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はてなキーワード: 公理とは

2024-11-24

anond:20241124131325

zfc公理からやればええやでという話

2024-07-23

anond:20240723170447

数学においては「平行線は交わる」などの新解釈で殴り合います

それは公理であって「解釈」じゃねーよアホ。

そして新しい公理提案は何一つ「殴り合い」ではない。

2024-07-12

anond:20240711210523

埼玉県東北地方新潟県イメージ

東北地方新潟になぜダサいイメージがついているかという件についてまず証明しないと成り立たないだろこれ。公理なの?

2024-06-24

公理原理って何がちがうの?

レスバ大好き増田くんなら知ってるかなと思って

2024-06-03

カント定言命法ってなんかそれっぽい用語を使ってるから何らかの原理みたいに思えるけど、要するに仮言命法とは違って論理性という錦の御旗のないただの主義・主張でしかないんじゃないか?って思った。

他人に最低限の敬意を持ちましょう。って言われてまあそうかもねっていう素朴な共感はあるけど、それは感覚問題であってそこに論理はない。もっと言えばその感覚すらも社会的形成されたもの、というかキリスト教倫理規範のものなんじゃないか?って思う。

じゃあカントによる道徳の再定義正当化も、論理性・合理性という現代(?)風な科学ツールで飾り立てつつ、結局は聖書価値規範リブートしただけなんじゃないか?って思った。

もっと遡れば、じゃあその他敬を良しとする社会はどう構築されたののか?無から湧いてきたのか?って問題が出てきそうだけど。

神様がそうしたからです、という答えなら簡単に済む。人にそういう機能プリインストールされてるからです、だとそれも道徳正当化に使えそうだけど、事実規範すり替えないといけない。

道徳根拠として定言命法を持ち出すのは、少なくとも論理で語れる面については色々と新しい発見をしているすごいカント先生の言う事だから説得力があろうっていう権威主義的な要素もあるんだろうか。

実際に人間尊厳という概念社会に影響を与えているというのは事実にしても、それは別に論理必然性との関係はないよね?って思う。

そんなに徹底して厳格に理詰めで考えてたら、そもそも規範なんてありませんというニヒリズムに辿り着かざるを得ない。

じゃあある程度は感覚的なもの依拠する規範公理として置いて、そこから道徳の話を始めようって事なのかもしれない。それがキリスト教人権思想かは知らんけど。

そういう話ならまあ分からんでもないけど、それだとかなり重大な前提条件あっての議論な訳だし、それをさも論理的に話をしてるんですけど?みたいなスタンスで行くのは欺瞞じゃねえか?

って倫理学の講義聞きながら思った。

2024-05-13

数学を学ぶ意味数学芸術である

Xで共有された動画塾講師先生が「要領が悪い奴は定数を動かそうとする、変数をどうにかすべき、だからこういうところが数学を学ぶ意味だ」とか言ってんのよ

はぁ?なにが数学を学ぶ意味だ、いい加減にしろ

いか数学ってのは公理から演繹的に体系を導き出す「芸術」だ

証明法にもエレガントさってものがあるし、第一、美しくない公理体系は見向きもされない

定数ってのは物理学の話だ。物理学にはプランク定数h、光の速度c、重力定数G、という基本的な3つの定数があるが、たしかにこれらを「動かそう」という話はしない

あるいは数学にもπやeのような定数はあるが、要領の良さとは無関係であり、動かそうという話もない

しかしそれは常識レベルの話だ、「誰も神の力を持っていない」と言うようなものから

では現実世界に「定数」と呼べるような固定のもの存在するか

線型回帰適用したら定数項が出るかも知れないが、これは変数依存しないというだけの話で、データが変われば動く

政治に対しては努力次第で影響を与えられるし、人間関係だってそうだろう

努力の大きさに見合わないほど、それを動かすのが難しい」という話をしたいなら、残念ながらそれは「定数」の話ではない、むしろ現象変数に対して持つ感度の問題である

しかし俺がいいたいのはそういうことじゃない。芸術であるはずのものを「要領の良さ」という低俗トピックに落とし込むその感性が全く同意できないのである

例えばラングランズ・プログラムの先にあるものはなにか、と考えれば、それは驚愕的な数学の繋がりを示すことであり、陳腐とも言える「要領のいい」応用を目指したものではないだろう

要領の良さというのは、要するに経済学の話であり、数学ではない

わかったか

2024-05-07

anond:20240507205136

ZFCに無限公理を含めるかどうかを選ぶのは完全に数学者感想ですが

anond:20240507135333

あんまわからないんだけど公理以外は偽証じゃないのでは?

