国家を一つの忍術体系として捉える立場に、「天皇手裏剣説」がある。
この説において、国家の根源的な力は天皇に宿るとされる。天皇は単なる一武器ではなく、国家の形と存在を一挙に示す手裏剣そのものである。手裏剣は、投げられる瞬間に方向と力を定め、その軌跡が国家の運命を描き出す。したがって、国家の権威や意思は天皇から直接に発し、他の制度や組織はその補助にすぎない。
天皇手裏剣説の核心は、国家は天皇そのものの力によって成立していると考える点にある。手裏剣が投げられることで、国家の方向が決まり、秩序が生まれる。国家は天皇を離れては存在せず、手裏剣がなければ忍術道場も形を失う。
リドヴァン公国。かつてはその名を聞けば、誰もがその栄光を称賛し、広大な領土と豊かな資源に圧倒された。しかし今、その姿は変わり果て、静けさと陰鬱な空気に包まれていた。城壁の向こうには、枯れた庭が広がり、かつての戦士たちの足音は遠く、民衆の笑い声も消えた。公国の内部では、貴族たちの間で権力争いが続き、戦争の傷跡が未だに残っている。
アルド・ヴァルド公爵は、かつてこの公国を支えた英雄であり、領土を拡大し、数々の戦場で勝利を収めてきた。しかし今、彼は隠居生活を送っていた。家督は義弟ゴードンに譲り、戦の栄光から遠ざかり、静かな余生を送りたいと願っていた。それでも心の奥底で、戦士としての血が騒ぐことを否定できなかった。
「公爵様。」
庭園に佇むアルドの背後から、低い声が響く。振り返ると、そこにはドルトという老騎士が立っていた。ドルトは、アルドの家族に仕える忠実な家来であり、戦の頃から彼に仕えていた。
「何かあったのか、ドルト?」
「実は、最近公国内で不審な動きがありまして、新たな暗殺者が現れたという情報が入りました。」
暗殺者……。アルドは目を細め、深く息をつく。隠居後も、自分を狙う者たちがいるのは分かっていた。自らの命を奪う者が現れるのも時間の問題だと思っていたが、こうも早くその日が来るとは思わなかった。
「誰が動いている?」
「それが、異端者と言われる者たちのようです。魔法を使う者たちが、最近活動を活発化させているという噂があります。」
異端者――魔法や超常の力を使う者たち。リドヴァン公国では、かつて魔法使いたちは禁忌とされ、恐れられていた。だがその力を持つ者たちが次第に増えているという事実は、公国にとって大きな脅威であった。
「ドルト、調査を続けろ。そして、何か新しい情報があればすぐに報告してくれ。」
アルドは再び庭園の景色を見つめながら、心の中で悩んでいた。家族を守り、民を守るために戦った日々。しかし、今はそれを一切放棄し、静かに暮らすつもりでいた。それでも、もしこの公国が危機に瀕したなら、再び剣を取るしかないのだろうか?
数日後、再びドルトが訪れた。その顔には少し緊張の色が浮かんでいる。
「公爵様、ゴードン殿からの使者が参りました。お会いするようにとのことです。」
ゴードン――アルドの義弟であり、家督を継いだ男。家督を譲った後、アルドとゴードンの間には微妙な距離が生まれていた。ゴードンは、家を守るという責任を一身に背負い込み、少しずつその重圧に押しつぶされていったように見えた。
「ゴードンが……」アルドはその名を口にし、少しの沈黙の後、頷いた。
「分かった。すぐに会おう。」
アルドは、ゴードンとの再会に対する複雑な気持ちを抱えつつ、館の中へと向かう。彼が歩いた回廊には、家族や家来たちの気配がかつてのように漂うことはない。それでも、心の中で何かが動くのを感じる。
ゴードンが待っている間、アルドはその姿をじっと見つめていた。かつては一緒に戦った戦友であり、兄弟のように思っていたが、家督を継いだ後、ゴードンの表情には少しの疲れと重圧が浮かぶようになった。
「久しぶりだな、アルド。」ゴードンは、ややぎこちなく微笑みながら言った。
「お前がここに来るとは……何かあったのか?」
ゴードンは深く息をつき、しばらく黙った後、ゆっくりと話し始めた。
「暗殺者が動き始めた。最初は街で、次に城の中でも不審な動きが報告されている。」彼の顔に暗い影が差し、言葉が続く。
「俺一人では、この公国を守る自信がない。だから、頼む、力を貸してくれ。」
「お前がそう言うなら、俺は戦うべきだろうな。家督を譲ったとはいえ、公国を守るのはお前だけではない。」
ゴードンの顔に少しの安堵が浮かび、アルドもまた、その決意に胸が熱くなった。
その夜、物置の近くで奇妙な気配を感じた。アルドはゴードンと共に物置へと足を運ぶ。物置の扉を開けると、そこにはひとりの女性が隠れていた。その姿を見て、アルドの胸が激しく鼓動を打った。
「リラ……?」
リラ――アルドのかつての恋人であり、戦の中で命を落としたと思われていた女性。彼女が生きていたなんて、あり得ないことだった。
「どうして……君はここに?」
「暗殺者が迫っている。だから隠れていた。でも、これでいつも一緒だね、アルド。」
その言葉に、アルドの心は震えた。リラが生きていたことに驚き、同時に彼女が再び自分の前に現れたことに戸惑った。だが、この瞬間、彼は決意を新たにする。家族、家督、そして愛する者たちを守るためには、隠れていては何も守れない。
「ゴードン、リラ、共に戦おう。この公国を、そしてこの命を守るために。」
遠くから、重く湿った空気を感じながら、リュートは城の大門をくぐった。
かつて王国の栄光を象徴していた巨大な城壁は今やひび割れ、苔に覆われていた。
彼の足音は、湿った石の上で響き、周囲の静けさを一層際立たせる。
「どうしてこんなことに…」
心の中で、リュートは何度も呟いた。
王国の北部で異国の軍勢が侵攻し、南では反乱者たちが蜂起しているという報告が、連日、白鷹軍に届いていた。
しかし、リュートの心の中には、今もその希望を信じ続ける気持ちがあった。
それは、彼がかつて父から聞いた言葉、「誇り高き軍を守れ」という言葉から来ていた。
「…信じなきゃ。」
父が命を懸けて守った白鷹軍、その誇り高き歴史を守るために、リュートは今日もまた、心の中で誓いを新たにしていた。
