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板碑哀し

民俗行事
08 /22 2024
板碑(いたび)とは、
鎌倉時代から室町時代ごろまで盛んに造られた墓碑だそうです。


目的は主に二つ。
死者の供養と、生前、現世で功徳を積んで極楽往生を願う逆修。

造立者は主に御家人。
関東の武士を中心に造られ、全国に分布しているそうですが、
ここ静岡県は板碑の空白地帯だとか。

でも当地にあるんです。


ここです。
10数年前に訪れたときの様子はこんなでした。
かたわらには説明板も。


CIMG1098.jpg

板碑はこの稲荷神社の境内にありました。

といっても、このときすでに神社はなく、
石の小祠の台座に瀬戸物の小さなキツネが座っているだけ。

でもこのころはまだ、
二月の初午にお祭りをしていると聞きしました。

拡大したのがこちら。


阿弥陀三尊の
キリーク
(阿弥陀如来)、サ(観音菩薩)、サク(勢至菩薩)
を薬研堀(やげんぼり)で彫った梵字三文字のみ。

材質は地元産出の自然石、硬砂岩で全長112㎝。
造立は推定・南北朝時代。


10数年前の板碑img20240818_18322468.jpg

しかしこの写真から10数年後の今年再訪したら、
こんな無残な姿になっていた。

境内は荒れ果て、板碑はひっくり返り、
赤い鳥居もキツネの置物も説明板もなくなっていました。

板碑

この土地は近くの旧家のものとか。
もう後継者はいなくなったのでしょうか。それとも無関心なのか。

恐らく静岡市で唯一の板碑です。
しかしこのような貴重な文化財でも所有者がいれば、
市が手を出すことはできません。

なんとも無念です。


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コメント

非公開コメント

No title

こんにちは^^

雨宮さん、よくこれだけ調べられていますね
私など勉強不足で初めて見る単語ばかりでGoogleさんのお世話になりながら
読み進めさせていただいています

「板碑」は文字を見れば想像できますが“読み”を間違えてはダメですよね
バンヒじゃなくイタヒなんですか^^
小祠や薬研堀などは雨宮さんの記事でしかお目に掛かりません

記事の板碑も、せっかくの文化財なのになぁ、、と思います

まったく関係のない話ですが、うちの本家のお墓は彼岸でも花もあがらず
雑草も生えたままが多いのです
我ら分家は言いたい事を言います

こちらの旧家もいろいろと事情があるのでしょうかね
それとも無関心なのか、、、
後継者次第というのも、何ともですね









10taさんへ

古いものを残すということは本当に難しいですね。特に今のように断捨離が盛んに言われている時代には…。博物館や資料館、図書館で貴重な資料を捨ててしまったニュースがときおりありますが、収納に限りがあるから仕方がないのかなとも思いますが、もったいないし大きな損失だと思います。
昔みたいに長子存続で家が続けば古いものが残りますが、今は空き家だらけで。

息子の若いお嫁さんに昔話をしたら、息子から「お母さん、今どきの若い人には通じない話だよ。わかるのはせいぜい俺ぐらいだから」と。昔、明治は遠くなりにけりと嘆くご老人を見て、なんとまあ古臭いと思いましたが、今、その私が同じ立場になりました。でも人間って面白いもので、エジプトとか古代の発掘調査にみんながワクワクする。やっぱり古いものにはロマンがあるんですよね。

No title

こちらで見る板碑とは違い、随分素朴な感じですね。
地元で産出する石と違い、厚みがあり板より少し岩に近い感じです。
南北朝時代とのことで、初期のものというわけでもなさそうです。
やはり、地元でどのような石が採れるかがデザインそのものを左右するのですね。
ひっくり返った板碑は本当に残念です。
私有地にある者は所有権が個人にあり、難しいですね。
でもひっくり返ったものを起こすくらいなら、教育委員会がやっても怒られない気がします。
予算が予算がとなるのでしょうが。

No title

個人宅内の物は確かに行政でも手を出せないでしょう。
その前に、何か文化財かで指定すればよかったかなと。

多摩地区でも各地で見ますが、
神社や寺などの中なので保護されています。
(市内で個人宅内にある史蹟なんですが、
 道路にある案内の表示に出てますが、
 一度カルチャーで見せてもらったことぐらいで、
 その後は個人宅内では入ることが出来ません)

今では文字を読める人も僅かになってますね。
早々に説明板を設置することです。

たいやきさんへ

板碑といえば平べったい板状のものだと思っていましたが、これは本当に自然石をちょっと整えた感じなんです。でも薬研堀が深くて、これを1996年に取材した歴史考古学者も「県内板碑で見ることができない見事な彫り」と著書「静岡県の板碑」に書いています。著者が調査したとき、地元では「阿弥陀さん」と呼ばれて親しんでいたそうです。著者は佐藤郁太という学者さんで、「静岡県の雲版」「江尻鋳物師の梵鐘」「静岡県金石史年表」などの著書があります。

この方は著書に「今まで調査した九基はいずれも研究書資料に見られず、板碑が県内に現存することすら知られておらず、今後石造美術研究の基台として本書が石造美術研究の谷間と言われている静岡県の石造美術研究に貢献できれば幸甚です」と記しています。
近隣市町では早くから石造物調査をしていましたが、静岡市は今もってやっておりません。市の文化財課に掛け合いましたが、「家康や今川氏のことだけで手が回らない。今後もやるつもりはない」と。特に民俗的遺物には関心を持たないのです。板碑の著者の嘆きは26年たっても全く変わっていないんです。私が力石でどれだけ笑われてきたかお察しください。


one0522さんへ

この地域は大小の沼と広大な湿地帯を抱え、東西南北の山肌に民家が散在するという寒村でした。その湿地帯も埋め立てが進んで、町からの流入で今では人口1万人以上の町になりました。貧しさゆえに人の流入が激しかったのか、江戸以前の歴史は残っておらず、山村にある古い盆踊りや祭りもないんです。

ですが根掘り葉掘り調べていくと鎌倉時代、京都の御所で上皇と公家がここのことを話し合っていたり、鎌倉・円覚寺領であったりとなかなか興味深い事柄が出てきます。もう30年ほど前になりますが、一人でコツコツ調査した資料が手つかずのままありましたので、今、それをまとめてみようかと思い立ち頑張っております。
不器用なのでやり始めたら他のことができない。ブログ記事、どうしようと頭を抱えております。

雨宮清子(ちから姫)

昔の若者たちが力くらべに使った「力石(ちからいし)」の歴史・民俗調査をしています。この消えゆく文化遺産のことをぜひ、知ってください。

ーーー主な著作と入選歴

「東海道ぶらぶら旅日記ー静岡二十二宿」「お母さんの歩いた山道」
「おかあさんは今、山登りに夢中」
「静岡の力石」
週刊金曜日ルポルタージュ大賞 
新日本文学賞 浦安文学賞