2024-04-15

anond:20240415203641

なんで前提をコロコロ変えるの?特定の前提を持つことに信念はないの?

例えば数学者はZFCの公理無限公理を入れるかどうかについて個人的な信念を持ってるよね?

2024-04-05

政治が関わらない、勉強して楽しい分野ってある?

もちろん、政治とは無関係で、学ぶことが楽しい分野はたくさんあります。以下にいくつかの例を挙げてみます

これらはあくまで一例であり、他にも多くの分野がありますあなたが何に興味を持つか、何を楽しむかは、あなた自身が最もよく知っていることです。興味があることを追求することで、学びはより楽しく、有意義ものになります。どの分野を選んでも、新しい知識スキルを得ることは、自己成長と達成感につながります。それぞれの分野が提供する独自視点方法論は、私たち世界理解する方法を豊かにします。

数学は、例えばZFCの無限公理を取り入れるかどうかにおいて政治的です。プログラミングgithub政治的に評価されます音楽評価政治的です。天文学も、どの理論評価されるかという点で、一部の学者は非常に政治的態度を取ります

ご指摘の通り、学問の中には政治的な要素が含まれることがあります。それは、どの理論方法が受け入れられるか、どの研究資金を得られるか、どの成果が評価されるかなど、多くの要素が関わってきますしかし、それらは学問本質ではなく、人間がその学問をどのように運用するかによるものです。

例えば、数学の中にはZFCの無限公理のような議論がありますが、それは数学のもの政治であるというよりは、その理論をどのように受け入れるか、どのように適用するかという問題です。同様に、プログラミングGitHub政治的に評価されることがあるとしても、それはプログラミングのもの政治であるというよりは、その成果がどのように評価されるかという社会的問題です。

音楽天文学も同様で、それらの分野が政治であるというよりは、その成果がどのように評価され、どの理論が受け入れられるかという社会的問題です。これらの問題は、学問本質からは離れたところで起こるものであり、それぞれの学問提供する知識洞察、喜びを否定するものではありません。

したがって、政治的な要素を排除したい場合は、自分自身の学びのプロセスに集中し、自分が得た知識スキルをどのように適用するかを考えることが重要です。

2024-03-27

anond:20240327131838

スポーツも、数学すらも、ある種この文脈で言うゲームみたいなもんだよな。

定められたルール(公理)のなかで、どれだけのプレイ(定理発見)ができるかに、興奮があるだろう。踊らされるのは愚かだとルール破壊して審判を殴ったり公理否定してめちゃくちゃな怪文書主張して悦に入ることこそ、果たしてどうなのかということだね。

ルールのもとにおあることを、踊らされてるととるか別の意味を見出すかはその人次第

2024-02-21

[] 数学は量子物理学と同様に観察者問題がある

量子力学における観測問題についてはよく知られるように、人間主観性が量子実験の結果に重要役割果たしている。

ドイツ物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクによる有名な引用がある。

私たちが観察するのは現実のものではなく、私たち質問方法さらされた現実です。」

例えば有名なダブルスリット実験では、スリットの後ろに検出器を置かなければ電子は波として現れるが、検出器を置くと粒子として表示される。

したがって実験プロトコル選択は、観察する行動パターンに影響する。これにより、一人称視点物理学の不可欠な部分になる。

さて、数学にも一人称視点余地はあるか。一見すると、答えは「いいえ」のように見える。

ヒルベルトが言ったように、数学は「信頼性真実の模範」のようである

それはすべての科学の中で最も客観的であり、数学者は数学的真理の確実性と時代を超越した性質に誇りを持っている。

ピタゴラスが生きていなかったら、他の誰かが同じ定理発見しただろう。

さら定理は、発見時と同じように、今日の誰にとっても同じことを意味し、文化、育成、宗教性別、肌の色に関係なく、今から2,500年後にすべての人に同じ意味があると言える。

さて、ピタゴラス定理は、平面上のユークリッド幾何学の枠組みに保持される直角三角形に関する数学声明であるしかし、ピタゴラス定理は、非ユークリッド幾何学の枠組みでは真実ではない。

何が起こっているのか?

