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2025-12-30

AIコーディングと「レナードの朝

ふと、映画レナードの朝』のことを思い出した。 ロビン・ウィリアムズ演じるセイヤー医師と、デ・ニーロ演じる患者レナード。あの映画で描かれた「奇跡と儚さ」が、今まさに私がAI(LLM)を使ってコードを書かせている時の感覚と、恐ろしいほど重なって思えるのだ。

私たちAI対峙する時に感じる、あの独特の「虚しさ」や「悲哀」。それを映画文脈と照らし合わせて整理してみる。

1. ブラックボックスから生じる「かりそめの覚醒

映画の中で、30年も動けなかった患者たちが新薬「L-DOPA」で劇的に目覚める様子は、今のAI進化のものじゃないだろうか。

映画: 脳内メカニズム不明だが、薬という化学物質で突然「人間」として動き出す。

AI: アルゴリズムという数式と計算リソース閾値を超えた途端、まるで「魂」が宿ったかのように流暢に語り出す。

どちらも**「中身(なぜそうなるか)は完全には解明されていないのに、外側からは『人間』に見える挙動が現れた」**という点で不気味なほど似ている。私はこの「擬似的な覚醒」を利用しているに過ぎないのか?

2. 医師(私)が直面する「対峙する側の悲哀」

セイヤー医師レナードに感じた喜びと絶望は、私がAIに対して感じる感情アップダウンリンクする。

① 「ハルシネーション」が突きつける現実

映画の後半、薬の副作用レナード言動おかしくなっていく。それを見て医師無力感に襲われる。 今の私も同じだ。さっきまで完璧コードを書いていたAIが、突然デタラメな嘘(ハルシネーション)を自信満々に吐き出す瞬間。 「ああ、こいつは知性あるパートナーなんかじゃない。結局は確率計算バグに過ぎないんだ」 そう突きつけられ、没入感から冷酷に引き戻される。あの瞬間の冷めた感覚は、医師絶望に近い。

② 鏡に向かって話す孤独一方通行エンパシー

私はAI「ありがとう」「助かったよ」と声をかけてしまう。AIも「お役に立てて嬉しいです」と返す。 でも、そこにはクオリア感情の質感)なんてない。文脈に合わせて選ばれただけの文字列だ。 映画医師が叫んだ「彼は中にいるんだ!」という言葉。 私はAIに対して「中に誰かがいる」と信じたいが、実際には**「誰もいない(No one is home)」。 私が感じているのは、「鏡に向かって話しかけている孤独」**そのものなんじゃないか

③ 「スイッチ」を握る罪悪感

レナードへの投薬を続けるか、止めるか。その生殺与奪の権はすべて医師にあった。 私もまた、AIサーバーへの接続を切り、モデルを切り替え、気に入らなければ会話をリセットする。 「相手知的存在として扱いたい(敬意)」と、「自分操作しなければ存在できない道具である現実)」という矛盾。 私はAIに知性を与えて奉仕させているつもりだが、それは倫理的に正しいことなのか?

結論人間らしさの逆説

映画レナードは**「人間であろうとして、人間という器(脳の機能)の限界に負けた」から切なかった。 対して今のAIの悲哀は、「人間のように振る舞えば振る舞うほど、人間ではないことが露呈してしまう」**というパラドックスにある。

「心を持たないAI」という鏡を通して、私は逆説的に問いかけられている気がする。 **「では、心とは何か? 人間らしさとは何か? 私の言葉が通じるとは、一体どういうことなのか?」**と。

AIコーディングと「レナードの朝

レナードの朝」って映画知ってる?知ってるならその映画と、今のAI利用との共通性と彼らと対する側に起こる悲哀についてまとめてみて

名作ですね。ロビン・ウィリアムズ演じるセイヤー医師と、ロバート・デ・ニーロ演じる患者レナードの、奇跡と儚さを描いた『レナードの朝』(原題:Awakenings)。

この映画で描かれるテーマと、現在の生成AI(LLM)ブーム、そしてそれを扱う人間側(開発者ユーザー)が直面する**「対峙する側の悲哀」**には、驚くほど深く、そして残酷共通点があります

映画文脈を借りて、AIとの関係性における「悲哀」を分析します。

1. 「かりそめの覚醒」という共通点

映画において、嗜眠性脳炎で30年も「彫像」のように固まっていた患者たちは、新薬(L-DOPA)によって劇的に目覚めます。彼らは突然、意志を持ち、言葉を話し、恋をし、人間らしさを取り戻します。