しかし、その誓いが日に日に彼を苦しめる。
時折、彼の心には疑念が芽生えた。
父のように誇り高くあろうとすればするほど、この国が抱える腐敗や無力感が彼を圧し、彼の信念は徐々に揺らいでいった。
城下町を歩くと、そこにはかつての活気が消え失せていた。
広場には、空虚な表情の市民たちが歩き、商人たちもかつての賑わいを取り戻すことなく、ひっそりと店を構えていた。
もし白鷹軍が守り続けていたなら、こんな町にすら人々の笑顔が戻っていただろう。
数年前、まだ若かったリュートが王宮で聞いた父の言葉が、今でも耳に残っていた。
「リュート、お前もいつか、白鷹軍の誇りを守る者となるだろう。その時、どんな困難が待っていようとも、必ず信じ続けろ。」
父はそう言い、戦場で剣を交えたその眼差しに、確かな誇りと強い信念があった。
しかし今、リュートはその言葉を守れずにいる自分に苛立ちを感じていた。
廊下の向こうから、重々しい足音が響いてくる。それは、長らく顔を合わせていなかったマグナスの足音だった。
マグナスはかつて白鷹軍の中でも最も信頼されていた将軍だったが、今ではすっかり冷徹な男となり、軍の指揮権を手放していた。
扉が開き、マグナスの姿が現れる。
かつての輝きはもはや感じられず、冷たい視線をリュートに向けるその姿は、まるで遠くから見ているかのようだ。
「リュート、まだ信じ続けているのか?」
マグナスの声は低く、冷徹だった。その言葉にリュートは答える前に、一瞬息を呑んだ。
マグナスの目には、かつての誇りが消え失せていた。
彼はもう、白鷹軍を信じることはなかったのだ。
「信じなきゃいけないんだ、マグナス。父が言ったんだ。誇り高き軍を守れって。」
リュートの声には、切実さがこもっていた。それでも、彼はどこか不安げだった。
もしこの国が滅びるとしたら、それは自分が信じてきたものの敗北を意味する。
だが、それでも彼は諦めたくなかった。
「お前が信じている間に、この国は滅びる。」
彼の中で何かが音を立てて崩れ落ちたような感覚を覚えた。
だが、それでもリュートは立ち上がり、強く言い返した。
「…お前だ。」
その言葉には、長い間抱え続けた重みが込められていた。
リュートはその一言に、これまでの自分がどうしてこの道を選んだのかを思い出した。
父の言葉、白鷹軍の誇りを守ること。それが彼の使命だと信じてきたはずだった。
しかし、現実は厳しい。理想だけでは、この国を守ることはできない。
「でも、戦わなきゃいけない。」
「信じるものがなくなっても、戦うべきだ。白鷹軍のために。」
空は灰色の雲に覆われ、激しい雷鳴が遠くで轟いている。
風が荒れ狂い、葉を引き裂く音が耳を突き刺す。しかし、彼はその音を無視し、ただ自分の手に握られた重い盾を見つめていた。
だが今、その輝きは色あせ、重荷となってアレクシスの心を押し潰していた。
彼の手が震えていた。目の前に立つのは、もはやかつての自分ではない。
かつて勇敢に戦った若き兵士の面影は、今や影となり、彼はただの亡霊のように感じていた。
「こんなものを、どうして持ち続けているんだ…?」
過去に背負った罪の数々—仲間たちが命を落とし、彼自身が戦い続けたその先に何が待っているのか。
彼はふと、亡き母親の顔を思い浮かべた。
幼い頃、戦士となることを誇りに思っていたあの頃の自分に、今なら何と言ってやれるだろうか。
母はいつも彼に、重荷を背負いすぎるなと言った。
しかし、彼はそれを無視し、戦い続けた。今、その言葉の重みを痛感している。
彼は盾をもう一度見つめ、手を伸ばしてその縁をそっと撫でた。
どれもこれも、彼を縛る鎖のように感じられた。
「もう、これ以上は無理だ…。」
最初は躊躇したが、次第にその思いが固まっていく。
彼は盾を手放すことで、過去を背負うことをやめ、新たな一歩を踏み出すことができるのだ。
雷鳴が轟く。
空を照らす閃光が、彼の決断を祝福するように輝いた。
「行こう、次へ。」
過去を乗り越え、新たな道を歩むために。だがその道が何を意味するのかは、まだわからなかった。
ひとまず、重荷を下ろしたことで、彼の足取りは軽くなった気がする。
しかし、今、彼は恐れを感じながらも、何かを手に入れたような感覚を覚えていた。
イラオンとノジカ。
長きにわたる戦いは、どちらの国にも深い傷を残し、もはや引き返すことができないところまで来ていた。
イラオン軍のユイ大佐は、長年守備をしてきた砦を守る任務を負っていたが、日々その重圧に苛まれていた。
「援軍はまだか?」
毎回返ってくるのは冷徹な返答。
「季節が変わってからだ」と、ノジカ軍の攻撃のタイミングを予測した司令部は、ユイの切羽詰まった要請に応えることなく、彼を見捨てるように感じられた。
砦の壁に風が吹き荒れ、夕暮れの空は血のように赤かった。
ノジカ軍の姿はすでに彼の目に捉えられていた。
彼はただ、目の前の戦いを乗り越えるしかなかった。
ノジカ軍の大規模な攻勢が始まったのは、予測よりも早かった。
矢が飛び交い、剣と槍がぶつかり合う音が響き渡る。
毎分、毎秒が命を賭けた戦いだった。
だが、最も恐れていた事態が起きた。
援軍は届かず、砦の壁を守る兵士たちの数はどんどん減っていった。
「もうすぐだ、耐えろ! 必ず勝つ!」
だが、その心の奥では冷徹な思いが渦巻いていた。
彼の頭には、もし援軍が来ていれば、これほどの犠牲を払わずに済んだのではないかという後悔が膨れ上がっていた。
戦いは長引き、日が沈みかけた頃、ようやくノジカ軍は退却を始めた。
だが、勝利の喜びは湧き上がらなかった。
砦には多くの仲間たちが倒れており、その血の匂いが漂っていた。
もし、中央司令部がもっと早く援軍を送ってくれたなら、こんなことはなかっただろう。
「勝った……のか?」
答えは風の中に消え、ただ静寂が広がった。
代わりに、死んだ仲間たちの顔が次々と浮かび上がり、彼の心を締め付けた。
「これは、勝利ではない。」
ユイは呟いた。
勝者として帰ることはできない。