この質問に答えるには、数学定理証明することの意味をより詳しく調べる必要がある。

定理真空中には存在しない。数学者が正式システムと呼ぶもの存在する。正式システムには、独自正式言語付属している。

まりアルファベット単語文法は、意味があると考えられる文章を構築することを可能にする。

ユークリッド幾何学正式システムの一例である

その言語には、「点」や「線」などの単語と、「点pは線Lに属する」などの文章が含まれる。

次に正式システムのすべての文のうち、有効または真実である規定した文を区別する。これらは定理である

それらは2つのステップで構築されれる。まず、最初定理証明なしで有効である宣言する定理選択する必要がある。これらは公理と呼ばれる。

これらは正式システムの種を構成する。

公理から演繹は、すべての数学コンピュータで実行可能な印象を生む。しかし、その印象は間違っている。

公理選択されると、正式システム定理構成するもの曖昧さがないのは事実である

これは実際にコンピュータプログラムできる客観的な部分である

例えば平面のユークリッド幾何学と球の非ユークリッド幾何学は、5つの公理のうちの1つだけで異なる。他の4つは同じである

しかしこの1つの公理(有名な「ユークリッドの5番目の仮定」)はすべてを変える。

ユークリッド幾何学定理は、非ユークリッド幾何学定理ではなく、その逆も同様。

数学者はどのように公理を選ぶのか。

ユークリッド幾何学非ユークリッド幾何学場合、答えは明確である。これは、単に説明したいもの対応している。

平面の幾何学であれば前者。球の幾何学であれば後者

数学は広大であり、どのように公理選択するかという問題は、数学の基礎に深く行くと、はるかに感動的になる。

過去100年間、数学集合論に基づいてきた。

すべての数学オブジェクトは、いくつかの追加構造を備えたセットと呼ばれるものであるということだ。

たとえば自然数のセット1,2,3,4,...は加算と乗算の演算を備えている。

一般的なセットとは、数学で正しく定義されたことがない。

集合論特定正式システムによって記述される。Ernst ZermeloとAbraham Fraenkelと、選択公理と呼ばれる公理の1つに敬意を表して、ZFCと呼ばれる。

今日数学者は、すべての数学を支える集合論正式システムとしてZFCを受け入れている。

しかし、自分自身を有限主義者と呼ぶ少数の数学者がいる。

彼らは、無限公理と呼ばれるZFCの公理の1つを含めることを拒否する。

言い換えれば、有限主義者正式システムは、無限公理のないZFCである

無限大の公理は、自然数の集合1,2,3,4,...が存在すると述べている。すべての自然数に対してより大きな数があるという声明(「ポテンシャル無限大」と呼ばれる)よりもはるかに強い声明である

有限主義者は、自然数リストは決して終わらないことに同意するが、いつでも自然数の集合の有限の部分集合のみを考慮することに限定する。

彼らは一度にまとめたすべての自然数の合計が実在することを受け入れることを拒否する。

したがって、彼らはZFCから無限公理を削除する。

この公理を取り除くと、有限主義者証明できる定理はかなり少なくなる。

正式システム判断し、どちらを選択するかを決定することができるいくつかの客観的基準...なんてものはない。

主観的には、選ぶのは簡単である

時間空間を超越した何かを象徴しているので無限大が大好きだ」と言えば無限大の公理を受け入れることができる。

ゲーデルの第二不完全性定理は、十分に洗練された正式システム(ZFC等)は、自身一貫性証明することができないと述べている。

数学者は、今日のすべての数学の基礎であるZFCが確固たる基盤にあるかどうかを実際に知らない。

そしておそらく、決して知ることはない。

なぜなら、ゲーデルの第二の不完全性定理によって、より多くの公理を追加することによってZFCから得られた「より大きな」正式システムにおけるZFCの一貫性証明することしかできなかったから。

