設計開発
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「東京エレクトロン デバイス」の記事における「設計開発」の解説
受託設計・開発や量産製造、及び自社ブランド(インレビアム)商品の開発、販売。
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設計・開発
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島秀雄工作局局長(当時)主導の旅客車開発グループの手により、比較的長時間にわたる乗車と高速運転を配慮した構造を念頭に置いた国鉄初の本格的長距離電車として設計・開発が行われた。実績のある既存技術に加え、鉄道技術研究所において研究が進められていた新たな各種技術の導入もふんだんに求められた。 本系列開発以前の日本では、電車は短編成運転が原則で国鉄・私鉄を問わず運用上の小回りが利くように「電動車はすべて運転台付き」とされていたが、長大編成が前提となる本系列は「電動車は中間車のみとし、先頭車は制御機能に徹する」中間電動車方式を採用し、乗り心地やコスト面における改善を実現した。台車はコロ軸受の採用や高速台車振動研究会の研究成果を取り入れた新設計の段階的な導入により乗り心地と高速走行時の振動特性の改善が図られた。さらにブレーキ制御は在来の自動空気ブレーキに電磁弁を加え後部車での応答遅延を最小限に抑えることで、当時の電車としては未曾有の長大編成となる16両編成運転を可能とした。また大出力モーター搭載の長所を活かし、当初は編成内MT比(電動車と付随車の比率)を「2:3」とする経済編成を基本とした。 高速型台車や中継弁・電磁給排弁付自動空気ブレーキなどを除けば、関西私鉄各社の戦前型電車に比較してもスペック自体は優位ではないが、それらの技術開発成果や影響も散見される。 新京阪鉄道・阪和電気鉄道・参宮急行電鉄・阪神急行電鉄などの関西私鉄では1930年代中期までに、6両以上の長大編成や最高速度100 km/h超の高速性能を計画。複雑精緻なU自在弁による長大編成用自動空気ブレーキ(Uブレーキ)・比較的多段の自動加速制御器・大出力主電動機など本系列を凌駕する高度な機器を大量導入している。 本系列の真の革新性は大局的な背景から捉えるべきものである。技術面では大量増備を考慮してコストを抑制した経済的かつ堅実な選択も見受けられるが、全体では既成概念を覆す大規模な総合システムとして現実に成立させ、なおかつ集中的に運用したことに意義があった。
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「サンダース・ロー SR.A/1」の記事における「設計・開発」の解説
SR.A/1は大日本帝国海軍の二式水上戦闘機や強風といった水上戦闘機の成功に着想を得た。やや机上の話ではあるが、水上機は戦域が海に囲まれた太平洋戦線での運用に最適であると考えられ、比較的穏やかな海岸ならどのような場所でも発進基地として利用することができた。水上機の大きな欠点は、浮子式の降着装置によって飛行性能が陸上戦闘機に比べ劣化することであった。サンダース・ローは当時新しく開発されたターボジェットエンジンがこの欠点を克服する手段になりうると考えた。プロペラがなければ水面までのクリアランスが不要なので胴体をより水面に接近させることができる、すなわちジェットエンジンは浮子ではなく、飛行艇式の艇体の採用を可能とした。 サンダース・ローはこの青写真(SR.44)をイギリス航空省に持ちかけ、仕様E.6/44として結実させた。そして1944年5月には原型機3機の開発契約を取り付けることに成功した。1号機は1947年7月15日に初飛行を行った。続く2号機・3号機によっても順次試験が行われそれぞれ性能、取扱いともに良好な成績を示したが、その頃には第二次世界大戦の終結によって需要は完全に消滅していた。さらに水上機を用いずとも空母が海上における航空兵力の基幹となりうることが太平洋戦線で証明されていた。また、コックピットが狭く、小さいキャノピーが重厚に枠組みされていたため視界不良であるという減点要素もあった。これらの要因が重なり最終的に1951年5月に計画は中止された。 制式採用を逃したため公式名称を与えられることがなかったが、開発関係者からはスクアート(Squirt:水鉄砲・あるいは「生意気なでしゃばり屋」という俗語)と呼ばれていた。
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「Mi-4 (航空機)」の記事における「設計・開発」の解説
Mi-4はアメリカのシコルスキー S-55(H-19)の影響を受けて朝鮮戦争の最中に設計され外見はH-19に似ており、大型で重量物を持ち上げることが可能であった。最初のモデルは1952年に就航しMi-1の後継機種にあたる.