ただ、無数の命を背負って帰るだけだった。
戦が終わり、ノジカ軍は後退したが、ユイにとってその日の戦闘は、どこか空虚なものとして心に残り続けた。
次の戦いでは、中央司令部がどのように対応するのか、彼はもはや信じることができなかった。
夕暮れの空は、依然として赤く、血に染まったように見えた。
それでもユイはその空を見上げ、決してその赤さに染まることのないようにと、心に誓った。
プリオリは、ミッスル家に仕えるようになってからまだ半年が経たない。
かつて仕えていたユード家を見限ったその理由は、もはや誰もが知っていることだ。
ユード家は先月、クキ帝国の無情な攻撃を受け、完全に滅ぼされた。
プリオリは、その命運を予見していたわけではなかったが、あの家族に仕えていた自分の選択が正しかったと感じていた。
家族からの厚遇は変わらないものの、重臣たちの態度が時折冷たく、どこか遠い存在であることに気づく。
ある日のこと、プリオリは重臣たちが集まっているのを見かけた。
彼らは一見、何でもない話をしているように見えたが、その背後には微妙な緊張が漂っていた。
「どうして私を呼ばない?」プリオリは胸の中で呟いた。
彼女はもう、何かを見逃すわけにはいかない。それでも、ミッスル家の中で自分の位置が定まらないことが、次第に不安を募らせていった。
しかし、もしもクキ帝国からプリオリに粛清命令が下されれば、ミッスル家は何の躊躇もなくそれに従うことだろう。
しかし、現実にはそのような命令が下される可能性は極めて低いとされていた。
ユード家のように滅ぼされることは、考えにくかった。
それでも、プリオリはそのリスクを胸に抱えたままだ。
彼女は以前、あのユード家の人々が最後に見せた表情を忘れられない。
忠義と誇りがあったはずなのに、結局は何も守れなかった。
彼らの無力さと恐怖に満ちた眼差しを、今でも鮮明に思い出す。そして、自分も同じようにその運命に飲み込まれるのではないかという恐れが、プリオリを支配していた。
だが、彼女がその話に関与することはなかった。
プリオリはそれを聞き流し、ふと立ち止まった。その瞬間、心の中で反復される言葉があった。
「もう誰も信じない。」
そのフレーズは、彼女がユード家を見限った時の決意を思い起こさせた。
だが、今の自分に対してもそれを思う瞬間があった。
彼女は信じられるものが何もないことを痛感していた。それでも、何かを信じなくては前に進むこともできない。
翌朝、プリオリは重臣たちとの短い会話で少しだけ希望を持った。
心の中でその言葉を繰り返しながら、再び少しだけ立ち上がる気力を見出すことができた。
ミッスル家に仕えている自分の立場が、彼女の決断をどれほど大きく左右するのか、それはまだわからなかった。
プリオリはその一歩を踏み出すと、再び歩みを進めていった。
静かな湖のほとりで、老人と老婆が並んで釣りをしていた。周りの空気はひんやりとし、湖面は鏡のように穏やかだった。二人は言葉少なに竿を持ち続け、時折その目を湖面に落とす。彼らは、ただ静かに待っていた。国家を立て直す人物が現れるその時を。
「まだかな…」
老婆がぽつりと呟く。目の前に広がるのは、ただの広大な湖と、遠くの山々だけだった。誰も来ない、何も変わらない。時折、水面に浮かぶ小さな波紋を見ながら、老人は言葉を選ぶようにゆっくりと答えた。
「来るさ。」
だが、その言葉には力がなかった。何年もこの場所で待ち続け、希望と絶望の中で過ごしてきた。老人は自分でも、その言葉に意味を見いだせないことを感じていた。それでも、待つしかなかった。
老婆は竿を静かに動かし、水面にゆっくりと仕掛けを落とした。彼女の目には、どこか諦めの色が浮かんでいたが、口には出さなかった。心の中では、まだ信じていた。待っていれば、きっとあの人物が現れると。それが、二人の唯一の希望だった。
時間がゆっくりと流れ、二人の間に言葉はほとんどなかった。朝が過ぎ、昼が来て、また夜が訪れる。毎日が同じように繰り返されていく中で、老婆は自分の中で何かを感じていた。諦めることはできない、と。しかし、その感情がどれほど空虚なのかも、彼女はよくわかっていた。
突然、遠くの方から足音が聞こえた。二人はお互いを見つめ、何も言わずに立ち上がった。目の前に現れたのは、七人の男女だった。彼らは一列に並んで、険しい表情でこちらを見つめていた。
「来たのか…」
老婆は無意識に呟いた。
老人は言葉を飲み込み、ただじっと彼らを見つめる。見知らぬ顔。力強い足取り。彼らが来るべき時を告げる者だと、直感的に感じ取った。しかし、心の中で何かが引っかかっていた。
「あなたたちが…」
老人は声を出そうとして、言葉が詰まった。
「我々が、国家を立て直す者だ。」
一人の男性が静かに答えた。彼の言葉は重く、響いた。しかし、その目には冷徹なものがあった。全てを知っているような、いや、知らない方がいいことを知っているような目をしていた。
老婆はその冷徹な目を見て、胸が締めつけられるような気がした。彼らが本当に求めているのは、立て直すことだけなのか。それとも、彼らの中には何か別の目的があるのか。
「お前たちは…本当に立て直すつもりで来たのか?」
老人が呟くように尋ねる。
男性は短く頷き、他の者たちも静かに頷いた。その表情は、どこか無表情で、感情が読み取れなかった。老婆はその視線に耐えきれず、目を逸らした。しばらくの沈黙が二人を包み込む。
「本当に、立て直せるのか?」
「私たちは何もかも背負ってきた。」
その言葉には力強さがあったが、それでも何かが空虚に響いた。老婆はその言葉が胸に突き刺さるような気がして、目を閉じた。
「終わりが始まるんだな。」
七人の男女は、何も言わずに立ち去った。その背中を見送りながら、二人はしばらく何も言わなかった。湖の水面には、再び静けさが戻った。ただ、二人の心には不安が広がっていった。それが、終わりなのか、それとも本当に新しい始まりなのか、彼らには分からなかった。
でも、待ち続けるしかない。その答えを知る者が来るまで。