一貫性証明する唯一の方法は、さらに大きな正式システム作成することだけだ。

数学を行うためにどの公理選択すべきかについて、実際には客観的基準がないことを示唆している。

要するに、数学者が主観的に選んでいるというわけである自由意志に任せて。

公理のための主観的基準というのは、より豊かで、より多様で、より実りある数学に導くものを選ぶという人は多い。

これは自然主義と呼ぶ哲学者ペネロペ・マディが提唱する立場に近い。

自分自身制限する必要がないので、無限公理を受け入れる。

特定公理のセットを選択する行為は、量子物理学特定実験を設定する行為に似ている。

それには固有の選択肢があり、観察者を絵に導く。

これが、一人称視点とそれに伴う自由数学において正当な場所を取る方法である

2024-02-18

anond:20240218184732

記号操作が一意に定まらないとするなら、それは推論規則公理系が成立しないことを意味する

数学者も最も基本的な体系が証明できないことは認識しているわけで、「特定規則公理を真と仮定とした場合において」他の命題を導こうとするのが数学の考え方

増田は「その仮定証明し得ないですよね?」という数学者にとっても承知の内容を繰り返してるだけに過ぎないのでは

anond:20240218142849

そもそも

全ての自然数加法による計算は、感覚ではなく公理定義から導出出来るものであるということの一例と私は考えています

1+1=2は直感的に正しそうだけど証明可能不可能かは大問題証明できないと数学破綻している可能性があります

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13293425613

みたいな主張、ようは「数学的に証明されたら感覚的なことではない。感覚じゃない事実なことを示すために証明するんだ」みたいな主張に対する違和感から始まってんだよね、元増田は。

いや、定義自体が、人間インプットされた「同一/非同一」とか「書き換える」みたいな原始的観念/身体感覚依存してる部分が多少なりともあって、このプリセットが全人類で同一か確認する術が不可知なのだから

感覚あいまいなもとみなし、そこから『全く』逃れるために証明するんだ」という考え方は、誤りだろって突っ込みたい動機から始まってるんだよね。全くじゃなく、程度問題だろ、全く感覚の影響を排除できてるというのは思い上がりだろっていう。もちろん厳密であろうと努力する態度は尊いと思うよ。

なんか最近"数"が増田流行っているみたいなので、ワイくんも作文してみました

数の概念文化歴史によって変化してきた。古代ギリシアでは、1は数ではなく単位とされていたが、現代では自然数の集合 N の最小の要素とされている。

 

数の概念哲学的問題を引き起こすことがある。無限や超準数といった数は直観に反する性質を持つ。例えば、無限自分自身に加えても変わらないという性質を持つ(∞+∞=∞)。超準数もまた通常の数の演算法則が成り立たない(ω+1≠1+ω)。

 

数は実在するのか、それとも人間の心の産物なのかという存在論的な問いもある。数の実在主義は、数は客観的実在であり、人間の心とは独立して存在すると考える。数の構成主義は、数は人間の心の産物であり、人間言語思考依存して存在すると考える。プラトニズムは、数はイデア界に存在する普遍的実在であると考える。ピタゴラス主義は、数は万物の根源であると考える。論理主義は、数は論理的な体系から導き出されるものであると考える。

 

数の概念数学の基礎付けにも関わる。数学公理定理は、数の概念に基づいて構築されているが、その正当性や完全性には限界がある。ゲーデル不完全性定理は、数の概念を用いた形式体系には矛盾しないが証明できない命題存在することを示した。

 

数の概念は、かつて客観的現実を表すものと考えられていたが、量子論の発展により、数はより複雑で主観的ものである可能性が高まった。古典物理学では、数は物理量と一致していたが、量子論では、数は物理量とは別の抽象的な概念として使われている。

 

自我自由意識と同様に、数の本質はまだ解明されていない。しかし、量子コンピューターは数の概念を利用して作られており、数は物理システム表現する有効ツールであることは、どのレイヤースケールにおいても明らかである

 

数の概念私たち知識理解拡張するものであり、同時に私たちの疑問や不確実性を増やすものでもある。

 

数の概念は、私たち世界に対する見方を変える力を持っている。(どやああああ)

 

————————-

流行を作った増田

数学定義は本当に厳密で一意なものと言えるのか気になりました

https://anond.hatelabo.jp/20240216124331

2024-02-17

anond:20240216215810

「Aかつ¬Aの証明を得ることができる」に対して、「いいや得られない。お前がそのように見せかけているだけだ」おれの計算(記号処理)手続きこそ推論規則に適っているし正しいと、反論されたら?

