昨日はヘタレて、ぼんやりとツィッターばかりしていました。
でもそこで護憲派とやりあっていると、面白い事に気づきました。
何と護憲派も今は、自衛権は否定していないのです。
しかも日本国憲法では、自衛隊を行政機関として認めているというのです。
だから、安倍総理の憲法改正は反対ニダ!!
安倍は憲法援護義務違反ニダ!!
と言うのです。
リンク先を見てもらえばわかりますが、因みにこれを言い出しているのが、憲法学者木村草太郎です。
??
こいつ、自衛隊は違憲と言ってなかったか?
コイツラ元々はひたすら自衛隊違憲と喚き続けていました。
ところが安倍総理が「自衛隊の憲法に明記する」と言う改憲案をだして、それが現実に成立しそうなってきたのです。
するとコイツラは、安倍総理の「自衛隊を憲法に明記」と言う憲法改正に反対する為に、自衛隊は憲法に明記されていると言い出したのです。
そしていうのです。
既に憲法に明記されているのだから、更に憲法に自衛隊を明記するなんてインチキニダ!!
もっと悪い事を企んでいるニダ!!
総理が憲法改正を煽動するなんて、憲法擁護義務違反ニダ!!
( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、安倍総理凄い!!
安倍総理の憲法改正案に対して、青山繁晴さんが「自衛隊の明記ではなく、自衛権の行使は妨げない」と言う条項を付けるべきだと、提案をしていました。
これには自民党内の改憲派からも相当数の賛成者がでました。
そしてワタシもこれはなかなかの名案だとは思いました。
これと比べると安倍総理の案は、公明党との妥協の産物で、改憲をやらないよりマシと言う程度の物です。
しかしこの9条教徒の反応を見ると、実は安倍総理の案は実に強かなのです。
なぜなら安倍総理が改憲を急いでいるのは、今北朝鮮や中国との間に緊張状態が激化する中、自衛隊の地位の確保は急務だからです。
憲法学者の8割が自衛隊違憲論を唱えるような状況で、日本周辺に紛争が起き、自衛隊が出動しなければならなく様な事は絶対に避けたいからです。
ところが安倍総理がこの憲法改正案を出したところ、何と自衛隊違憲を喚き続けた護憲派達が、自衛隊は違憲じゃないニダ!!、自衛隊は憲法に明記されているニダ!!と言い出したのです。
だったら自衛隊違憲論者を黙らせるという、本来の目的は達成されているではありませんか?
つまりこれで憲法改正ができたら、万々歳!!
でも憲法改正ができなくても、実は目的達成!!
凄いね、安倍総理。
青山さんの意見はいつも大変合理的だし、安倍総理批判もちゃんと筋が通っているので、ワタシも敢えて反対はしないのだけれど、でも安倍総理は青山さんよりいつも一枚上手なんですよね。
今の世論を見たら、護憲派と雖も、自衛隊の存在を否定し続ける事は不可能、いわんや自衛権がないとも言えない、そうなると彼等が崇拝する日本国憲法を変えない為には、自衛隊違憲論を引っ込めるしかない。
これが安倍総理の読みでしょう?
そしてそれを読んだ上で、まず「自衛隊憲法明記案」を出して、自衛隊の地位を確保しようというのです。
こうしておけば、万一改憲発議ができないまま退陣と言うような事態が起きても、安心ではありませんか?
現実の改憲ができるかどうかは別として、その前に敵の外堀は埋めてしまったのです。
今の状況では改憲の前に、北朝鮮有事や、中国有事が起きるかもしれないのです。
その為の改憲なのですから、敵の外堀は一刻も早く埋めておくに限りのです。
しかしねえ・・・・、自衛隊違憲は護憲派の肝だったのでは?
だから9条教徒なんて言われてきたのでは?
これを引っ込めるぐらいなら、護憲派を名乗る意味がないのでは?
