例えば奥山真司氏はこんな論文を紹介しています。
実はワタシはこの論文は良くわかりません。 ワタシは三流大学工学部卒なので、この論文で言う所の欧米の「リベラルコンセンサス」なる物がよくわからないからです。
しかし所々「うん、そうだよね。」と思える所もあります。 そしてワタシもリベラルの終わりと言うのは、その通りだとおもうのです。
それでワタシなりにリベラルの終焉について考えました。
しかしリベラルとは何でしょうか?
そもそもリベラリズムと言うのは、マルキシズムのように個人が書物などの形で顕した物ではありません。
リベラリズムとは近世以降多くの人々がそれぞれ言動の中で顕して来たものなのです。
だからリベラリズムの意味するところを確定的に、定義する事が難しいのです。
そこでワタシはワタシで勝手に定義しちゃおうと思います。
ワタシの定義ではリベラリズムとは人権の拡大です。
そしてリベラルの終焉が語られるようになったのは、欧米や日本など先進国では、人権が極限まで拡大してしまい、これらの国々ではこれ以上の拡大が不可能になったからです。
リベラリズムが人権の拡大であれば、人権が拡大不能になれば、もう終わるしかありません。
なぜ人権の拡大が不可能になったのか?
それは人権と言う物が生まれもつ性質の為です。
そもそも人権とは、近代啓蒙思想の中で、王権や教会のような強大な権力から個人を守る為に生まれた概念です。
封建時代は、王様が自分の支配権確保や、更には個人的欲望の為に、国民を弾圧する、生命や財産を奪う、或いは教会が信仰の名の下に国民の精神を支配して、逆らう者は異端として投獄したり火炙りにしたりするのが当然とされました。
これに対して「イヤ、それはオカシイ。 人間には誰でも自分の生命や財産を守り、自分自身の良心と知性で物事を考え、主張する権利があるはずだ。」と考えたのが啓蒙思想です。
そこで彼等はこの個人の権利を「人権」と名付けたのです。
そして啓蒙思想家達は、この人権を至高の物として、これを尊重する国家を作る事を目指したのです。
それが近代民主主義国家です。
ここまでは中学校や高校の歴史や公民や倫理社会で習いましたよね?
だからワタシにもわかるのです。
でもここまででわかりますが、人権とは元来、個人対国家権力を想定して生まれた概念なのです。
ところで当然ですが、人間にとって自分の欲望や希望と、自分の属する集団の利益は必ずしも一致しません。 集団を守ろうとすれば個人は自身の欲望や希望を抑制させられます。
自分はやりたい放題やって、それを家族や周りの人達が全部許容してくれると有難いのですが、周りの人達にもそれぞれ都合がありますから、そうはいきません。
国家の場合もそうです。
人権を守る事を国家の理想にしても、国家と言う物を作っていく為には、個人の権利は制限されるし、また兵役や納税などの形で、国家への奉仕も要求されるのです。
それで近代民主主義国家確立以降も、個人と国家の間で、権利の配分を巡って駆け引きが続いたのです。
この中で常に個人の権利拡大を主張する側に居たのがリベラルと言われる人々なのです。
だからワタシが物心ついてからでも、リベラルと言われる人々は、黒人の人権、女性の人権、障碍者の人権と次々と人権を見つけては、その人権の擁護を目指しました。
そして今はLGBTと言われる性的少数者の人権の拡大も始めました。
また不法移民や「難民」など自国民以外の人達の人権拡大にも執着しています。
そしてその結果、自国民については法の下の平等を確保しました。
(因みに日本ではLGBTなど性的少数者に対する法的差別も、迫害も存在しませんでした。)
しかし法の下の平等が確保されても、黒人や女性の所得や社会的地位が、白人男性と同じにはなりませんでした。
そこでリベラリストを自称する人々は、これを平等にすることを目的に活動を続けているのです。
そしてワタシはこれで人権思想の破綻が始まったのだと思います。
しかし法の下の平等を超えた平等を実現すると言う事は、つまり個人に対して他人を平等に扱う事を要求する事になります。
でもこれは思想・信条・宗教の自由、言論の自由、表現の自由と言う、重要な人権を侵害する事になります。
例えばキリスト教やイスラム教や仏教などの宗教や、儒教は、教理の中で明確に男尊女卑、女性蔑視を顕しています。
それではこうした宗教を信仰する人々が、個人生活でこうした教理に従う言動をすることは許されないのでしょうか?
自分の家庭生活を、自分の信仰する宗教の教理に従って行う事は許されないのでしょうか?
宗教の自由か?
女性の人権か?
