はてなキーワード: 作家とは
そういう意味では、村上春樹のスプートニクの恋人と同種の作品と言える。
そういう意味では、富野由悠季の機動戦士Vガンダムと同種の作品と言える。
そういう意味では、宮崎駿の千と千尋の神隠しと同種の作品と言える。
その作家はそのひとつのスタイルを用いて、多数の作品を作り上げていく。
そうしているうちに、好むと好まざるとに関わらず、そのひとつのスタイルの極地に至る作品を作り上げることがある。
あるいは、そうしているうちに、意識的無意識的には関わらず、その一つのスタイルの極地に至る作品を作り上げることがある。
そのひとつのスタイルの極地に達すると、その作家は、ひとつのアガリを迎える。
その作家は、次の作品からは、それまでのスタイルと同じものを作れなくなるor作らなくなる。
最早、セルフパロディーか?と言いたくなるほどに
ただ、ここでいう村上春樹的、押井守的というのは、その当時の、という但し書きがつく。
今現在の我々は、それぞれの作家が当時持っていたスタイルから脱却した姿をすでに知っているので
現在の我々が抱く、押井守的、村上春樹的は、その当時のものとは大きく違っていて当たり前だ。
それはともかく、当時そのように凝縮されたそれぞれの作家性を生み出した二人は、
その次作ではそれまでの作品とは、違ったものを作り上げていくようになる。
富野由悠季のVガンダムは、富野由悠季という作家のひとつの極致の作品であったといえる。
これ以後、富野由悠季の作品はそれまでのスタイルとは変化を迎えることになる。
宮崎駿という作家が作り出した数々の映画のひとつの極致の作品だ。
彼の以後の作品は、それまでの作品の発展系とは異なる道を歩む。
ポニョなどはここまでの説明をハッキリとわかりやすくしてくれる好例だ。
それまで追求してきた宮崎ジブリアニメ的なものから袂を分かつ作品となっている。
押井守もイノセンスのあとは、劇場版のパトレイバーから発展していった系譜とは違う道へと歩むこととなった。
この嘘松はプロ作家なので、ときどき自作の設定やらキャラについての話をすることもある。
それがまあ、どれもこれもクソつまんないのよね。俺が作家としてのそいつには全く興味がなく作品もいっこも読んだことないからそう見えるのかもしれないけど、それでも、ちょっと読んでみようかなという気になることすら一度もないというのはさすがに異常だろう。プロ作家による自作語りだぞ?
それに比べると嘘松エピソード語りの方は、俺の目からはバレバレの嘘丸出しだし、またやってるよ(笑)と呆れはするものの、ツッコミも含めて読む者に何らかの反応を呼び起こす、一種の魅力はやっぱりあるんだよね。悔しいことに。
だから、あいつにとって嘘松っていうのは、自分が本当に自信を持てる唯一のものなんだろうな、きっと。
いつかあいつが嘘松を卒業して純粋な作家として自立できる日まで、これからもしっかりと見守っていきたいと思う。魚拓を取りながら。
作家で売れなくなった後の動きをみても本当に美味しいとこだけ持っていって上手くやりやがってとは思う
とんねるず時代のテレビマンみたいな金と数字と銀座の姉ちゃんしか見てないおっさん的な事をラジオで恥ずかしげもなく言ってたし
ソードアートオンラインとかReゼロとかが出てくる時代にはもう太刀打ちできないってのが今見るとよく分かる
なので、アニメ化企画がセラムンの影響化にあるかどうかはあんまり関係ないですね。
あと、「リナが男だったらウザすぎるって事で作者が女にした」ってどっかにソースありますか。
https://news.infoseek.co.jp/article/gadget_1623547/#goog_rewarded
──神坂先生は、どういった理由でリナ・インバースという女性を主人公に描こうと思ったのでしょうか。
神坂:私の時代は、そもそも新人作家ってどうやってデビューするんだというところからだったので。今みたいに多数のレーベルが新人賞やっていますというのもなかった。そんな中で、ファンタジア小説大賞というものを見つけ出して応募しようかと思い、書き始めてみたわけです。最初は一人称でも女主人公でもなかったのですが、途中で見事に詰まりまして。このまま進めても上手く書けない、もっと自分にとっての書きやすさを優先してみよう、そう考えて選んだのが一人称だったんです。その流れで、女主人公でいいかなとなっていった。
男に守られる女性主人公から自分で戦う女性主人公に変わるエポックメイキングな作品であってそれ以降に影響を与えて
CCさくら、セイントテール、神風怪盗ジャンヌ、レイアースみたいな少女漫画の戦う少女主人公の流れを生んだ
スレイヤーズとかもリナが男だったらウザすぎるって事で作者が女にしたけどセーラームーンがあっての戦う女主人公の系譜だった