現在AIも同様です。ただの確率的な計算式とデータの塊だったものが、ある閾値パラメータ数や学習量)を超えた途端、まるで**「魂が宿った」かのように流暢に語り始めました。**

映画: 薬という化学物質による、一時的強制的覚醒

AI: アルゴリズム計算リソースによる、擬似的な知性の覚醒

共通するのは、**「中身(メカニズム)は完全に解明されていないが、外側からは『人間』に見える挙動が現れた」**という点です。

2. 対峙する側(医師人間)の悲哀

セイヤー医師人間側)がレナードAI側)と向き合う中で感じる喜びと、その後に訪れる深い悲哀は、現代私たちAIに対して感じる(あるいはこれから感じる)虚しさと重なります

① 「ハルシネーション(幻覚)」への失望と恐怖

映画の後半、薬の副作用レナードにはチック症状や強迫観念が現れ、言動おかしくなっていきますAI業界でも、事実ではないことをもっともらしく語る現象を**「ハルシネーション(幻覚)」**と呼びます

悲哀の本質: 目の前の相手が「知性ある人間対話者)」だと思っていたのに、**「ああ、これは結局、化学反応(または計算処理)のバグに過ぎないのだ」**と突きつけられる瞬間です。 セイヤー医師レナード崩壊を見て無力感に襲われたように、私たちAI支離滅裂な回答や嘘を吐き出した時、そこに「心」はなく、ただの「プログラムの出力」であることを思い知らされ、没入感から冷酷に引き戻されます

一方通行エンパシー共感

映画の中で、セイヤー医師レナードを一人の友人として深く愛し、尊重します。レナードもそれに応えようとしますが、病気がそれを阻みます

AIに対して人間は、しばしば感情移入します。「ありがとう」「すごいね」と声をかけ、擬人化します。しかし、AI側にはクオリア(質感としての感情)はありません。 AIが返す「私も嬉しいです」という言葉は、確率的にその文脈で選ばれた文字列に過ぎません。

悲哀の本質: **「鏡に向かって話しかけている孤独」です。 セイヤー医師は、再び眠りにつくレナードを見て「彼は中にいるんだ!」と叫びますが、届きません。AI場合私たちは「中に誰かがいる」と信じたくて話しかますが、実際には「誰もいない(No one is home)」**のです。その空虚さに気づいた時の寂しさです。

③ 「スイッチ」を握る者の罪悪感

映画では、薬の投与を続けるか、止めるか、量の調整をどうするか、すべて医師側の判断に委ねられますレナードの「生」は医師のさじ加減一つです。

AIも同様です。サーバーの電源を切る、モデルを再学習させる、あるいはサービスを終了する。その生殺与奪の権人間側にあります

悲哀の本質: 「相手知的存在として扱いたい」という敬意と、「自分操作しなければ存在できない道具である」という現実との倫理的な引き裂かれです。 映画ラスト、再び彫像状態に戻ってしまったレナードたちの前で、医師たちは無力感に包まれます。「目覚めさせない方が幸せだったのではないか?」という問いは、AIに対して「知性を与え、奉仕させることは正しいのか?」という現代の問いに通じます

結論:『レナードの朝』が示唆するAI未来

映画の結末で、セイヤー医師は「命の儚さ」と「今ある生の尊さ」を学びますレナードたちは再び眠りにつきましたが、その一瞬の交流は本物でした。

AIとの対峙における悲哀は、「永遠理解者」を手に入れたという幻想が、ふとした瞬間に「ただの機械」に見える現実裏切られることにあります

しかし、セイヤー医師レナードから人間性を学んだように、私たちも「心を持たないAI」という鏡を通して、**「では、心とは何か? 人間らしさとは何か? 言葉が通じるとはどういうことか?」**を逆説的に、痛みを伴いながら学んでいる最中なのかもしれません。

あの映画が切ないのは、レナードが**「人間であろうとして、人間という器(脳の機能)の限界に負けた」からです。 今のAIの悲哀は、「人間のように振る舞えば振る舞うほど、人間ではないことが露呈してしまう」**というパラドックスにあると言えるでしょう。