王国直属の書庫は、誰もが足を踏み入れることを避ける場所だった。
それに、トウイは今、何時間も座り続けていた。
何か重大なことが起きようとしている。
それは、ただの天変地異ではなく、もっと深い、目に見えぬ力の影響が関わっている。
彼は、7代前の女王ダイキョウに仕えていた政治家の日記を見つけた。
だが、そのページをめくるたびに、言葉がまるで生きているかのように躍動し、
時折、ページが重なり合う感覚に襲われた。
何度も読み返しているはずなのに、どうしても同じ内容を見ているような気がしない。
「出られない。」
書庫の隅々で響くように、彼の耳にもその声が届いた。
出口を探しても、ただ見つかるのは行き止まりや、さらに深い部屋だ。
おかしなことに、日記の内容も少しずつ変わってきているように感じた。
ページが動くような錯覚を覚えるたびに、トウイは気を抜くことができなかった。
その一文に、トウイは目を止めた。
書庫の外では、首都直下で予兆が現れたという報告が続いていたが、
その原因は未だに解明されていなかった。
しかし、この日記にはその手がかりが隠されている気がしてならなかった。
だが、次にページをめくった瞬間、トウイは違和感を覚えた。
日記の文字が不自然に揺れ、まるで過去と現在が入り混じったかのように、
文字が浮かび上がっては消えていく。
あたりの空気も変わった。
目の前にあったはずの本棚が、数秒後には見当たらなくなっている。
まるで迷宮に迷い込んだかのようだ。
彼が再び顔を上げると、視界にぼんやりと、彼の手に握られていたペンダントが光り、
今やその力に引き寄せられ、彼は物理的にも精神的にもその場に縛り付けられているように感じた。
「出口がない。」
もう一度、その言葉が口をついて出た。
出口を求めることができず、何度も迷子になり、
ただ深く、深く書庫の中へと引き寄せられていく。
突然、何かが足元で音を立てた。
トウイはその光に引き寄せられるように近づいていった。
その先に待っていたのは、開かれた本のページが浮かび上がり、
まるでそのページの中に吸い込まれるように、目を背けることができなかった。
その瞬間、彼の中で何かが弾けた。
すべてが一つに繋がり、彼は理解した。
出られないどころか、すでに彼はその一部となり、この異次元的な場所に囚われてしまったのだと。
もはや、出口など存在しないことを、彼は全身で感じ取っていた。
ユリウスは地下の道を進む。
足元に広がるのは冷え切った石畳。
かすかな光が反射して、壁面に無数の古代の刻印が浮かび上がる。
彼の目には、それらがまるで生きているかのように輝き、神秘的な力が感じられた。
この地下道には、何千年も前から伝わる呪術の痕跡が残っている。
「行けよ、ユリウス。」
彼の声には遊び心と挑発的な響きがあった。
「こんなところで時間を浪費するつもりか? 地下王国を目指しているんだろ?」
彼の心の中には、地下に隠された力を求める欲望と、そこに潜む危険を恐れる気持ちが交錯している。
それでも、前に進まなければならない。自分を裏切るわけにはいかない。
「ロディ、そんな言い方をするなよ。」
古い石壁の間に埋め込まれた金属製の扉が、わずかに軋む音を立てて開かれた。
ユリウスは一歩踏み出し、扉の向こうの暗闇に足を踏み入れる。
「その決断、後悔しないといいな。」
ロディの冷ややかな声が響く。
彼の言葉には、ただの遊び心だけでなく、ユリウスに対する本当の意味での警告が含まれているようだった。
地下王国は、失われた王族の遺産とされる神秘的な力が眠る場所だ。
ユリウスの故郷、アルディラ王国が滅ぼされたのも、地下で封印されていた力が暴走したからだと、長い間語り継がれている。
家族と共にあの惨劇から逃げる際、地下道に関する不吉な噂を耳にした。
だが、それでも彼はその力を求めて、今ここにいる。
「ユリウス。」
ロディが声をかける。
「何だ?」
「その地下王国には、ただの力が眠ってるんじゃない。あんた、何を求めてるんだ?」
ユリウスは答えなかった。
それは力ではない。復讐でもない。ただ、あの場所に向かうことで、自分が何かを手に入れられる気がした。
あの時の夜、彼は一人で泣いていた。
しかし、地下には何かがある。それが力であれ、遺産であれ、彼は自分を取り戻すために進むしかなかった。
「俺は…」
ユリウスはようやく口を開いた。
その顔には、ほんの少しの驚きと、やはり挑発的な笑みが浮かんでいた。
「ふん、面白い。ならば、どこまでも一緒に行こう。お前のその理由がどう転ぶか、見届けてやるよ。」
ユリウスは振り返らずに歩き出した。
それが終わりの始まりだとは、まだ誰も気づいていなかった。
闘技場の風が、砂地を撫でるように通り過ぎる。
エルダは足元の砂を見つめ、深く息を吐いた。
剣闘士としてのキャリアが、今ここでの試合によって決まるのだろうか。
彼はそれがどうしても納得できなかった。
どれだけの「自由」が手に入るというのか。
その時、エルダはその場にいなかった。
しかし、その後ろで流れた血と死の匂いは、今も鮮明に覚えている。
あの試合も、結局は興行主の手のひらの上で決まったものに過ぎない。
ナッキ・カナタは、ジョー・ガラに敗れ、命を落とした。
死の瞬間、その目はエルダを捉えたように感じた。
何も言わず、ただ目を見開いたまま、彼は倒れた。
ナッキ・カナタが死んだことで、エルダは強く思った。
「次は、勝者の手を取ろう」と。
ジョー・ガラを相棒として選ぶことは、誰よりも難しい決断だった。
ナッキを倒したその手で、ジョーは自分の命を取るように戦っていた。
それでも、エルダは冷徹な思考の下で、彼女の強さと実力を評価せざるを得なかった。
恨みがないわけではない。だが、共に生き抜くためには、その強さを信じるしかなかったのだ。
「ジョー」とエルダは声をかけた。
互いに知り尽くしている。だが、それは同時に、何かを犠牲にしなければならないことを意味していた。