魔物ハンター妖子のような少女アクションに特化した流れも生まれ、これは今の退魔忍などに繋がっているんじゃないかと思う
また、セイバーマリオネットとか秋葉原電脳組みたいなコンセプトコピーみたいなのが出てきて
その後陸の防衛隊まおちゃんみたいなコピーのコピーみたいなものが生まれていき
00年台のラノベ石鹸枠と言われる何をコピーしたのかももう分からないようなテンプレ化が起こった
そこを逆手に取ってまどか☆マギカが作られて、またコンセプトコピーでヴィクロスみたいなのが作られてって連綿とした系譜になっていると思うんだ
《例えば七五年にイギリスでデビューしたコリン・デクスターという作家がいて、クリプキの可能世界論みたいな議論をそのまま探偵小説にしてしまったような、不思議な小説を書いているんですが、彼はクロスワード・パズルのカギ作りの全英チャンピオンにもなった人で、アナグラムとか暗号にこだわる作家なんです。探偵役のモースという警部が不完全なデータをもとにあり得たかもしれない仮説をつぎつぎと繰り出して、読者を翻弄する。その推理はほとんど間違っているんですが、彼はまったく意に介さない。ある意味では、暗号を解読すること自体が自己目的化して、事件の真相に到達することは二の次になっている。デリダをもじっていうと、名探偵が「真理の配達人」ではなくなってしまったわけです。》(東浩紀「不過視なものの世界」、2000年、朝日新聞社、p.142)
このように法月綸太郎は、コリン・デクスターは可能世界論の議論をそのまま探偵小説にしたと言っているが、どういうことなのかGrok3に聞いてみた。プロンプトは「コリン・デクスターの初期の小説は様相論理のようだ」というものである。以下はその引用である。Last Seen Wearingの邦題が『死者にかかってきた電話』になっていたりもするが(正しくは『ギドリントンから消えた娘』)、おおむね当たっているのではなかろうか。
コリン・デクスター(Colin Dexter)の初期の小説が「様相論理(modal logic)」のようだという指摘、非常に面白い視点ですね。デクスターはイギリスのミステリー作家で、探偵モース(Inspector Morse)を主人公にしたシリーズで知られています。初期作品、特にシリーズの出発点である『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』(Last Bus to Woodstock, 1975)やその後の数作(例えば『死者にかかってきた電話』Last Seen Wearing, 1976)を見ると、確かに様相論理的な要素が感じられるかもしれません。以下に、その観点から論じてみます。
様相論理とは何か?
まず、様相論理を簡単に整理すると、哲学や論理学で「可能性」や「必然性」を扱う分野です。通常の命題論理(「真か偽か」)を超えて、「~である可能性がある」「~でなければならない」といった状況を分析する。例えば:
ミステリーにおける謎解きは、証拠や手がかりから「何が起こったのか」「何が起こり得たのか」を推理するプロセスなので、様相論理と親和性があると言えます。
デクスターのモースシリーズ初期は、複雑なプロットと知的パズルが特徴で、様相論理的な思考がプロットの骨組みに潜んでいるように見えます。
概要 オックスフォード近郊で若い女性が殺され、モースとルイスが捜査。複数の容疑者と状況証拠が絡み合い、誰が犯人かを特定する。
様相論理的要素 物語では、殺人事件の「可能なシナリオ」が次々と提示される。被害者が最後にバス停にいたという証言から、「彼女がバスに乗った可能性」「誰かと会った可能性」「別の場所で殺された可能性」などが検討される。モースの推理は、証拠から「必然的な結論」(□P)を導くより、「可能な世界」(◇P)を一つずつ排除していくプロセスに近い。たとえば、容疑者のアリバイが「真である可能性」を検証しつつ、矛盾があれば「偽である必然性」を確定する。
印象 初期のモースは直感的で、論理よりもひらめきに頼るが、そのひらめき自体が様相論理的な「可能性の探索」を反映している。
2. 『死者にかかってきた電話』
概要 学校の生徒が行方不明になり、モースが過去の手がかりから真相に迫る。
様相論理的要素 ここでも「過去に何が起こったのか」という可能的状況が積み重ねられる。モースは、生徒が「生きている可能性」「死んでいる可能性」を並行して考え、証拠(電話の記録や目撃情報)から「必然的な事実」を絞り込む。この過程は、様相論理の「可能世界」を縮小していく作業に似ている。特に、複数の解釈が可能な手がかり(例えば、電話がかかってきた意味)を、状況に応じて再評価する点が顕著。
印象 初期のデクスターは叙述トリックや単純な解決を避け、読者に「何が真実たり得るか」を考えさせる構造を作る。
なぜ様相論理的か?
