杉田水脈議員バッシング祭がいよいよ燃え上がっています。
これ「杉田水脈の議員辞職を求める自民党本部前抗議」と言うハッシュタグが付いているところを見ると、杉田議員に対する抗議のようです。
動画が貼れないのでリンク先で見てください。
要するにLGBの人達が、それぞれ自分の性行動は自分で決める、誰にも変えられないという事を言っているのです。
ところでこの騒動の元になった、杉田議員の論文の全文のネットにアップされました。
この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるではないでしょうか。
朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。
LGBとTを一緒にするな
ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。
一読してわかりますが、杉田水脈議員は別にLGBの人達に、そういう性行動を止めろなどとは言っていません。
またTの人達は肉体と精神の性が一致しないという苦痛をかかえているのだから、性適合手術の公的保険適用などの救済処置を取るべきだと言っています。
因みにを現在の医学では、性適合手術を受けると、元々もっていた生殖器を取り去る事はできますが、臨む性の生殖器をちゃんと機能するような形で作る事はできません。
だから男性だった人が女性になっても、子を産み母親となる事はできなし、同様女性だった人が男性になっても、女性を妊娠させて父親となる事もできません。
性適合手術を受けなければ、彼等は肉体的には「生産性」があったのですが、適合手術を受けるとそれを喪います。
それでも彼等の苦痛がそれで和らぐなら、この適合手術に公的に支援をしようと言うのもまた杉田議員の意見です。
公的な支援と言うの物は、国家や社会全体を良くする為、或いは個人を貧困その他の不幸から救う為に行われる物です。
だから性同一障害に対する適合手術への公的保険の適用などの処置は、苦しむ人を救済するという「生産性」と言う事で国民の理解を得られるのです。
それではLGBは?
LGBは個人の性的指向だから、苦しむとかそういうわけではないのです。
欧米で同性愛やバイセクシャルに対する差別や迫害が起きたのは、キリスト教がこれを「悪魔によるもの」と忌避したからです。 だから近年まで厳しい刑事罰があったし、同性愛者であることが明るみに出ると、社会的に抹殺されました。
しかし日本にはそういう伝統はありません。
だから皆さん、どうぞすきにおやんなさい!!
日本は古来、性生活に信仰を持ち込み善悪を決めるような発想はなく、家庭や社会に害をなさない限り個人の自由、他人は干渉しないのが伝統です。
この動画の人達の性生活になんか、誰も干渉する気はないのです。
杉田議員もワタシも日本国政府も、貴方達が誰とやろうと文句は言いません。
それで彼等は一体何を憤激しているのでしょうか?
彼等はそれが許せず、憤激しているのです。
つまり「日本にはLGBに対する差別はないから、皆さんすきにおやんなさい!!」と言われるのが絶対に許せないのです。
これって所謂被差別利権団体の特徴ですね。
だって被差別利権団体とすれば、差別があるから被差別利権にあずかる事ができるわけで、だから「差別はない」と言う人達を必死になって「レイシスト!!」「差別主義者!!」「人権侵害!!」などと攻撃するのです。
それではここで彼等が言うLGBTへの差別ってなんですか?
欧米では同性愛に刑事罰を課していました。 これは勿論差別、と言うより迫害です。
しかし日本ではこのような事は一切ありません。
LGBTに対しても法の下の平等は徹底していたのです。
そうなるとLGBTに差別があるかないかは、個人がLGBTの人達をどう思うかと言う話にしかなりません。
それでは聞くけど、そもそも人を性的指向や性的な行動で差別しない人を人なんかいるんですか?
この杉田議員バッシング祭の主催者である立憲民主党などは「人が性的指向で差別されない社会を目指す」と言うけれど、それはどういう社会ですか?
ワタシは差別します。
だって当然でしょう?
もしもある夜突然、我が家に男性が来て「今夜一晩泊めてほしい」と言われたら?