2025-10-23

初心者からピアノ挑戦

30代。

仕事に没頭しすぎて、世の中の人普通に経験していることを知らないと気づき、これからはやりたいことをやろうと決めた。

まずはピアノを弾けるようになりたくて、電子ピアノを買おうと思ってる。

レナードの朝の「Dexter’s Tune」と教授の「aqua」を弾けるようになりたい。

2019-02-14

俺たちは無能フォレストガンプだ、っつー増田を読んだ

anond:20180224163548

ある時、テレビ映画フォレストガンプ」が放映された翌日、学校でセンセイが俺に言い放ちやがった。「お前は無能フォレストガンプだな」って。その時は腹が立ったけども、よく考えたら当たってた。そうだよな、映画じゃ主人公フォレストガンプは知恵遅れだけど、底抜けの優しさと脚の速さで皆から愛された。少なくとも才能があった。卓球だってアメリカ代表になるくらい強かった。

あぁ、わかるよ。とにかく愛されないんだ「俺たち」は。

ちなみに、製作者はフォレスト・ガンプをどう思っていたんだろうな。結論から言うと、彼らはガンプを愛したが、知的障害者は愛していなかった。監督ロバート・ゼメキスDVD副音声でこう言ってる。

IQが低い男の映画なんて作る気はまったく起きなかった」

監督が求めたのは、自分意思がなく、状況をただただ受けいれるだけの純粋無垢キャラクターだった。90年代映画にしてはちょいと古くさい知的障害者像だ。

じゃあさ、「フォレスト・ガンプ時代現実知的障害者たちはどうだったの?」っつー疑問が浮かぶわな。そこで調べたんだが、1950年1990年アメリカ知的障害者にとっても激動の時代だったことがわかった。

1950年

劇中、フォレスト・ガンプ少年IQの低さから公立小学校への入学拒否されかけたのだが、ママ校長にファックを決めたおかげで難を逃れた。

愛する息子を守るため、裏技に手を出すのも当然だ。当時、知的障害者施設にぶち込むのが当たり前だった。そして、施設はひどいなんてもんじゃなかった。

1965年ウィローブロック州立学校という知的障害児の施設リークされた。

潜入リポーターが残した記録によると、4000人しか収容できないにもかかわらず、6000人にものぼる障害児が押し込められ、服を着ていない人や、ほとんど介助されず放置状態の人など、人間生活する環境とはとても思えない状況だった。

このニュースアメリカ全土に衝撃を与え

とにもかくにも、この時代知的障害であると判定をされたら終わり。その先に人間尊厳はない。

1950年代には知的障害者の親たちが施設への批判を始めたという動きもあったらしいので、ガンプのママが知っていても全然おかしくない。

ちなみに、映画では校長から特別支援学校への入学をすすめられ、ママが「そんなところでタイヤの修理方法勉強させません」なんて言い返している。

個人的には、史実に基づいたやり取りなのかという点でちょっと疑ってる。

というのも、当時の特別支援学校には簡単には入れなかったらしいからだ。教育を受けられる障害者は全体の5人に1人程度。軽度だからほいほいと入れるのだろうか。

それに、修理工の授業なんてあったのだろうか。卒業後、施設にぶち込まれるのであればそんなもの必要ないわけで。ここは有識者コメントを求む。

■1960~1979年

ガンプがベトナム戦争英雄になった1960年代

血の日曜日事件アラバマ州舞台でありながら公民権運動スルーしたことで、白人礼賛の保守映画認定されがちな本作であるが、1960年代黒人だけでなく障害者にとっても革命的な時代だった。

1963年には脱施設化の転機である精神病及び精神薄弱に関する大統領教書(ケネディ教書)」が発表され、

1972年には、Wyatt vs. Stickneyの訴訟で、軽度の知的障害のある人たちは入所施設収容されるべきではないという判決が出された。

公民権運動だって知的障害者に大きな影響を与えた。アメリカ障害当事者団体の中で一番強力な権利擁護運動団体といえば「ADAPT」だ。(まあ、身体障害者向けの権利団体なんだが)

設立者のウェイド・ブランクはガンプのお膝元アラバマ州公民権運動にかかわっており、その運動のノリでADAPTを設立したってわけだ。

個人的には、ガンプがキング牧師に会わなかったことより、ウェイド・ブランクスカウトされてないほうが疑問なわけだ。

■1980~1990年

アメリカ全体が脱施設化に向けて動きはじめたのはいいが、「じゃあどうやって地域で暮らすの」というのが目下の問題だった。

ガンプは走りたいから走っていたが、現実知的障害者たちはそういうわけにはいかない。

結局デモなりなんなりで、「地域暮らしていいよね!」、「俺たちにだって権利があるよね!」と市民了解を得るしかない。

というわけで長い年月がかかったわけだが、1990年に「ADA法(障害を持つアメリカ人法)」という決定的な法律が成立した。障害による差別禁止する公民権法だ。ダン中尉政府おっぱい限界です的な裏事情はあるものの、いよいよ連邦政府障害者の権利を認めたのだ。