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1960年代初頭、イギリスの海外駐留は駐屯地の維持費などがかさみ防衛予算の圧迫の元であると指摘された。そこでイギリスは紛争地域へは兵力およびその装備をヨーロッパの基地から空輸して展開するという新たな戦略を立てることにした。そのために空輸での展開が実用的なほどに軽量でかつ部隊に対装甲戦闘能力と火力支援を提供可能なAFVが必要とされた。また、ちょうど同時期にFV601 サラディンの後継車両も必要となっていたのである。 1960年にArmoured Vehicle Reconnaissanceと呼ばれていた計画が開始された。この車両は76mmないし105mmの主砲を砲塔に搭載し、車長・運転手・砲手の三人で運用される。対装甲火力は後に開発された(1966年)スウィングファイア対戦車ミサイルを車体後部にマウントして獲得する。また、装輪・装軌式双方が開発されFV432と同じエンジンとステアリングを共有する。しかしプロトタイプの最終モデルでも重量は13トンを超え、空輸するとなれば許容重量を超過してしまった。 重量軽減のために鋼鉄にかわりアルミニウム装甲を導入することとなった。そのための研究で砲兵火力の砲弾破片に対してその密度をもって高い防御力が得られることが判明した。輸送機の内部に納めるために車高は2.5m以下、横幅2.102m以下にとどめることが必要とされた。さらには接地圧5psiの用件を満たすため履帯幅は0.45mとされた。さらに幅の規定は用いるエンジンの選定にも影響し、冬季装備の運転士のすぐそばに入る大きさである必要があった。このためエンジン区画はわずか0.6mにとどめられた。この条件に適合する強力な装甲車両用エンジンは民生品を転用したジャガー4.2リットル ガソリンエンジンを除いてまだ開発されていなかった。 運転手席は車体前面のエンジン区画すぐそばに存在し、このため砲塔は車体後部に配置される。装甲化され76mm砲を装備した最初の火力支援型であるスコーピオンはこの砲塔配置が蠍の尻尾を連想させたことによる命名である。サラディン、スタルワート、サラセンなどのような以前にアルヴィスが開発した車両と同様に、"S"が頭文字の単語という命名規則もある。よって他の車両もストライカー,スパルタン,サマリタン,サルタン,サムソンとすべてこれを反映している。加えて英軍幕僚はこの他に30mm砲搭載のシミターも注文している。 1967年にアルヴィスは30台の試作型CVR(T)の生産契約を与えられた。そのうちP1はP17スコーピオンの試作型、I18からP30は他の六種類のCVR(T)規格の車両だった。イギリス国防省の課す厳しいコスト制限の元での製造であり、1969年1月23日に最初のプロトタイプがコストと時間の制限をともに満たして生産された。その後、あらゆる環境での活動に耐えられるかノルウェー、オーストラリア、カナダ、アブダビの寒冷・高温・乾燥地帯でテストされた。1970年5月にCVR(T)はイギリス陸軍への配備が認められた。最初の契約は275両のスコーピオンと288両のシミターである。最初のスコーピオンが完成したのが1971年で、イギリス陸軍への初期の配備は1971年1月である。 1986年までにイギリスは総計1,863両のCVR(T)を受領した。内訳はスコーピオン313両、ストライカー89両、スパルタン691両、サマリタン50両、サルタン291両、サムソン95両、シミター334両である。
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「CASA CN-235」の記事における「設計・開発」の解説
スペインのCASAとインドネシアのIPTNの合弁事業で計画され、計画管理のためエアテック社 (Airtech) が作られた。設計と製造の責務は、2社で半分ずつ担当された。後のバージョンは各々独立して開発され、実質的に協力して設計されたのはシリーズ 10とシリーズ 100/110のみであった。 設計は1980年1月から始まり、1983年11月11日に初めて飛行した。スペインとインドネシアで1986年6月20日に認可された。量産機の初飛行は1986年8月19日であった。そして、連邦航空局の承認は1986年12月3日に与えられた。CN-235はメルパチ・ヌサンタラ航空が1988年3月1日に初運航した。 CN-235はアメリカ沿岸警備隊に中距離監視海洋哨戒機 (MRSMPA) プログラムとして選定された。2004年にロッキード・マーティンを主請負業者に契約された。採用されたHC-144A オーシャン・セントリー (Ocean Sentry) は2006年12月にミッション・パッケージを導入するため、EADS CASAからロッキード・マーティンへ届けられた。2009年4月2日に初期作戦能力(IOC)を達成し、2009年7月1日までに8機が引き渡された。 2008年7月にメキシコ海軍は6機のCN-235を注文すると発表した。 2006年8月にアフリカの航空会社サファイア (Safair)とティコ (Tiko Air) が3機のCASA CN-235-10を運用している。アジアンスピリットもフィリピンで唯一のCN-235-220を運用していた。 1995年にCASAはCN-235の胴体を引き延ばしたEADS CASA C-295の開発を開始している。
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「D-558-2 (航空機)」の記事における「設計・開発」の解説