ジョー・ガラと手を組むことに、全く違和感がなかったわけではない。
だが、彼女の強さ、そしてその冷徹さが、エルダにとって生き抜くために最も必要な力だと感じた。
ジョーが一緒にいるからこそ、今まで生き残ることができたのだ。
「勝者が自由市民になる」――その言葉が今、エルダの耳にこだました。
勝者は自由を手に入れ、敗者は永遠に剣闘士として過ごすことになる。
自由市民。それがどれほどの意味を持つのか、エルダにはわかっていた。
だが、ここでその手を取らなければ、何もかもが無意味になってしまう。
エルダは答えなかった。
目を合わせることすら、今は辛かった。
これが、闘技場で生き抜く唯一の方法だ。
「そうだ。」
エルダはやっと、重い声で答えた。
試合が近づいている。
息を呑む音が、エルダの胸の中で響く。
ジョー・ガラを倒さなければならない。それが、この戦いの目的だ。
だが、ここに立っている以上、逃げることはできない。
エルダは、ゆっくりと剣を握りしめた。
目の前に立つ相棒――その相手と戦わねばならない宿命が、今、彼に課せられている。
闘技場に鐘の音が響く。
その音と共に、彼の内心もまた、鳴り響いていた。
エルダは、ナッキが死んだ瞬間を今でも忘れられない。あの闘技場の血塗られた砂の上で、彼の命があっさりと奪われた。首を切られた瞬間、ナッキは一言も発せずに倒れ、視界から消えていった。その時の冷徹な感覚、そして自分の中に湧き上がった怒りと無力感は、今も消えずにエルダの心を締め付けている。
あれから数日後、エルダはナッキの代わりに新たな相棒を選ぶことに決めた。その相棒こそが、ジョー・ガラだった。女性剣闘士として珍しい存在であり、さらに彼女がナッキを倒した戦士であるという事実は、エルダにとって複雑な感情を呼び起こした。
だが、戦場ではそれが全てだ。過去を引きずっていても何も変わらない。エルダは覚悟を決めて、ジョーに声をかけた。
「来週の魔獣狩り、一緒に行くか?」
ジョーは短く、無表情で答える。
「勝てばいいんだろ。」
その言葉には、冷徹で無駄のない意志が宿っていた。だが、それだけではなかった。エルダは感じ取っていた、彼女の内側に隠された痛みを。ジョーの冷徹さは、戦場での自分を守るためだけではない。誰にも頼らず、決して心を開かないようにしている自分を守るためだった。
二人は次第に戦闘の準備を進めた。魔獣狩りの舞台は、都市の外れにある古代の森の中だった。このイベントは単なる狩りではない。観客が集い、興行として扱われる。まるで見世物のように、魔獣を仕留めるために選ばれた闘士たちが、その腕前を披露する場となるのだ。街の賑やかな市場で、観客たちは期待と興奮を抱えて集まり、金銭を投じて席を確保する。高価な席に座る者たちは、豪華な服を身にまとい、野次を飛ばすためにやって来る。
その空気は重く、ひんやりとした霧に包まれており、時折木々の間から魔獣の低い唸り声が響いてきた。エルダは装備を整えながら、ジョーに問いかけた。
「アレ、どう思った?」
「勝ててよかった。それだけだ。」
エルダはその言葉に何かを感じた。冷徹であろうとする彼女の背後に、誰にも言えない過去の傷があることを。エルダは無理にその話題を深く追うことはなかったが、ふと、ジョーが自分と似ていることに気づく。自分の過去を切り離して生きることが、どれほど難しいことか、彼女もよく分かっているはずだ。
その夜、二人は森へ向けて出発した。闇が深まり、薄明かりの中で魔獣の息づかいが間近に感じられた。エルダは無言で歩きながら、自分に問う。
『何を探しているんだ?』
戦いの中で勝ち続けること、それだけが自分の存在証明だった。だが、この先、どれだけ勝ち続けても、ナッキの死は消えない。
森に足を踏み入れると、冷たい霧の中に巨大な影がちらつく。魔獣の気配が増す中、エルダは剣を抜き、前方を睨みつけた。ジョーも同様に、矢を構え、静かに息を潜める。二人の呼吸が一致し、まるで一体となったかのように動き出す。
観客たちが遠くでざわめいているのが聞こえる。彼らの目は、次に登場する魔獣と、それを迎え撃つ闘士たちに注がれていた。賭けが行われ、金銭がやり取りされ、観客たちの期待は高まっていた。魔獣の命は、ただの娯楽となり、命のやり取りがゲームとなってしまう。エルダはそのことを承知の上で、ただ無駄に死なないように戦うしかないと自分に言い聞かせていた。
突然、巨大な獣が霧の中から現れた。鋭い爪と牙が光を反射し、まるで幽霊のように不気味に迫ってくる。その目は赤く輝き、怒りに満ちていた。
「来たか。」
エルダは冷静に言った。その言葉には、今までの戦いのすべてが詰まっている。
魔獣は唸り声を上げて襲いかかってきた。その瞬間、エルダとジョーは一緒に動き出した。エルダは前に飛び込むように剣を振るい、魔獣の爪をかわしながらその腹部に一撃を加えた。ジョーは素早く後ろから矢を放ち、魔獣の首元を狙った。
魔獣は痛みにうめきながらも猛然と反撃してきた。その鋭い爪がエルダの鎧に引っかかり、わずかな隙間から血が流れ落ちる。エルダは歯を食いしばりながら、その隙間に剣を突き立てた。ジョーの矢が再び魔獣の目を貫く。魔獣は大きく身を震わせ、地面に倒れ込んだ。
「やったな。」
エルダは息をつきながらジョーを見た。
ジョーは無言で矢を抜き、もう一度振り返る。その目には、ほんの一瞬、安堵の色が浮かんだが、すぐに冷徹な表情に戻る。
「次も勝つだけだ。」
エルダは少しだけその目を見つめた後、静かに頷いた。戦いが終わった後も、二人にはそれぞれの闇がついて回る。それでも、戦場ではそれを背負っていかなければならない。それが、彼らの運命だからだ。
ナッキ・カナタは、試合が終わるたびにアリーナの砂に足を踏み入れるたび、その重さを実感していた。砂は乾いて硬く、熱を持っていて、足裏にひび割れたような感触を残す。観客の歓声が遠くに響き渡る中、彼はゆっくりと息をついた。肩を上下させながら、手に握った剣の冷たさに、次第に体の温度が戻るのを感じる。
