はてなキーワード: 狩野派とは
一応、浮世絵は美術界でも低俗なものとされてるし、今でもしてる。
別のエントリーでも書いたけれども、画題にヒエラルキーは日本においても当然あったし、今でもある。
注文して描かせるような絵は、当然ながら低俗な画題じゃない。
注文する先も、ちゃんと名の通った一派に依頼する。
狩野誰誰に師事した誰誰で、今までの実績はコレとコレとコレで、という感じで、オーソライズされた人にしか依頼しない。
紙が安くなって、印刷技術が安くなって、注文に応じて納品するものじゃなく、流行を予測して絵をかいたり、それを印刷したりするようになったのだけど、庶民も絵を買ったりするようになったとき、売れたのはもっと低俗な画題のものだった。
それが時代が下るにつれて浮世(現代風、流行り)の絵というように呼ばれるようになった。
もちろん狩野派崩れもいたけれど、独学の町人だったり、はたまた本職は旗本の武士だったり、経歴はバラバラ。
一応、美術史って、誰が誰の弟子で云々、というのが大事だから、みんな必死に研究してるんだけど、節操なく画風をパクるので、師匠筋が誰かとか、作風にはあまり関係してない。
絵以外でも、江戸時代の小説界隈も、浮世絵界隈と同じくなかなかカオス。
テーマの高尚さ?なにそれ美味しいの?売れたもんが偉いに決まってるじゃん!っていうノリ。
つまり、日本が豊かになって、サブカルのマーケットがメインカルチャーのマーケットを追い抜いて、混ざり合ったり反目したりしてたとが、蔦屋重三郎の時代。
そこで、傑出したプロデューサーが、蔦屋重三郎。江戸の秋元康。
フィリップ・ウィルキンソン「まぼろしの奇想建築 天才が夢みた不可能な挑戦 (NATIONAL GEOGRAPHIC)」
麦原遼「逆数宇宙」
琴柱遥「枝角の冠」★
榛見あきる「虹霓のかたがわ」
田場狩「秘伝隠岐七番歌合」
高野秀行「謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア」
ブライアン・インズ、クリス・マクナブブライアン・インズ、クリス・マクナブ「ビジュアル 世界の偽物大全 フェイク・詐欺・捏造の全記録」
「開館20周年記念展/帝国ホテル二代目本館100周年 フランク・ロイド・ライト 世界を結ぶ建築」
岸見一郎、古賀史健 「嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え」
キャスリン・ペトラス、ロス・ペトラス 「人体ヒストリア その「体」が歴史を変えた」
岸見一郎、古賀史健 「幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII」
下村智恵理「AN-BALANCE:日本非科学紀行 第S5話 鳥は見えるか?」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #34 黄泉からの手紙」
下村智恵理「天網恢々アルケミー Project #35 旧針金山トンネルの悪霊」
「マリー・ローランサン ―時代をうつす眼」
芝崎みゆき「イースター島不可思議大全:モアイと孤島のミステリー」
五十嵐ジャンヌ「なんで洞窟に壁画を描いたの?―美術のはじまりを探る旅 (13歳からの考古学) 」
辻田真佐憲「「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史」★★★
タイモン・スクリーチ「大江戸異人往来」
北杜夫「楡家の人びと 第二部」
北杜夫「楡家の人びと 第三部」
何となく東アジアの歴史、特に第二次世界大戦ばかり読んでいる。小説も含めて。
テレビ朝日開局65周年記念『MUCA(ムカ)展 ICONS of Urban Art ~バンクシーからカウズまで~』
「別冊日経サイエンス ホログラフィック宇宙 時空と重力の起源に迫る」
酉島伝法「隔世遺傳(かくりよいでん)『皆勤の徒』設定資料集」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル①〉プランク・ゼロ」
入江亜季「北北西に曇と往け」七巻
1000decillion「Morals under a pagoda I/II」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda III/IV」(同人誌)
「北欧の神秘―ノルウェー・スウェーデン・フィンランドの絵画」
スティーヴン・バクスター「〈ジーリー・クロニクル②〉真空ダイヤグラム」
大村幸弘、篠原千絵「ヒッタイトに魅せられて: 考古学者に漫画家が質問!!」★★
スティーブン・キング「スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編」
スティーブン・キング「ゴールデン・ボーイ 恐怖の四季 春夏編」
アリク・カーシェンバウム「まじめにエイリアンの姿を想像してみた」
中野京子「怖い絵」
1000decillion「Morals under a pagoda -Kama Sutra-」(同人誌)
1000decillion「Morals under a pagoda -Egypt-」(同人誌)
1000decillion「morals under a pagoda -Greece-」(同人誌)
毎年月ごとの上位三冊を選んでいるが、ある月の四位が別の月の二位を上回って面白いことがある。つまり当たりの多かった月だ。すべての本に対して星の数で評価すべきかもしれない。
【田中圭一連載:ゼビウス編】ゲーム界に多大な影響をもたらした作品の創造者・遠藤雅伸は、友の死を契機に研究者となった。すべては、日本のゲームのために──【若ゲのいたり】
http://news.denfaminicogamer.jp/manga/180913
ゼビウスの人の記事なんだけど、「日本人のゲームのやり方は禅に通じる」的なところから一気に胡散臭くなる。
こういう現代の事象を過去の日本文化と結びつけて語るのってたまにあるけどなんか名前つかないの?