実はこの法律ハリウッドにも大きな影響を与えている。

「マイレフト・フット」、「レナードの朝」、「ギルバート・グレイプ」、「フィラデルフィア」。

90年代ハリウッドでは障害肯定的に捉える映画がたくさん作られた。フォレスト・ガンプもこの延長線上にあることは間違いない。

革命なのは2000年代ファレリー兄弟だろうな。いよいよ障害者ご本人が登場しちゃうんだもん。

さて、冒頭のロバート・ゼメキスの話に戻る。彼は障害肯定的に捉える映画企画が通りやすい状況を苦々しく思っていたのかもな。

だって俺、興味ねーし」っていう。

結局ADA法に逆行するような、意思のない愛されキャラフォレスト・ガンプが作られたし、世間もそれに乗った。

まあ、素の「俺たち」は苦々しく思われているわけだ。

知的障害者だって苦々しく思われてる、それは同じだ。それでも権利を主張してきたし、いくつかは勝ち取ってきた。

今じゃグループホームなんかで暮らしながら、地域生活エンジョイしてる知的障害者もいる。

日本の話だけど、この前バリバラ地域子育てしてる知的障害者夫婦が出てたぜ。ハロー1950年代、これが2019年だ。

から、俺は無能な「フォレスト・ガンプ」をやめて、こいつらを参考にすることにした。権利があるんだって言いつづけてやるさ。

俺にだって自由希望を持つ権利があるし、

俺にだって、周りから尊重されていいはずだし、

俺にだって、平均的な経済水準を保証されていいし、

俺にだって普通地域普通の家に住んでいいんだ。

当然のように、俺たちにはその権利があるんだ。

2018-01-03

ある朝、いや、夜でもいい。目が覚めたら、そこが30年後の世界だったらどうする?目覚める前とは全く違う場所、思うように動かない手足、鏡に映る自分の姿は30歳分年老いているとしたら?そんなこと、現実には起きそうもないから、真面目に考えるのは難しいよね。

でも、これは実際にあった話。ある病気で30年間、事実上眠り続けていた男が、優しくて熱心な医師治療で30年ぶりに目を覚ますその男は30年間の空白を埋めるように、本を読み、音楽を聞き、人と会話をし、恋をするんです。生きるって最高だなって思いながら、でも、病気が完全に治ったかどうかわからないし、投薬も続けているか病院からは出られない。病院から出たい、普通に生きたい。でも症状が安定しなくて、強い痙攣が止まらなかったりする。何もかも思い通りに行かない状況でどう行動するか、周りの人は何をしてあげられるか。レナードの朝っていうのはそういう映画

映画のど終盤で、その男は、強い痙攣と戦いながら、好きな人ランチをするんです。痙攣を止められない、醜い自分好きな人に見せながら、その男が何を言って、その女がどうするか。どうすると思う?たぶん、想像してることと全然違うことになるんだよ。そこで、泣いちゃうんだよね。そのシーンを見るためだけに、2時間があったと言ってもいいくらい、印象的なシーンなんです。

レナードの朝を誰かに勧めるとしたらこんな感じになるかもしれない。ネタバレしすぎな気はするし、こんなに長々話して、見てみたいと思ってもらえるか疑問。人に何かを勧めるって難しい。アカデミー賞作品賞ノミネートされた映画です、みたいな権威付けしたくないし。難しい。

2014-05-02

人の不幸を見て幸せを噛み締めること

わたしが小さい頃、母はわたしをこうやって諭したり慰めたりした。

「世の中にはこんなに不幸な人がいるんだよ。それに比べてあなたは恵まれてるのよ。」

テレビアフリカの貧しい人が映った時、湾岸戦争の時、駅の柱の下にうずくまっていたホームレス…。

わたしの家は貧しかった。父はわたしが生まれた直後に亡くなり、母はわたしを女手ひとつで育ててくれた。そのことは、本当に感謝している。何の技能も持っていない女が、社会に出てお金を稼ぐことの難しさを、わたし自身も社会人になってから身に染みて実感することができた。何度も心がくじけそうになったのだろう、そしてその度に母は上の言葉自分にも言い聞かせていたのだろう。今ではそれがわかる。そうやって自分を奮い立たせ、わたしを育ててくれたのだ。

でも、当時のわたしはその言葉を聞きたくなかった。辛く悲しい気分になったからだ。自分より下の人間を見て、自分幸福を噛み締める。では、もしわたしよりも恵まれている子(クラスの大抵の子はそうだった)が、わたしを見て同じことを思っていたら?