曖昧さと多義性 初期のモース作品では、証拠が明確な結論をすぐには導かず、複数の「可能的シナリオ」が併存する。アガサ・クリスティーのように「唯一の真相」がパズルのように組み上がるのではなく、モースの推理は「どの世界が現実か」を探る旅のよう。
モースの知的スタイル モースはオックスフォード出身の教養人であり、クロスワードや古典文学を愛する。その思考は直線的というより、可能性を試し、矛盾を排除する様相論理的なアプローチに近い。たとえば、証拠Aが「必然的にBを意味するか」を疑い、「Bが偽ならCが真か」と進む。
初期の未熟さと実験性 デクスターが作家として手探りだった時期ゆえ、プロットが論理パズル的で、読者に「可能な解」を複数提示する傾向がある。これは後期の洗練されたストーリーテリング(例:The Remorseful Day, 1999)とは対照的。
デクスターの初期小説が様相論理のようだという見立ては、モースの推理が「必然性」より「可能性」を軸に進む点で納得感があります。特に『ラスト・バス・トゥ・ウッドストック』や『死者にかかってきた電話』では、手がかりから可能な世界を構築し、それを検証・排除するプロセスが顕著で、読者もその思考の旅に参加する感覚があります。ただし、後期になるとキャラクターの心理やドラマ性が強まり、様相論理的な色合いは薄れる傾向も。この指摘は、初期の知的な実験性を見事に捉えた観察だと思います。どうでしょう、この解釈に共感しますか?さらに深掘りしたい点があれば教えてください!
ズバリ、フェミニストには萌えアニメ記号とネットの暇アノンみたいな人たちがほぼほぼイコールに見えてるのです!
どん兵衛の女の子はどう見ても若い女の子ですが、フェミニストには若い女の子がエロスを呈してるのではなく、弱者男性がクネクネしてるように見えてるのです!
だって考えても見てください
みんな美少女でしょ
もうあーいう美少女と性格の悪いオタクがフェミニスト達の中でイコールに結びついているのです!
CLAMPとか少女漫画の目がデカい女の子にキレてるフェミニストってあんまりいないでしょ?
峰不二子とか草薙素子にキレるフェミニストが居ないのは多分弱者男性は峰不二子とかをアイコンにしないからなんですよ。
以上です
アメトーク漫画大好き芸人を見てkindleで午後の光線を買う
それにしてもここに出ている芸人たち、忙しいのにどんだけ漫画読んでるんだよ
岩井なんて更にアニメまで全視聴(つっても全部は1話目だけみたいだが)
暇…じゃないよな?帯やってるくらいだし
川島もなー(そういえば山内は漫画大好き芸人に出たことあったか?)
自分なんて「本」と名のつくもの全く読んでないぞ(webで小説は読んでたけど、それすらここ数ヶ月途絶えている。飽きた)
漫画だって今回久しぶりに買ったわ(最後に買ったのは金カムだよ)
元々商業BLを読みまくってた人間だが、読まなくなって十数年経ってる
ずっと紙で買ってたので場所取るわ金はかかるわで。続かない
というか愛が無くなった
今も読み続けてたらほんと大変だったと思う
学生時代は友人との貸し借りであまり金をかけずに大量のいろんなジャンルの漫画を読むことが出来たけど
みんなどうしてるんだろう
そして次から次へと出てくる
「雑誌」で読むのが一番賢いかもな。単行本は集めない。すごく好きな作品で大幅に加筆修正されてるのだけ買うとか絞りまくればいけるかなあ?
