモロコシは人間の助けなしには育つことができないのだ。まるで家畜のような植物だ。
 初めから作物として食べられるために作られたかのような植物―それがトウモロコシである。そのため、宇宙人が古代人の食料としてトウモロコシを授けたのではないかと噂されているのである。
 トウモロコシが宇宙から来た植物かどうかは定かではないが、植物学者たちはこの得体の知れない植物であるトウモロコシを「怪物」と呼んでいる。

以前、何かの本に書かれていたことだが、もし宇宙人が地球人は何でできているか調べたら、トウモロコシでできていると結論するだろうという。直接口にしなくても、動物の飼料になっているし、バイオエタノールをはじめ多くの工業原料としても使われているからだという。

自慢話だが、前に職場の仲間との雑談で、ポップコーンってどうやって膨らませるのかという話題が出たとき、すかさず、爆裂種という品種だよと教えてやったら、しばらくの間爆裂種の六二郎さんと呼ばれていたことがある。



■サクラ
最後にとりあげられているのはなぜかサクラ。
本書の書名は「世界史を大きく動かした植物」で「農作物」ではないから、サクラが入ってもおかしくはないのだけれど、「世界史を大きく動かした」かというと、日本国内での話で世界史というのはちょっと大袈裟ではないかと思う。

著者が指摘するのは、水田の脇にサクラが植えられていることが多いということ。このサクラが咲いて、農民がそのまわりに集い、そしてサクラから力を得る、そのためのサクラという。

今ではサクラを代表するのはソメイヨシノだけれど、これは周知のとおり、江戸時代に創り出された品種である。本書の指摘で意外だったのは、このサクラ(名前はまだない)がソメイヨシノと呼ばれるようになったのは、吉野のヤマザクラとは系統的には無関係であるにもかかわらず、園芸業者がサクラのブランドとして最も有名だった吉野にあやかったからだという。もしこれがソメイエドとかソメイオオシマだったら、ここまで爆発的に人気が出たものだろうか。
ソメイヨシノの誕生
 現在、サクラと言えば「ソメイヨシノ」である。
 しかし、ソメイヨシノが誕生したのは、江戸時代中期の一七五〇年頃のことである。メイヨシノは、サクラの歴史の中では比較的新しい品種なのである。
 ソメイヨシノは、エドヒガン系のサクラとオオシマザクラの交配で生まれたとされている。園芸の盛んだった江戸の染井村では、植木業者が「吉野桜」と呼んで売り出した。
 奈良の吉野山はサクラの名所として有名である。ただし、吉野山はヤマザクラであり、ソメイヨシノとはまったく関係がない。しかし、「吉野」というブランドを借りてPRしたのである。そして、ソメイヨシノは「吉野桜」というネーミングが受けて、広まっていくのである。
 しかし、明治時代になって上野公園のサクラの調査が行われたときに、「吉野桜の並木」に植えられたサクラが、吉野のヤマザクラとはまったく違うことが明らかとなる。そして、「染井村で作られた吉野の桜」という意味でソメイヨシノと名付けられたのである。



14種の植物がとりあげられているが、前述のとおり、チューリップやサクラがそれにふさわしいかというと、私にはちょっと疑問もある。別にどうでもいいことだけど。
それで、ふと思った。もし他に重要な植物を挙げるとしたら何だろう。
というか14種の中でも、日本史的には大したことがないものもある。コショウやトウガラシ、タマネギなどがそうだろう。
ワタは日本でも重要な植物だが、それ以上にクワが重要かもしれない。農作物を指示する地図記号では、田、畑、果樹園、茶畑以外に桑畑があるぐらいだ。

あるいは一品種ではないが、アブラナ科というのはどうだろう。
アブラナ科は、名前のとおり油をとるために栽培されてきたが、科としては、白菜、キャベツ、大根、ブロッコリー、わさび、カリフラワー、ケール、ルッコラ、クレソンなど、多様な野菜が食卓に上がる。

本書の14種には果物がない(ただしトマトは植物学的には果物)が、ブドウを忘れてないか。ワインの原料として、それこそ世界史を動かしたのではないだろうか。

また、農作物とは言わないと思うが、スギなどはどうか。日本の多くの山は、木材をとるために原生林は伐り開かれてスギが植林された。そして、今、多くの日本人がスギ花粉症に悩んでいる。

一冊の本で4回も記事を書いたのははじめてではないかと思う。内容が濃いというよりも、どれをカットしようかと考えながら、面白いと思ったことを抜き出していたら、ムダにするのが惜しくなったということである。
読者の方、よくお付き合いくださいました。

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新型コロナ・ワクチン、5回目の接種

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会場外側

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会場玄関脇。何という花だろう

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会場内。計画通りの人出にように思う。
昨日は、新型コロナ・ワクチンの5回目接種。
話題のオミクロン株対応ワクチンである。

今までの集団接種では、早めの時間を予約していたが、昨日は11:30の予約にしたところ、駐車場(集団接種のために運動広場を駐車場にしてある)もかなり車が入っていた。接種が終わった人が出ていく車も数珠つなぎで、入場はそれらが出ていくのを待ってとなった。

11:25に会場に入ったら、やはり結構な人が来ていたが、予約制で、15分単位に人数を決めているから、混雑はさけられていた。
予診票のチェックのときに、鉛筆書きではダメですと書き直しを指示されていた人がいた。私も前に、鉛筆で書いて、接種案内のチラシにボールペンで書くようにあったのに気づいて、書き直したことがある。予診票そのものに筆記具(黒ボールペンとか)を明記してないので間違う人が多いのだと思う。受付の人にその旨、改善を要望しておいた。

予診票の不親切な表記は、全国共通でしかも何回も使われているはずだから、とっくに改善されていてしかるべきだと思う。


接種が終わったのは11:50頃。15分の経過観察時間をおいて、全終了は12:05だった。
もう5回目だから、スタッフも慣れてきているのだろう、誘導も捌きも円滑だった。
そして、今回も私は特段の副反応はない。

今回ももちろん無料だが、最近は、無料接種を見直す動きもあるようだ。
有料化を主張する人は、「受益者負担」と考えているのかもしれないが、一般に、流行性の疾患での予防接種は、免疫を持つ人を増やすことで、感染を抑えることが主目的で、だからこそ新型コロナでは無料接種が行われてきたのだと思う。

インフルエンザも感染力が強いが有料である。これについてはかつては学校集団接種が行われていた。予防接種により重篤な副作用が出ることもあるから、慎重になったのだろう。


有料化すれば当然、接種者は大きく減ると思う。変異の激しいウィルスだから、感染者でも免疫ができるとは限らないという話もあるなかで、新しい型に対応したワクチンを出し続け、無料接種を続ける社会的意義は変わらないと思う(もっとも変異型は毒性が弱くなっているなら別だが)。

有料化するのなら、最低、保険がきくようにしてもらいたいものだ。

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負けちゃいました

202211260001696-w500_25.jpg 昨日のワールドカップ 日本vsコスタリカ戦、イライラする試合で日本の敗戦。

日本 0―1 コスタリカ

まぁ、負けるときというのはこんなものかもしれない。

前半。出だしこそきれいな攻めの形があったが、その後はさっぱり。コスタリカ陣でプレイする時間が長いにもかかわらず、攻めきれない。
パスが通らない、スペースへ蹴ったのかもしれないが受け手がいない。簡単に敵にボールを奪われて攻撃の芽が早い段階で摘まれ、フィニッシュへもっていけない。
ドイツ戦のときに思ったのだが、ドイツの選手はパスの受け方が上手い。後ろからパスを受けると、すぐに反転して前を向く。体の使い方が上手い。体の使い方といえば、コスタリカの選手も体の使い方は日本選手より上だと思う。マルセイユ・ルーレットとまではいわないが、素早い体勢の転換ができたらと思う。

そして後半。選手を入れ替えて攻撃的な布陣をとったようで、それなりに前半とは違って攻めの形が増えてきた。しかしやはり攻めきれない。前半よりはパスも通るようになったが、決定的なシーンにはつながらなかった。とくにセットプレイでは、高さで負け続けだったと思う。

そしてコスタリカの得点シーン。後半1本のシュートしかなかったその1本がゴールとなった。
ゴール前での中途半端なプレイから、相手に一度きりのチャンスを与えてしまった。

素人感覚かもしれないが、全体的に動きに乏しい感じがした。目立った選手というのも思い当たらない。
攻め口がなかったのかもしれないが(そうならコスタリカの守備がすばらしい)、どうも強引さに欠けるような気がした。ゴールが決められなくても、それでもともとというぐらいの気持ちで突っ込んでも良いのではないだろうか。相手のカウンターが特別速く、強いとも思えなかったから。
期待できたのはサイドからの切り込みで、これは何度か見られたが、中央の厚み不足だったのか、得点に至らなかった。

ドイツ戦では形よりもがむしゃらさが相手守備に穴を開けた感じだったが、コスタリカにそれほどのがむしゃらさがあったようには見受けないのだが……
ドイツに勝ったことで運を使い切ったか、格下のコスタリカへの闘志が無意識のうちに落ちていたのかもしれない。

選手たちは否定するだろうが、そこは無意識のうちにということ。

次はスペイン戦。もう一度のジャイアント・キリングってあるだろうか。

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「世界史を大きく動かした植物」(その3)

81aCBR0WRgL.jpg 稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」の3回目。

■トマト
トマトは野菜か果物か? 次の話はどこかで聞いたことだと思うが、英語と日本語の違いも説明されているので引用させてもらった。
 どちらでも良いような気もするが、十九世紀のアメリカではトマトが野菜か果物かで裁判沙汰になったことがある。
 その結果はどうだっただろう。植物学者たちは果物であると主張し、裁判は上告されて、連邦最高裁判所にまで持ち込まれたが、連邦最高裁判所では、「トマトはデザートではない」ということから、野菜であるという判決が出たという。つまり植物学的には果物だが、法律的には野菜だと判断されたのである。
 それにしても、どうしてトマトが野菜か果物かで裁判にまでなったのだろう。
 当時のアメリカでは野菜には関税が掛けられていたが、果物は無税であった。そのため税金を徴収する役人は野菜であると主張し、輸入業者は果物であると主張したのである。
 しかし、トマトが野菜か果物かは現在でも国によって異なる。日本ではどうだろう。
 じつは英語のフルーツという言葉と、日本語の果物とは意味が少し異なる。
 英語でフルーツという言葉は、植物の果実を意味する。トマトは植物の果実である。しかし、日本語の「果物」という言葉は、「木の物」という言葉に由来する。つまり、果物は木になる実なのである。
 トマトはリンゴやカキのように木になることはない。そのため、果物ではないのである。

これと似たような話で、牛の横隔膜(ハラミやサガリ)は、肉か内臓かが議論になったということを聞いた憶えがある。時はまだ日本で牛肉輸入に高関税がかかっていたころ、内臓であればそれを免れるという話だった。吉野家の牛丼は内臓扱いとなった横隔膜を使ったとか(本当かどうかは知らない)。
はじめに
 
第1章 コムギ
    ―一粒の種から文明が生まれた
あるとき、私たちの祖先は、人類の歴史でもっとも「偉大な」発見をした。
突然変異を起こした「ヒトツブコムギ」 との出合いにより、 私たちは狩猟生活を捨てて農耕を選択する。
木と草はどちらが進化形? /双子葉植物と単子葉植物の違い /イネ科植物の登場 /イネ科植物のさらなる工夫 /動物の生き残り戦略 /そして人類が生まれた /農業は重労働 /それは牧畜から始まった /穀物が炭水化物をもつ理由 /そして富が生まれた /後戻りできない道
 
第2章 イネ
    ―稲作文化が「日本」を作った
戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
稲作以前の食べ物 /呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!? /イネを受け入れなかった東日本 /農業の拡大 /イネを選んだ日本人 /コメは栄養価に優れている /稲作に適した日本列島 /田んぼを作る /田んぼの歴史 /どうしてコメが大切なのか /江戸時代の新田開発 /コメが貨幣になった理由 /なぜ日本は人口密度が高いのか
 
第3章 コショウ
    ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であったが、肉は腐りやすいので保存できない。
/香辛料は、「いつでも美味しい肉を食べる」という贅沢な食生活を実現する魔法の薬だった。
金と同じ価値を持つ植物 /コショウを求めて /世界を二分した二つの国 /大国の凋落 /オランダの貿易支配 /熱帯に香辛料が多い理由 /日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ
    ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
コロンブスは、アメリカ大陸で発見したトウガラシを「ペッパー(コショウ)」と呼ぶのである。
しかし、彼は本当にコショウの味を知らなかったのだろうか。 これには彼の苦悩が隠されている。
コロンブスの苦悩 /アメリカ大陸の発見 /アジアに広まったトウガラシ /植物の魅惑の成分 /トウガラシの魔力 /コショウに置き換わったトウガラシ /不思議な赤い実 /日本にやってきたトウガラシ /キムチとトウガラシ /アジアからヨーロッパへ
 
第5章 ジャガイモ
    ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
アイルランドでは突如としてジャガイモの疫病が大流行。
大飢饉によって食糧を失った人々は、故郷を捨てて新天地のアメリカを目指す。 移住したアイルランド人の子孫の中から成功者が輩出する。
マリー・アントワネットが愛した花 /見たこともない作物 /「悪魔の植物」 /ジャガイモを広めろ /ドイツを支えたジャガイモ /ジャーマンポテトの登場 /ルイー六世の策略 /バラと散った王妃 /肉食の始まり /大航海時代の必需品 /日本のジャガイモがやってきた /各地に残る在来のジャガイモ /アイルランドの悲劇 /故郷を捨てた人々とアメリカ /カレーライスの誕生 /日本海軍の悩み
 
第6章 トマト
    ―世界の食を変えた赤すぎる果実
世界で四番目に多く栽培されている作物がトマトである。
アメリカ大陸由来の果実が、 ヨーロッパを経てアジアに紹介されてわずか数百年の間に、トマトは世界中の食文化を変えていった。
ジャガイモとトマトの運命 /有毒植物として扱われたトマト /赤すぎたトマト /ナポリタンの誕生 /里帰りしたトマト /世界で生産されるトマト /トマトは野菜か、果物か
 
第7章 ワタ
    ―「羊が生えた植物」と産業革命
十八世紀後半のイギリスで、安価な綿織物を求める社会に革新的な出来事が起こる。
蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大量生産が可能になった。
これが「産業革命」である。
人類最初の衣服 /草原地帯と動物の毛皮 /「羊が生えた植物」 /産業革命をもたらしたワタ /奴隷制度の始まり /奴隷解放宣言の真実 /そして湖が消えた /ワタがもたらした日本の自動車産業 /地場産業を作ったワタ
 
第8章 チャ
    ―アヘン戦争とカフェインの魔力
神秘の飲み物=紅茶を人々が愛すれば愛するほど、チャを清国から購入しなければならない。
大量の銀が流出していくなか、イギリスはアヘンを清国に売りつけることを画策する。
不老不死の薬 /独特の進化を遂げた抹茶 /ご婦人たちのセレモニー /産業革命を支えたチャ /独立戦争はチャが引き金となった /そして、アヘン戦争が起こった /日本にも変化がもたらされる /インドの紅茶の誕生 /カフェインの魔力
 
第9章 サトウキビ
    ―人類を惑わした甘美なる味
手間のかかる栽培のために必要な労力として、ヨーロッパ諸国は植民地の人々に目をつける。
そして、アフリカから新大陸に向かう船にサトウキビ栽培のための奴隷を積むのである。
人間は甘いものが好き /砂糖を生産する植物 /奴隷を必要とした農業 /砂糖のない幸せ /サトウキビに侵略された島 /アメリカ大陸と暗黒の歴史 /それは一杯の紅茶から始まった /そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第10章 ダイズ
    ─戦国時代の軍事食から新大陸へ
中国原産のダイズから生まれた味噌は、徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展を遂げていく。
ダイズは「醤油の豆」 /中国四千年の文明を支えた植物 /雑草から作られた作物 /「畑の肉」と呼ばれる理由 /コメとダイズは名コンビ /戦争が作り上げた食品 /家康が愛した赤味噌 /武田信玄が育てた信州味噌 /伊達政宗と仙台味噌 /ペリーが持ち帰ったダイズ /「裏庭の作物」
 
第11章 タマネギ
    ―巨大ピラミッドを支えた薬効
古代エジプトで重要な作物であったタマネギの原産地は、中央アジアである。
乾燥地帯に起源をもつタマネギは、害虫や病原菌から身を守るために、さまざまな物質を身につけた。
古代エジプトのタマネギ /エジプトに運ばれる /球根の正体 /日本にやってきたタマネギ
 
第12章 チューリップ
    ―世界初のバブル経済と球
オランダは東インド会社を設立し、海洋交易で資産を蓄えており、オランダ黄金時代の幕開けの時期だった。
そして、人々は余っていた金で球根を競って買い求めたのである。
勘違いで名付けられた /春を彩る花 /バブルの始まり /そして、それは壊れた
 
第13章 トウモロコシ
    ―世界を席巻する驚異の農作物
トウモロコシは単なる食糧ではない。
工業用アルコールやダンボールなどの資材、石油に代替されるバイオエタノールをはじめ、現代はトウモロコシなしには成立しない。
「宇宙からやってきた植物」 /マヤの伝説の作物 /ヨーロッパでは広まらず /「もろこし」と「とうきび」 /信長が愛した花 /最も多く作られている農作物 /広がり続ける用途 /トウモロコシが作る世界
 
第14章 サクラ
    ─ヤマザクラと日本人の精神
ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
日本人は、けっして散る桜に魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
日本人が愛する花 /ウメが愛された時代 /武士の美学 /豊臣秀吉の花見 /サクラが作った江戸の町 /八代将軍吉宗のサクラ /ソメイヨシノの誕生 /散り際の美しいソメイヨシノ /桜吹雪の真実
 
おわりに



■ワタ
米国南部の大平原はワタの栽培で有名。
ただその豊かな風景は過酷な労働とセットになっている。
奴隷解放宣言の真実
 ワタの輸出によって、ワタの産地であったアメリカの南部は急に経済的に発展を遂げていった。一方、工業が主産業であったアメリカ北部の人々は、イギリスから輸入される工業製品に高い関税を掛ける保護貿易を行いたかった。しかし、イギリスにワタを輸出している南部の人々は、保護貿易は困る。自由貿易を推進していく必要があった。こうして北部と南部は利害を対立させていく。そして、ついには南北戦争が起こるのである。
 アメリカで南北戦争が発すると、アメリカからのワタの輸出量が急激に減少した。北軍はアメリカ南部の経済的拠り所を押さえようと港からの輸出を封鎖した。しかし意外にも南軍もまたワタの輸出を制限するようになる。ワタが輸出されなければ、困る。そうして、イギリスに援助してもらおうと画策したのである。
 そこでこれを阻止したかったリンカーン大統領は、「奴隷解放宣言」を出す。こうして戦争の目的が奴隷解放であることを内外にアピールすることで、イギリスがアメリカ南部を支援することを難しくさせたのである。こうした戦略も功を奏して、南北戦争は北軍の勝利で終わりを告げたのである。