D-558計画の第2段階として、第1段階に当たるジェット機D-558-1に次いで、ジェットとロケットの2種のエンジンを搭載した機体である。 なお、実際に製造されることは無かった第3段階に相当するD-558-3は、第2段階までの研究結果を反映した戦闘用の機体として計画され、モックアップ製造・設計にまで至ったものであり、X-15と似通った設計の機体だった。 D-558-1は明らかにエンジン混載には適しておらず、D-558-2は全く異なった機体として考えられた。1947年1月27日に行われた契約変更は、3機のD-558-1をキャンセルし、新たにD-558-2として3機を発注するものであった。 主翼は35度、尾翼は40度の後退角を付けられ、アルミニウム製となった。機体はマグネシウムを主体として構築された。ジェットエンジンは、ウェスティングハウス・エレクトリック製のJ34-40(英語版)を採用し、エアインテークは機体側面に設けられた。ジェットエンジンの役割は、離陸から上昇、そして着陸であった。高速飛行には6,000lbf(27kN)の出力を有するリアクション・モーターズのLR8-RM-6が採用された。燃料は、ジェット燃料250USガロン(950L)、アルコール195USガロン(740L)、液体酸素180USガロン(680L)が、機内の燃料タンクに収められた。 操縦席のキャノピーは機体の外面とそろえて一体化したものであり、視界は貧弱だった。後に操縦席は機体から張り出し、キャノピーも一般的な角形に設計が変更された。この変更により機体正面の面積が拡大し、バランスを取るために垂直尾翼は14インチ(36cm)高くなった。D-558-1と同様に、操縦席を含む機体前方は緊急時に切り離すことが可能であり、パイロットは切り離された前方部分からパラシュートを使用して脱出する設計となっている。 1948年のD-558-2。キャノピーは機体表面と一体化している 1954年のD-558-2。操縦席は機体上方に張り出し、キャノピーは中央に柱のある角形となっている。
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「マッキ M.C.72」の記事における「設計・開発」の解説
マッキはM.24(機関銃で武装し雷撃も可能な双発飛行艇)などの水上機を製造してきた実績があったが、M.C.72もその系譜に連なる機体である。1920年代、マッキは速度性能に重点を絞り、シュナイダー・トロフィー・レースでの勝利を目標に据えた。1922年には高速機開発のために設計技師マリオ・カストルディを雇い入れた。 1926年のシュナイダー・トロフィー・レースでは同社のM.39が395.8km/h(246mph)を記録し、イタリアが次回大会までのトロフィー所有権を獲得した。しかし、後継機としてM.52、M.52R、M.67が開発されたものの、M.39以降イタリアは優勝を逃してしまう。そこでカストルディは究極のレーサーとしてM.C.72の設計を行うことにした。 M.C.72は双フロートを備えた特徴的な単座機に仕上がった。おおよそコックピット(主翼桁)までの胴体は金属製、それより後部は木製のモノコックであり、両者は4つの管状接続部でボルト締結された。オイルタンクは流線型の機首の一部として外部に露出しており、飛行中は空気流に晒されて表面冷却のオイルクーラーとしても働く。主翼は全金属製であったが、表面にはエンジン冷却水用の管状ラジエーターが滑らかに一体化されていた。2基のフロートそれぞれの外面3箇所にもラジエーターが組み込まれ、最前部のものは冷却水用、中央部と後部のものはオイルクーラーとして機能した。さらにフロートのストラット(支柱)にも冷却水用ラジエーターが存在し、高温条件下ではコックピットから尾部にかけての胴体下部にラジエーターを追加することも可能であった。こうして全ての熱交換器を表面冷却式としたことで前面投影面積を減らし、空気抵抗を抑えていた。なお、フロートやラジエーター以外の大部分はイタリアのナショナルカラーである赤い鮮やかなカラーリングを施されていた。 1931年、その年の大会に向けて機体は組み立てられたが、エンジンに複数の問題を抱え、出場することは叶わなかった。折しも同年にイギリスが3回連続優勝を果たし、最後の大会となってしまった。しかし、マッキは記録達成のためM.C.72の開発を継続した。なお、ベニート・ムッソリーニがこれに個人的な興味を持ち、M.C.72の開発続行のため国家資産からマッキへの投資を行っている。
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「フェリックストウ F5L」の記事における「設計・開発」の解説
ポートは、アメリカのグレン・カーチスが設計した飛行艇カーチス H-12をベースとし、フェリックストウ海軍工廠で実用性を高めて大型化させたF.5を開発した。これをさらに合理化し、艇体の素材として薬品処理したリネンに代えてベニヤを使用することで強化するとともに、エンジンに330hp (後に400hpに強化)を発揮するアメリカ製のリバティ L-12Aを使用することとして再設計したのがF5Lである。イギリスで試作機の製造と試験が行われた後、量産設計はフィラデルフィアのアメリカ海軍航空工廠に引き継がれ、戦時下で生産に適するようさらなる変更が加えられた。アメリカでは海軍航空工廠のほかカーチスも生産を手がけたことからカーチス F5Lと呼ばれることもある。また、民間型はエアロマリン75としても知られる。 F5Lは、海軍航空工廠で137機、カーチスで60機、カナディアン・エアプレーンズで30機が生産された。その一部は1919年にエアロマリン・プレーン・アンド・モーターで民間機型に改造された。
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「T-7 (航空機・アメリカ)」の記事における「設計・開発」の解説