しかしもしその男性が安倍総理だったら、絶対に拒否します。
安倍総理もジャックさんもワタシが非常に尊敬する人であることは同じなのです。
そしてジャックさんはホモですから、一人暮らしのワタシの家に泊まって頂いても何の問題もないでしょう?
でも安倍総理ならなそうはいきますまい。
安倍総理はどう考えてもゲイではなさそうだし、そうなると昭惠夫人にだってなんと思われるか?
個人生活で人を性的指向で差別するのは当然でしょう?
例えば反安倍の聖者である前川喜平氏は出会い系バーの常連でした。 あの出会い系バーは違法スレスレだったようですが、しかし検挙もされていないので一応合法でしょう?
でもああいうバーへ通い、若い女性と関係するのを趣味にしているような人を、ワタシは気持ち悪く思うし、近づきたくないです。
でもこれはこれは前川氏を聖者と崇める反安倍界隈の人達も同様でしょう?
だから前川氏は「貧困調査」などと言う見えすいた嘘を吐き、彼等もそれを信じるのです。
反安倍界隈で前川喜平氏を尊崇する人達と現在杉田議員バッシング祭に参加している人達とは、ぴったり重なるのようです。
しかしその彼等とて「前川喜平氏の出会い系バー通いは違法ではないし、このバーを通じての女性と性交渉があっても、彼女達の自発意思だから無問題。 人を性的指向や性行動で差別するな」とは言わないのです。
それどころか彼等は合法・違法関係なく、異性愛の男性の性的な行動に関しては、狂信的なピューリタンさながらの異常に不寛容な反応を示します。
でもこれって彼等式に言えば、「異性愛男性への不当な差別」じゃないですか?
それではピューリタンが同性愛を忌避したら問題なのでしょうか?
欧米では近年まで同性愛に対する厳しい刑事罰がありました。 それはキリスト教が同性愛を「悪魔によるもの」として厳しく禁じており、この宗教意識から生まれた性意識がそのまま法律に反映されたからです。
しかし日本では信仰上の理由から同性愛を忌避するようなキリスト教徒は、同性愛者よりはるかに少ない超マイノリティーでしょう?
そこで杉田水脈バッシング祭をやっている人達に聞きたいのですが、貴方達はこうした超マイノリティーの人達の信仰も許さないのでしょうか?
信仰による同性愛の忌避でも、欧米のように同性愛を忌避する信仰をする人が社会の圧倒的多数派であれば、彼等が宗教の自由からの同性愛の忌避を実践すると、同性愛者は社会からボイコットされてしまいます。
だからそういう社会であるなら、同性愛者の人権を守る為には、こうした信仰に対抗して同性愛者を保護するような公的な支援や立法なども必要でしょう。
しかし日本では同性愛者よりキリスト教徒が少ないのです。 そういう状況ではこうした宗教を幾ら認めても、現実に同性愛者の生活に問題が出るとは思えません。
そもそもに対する好悪と言うのは、人間にとって最もデリケートで、生理的な感覚なので、好きな物は好き、イヤな物は絶対に嫌なわけです。
これはそれこそLGBTの人達が一番実感している事でありませんか?
だから近年までの欧米では、厳しい刑事罰があるのを知っても、同性愛を止められず、大変な迫害に遭う人達がいたのです。
だったら同性愛は嫌い、気持ち悪いという人達だって同じです。
いくらポリコレ棒で殴っても、こうした人達の同性愛に対する嫌悪感や不快感はなくなりません。
しかしそもそも個人の性的指向をあるがままに認めろと言うなら、同性愛やバイセクシャルと共にこうした特定の性的指向に対する嫌悪を持つ事だって認めるべきではありませんか?
最初に貼ったツィートの動画の人達も「自分の性的指向は変えられない」と叫んでいるでしょう?
だったらそういう性的指向に嫌悪を持つ人達の嫌悪感だって同じです。
そして性に係る問題は、個人対個人の問題であり、国家が立ち入る問題ではありません。
そうなると法の下の平等が確立されており、しかも元来個人の性に対しては立ち入らないのが原則と言う日本の文化で「性的指向による差別を禁止する」と言うのはどういう意味を持つのでしょうか?