先日、米国の中間選挙が行われた。私などには民主党も共和党も、そんなに違いがあるようにも思えないのだけれど、根っこには利害対立があるのだろう。南部は今でこそ共和党が強そうに思えるのだけれど、南北戦争当時は、リンカーンは共和党であり、保護貿易主義であったようだ。
対して南部は自由主義的で、イメージとしては現在の民主党に重なるところもある。ただし南部は奴隷を自由に使いたいという意味でも自由主義的だったようだが。
奴隷解放も人権的な観点ではなくて、人権を盾にするという政治的な思惑であったようだ。
その利害対立の大きな要素がワタということになる。

そしてもう一つの大国、ロシアでもまた違った問題を、ワタは起こすことになる。
 ロシアのような寒冷地では、ワタのような暖かな繊維は必需品だ。そのため、ワタの不足に困ったロシアでは、国内でのワタの栽培を行うようになる。そして中央アジアのトルキスタン地域がワタの産地となっていくのである。現在でもトルキスタン地域に位置していたウズベキスタンは世界有数の綿花生産国である。
 綿花栽培が拡大し、栽培技術が近代化されて生産量が向上すると、不足するものがあった。ワタを栽培するための水である。そのため、アラル海という湖から水が引かれ、広大なワタ畑に水を供給するための灌漑施設が整備されたのである。
 アラル海は世界四位の面積を誇る広大な湖である。その面積は日本の東北地方の面積に匹敵する。この豊富な水は、次々に乾燥地を豊かなワタ畑に変えていったのである。
 しかし、資源は無限ではない。アラル海の水は減少し、ついに水位が低下して、巨大だったアラル海は、二十世紀の初めには大アラル海と小アラル海とに分断されてしまった。そして、その後もアラル海の水は減少し続け、現在ではアラル海はついに消滅の危機にあるとされている。もちろん、周囲の生態系は破壊され、多くの生物が絶滅してしまった。

以前、何かのテレビ番組で、干上がったウラル海の様子を見た憶えがある。水のまったくない涸れた土地に、放棄され朽ちている船の痛々しい姿があった。
「真綿で首を絞める」という表現がある(真綿は絹だけれど)けれど、ワタで首を絞められているのは、地球環境かもしれない。



■チャ
お茶(紅茶)はヨーロッパの貴族が愛好したという印象があったけれど、それは実際そうなのだが(ただしクラブに出入りできない女性中心らしい)、実は工場労働者という人たちにも良く飲まれていたという。
 工場労働者という新しい階級が生み出された。この労働者たちが好んで飲んだのが紅茶である。
 イギリスでは、赤痢菌など水が媒介する病気の心配があった。そのため、農業労働者たちは、水の代わりにビールなどのアルコール類を飲んでいたのである。
 しかし、休みなく動く機械とともに工場で働く労働者たちは、ほろ酔いで働くわけにはいかない。チャは抗菌成分を含むので、十分に沸騰していない水で淹れても病気の蔓延を防ぐことができる。しかも眠気を覚まし、頭をすっきりさせてくれる。そのため、労働効率を上げるのに最適な飲み物だったのである。

それにしても工場労働者たちはどんな飲み方をしていたのだろう。
一杯の完璧な紅茶のいれ方などを実践していたとは思えない。作り置きの紅茶を飲んでいたのではないだろうか。ちょうど日本で麦茶を飲むような感じで。



■サトウキビ
サトウキビもイネ科である。キビという名前も付いている。
だけれど、コムギやイネとは随分違う。サトウキビの穂とか種ってどんなのだろうか。
そういえばタケもイネ科で、サトウキビは竹に似ているようにも思う。タケほどではないけれど、丈は高い。

 それまでの農業にも重労働はあったが、鋤で畑を耕すような単純な作業は、牛や馬を捕うこともできた。しかし、サトウキビは三メートルを超える巨大な植物である。収穫という、家畜ではできない作業が重労働となる。二十世紀になって機械が開発されるまでは、サトウキビの重労働は人力で行われるものだった。
 しかもサトウキビは、収穫した植物から砂糖を精製するという作業が必要になる。サトウキビは収穫した後、茎の中の砂糖を蓄えた部分が、次第に固くなっていく。当時は、この茎が固くなる前の新鮮なうちに煮出さなければならないと考えられていた。そのため、収穫したサトウキビを積んで保管しておくことをしなかったのだ。
 そこで考えられた方法が、大量のサトウキビを一斉に収穫し、一度の精製作業をすることである。そのためには一気にサトウキビを収穫するための大量の労働力が必要となるのだ。
 サトウキビはのんびりと栽培していることができない。一気に収穫して、一気に精製していく。これを常に繰り返していくのだ。これは牧歌的な農業には程遠く、もはや工業生産である。そして、この作業を効率化するために、サトウキビ畑は大規模化していった。
 しかも収穫してすぐに精製しなければならないとなると、他の作物のように市場に出荷して、買い取られた後に加工されて……というような時間はない。そのため、サトウキビを生産すると同時に精製する工場も作られた。後はひたすら砂糖を生産するだけだ。
 これがプランテーションである。
 プランテーションは大量の労働力を必要とする。最初のうちは戦争で得た捕虜を使っていたが、それでも足りない。次第に奴隷を必要とするようになっていくのである。

大河ドラマ「西郷どん」では、西郷が奄美大島に流され、そこで過酷な砂糖づくりを目にするという話があった。西郷が眼にしたかどうかはともかく、奄美大島で砂糖づくりが島津によって強制され(米づくりは禁止)、過酷な支配(黒糖地獄)が行われていたことは史実のようだ。
「西郷どん」では砂糖を舐めた島民が、役人に打たれるシーンがあったが、これも語り伝えられていることのようだ。



■ダイズ
ダイズの生産は、ブラジル、米国、アルゼンチンとアメリカ大陸諸国が上位であり、その次にようやく中国となる。ただこの重要な作物が南米で広がったのは、日系移民の力だったという。
「裏庭の作物」
 南北戦争後の奴隷解放により、アメリカ大陸では労働力が不足した。その労働力を補うために、日本から多くの人々がアメリカ大陸へと移住したのである。
 すでに紹介したように、日本人はサトウキビ栽培の労働者として、ハワイへの移民が渡航した。
 しかし、第二次世界大戦前に、日本とアメリカとの関係が悪化する中で、北米ではなく、南米への移民が増加していくのである。
 私たちも海外旅行に出掛けると、現地の料理が口に合わないことがある。そんなとき、ありがたいのは醤油である。 醤油さえ掛ければ、なじみのない異国の料理も、何となく食べやすい感じがする。また、味噌汁を飲むとホッとさせられる。
 移民の人々にとっても、それは同じだったのだろう。
 移民たちは祖国からダイズを持ち込み、裏庭でダイズを育てては自家製の味噌や醤油を作っていたのである。
 第二次世界大戦が始まって食糧が不足すると、南米の国々ではダイズの栽培が奨励された。しかし、なじみのないダイズの栽培が定着することはなかった。南米でダイズの栽培が本格的に行われるようになるのは、第二次世界大戦後のことである。
 一九六〇年代になると、南米の諸国でダイズの栽培が本格的に行われていく。これには日系移民の努力があった。そして、日本の裏側の南米でダイズ畑が拡大していったのである。
 今やブラジル、アルゼンチン、パラグアイなどの南米諸国は、ダイズの生産大国である。しかもアルゼンチンやパラグアイでは輸出総額の六割を超えていて、国家の経済を支えているという。そして「日本人の裏庭の作物が奇跡を生んだ」と評されているのである。
 一方、アメリカ大陸にダイズを伝えた日本では、今はそのほとんどを輸入に頼っている。ダイズの自給率は一〇パーセントに満たない。外国産のダイズに頼らなければ、豆腐も味噌汁も納豆も食べることができないのである。

ダイズもマメ科植物だから、根粒菌がいて窒素固定をするわけで、水稲同様、連作障害はおきないと思う。
そしてマメ科植物は、さまざまな種類が栽培されている。本書ではダイズ以外のマメ科植物はとりあげられていないけれど、スーパーへ買い物にいけば、アズキ、インゲン、エンドウ、ソラマメ、レンズマメなどが野菜コーナーに並ぶし、野菜っぽくないがラッカセイもマメ科である。
これらがとりあげられなかったのは、やはり収量がはるかに少ないからだろう。
それと本書では枝豆のことは全く触れられてなかったのは、枝豆好きの私にはちょっとさびしい。



今回の書評は引用が多いので長くなってしまう。
ここまで来たらこのペースで続けるけれど、さすがに長すぎるので、残りの植物については、また次で。

関連記事

「世界史を大きく動かした植物」(その2)

81aCBR0WRgL.jpg 稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」の2回目。

前の記事では、主にコムギをとりあげた。といってもコムギに限らないイネ科植物の特徴や、もっと広く農業という人類の営みの意味などを中心に紹介した。

第2回目では、他の13種の植物について、主に私が知らなかった、あるいは聞いたことがあってもその解釈が新鮮だったことなど、断片的になるけれど紹介していこうと思う。

断片的ではどうも、という人は本そのものを読まれたらと思う。昨日も書いたように、これらの重要植物について、かなり簡潔にまとめられているから、この記事を読むよりわかりやすいと思う。


■イネ
今日は、まずコムギに次いで広く作られているコメ。

イネの章からは、コムギと比較して、イネの優れた性質が特筆されているのでそれを引用しよう。「なぜ日本は人口密度が高いのか」から(日本に限らず米産地は小麦地域に比べて人口密度が高い)。
 イネは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。
 日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。
 イネはムギなどの他の作物に比べて極めて生産性の高い作物である。イネは一粒の種もみから七〇〇~一〇〇〇粒のコメがとれる。 これは他の作物と比べて驚異的な生産力である。
 十五世紀のヨーロッパでは、コムギの種子をまいた量に対して、収穫できた量はわずか三~五倍だった。これに対して十七世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して二〇~三〇倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。現在でもイネは一一〇~一四〇倍もの収量があるのに対して、コムギは二〇倍前後の収量しかない。
 さらにコメは栄養価に優れている。 炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。そのため、とにかくコメを食べていれば良かった。
 唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのがダイズである。そのためコメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。かくしてコメは日本人の主食として位置づけられたのである。
 一方、パンやパスタの減量となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。そのためコムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられているのである。

西洋では「人はパンのみにて生くるものにあらず」というそうだが、なるほど、コムギで作られるパンだけでは生きていけないわけだ。それに対して「コメだけ食べておけば大丈夫」というぐらいである。コメはほぼ完全栄養食品なのである。
そして、その収量がコムギの比ではない。つまり太陽エネルギーを化学エネルギーに転換する効率がずばぬけて高いわけだ。 しかも、それだけではない。
 ヨーロッパでは、三圃式農業と呼ばれ、ジャガイモや豆類など夏作物を作る畑と、コムギを栽培する畑と、作物を作らずに畑を休ませるところの三つに分けて、ローテーションして土地を利用した。こうして三年に一度は休ませないと、地力を維持することができなかったのである。 コムギは三年に一度しか作ることができなかったのである。
 これに対して日本の田んぼは毎年、イネを育てることができる。一般に作物は連作することができない。イネのように毎年、栽培することができるというのは、じつにすごいことなのである。しかも昔はイネを収穫した後に、コムギを栽培する二毛作を行った。ヨーロッパでは三年に一度しかコムギが栽培できないのに、日本では一年間にイネとコムギと両方、収穫することができたのである。
 すでに紹介したように、イネは、作物の中でも際立って収量の多い作物である。
 収量をたくさん取ることのできないヨーロッパでは、広い面積で農業を行うしかなかった。一方、日本の田んぼは、手を掛ければ掛けるほど収量が多くなる。そのため、やみくもに面積を広げるよりも、手を掛けて稲作が行われたのである。

つまりイネには連作障害がない。これは水田栽培で、必要なミネラルなどは水に乗って運ばれてくるし、地力を弱める老廃物もまた水に乗って洗い去られるということだそうだ。

連作障害というのは農作物ではよくいわれる話だが、野草の場合はどうなんだろう。我が家の庭に勝手に生えている野草類は、だいたい毎年同じ場所に繁っているが、こいつらは連作障害ってないんだろうか?

はじめに
 
第1章 コムギ
    ―一粒の種から文明が生まれた
あるとき、私たちの祖先は、人類の歴史でもっとも「偉大な」発見をした。
突然変異を起こした「ヒトツブコムギ」 との出合いにより、 私たちは狩猟生活を捨てて農耕を選択する。
木と草はどちらが進化形? /双子葉植物と単子葉植物の違い /イネ科植物の登場 /イネ科植物のさらなる工夫 /動物の生き残り戦略 /そして人類が生まれた /農業は重労働 /それは牧畜から始まった /穀物が炭水化物をもつ理由 /そして富が生まれた /後戻りできない道
 
第2章 イネ
    ―稲作文化が「日本」を作った
戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
稲作以前の食べ物 /呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!? /イネを受け入れなかった東日本 /農業の拡大 /イネを選んだ日本人 /コメは栄養価に優れている /稲作に適した日本列島 /田んぼを作る /田んぼの歴史 /どうしてコメが大切なのか /江戸時代の新田開発 /コメが貨幣になった理由 /なぜ日本は人口密度が高いのか
 
第3章 コショウ
    ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であったが、肉は腐りやすいので保存できない。
/香辛料は、「いつでも美味しい肉を食べる」という贅沢な食生活を実現する魔法の薬だった。
金と同じ価値を持つ植物 /コショウを求めて /世界を二分した二つの国 /大国の凋落 /オランダの貿易支配 /熱帯に香辛料が多い理由 /日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ
    ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
コロンブスは、アメリカ大陸で発見したトウガラシを「ペッパー(コショウ)」と呼ぶのである。
しかし、彼は本当にコショウの味を知らなかったのだろうか。 これには彼の苦悩が隠されている。
コロンブスの苦悩 /アメリカ大陸の発見 /アジアに広まったトウガラシ /植物の魅惑の成分 /トウガラシの魔力 /コショウに置き換わったトウガラシ /不思議な赤い実 /日本にやってきたトウガラシ /キムチとトウガラシ /アジアからヨーロッパへ
 
第5章 ジャガイモ
    ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
アイルランドでは突如としてジャガイモの疫病が大流行。
大飢饉によって食糧を失った人々は、故郷を捨てて新天地のアメリカを目指す。 移住したアイルランド人の子孫の中から成功者が輩出する。
マリー・アントワネットが愛した花 /見たこともない作物 /「悪魔の植物」 /ジャガイモを広めろ /ドイツを支えたジャガイモ /ジャーマンポテトの登場 /ルイー六世の策略 /バラと散った王妃 /肉食の始まり /大航海時代の必需品 /日本のジャガイモがやってきた /各地に残る在来のジャガイモ /アイルランドの悲劇 /故郷を捨てた人々とアメリカ /カレーライスの誕生 /日本海軍の悩み
 
第6章 トマト
    ―世界の食を変えた赤すぎる果実
世界で四番目に多く栽培されている作物がトマトである。
アメリカ大陸由来の果実が、 ヨーロッパを経てアジアに紹介されてわずか数百年の間に、トマトは世界中の食文化を変えていった。
ジャガイモとトマトの運命 /有毒植物として扱われたトマト /赤すぎたトマト /ナポリタンの誕生 /里帰りしたトマト /世界で生産されるトマト /トマトは野菜か、果物か
 
第7章 ワタ
    ―「羊が生えた植物」と産業革命
十八世紀後半のイギリスで、安価な綿織物を求める社会に革新的な出来事が起こる。
蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大量生産が可能になった。
これが「産業革命」である。
人類最初の衣服 /草原地帯と動物の毛皮 /「羊が生えた植物」 /産業革命をもたらしたワタ /奴隷制度の始まり /奴隷解放宣言の真実 /そして湖が消えた /ワタがもたらした日本の自動車産業 /地場産業を作ったワタ
 
第8章 チャ
    ―アヘン戦争とカフェインの魔力
神秘の飲み物=紅茶を人々が愛すれば愛するほど、チャを清国から購入しなければならない。
大量の銀が流出していくなか、イギリスはアヘンを清国に売りつけることを画策する。
不老不死の薬 /独特の進化を遂げた抹茶 /ご婦人たちのセレモニー /産業革命を支えたチャ /独立戦争はチャが引き金となった /そして、アヘン戦争が起こった /日本にも変化がもたらされる /インドの紅茶の誕生 /カフェインの魔力
 
第9章 サトウキビ
    ―人類を惑わした甘美なる味
手間のかかる栽培のために必要な労力として、ヨーロッパ諸国は植民地の人々に目をつける。
そして、アフリカから新大陸に向かう船にサトウキビ栽培のための奴隷を積むのである。
人間は甘いものが好き /砂糖を生産する植物 /奴隷を必要とした農業 /砂糖のない幸せ /サトウキビに侵略された島 /アメリカ大陸と暗黒の歴史 /それは一杯の紅茶から始まった /そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第10章 ダイズ
    ─戦国時代の軍事食から新大陸へ
中国原産のダイズから生まれた味噌は、徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展を遂げていく。
ダイズは「醤油の豆」 /中国四千年の文明を支えた植物 /雑草から作られた作物 /「畑の肉」と呼ばれる理由 /コメとダイズは名コンビ /戦争が作り上げた食品 /家康が愛した赤味噌 /武田信玄が育てた信州味噌 /伊達政宗と仙台味噌 /ペリーが持ち帰ったダイズ /「裏庭の作物」
 
第11章 タマネギ
    ―巨大ピラミッドを支えた薬効
古代エジプトで重要な作物であったタマネギの原産地は、中央アジアである。
乾燥地帯に起源をもつタマネギは、害虫や病原菌から身を守るために、さまざまな物質を身につけた。
古代エジプトのタマネギ /エジプトに運ばれる /球根の正体 /日本にやってきたタマネギ
 
第12章 チューリップ
    ―世界初のバブル経済と球
オランダは東インド会社を設立し、海洋交易で資産を蓄えており、オランダ黄金時代の幕開けの時期だった。
そして、人々は余っていた金で球根を競って買い求めたのである。
勘違いで名付けられた /春を彩る花 /バブルの始まり /そして、それは壊れた
 
第13章 トウモロコシ
    ―世界を席巻する驚異の農作物
トウモロコシは単なる食糧ではない。
工業用アルコールやダンボールなどの資材、石油に代替されるバイオエタノールをはじめ、現代はトウモロコシなしには成立しない。
「宇宙からやってきた植物」 /マヤの伝説の作物 /ヨーロッパでは広まらず /「もろこし」と「とうきび」 /信長が愛した花 /最も多く作られている農作物 /広がり続ける用途 /トウモロコシが作る世界
 
第14章 サクラ
    ─ヤマザクラと日本人の精神
ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
日本人は、けっして散る桜に魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
日本人が愛する花 /ウメが愛された時代 /武士の美学 /豊臣秀吉の花見 /サクラが作った江戸の町 /八代将軍吉宗のサクラ /ソメイヨシノの誕生 /散り際の美しいソメイヨシノ /桜吹雪の真実
 
おわりに



■コショウ
次にとりあげるのはコショウ。
コショウが大航海時代を開かせる重要な貿易品であったことは、本書も説明しているけれど、周知のことなので、ここではとりあげない。もっと素朴な疑問は、ヨーロッパ人はどうしてコショウを自分たちで栽培しなかったのだろうかである。これは本書で冷涼なヨーロッパでは育たない植物だったという説明がある。それに加えて、熱帯に香辛料が多い理由も次のように説明がある。
熱帯に香辛料が多い理由
 丁子、シナモン、ナツメグ、ジンジャーなど、ヨーロッパの人々がインドに求めた香辛料はコショウだけではない。
 それにしても、どうしてヨーロッパの人々に必要な香辛料がヨーロッパにはなく、遠く離れたインドに豊富にあったのだろうか。
 香辛料が持つ辛味成分は、もともとは植物が病原菌や害虫から身を守るために蓄えているものである。冷涼なヨーロッパでは害虫が少ない。
 一方、気温が高い熱帯地域や湿度が高いモンスーンアジアでは病原菌や害虫が多い。そのため、植物も辛味成分などを備えている。