ボーイングT-X(現在のT-7)は、単発エンジンを備えた高等練習機であり、双垂直尾翼、タンデム座席、引き込み式三輪の着陸装置を備える。この機体はゼネラル・エレクトリック社のアフターバーナー付きF404ターボファンエンジンを搭載している。双垂直尾翼は良好な安定性と制御を提供し、ブームとレセプタクルを使用しての飛行中の燃料補給が可能である(別名フライングブームシステム) ボーイングT-Xとそれに関連する地上での訓練と支援は、T-38を代替するアメリカ空軍T-X計画のためにボーイングとスウェーデンの航空宇宙グループパートナーであるサーブにより開発・提供されている。ボーイングとサーブは、2013年12月6日にアメリカ空軍T-X計画コンペティションのためのパートナーシップ契約を締結した。 2016年9月13日に発表され、初飛行は2016年12月20日に行われた。 2018年9月27日に、ボーイングT-XがT-38に代わってアメリカ空軍の新しい高等練習機になることが正式に発表された。導入予定は351機とフライトシミュレータ46台であり、予算は92億USドルとされている。 T-38より高度なアビオニクスを搭載しており、F-35への移行を想定した訓練が可能である。2019年時点で、日本をはじめとした海外への売り込み、軽攻撃機(COIN機)への転用も視野に入れている。
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設計・開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 23:30 UTC 版)
F1の開発構想は1988年9月11日に開始され、当時フォーミュラ1世界選手権で16戦15勝という驚異的な成績を収めていたマクラーレンのチームリーダーであるロン・デニスとデザイナーのゴードン・マレーなどが、そのシーズンで唯一勝利を逃したイタリアGPの帰りの空港で雑談を交わすうちに車両の発想が生まれたという。ただし、その時点での計画は「世界最速で最良の市販車」という曖昧なものであった。 1990年1月、イギリスのサリー州ウォキングにあるマクラーレンの施設で原型となる計画が始動した。マレーは設計を進め、同年3月には基本要件が決定した。設計にあたっては従来のスーパーカーの性能や特性を分析した後、フォーミュラ1で得られた技術や経験を基に、開発チームが軽量化やダウンフォースの向上など、あらゆる視点で車両の見直しを図った。マクラーレンの目標はコンパクトで軽量なオールラウンドに性能を発揮できる、純粋なドライバーズカーを作ることだった。また、最先端の技術、ディティール、品質なども重要視された。会社の設立やその準備、車両の開発のためにマレーが獲得した予算は850万ポンドで、決して潤沢とは言えない額であった。 エクステリアとインテリアを担当したのはデザイナーのピーター・スティーブンスである。ピーターはマクラーレン以前はロータス・エランや同エスプリ、ジャガー・XJR-15の設計に関わっており、その後F1の計画に参加した。ロータス・カーズからも数名が開発のために移籍している。 運転席が中央にあるセンターシートのレイアウトはフォーミュラ1で得た経験を反映したものとされ、ドライバーの視覚的・動的な情報を即座に反映できるよう意図したものだった。マクラーレンによれば、マレーは1969年からこの1+2のシートレイアウトの研究を続けてきたという。運転席が中央にあるため、フロントガラスには左右どちらにもバックミラーがついている。荷物を入れるトランクルームは、車体の両側の助手席とリアタイヤの中間のホイールベース内側に存在している。良好なハンドリングと操縦性を追求し、エンジンやギアボックス、燃料、乗員、荷物など、すべての重量物を重心近くに集中させ重心高を低く抑えることで慣性モーメントを抑制する設計となっている。 市販車では世界初となるカーボンファイバー製のシャシーを採用している。車重は1 tを切ることを目標とし、エンジン出力は最低でも550 PS程度が求められた。カーボン製のブレーキディスクも開発していたが、公道での速度域や雨天時の低温状態で十分に作動させることが困難であったため、最終的にスチール製が採用された。軽量化のためパワーステアリングはなく、ブレーキにもサーボ機構やABSなどは装備されていない。 センターシートは構造的に乗降が難しくなるため、ルーフの大部分が開く構造が必要であった。採用されたディヘドラルドアはルーフだけでなく、足元部分のスペースも確保できるため乗降性の問題は解決した。開発時には、同様の機構を持つトヨタ・セラのドアを使い研究を行った。また、ピーター・スティーブンスはポルシェ・962の開発に関わっていたこともあり、高速時でも頑丈なドア構造を理解していた。 当初、マクラーレンはフォーミュラ1で提携しエンジン供給を受けていたホンダに対し、V型10気筒またはV型12気筒エンジンの設計・開発と供給を望んでいた。しかし、ホンダは将来のマーケティングの観点から、V型12気筒をはじめとしたオーバースペックなエンジンの製造は不適当と判断したためエンジンの供給を断った。いすゞ自動車は3.5 L V型12気筒エンジンを提案したが、レースでの実績が無いためマレーに断られた。最終的に、かつてブラバムでマレーと付き合いがあり、BMWに所属しているポール・ロッシュ(英語版)がV型12気筒エンジンを手掛けた。 マレーはF1の乗り心地とハンドリングの設計基準として、ホンダ・NSXの名を上げている。NSXのサスペンションは乗り心地の良さと操縦性を両立させるため、ホイールの動きに自由度を持たせる縦型のコンプライアンス・ピボットを採用していた。マレーはこのサスペンションシステムから得たインスピレーションが、F1のサスペンションの開発に繋がったと語っている。また、F1もNSX同様に、当初から日常的に使用されることを想定し開発されていた。NSXの他にも、フェラーリ・F40、ランボルギーニ・カウンタック、BMW・M1、ポルシェ・959、ブガッティ・EB110などがF1のベンチマークとして上げられている。 