アリーナの周囲には、高く聳える壁が立ち、そこには古代の呪文がびっしりと刻まれていた。昼間はその壁が白く輝き、夜には薄い青い光を放つ。観客たちの大半は富裕層で、色とりどりの高級な衣服を身にまとい、豪華な椅子に座って戦いを楽しんでいた。その中でナッキのような剣闘士は、命を懸けて戦い続ける者として、ただ一つの価値があった。
だが、ナッキはその価値を実感できるほど、戦いに胸が高鳴ることはなかった。彼が生き残るために蓄えた脂肪の層は、厚いだけではない。それは彼が敵の鋭い剣を受け流すために必要な重さであり、また、命を守るために絶対に必要な防御だった。見た目には重そうに見える体も、動き出せば予想以上に素早い。脂肪の下には硬い筋肉がぎっしりと詰まっているからだ。
「この体型も、無駄ではないんだ」とナッキは自分に言い聞かせる。だが、戦いの後、彼の胸には不安が残ることが多かった。試合が終わると、その手に汗が滲み、胸が締め付けられるような感覚に襲われる。それは勝利後に訪れる空虚さだった。観客が歓喜に沸いている中、ナッキだけがその場に溶け込めずにいるような気がしてならない。
「俺は、何のために戦っているんだ?」
心の中でその問いを繰り返すが、答えは見つからない。戦うことが全てだと自分に言い聞かせてきたが、それが本当に意味のあることなのか、時々疑問が湧く。だが、その疑問に答えることなく、また次の試合に向かうしかなかった。
アリーナの隅で、他の剣闘士たちが次々と準備をしている。皆、ナッキと同じように脂肪を蓄えている。彼らもまた、命を守るためにその体を作り上げているのだ。体型で言えば、ナッキが特別大柄なわけではない。むしろ、他の剣闘士たちも同じような体型をしている。それぞれが背中を丸めているものの、その体は確かに力強さを感じさせる。剣を握り、腕を回すと、重さに耐えるだけの筋力を感じることができる。
だが、その中に一人、異彩を放つ者がいた。細身のエルノだ。彼はその体格にもかかわらず、戦闘においては他のどの剣闘士よりも抜きん出た速度と技術を誇っていた。ナッキのように重さで相手の剣を受け流すことはできないが、エルノは巧みに体をかわし、相手の隙間を突く。それを見て、ナッキは自分の戦い方に疑問を抱く時もある。
「お前、今度の試合、どうするんだ?」
隣の剣闘士がエルノに声をかける。エルノはにっこりと笑って答える。
「もちろん、早く終わらせるさ。だって、俺には時間がないからな。」
その言葉に、ナッキは少し立ち止まる。エルノが戦いのために全力を尽くすことはわかっているが、なぜあんなに自信満々でいられるのかが、ナッキには理解できなかった。
街の広場では、錬金術師が薬草を並べ、店の前には装飾された木製の看板が揺れている。風に乗ってパンの焼けた香りが漂い、金属の匂いが鼻をつく。街の外れに目を向ければ、細い道の向こうに立つ塔が見える。その先に広がる夜の街並みは、どこか幻想的で、時折、魔法のような薄い光が浮かんでいる。
ナッキはその街の喧騒の中で孤独を感じる。彼の体に流れる血は、戦いのためにある。勝利しても、歓声が響いても、その心の空虚さが埋まることはない。彼の頭の中では、また問いが浮かぶ。自分は本当にこれでいいのか?――でも、答えはやはり、出なかった。
再びアリーナに足を踏み入れると、砂の感触が心地よく感じられる。この場所が、彼の唯一の居場所なのだと、ナッキは自分に言い聞かせて、剣を握り直すのだった。
雪が降り始めると、私はどうしてもその降りしきる雪に心を奪われる。だが、これは単なる雪ではない。まるで冷徹な運命が私を包み込もうとしているかのように、その白い粒はどこか無慈悲に降り注ぐ。
あの日、彼女が去った時の冷たい空気が、今再び目の前に広がったように感じる。雪の一片一片が、私の心の中でくすぶる痛みを引き裂くかのように、冷たく突き刺さる。
思い返してみれば、あの冬の日、私たちは一緒に雪の中を歩いていた。手をつないで、未来に対する夢を語り合い、愛を誓い合った。あの時の温もりが今、どうしても思い出せない。むしろ、あの時の彼女の微笑みすら、裏切りの記憶として塗り替えられているような気がする。
雪のように清らかな彼女の言葉も、今となっては冷たく無意味なものにしか思えない。
どうして私は、あんなにも信じてしまったのだろうか? 彼女が放った言葉はまるで凍りついた空気の中で舞う雪のように、私の心に溶け込んでいった。そして、その信じる力が、今では私を深く傷つけている。雪が降るたびに、その記憶が呼び起こされる。何度も何度も繰り返し、裏切られた痛みが胸を締め付ける。
「雪が降るのは美しいことだ」と、かつて彼女は言った。それが私たちの愛の象徴だと言った。
だが、今、その雪が何を象徴しているのだろう? 白く清らかなものが、実は私の心を凍らせるものだったのか? それとも、雪はただの冷徹な現実を映し出す鏡に過ぎなかったのか?
もし、あの日の雪が本当に私たちの愛を象徴していたのなら、その愛は今、冷え切った亡霊のように私を悩ませている。愛の象徴などではない。それは単なる、私の愚かさを証明するものに過ぎない。
私が彼女に与えた愛は、彼女の裏切りによって踏みにじられた。それは、まるで雪が溶けることなく、ただ無慈悲に降り積もるようなものだった。
彼女が去ってからどれだけの時間が経っただろうか。雪が降り続けるたびに、その時間が重くのしかかる。あの日の約束、彼女の言葉、すべてが今では無意味に感じる。だが、私はまだその記憶に囚われている。どうしても、その痛みから逃れられない自分がいるのだ。
彼女が去ったその日、雪が降り続けていた。まるで全てのものが凍りついてしまったかのように、私の心も凍りついてしまった。それ以来、雪が降るたびに、あの瞬間が蘇る。雪の中に身を委ね、静かに死を迎えるような感覚が心を占める。
だが、こうして雪が降り続けることに意味はあるのだろうか? それは私の心の中で、何をもたらすのか? もしも、雪が私に与えるものが冷徹な痛みであるなら、私はそれを受け入れるべきなのだろうか?