これだけの話で、もう人権を主張する相手が、国家から個人に代わり、個人と個人の人権がぶつかり合う状態になっていると言うのがわかります。
しかしながら実は近代人権思想には、この状況への対応策はありません。
なぜなら前記のように、人権とは元来、専制君主や教会など強大な権力を持つ組織から個人を守る為の概念であって、個人対個人の多率関係への対応は想定外なのです。
人権の主張で攻撃される側は、国家や教会であって、人間ではないのですから、人権がありません。
だから幾ら攻撃しても人権上は無問題なのです。
しかし個人の他人への差別を問題にするようになっては、そうはいきません。
誰か個人を「オマエは差別主義者だ!」と糾弾すれば、それ自体が人権侵害なのですから。
そして残念ながら、少なくとも現在リベラリストを主張する人々は、この様な問題への対応策を考える意思は全くないようです。
それどころか彼等は「人権は天秤にかける物ではない」などと言い、自分達が支援する人権の拡大だけを際限もなく要求しているのです。
これでは人権擁護どろこか、特定の人権に加担してそれに不都合な人々の人権侵害をやっていると言う事にしかなりません。
こんなモノ本来は人権擁護なんて言うべきさえありません。 唯の利権団体、破落戸です。
そしてまともな人間からは相手にされなくなるのが当然でしょう?
本来、人権は全ての人が等しく持つもので、完全に守られるべきものです。
けれども哀しい事ですが、この世には両立しない人権が幾らでもあるのです。
例えば強姦の被害者としては、問答無用で犯人を厳罰にしてほしいでしょう?
しかし容疑者とされた側にも人権はあるのです。 証拠もなしにあやふやな証言だけで、厳罰にされては堪りません。
セクハラは女性の人権侵害だ!!
Me too!!
何十年も前の証拠のないセクハラ騒動で、人を社会的に抹殺する事こそ人権侵害だ!!
愛する人を惨殺されたら、誰だって犯人を極刑にしてほしいでしょう?
でも死刑は人権侵害だと言う人達もいるのです。
言論の自由、表現の自由は守れ!!
それが民主主義だ!!
ヘイトスピーチは許すな!!
子供の人権を守る為に、児童ポルノは所持も許さない。
ではエゴン・シーレやバルテュスなどはどうしますか?
シーレは貧しい少女を自宅に連れ込み、性器を剥き出しにしたポーズを取らせて絵を描いています。
それシーレは警察に逮捕されて数日間拘束されました。 これに懲りてシーレは、その後この手の事をできなくなりました。
またその後成立したナチス政権はこのような絵を退廃芸術として公開を禁じました。
これまではリベラリストを自称する教養人達は、芸術至上主義を唱え、シーレを逮捕した警察や、シーレの絵の公開を禁じたナチを非難してきました。
なるほどナチや警察だけなら、シーレの擁護は当然でしょう。
しかし子供の人権と言う立場からすれば、シーレのやったことは絶対許すべきではないでしょう?
少なくともシーレを擁護する人達の脳内には、性器を剥き出しにしたポーズを何時間も取らされた少女達を思いやる意思は見えないのです。
そして今のアメリカでシーレと同じ事をしたら、一生刑務所から出られないでしょうね。
それどころかこうやって描かれた絵を持っている連中だって、刑務所行きでしょう?
これを見ると人権の基準も随分と好い加減な物で、その時誰の人の側に立つかで被害者と加害者が逆転してしまうと言う事の見本ではありませんか?
つまり近代民主主義の中で、リベラリズムが至高の価値として掲げてきた人権とは、ことほど左様に好い加減な代物だと言う事ではありませんか?
つまり現在の先進国では、人権の拡大が極限状態になってしまい、人権を主張する相手は、国家ではなく、他人の人権になってしまったのです。
そこで誰かの人権を拡大するためには、別な人の人権を削らないとならないような状況になったのです。
そして自称リベラルの圧力団体が主張する人権が、周りの人権を容赦なく浸食弾圧している状況です。
これはもう人権思想の破綻です。
この人権思想を修復するには、全ての人の人権を等しく守ると為の天秤が必要なのです。
しかし「人権を天秤にかけてはならない」とそれを拒否しているのが、現在のリベラリズムです。
だからリベラリズムも終焉するしかないのです。
けれども現在のままでもリベラリズムが通用する国は沢山あります。
例えば北朝鮮や中国など、絶対王政時代のフランスなどとは、比べものにもならない程の凶悪な専制政治が続いています。
だからこの地域で人権を叫んでいる人達は、昌にリベラリズムの王道を進んでいるのです。
そこで提案ですが、このまま日本や欧米先進国でリベラリズムを叫びたい皆様は、北朝鮮や中国に移住されてはいかがでしょうか?
そして中国共産党や朝鮮労働党の人権弾圧と戦えば良いのです。
それで中国や北朝鮮の人権状況が改善されたら、ワタシは皆様を心から尊敬します。