言っている本人たちが意味不明なのではありませんか?
だから例えば「友達にゲイだと打ち明けたら、同じ部屋で寝るのを拒否された!! 差別だ!!」「同性愛は気持ち悪いと言われた差別だ!!」とか訳の分からない事をいうのではありませんか?
同性愛者で同性の友達と一緒の部屋で寝るのがイヤだと言ったら差別?
??
異性愛者なら妻でも恋人でもない異性に、「一緒の部屋で寝よう」なんて絶対に言えませんから。
そんなことを言ったら、セクハラになってしまいます。
それはいくら友達でも一緒の部屋で寝たら性的な関係を迫らる危険があるからです。
だったら同性愛者の場合でも同じでしょう?
同性愛を気持ち悪いと言ったら差別?
自分と性的指向の違う性交渉なんて、誰でも基本気持ち悪いのです。
だからしないんでしょう?
同性愛の人達は異性との性交渉が気持ち悪いから、異性とは性交渉をしないのでしょう?
でも「同性愛を気持ち悪い」と公言する人達でも、日本の場合は「オレはイヤだから、オレの見てない所でやってくれ」と言っているのです。
これは「自分の嫌いな食べ物は自分の食卓にだけはだしてくれるな」と言うのと同じで、別に不当な要求でも何でもないでしょう?
禁煙ファシストのように「オレはタバコが嫌いだからこの世からタバコを亡くせ」と言っているのとは違うのです。
日本では同性愛の禁止など性的指向を問題にする法はなく、法の下の平等は確立しています。
そして他人の性生活には干渉しないという文化です。
だから「同性愛が気持ち悪い」と言う人達も、性に関係ない付き合いでは、同性愛者を忌避するわけではなく、普通の隣人として付き合います。
勿論そういう人は同性愛者のことは理解してくれません。
しかし他人の性なんて元来理解しないのが当然ではありませんか?
逆に聞くけど、それでは「同性愛者を理解しろ」とか「LGBTの教育をしろ」とか言っている人達は、同性愛者を嫌う人達を理解する意思があるのでしょうか?
イヤ、彼等にそんな気持ちは欠片もないでしょう?
だからこんな杉田議員バッシング祭が起きるのでしょう?
彼等に自分達とは違う人間を理解しようという意思があれば、杉田議員の意見に反対ならなぜ反対かをきちんと説明するだけで済む話です。
そしてお互いが理解しあえるように地道な議論をすればよいのです。
しかし彼等はそんなつもりはありません。
だから「人権侵害!!」「黙れ!!」「議員辞職しろ!!」とヒステリックに泣きわめくばかりなのです。
自分達は他者を理解する意思はない。
しかし他者が自分達を理解しないのは絶対に許さない!!
そしてその理解とは、つまり全て自分達の意見に賛同することである。
そうだね。
こんな連中なら嫌われて当然だよね?
オマイラが言う差別って、要する自分があまりに自己中でバカだから、周りが辟易している事じゃね?
こんな連中がLGBTの代表を名乗って騒ぎまくり、その為に世の中の人達がみんな「LGBTっ頭オカシイ?」「LGBTに関わったら大変!!」とか思うようになっては、大多数のマトモなLGBTは大迷惑でしょう?
でも彼等はそんなことは全く考えていないでしょう?
だって彼等の目的はLGBTが差別されている事にして、被差別利権にありつくことです。
「差別はない」と言うのは「差別主義者」なのです。
そしてそれに不都合な人間の言論は封殺するのです。
しかしこんな言論封殺をやらせておいたら、民主主義が破綻します。
そしてこうした被差別利権団体の後ろにあるのは、民主主義を破壊したいという勢力です。
実際この杉田議員バッシング祭の主催者も、社民党、共産党、立憲民主党など親北朝鮮、親中国の共産主義者でしょう?