そういえば植物だけでなく、動物でも毒を持つものは熱帯に多そうに思う。


■トウガラシ
コショウに続いてとりあげられているのは、こちらも英語ではpepperであるトウガラシ。
 トウガラシも他の果実と同じように、未熟なうちは緑色をしていて、熟すと赤くなる。つまり、トウガラシも「食べてほしい」というサインを出しているのである。
 ただしトウガラシは、食べてもらう相手を選り好みしているようである。
 サルのような哺乳動物は、辛いトウガラシを食べることができない、しかし鳥は、トウガラシを平気で食べることができる。辛そうなトウガラシをやっても、ニワトリは喜んでついばむ。鳥はトウガラシの辛味成分であるカプサイシンを感じる受容体がないため、辛さを感じないのである。鳥にとっては、トウガラシもトマトやイチゴと同じように甘い果実に感じられるのだろう。
 トウガラシは、種子を運んでもらうパートナーとして動物ではなく鳥を選んだ植物である。鳥は大空を飛び回るので、動物に比べて移動する距離が長く、より遠くまで種子を運ぶことができる。また、鳥は果実を丸飲みするので、動物のようにバリバリと種子を噛み砕くこともないし、動物に比べると消化管が短いので、種子は消化されずに無事に体内を通り抜けることができる。そのため、トウガラシは、動物に対しては忌避反応を起こさせるのに、鳥はまったく感じないという絶妙な防御物質を身につけたのである。

この話は他の本かテレビ番組でも聞いたことがある。
そういえば先日の「チコちゃんに叱られる」では、植物のポリフェノールの話がとりあげられていて、渋みであるポリフェノールは動物に食べられないための工夫というわけだが、巧みなのは、甘い果肉の中の種子の周りにポリフェノールの渋皮があるという構造。果肉で惹きつけて、種子は食べさせないという仕掛けだそうだ。

上でトウガラシは英語ではpepperと書いたがそれについて。
 世界の地図を知っている現代の私たちからすれば、アメリカ大陸をインドと間違えるなどというのは、とんでもないことのように思える。しかし、当時は大西洋を西へ進めばインドに到達するはずだと考えられていた。しかも、当時のヨーロッパの人々にとってインドというのはまったくの未知の土地である。コロンブスが最初に到達した陸地をインドだと勘違いしたとしても、なんら不思議はないのだ。
 ところが、コロンブスの勘違いはこれにとどまらなかった。
 コロンブスの航海の目的は、インドからスペインへ、コショウを直接運ぶ航路を見つけることにあった。当時、肉を保存するために不可欠なコショウはアジア各地からインドに集められ、アラビア商人たちの手でヨーロッパに運ばれていた。そして、アラビア商人たちが独占するコショウは、金と同じ価値を持つといわれるほど高価なものだったのである。
 そしてコロンブスは、アメリカ大陸で発見したトウガラシを、あろうことかコショウを意味する「ペッパー」と呼ぶのである。
  :
 もしかすると……と勘繰ると、これはコロンブスが意図的に間違えていたのかもしれないとも思える。

文書上、pepperと書いてあっても、現物を見れば似ても似つかぬものとすぐにわかるだろう。もしそれを狙ったのなら、あまりに姑息。それとも中のタネだけを見せたんだろうか。



■ジャガイモ
次はジャガイモ。南米原産ということは良く知られている。
ヨーロッパへの普及だが、ドイツといえばジャガイモ料理(ジャーマンポテト)がすぐ思い浮かぶが、導入に熱心だったのはフリードリッヒⅡ世だったと思う。
そしてイギリス、フランスでも君主が普及を図ったのだけれど……
 しかし、アンデスのやせた土地で収穫できるジャガイモは、食糧として重要だと評価する識者たちもいた。しかも高地に育つジャガイモは、冷涼な気候のヨーロッパでも育てることのできる特殊な芋である。
 そして、大凶作に苦しむヨーロッパでは、このジャガイモを普及させるための挑戦が始まるのである。さて、この悪魔の植物をどのようにして広めていけば良いのだろう。
 ジャガイモを普及させようとしたのは、イギリスのエリザベス一世である。
 エリザベス一世は、まず上流階級の間にジャガイモを広めようと、ジャガイモ・パーティを主催する。ところが、ジャガイモを知らないシェフたちが、ジャガイモの葉や茎を使って料理を作ったため、エリザベス一世はソラニン中毒になってしまった。
 こうしてイギリスでは、ジャガイモは有毒な植物というイメージが強まり、ジャガイモの普及が遅れてしまうのである。

フリードリッヒⅡ世よりも100年も前のことだから、ジャガイモの毒性が良く知られていなかったとしても、エリザベスⅠ世の罪ではないと思う。
そしてフランスでは、ドイツよりも遅れて18世紀末に普及する。
 ヨーロッパが大飢饉に見舞われたとき、フランスはコムギに代わる救荒食を賞金付きで募集した。このときにパルマンティエがジャガイモの普及を提案したのである。
 そして、彼の提案どおり、ルイ一六世は、ボタン穴にジャガイモの花を飾った。そして、王妃のマリー・アントワネットにジャガイモの花飾りを付けさせて、ジャガイモを大いに宣伝したのである。その効果は絶大で、美しい観賞用の花としてジャガイモの栽培がフランス上流階級に広まり、王侯貴族は競って庭でジャガイモを栽培するようになった。
 次に、ルイ一六世とパルマンティエ男爵は、国営農場にジャガイモを展示栽培させた。そして、「これはジャガイモといい、非常に美味で栄養に富むものである。王侯貴族が食べるものにつき、これを盗んで食べた者は厳罰に処す」とお触れを出して、大げさに見張りをつけた。
 ジャガイモを庶民の間に普及させたいはずなのに、どうして独占するようなマネをしたのだろうか。じつはこれこそがルイ一六世らの巧みな策略だったのである。
 国営農場は、昼間は大げさに警備したが、夜になると警備は手薄にした。そして、好奇心に駆られた人々は、深夜に畑に侵入し、次々にジャガイモを盗み出したのである。こうしてジャガイモは庶民の間にも広まっていった。

ルイ16世といえば、錠前づくりにしか興味のない、どちらかというとおっとりとした王様のように思われているが、このアイデアがルイ16世のものかどうかは別として、こういう巧みな施策を、しかも庶民を飢えから救うために行ったわけだ。
そうやって救おうとした群衆によって、殺されてしまう。
「パンがなければジャガイモを食べましょう」と言っておけばよかった……



随分長くなったので、残りの植物については次稿で。

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「世界史を大きく動かした植物」

81aCBR0WRgL.jpg 稲垣栄洋「世界史を大きく動かした植物」について。

人類の農業(つまり文明)において、重要な(つまり大規模に栽培されている)植物をとりあげて、それと人類の関わりを簡潔に説明した本。

聞いたような話も多く書かれていたので、同じ著者の本を読んで記事にしたかもしれないと思って、ブログ内検索をしたら、やっぱりあった、2冊。

書評記事を書いておくとこういうときに役に立つ。


まず栽培種となるには、それが栽培に適していること、それが栽培の努力に報いる利益を産むことが求められる。そしてそれが人類社会に与えた影響を評価する。

他の本にも書かれていたように思うが、人間がこれらの植物を育てているのではなく、これらの植物が人間を奴隷として繁殖しているとでも言えると。


本書では細かい論証は措いて、大づかみに主要な農作物について、その特徴や耕作の歴史などが、簡潔に説明されている。多くは私も以前から、いろんな本などで知っていたことだが、それらが短くまとめられていて、今までの知識を整理するのに良い。なんだか、テレビの教養番組のナレーションのような簡潔さ。

もちろん初耳だと思う(忘れているだけかも)事もちょくちょく書かれている。
そういうことや、知っていたことでも語り直し(再評価)で印象的なことをいくつか紹介していこう。

はじめに
 
第1章 コムギ
    ―一粒の種から文明が生まれた
あるとき、私たちの祖先は、人類の歴史でもっとも「偉大な」発見をした。
突然変異を起こした「ヒトツブコムギ」 との出合いにより、 私たちは狩猟生活を捨てて農耕を選択する。
木と草はどちらが進化形? /双子葉植物と単子葉植物の違い /イネ科植物の登場 /イネ科植物のさらなる工夫 /動物の生き残り戦略 /そして人類が生まれた /農業は重労働 /それは牧畜から始まった /穀物が炭水化物をもつ理由 /そして富が生まれた /後戻りできない道
 
第2章 イネ
    ―稲作文化が「日本」を作った
戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに六倍もの人口を擁していた。 その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物である。
稲作以前の食べ物 /呉越の戦いが日本の稲作文化を作った!? /イネを受け入れなかった東日本 /農業の拡大 /イネを選んだ日本人 /コメは栄養価に優れている /稲作に適した日本列島 /田んぼを作る /田んぼの歴史 /どうしてコメが大切なのか /江戸時代の新田開発 /コメが貨幣になった理由 /なぜ日本は人口密度が高いのか
 
第3章 コショウ
    ―ヨーロッパが羨望した黒い黄金
ヨーロッパでは家畜の肉が貴重な食料であったが、肉は腐りやすいので保存できない。
/香辛料は、「いつでも美味しい肉を食べる」という贅沢な食生活を実現する魔法の薬だった。
金と同じ価値を持つ植物 /コショウを求めて /世界を二分した二つの国 /大国の凋落 /オランダの貿易支配 /熱帯に香辛料が多い理由 /日本の南蛮貿易
 
第4章 トウガラシ
    ―コロンブスの苦悩とアジアの熱狂
コロンブスは、アメリカ大陸で発見したトウガラシを「ペッパー(コショウ)」と呼ぶのである。
しかし、彼は本当にコショウの味を知らなかったのだろうか。 これには彼の苦悩が隠されている。
コロンブスの苦悩 /アメリカ大陸の発見 /アジアに広まったトウガラシ /植物の魅惑の成分 /トウガラシの魔力 /コショウに置き換わったトウガラシ /不思議な赤い実 /日本にやってきたトウガラシ /キムチとトウガラシ /アジアからヨーロッパへ
 
第5章 ジャガイモ
    ―大国アメリカを作った「悪魔の植物」
アイルランドでは突如としてジャガイモの疫病が大流行。
大飢饉によって食糧を失った人々は、故郷を捨てて新天地のアメリカを目指す。 移住したアイルランド人の子孫の中から成功者が輩出する。
マリー・アントワネットが愛した花 /見たこともない作物 /「悪魔の植物」 /ジャガイモを広めろ /ドイツを支えたジャガイモ /ジャーマンポテトの登場 /ルイー六世の策略 /バラと散った王妃 /肉食の始まり /大航海時代の必需品 /日本のジャガイモがやってきた /各地に残る在来のジャガイモ /アイルランドの悲劇 /故郷を捨てた人々とアメリカ /カレーライスの誕生 /日本海軍の悩み
 
第6章 トマト
    ―世界の食を変えた赤すぎる果実
世界で四番目に多く栽培されている作物がトマトである。
アメリカ大陸由来の果実が、 ヨーロッパを経てアジアに紹介されてわずか数百年の間に、トマトは世界中の食文化を変えていった。
ジャガイモとトマトの運命 /有毒植物として扱われたトマト /赤すぎたトマト /ナポリタンの誕生 /里帰りしたトマト /世界で生産されるトマト /トマトは野菜か、果物か
 
第7章 ワタ
    ―「羊が生えた植物」と産業革命
十八世紀後半のイギリスで、安価な綿織物を求める社会に革新的な出来事が起こる。
蒸気機関の出現により、作業が機械化され、大量生産が可能になった。
これが「産業革命」である。
人類最初の衣服 /草原地帯と動物の毛皮 /「羊が生えた植物」 /産業革命をもたらしたワタ /奴隷制度の始まり /奴隷解放宣言の真実 /そして湖が消えた /ワタがもたらした日本の自動車産業 /地場産業を作ったワタ
 
第8章 チャ
    ―アヘン戦争とカフェインの魔力
神秘の飲み物=紅茶を人々が愛すれば愛するほど、チャを清国から購入しなければならない。
大量の銀が流出していくなか、イギリスはアヘンを清国に売りつけることを画策する。
不老不死の薬 /独特の進化を遂げた抹茶 /ご婦人たちのセレモニー /産業革命を支えたチャ /独立戦争はチャが引き金となった /そして、アヘン戦争が起こった /日本にも変化がもたらされる /インドの紅茶の誕生 /カフェインの魔力
 
第9章 サトウキビ
    ―人類を惑わした甘美なる味
手間のかかる栽培のために必要な労力として、ヨーロッパ諸国は植民地の人々に目をつける。
そして、アフリカから新大陸に向かう船にサトウキビ栽培のための奴隷を積むのである。
人間は甘いものが好き /砂糖を生産する植物 /奴隷を必要とした農業 /砂糖のない幸せ /サトウキビに侵略された島 /アメリカ大陸と暗黒の歴史 /それは一杯の紅茶から始まった /そして多民族共生のハワイが生まれた
 
第10章 ダイズ
    ─戦国時代の軍事食から新大陸へ
中国原産のダイズから生まれた味噌は、徳川家康と三河の赤味噌、武田信玄と信州味噌、伊達政宗と仙台味噌など、戦国時代に栄養豊富な保存食として飛躍的に発展を遂げていく。
ダイズは「醤油の豆」 /中国四千年の文明を支えた植物 /雑草から作られた作物 /「畑の肉」と呼ばれる理由 /コメとダイズは名コンビ /戦争が作り上げた食品 /家康が愛した赤味噌 /武田信玄が育てた信州味噌 /伊達政宗と仙台味噌 /ペリーが持ち帰ったダイズ /「裏庭の作物」
 
第11章 タマネギ
    ―巨大ピラミッドを支えた薬効
古代エジプトで重要な作物であったタマネギの原産地は、中央アジアである。
乾燥地帯に起源をもつタマネギは、害虫や病原菌から身を守るために、さまざまな物質を身につけた。
古代エジプトのタマネギ /エジプトに運ばれる /球根の正体 /日本にやってきたタマネギ
 
第12章 チューリップ
    ―世界初のバブル経済と球
オランダは東インド会社を設立し、海洋交易で資産を蓄えており、オランダ黄金時代の幕開けの時期だった。
そして、人々は余っていた金で球根を競って買い求めたのである。
勘違いで名付けられた /春を彩る花 /バブルの始まり /そして、それは壊れた
 
第13章 トウモロコシ
    ―世界を席巻する驚異の農作物
トウモロコシは単なる食糧ではない。
工業用アルコールやダンボールなどの資材、石油に代替されるバイオエタノールをはじめ、現代はトウモロコシなしには成立しない。
「宇宙からやってきた植物」 /マヤの伝説の作物 /ヨーロッパでは広まらず /「もろこし」と「とうきび」 /信長が愛した花 /最も多く作られている農作物 /広がり続ける用途 /トウモロコシが作る世界
 
第14章 サクラ
    ─ヤマザクラと日本人の精神
ソメイヨシノが誕生したのは江戸時代中期である。
日本人は、けっして散る桜に魅入られてきたわけではなく、咲き誇るヤマザクラの美しさ、生命の息吹の美しさを愛してきた。
日本人が愛する花 /ウメが愛された時代 /武士の美学 /豊臣秀吉の花見 /サクラが作った江戸の町 /八代将軍吉宗のサクラ /ソメイヨシノの誕生 /散り際の美しいソメイヨシノ /桜吹雪の真実
 
おわりに
本書では14種類の植物がとりあげられているが、うち4種(コムギ、イネ、サトウキビ、トウモロコシ)がイネ科である。世界四大農作物(コムギ、コメ、トウモロコシ、ジャガイモ)のうち3つがイネ科である。
そのせいか、最初にとりあげられているコムギの章では、コムギそのものの特徴以上に、イネ科としての特徴がまとめられている。

まず紹介したいのは、「木と草はどちらが進化形?」という話。
木と草はどちらが進化形?
 植物には木と草とがある。この木と草とは、どちらがより進化した新しい形だろうか。シダ植物から種子植物へと進化した植物は、木を作る木本植物としてさらに進化した。
 古代の地球は、気候は温暖で、二酸化炭素濃度は高く、植物が光合成をするのに適した環境だった。そのため、どんどん大きくなれば大きくなるほど、他の植物よりも光合成をすることができる。そして、大きな体を支えるためには、しっかりとした木を作ることが必要だったのである。
 草食性の恐竜たちも、背の高い植物を食べるために、長い首へと進化を遂げていった。
 ところが、恐竜時代の終わりの白亜紀になると、状況が変化してくる。
 今まで一続きの巨大な大陸が分裂して、移動を始めたのである。 大地が引き裂かれたところは、浅い内海や湿地帯となり、大地と大地とがぶつかったところは、隆起して山を作り上げた。こうして地殻変動が起こり、複雑な地形が作り上げられるとともに、その地形によって気候も大きく変動するようになったのである。
 そして、地求環境は安定の時代から変化の時代になったのである。
 この変化に対応して劇的な進化を遂げたのが「草」である。

ふむふむ、木より草が進化形(少なくとも出現順で新しい)だそうだ。
そしてその草のなかで、双子葉植物と単子葉植物のどちらが進化形かというと、単子葉植物だそうだ。
 たとえば、その名のとおり、双子葉植物の子葉が二枚であるのに対して、単子葉植物は一枚であるとされている。また、双子葉植物は茎の断面に形成層という導管と師管から成るリング状のものがあるのに対して、単子葉植物では形成層がない。このように単子葉植物の構造は単純であるが、じつは単子葉植物の方が進化した形である。
 単子葉植物の一枚の子葉は、もともと二枚だったものをくっつけて一枚にしたものである。また、形成層のようなしっかりとした構造は、茎を太くして、植物体を大きくするためには必要だが、それだけ成長に時間が掛かることになる。そのため、単子葉植物は、スピードを重視して、形成層をなくしてしまったのだ。
 他にも単子葉植物は、葉脈が平行であることや、根がひげ根であることで特徴づけられる。双子葉植物は、大きく成長しても大丈夫なように、しっかりとした枝分かれ構造を築いていくが、大きく成長しない草本の単子葉植物は、スピードを重視して直線構造にしているのである。
 こうして単子葉植物は、スピードを重視するために、余計なものを省略しているのである。