また、「そもそもここでいう『得る』とは」どういう意味か?と突っ込まれたら曖昧でなく『得る』ということが『得る結果の具体例ではなく』『どういうことか』記述できるのかという話です。

¬¬A→Aという規則に基づいた結果が

¬¬¬¬¬A→¬¬¬(¬¬A)→A

なんだよ!と言い張られる。もちろん常識的にはおかしいと思えますが、いまは突き詰めたことを言っています

一般には、¬¬¬¬¬Aを書き換えるために、この記号列の一部分¬¬Aに着目して、規則からAと書き換えられるから、この結果を¬¬¬(¬¬A)に代入?して、¬¬¬Aに書き換えられる、という思考プロセスをとるでしょう。

しかあくまものとしては、ここで考えているのは¬¬Aではなく¬¬¬¬¬Aなわけです。

規則通りに書き換えられてない、言い換えるなら同じ規則を使っていないという主張に対して、そもそも同じ規則適用できているということ、規則が同じとはどういうことか自体定義公理に組み込むことはできるのか。

矛盾証明ということはまだその概念記号列で示す余地があるが、規則が同じかどうかという定義もとい「規則」は厳密に定義可能かということです(無定義語として関係性の定義でもよい)。図形が合同か、みたいな合同の概念定義など比べてもまたレイヤーが一段メタ的になっていて厄介というか。「違うのは自明じゃないか!」といっても、自明説明できてこそ自明なのですが、ここでいう同じかそうでないかということについてはそれを根拠だてる定義原理的に無理なんじゃないかと思えてしまます

さきほど『得る』という言葉に突っ込まれたら云々ということを言いました。

ブコメには「自然言語曖昧さで数学をの厳密さ否定しようとしてるだけだ」というのがあります

別に私は自然言語曖昧さを問題にしていません。そこは問題本質ではないです。

しろこうした言葉一般に疑いようなく明らかなものです。「左右」とか「これやあれ」みたいな近称や遠称の概念などもそう思われるでしょう。

しかしむしろこれらの概念には一切曖昧さはないという前提に立っても、これもごく単純な話で、曖昧でないからといって、いままでその概念を持ってなかった知性的存在に対して、「これ」や「左右」といった「概念」を、対面やジェスチャーを使えばいざしらず、記号列を用いて一意に定義できる保証はないよね、ということです。定義の厳密さを担保する必要条件が、記号理学に基づくということにあるのなら、数学を厳密とのたまうかぎりにおいて、当然対面やジェスチャーではなく、これとか同じとかみたいなもっと原始的な部類の言葉まで全て記号で一意に定義できることを示せなければならないでしょう。

あとあなたが↓のトラバと同一だと言ってくれたら以降↓の方のツリーに返信書いて一元化するのでそのつもりで

https://anond.hatelabo.jp/20240216215810

ちなみに関連しそうな話題として自分自身ラムダ式勉強した経験があるけど

1. 変数xはラムダ項。

2. ラムダ項M, Nに対して (M N) はラムダ項。この形のラムダ項を適用ラム適用)という。

という定義があるんだけど、これに基づけば(x x)というのもラムダ項じゃないのって思ってた。

でもラムダ式で(x x)なんて形のは見たことないし、違うんだろうなと。

でも論理的にはなぜ違うのか全く納得できてないので(納得感が正しさにとって問題じゃないとはいえあえて言うが)(x x)だってラムダ式でしょって胸を張って言い張れる。

分かってる人からみれば、そして俺にとっても¬¬¬¬¬A→Aと同程度にバカげた主張なんだが、そのわかってる人にとっても「この規則ならこういうことが言えると思うのに、なんで正解とされてるのと自分が思ってることが違うの?」ってなることはあるはずで、それはこの世で一番数学ができる人であってもありえること。この世で一番数学ができる人さえ規則を正しく適用できていないらしいときそもそも正しい適用とはなんだってなりそうに思うんだが。

anond:20240216210851

これは本質的な問で、哲学では「規則問題」あるいは「規則パラドックス」として知られる古典的問題意識です。「規則問題」の議論では足し算などが例として良く用いられますが、ここでは形式的証明を例に説明します。