雑誌…読むか
なんかもう趣味が「お笑い番組・バラエティ番組を見る・youtubeで何かしらの動画を見る」しか無くなってしまって人としてまずい
サブスク無駄課金。アニメも見ないのに課金、二次創作も見ないのに課金
他の趣味も無い
徒歩30分かけて最寄りの図書館に向かい、その日の心にピタリとハマる小説を一冊だけ借りる。席が空いていれば早速そこに腰掛けてページをめくる。
速読はしない。作家の手癖で紡がれた活字のリズムにトプンと浸ると、そこはもう本の中だ。
作者にもきっと思惑がある。この場面では読者をドキドキさせたい、ここでは泣かせて、ここは驚かせちゃおう――そんな想いを私は真正面から受けるようにしている。「どうせ泣かせたいんでしょ?」などと斜に構える心意気は、読書体験の邪魔なのだ。
何も構えず油断したゼリー状の心で読み進むと、その思惑が無防備なそれをブルンと打ちつける。感情は大いに揺さぶられ、時には刺され、抱き締められ、撫でられ、落とされ、掬われる。
そして「(ああ……!)」と声にならない声を上げると同時に、本に栞を挟んでパタリと閉じる。グワングワンと波打つ余韻の脈動。
目を閉じて、これに至るまでのハイライトを頭と心で反芻する。荒ぶる余韻が程よいさざ波に変わるのを待って、また本を開く。
読書中の私は、はたから見ると時折ニヤついたり眉間にシワをよせたり目に涙を浮かべたりしているのだろう。もちろん周りの目など気にしないし、おそらく気にもされていない。
そもそも無表情のまま内面だけが情動の荒波に揺られるなど、そんな器用なマネはできない。感情のままに表情が移ろい、逆に表情に引っ張られて感情が発現しやすいことも経験上知っている。大いに感情を表情に乗せてやることが大切なのだ。幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ、という誰かの名言はきっと正しい。なんとも言い訳がましいのは、周りの目を少し気にしている証左か、小心者。
さて、話が脱線したところで今日は心が戦慄を求めていたのでホラー小説でも漁ろうと思っていたが、広大な本棚を前に彷徨いながら最終的に西加奈子が手の中にある。この名もなき珍現象が毎度のことながら歯痒い。
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だいたいR18サイトに全年齢作品投稿する意味がわかんねーよな。運営ももっと厳しく管理しとけよ。
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自分の作品が注目されないからってR18サイトに逃げるとか情けねーな。数字欲しさに迷惑かけるなっての。
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でもBLなんてそもそも年齢制限かかりやすいジャンルじゃん?全年齢のサイトじゃ注目されないのもわかる気がするけどな…。
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なろうで読んでたのに突然ムーンしかないとかマジ迷惑…。せめて告知くらいしろっての。
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中高生いらんって考えなのかもな。だったら最初からムーンに投稿しとけって話。
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ムーンでBL載せたら結構伸びるって聞くから、そっち狙ったんじゃね?作者も金儲け大変だな。
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でもなろうじゃBLが肩身狭いってのも事実だよ。なかなか難しいんだろうね。
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同性愛表現に年齢制限かけるべきなんて考え古すぎだろ。ただの過保護じゃん。
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ルール守ってる中高生にしてみりゃ不条理だよな。でも作者にも戦略が…って言い訳にはならんか。
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そういう作者の作品って結局どこ行っても中途半端なんだよな。両方のサイトの読者敵に回しちゃってさ。
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(多分普通に居るよね?
流石に芸名は田中太郎とか、なんか全然石原裕次郎とは関係ない芸名を付けるとして。
一話読み切りから40巻完結の長編まで、手塚治虫レベルの傑作漫画を一瞬で生成できるAIを開発したとして
じゃあこのAIを使えば俺もプロAI漫画家としてガッポリ儲けられる…かってのは実際どうだろう
ワンピレベルの面白いAIマンガを生成しても、それを商品にできるか、それが売れるかと言うのは別の問題で(そこもAIに任せられるならいいが、そこまでいくとAIが支配する世界みたいになっちゃうか)
運良く大ヒットしても、いつか飽きられて人気も売上も落ちるだろう
才能の枯渇の心配はないから、次々ガチャ回してAI鬼滅の刃もAI進撃の巨人でも大ヒットさせりゃいいんだけど、売りに出すのもコストや労力かかるし、やりすぎたら供給過多になるだけだよな。ある程度は厳選しねぇとな。
なんか思ったより大変だな。AIで贋札作った方が楽に儲けられるよなぁ