そしてさらに単子葉植物の中で最も進化したグループの一つがイネ科植物だという。
イネ科植物の登場
 この単子葉植物の中で、もっとも進化したグループの一つと言われているのが、イネ科 植物である。
 イネ科植物は、乾燥した草原で発達を遂げた植物である。
 木々が生い茂る深い森であれば、大量の植物が食べ尽くされるということはない。しかし、植物が少ない草原では、動物たちは生き残りをかけて、限られた植物を奪い合って食べ荒らす。 荒地に生きる動物も大変だが、そんな脅威にさらされている中で身を守ろうとするのは本当に大変なことだ。
 草原の植物たちは、どのようにして身を守れば良いのだろうか。
毒で守るというのも一つの方法である。しかし、毒を作るためには、毒成分の材料とするための栄養分を必要とする。 やせた草原で毒成分を生産するのは簡単なことではない。また、せっかく作っても、動物はそれの対抗手段を発達させることだろう。
 そこでイネ科の植物は、ガラスの原料にもなるようなケイ素という固い物質を蓄えて身を守っている。ケイ素は土の中にはたくさんあるが、植物は栄養分としては利用しない物質だから、非常に合理的なのだ。
 さらに、イネ科植物は葉の繊維質が多く消化しにくくなっている。こうして、葉を食べられにくくしているのである。
 イネ科の植物がケイ素を体内に蓄えるようになったのは、六百万年ほど前のことであると考えられている。これは、動物にとっては劇的な大事件であった。 このイネ科の進化によって、エサを食べることのできなくなった草食動物の多くが絶滅したと考えられているほどだ。
 それだけではない。イネ科植物は、他の植物とは大きく異なる特徴がある。
 普通の植物は、茎の先端に成長点があり、新しい細胞を積み上げながら、上へ上へと伸びていく。ところが、これでは茎の先端を食べられると大切な成長点も食べられてしまうことになる。
 そこで、イネ科の植物は成長点を低くしている。イネ科植物の成長点があるのは、地面スレスレである。イネ科植物は茎を伸ばさずに株もとに成長点を保ちながら、そこから葉を上へ上へと押し上げるのである。これならば、いくら食べられても、葉っぱの先端を食べられるだけで、成長点が傷つくことはないのである。
このケイ素(ガラス質)がプラント・オパール(植物珪酸体)と呼ばれるもので、稲作の歴史などを考古学的に明らかにする場合に重要な遺物として調べられる。南米を別として、古くから農作物として人類に栽培されてきたのがコムギ、イネのイネ科植物だから、人類の農業の歴史を調べるのに好都合というわけだ。

こういうスピード第一主義とでもいうような特徴は、イネ科植物の種子の栄養素がほとんど炭水化物であることにも一貫している。
 このように、多くの植物が種子の中に炭水化物だけでなくタンパク質や脂質を含んでる。ところが、イネ科の種子は、タンパク質や脂質が少なく、ほとんどが炭水化物なのである。それはなぜだろう。
 タンパク質は植物の体を作る基本的な物質だから、種子だけではなく、親の植物にとっても重要な食物である。また、脂質はエネルギー量が大きい代わりに、脂質を作り出すときにはエネルギーを必要とする。つまり、タンパク質や脂質を種子に持たせるためには、親の植物に余裕がないとダメなのだ。
 厳しい草原に生きるイネ科植物にそんな余裕はない。そのため、光合成で得ることができる炭水化物をそのまま種子に蓄え、芽生えは炭水化物をそのままエネルギー源として成長するというシンプルなライフスタイルを作り上げたのである。
 それに草原は大型の植物と競争して伸びる必要もないし、むしろ大きくなっても、草食動物の餌食になるだけである。そのため、種子にタンパク質を蓄えたり、エネルギー量の大きい脂質を蓄える必要もなかったのである。

以上、イネ科植物の生物学的特徴を記述した部分を引用したが、いわゆる農業のはじまりもまたイネ科植物である。
そこで「農業革命」の評価についても、農作物を代表してか、コムギの章に記述されている。
農業は重労働
 農業の起源に思いを馳せてみたとき、農業はどのような場所で発展を遂げたと考えられるだろうか。自然が豊かな場所だろうか、それとも自然の貧しいところだろうか。
 恵まれた場所の方が、農業は発達しやすいと思うかも知れない。しかし、実際にはそうではない。自然が豊かな場所では、農業が発達しなくても十分に生きていくことができる。
 たとえば森の果実や海の魚が豊富な南の島であれば、厳しい労働をしなくても食べていくことができる。
 農業というのは重労働である。 農業をしなくても暮らせるのであれば、その方が良いに決まっている。そのため、自然が豊かな場所では農業は発展しにくいのだ。
 しかし、自然の貧しいところでは違う。
 農業は重労働ではあるが、農業を行うことで、食べ物のない場所に食べ物を作ることができる。食べ物が得られるのであれば、労働は苦ではない。農業による費用対効果は、自然の貧しいところでは劇的に増加するのだ。

そして、穀類は貯蔵ができ、それが富として蓄積され、貧富の格差も生まれる。ヤニス・バルファキス「父が娘に語る経済の話。」などに書かれているとおりである。

「農業革命」の再評価については、他にもジャレド・ダイアモンド「第三のチンパンジー」ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」などがある。


今日は、本書の最初の「コムギ」の章から紹介した。
次稿からは、それ以外の植物をとりあげる。

こうやって取り上げられている植物を一つずつ記事にしたら14回書けるわけだが、さすがにそれは気がひける。
気をとりなおして次の植物へ進もう。

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勝った!

昨日のサッカーワールドカップ


日本 2―1 ドイツ


前半があまりにも酷かったので、もう寝ようかと思った。
前半は、攻撃を組み立てているのはドイツばっかり。そのドイツのパス回しあまりにも素晴らしい。
パスを出す正確さ、パスを受ける選手のポジショニング、体勢、敏捷さ、どれをとっても見事だった。
さらに日本のディフェンダーをダンゴにして、まるで羊の群れを追い、囲む狼のようだった。

この前半から、どうして後半の逆転劇が予想できただろう。

素人の感想だけれど、前半はシステム対システムでドイツが、そのシステムの円滑な動きでもドイツが優勢だったが、後半はそのカチッとした戦いが、なんだか緩んだように見えた。

そこでドイツのシステムに狂いが生じたのかもしれない。
あるいは前半があまりにドイツ・サッカーが完璧だったので、負けるはずがないと思ったのか。

そして、日本はあきらめず、わずかなチャンスをものにした。
まるで、羊を追っていた狼が、羊(山羊かも)の角にひっかけられたようだ。



NHK News WEBから


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朝霧が立ち込める

昨朝、7時過ぎ、外へ出たら霧が立ち込めていた。

すぐにスマホで列車運行情報を確認したが、通勤ルートの路線は平常運転となっていて一安心。

学生のとき近鉄京都線で通学していたのだが、巨椋から宇治川あたりまでの区間はよく霧が出て、電車がスピードを落として運転することがあった。
そういう記憶があるものだから、霧→列車遅延と連想する。それに昨日は人身事故で大きくダイヤが乱れたし。


巨椋はもとは広大な巨椋池があった場所だから、今でも大地には水気が多いのかもしれない。それが湿気の多い大気をつくりだすのかもしれない。

宇治川の霧は、歌にも詠われている。

前も霧のことを記事にして、「あさぼらけ」の歌のことも書いている。記事を読むと、前も同じことを書いていて、貧しい発想力が情けなく思う。
同じネタを使うのは恥ずかしいので「あさぼらけ」歌の掲載は見送ることにした。


出勤のため家を出たのは、7:40頃で霧はもっと濃くなっていた。駅へ歩く道々、その霧を見ながら思った。
少し前、テレビのお天気コーナーで雲海の話があって、あちこちの雲海の名所を紹介して、どういうときに雲海が見られるかなども解説していたことを思い出した。

なるほど雲海見物だったらありがたいだろうが、雲海というのは要するに霧である。私が住む街も、ちょっと高いところから見たら雲海の景色になってるんだろうか。

もし東京で霧が出たら、スカイツリーから見たら雲海が見られるのだろうか。もっとも都会で霧が出てもありがたがる人はあまりいなくて、それより交通の乱れを心配する人のほうが多いだろう。

駅への道々、道路も霧が立ち込めて、100m先の信号が見えない。
このぐらい濃いと、鉄道だけでなく道路交通も影響を受けるだろう。高速道路だったらかなり危なそう。

結局、この霧による列車遅延は、学研都市線に関してはなかった。
京橋に着いたら、大和路線が濃霧で遅れている旨がアナウンスされていた。大和路線は環状線に乗り入れる列車があるから、環状線も影響を受けて、少し遅延が発生していた。

昨日の霧は奈良県、奈良盆地の南部あたりで濃かったのかもしれない。
なら、生駒山あたりから、奈良盆地を見下ろしたら、どんな様子だったんだろう。
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毎度のJR延着。今回は選択肢が多かったけれど……

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運転再開後に取得した画像なので、影響範囲・程度とも最盛期より小さい
昨日、出勤時、尼崎―立花間で人身事故(JRでは「お客様と接触」と表現)があったとのことで、私が乗っていた列車も影響を受けて、停止。
事故があってすぐ停止したようだが、その後、徐行運転で放出まで進んで、放出でおよそ40分ぐらい停止していた。その前の停止・徐行での遅れを合算して50分遅れで京橋到着。

今回は、情報提供が的確で、9:10に運転再開予定(実際そのとおりになった)であるとか、振替輸送のことも丁寧にアナウンスされていた。
その中でJR側が誘導しようとしていたのが、おおさか東線での旅行継続。
おおさか東線は平常通り運転しているとのことで、おおさか東線と他社線の乗換駅で、振替輸送を利用できる旨が通知されていた。

以前のこうした事故のときは、放出より手前で停止していたから、全く考慮の対象外だったのだが、放出までは来ているので、実は選択肢がいろいろある。そう、駅アナウンスが伝えるとおり、放出はおおさか東線との接続駅である。八尾市へ通勤していたときは、ここで乗り換えていたし、新幹線(西方向)に乗るときは乗り換えて新大阪へ出る。

というわけで、ちょっと別ルートのことも考えた。
私は大阪が目的駅だから、それならおおさか東線で新大阪へ行って、そこから東海道本線で大阪という方法もあるなぁと思った。事故の影響は東海道本線にも出ているから、新大阪→大阪が難しければ、地下鉄御堂筋線もある。

そんなことを考えながら、座ったまま様子を見ていた。
おおさか東線も混雑していて座れそうにはない(停止しているホームのすぐ反対側なので、混雑状態が良くわかる)、新大阪までは15分ぐらいかかる、乗換ロスを考えたら、大阪まで順調に行っても30分はかかるだろう、それにずっと立ちっぱなしだろう。

こういう非常時は、拙速の判断は悪い結果になることもあるし、代替策を採るならすみやかなほうが良いということもある。今回の場合、放出に停止した時点ですぐにおおさか東線乗換を選択してホームに並べば座れる可能性もあるが、既に出遅れているから、一列車やり過ごすことになるおそれもあった。
そういう意味では、既に時機を逸しているのかもしれない。

そういうデメリットが頭に浮かんで、昨日のスケジュールでは、午前中は不在でも仕事に穴をあけるようなことはないので、スマホで職場とは連絡すれば十分と判断した。(何より通勤時間は貴重な読書タイム。座って待っても私的には無駄に過ごすわけではない)

京橋へは50分遅れで到着。環状線は普通に運転されているようだ。
そしていつもならぎゅうぎゅうの環状線、昨日はゆっくり座れた。

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定期券・名刺入れの買い替え

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前に使っていたカード入れ。
あちこちほころんできている。

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新しいカード入れにカード類を入れたところ
窓あき部分に見えるのは保険証。その下にIC定期券
(ICカードは外側のほうが検知しやすいという考え)
定期券や名刺、カード類を容れるカード入れを買い替えた。
今まで使っていたカード入れは、おそらく20年近く使っていて、縁がボロボロになってきてあまりにみすぼらしいので、新しくした。

私は出勤時にはシャツの胸ポケットにカード入れを入れている。(だから擦れて縁が傷むのだろう)
たくさんのカード類を入れると、全体が重くなり、カード入れも膨らんで、シャツの胸ポケットという場所には似合わないことになる。
だから、できるだけ軽く、そして薄いものにしたい。

全部のカードをただ重ねておくのが一番軽くて薄くする方法だ。しかしこれではまとまりがないから、最小限の入れ物がいる。そしてその入れ物に定期券を入れるなら、さっと取り出せて改札を通れる必要がある。
また名刺入れとしても使うから、名刺がたくさん(少なくとも10枚程度)入るのが良い。

前に使っていたカード入れは、実は使い始めはあまり気に入っていなかった。カードはたくさん入るようになっていたものの、それぞれ仕切られていて、当然仕切りが多いということは、その分重量や厚みに影響する。そして前のカード入れはそういう代物だった。
カード入れといっても、安いものではないから、気に入らなくても使い続けていたわけだ。

しっかりしたものだったので、それが仇となって長持ちしたわけだが、ここへきてようやくお役御免にした。

いつも思うのだが、こういう小物を作る人って、本当に使う人のニーズを分かってるんだろうか。
必ずしも多数派とも思わないが、私のようにシャツの胸ポケットにカード入れを入れて、定期券やら名刺やらを納めている人は結構多いと思う。
そしてそういう人は、前述のようにシャツの胸ポケットという場所で、無駄に重たく分厚いカード入れはイヤだと思うだろう。
かといって、収容するカード数が少なかったり、すべすべして走ったときにすぐ胸ポケットから飛び出すようなものでも困る。

にもかかわらず余計な知恵とやらを出して、カードポケットがやたらたくさんあって、便利だろうと押しつけがましいものが多い。
私が求めるカード入れは、名刺が少量(10枚程度)入って、良く使うカードが取り出しやすくなっていること、そして定期券を入れたまま改札を通れること。この条件を満たすもので、できるだけ軽くて薄い、そして安いもの。(もちろん一定の品位は必要)

通販には現物を確認できないという不安もあるが、デパートなどではなぜかバリエーションが少なく、ニーズに合ったものがなかなか見つけられない。
ということで通販サイトで良さそうなものを選んだ

私は良く使うカード(クレジット、電子マネー兼用)は財布のほうに入れているから、この仕事用の名刺入れには、定期券と名刺ぐらいしか入れる必要はないのだが、ほかに健康保険証、マイナンバーカード、そして若干の銀行カードを入れている。
カードポケットは、名刺用の広いところ以外には、窓あきの定期券用1とあと2つしかないのだけれど、名刺用の広いところにはカードを一緒にいれても何も問題はないから、考えようによってはかなりのカード数を入れることができる。よく使うものだけカードポケットに入れてもよい。また、カードポケットも1つに2枚は入る。前のカード入れでもそうしていた。(だからカードポケットの数はそんなに多くなくても良いというわけだ)

で、結局、新しいカード入れは、まあまあ満足しているのだが、しまったと思った点が2つある。
一つは色。ブラウンレッドというのはもう少し暗いのかと思ったら、結構派手気味の赤い色だった。
もう一つは、定期券入れで検索したからだが、定期券用の窓あきスペースがあるのだが、今は定期券はICカードだから、駅員に見せる必要はない。ここも普通のカードポケットにしておいても良かったかもしれない。

あるいは定期券用のポケットは外側にしたほうが良いかもしれない、改札機を通るときに定期券側がすぐわかるように。


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「北条義時」(その2)

hojo-yoshitoki-102678.jpg 岩田慎平「北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権」の2回目。

昨日は、権門体制論と東国独立論について、おそらく頼朝までは権門体制論で解釈できるのだろうという感想を書いた。
今日は、その後、本書の本来の中心テーマである義時の時代から。

まず北条義時は今まで影が薄かった。
はじめに

 源頼家、足利義詮、徳川秀忠。
 近年にはそれぞれ研究が進展したものの、いわゆる武家政権において、二代目は影が薄い。
   :
   :
 そして本書では、北条義時の生涯を、彼が生まれる前の京都政界の動向から説き起こし、さらに貴族社会の特徴やそれとの関わりにも適宜触れていくこととする。
 武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうして貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは、鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
 北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。

はじめに
 
序 章 伊豆国と北条氏
時政以前の北条氏/保元の乱と東国武士/信西の躍進/河内源氏の凋落
 
第一章 流人源頼朝と北条氏
流人源頼朝/軍事権門化する平家/後白河院と平家/平家政権の成立/内乱の勃発と関東
 
第二章 平家追討戰
頼朝挙兵/石橋山の敗北/頼朝の関東制圧/「御隔心なきの輩」/内乱の展開/平家追討戦と北条氏
 
第三章 幕府草創
平家滅亡後の対立/義経追跡と北条氏/奥州合戦と頼朝の上洛/征夷大将軍源頼朝/頼朝の晩年
 
第四章 鎌倉殿源頼家と北条義時
後継者頼家/鎌倉殿の十三人/梶原景時失脚/小御所合戦と比企氏滅亡/頼家の失脚
 
第五章 実朝・政子・義時
実朝の将軍就任/平賀朝雅と牧の方/畠山重忠の滅亡/牧氏事件/幕府の再編
 
第六章 後鳥羽院政期の鎌倉幕府
後鳥羽院政と実朝/実朝将軍期の幕府運営/和田合戦/合戦の勝者たち
 
第七章 承久の乱
実朝の後継をめぐって/実朝暗殺/摂家将軍の下向/北条義時追討/幕府の勝利
 
終 章 新たな公武関係
新たな皇統と幕府/義時の晩年/伊賀氏事件/義時後の幕府
 
あとがき
私の記憶では、小学校の社会科では、北条氏で名前が教科書に載っていたのは、時政、泰時、時宗で、義時のことは触れられていなかったと思う。まさに「二代目は影が薄い」わけだ。

本書ではその義時が権力を握る過程が、義時が首謀者ではない場合も含めて説明されている。
まず、比企一族の殲滅は、カリスマ鎌倉殿・頼朝を失ったことが原因とする。
 頼朝から厚い信頼を置かれ、頼家を支えることを期待された比企氏と北条氏であったが、頼朝の死後、両氏は鋭く対立するに至った。頼朝の生前は、頼朝という存在が彼らの相互対立を抑止していたのである。そもそも、地縁・結縁などが近接し合う武士は、往々にして対立し合うものなのだ。頼朝を推戴して共存する東国武士たちというイメージは、頼朝の死によって霧消する儚い幻想に過ぎない。北条氏と比企氏が協同して頼家の治世を支えようとした頼朝の構想は、ここに頼家の失脚と比企氏の滅亡という形で破綻したのである。

この頼朝が考えていたであろう、比企・北条体制が、頼朝の死により実現せず、これに勝ち残った北条が、鎌倉を動かす権力の中心になるわけだ。武門の唯一者たろうとした頼朝が、平氏や同族を滅ぼしたことが、鎌倉政権において、北条氏によって繰り返されたということになる。頼朝のマネをしたのか。

この後、畠山、和田を滅ぼし、北条氏が鎌倉の実権を盤石のものにすることになる。
次の権力闘争は、もはや北条対他の御家人という構図ではなく、北条氏の中で起こることになる。
それがはっきり表れるのが義時の死後ということになる。

伊賀氏事件
 北条義時には泰時の母、比企朝宗の娘(朝時・重時の母)、伊賀の方(政村・実泰の母)、伊佐朝政の娘(有時の母)などの妻がいたことが知られる。素性のわからない泰時の母、比企氏事件後に離別したとされる比企朝宗の娘ではなく、伊賀の方が義時の正室であったことが知られ、政村も、六郎を称した異母兄の有時より年少でありながら四郎を称している(泰時は太郎を称した)。北条氏は嫡男に四郎という輩行名(出生順を示す通称)を与えるとされていることに照らせば、正妻である伊賀の方の長男である政村は、義時の嫡男であったと見ることもできる。
 だが、源氏将軍家の後家としてこれまで御家人たちを束ねてきた政子が、ここでも強力なリーダーシップを発揮し、あらためて三寅を鎌倉殿、泰時を義時の後継者に指名したのである。この政子の意向に表立って反対できる者はいなかった。
 また、義時の後継ということについていえば、母の身分や輩行名はともかく、それまでの実績に鑑みて、やはり泰時が優位であった。