形式的証明体系において、「推論規則」あるいは「公理」は無限種類あるため一覧表を作ることができません。そのため通常は「推論規則型(rule schema)」や「公理型(axiom schema)」と呼ばれる、無限個の論理式をひとつの式で代表したものを使って有限っぽく表示します。例えば、ツリーにある「 A と A → B が証明可能なら B が証明可能」というのは規則スキーマです。これは A と B がどのような論理式でも使える規則型であり、(A と B を具体的な論理式に置換して得られる)無限種類の規則の集まりを有限で表現したものです。例えば「x=0 と x=0 → x^2=0 が証明可能なら x^2=0 が証明可能」は規則の例です。

そして問は、まさに規則型や公理から規則を得る方法はどうして合意できるのか、ということだと思います。例えば「x=0→x^2=0 と x=0→x^2=0→-x=0 が証明可能なら -x=0 が証明可能」はさきほどの規則型の形に当てはまらないものなのですが、この "事実" を全員が了解しているのがどういう理屈によるのか、というのが問です。そしてこれは正しく「規則問題」です。

ここから私見ですが、「規則から規則を得る方法について全員が一致する見解に到れる」というのは幻想でしょう。ただ、現実数学を営む上では「規則から規則を得る方法について数学者の見解は一致している」と思い込んでもこれまで大きな問題を生じてはいないので、問題が生じるまでは別に気にしなくていいのではないか、という感じではないかと思います。元々の問であった教師と生徒の例についていえば、数学コミュニティに近しい立場である教師コミュニティ流儀を教えている、ということになるのではないでしょうか。

2024-02-16

anond:20240216160814

現代数学者ほとんどは形式化された数学の体系であるツェルメロ-フレンケル集合論ZFCを使っています.

言及されている通り, ゲーデル不完全性定理によってZFCが無矛盾であるならばZFCは自身の無矛盾性を証明することができません. ZFCが矛盾している可能性はあります. ZFCの無矛盾性に関しては, 一方でZFCを用いて多くの数学者数学をしている中でまだ矛盾が見つかってないという傍証もあります.

仮に矛盾が見つかってしまった場合, その後の方向性はいくつか考えられます:

1. その矛盾証明をよく調べて, その原因を取り除いてZFCより弱い新たな数学体系を構築する.

これに関しては普段数学をする際にフルでZFCを使っているわけではないので, 合理的なZFCより弱い体系を見つけることができればこれまでの数学を続けることができるかも知れません.

2. その矛盾もっと深刻で代替案が見つからない場合.

この場合数学がどうなるか想像がつきません. 数学にとって大打撃になると思います.

他にもZFC以外の別の数学形式的な基礎づけを与えようという動きもあります. またZFCより改善させるような新しい体系, 公理形を見つける方向の研究もあります.

このように数学基礎論という数学の一分野は形式化された数学のもの数学的に調べようという分野があります.

anond:20240216213037

まず数学的な内容の真偽の判断に納得感や権威などは関係ないです.

あくま言及されている状況の場合は, 先生の方が想定している証明の体系では生徒が与えた記号列, 文字列合致しなかったためそれが証明ではないと判定されたのではないでしょうか?

もちろん極論を言えば先生の方から公理や推論規則を全て提示すべきというのはそれはそうですが, そこは暗黙の了解文脈依存する話です.

anond:20240216213037

まず数学的な内容の真偽の判断に納得感や権威などは関係ないです.

あくま言及されている状況の場合は, 先生の方が想定している証明の体系では生徒が与えた記号列, 文字列合致しなかったためそれが証明ではないと判定されたのではないでしょうか?

もちろん極論を言えば先生の方から公理や推論規則を全て提示すべきというのはそれはそうですが, そこは暗黙の了解文脈依存する話です.

anond:20240216210851

言及されている状況を(記号論理のような)推論規則を用いて何らかの証明を書いていると仮定します.

証明」というもの特定の条件を満たす公理と推論規則を用いた操作の列として(数学的に)定義されています. ここで公理や推論規則などはあらかじめ固定されています.