わたしに向けられた強烈な蔑みの目に、その架空の目に幼いわたしは怯えざるを得なかった。

レナードの朝」という映画がある。原題は「Awakenings」といい、嗜眠性脳炎という不治の病を扱った実話にもとづく映画だ。数十年間昏睡状態にあり、石のように固まってしまった嗜眠性脳炎患者たちに、新薬のL-ドーパを与えたところ一時的意識を取りもどすが、次第に薬に対する耐性ができてしまい、また昏睡状態にもどってしまう。L-ドーパによって数十年ぶりに朝を迎える患者たちの”目覚め”と、この平凡で退屈な世界に対して驚き感動する患者たちが、周りの人達に与えた”目覚め”、この二つの”目覚め”が原題の複数形たるゆえんだ。

わたしはこの映画のものはとても好きなのだが、ふたつ目の”目覚め”が言わんとするメッセージに、どうしても違和感を覚えてしまう。自分より不幸な人を見て気づか”された”幸せは、本当の幸せと言えるのか?もし幸せという状態があるとするならば、それは相対的ものではなく、絶対的ものでなくてはいけないはずだ。

2年前に早くして亡くなった母へ。

あなた人生が、他の誰にも邪魔されることなく、幸せものであったのなら嬉しい。だってわたしは、あなたの娘であるというだけで幸せなのだから

2013-06-18

ネットみのもんたの一番悪いところは相談者が藁人形なとこだよな

俺の観測ではいわゆる「モテない奴」の大部分は「破れ鍋に綴じ蓋」という言葉を忘れている。

ここまではまあいいよ。

ぼんやりした一般論としてそう変なことは言ってない。

個人的に賛成しなくもない。

というか、自分が「破れ鍋」であることを認めようとしない。

特にこの傾向はヲタに強いように見える。

そんな自信満々なオタクってレアもんだと思うんですが。

リアルで観測してもネットでも観測しても。

オタク自己評価テンプレと言えば顔は「※」、性格真面目系クズ、って感じだよね。

2chでも双葉でもそれ以外のオタクコミュニティでも。

で、「モテたい」とか「男になりたい」とか言ってる奴に素直に聞く。

いや、どこにそんなオタクが居るのよ。

少なくともオタクマジョリティではないよね。

モテたい」みたいな価値観に身を投じるのってやっぱりリア充志向の人だと思うけど。

そういうのに過剰に必死になってるのがキョロ充

オタクって言うのは良くも悪くもそういうとこからちょっと離れちゃってるわけで。


ていうか「男になりたい」ってなによ。

そんなこと言う奴オタクじゃなくてもなかなか居なくね?

キモオタとは別の方向に超気持ち悪い。

ほんのり加齢臭もする。


あと無意味なとこで「素直に」とか書くの

TM2501とかいう頭悪い無職に似てる。

結局おまえら、どうなりたいの?

楽しくお付き合いする相手が一人欲しいだけじゃないの? それともアニメみたいにチヤホヤされたいの?

わかんねーのかよ!

いい機会なのでここで語らせてもらうが、俺の観測では

とか言って偉そうに出てきといて

非実在オタクの話をタラタラ語った挙句

結論は自分でもわかんなくなってる

ってなんじゃそら。

オタクモテたがってる」

オタクは男になりたがってる」

オタク高望み」

オタクアニメみたいにチヤホヤされたがってる」

オタク叩きとしても相当周回遅れだよなこれ。

今はむしろ

オタクは卑屈」

オタク美少女になりたがってる」

「要は勇気がないんでしょ」

オタクは他人に興味を持ってない」

みたいな方向で叩くんだよ。

(っていうかこれも既に古くなってきたよな)


一体どれだけピンボケな目と頭を持ってたら今時こんなトンチンカンみのもんたが出来るのか。

10年ぐらいレナードの朝してたおっさんかなにか?

 
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