義時が死んだとき、まだ政子が存命で、その一声が重かった。やはり政子は、実質的な鎌倉殿だったということになるようだ。
その鎌倉殿だが、鎌倉殿は将軍である必要はない。
 頼朝は、治承四年(一一八〇)に挙兵してから建久三年(一一九二)までは征夷大将軍ではなかったし、それも建久七年頃には辞任したと見られる。すなわち、頼朝の時代に鎌倉殿が将軍であったのは、この間の四年ほどだったことになる。
 頼家は建久十年(一一九九)正月に頼朝の跡を継いだが、征夷大将軍就任は建仁二年(一二〇二)だった。先述したように、その翌年の建仁三年九月には出家して征夷大将軍も辞任することになるから、頼家の時代の四年ほどのうち、鎌倉殿が将軍であったのは僅か一年ほどであった。
 その次の実朝は、建仁三年(一二〇三)に頼家の跡を継ぐと同時に征夷大将軍に就任し、建保七年(一二一九)正月に亡くなるまで一六年ほどこれを務めた。
 実朝の死後は、その母政子が実質的な幕府の棟梁(鎌倉殿)であったと見られるが、政子は征夷大将軍に就任していないから、実朝没後の建保七年正月から嘉禄元年(一二二五)七月に政子が亡くなり翌年正月に九条頼経が将軍に任じられるまでの間、将軍は不在であった。
 つまり、頼朝の挙兵から政子が亡くなるまでの四五年間のうち、鎌倉殿が将軍だった期間は合計して二〇年ほどであり、その大部分は実朝の時代であった。

意識したことはなかったが、将軍空位という時代が大半ということだ。将軍という地位は、実際に征夷の行動を行うわけではないから、実力者が箔をつけるものというわけだ。

実朝は相対的に弱い鎌倉殿だったから、その箔付けが大事だったのかもしれない。

実朝はおかざり将軍で実権を持たなかったという評価は、実朝が実際に発した文書などの史料から、このごろはとられないようになってきたと思う。弱い鎌倉殿だったかもしれないが、やはり最高権力者ではあったのだろう。

ところで、「鎌倉殿の13人」では、実朝が、自分は鎌倉殿を引退して、京からしかるべき養子を迎えて鎌倉殿とし、自分が後見するという話になっていたが、この台詞は成立しないだろう。鎌倉殿は実権を握っている人をさす言葉である。


そして、この構造は執権よりも実力を持つ得宗という存在が出てきて、さらに下方に展開される(執権=得宗というのも多いが)。ただし得宗は位階ではないから、序列に入れることにはならないが。
さらに得宗の下の御内人・内管領が実力者という構図は、「太平記」(1991年)の長崎円喜(フランキー堺)である。

このドラマでは執権北条高時は片岡鶴太郎。そして将軍は? 出てなかったんじゃないだろうか。

天皇<将軍<執権 (<得宗) <内管領。
日本国では、トップの下の実力者という構造が、タマネギの皮のようにできるようだ。
こうなると一番権力を持っているのは、内管領の妻かもしれない。

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「北条義時」

hojo-yoshitoki-102678.jpg 岩田慎平「北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権」について。

例年、大河ドラマそのものや、関連書籍のことを書いてきたけれど、今年の「鎌倉殿の13人」ほどいろんな本をとりあげたことはなかったし、NHKはもとより民放でも「鎌倉殿の13人」にちなんだ番組がたくさん放送された。
これは北条義時という人物の魅力ではなくて、時代の魅力だろう。ドラマでも、頼朝は誰が演る、政子は、義経は、というように、時代のビッグネームへの関心が強かったのではないだろうか。それだけ描けるドラマがたくさんあったというわけだ。
種本になるのも、「平家物語」「源平盛衰記」「吾妻鏡」と並び、さまざまなエピソードが知られている。

さて、この本は2021年12月出版だから、まさに「鎌倉殿の13人」に便乗した企画なのかもしれない。といって内容が薄いわけでは全然ない。このタイミングでさっと本を出せることは凄いことだと感心する。

そんなことを考えながら読んでいたら、あとがきに正直に書かれていた。
はじめに
 
序 章 伊豆国と北条氏
時政以前の北条氏/保元の乱と東国武士/信西の躍進/河内源氏の凋落
 
第一章 流人源頼朝と北条氏
流人源頼朝/軍事権門化する平家/後白河院と平家/平家政権の成立/内乱の勃発と関東
 
第二章 平家追討戰
頼朝挙兵/石橋山の敗北/頼朝の関東制圧/「御隔心なきの輩」/内乱の展開/平家追討戦と北条氏
 
第三章 幕府草創
平家滅亡後の対立/義経追跡と北条氏/奥州合戦と頼朝の上洛/征夷大将軍源頼朝/頼朝の晩年
 
第四章 鎌倉殿源頼家と北条義時
後継者頼家/鎌倉殿の十三人/梶原景時失脚/小御所合戦と比企氏滅亡/頼家の失脚
 
第五章 実朝・政子・義時
実朝の将軍就任/平賀朝雅と牧の方/畠山重忠の滅亡/牧氏事件/幕府の再編
 
第六章 後鳥羽院政期の鎌倉幕府
後鳥羽院政と実朝/実朝将軍期の幕府運営/和田合戦/合戦の勝者たち
 
第七章 承久の乱
実朝の後継をめぐって/実朝暗殺/摂家将軍の下向/北条義時追討/幕府の勝利
 
終 章 新たな公武関係
新たな皇統と幕府/義時の晩年/伊賀氏事件/義時後の幕府
 
あとがき
 二〇二二年のNHK大河ドラマが、北条義時を主人公とするものに決まったというので、勤務先で開催する古文書講座の題材に『吾妻鏡』を選んでみるなど、私もささやかな便乗を目論んでいた。地元のタウン誌が広報にご協力下さったこともあって、『吾妻鏡』の講座はそれなりの好評を博した。
 だがまさか、義時の評伝を依頼されるとまでは思いもしなかった。そういったものは、もっと偉い先生がお書きになるだろう、と思っていたからだ。

この時代、京都の朝廷に対し、東国の鎌倉政権は独立した権力であるという見方と、そうではなく鎌倉も権門体制の一翼であったという見方があるらしい。
ただ私が思うには、この議論は、頼朝以前は鎌倉政権はないわけだから独立した権力はあるはずがなく、そして鎌倉が実質的に天皇の継承者を決めるようになる承久の乱以後でなければ、東国権力という東西分離という見方はできない。頼朝はこのはざまにあって、頼朝自身はむしろ朝廷を支える武力の一翼、というか唯一の武力を掌握しようとしたものという見方が有力なようだ。
本書は、少なくとも承久の乱までの鎌倉政権は、権門体制の一翼という認識に基づいていると思われる。

 そして本書では、北条義時の生涯を、彼が生まれる前の京都政界の動向から説き起こし、さらに貴族社会の特徴やそれとの関わりにも適宜触れていくこととする。
 武士の社会の中心ともいえる幕府、その中枢に関わった義時のことを語るために、どうて貴族社会のことに言及する必要があるのか、違和感を抱く方もいるかもしれない。これは鎌倉幕府も京都を中心とする貴族社会の構成要素の一つであり、幕府に属する武士(御家人)たちも、軍事を専門として貴族社会に組み込まれていたからだ。そして、義時が生きた時代の社会の特徴に目を配ることが、義時本人のことを知る上で欠かせないと考える。
 北条義時を書名に掲げながら、その本人がなかなか登場しないことをもどかしく思われるかもしれないが、義時に注目した鎌倉幕府の成立とその時代について、ともに考えていただきたいと思う。

こうした歴史観は、後白河院と頼朝の関係を次のように見ることで補強されていると思う。

 なお、後白河院と頼朝との関係は、対立が強調される傾向があるものの、両者が対立したと見られるのは、義経の処遇をめぐるこのときくらいのものである。基本的に、頼朝は後白河院近臣としての立場を維持し、むしろそれを利用していた

その頼朝が、後白河の知行国である奥州に攻め入ることは次のように説明されている。
(というか、陸奥国が後白河院の知行国だったこと、それが頼朝の奥州侵攻に影響したとは知らなかった)

 義経の逃亡先が平泉であることがはっきりすると、頼朝は平泉藤原氏に対して義経の身柄を差し出すよう圧力を加えた。  平泉藤原氏は内乱初期から頼朝の脅威であり続けてきたのだが、陸奥国は後白河院の知行国であり、平泉藤原氏はそこを現地で管理する在庁官人という関係にあった。つまり頼朝も平泉藤原氏も、後白河院に集約される人脈に組み込まれていたのだ。それに配慮していたのか、頼朝も平泉をただちに攻撃するような素振りは示していない。あるいは、平泉藤原氏の当主である秀衡の後継をめぐって対立の種があることを察知していたのか、これまでも麾下の武士団や地域権力を従属させるときにはまずその内部対立を煽ったように、今後起きるであろう平泉藤原氏の内紛を利用すべく、まずは静観していたのかもしれない。
  :
 実際には奥羽(陸奥・出羽)に隣接する御家人が攻撃の主力を担ったようだが、このとき頼朝は祖先の源頼義の故事を持ち出し、その前九年合戦(一〇五一~六二年)の先例をなぞるようにして平泉藤原氏に戦いを挑んだとされる。頼義の時代に河内源氏の家人となった平泉藤原氏を、私的に処罰するという理屈で、後白河院の制止を振り切ったのだ。

頼朝は、朝廷を支える武力の独占を狙い、平氏、競争相手の諸国源氏、そして最後に残った平泉藤原氏をつぎつぎに打ち破ったと総括する説をよく聞くようになった。
そしてそれが成った時、朝廷を支える第一人者となろうとしたのか、それとも東国独立政権を盤石のものにしようとしたのか。
それは北条義時を待つことになる。

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有料信号機ってアリ?

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湖に浮かぶ鳥居が人気の白鬚神社
危険な道路横断防ぐ柵設置へ
びわ湖に浮かぶ鳥居が人気で無理に横断する人があとを絶たない、滋賀県高島市にある白鬚神社前の道路の安全対策について、県や警察などが検討を重ねた結果、びわ湖側に下りられないよう高さ1メートルほどの柵を設置することになりました。

高島市にある白鬚神社はびわ湖に浮かぶ赤い鳥居がシンボルで、幻想的な風景の写真が撮れると人気のスポットになっています。
ただ、鳥居を間近で撮影しようと、交通量が多い神社の前の道路を無理に渡る観光客があとを絶たず、去年12月には死亡事故も起きるなど、過去10年間で22件の人身事故が起きていました。
こうした状況を受けて道路を管理する国土交通省や県、それに警察などではことし5月から安全対策の検討を始め、神社の前に横断歩道を作る案も検討しましたが、ふだんから渋滞している道路がさらに渋滞するおそれがあるなどとして採用しませんでした。
そして、道路の横断を抑止する対策に力を入れることを決め、道路を渡ってもびわ湖岸に下りられないように、新たに高さ1メートルあまりの柵を道路脇に設置することにしました。
現在、ガードレールが設置されている場所にはガードレールの上にさらに30センチほどの柵を設置するということです。
柵の完成時期は未定で、国土交通省などは、今後、景観に配慮したデザインになるよう検討することにしています。

県道路保全課の久村藍子 主幹は、「白鬚神社の前は、車のスピードが出てしまう地点なので、渡らないようにしてほしい。今後、白鬚神社を紹介するパンフレットに展望台からの写真を使って、ここからでも安全に、きれいに撮影できるとPRしていきたい。将来的にはバイパスの整備によって、白鬚神社前の交通量は減少すると思うので、その時に状況を改めて確認して、横断できるようにするかどうか検討していきたい」と話していました。
NHK 滋賀 NEWS WEB(2022.11.17)
先日、湖に浮かぶ鳥居が人気の白鬚神社 危険な道路横断防ぐ柵設置へというニュースが報じられていた。
テレビだから、湖中の大鳥居に面した道路(琵琶湖西縦貫道路)を、多くの車がけっこうな速さで走っている様子も放送されていた。なるほど、これは危険だな。ネコが轢かれてもおかしくなさそうな場所だ。

ここの危険な横断を抑止するため、湖岸へ降りられないように柵を作るのだそうだ。

それでも柵をよじ登る輩が出るかもしれないと思うが。
もっとも写真を見ると、湖岸には道路から降りる階段のようなものもある。何かの神事の時に使うのかもしれないが、こういうものがあるとここへ来てください、道路を渡ってくださいと誘引しているようなものでは?

いろいろ対策を検討した結果だそうだ。
こんなところに無粋な歩道橋を作っては景観ぶち壊しだろうし、警察が言うように、信号を設置して交通渋滞を悪化させるのも困るだろう。

報道では、景観に配慮したデザインを検討するとなっている。大鳥居をバックに柵が立つ、その景色が素晴らしい、というようになればと思う。

それでもやっぱり柵なしで大鳥居を見よう、撮ろうという人は完全には絶えないだろうけど。


この報道でつい考えてしまったのだが、有料の信号機ってできないのか。
歩行者のためのもので、10円とかなにがしかを投入したら、30秒間ぐらい歩行者信号が青になり、車の流れを止めるというもの。押しボタン式信号機の有料版という感じ。
渡りたい人が多いと、次々にお金が投入されて、それこそ渋滞悪化となるから、この場所では適用できないかもしれないが。

押しボタン式信号機が設置されているところでは、誰も横断しようとしていないのに、ボタンが押されて、車道の信号が赤になっていることがある。いたずらかもしれない。そう思うと腹が立つ。
有料化したら、いたずらはある程度減らすことができるのではないだろうかと思う。
もちろん問題はある。橋の場合は、もともと人が歩けるところではないのを、歩けるようにしたという便益があるから、有料化しても理屈は通りそうだが、天下の公道では、危険だからこの場所を歩くなというのはあったとしても、歩くのにお金をとるのかということになる。

昔あった関所というのはどういう理屈で関銭(通行税)を徴収したのだろう。問答無用かな。


いたずら防止が目的だったら、信号を青にするときに徴収、渡り終わったら信号を赤にして返金するという方法も考えられる。
現金(コイン)では難しいが、キャッシュレス決済などならできそうに思う。

ここを行ったり来たりするといういたずらもあり得るが、その場合はいたずらをしている人は姿を見られやすくなるだろう。


ところで「横断禁止」と大書されているところがちょくちょくある。私の家の近くにもあるが、そこは駅へ行く近道で、朝の通勤時など、結構多くの人が横断しているのを見る。過去に横断者をはねる事故も起こったそうだ。
「横断禁止」の場所って、横断のニーズが高いところなんだよなぁ。

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パストラミビーフとチェダーチーズのサンドイッチ

昨日の昼食の話。
家人がいるときは、仕事にいくときには弁当を作ってもらっていたが、独居老人となっては朝、弁当を詰めるのは手間だ。

家人が弁当を作るときは、前夜の残り物を詰めることが主だったが、冷凍惣菜などを使っていては残り物など出るはずもない。


それで、出勤途中にコンビニに寄ってサンドイッチやおにぎりを買うことが多くなっている。もちろんお昼を食べに出るということもたまにはするけれど。

そんなことを繰り返していたが、休日の朝、スーパーへ買い物にいったとき、お昼をサンドイッチで済まそうと思って売り場へ行ったら、納品できなかったという注意書きがあって、サンドイッチ類が全くなかった。それで今まであまり利用したことのない、同じ建屋内にあるパン屋をのぞいてみた。

こちらには普通のサンドイッチもあるが、眼を引いたのは、コッペパンに具材を挟んだタイプのもの。具材違いで2,3種類あったが、パストラミビーフとチェダーチーズのものが良さそうに思った。他にロースハムとレタスというのもあったと思うが、これは毎朝の朝食と同じ(ただし朝食はトーストした食パンではさむ)。

IMG20221101115858-crop.jpg

サンドイッチと似たものでバーガー類がある。ときどき大手チェーンで食べたくなるが、バーガーはパンを食べるより具材を食べる感じがする。またそのためのソースもしっかりしているが、こちらのコッペパンサンドはパンを食べるのに、ちょっと具が入っているという感じ。であるけれど、具材そのものの味で十分おいしいと思った。

薄切り食パンサンドもパンが薄い分、具材中心のような気がする。


サイズは小さいけれど、もともと小食の私としては、ちょっと物足りないかなと感じる程度、これだけでお昼にしても良い。足りないと思ったらクッキーでもかじれば良い。

この種の商品なら普通のことだが、消費期限は当日限りである。
最初はその日のお昼に思って買ったわけだが、サイズが手ごろなので、弁当にしても良いなぁと考え、ときどき出勤前日に買って、一晩冷蔵庫に置いておき、出勤時にもっていったりしている。
消費期限は過ぎているが、特に味が変ということも、おなかをこわすということもない。

スーパーのサンドイッチ売り場には、薄切り食パンのサンドイッチだけでなく、時々カスクートも出ているが、具材はハムと少量のレタスだけでお昼にはちょっと物足りない。
また、出勤時に寄る駅前のコンビニには、本稿のような商品もカスクートも置いてない。
薄切り食パンサンド以外の選択肢を用意してくれたらと思う。

それにこの頃、サンドイッチの具が中央付近だけに入って、周辺の広い領域は具がない状態のものが多いように思う。これって詐欺じゃないか。


ということでたびたび弁当代りに持っていく。前日に買っておいたものだから、消費期限切れだけど。

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量を間違えたか、ある日の夕食

先日、外食時に出てきた料理の量が多かった話を書いたけれど、今度は惣菜の量が多すぎた話。

昨日の記事で、百貨店のレストランで昼食を食べたことを書いている。そのレストランを使ったのは、残高が多すぎる百貨店のお買物券を持っていたからだが、そのとき夜のおかずも、このお買物券が使える百貨店で売っている惣菜にしようと考えた。

IMG20221114173601-crop.jpg 買ったのはカレイの唐揚げ。
本当は小ぶりのメイタがあればよかったのだが、この惣菜店では大きな、多分、真ガレイのようだ。

独居老人の私でも、炒め物や焼き物なら問題なくできるが、揚げ物はようやらない。理由は油の後始末である。家人は使った油をとっておいて、新しい油と混ぜて使っているが、そういう面倒なことを滞りなくする自信がない。

そういえば、前に来ていた訪問看護師さんは、廃油処理剤を使えば簡単ですよと言っていた。それなら私でもできそうだからやってみようか。

ということで揚げ物にしようと考えた。
鶏の唐揚げは前日で懲りてるし、トンカツは百貨店内にKYKもあるが、家の近所にも別のチェーン店があってたまに利用しているから、久しぶりに食べたいと思ってカレイの唐揚げにしたわけだ。

後で思ったのだが、アジの唐揚げとかでも良かったかも。カレイの隣にはタコの足の唐揚げは置いてあったがアジもあったのだろうか。


店頭で見たところではそんなに大きくも見えなかったのだけれど、持って帰って家で見ると、凄く大きい。
逆のことは良くあると思う。逃がした魚は大きいというが(水の中の魚は屈折率の関係で大きく見える)、遠くにあったものが手元にくると期待と違う。
ところがこれはやたら大きくて、失敗した、こんなに食べられない、しかもこのカレイだけでは足りないと思ってお刺身まで買ってある。
だからメイタがいいんだ。