でも違うのですね。
護憲派にとって大事なのは、実は日本国憲法を一字一句変えない事なのです。
コイツラがひたすら安倍総理を憲法援護義務違反と非難する事でわかります。
日本国憲法99条では、国務大臣や国会議員には憲法を尊重し擁護する義務があります。
日本国憲法99条
天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
しかしこれは憲法を変えるなと言う意味ではありません。
そもそも民主主義国家の憲法と言うのは、国民が作り守ものです。
民主主義国家では国民は主権者であり、憲法の奴隷ではないのです。
だからアメリカ始め多くの民主主義国家では、何度も憲法を改正をしています。 因みにこういう国々の憲法でも国会議員や大臣には憲法擁護義務はあるのです。
憲法を変えた国で、国会議員が憲法を変えた事で、憲法擁護義務違反とされた例があるのでしょうか?
勿論、日本国憲法だって国民主権を明記しています。
だから憲法改正の手続きも憲法に定めれているのです。
ところがこの理をいくら説明しても理解できないのが、護憲派です。
彼等にとって何より大事なのは、憲法の条文を一字一句変えない事なのです。
だから条文を変えずに済むなら、過去の主張なんかひっくり返してしまうのです。
結局彼等にとって日本国憲法は、民主主義国家の憲法ではないのです。
彼等にとっては憲法とは、イスラム教徒にとってのイスラム法かコーランのような物なのです。
イスラム法もコーランも神が与えた物で、人間がそれを変える事も、疑問を持つ事も許されません。
イスラムとは「服従」を意味しており、人間は神の奴隷として神に服従しなければならないのです。
だからイスラム法学者と言うのは、ひたすらイスラム法の解釈だけに専念するのです。
これって日本の憲法学者と同じですね。
弁護士であり法学博士でもあるケント・ギルバートさんによると、普通の国では憲法学者と言うのは、憲法の在り方、或いは現行憲法が現代社会にあっているかなどを、研究するのだと言います。
海外でも、憲法の条文解釈を研究する憲法学者もいないわけではありません。 それは憲法額全体の一分野であり、主流ではないのです。
ところが日本の憲法学者はひたすら条文の解釈だけに執着しているのです。
一方、イスラム法は神が定めた物で、人間はこれに従う以外ないのです。
だからイスラム教徒である限り、イスラム法の在り方とか、まして改正なんて考える事は、絶対に許されないのです。
それでイスラム法が現代社会の現実に合わなくなってくると、何とても現代社会にあうような都合の良い解釈をひねり出す事に苦労します。
なぜならイスラム法を変えるとか、疑問を持つとか言う事になってしまえば、イスラム教の信仰も、またイスラム法学者の権威を吹き飛ぶからです。
日本の憲法学者はこのイスラム法学者と全く同じ事をしているのです。
つまり護憲派と言うのは、GHQを唯一絶対の神とする信徒なのです。
こう考えると彼等が慰安婦強制連行など、全く証拠のない話を必死で信じようとするかも理解できます。
これは彼等にとって聖者伝説なのです。
信仰は信じる事に意味があるのですから、こうした物語の一つ一つを疑いだすと、信仰の体系全部が総崩れになるのです。
ルネサンス以降、人間は信仰に疑問を持ち、自分の理性を信じ始めました。
そして人はそれを科学と言いました。
そして信仰と科学との闘いは続き、現代の先進国の社会では完全に科学が勝利したかに見えます。
しかしこうした護憲派を見ていると、そうも思えなくなりました。
実はこの世にはどうしても、信仰なしでは生きられない人がいるのです。
なぜなら信仰は信じる事に意味があるので、ただひたすら信じていれば良いのです。
信じる者は救われるのです。
でも科学は今真理だと思われている事も、常に疑いを持ち検証を続けなければなりません。
だから科学に依る限り、どんな権威も安泰ではいられないのです。
現代社会に生まれてもこういう事には耐えられない人は少なからずいるのでしょう。
そういう人が本当の宗教、つまりキリスト教徒とか仏教とかイスラム教を信じている分には、話は簡単です。
ところが何しろ現代の先進民主主義国家では、宗教はさしたる権威がありません。
そこで権威に依りたい人、何かを信じないと生きていけない人達は、宗教ではなく憲法と加イデオロギーを信仰してしまうのです。
そうなると彼等は本来常に理性により疑い検証するべき物も、神の真理として疑ってはならぬ物として守ろうとするので、実に厄介です。
でも元来「奴隷」の魂を持って生まれた人にとって自由は苦痛なので、理性ではなく権威を信じ信仰にしておきたいのだからどうしようもありあせん。
人間ってホントに厄介ですね。