トランスミッションはシンクロメッシュ機構を持つ6速マニュアルトランスミッション(MT)で、フォーミュラ1やル・マン、インディカーで勝利を収めているカリフォルニアのトラクション・プロダクツ社と共同開発した。当初は軽量化のためマグネシウム製のトランスミッションハウジングを装備していたが、オーバーヒートの問題のため最終的にアルミニウム製を使用した。ギア比のセッティングは、0-160 mph(257 km/h)の加速用としたクロスレシオの1 - 5速と、クルージングや高速走行を考えたワイドレシオの6速の組み合わせとなっている。 空力性能の面では、車両後部に可変式のリアスポイラーが装備されている。このスポイラーは走行時には収納されているが、ブレーキング時に展開してエアブレーキとしても機能する他、ブレーキを冷却するためにエアインテーク内に空気を取り入れられる仕組みになっている。F1はグラウンド・エフェクトを利用してダウンフォースを得る構造となっており、その効果を高めるためにボディ下面を流れる境界層の気流を強制的に排気する電動ファンを備える。マレーは自身の設計したブラバム・BT46で、既にこの気流を強制排気する「ファンカー」と呼ばれる機構を採用していた。これらの空力の設計には、マクラーレンのフォーミュラー1マシンが開発される風洞と同じ施設が使われた。 電子制御システムは、マクラーレンの関連会社でフォーミュラ1の電気系統も担当するTAGエレクトロニック・システムズと共同で開発した。制御システムはエンジンの使用状況をモニターし、温度変化、回転数、不十分な暖機運転時の高負荷などを記録し、メンテナンス時に不具合の特定をすることができる。その他にも車内にモデムを設置し、マクラーレンに情報を直接送ることで車の故障個所を特定し、サポートを受けることなどができる。 視認性を向上させるため、フロントやサイドのガラスには従来の温風を吹き付けるデフロスターではなく、電気で加熱するガラスを採用することとした。この要求に応じるためサンゴバン社と協力し専門のチームが編成された。開発されたラミネート加工のガラスは素早い霜取りや除氷だけでなく、熱の侵入を20%、紫外線の侵入を85%低減することができた。 専用の音響機器の開発を行うため、ケンウッドも当初から計画に参加している。ケンウッドは当初音響システムの重量を37.5 lb(約17 kg)と提案したが、マレーはその半分の重量しか容認できないとした。最終的に開発されたシステムの重量は18.7 lb(約8.5 kg)であった。開発テストでは、最大1.5 Gの負荷がかかっている状態でもシステムは正常に機能した。 F1の搭載機器をテストするためのプロトタイプ車両として、イギリスのアルティマスポーツ(英語版)社のキットカーであるアルティマ・Mk3が2台購入された。この2台はシャシーナンバー12と13で、ノーブルモータースポーツ社により供給された。アルティマMk3はF1の設計重量を下回り、プロポーションが似ているために採用されたものである。この2台はテストのため車体に大幅な改造が施された。シャシーナンバー12の車両にはマクラーレンにより「アルバート」というニックネームを与えられ、本来搭載するBMW製V型12気筒エンジンの代わりに、同様のトルクを有するシボレー製V型8気筒エンジンを使ってギアボックスのテストが行われた。この他にもセンターシートやカーボンブレーキのテストにも使用された。他方、シャシーナンバー13の車両には「エドワード」というニックネームが与えられ、BMW製V型12気筒エンジンのテストの他、エキゾーストや冷却システムのテストに使われた。なお、後にこの2台は機密保持のためマクラーレンによって破壊されている。この2台の他にもエンジンテストのため、BMW・M5ワゴンにV型12気筒エンジンを搭載したプロトタイプも作られた。 F1の本格的な試作車両としては、シャシーナンバーXP1からXP5の5台が製作され様々なテストを行った。そのうちXP1はナミビアでの猛暑環境のテスト中に事故で大破している。240 ㎞/hを超えるスピードで走行中に、車が側溝に衝突したことが原因であった。ドライバーは奇跡的に生還したが、XP1は漏れ出たエンジンオイルがエキゾーストマニホールドに引火し、焼失してしまった。XP2は衝突試験用に製作され、XP1同様に大破し現存していない。プロトタイプと量産車にはデザイン上の違いがいくつかあり、フロントのフォグランプやウインカー、リアのシングルタイプのテールライトなどが異なっていた。量産車のテールライトはランボルギーニ・ディアブロと同一の部品で、イタリアのコボ社が製造を担当した。 マクラーレンによると、新車を購入した後の通常のメンテナンス間隔は9カ月と18カ月であり、ダンパーは10年、燃料タンクは5年の交換時期が定められている。将来的に車両を維持し続けるため、マクラーレンによりマグネシウムコーティングやブレーキパッドの材質など、新たな技術を用いたパーツの開発も継続して行われている。ボディカラーやインテリアの装飾部品なども同様に、オーナーの好みに応じて新たなものに更新することが可能であるという。 1992年5月28日、モナコGPにおいてマグネシウムシルバーで塗装されたF1が初公開された。その後、生産第1号車がオーナーの元へ納車されたのは1994年12月のことで、製造は1998年まで続けられた
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設計・開発