惣菜店で買って帰ったものだから、もちろん冷えている。いつも家人はオーブントースターで温めているから、そうしようと思って、念のためネット情報を拾ってみた。そうするとオーブントースターで温めるときに、アルミフォイルを敷くが、これをクシャクシャにしておくと、余分な脂が落ちてクシャクシャのところに貯まるとあった。なるほどと思って、そのアドバイス通りにした。加熱時間は長めの8分間。

大きいから当然、骨も強い。小さいメイタの唐揚げなら、縁側はもちろん、胴体もまとめて齧ればおいしくいただけるが、さすがにそういうわけにはいかない。
胴体は無理だが、縁側は手でつまんで胴体から引きはがして齧ってみたら、これだけの大きさなのに、鰭の棘もさほどの抵抗なしにいただけた。もちろん口内を傷つけないように注意しながらだが。

結局、この大きなカレイも、刺身6切れ(もちろん褄の大根も)も、完食した。腹いっぱいである。
ごはんはパスした。

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連日のランチ外食

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昨日は、前日に続いてランチは外食にした。
2日連続でランチを外食というのは、私にしては珍しいと思う。

食べたのは、貝柱とインゲンのクリームソースのパスタ。
別にパスタを食べたかったとか、この店がお気に入りということはない。用事があって行った百貨店内のレストランで、家内がこの百貨店の友の会というのに入っていて、会員のお買物券というのがあって、このレストランだとそれが使えるという理由。

だからとくに料理について何かコメントするつもりはない。
敢えて言えば、パスタランチは、トマトソースとクリームソースから選べたのだが、貝柱というのに惹かれてクリームソースにした。ただ貝柱から出るあの出汁の感じはほとんどなく、ちょっと残念。全体にあっさりしすぎと思った。これならトマトソースのほうが良かったかもしれない。

さて、百貨店に用事というのは、家内が入っている友の会の手続き。友の会というのは、毎月10,000円とかを積み立てると1年後に1万円のプレミアがついて130,000円の買い物券がもらえるというもの。もちろん他に百貨店での買い物の割引などもある。
その積立が1年の期間を経過して満期になったので、その130,000円分の買い物券の受け取りである。買い物券といっても、紙とかではなくて、会員データベースで管理されているようで、受け取り手続きをすれば残高が更新されるようになっているらしい。

それなら窓口へ行かなくても、友の会側でデータベースを更新して、その旨会員に連絡すれば良さそうなものだが、ひょっとしたらカード自体にも残額が書き込まれているのかもしれない。


実は、このお買物券の残額が半端な額でない。昨日、私がこのレストランの食事の他、夕食のおかず、日本酒をこのお買物券で買った後で、残高が321,334円もある。昨日の残高積み増し額が130,000円だから、2年分以上の残額となっている。だから少しでも使おうと思って、わざわざこの百貨店内のレストランで食事をしたわけだ。

残高が減らない、つまり使っていないのは、家人が入院していることもあるが、それ以上に、この百貨店内で家人がよく買っていたファッション・ブランド店などが撤退し、まとまった金額を使う機会がほとんどなくなってしまったことが大きい。
このお買物券が我が家の近所にある系列スーパーで使えたらすごくうれしいのだけれど。

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腹いっぱい、量的なばらつき、同じ商品?

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昨日の唐揚げ定食

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前回の唐揚げ定食
昨日、図書館へ行ったとき、以前も行ったファミリーレストランで昼食をとった。

変わり映えしない話で記事にする気はなかったのだが、特筆すべきことがあったので報告。


注文したのは、塩唐揚定食(この店の定食メニューで一番安いもの)、前回と同じメニューである。
店の中は前回と違って結構、客が入っていて、10分ぐらい待たされた。

そして出てきたものを見てびっくり。
唐揚げがやけに大きくて、数も多い。
それなりのサイズの唐揚げが8つ載っている。一人で食べる量ではないのでは?

前はこんなに多かったかな? このレストラン・チェーンの別の店でも、同じ唐揚げ定食を頼んだことがあるが、それもこんなに多くなかった。

この店の唐揚げ定食は安いだけあって、唐揚げの見た目が大きくても、皮の部分が多く肉の量は少ないと思っていたのだが、そういうこともなく、皮にはしっかり肉が付いていた。

注文を間違えたかなと思って伝票を確認したが、548円(税込)となっていたから間違いではない。

大食漢なら大喜びするところだろうが、私はとてもそういう気分になれない。注文した食べ物は残さず食べるように躾けられてきたから、むしろ苦痛である。ドギーバッグ(ただのポリ袋で良い)を持ってきていたらよかったな。

マクドナルドでビッグマックセットなどを頼むときは、スーパーの小さな袋にポテトの残りを入れて持って帰ったりしている。


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長時間テーブルを占拠しているJK(?)
結局、休み休み食べて、なんとか完食した。

どうしてこんなことになったんだろう。店にとって決して利益になるとは思えない。
多分、下ごしらえしたチキン・ピースはだいたい同じ大きさにしてあり、供する個数も決めてあるんだろう。ところが、たまたま大き目のピースが偏ったのと、数も間違えたのだろう。

そう、2切れに見えていたが、細い皮だけでくっついているものがあった。これを1つと数えたのかもしれない。


隣の席には、飲み物(ドリンクコーナー)だけは利用しているようだが、ずっと勉強しているJK?が、お昼時にもかかわらず、4人席を長時間占拠している様子だった。

店員も別段、注意する様子もなかった。

この年代の女子JKは群れて騒がしいのが多いと思うが、この娘は実に静かに、集中している様子だった。

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休刊日

本日は月例の休刊日。


オオヒルヤモリ、マウイ島(National Geographic)


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「歴史学者という病」

61BFisTErsL.jpg 本郷和人「歴史学者という病」について。

読み始めたときは、「歴史学者という病」じゃなくて、「病の歴史学者」かと思った。読み進めていくうちに、なるほど「歴史学者という病」なんだなと少し納得。

本書は基本的には、著者の自伝みたいなもので、生い立ちから歴史学との関わりを回顧するもの。
まず、素人の歴史好きと、歴史学者の違いに触れる。著者自身の述懐として、正直に自分は大学に入るまでは素人の歴史好きだったというところからはじまる。
そして大学で歴史学の学徒となって、まずは「大好きな歴史との訣別」となる。
だが、著者のエライところは、そう反省しながら、歴史好きという根っこは維持していることではないだろうか。

私が思うに、歴史学者はやはり実証の世界に閉じこもるだけではダメだろう。著者は個別の歴史事実を史料から拾い上げるだけのものは単純実証という。
歴史学者が、細かい歴史事象の点的な事実検証にとどまって、そこから何をhi-storyにするのかを素人に任せたのでは、大きな勘違いが起こるかもしれない。やはり事実とstoryの間をつなぐ役割の人が必要ではないかと思う。
はじめに
国家的大事業の『大日本史料』編纂 /歴史学は不可解なり
 
第一章「無用者」にあこがれて
立身出世は早々にあきらめ、好きなことをして生きようと思った
幼少~中高時代
「死」が怖かった /野口英世のような医者になろう /偉人伝を読みあさる幼児 /細川忠興・ガラシャみたいな両親 /母のすすめで越境入学 /仏教美術に「死をも超越する永遠」を知る /あっけなく「医者の夢」ついえる /自己否定と中島敦 /北村透谷の人生から考えた「どう生きるべきか」 /人材の宝庫だった民族文化部 /唯物史観で歴史を教える教師 /大津透に言われた「ノートは綺麗に書くな」 /唐木順三『無用者の系譜』との出会い /「偽物」の自認が磨いた教養主義 /パニック障害をひた隠して東大受験
 
第二章 「大好きな歴史」 との訣別
歴史学は物語ではなく科学―だから一度すべてを捨てる必要があった
大学時代
入学直後にひきこもり /「こんなのオレが好きな歴史じゃない!」 /一流の教育者に出会う /「石井進」論文の衝撃 /歴史とは誰のものか /「豚に歴史はありますか?」―皇国史観の歴史学 /「下部構造こそが歴史の主役」―マルクス主義史観の歴史学 /「実証に基づいた社会史への広がり」―四人組の時代 /現代の常識から歴史を考える危険性 /未来の伴侶の能力に惚れる /歴史学にロマンは要らない? /感情と行動を区別する難しさ /源頼朝は冷酷か―物語と歴史学を切り分けて考える① /北条政子は冷酷か―物語と歴史学を切り分けて考える② /織田信長はなぜ殺されたか―物語と歴史学を切り分けて考える③ /「大人になる」ということは /政治史よりも民衆史 /「学問の新発見」トリビアを一蹴される /もっと我々を教育してほしかった /エリート意識は棄てなさい /卒論ではひたすら数字を並べた /高野山から日本全国に広げるには?
 
第三章 ホラ吹きと実証主義
徹底的に実証主義的な歴史学を学んだ、そしてホラの吹き方も―
大学院時代・そして史料編纂所へ
大学院の学費 /未来の妻に説教される /レベルが違った大学院の実証史学 /網野史学は「2倍」史学 /網野史学のプロデューサー /気宇壮大なホラを吹け /畠山義就と毛利元就 /実証とホラのハイブリッド /それって「ダブスタ」じゃない? /人生最悪の遅刻 /撃沈 /史料編纂所の試験 /皇国史観vs.実証主義の死闘 /修業時代とブラック寺院 /「日本の宝」の流出を憂う /昔追い出した人が、就職先の先輩だった件 /「ふつうじゃない」大学の先生になる
 
第四章 歴史学者になるということ
歴史学には課題が多い。だからこそ大きな可能性があるのだ―
史料編纂所時代・そして新たな道へ
結婚という名の…… /私は認められたかった /「博士号」の激しすぎるインフレ /恩師・石井進の死 /なぜ私はどの出版社からでも本を出すのか /そして「事件」は起こった /私の仮説―鎌倉幕府には3軍まであった /実証と単純実証のあいだ /「一つの国家としての日本」は本当か /皇国史観の「しっぽ」 /「輝ける古代」はエリートの歴史観 /「法学部至上主義」の影響も? /「生徒が考える教科書」はNGだった /諸悪の根源は大学受験 /実証への疑念、史料への疑念 /私を批判する若い研究者たちへ /「牛のよだれ」は誰でもできる /我が妻の「アクロバット実証」 /「ホラを吹け」の真意 /分析こそが新しい物語をつくる /唯物史観を超えるヒント /構造を示す /民衆からユートピアは生まれるか /網野史学の功罪
 
おわりに
  ヒストリカル・コミュニケーターに、オレはなる!
「日本史のIT化」は学問か 若い教員の憤り /ヒストリカル・コミュニケーターを目指して /歴史学にもマネタイズが必要
それは歴史学者の役割ではないというのなら、あらたな学問分野を興さなければならないのではないか。著者がやりたいことはそれなのだと思う。

思えば、物理学が、実験物理学、理論物理学、応用物理学に分けられて、どれを主とする研究をやろうと物理学者である。もちろんそれらの間に壁があってはならない。歴史学にもそういう持ち場があってよい。実証と理論が刺激しあい、手を携えてこそ研究の深まり・広がりというものが生まれるのではないだろうか。

また、「歴史学にロマンはいらない」というのがマジメな歴史学者のように思われているらしい。
であるけれど、理科系で学んできた私などは、科学(自然科学)にはロマンがないとつまらない。というか、すべて科学的論説・数学的推論というものは、文字の形で完全に記述できなければならないが、文字の裏にはイメージとロマンがある。それが説明できない先生はつまらないのである。実際、文字だけのテキストから自分流にそれを絵にして理解するということは、普通に行われていると思う。

法律の世界もそうじゃないかと私は勝手に思っている。当該法による秩序が確立された社会のイメージがあって、そのイメージをどのように文章で表現するのかが法律なのだと。細かい条文の語法についてああだこうだいうのは文章家で法律家ではない。もっとも変な語法の約束事を作るぐらいなら、括弧()を使って文の構造を明示するようにしたら良いと思う。

自然科学でロマンが許されるのは、確たる文字記述―真偽判定できる―が必ず存在するからだろう。歴史学には、その文字記述に真偽判定ができないから、ロマンでは勝負できないということかもしれない。

著者が描く歴史学者の世界で一番の驚きは、サステイナビリティだ。
著者の妻の言葉だそうだが、「サステナビリティ(持続可能性)は、答えを出してはいけないもの」なのだそうだ。もちろんこれが真実だとは思わないが、そういう心理があることは多分否定できないのだろう。そして決定的真実として提示されたものに対して、どこかに抜けがあるのではと考えたくなる、結果、真理性は先送りされるという現象だろう。
先日、100分de名著で折口信夫をとりあげていたが、その中で、名著というのは、そこに書かれているコトだけでなく、そこから新しい問題が見えてくるというような趣旨の発言があった。
実際、自然科学だったら、新しい真理が発見されたら、そこから派生的にさらに問題が拡がるのが通例だと思う。それが自然は人智を超えているということだ。(歴史は人智を超えているか?)。

知識は球体だというたとえがある。知識は、自分の周りの球体の中のもので、未知の領域はその球面の外である。知識(球体)が大きくなれば、それだけ未知の境界面(球面)は大きくなるというものだ。


ところで「物語と歴史学を分けて考える」という節で例示されている北条政子の話で、今まで私が知らなかった(歴史に詳しい人なら常識かもしれないが)ことが書いてあった。
それは承久の乱のときの政子の演説(実際には安達景盛)は有名だが、これとは全く異なる内容が『承久記』にあるのだという。それによると、
「私は頼朝さまとの間に四人も子供を産んだ。けれどもおまえたちもよく知っているように、二人の男子は政争のなかで死んでしまった。二人の女子にも先立たれてしまった」と。要するに「四人も生んだのに誰一人として生きていない、この状況で弟の北条義時までもが殺されたら、自分は本当にひとりぼっちになってしまう」と訴えたと記されている。
この話はもちろん私には興味深いことだが(まさか「鎌倉殿の13人」ではこちらを採用したりはしないと思うが)、本書ではこれを引き合いにだして、
「子殺し」という一点から政子の感情ばかりにフォーカスして、「尊敬できる」「哀れな女性だった」という感想に拘泥していては、より大事な視点を見落としかねない、ということが分かっていただけるだろうか。こうした「人間の内面論」を超えた場所でこそ、日本の歴史というものを語るべきだ、と私は常々思っている。
と歴史上の人物が心中で何を考えていたかで歴史を語ることを戒めている。

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道長、ちょっと細いんじゃないか?

再来年の大河ドラマ「光る君へ」の藤原道長役が柄本佑氏に決まったと報道されていた。
イメージが違うと思った。

Fujiwara-mitinaga-up.jpg 道長といえば、糖尿病を患っていて、最後はおそらくそれが原因で死んだことが、ほぼ通説になっていると思う。そして糖尿病になったのは、最高権力者ならではの美酒美食が関係していて、おそらくメタボ体型だっただろうとされる。

柄本佑氏はそういう道長像とはイメージが合わない。

最高権力者っぽいとしたら、いつもドラマで政界の黒幕的なことをやるお父さん柄本明氏のほうが向いているかもしれないが、柄本明氏もメタボ体型ではないし、それに道長は黒幕ではなくて、もっと陽の当たるところで堂々としていただろうから、やっぱり違うイメージ。


では、といって誰が適役かと言われたら困ってしまう。
堂々とした押し出しで、ちょっと天真爛漫、実は弓の名手でもあった……

「恰幅の良い日本人男優」で検索して出てきた名前からだと、吉田鋼太郎氏、田中哲司氏とかが、ちょっと近いような気がする。どちらも衣冠束帯が似合いそうだ。自信漲る声という点なら吉田氏のほうがさらに道長に向いているような気がする。いかにも紫式部に手を出しそうな雰囲気だし。

もっとも、道長が紫式部を中宮彰子の女房に送り込んだのは1007年らしいから、道長はまだ40歳前後、まだメタボ体型になりきっていなかったかもしれない。紫式部が宮廷から辞したのは1012年というから、二人の付き合いが宮廷内であれば、道長はまだ50歳にはなっていない。
ドラマが描く年代がどうなるのかはわからないが、柄本佑氏は、まだ肥満する前の道長くんなのかもしれない。

それにしても、主役の吉高由里子に続いて発表された主要キャストの一人である。というか「光る君へ」は、紫式部と道長のラブストーリー仕立てとかいう話もある。道長を光源氏に仮託したという設定だろうか。実際にそんな話はないだろうし、道長がスリムでも良いのだろう。

それならもっとイケメン道長という選択肢もあったかも。


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ホトトギス2022

IMG20221106071120.jpg 庭木の剪定のとき、事前に庭木の様子を写真に撮っておこうと家の周りを見て回ったとき、ついでに例年咲くホトトギスの写真もとっておいた。

庭師がこういう花を踏み荒らすという心配などは全くないので、慌てて撮る必要はないのだけで、ブログのネタ不足を補うためなのでご容赦。なお、2年前にも写真をアップしていて、変わりわり映えしない写真になった。


ほったらかしの庭の花の中では、結構、主張しているほうだと思う。それはホトトギスが咲いているのが、家の北側で、しかも高木(レイランディー)の陰にもなる、陽当たりがあまりよくないところだからだろう。
同じ場所に以前はアジサイが植わっていたが、花をつけないまま目立たない存在になって、ホトトギスばかりが目立つ。

この日陰で、また人の眼にもつきにくい場所に、積極的に草を植えようという気はないのだけれど、何かこの場所向きで、かつ、手のかからない植物があったら、にぎやかしに植えてみてもよいかもしれない。

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皆既月食&天王星食 2022/11/08

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皆既の少し前

IMG_0149-crop.jpg
皆既(19:30頃)
昨日は皆既月食だった。
天気が良く、私の家からも良く見えた。

表のとおり、部分食の開始は18時09.3分、皆既食の開始が19時16.7分だった。

部分食の開始18時09.3分
皆既食の開始19時16.7分
食の最大19時59.2分
皆既食の終了20時41.7分
部分食の終了21時49.1分

食の最大というのは不思議な表現だ。皆既の状態ならどれも同じだけ食されているだろう。もちろん言わんとするところは、地球影の中心に月が来る時刻ということだろうけど。


この表の時刻は日本標準時である。そして全国どこでもこの時刻に食が起こる。
理由は簡単で、月食というのは地球の影に月が入るわけで、それは地球上どこであっても同じタイミングである。日食の場合は地球上にできた月の影に入ったところで食が観られるわけだが、影の位置は地球の自転とともに移るから、場所によって食のタイミングは異なってくる。

前の皆既月食は2021/5/26と1年半前だったが、次の皆既月食は3年弱後の2025/9/8ということだ。

皆既の少し前と皆既になってからの写真を掲げておく。
これは我が家にあるデジタルカメラで望遠性能が一番良いもので撮影。一応三脚を使って撮ったものだけれど、なかなか良い写真は撮れない。レリーズが無いので本体のシャッターボタンを押すから、どうしてもそこでブレやすくなる。
まぁ、写真をきちんと撮るのではなく(良い写真は天文台なりが撮ってネットで流すだろう)、私がこれを見て、そして撮ったという記録である。つまりブログに載せる程度の写真ということだ。