似ているってだけで因果関係がまるでないし、「日本人の遺伝子には……」とか言い出すと明らかにトンデモ。
しかも言っている人には「すごい発見をした」みたいな興奮が感じられてうんざり。
こういう疑似科学でもない、何ていうの? 疑似人文科学? にズバリな名前をつけてほしい。
「それ○○だよ」って言っておけば終わりみたいなの。
けっこう安易に「そうだったのかー!」と受け入れる人いるのが怖いのよ。
いやいや、似ているだけだから、っていう。「英語のRoadは道路が起源でつまり日本語と英語は同祖」って言っているのと変わんないから。
どうにかしてくれ。
例えば、ある有名な寺社を拝観して、そこに狩野派の障壁画があったとして、
自分が「ああ、狩野派かあ。道理で背景キンキラキンやねえ」とつぶやくと「狩野派って?」って聞かれる。
例えば、ある有名な城郭を拝観して、そこで石垣を見て自分が「これって野面積みかな?」とつぶやくと、「野面積みって?」って聞かれる。
それに対していちいち説明するのが、面倒くさいし、いろいろとなんか辛い。
めっちゃ分かる。自分が詳しいフィールドだからと言って、いちいち他人に逐一説明せなあかんのは面倒。
もちろん自分の知識を披露することが楽しいとか自分が優越感に浸れるとかで、メリットを感じられる人なら苦に思わないんだろうけど。
前に友人たちが「自分の趣味に興味が無いのに甲斐甲斐しくついてきてくれるとかすごく嬉しい」とか言ってるのを見てとんでもなくゾッとした。そんな相手と一緒にいたら自分の「楽しい趣味の時間」が一瞬で崩壊しそう…
国内旅行した時、夫が見聞したものや自分の呟きについていちいち訊いてくるのが、なんか辛い。
例えば、ある有名な寺社を拝観して、そこに狩野派の障壁画があったとして、
自分が「ああ、狩野派かあ。道理で背景キンキラキンやねえ」とつぶやくと「狩野派って?」って聞かれる。
例えば、ある有名な城郭を拝観して、そこで石垣を見て自分が「これって野面積みかな?」とつぶやくと、「野面積みって?」って聞かれる。
それに対していちいち説明するのが、面倒くさいし、いろいろとなんか辛い。
自分の友人とならば、こういう会話にならない。
旅での体験に対して、一方通行でない、対話が楽しめる。知識の交流がある。
それが夫とはないのが辛い。
夫との国内旅行がなんか辛くてすごく疲れてあんまり楽しくなくて。
それがなんでなんだろうと思って、上のことに気づいた。
友達との旅行が一番楽しいのは、こういうのもあるのかなと思った。
でも夫はとても楽しいみたいで、色々自分に訊くのもただの素直な知識欲からで、悪気はない。
悪気が無いのはわかってるけど、「訊くだけじゃなくて自分で調べる」ってことはしない。
でも、「ちょっとは自分で調べて」とか「わたしはあなたの先生じゃない」とか、言えるわけもない。
自分が大学で国史やってて、一般の人よりは歴史に詳しいのもあるのだし。
教えるのが楽しいって人もいるんだろうし。
でも、旅先でなんか見て、それに対して、
「青はいい…」「いい」
「さすがは緑…」「うむ」
みたいな、そういう会話で盛り上がりたいんだよお。
そこで「青って何?」とか聞かれるの、ぶっちゃけ、興ざめなんだよー。
ああそう、興ざめ、それなんだ。
それで夫と国内旅行するのが気が乗らないんだ。
(海外だと、どっちも同じだけ知識がないのでそういうことにならない)
それ以外の点では何も不満はないし、この問題だって、別に夫は悪くない。
心が狭くて、本当にごめん。
どうすればこの状況を楽しめるのかな。
デッサン(形取りの練習)の講評で「デッサンが狂ってる」と言わないのは当たり前(ややこしいから)。教育の現場ではない美術評論の場などで完成図としての油絵や日本画に「デッサンがしっかりしてる/おかしい」なんてことばは普通に使う。この場合の「デッサン」は油彩や水彩という「画法」の技術と形取りの問題を切り分けるために使われている。
そもそも「デッサン」ということばが日本語に取り入れられた経緯からして、洋画のリアリティにコンプレックスを持った日本の画家が「洋画に負けないデッサンを」とか何とか言って、もともとの狩野派みたいな「日本の絵画」から、今あるような西洋の「デッサン」に和の画材を合わせた「日本画」を新しくつくり上げた運動に由来する。
日本美術界において「デッサン」は、もともとが不正確な印象論のことばとして、「西洋画のリアリティ」に対するコンプレックスとともに使われて来たことばである。