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AJ サヴェージは、核兵器搭載可能な複合動力式の大型艦上攻撃機として設計されたが、写真偵察機としても使用され、後には空中給油機としても使われた。AJ-1/2およびAJ-1/2Pは1948年から1956年に掛けて存在した重攻撃複合航空隊で使用されたほか、写真偵察航空隊で任務についた。重攻撃機型は、航空母艦から発着できる最初の核爆撃機だった。 その導入時期はアメリカ海軍が、発展途上のジェットエンジンの装備を始めた時期であるが、初期のジェットエンジンは低速性能に難があり、空母からの離着艦には問題が多く、燃費も非常に悪かった。しかしながらレシプロエンジンとは比較にならない高速性能には大きな魅力があった。サヴェージの場合、その妥協点は、2基のR-2800レシプロエンジンと、胴体後部にアリソンJ33ターボジェット1基を混合装備することだった。興味深いことに、R-2800レシプロエンジンとJ33ターボジェットエンジンは同じ燃料を使っていた。レシプロエンジンとターボジェットエンジンの組み合わせは、発艦時のパワー増大と、戦闘時のダッシュ速度の獲得を目的としていた。 サヴェージの最初の生産型は1949年5月に初飛行し、1950年8月31日、空母「コーラル・シー」(CV-43)において、この種の機体として初めての着艦を行った。 初期型のAJ-1は後日、爆弾倉にホース、燃料ポンプ、電動機、それにドローグなどの必要機材を満載し、空中給油機となった。必要な追加燃料は落下タンクから供給された。 1953年2月19日に初飛行したAJ-2は、エンジンを高性能化し、垂直安定板を高め、水平尾翼の上反角を無くしていた。 AJ-2Pはサヴェージの写真偵察機型である。そのほとんどは自動的に稼働する18台のカメラを装備しており、夜間および低高度での任務遂行が可能だった。夜間ミッションの場合は閃光弾も携行した。-2Pもまた、追加燃料の積載が可能だった。
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設計・開発
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「45口径三年式12cm砲」の記事における「設計・開発」の解説
1914年(大正3年)に設計され、江風型駆逐艦、樅型駆逐艦、峯風型駆逐艦、若竹型駆逐艦、神風型駆逐艦 (2代)、睦月型駆逐艦に主砲として搭載された。 当初の制式名称は、「四十五口径三年式四吋七砲」とされたが、1917年に、メートル法に準拠する「十二糎砲」(12cm砲)に変更された。 1921年(大正10年)には、本砲を高角砲化した「四五口径十年式十二糎高角砲」が開発された。 1922年(大正11年)には、本砲を改良した「四五口径十一年式十二糎砲」が開発され、鴻型水雷艇、千鳥型水雷艇、潜水艦、掃海艇などに装備された。 占守型海防艦の建造時には退役した駆逐艦の砲が流用された。 砲弾は人力で装填され、20.3kgの榴弾、照明弾に加えて、1943年(昭和18年)からは対潜弾が開発された。
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「エアバスA330neo」の記事における「設計・開発」の解説
従来の機体構造を軽量化させており、機体直径内寸法はA350型機の方が数センチ広い。エンジンは2014年に開催された第49回ファーンボロー国際航空ショーにて、ロールス・ロイス・ホールディングス製のトレント7000を採用することが発表された。外観上の主な変更点は、A350型機にも採用された新設計の湾曲した主翼とウィングレット(エアバス社WEBサイトではシャークレットと呼ぶ)を搭載したこと。また、A330ceoの主翼が60.3メートルなのに対しA330neoでは64メートルに延長されたこと等が挙げられる。2015年に大韓航空の航空宇宙本部をサプライヤーとして決定し、シャークレットの供給を行っている。 客室では、「Airspace by Airbus」を初導入。客室階下にある既存の貨物室エリアを活用した航空貨物コンテナ、「LD-36」(318センチ×244センチ×163センチ)の中に、乗客が利用できるベッドを並べることができる。乗客は客室から階段を降りて寝室モジュールを利用でき、モジュールは需要に応じて従来の貨物コンテナとの積み替えも可能。これはゾディアック・エアロスペースとの提携で開発され、オプションで採用できる。 2015年9月、A330neoの製造を仏トゥールーズとナントの工場で始めた。工場では最初の「メタルカット」が行われ、エンジンパイロンの加工、中央翼の製造も始まった。 2017年10月19日、改良型A330型機であるA330neoのうち、A330-900「登録番号F-WTTN」が仏トゥールーズ・ブラニャック空港で初飛行。4時間13分のテスト飛行をし、無事終えた。 2018年2月5日、A330neoファミリー2機種のうち、A330-800「登録番号F-WTTO」がロールアウト。A330-800とA330-900の2型式は99%の共通性保持をし、共通の機体構造、エンジン、乗務員訓練などが採用され路線ネットワークで2機種を柔軟に運用可能としている。 2018年6月18日~7月7日の期間TAPポルトガル航空に引き渡しされる予定のA330-900「F-WWKM(エアバス登録)」で世界15都市の路線実証(ルートプルービングテスト)飛行テストを実施。 2018年9月26日、A330-900について欧州航空安全庁(EASA)から型式証明を取得。テスト飛行では試験機2機で1,400飛行時間を実施したと発表。米国連邦航空局(FAA)からも近日中に取得見込み。 2018年11月6日、開発中のA330neoのうち、短胴型のA330-800「登録番号F-WTTO」が仏トゥールーズ・ブラニャック空港で初飛行し4時間4分のテスト飛行を無事終えた。 2018年11月26日、TAPポルトガル航空に世界初のA330-900「登録番号CS-TUB(元F-WWKM)」を納入。 2020年10月29日、クウェート航空に世界初のA330-800「登録番号9K-APF」を納入。