さて、昨日は同時に天王星食も起こった。
このように皆既月食と同時に天王星食が起こるのは、442年ぶりだそうで、次は322年後だという。

天王星食は、京都では、20時32分潜入開始、21時21分終了(出現)となっている。
皆既月食で月が暗いから、天王星食も観測しやすいのだと思うが、もともと天王星って6等級ぐらいで肉眼では見えにくい。長い間、惑星は水金火木土の5つと信じられていて、1781年にハーシェルが発見するまでは知られていなかった。
だから食を観測するには望遠鏡が必要だし、なにより星食の観測というのは、まさに潜入するとき、出現するときというのが醍醐味で、正確な時間に観測しなければならない。

大きな望遠鏡なら、刻々と月の向こうへ入っていく天王星を観測できるのだろうけれど、普通は点でしかない。潜入しているときの天王星ですとか、出現したときの天王星ですと写真を撮ってもしかたがない。

私も小さな天体望遠鏡は持っているけれど、天王星を大きくとらえるのは無理だし、セッティングも面倒だからパス。


こうやって珍しい天文現象が報道されると、にわか天文ファンというのも出てくるだろうし、およそたいていの人には不要な天体望遠鏡も売れるのかもしれない。
良いことだ。

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家人の不調から1年

20211108_byousshitsu.jpg 1年前の今日(11月8日)、家人が外科手術のために入院した。
そしてその翌日、手術が行われた。

手術は無事終了し、病巣はおそらく完全に除去されたと思われる。そしてさらに、再発防止のための放射線治療にも通った

しかし、この病因はおそらくなくなったと思うのに、家人の体調はどんどん悪くなった。
10000000000000039966_0000036731_2.jpg 放射線治療が終了して、まもなく、7年前と同様、入院することとなった。


そして5ヵ月ちょっとの入院のあと、一旦退院して、自宅療養となったものの、経過は思わしくなく、9月下旬にまた病院へ戻ることとなった。

通算すれば、この1年で、家人が家にいたのは3ヵ月ほど。そしてその3ヵ月は私も休職していた。
まだ私は仕事もしているけれど、年金もいただく、高齢者である。この歳になって、こういうことになるとは思ってもみなかった。

この1年で家人の入院生活は9か月にもなるわけだが、まだ退院の目途などは全くない。
仮に退院となっても、前の自宅療養のような状態で、結局また病院へ戻るというようなことでは、どうしようもない。

ゆっくり余生を楽しむ生活は、簡単に許されるものではないようだ。

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庭木の剪定 2022秋

昨日は、我が家の庭木の剪定をしてもらった。
この時期が剪定の季節ということで、庭師は忙しいとのこと、10月中旬ぐらいに予約をして昨日になった。

剪定対象は、レイランディ4本、ボウガシ、キンモクセイ、ウメ、ヤマボウシ、サザンカと、結構な数があるのだが、ずっと同じ人に頼んでいて、料金も格安のようだ。

剪定について、こちらから何か希望を述べたことはなく、すべて相手まかせ。なので、ときどき剪定後の姿が、これはどうかなと思うこともある。

人間の散髪でも、時間をかけて少しずつ伸びて違和感なく長くなった髪を、バッサリ切るからその落差から、これはどうかなと思うことがある。それと同じかもしれない。


今回はキンモクセイを切りすぎてるのではと思った。(⇒2022年のキンモクセイの記事
キンモクセイというと、なんとなくこんもりと丸くなっているイメージがあるのだけれど、下のほうが随分切られていて、涼しすぎる姿になっている。これではキンモクセイの2度咲きというのは、今年はあったとしても気づかないかもしれない。

あと梅もかなり切ってある。これだけ切って、来年の花、結実は大丈夫だろうか?

今までも結構切られたことがあるが、それで花・実が極端に減ったりはしなかったが。


剪定を頼む一番の理由は、レイランディの丈が高くなること(電線にかかってしまう)と、ボウガシがむさくるしく繁ること。これだけがきちんと気にならなくなれば、十分だと思う。(他の木は私でも切れないこともない)

なんだかんだ言っても、とりあえずすっきりした。
植木屋さん、いつもありがとう。

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剪定前

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剪定後

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庭側から見たところ

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切りすぎた? キンモクセイ

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みを(miwo):AIくずし字認識アプリ

miwo-icon-google.png みを(miwo):AIくずし字認識アプリというのをスマホにインストールした。

名前のとおり、日本の古文書などに使われているくずし字を読んでくれるアプリである。
アプリの存在は、NHK ヒューマニエンスの「“文字” ヒトを虜にした諸刃の剣」という番組の出演者(筑波大学副学長 池田潤氏)の発言で知った。氏は自分のスマホにもインストールされているそうだ。

くずし字が、磯田道史先生みたいに、すらすら読めたら良いなぁとは以前から思っている。
学究的な必要性とかではもちろんない。単純に、日本語で日本の文字で書いてあるんだから、日本人なら読めるのが正しい、そう思っていた。

我が家には誰が書いたか、手書きの百人一首かるたがあった。もちろん読み札は上の句だけ、取り札は下の句だけという体裁であるが、当然これはくずし字で書かれている。文字の配列も、真ん中から始まって次に右、そして左というように、結構自由になっていた。
これをなんとか読みたいと思ったのだけれど、結局、憶えている歌の札は読めるようになったにとどまる。(もちろん持ち主だった母は全部読めた。)

また家人の母は書道をやっていて、その手になる屏風とかも我が家にはある。もちろん家人の実家へいけば掛け軸やら色紙やらがあちこちにある。これがやはり読めない。
これも読める文字がいくつかあればそれを手掛かりに、知っている歌(そういう色紙類はたいてい歌である)を思い出して読もうとする。

そういうこともあって、くずし字がすらすら読めたらかっこいいなと思っていた。くずし字学修支援アプリ(KuLA)というものもあって、だいぶ前にインストールしていたが、最初のうちこそトレーニングしたものの、今ではすっかりご無沙汰である。

そこへ認識アプリの登場である。
さっそくテストしてみた。アプリにははじめからサンプルが用意されていて、うまく認識できることがアピールされているが、他のものはどうだろうと試した。

まずは私がくずし字を読みたいと考えた百人一首でテストしてみた。
百人一首のカルタの画像は、ネットにたくさん上がっている。その中から出自がはっきりしている「光琳かるた」のものを使ってみた。

hyakunin-miwo.jpg hyakunin-moto-crop.jpg


ただ、やはりと言うべきか、歌かるたは美を重視しているからだろう、くずし方が半端でないようで、miwoは随分と読み間違えるようだ。

次に源氏物語で試してみた。ところどころ読み間違えがあるが、全体として良く読めている。

genji-moto.jpg genji-miwo-crop.jpg


平家物語。これもまあまあかな。

heike-moto.jpg heike-miwo-crop.jpg


以上、3例は良く知られたテキストだから、私でもなんとかテキストと対応させて推測するぐらいならできる。
それではと、義母が書いた屏風を読ませてみた。

gibo-byobu.jpg gibo-byobu-motos.jpg gibo-miwo-crop.jpg

あかん、何のこっちゃ。

このAIはグーグルの研究所で開発したもので、AIの学習にはどうやら江戸時代の版本をベースにしたようだ。
テストに使ったものはいずれも手書きだから、版本とは微妙にくせが違うのかもしれない。

miwoの説明ページによると、くずし字がきちんと読める人は数千人程度(人口の0.01%程度)とある。大学で文学や歴史を専攻した人って在籍中の学生でもそのぐらいは居そうなのだが、彼らでも読めない人が大半だろうと想像される。
私は理系だけれど、文系ではどれだけたくさんの本を読むかが大事である、それも原典を読むのが大事というような話を聞いたことがあり、きっとそういう人たちは、変体仮名はもとより、くずし字も自由に読めるものと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。私が読めなくても、別に日本人失格ということにもならないようだ。

AIだって、今のところは上の例で見た通りである。
だが、AIはこれからどんどん学習して賢くなっていくに違いない。古典文学や歴史を専門とする学生は、最低限のスキルとして崩し字を読めることが求められるそうだが、このアプリに頼る日もそう遠くないだろう。

展覧会や博物館へ行ったときに役にたつか、ちょっと楽しみでもある。

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「さらに残念な鉄道車両たち」

71EI7oi3GrL.jpg 池口英司「さらに残念な鉄道車両たち」について。

「ざんねんないきもの事典」という本がある。この本がいう「ざんねんないきもの」とは、進化の行き過ぎとか、ただの痕跡が目立っているとか、結果的に生存の役に立ってないとか、邪魔になってるとか、そういう特徴が目立つ生き物をとりあげているようだ。
だから鉄道車両でも、やりすぎとか、仕方なくというような、車両そのものが持つ、役にたたない特徴のようなものをとりあげているのかと思った。しかしそういうわけではない。
本書がとりあげている車両は、作った人がニーズに合わせようと工夫したけれど、実際にはそういう使い方はされなかったというようなものが多い。
生物はドーキンス流に言えばデザイノイドであるが、鉄道車両はデザインドである。はっきりした意図をもってデザインされている。 著者は、とりあげた車両の多くは、素晴らしい車両なのに、そういうようには使われなかったことが残念、というわけだ。

そんな中で、意図通りに使われている車両といえば、それこそ残念な車両といって間違いない(著者もそういっている)JR四国キハ32形「鉄道ホビートレイン」だろう。これはテレビのニュースで何度かとりあげられていたから、私も前から知っている。本書でも表紙になっているから注目度は断然高いと思う。

 四国の0系新幹線「鉄道ホビートレイン」は実に残念な車両である。スピードは遅く、四国の西の端から「出て来て」くれない。こちらから会いに行くにしても簡単には辿りつけない。 この車両もいずれ代替の時を迎えることだろう。その時は次世代車両を100系新幹線をモチーフにして作ってくれれば、これもまた話題となることだろう。今度は3両編成として、中間車には2階建て車両を組み込むのである。今度は100系がテーマなのだから、居住性を向上させ、「急行」を標して運転しても良い。なにしろ今、JRには急行が運転されていないのだから、営業面での支障もないはずである。いつまでも「世界で一番遅い急行列車」のキャッチフレーズを、スイスの山岳鉄道に独占させておく必要はない。なんなら「世界で二番目に遅い急行列車」でも良い。このキャッチフレーズは全世界に向けて発信できる。

としながらも、この車両は所期の目的は十分に果たしたと評価している。

 夢物語は尽きることがないけれども、今の鉄道がいちばん失っている最たるものが夢であるに違いない。夢とはつまり、明日を信じる力のことである。現代の鉄道が経営の難しい時期に来ていることは間違いないのだろうが、利用客に夢を与えることができるということも、鉄道が備える大きな資質であったはずだ。
 四国の0系新幹線は、それを見た人が、誰かに何かを語らずにはいられなくなる力を備えている。その意味では大成功した車両である。単に「名車」とは呼びにくい気もするのだが、そこがまた良い。

と著者はなかなかの評価をするのだけれど、私には単なる物珍しさでしかないように思う。あるいは、JR各社で唯一新幹線が走らない四国が、恨みがましく見せつけているとか、自虐的な笑いを創り出しているというように見えてしまう。

あちこちで走るキャラクターデザインをとりいれた列車(たとえば四国には「アンパンマン列車」がある)とは違う世界であることは間違いない。


hobby-train-JRshikoku0.png

はじめに
国鉄C62形2・3号機
国鉄急行形サハシ
国鉄キワ90形有蓋気動車
国鉄キハ08系気動車
国鉄EF80形電気機関車
札幌市交通局M100形電車
国鉄183系特急形電車
国鉄72系アコモデーション改善車
国鉄50系客車
京浜急行電鉄800形電車
国鉄200系新幹線電車
京阪電気鉄道5000系電車
国鉄419・715系近郊形電車
国鉄100系新幹線電車
銚子電気鉄道「澪つくし号」
国鉄211系近郊形電車
伊豆急行サロ1801「ロイヤルボックス」
JR西日本クモハ84形電車
北近畿タンゴ鉄道KTR001形気動車
JR東海300系新幹線電車
JR東日本E501系通勤形電車
小田急電鉄30000形特急形電車
JR東日本E4系新幹線電車
東京都交通局日暮里・舎人ライナー
JR東日本E259系特急形電車
JR東・西・九州クルーズトレイン
JR四国キハ32形「鉄道ホビートレイン」
JR東日本E235系通勤形電車
阿佐海岸鉄道DMV
国鉄鉄道連絡船
あとがき
他の多くの車両は、クルーズトレイン以外は、ニュースになるようなものではない。というかニュースになったかもしれないが、鉄道ファンでなければ気にもとめないものであろう。

ただし鉄道連絡船のように、運行終了がニュースになるものは結構ある。


本書は「さらに」とついているが、先行するものとして同じ著者による「残念な鉄道車両たち」「もっと残念な鉄道車両たち」があるが、そちらは読んでいない。

この本は、たまたま図書館の新刊棚にあったのを、おもしろいかもと思って借りて読んだのだが、先行する2著は地元図書館にはおいてなかった。


残念と、著者も判断していないものもある。DMVとクルーズトレインである。
これらは大きなニュースとなっているから、私も知っている。
DMVについては、世界で唯一実用運転されているものだから、それだけで観光客を集めている。これがいつまで続くのかわからないが、最初に実用化をめざした北海道ですら結局実用化されなかったところを見ると、この方式が有効な場所は限られているのだろう。
鉄道とバスを乗り換える手間、ロスがないということが本来の売りだと思うけれど、今乗車する多くの観光客は、そんな手間ひまの無さに魅力があって乗っているわけでもなさそうだ。むしろ、鉄道⇔バスの切替時には降車して、じっくり見物しようという人が多いのではないだろうか。

クルーズトレインは、九州の「七ツ星」、西日本の「瑞風」など。
このクルーズは何十万円もするもので、私のような庶民の手に届くようなものではない。たしかに鉄道の旅の楽しさというやつを追求したということなのかもしれないが、私などはいかに趣向がこらされた列車であっても、列車の利用は目的地があってのものと考えてしまう。もちろんクルーズでは停車駅ごとにクルーズ客向けのさまざまなアトラクションが用意されているから、周遊旅行を同じ列車で回るという考え方もできるのだろうけど。
本書では、オリエント急行に触れて、そういう鉄道の旅を評価する。しかしオリエント急行は日本のクルーズトレインのような豪華なしつらえではないようだ。もっと控えた贅沢のようだ。たしかに、趣向をこらした車両を賞賛し、残念な鉄道車両とは言ってはいないが、これが定着するのか疑問も持っているようだ。

先行する2著ではどんな車両がとりあげられているのか、ネットでそれらの本の目次(一部)を見てみた。
「残念な鉄道車両たち」では、D51形蒸気機関車、EF55形電気機関車、E10形蒸気機関車、キハ01・02・03形レールバス、EH10形電気機関車、オシ16・オシ17形食堂車、キハ81形特急形気動車、クロ151形展望車、DD54形ディーゼル機関車、581・583系特急形電車〔ほか〕となっている。

「もっと残念な鉄道車両たち」では、札幌市交通局D1000形、神戸市交通局700形、京浜急行電鉄500形、近畿日本鉄道6421系、東京都交通局5500形PCCカー、小田急電鉄2300形、相模鉄道5000系、東京急行電鉄200形、小田急電鉄キハ5000形、近畿日本鉄道10100系〔ほか〕である。

私にはこのどれもよくわからない(D51ぐらいは私でも知っている)し、当然、何が「残念」なのかもわからない。
私が残念な車両としてあげるとしたら、数少ない知っている型式のなかではやはり0系新幹線ではないかと思う。あの普通車の座席が回転式ではなくて背もたれの倒し方だけで座席の方向が決まる(当然、リクライニングではない)という座席の固さ。

数人のグループでビールを飲みながらの乗車なら気にならないが、普通に旅行するには安楽なものではないと思う。


ちゃんと使ってもらえなかったとか、これだけ活躍したのに寂しい引退だったとか、「残念な」と銘打ちながら、著者の鉄道愛がそう言わせる本だった。

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2022年初めてのサンマ

昨日の夕食はサンマ。今年初めてのサンマである。

11月になって初めてのサンマというのはちょっと遅い。とにかくサンマが高い。出始めが高いのはしかたがないが、一向に安くならない。ようやくここへ来てちょっと安いのも出てきたようだ。ただし安いだけあってちょっと貧相である。
昨日のサンマは、2尾で380円(税別)だったが、小さい。30cmに満たない。当然、脂のノリも悪い。

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IMG20221103175507-crop.jpg ではあるけれど、やっぱり季節のものは食べておかないと悔いが残る。独居老人としては焼くのも面倒(正確には焼いたあとのグリルの後始末のほうが面倒)だけれど、これをはずしたら次はないかもしれないと考えて、思い切って購入。
グリルを使うのは、以来だと思う。

子供の頃は、サンマはおいしいけれど、わたが苦手だった(苦いものが苦手なら言葉通り)。それが、今ではわたの苦味がなんといっても良いアクセントになる。心臓も好きである。

娘はまだ3歳頃に既にサンマのわたを好んで食べていた。将来、酒呑みになると思ったらそのとおりになった。

子供の頃は、あばらの細い骨もいやだったが、鮎を丸かじりするようになったからか、サンマのあばら骨も気にならなくなった。
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小さいサンマで脂のノリも悪かったが、季節感だけは楽しめた。
次は松茸を賞味しなければ。

近頃はガスコンロが賢くなっていて、魚をグリルで焼くのはいたって簡単。グリルの調理モードに焼き魚(姿、切り身、干物の3種)というのがあって、これをセットしておけば適当に焼き上げてくれる。
終わってから網と脂受けトレーを洗うのが面倒だという程度である。

次は、節分のイワシを焼くときに使うと思うけれど、そのときは家人が焼いてくれたらいいな。

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「中世史講義【戦乱篇】」(その2)

61PG0DU6-nL.jpg 高橋典幸・編「中世史講義【戦乱篇】」の2回目。
1回目が鎌倉幕府時代だったので、今日は鎌倉幕府終焉から室町幕府時代。

まず本書では、元寇により幕府が弱体化したという通例の解説に疑問を向ける(第4講 文永・弘安の役)。
元寇を機に、それまで幕府が命令できたのは、幕府御家人に対してであったのが、「国難」ということで、御家人以外にも号令できるようになり、幕府権力はむしろ強化されたということを指摘している。

専門家の意見なのだが、しかし私が思うに、たしかに御家人以外にも号令できるようになったというのは、文書記録としてはそのとおりなのかもしれないが、それは仇花のような気がする。
朝廷との力関係で、そういう位置づけができたとしても、それに実態は伴っていたのだろうか。モンゴルに備えるということで幕府に従ったとして、喜び勇んでというはずもなく、むしろ不平たらたらという感じではなかったか。そしてそれは御家人層にも及んだのではなかったか。
歴史にさほど詳しくない私としては、そのあたりの解説がほしい。
むしろ鎌倉末期には、悪党の跳梁ということが良くいわれているが、これなどは幕府の統制が及んでいない人たちのことだろう。

はじめに高橋典幸
 
第1講 保元・平治の乱 佐伯智広
武者の世の幕開け/保元の乱と皇位継承問題/後白河天皇の即位/摂関家と保元の乱/崇徳院方の動員兵力/後白河天皇方の動員兵力/敗者の処遇/論功行賞/平治の乱までの三年間/平治の乱の勃発/三条殿攻撃後の情勢/大内裏・六波羅での合戦/乱首謀者たちの没落/保元・平治の乱の歴史的影響
 