与えれた記号列, 文字列証明であるかどうかもその定義に基づいて判定することができます.

言及されている状況での会話ですが, あくまで推察ですがおそらく生徒の書いた証明証明の体を成しておらず, 皮肉混じりに言ったのではないでしょうか?

(上で言及しているように, 公理や推論規則を変えた場合, どういう記号列が証明であるかも変わります. )

anond:20240216124331

哲学など数学以外のことは専門外のため, あくま数学に関することだけ言及させていただきます.

ユークリッド幾何学言及されているように数学歴史紀元前まで遡りますが, 数学形式化が意識され始めたのは1900年代以降と最近の話です. 主にヒルベルトによって主導されたものだと私は理解しています. (もちろん多くの数学者がこのプログラムに関わってきました. ) 数学形式化や形式主義で調べると参考になると思います.

数学的な内容に関して言及したいことは多くありますが, かいつまんで述べさせていただきます.

(あくまでこれは元の記事が間違っているなどと主張しているわけではないです. 現代数学の考え方や雰囲気の一部を分かっていただければ幸いです. )

現代形式化された数学原理的には決められたルール(公理と推論規則)を用いて行われる一連の手続きです. それらの「意味」が何かは一旦全て忘れてください. ここで公理とはあらかじめ定められた記号列で, 推論規則はいくつかの文字列を用いて新しい文字列を生み出す操作です, 例えば文字列A→BとAが与えられたとき文字列Bを得る操作があります. 定理(数学命題)とはこの操作によって生み出される文字列です. これらの操作数学における証明形式的に記述したものになっています. 論理式などもこの形式化のもとで特定の条件を満たす文字列として定義されます. 例えば論理式Pの否定は¬Pという文字列です. (ここでは否定を表すための記号として¬という文字列を用いています. )

ここまで文字列だけを考えた形式的なものですが, 構造モデルを使うことによってこれらの文字列解釈する(つまり意味を与える)ことができます. (詳細は省きます. ) 構造モデルを定めることによって論理式の意味が一意的に定まります. またそれらの取り方を変えることによって意味が変わることもあります.

これの考え方によって(数学的な)意味形式から分離されています. さらに気になる場合ゲーデルの完全性定理などを見てください.

そして適切な公理と推論規則を定めることにより数学のもの形式的に扱うことできます. その適切な公理はツェルメロ-フレンケル集合論(ZFC)と呼ばれており, 現在数学者はこのZFCを用いて数学をしています. (一部, 圏論などでZFCに収まらない議論があると聞きますが, それらもZFCの適切な拡張を考えることで解決できます. )

まり, これまでに書かれた数学証明などは全てこのZFCを用いることで文字列操作に書き換えることができます.

一方で数学論文普段言葉(自然言語)を使って書かれます. これは本当に全て文字列に書き換えることをした場合, 可読性が著しく落ち, また分量も膨大になるため人が読めないためです. しか証明自然言語で書きつつも, いざとなったら形式的に文字列に書き換えることができるという前提に立っています. そしてこれは理論的には可能であり, 数学の厳密性を担保しています.

定義の一意性」に関してですが私自身が元記事の要点を完全に理解しているわけではないのですが, 数学に関していうとある数学概念定義複数あることはよくあります. もちろんその複数ある定義同値であることを証明されなければなりません. ここで同値というのはある数学対象A定義Pと定義Qで与えられていた時に, 「Aが定義Pを満たすならば, 定義Qを満たす. またAが定義Qを満たすならば定義Pを満たす. 」ということです. 実際に使う際には用途に合った定義を用いることになります. それらは同値なのでどれを選んでも問題ないです.

以上がざっくりとした形式化された数学に関してです. 参考になれば幸いです.

追記: これは筆者個人の考えですが, 数学哲学議論はしっかりと分離してなされるべきだと考えています. もちろん相互交流はなされるべきですが, 両者を混同するのは誤解や誤りの原因になると思います.

anond:20240216165842

から公理定義見ればそうじゃないってわかるやろ

anond:20240216165447

そりゃそうだが?公理証明なしに認めるものだろ?でもその認める内容は一意かつ厳密に表現できてるのかって話。

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