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「マルメ MFI-10」の記事における「設計・開発」の解説
民間と軍用の両方の要求に合致するようにMFI-10は、固定尾輪式の降着装置でパイロットと3人の要員を収容できるキャビンを持った、支柱で支持された高翼単葉機として設計された。 試作機は機首に160 HP(119kW)を発生するライカミング O-320 エンジンを装備し、1961年に初飛行を行った。スウェーデン陸軍向けの2機の軍用試作機MFI-10Bがこれに続いた。 MFI-10Bは、180 HP(134kW)を発生するライカミング O-360 エンジンを装備し、1962年6月27日に初飛行を行った。より高出力のエンジンを装備したモデルを造ることが計画されたが進まず、この機が量産に入ることは無かった。
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「Hs 298 (ミサイル)」の記事における「設計・開発」の解説
Hs 298は特に爆撃機を攻撃するために設計されており、空対空の用途に特化して設計された最初のミサイルである。それは、ドルニエ Do 217(5発)もしくはフォッケウルフ Fw190(2発)の専用の発射レールで運ばれ、48キログラム(106ポンド)の爆薬を搭載していた。 Hs 298は先端に後退翼を持つ中翼の単葉機であり、対になった垂直安定板を伴った1つの水平安定板を持つ。ヘンシェル社設計のSchmidding 109-543ロケットエンジンを動力としている。発射時には2段階の挙動を示し、始めの高速の段階では時速938キロメートル(時速585マイル)で発射した航空機から離れるようになっており、次の段階でおよそ1.6キロ(1マイル)の最大射程を得るために時速682キロメートル(時速425マイル)に減速する。FuG 203電波誘導システムを使用しており、機首に取り付けられたスクリュー駆動の発電機によって電力供給されている。このミサイルを航空機で発射するために、2人の乗員を必要とした。1人は目標を狙うために反射器タイプの照準器を使い、もう一人は始めのものと対になっているサーボシステムの付いたもう一つの照準器と操縦桿を使いミサイルを飛ばした。 1944年12月22日にユンカースJu-88Gに搭載された3発のミサイルによって行われた試射が、知られている唯一の試射である。2発のミサイルだけが発射に成功し、一発は失敗して発射レールに残った。発射に成功した2発の内1発はすぐに爆発して地面に急降下した。1945年1月には大量生産に入る予定であったが、同じ空対空ミサイルであるルールシュタール X-4の方が支持を集めたためプロジェクトは断念された。
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「カプロニ Ca.90」の記事における「設計・開発」の解説
六発エンジン・逆一葉半の複葉機であるCa.90は、重爆撃機として設計され1929年に初飛行した。Ca.90は2基が串型に配置された二組のイソッタ・フラスキーニ アッソ 1000(イタリア語版) W型18気筒レシプロエンジンを下翼の上部に配しており、前部のエンジンには2翅プロペラを、後部のエンジンには4翅プロペラを装備していた。残りの一組2基のエンジンは胴体の上部に装備されていた。このエンジンはCa.90専用エンジンとして作られたものだった。 1929年に初飛行したドルニエ Do X飛行艇のほうが翼幅と重量でCa.70を上回っていたが、1934年にツポレフ ANT-20が登場するまで、Ca.90は最大の陸上機だった。
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「ロールス・ロイス クレシー」の記事における「設計・開発」の解説
英連邦航空研究諮問委員会 (ARC) 委員長であったヘンリー・ティザード卿は、1935年にはドイツ航空戦力の脅威を感じて強力な短距離走者(sprint )的なエンジンを提唱しその必要性を訴えた。この訴えはティザードの個人的友人のハリー・リカルドを感化し、クレシーとして知られるものの開発につながった。この案が初めて公式に議論されたのは、1935年12月のエンジン小委員会であった。 "議長はもし空軍省が短距離走者的な国土防衛のためのエンジンを欲したならば我々はどれだけ燃料を軽視できるのか質問せねばならないと言った。リカルド氏はこの点について最近の談話での要望で、一定の状況で激しい燃料の消費は許容されないかもしれず、もしそうならば魅力的な2ストローク・ガソリンエンジンの可能性につながる研究が必要だといった。" 1927年と1930年に用いられたケストレルエンジンの経験は、空軍省との契約を通じて2ストロークとスリーブバルブ設計の研究価値を証明した。どちらも最初のうちは原型より低出力で機械的故障の顕著な増加が見られるディーゼルのスリーブバルブ式に換装された。 1937年にプロジェクトエンジニアのハリー・ウッドのもとで単気型の開発がリカルドの設計した試験ユニットを用いて開始された。最初に考えられたのは、圧縮点火エンジンとしてであったが、ロールス・ロイスが本腰を入れて開発を始めると空軍省の決定でより保守的な火花点火式に改められた。
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設計・開発