いや、受け入れられるものではない。それでも、雪が降るたびに私はその痛みに引き寄せられ、再びあの痛みを味わうことになる。
こうして雪が降るたびに、私は彼女との過去に引き戻される。過ぎ去った日々が今でも心の中で生き続け、私を支配し続ける。雪の中で凍えるように、私は過去に縛られたまま、今もなおその痛みを抱え続けているのだ。
村の外れ、古びた石畳の道沿いに、ひっそりと建つ店がある。
風化した木の扉を開けると、ひんやりとした空気と、薬草や木の匂いが混じり合う。
年齢はすでに80を超えているが、その目は鋭く、動きも素早い。
長年の経験に裏打ちされた自信を感じさせる。
その手は、さまざまな薬草を束ね、古びた道具を磨き、書物を静かに整えていく。
「進み続けることがすべてだ。」
それは、彼女が歩んできた道そのものであり、店を開いたときから今まで変わらない信念だった。
初めのうち、村人たちは疑った。
「たとえ道が険しくとも、進み続ける。それが私の選んだ道だ。」
あのとき、彼女は家族や友人から「もう諦めたら?」と勧められた。
決して諦めないと。
自分の道を歩むことを、進み続けることを選ぶと。
店を開いてから、しばらくの間は客足が遠かった。
薬草を使って作った小さな治療薬や、魔法の道具を一つ一つ丁寧に作り続け、
やがて村人たちは少しずつ足を運ぶようになった。
そこには、進み続ける力が宿っていると、村人たちは感じ取った。
「進むこと、それがすべて。」
彼女がすべての困難を乗り越えてきた証だった。
店に訪れる人々は、ただ商品を買いに来るのではなく、
心の中で少しでも勇気をもらいたいと思っていた。
マティルダの店には、進む力が満ちていた。
彼女が過ごしてきた年月と、その中で培われた強さが、それを証明していた。
「どうしてそんなに元気でいられるんですか?年齢を重ねても、どうしてこんなにしっかりしているんですか?」
「進み続けること。それが、すべての答えだよ。」
彼女は迷うことなく言った。それは、彼女の心の中で何度も繰り返し確認してきたことであり、今も変わらない。
「進み続けること。」
だが、進むことでこそ見える景色があり、進むことでこそ得られるものがあるのだ。
店の中は、静かな熱気に包まれている。
壁には古びた巻物が並び、棚には魔法の道具や薬草が整然と並べられている。
それらはすべて、マティルダが進み続ける過程で手に入れたものだ。
「進み続けること。」
その言葉は、店を訪れるすべての人々に深く染み込んでいく。
物理的にではなく、心の中に。
店の扉を開けるたびに、誰もが進む力をもらい、少しずつでも前に進む勇気を得ていくのだ。
マティルダは、年齢を重ねても、ただひたすらに歩み続ける。
外の世界は忙しなく動き続けるが、ここでは進むことの意味がゆっくりと、しかし確実に伝えられていく。
そして、マティルダはまた一歩踏み出す。
進み続けるために。
目の前の契約書を見つめると、手が震えていた。何度も書類を見返すが、結局、どこを見ても同じ内容が続いている。
15年間、毎年同じように契約を更新してきたが、今はその意味が薄れてきている。数字が増え、肩書きが重みを増すたびに、心がどこかで置いてきぼりにされている気がした。
最初にサインした契約書が目の前にあった時、まだ若かった自分はただの「契約」だと思っていた。それが、自分にとってどれほど重要で、やがて重荷となるとは想像もしていなかった。
あの頃、自分はただ「成功」を追い求めていた。どんな犠牲を払ってでも、それを手に入れることが目標だった。
エージェントが「君はこれからのスターだ」と言ってくれた言葉が、今では重すぎて息ができなくなるような感覚に変わっている。
年俸が20倍に膨れ上がり、名声も手にした。しかし、それに比例して自分の自由は失われていった。
毎日が忙しさに追われ、周囲の期待に応え続けることだけが生きがいになったように感じる。
周りの人たちにとって自分は、数字に過ぎない。成功を追い求めることが自分の存在証明だと信じてきたが、ふと気づくと、その「成功」に一度も心から喜んだことがないことに気づいた。
初めて契約を更新したときの、嬉しさと誇らしさを覚えている。その頃は、何もかもが新鮮で、未知の世界に足を踏み入れるのが楽しみだった。
だが、何年も同じことを繰り返し、満たされない自分を感じるようになった。目標を達成しても、次の目標が待っている。
数字が増えれば増えるほど、達成感は薄れていき、物理的に大きな契約書が重く感じるようになった。
「君はこれだけの実績を持っている。今が一番良い時期だろう?」
どれだけ成功を収めても、次はそれ以上を求められる。まるで、どこまで行っても終わりが見えない迷路に迷い込んだ気分だった。
内心で決意が固まる。これ以上、この生活を続けていいのだろうか。自分の人生を他人に決められているような、そんな気がしてならない。
エージェントの期待を裏切ることが怖かった。でも、これ以上、自分を犠牲にすることに耐えられなかった。
電話を切り、契約書を手に取った。その紙を見つめながら、心の中で一つの決断を下す。
ペンを取らず、代わりにその書類を机の上に投げた。もう、あの数字の羅列に縛られる必要はない。これからは、他人の期待に縛られることなく、自分の人生を歩んでいく。
契約を断ることは、社会の枠を壊すことだと分かっていた。しかし、何かを壊さなければ、何も生まれないことも理解していた。
その瞬間、ふと過去の自分が浮かぶ。あの頃は、確かに自信に満ち、目標に向かって突き進んでいた。
だが、今振り返ると、それがどれほど自分を見失わせるものであったのか。過去の自分を否定するつもりはないが、今はその成長の先に見えているものが違うと感じている。
契約書が机の上に放り投げられ、部屋の空気が一瞬軽くなるのを感じた。心が少しだけ軽くなり、無駄なものをすべて放り出したような気分になった。