第2講 治承・寿永の乱下村周太郎
戦乱の名称/ 「治承・寿永の乱」の誕生/政治史的研究の展開/平氏一門の分裂/源氏の分立/源平合戦観の同時代性/「大乱」の始まり/源平の並立から対立へ/戦乱の展開/治承~文治の戦争から建久の平和へ
 
第3講 承久の乱田辺 旬
はじめに/後鳥羽院と源実朝/実朝暗殺の衝撃/後鳥羽院の挙兵/北条政子と義時/北条政子の演説/幕府の戦後処理/おわりに
 
第4講 文永・弘安の役高橋典幸
戦争と外交/東アジアの外交戦/文永の役と「神風」/異国征伐から石築地へ/弘安の役/朝廷と幕府/モンゴル襲来後の「平和」/【コラム1】 モンゴル襲来を物語るもの
 
第5講 南北朝の内乱西田友広
分裂・錯綜する社会と二つの政権崩壊/室町政権の成立と南北朝の分裂/直義主導の室町政権/観応の擾乱/正平の一統とその崩壊/南北朝の統一へ
 
第6講 永享の乱杉山一弥
室町幕府と鎌倉府の関係史/鎌倉公方足利持氏期の鎌倉府/東国の地域紛争と室町幕府・鎌倉府/関東管領上杉憲実の役割と動向/永享の乱の推移/将軍足利義教の東国政策/永享の乱の本質
 
第7講 享徳の乱阿部能久
戦国時代への扉を開いた戦乱/江の島合戦/享徳の乱の勃発/足利政知の関東下向と五十子陣の形成/長尾景春の乱/都鄙和睦/太田道灌の謀殺と長享の乱
 
第8講 応仁の乱大薮 海
いまだに謎が多い大乱/嘉吉の変/上意の不在と義政の朝令暮改/文正の政変/前哨戦/開戦/東幕府と西幕府/終戦
 
第9講 明応の政変山田康弘
はじめに―明応の政変とは何か/応仁・文明の乱以降の政治状況/明応の政変はなぜ起きたのか/政変を支持した日野富子/家督相続における家臣の総意と主人の承認/なぜ主人の意思が重要だったのか/富子が政変を支持した意味は何か/おわりに─政変後も将軍は傀儡にあらず
 
第10講 西国の戦国争乱
 ―十六世紀前半の中国地域を中心に
菊池浩幸
尼子氏と大内氏/芸備石の国衆と毛利氏/尼子氏の安芸侵攻と大内氏/尼子氏と大内氏の攻防/毛利氏の成長/防芸引分と大内氏の滅亡/毛利氏の山陰征服と尼子氏の滅亡
 
第11講 東国の戦国合戦久保健一郎
戦国時代の東国と戦争/伊勢宗瑞と明応から永正の動乱/北条氏の関東進出/謙信・信玄の小田原城攻撃/画期としての越相同盟/二つの統一戦争
 
第12講 石山合戦金子 拓
信長と石山合戦/上洛後の義昭と信長―石山合戦以前/本願寺の敵対―石山合戦の幕開け/石山合戦と〝信長包囲網〟の成立・瓦解/信長を悩ませる本願寺と義昭―石山合戦の新段階と終熄/石山合戦後の信長
 
第13講 豊臣秀吉の統一戦争平井上総
賤ヶ岳の戦いから小牧・長久手の戦いへ/西日本への停戦令と国分け/九州諸国の反乱/東日本と惣無事/奥羽仕置と反乱/統一戦争の終焉
 
第14講 文禄・慶長の役津野倫明
文禄・慶長の役とその呼称/十六世紀の東アジア情勢/変遷した文禄・慶長の役の目的/三国国割計画/講和交渉の諸条件/秀吉の「日本国王」冊封と講和交渉の破綻/文禄・慶長の役の遺産/【コラム2】招かれざる客が残した負の遺産―倭城
 
第15講 総論高橋典幸
戦乱の時代/戦乱の実態/権利をめぐる戦い/軍事動員/秀吉の軍隊/戦乱のゆくえ
また、後醍醐が朝廷のトップに立つ事情を詳しく説明している。いわゆる持明院統と大覚寺統の争いである。しかしこれも下々からは上層部の派閥争いみたいに思われていたような気がする。どうやって後醍醐がトップにたったのかは面白いドラマだけれど、実力は凋落の一途である朝廷の権力闘争は、周囲からみれば代理戦争のようなものだったのかもと空想してしまう。

なので本書(おそらく最新研究)を読んでも、新しい話はあるものの(第5講 南北朝の内乱)、幕府終焉の流れの理解が変わるというほどではなかった。

次に注目したのは、明応の政変である(第9講 明応の政変)。
恥ずかしながら、この政変を重大事として意識したことは今までなかった。
この事件は、明応2(1493)年4月に日野富子と細川政元による将軍の擁廃立事件だが、将軍は足利義材(義稙)から足利義遐(義澄)へと代えられ、将軍家が義稙流と義澄流に分かれる。
義稙が「強すぎる」将軍になろうとし、それを阻止したい細川政元が強引に将軍のすげかえを行うというわけだが、将軍の権力基盤は大名たちの支持であり、それがわかっている富子も同調したというわけだ。
本書によると、二人の将軍が並立する状況は彼らの後継者にも引き継がれ、さまざまな紛争を起こす。この状態こそが戦国という時代を画する事件というわけだ。

そうだったのかという気持ちになったのは、信長と石山本願寺の争い(第12講 石山合戦)。周知のとおり信長は本願寺の大坂からの退去は求めるが、ほかの一向一揆は徹底的に弾圧したのに、滅ぼすところまではしなかった。これは本書でも推測の域を出ていないようだが、天下(畿内)の外の勢力はうち滅ぼすが、畿内は争乱が治まれば良いという判断をしたとも考えられるとのこと。

ただ和睦にあたって、天皇の調停を持ち出したのは、当時毛利方にあった足利義昭という権威を相対化するという意図があったという指摘はなるほどという感じである。
この頃は既に信長の天下だと思い込みがちだが、実際には義昭が毛利方に身を寄せて相変わらず諸大名に命令(効果はともかく)している状態なのである。
天皇の調停で和睦するということは、信長は将軍の下ではなく、天皇の下で将軍と並列の立場だということを示したという見方である。

もう一つあげると、秀吉の朝鮮侵攻も、耄碌した秀吉の思いつき、戯れとかではなくて、秀吉はもちろん、その命令に従う大名たちも大真面目であったという(第14講 文禄・慶長の役)。
ドラマなどでは、狂った秀吉の命を大名たちが迷惑に思っているような描き方が多いように思うが、そんなことでは実際に海を渡って攻め込むなどはできないだろう。

以上、「中世史講義【戦乱篇】」から、私の理解(通例の理解?)とはちょっと違うところをピックアップした。
すんなりとなるほどと思うものもあれば、そうは言うけれどどうかな、というものもある。著者たちが、今までとは違うところを書きたかったのかなというのは穿ちすぎかな。

それにしても、まだまだいろんな史料が出てきて、あるいは読み込まれ、新しい解釈が出てくる、歴史というのはめまぐるしいものだ。
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「中世史講義【戦乱篇】」

61PG0DU6-nL.jpg 高橋典幸・編「中世史講義【戦乱篇】」について。

中世という時代区分は、だいたい院政期から戦国時代までの11世紀後半から16世紀後半までの期間を指すそうだ。その劃期となるのは、土地制度での領域型荘園の成立と終焉と言われている。素人なりの理解で言い換えれば、土地(民も付いている)をめぐって争った時代ということになるのかもしれない。(⇒伊藤俊一「荘園」
そしてこの土地争いが武力で行われる、つまり戦乱ということになるのだろう。

その武力闘争に焦点をあてて、政治権力の消長・交替などが起こった戦乱を本書はとりあげたとする。
このブログでも乱をテーマとした本の書評をいくつか書いてきている。
本郷和人「乱と変の日本史」は、古代や近世の戦乱もとりあげているが、乱が量産されたのはやはり中世で、本郷本と本書は随分重なっている。

本書は中世以外は対象外だから、本郷本がとりあげている平将門の乱、島原の乱は含まれない。
一方、本郷本は本郷氏が「トレンドに乗った方が勝つ」というように、日本国内での勝ち負けにこだわっているようだが、本書は本郷本がとりあげていない元寇も国内での直接的な勝ち負けではないが、結果として国内の権力交替に影響したと考えられる戦乱もとりあげている。また、本書は乱ごとにそれに詳しい研究者が執筆していて、「政治権力の交替に着目」は同じにしても、まとめてどうこうという話にはなっていない。


はじめに高橋典幸
 
第1講 保元・平治の乱 佐伯智広
武者の世の幕開け/保元の乱と皇位継承問題/後白河天皇の即位/摂関家と保元の乱/崇徳院方の動員兵力/後白河天皇方の動員兵力/敗者の処遇/論功行賞/平治の乱までの三年間/平治の乱の勃発/三条殿攻撃後の情勢/大内裏・六波羅での合戦/乱首謀者たちの没落/保元・平治の乱の歴史的影響
 
第2講 治承・寿永の乱下村周太郎
戦乱の名称/ 「治承・寿永の乱」の誕生/政治史的研究の展開/平氏一門の分裂/源氏の分立/源平合戦観の同時代性/「大乱」の始まり/源平の並立から対立へ/戦乱の展開/治承~文治の戦争から建久の平和へ
 
第3講 承久の乱田辺 旬
はじめに/後鳥羽院と源実朝/実朝暗殺の衝撃/後鳥羽院の挙兵/北条政子と義時/北条政子の演説/幕府の戦後処理/おわりに
 
第4講 文永・弘安の役高橋典幸
戦争と外交/東アジアの外交戦/文永の役と「神風」/異国征伐から石築地へ/弘安の役/朝廷と幕府/モンゴル襲来後の「平和」/【コラム1】 モンゴル襲来を物語るもの
 
第5講 南北朝の内乱西田友広
分裂・錯綜する社会と二つの政権崩壊/室町政権の成立と南北朝の分裂/直義主導の室町政権/観応の擾乱/正平の一統とその崩壊/南北朝の統一へ
 
第6講 永享の乱杉山一弥
室町幕府と鎌倉府の関係史/鎌倉公方足利持氏期の鎌倉府/東国の地域紛争と室町幕府・鎌倉府/関東管領上杉憲実の役割と動向/永享の乱の推移/将軍足利義教の東国政策/永享の乱の本質
 
第7講 享徳の乱阿部能久
戦国時代への扉を開いた戦乱/江の島合戦/享徳の乱の勃発/足利政知の関東下向と五十子陣の形成/長尾景春の乱/都鄙和睦/太田道灌の謀殺と長享の乱
 
第8講 応仁の乱大薮 海
いまだに謎が多い大乱/嘉吉の変/上意の不在と義政の朝令暮改/文正の政変/前哨戦/開戦/東幕府と西幕府/終戦
 
第9講 明応の政変山田康弘
はじめに―明応の政変とは何か/応仁・文明の乱以降の政治状況/明応の政変はなぜ起きたのか/政変を支持した日野富子/家督相続における家臣の総意と主人の承認/なぜ主人の意思が重要だったのか/富子が政変を支持した意味は何か/おわりに─政変後も将軍は傀儡にあらず
 
第10講 西国の戦国争乱
 ―十六世紀前半の中国地域を中心に
菊池浩幸
尼子氏と大内氏/芸備石の国衆と毛利氏/尼子氏の安芸侵攻と大内氏/尼子氏と大内氏の攻防/毛利氏の成長/防芸引分と大内氏の滅亡/毛利氏の山陰征服と尼子氏の滅亡
 
第11講 東国の戦国合戦久保健一郎
戦国時代の東国と戦争/伊勢宗瑞と明応から永正の動乱/北条氏の関東進出/謙信・信玄の小田原城攻撃/画期としての越相同盟/二つの統一戦争
 
第12講 石山合戦金子 拓
信長と石山合戦/上洛後の義昭と信長―石山合戦以前/本願寺の敵対―石山合戦の幕開け/石山合戦と〝信長包囲網〟の成立・瓦解/信長を悩ませる本願寺と義昭―石山合戦の新段階と終熄/石山合戦後の信長
 
第13講 豊臣秀吉の統一戦争平井上総
賤ヶ岳の戦いから小牧・長久手の戦いへ/西日本への停戦令と国分け/九州諸国の反乱/東日本と惣無事/奥羽仕置と反乱/統一戦争の終焉
 
第14講 文禄・慶長の役津野倫明
文禄・慶長の役とその呼称/十六世紀の東アジア情勢/変遷した文禄・慶長の役の目的/三国国割計画/講和交渉の諸条件/秀吉の「日本国王」冊封と講和交渉の破綻/文禄・慶長の役の遺産/【コラム2】招かれざる客が残した負の遺産―倭城
 
第15講 総論高橋典幸
戦乱の時代/戦乱の実態/権利をめぐる戦い/軍事動員/秀吉の軍隊/戦乱のゆくえ
本書は多くの戦乱をとりあげていて、その一つ一つにコメントはようしないが、印象的なところ(つまり私の理解との差異)をいくつか挙げておこう。

治承・寿永の乱という言葉は、子供でも知っている源平合戦という言葉に対し、必ずしも源氏と平家の戦いではないということから、ちょっとええかっこして使われているのかもしれないが、本書では、

「源氏対平氏」という図式で捉える心性が、既にリアルタイムで存していた

と指摘する。

九条兼実の日記『玉葉』には、壇ノ浦で平氏が滅んで半年足らずの頃に「源平之乱」という言葉が記されている

そうである(第2講 治承・寿永の乱)。

思うに源氏対平氏という捉え方は執筆者も書いているように、当時の人たちの受けとめ方だったということだろう。そう受け止められたのは、当時は、源氏と平氏が共に朝廷を武力で支えるという考え方がベースにあって、それが争っているということなのだろうと思う。

これに対し、必ずしも源氏対平氏ではないというのは、あきらかなように頼朝に従った関東武士は平(上総介)広常、平(北条)時政・義時というように、氏でいえば平氏が多く入っている。
対して源氏といえば、頼朝が戦ったのは、初戦は平(山木)兼隆であったにしろ、その後は源(木曽)義仲と戦い、のちには平氏討滅に多大な貢献をして源義経・範頼を弑する、いわば源氏の同族闘争、内訌が目立つ。このことから、平氏は一族の結束が強いが、源氏は源氏同士の勝ち残りゲームをしたというようにとらえられることが多い。

著者は平氏だって結束が固かったわけではないというわけで、頼朝方についた平氏もいるし、重盛流は早いうちに脱落したと指摘するのだが、関東で頼朝についた平氏なんていうのは、元をたどれば平氏というにすぎないから論外で、重盛は敵対したわけではない。本来なら嫡子相続だったら重盛流が当主になってもおかしくないところ、そうはならなかったので身を引いた感もあるのではないかと思う。

とはいうものの、本書では、奥州攻めについて、頼朝は、源頼義が安倍氏を追討した前九年の役を忠実に再現する形で遂行されていることを指摘し、これは源家譜代の主従制を演出し、「源平合戦」として総括する意図があったとする。

つまり当時から第三者だけでなく、当の頼朝が仕組んでいるというわけだ。他の源氏諸家や兄弟までも滅ぼした頼朝が鎌倉殿として君臨できたのは、こうしたしたたかな政治性を持っていたからなのだろう。

中世のはじまりの源氏鎌倉幕府成立までだけで随分感想を書いてしまったが、その鎌倉幕府の終焉に向けて、私が今まで意識していなかったことを本書から引いておこう。

それは、元寇後、鎌倉幕府は、モンゴル軍の出撃拠点である高麗に侵攻する「異国征伐」を計画していたという(第4講 文永・弘安の役)。
文永の役の後、元寇防塁が築かれた(そして弘安の役で効果を発揮した)ことは良く知られているところだが、他にも、古くは飛鳥時代に唐・新羅連合軍の侵攻にそなえて日本各地に城が築かれ、対馬には金田城が築かれているが、これも元寇後には強化されたらしいことは、ブラタモリなどでも紹介されていた。こうした築城は、次のモンゴル襲来に備えて守りを固めたものだけれど、鎌倉幕府は、守り一方ではなく、ある意味反撃も考えたということらしい。本書によると実際、異国征伐の準備は、守り固めと並行して進められたが、結局、両方を実行するのは負担が大きく、計画にとどまったということだそうだ。

本書は長い中世を扱っていて、全体の感想は一回の記事では書けない。
中世のもう一つの武家政権・室町幕府の時代の話は、あらためてとりあげることにする。

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生ラーメンの話

IMG20221028120156-crop.jpg 独居老人の休日の昼食は麺類になることが多い。今日は月2,3回は食べていると思われる生ラーメンについて書くことにした。

ふりかえるとラーメンに言及した記事は今までにもいろいろ書いている。お店で食べたもの、インスタント、冷凍、そして生(半生)ラーメンのことも書いている。それらの記事とダブる内容もあるけどお付き合いください。


私はインスタント・ラーメンは、ラーメンとは別ジャンルの食べ物で、ラーメン屋のラーメンに近づける必要はないと考えている。
そこで微妙なのが、スーパーなどで生ラーメンとして売られているものである。
以前は、この生ラーメンというのは、作るのが面倒だし、面倒な割にはおいしくないと評価していて、あまり関心をもっていなかった。しかし、近頃はこの評価を見直している。

作る手間でいえば、インスタントの袋麺とそれほど違うわけではない。麺を茹でる時間は生麺の多くは2分、インスタント袋麺は3分というのが多いと思う。
スープを溶くことについては違いはないが、インスタント袋麺は味付け麺の場合が多く、この場合は茹でるの使ったお湯で溶き、生麺の場合は別に沸かしたお湯で溶く(私は沸騰ポットを使っている)。
そしてトッピング―焼豚やメンマを載せる手間も変わりがない。
違いがあるのは後片付けで、生麺の場合は湯切りに使ったざるを洗う手間が余計に発生する。もっともこれはまさに一手間でしかないから、気にしないでも良い範囲。

本当に面倒なときはカップ麺である。これならお湯を沸かすだけで、洗物も出ない。家人が入院してからしばらくは本当に何にも作る気にならなかったので、連日カップ麺ということがあった。


IMG20221028115345-crop.jpg さて生麺も、インスタント・ラーメン同様、いろんな種類がある。
有名ラーメン店の名前を冠し、その味を再現というようなことが謳われているものもある。
そういうものもいくつか試したことがあるのだが、試した範囲で言えば、どれもわざとらしい主張をするもので、私の口には合わなかった。
だいたいが有名店名を謳う商品は価格が高い。シンプルなものの倍ぐらいの価格が付けられている。しかしきちんと作って、焼豚やメンマなとのトッピングをきちんとやれば、価格差ほどの値打ちがあるとは思えない。というかその価格差をトッピングに充当するほうが良い結果になる気がする。
それでこのところは大手メーカーの安定した、そして価格の安いものをもっぱら食するようにしている。それでも高速のSAとかで出されるラーメンよりは美味しいと思う。

作る手間と後片付けの手間の分も考えれば、お店で食べるほうが満足感は上に決まっているが、家で作るラーメンだってそう捨てたものではないと思う。

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六二郎。六二郎。

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