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機体設計者のT・クロード・ライアン(英語版)はチャールズ・リンドバーグの大西洋横断で有名なスピリットオブセントルイス号(機体は『ライアン NYP』)を製作したライアン・エアライナーズの創設者であった。ライアン・エアライナーズはライアンが創始した最初の会社で、ライアン・エアロノーティカルはライアンが立ち上げに関わり、彼の名を冠した4番目の会社であった(以前に一度同名の企業を起こしているが、ジーメンスに買収されていた)。ライアンは1933年に同社での最初の設計機としてSTの開発を開始した 。ST(もしくはS-T)とは Sport Trainer の頭字語である。 STは金属製セミモノコックの胴体に開放式のタンデム複座コックピットを備えていた。胴体は主翼桁の荷重を支える2つのメインフレームと別の6つのフレームから成り、メインフレームのうち一方は鋼製、他方は鋼とアルミニウム合金(製品名:alclad)を半分ずつ含んでいた。その他のフレームおよび外殻はalclad製であった。内翼前縁の桁は単純な管であり、外翼との境目付近で胴体上部に一端を固定された外部の支柱と接続していた。内翼後縁の桁はトラス状構造を有していた。一方、外翼部の桁はトウヒの厚板から作製された。小骨はalclad製で、翼の捻れを防ぐために桁に対し斜め方向にも支持棒が組み込まれた。前縁部の外皮はalclad、その他の部分は布羽張りであった。また、外翼は固定脚式の降着装置と胴体上部に固定された複数の張線で支持された。 まず最初に5機のSTが製作された。続いてエンジンをアップグレードしたST-A(もしくはS-T-A)が開発された。ST-AのAはAerobatics(曲技飛行)に由来する。また同時期にST-Bと呼ばれた単座の機体が1機製作されている。これは撤去した前部コックピットに燃料槽を搭載したものであるが、後にST-A標準仕様に戻された。その後ST-Aのエンジンをさらに強力なものにした ST-A Special が生まれた。 1937年、ST-A Special は軍用型であるSTMシリーズ(ST-Mとも)へと発展する。STMではパイロットがパラシュートを装着したまま出入りしやすいようにコックピット内部が広く改装された。また、一部では機関銃の搭載を想定していた。1挺の機関銃で武装した単座のSTM-2PなどSTMの各派生型は中華民国やオランダ領東インドへと送られた。なお、STM-S2は通常の車輪式降着装置を浮子式降着装置(製品名:EDO Model 1965)に換装し水上機とすることが可能であった。 STMの後、1941年にST-3が製作された。これは本質的に再設計であり、信頼性に劣るMenasco社製エンジンの換装を意図したものでもあった。ST-3の開発はアメリカ陸軍航空隊 (USAAC) の要求に端を発する。USAACは数十機のSTM派生型を購入し、様々な制式番号の元で試験運用を行ったが、この間にライアン・エアロノーティカルへ一部の機体のエンジンを Kinner R-440 (R-440は軍での制式番号であり、製品名はB-5)へと換装させていた。陸軍はこの換装が成功であったことを確認すると、R-440を標準エンジンとし、運用中に得られたいくつかの要求を取り入れた改良型(すなわちST-3)の設計を同社に依頼したのである。ST-3の胴体は従来より長く、断面はより広い円形になった。これはR-440が星型エンジンのためである。また、方向舵の再設計、補助翼と昇降舵のバランス調整、加えて降着装置の伸長と軌間の拡張が行われた。なお、それまでのSTシリーズで見られた流線型の車輪覆いはこの際に撤去されている。ST-3は陸軍およびアメリカ海軍 (USN) から発注された軍用STの基本形となった。 1941年から1942年初頭にかけてST-3を元としたST-3KRが開発された(KRはエンジン製造会社Kinnerとエンジン形Radialから)。ST-3KRはR-440 (B-5) よりも強力な Kinner R-5 を搭載し、最多量産型となった。第二次世界大戦中には1000機以上が生産されている。STの最終型はST-4で、これは戦時下の資材枯渇に備えてST-3の胴体を木製とした派生型であったが、そのような事態は杞憂に終わったため量産には至らなかった。
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設計・開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 03:47 UTC 版)
推進式の利点は、前方視界が妨げられないことと武装を機首に集中配置できる点にある。ただ1つ欠点としては、搭乗員が脱出する際にプロペラの回転面に巻き込まれる恐れがあることである。しかしこの問題は初期の射出座席を進化させるに至り、この後いくつかの問題を解決したマーチンベーカー・エアクラフト社は射出座席の特許を得た。ダミー人形を使用しての、最初の射出試験は1944年2月に、サーブ 17を用いて行なわれた。 着陸装置は、プロペラブレードと地面のクリアランス(すき間)を保つため、降着装置は当時主流であった尾輪式ではなく、現代のほとんどの飛行機と同じ前輪式にする必要があった。前輪の激しい首振り振動(シミー)の防止などが必要であり、自動車の後部から試験用台車を曳航したり、ノースアメリカン NA-16-4M(英語版)を前輪式に改造しての試験などが行なわれた。 サーブ 21は1943年7月30日に初飛行したが、このとき既に射出座席を搭載していた。より短距離で離陸できるとの考えから、離陸はフル・フラップ(フラップを完全に下げること。通常、離陸時には半分ほどしか下げない)で行なわれたが実際には離陸滑走距離は伸びてしまい、フェンスに脚が接触した。着陸時には車輪ブレーキが作動せず、テストパイロットはスピン・シュート(スピン回復用パラシュート)をドラッグ・シュートとして利用した。
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