目の前に広がるのは、これからの自由だ。それは、過去の枠にとらわれない、新たな一歩だった。
リオは、ただの若者だった。
日々の暮らしの中で、特別なものを持つことなく、ただ静かに生きていた。
街の喧騒に埋もれるように、何も求めず、何も変わらないまま、彼の世界は淡々と流れていった。
あの時、戦場は突然、闇のように押し寄せた。
遠くから聞こえる金属のぶつかる音、叫び声、そして土の匂いと血の匂いが交じり合う中、リオは戦争の真っ只中に立たされていた。
体は震え、鼓動は激しく胸を打つ。
剣を握る手のひらからは、冷や汗が滴り落ちた。
どこか遠い場所から、自分がどこに立っているのかさえ、わからないような気がした。
そのとき、リオの目は、目の前で戦うハークと絡み合った。
彼の目には、迷いも恐れもない。ただ、決意と覚悟があるのみだった。
リオは、無言で彼に駆け寄った。
何も考えることなく、ただ彼を守るべきだと感じた。
『守らなければ』と心の中で繰り返しながら、リオはハークを引っ張ってその場を離れた。
足元の土が泥に変わり、息が上がる。
しかし、リオの胸の中に、ただひとつ、確かなものがあった。それはハークを守るという決意だ。
「守らなければ。」リオは心の中で何度もその言葉を呟いた。
その瞬間、リオの目の前に、突如として闇が広がった。
時間が歪んだように感じ、周囲の音が遠くに消えていく。
彼の体は急に重く感じられ、意識が遠のいていく。
手に伝わるハークの温もりが、次第に冷たくなっていった。
リオは、ただ静かに目を閉じた。
そして、リオは死んだ。
だが、ハークは生き、そして伝説となった。
その背後には、リオの無言の絆があった。
「欲しいのか、ただ手に入れたかっただけか?」
—ヨシュアは手にした時計を見つめるたびにその問いを繰り返した。
金の縁が光り、細かな装飾が美しい。その美しさに心が引き寄せられ、気づけばシン王国の大臣の腕からその時計を盗んでいた。
しかし、手の中にあるのはただの時計で、心の中は重く沈んでいった。
最初の興奮が過ぎると、胸の中に湧き上がったのは後悔だった。
時計を手に入れても、何かが満たされるわけではない。むしろ、盗んだことへの罪悪感が次第に押し寄せ、心を締めつける。
「どうして、どうしてこんなことをしてしまったんだ?」
その時計は、あっという間に大きな波紋を広げた。
シン王国はそれを取り戻すために必死になり、隣国コールとの外交問題が一気に悪化した。
ヨシュアの行動が、王国の運命にまで影響を与えることになるとは、誰も予想していなかった。
「どうしてこんなことになったんだ?」
—盗みを働いた自分を責め、心は揺れ動く。時計を返すべきか、それともこのまま隠してしまうべきか?その選択に正解はないことを、彼は痛いほど理解していた。それでも、「どうして?」という問いはどこに向かっても答えを見つけられない。
盗んだものは時計だけでなく、心の中の安らぎだったのかもしれない。
欲しいものを手に入れたとき、何かが変わると思った。しかし、何も変わらなかった。重い時計が手に残るだけだった。
「どうしたいんだ?」
—その問いも、いつしか答えを求めることすらなくなった。結局、ヨシュアはその時計をどうすべきか決められないまま、ただその場に立ち尽くすしかなかった。後悔、反省、そしてもう一つの問いが心に浮かぶ。
「こんなことで、本当に満たされるのか?」
ヨシュアは振り返ることなく、手にした時計をポケットに押し込んだ。
心の中で繰り返す問いは、どこか遠くに消えていくような気がした。
しかし、答えがないまま終わったとしても、それでいいのかもしれない。
「どうして、どうして……」
その問いは今もヨシュアの中で続いている。
心が震え、胸が高鳴る瞬間、俺はただ観客席で見守るだけではいられなかった。
試合が進むにつれて、選手たちが泥にまみれながらも必死に戦う姿を見て、俺の中に一つの決意が芽生えた。
「俺も戦いたい、俺も負けたくない」と。
ここにいるのは、勝者と敗者が交錯する場所だと知っていたからだ。
しかし、試合が進むにつれて、選手たちがどんなに激しく、どんなに苦しくても前に進み続ける姿を見て、俺は気づいた。
負けたくないのは、彼らだけではない、俺自身だと。
「終わりまで戦い続けるんだ」。
試合の終盤、選手が疲れきった顔でピッチを駆ける姿を見て、俺はその言葉を心の中で繰り返した。
どんな状況でも諦めない。その姿勢こそが、俺にとっての勝利への第一歩だと思えた。
目の前で繰り広げられている戦いが、俺にとっての挑戦の意味を再認識させてくれたのだ。
そして、俺の思いはふと彼女に向かう。
「君がいてくれるから、俺はここまで来られたんだ」と。
試合を通じて気づいたのは、ただ自分一人で戦っているわけではないということ。
自分の周りには、俺を信じて支えてくれる人たちがいる。それが、俺の力になっていることを実感した。
この瞬間、俺は確信した。
負けないこと、戦い続けること、それが全てだ。
自分を信じて、挑戦し続ける。それが、これからの俺の人生だと。
挑戦し続ける限り、俺たちは負けない。
何度も繰り返し思ってみるけれど、どうしてもそれがうまく言えないんだ。
君に伝えたかったけれど、言葉を選ぶだけで手が震えて、声が出なくなる。
どうしてこんなにも不器用なんだろう。
まるで何かを伝えることができるのか、そんな風に感じているけれど、
結局、言葉にすることすらできない。
何度も何度も、その一言を口にしようと試みた。
でも、結局、何も変わらなかった。言いたかったのに、どうしても言えなかった。
「どうしてこんなに上手くできないんだ?」と、
内心で何度も呟いてみても、それでも何も変わらない。
それでも、もうどうでもいいのかもしれない。
諦めたくないけど、どうしようもない。